——あの夜。私はまだ、知らないふりを選んでいたのかもしれない。
 気づいていなかったのではなく気づかない側に自分を置いていた、というほうが正確だ。

 二年前——。

 その日も彼は来た。正確に言えば、ここ最近は「来ない日」を数えるほうが難しくなっていて、端末の破損理由や修理内容が少しずつ違うだけで受付の向こうに現れる赤い羽根の気配は、すでに私の日常の一部として定着していた。仕事の流れの中に、違和感なく組み込まれてしまった存在。
 それでも、その日は、はっきりと違っていた。理由は、すぐには言葉にできない。ただ、視界に入った瞬間に、いつもと同じはずの光景が、わずかにずれて見えた。その小さなずれが後になって取り返しのつかない予兆だったのだと、私はまだ知らないふりを続けていた。

「お疲れ様です」

 声をかけた瞬間、私は彼の異変に気づいてしまう。姿勢は崩れていないし口元にはいつもの軽い笑みも浮かんでいる。それでも、目の奥の焦点がほんのわずかに遅れている。

「……お疲れさまでーす」

 返ってきた声も、軽い。軽いままなのに、底が浅い。それは余裕ではなく、削られた結果の軽さだった。

「今日は……」

 修理内容を聞こうとして、私は言葉を切った。端末を差し出す彼の手がわずかに震えているのを見てしまったからだ。体温も心なしか、低い気がする。

「忙しいんですか」

 問いは、業務の延長という顔をしていた。踏み込みすぎない、でも見なかったことにもできないそんな距離からの声。

「え……? まあ、ちょっと?」

 不意に私を見た彼は目元をそっと緩ませて無理やりに笑みを作って肩をすくめる。

「ちょっと、の様子じゃなさそうですけど……」
「はは。バレてます?」
「顔に出てます」

 そう言うと彼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから苦笑した。

「……正直、最近まともに飯、食えてなくて」

 あまりにも軽く言うものだから私は返事に一拍ほど遅れる。

「いつから?」
「さあ……三日? 四日?」

 斜め上を見て適当に言ったであろう日数。数えられていない、ということ自体がそもそも、答えだった。私は端末を預かりながら頭の中でいくつかの選択肢を並べる。余計なことはしない。この線を越えない。未成年であること。彼がヒーローであること。全部、正しい。でも、それでも——

「……明日も、この辺、来ますか」

 口に出た問いは、考えよりも先だったと思う。

「え?」
「任務とか、移動で」
「通りかかるとは、思いますけど」

 ��通りかかる��——。あまりにも軽くて、頼りない言葉だ。私は「じゃあ……」と一度だけ息を整える。

「申し訳ないんですけど明日、少しだけ顔出してもらえますか」
「え……まあ、いいですけど」

 彼は首を傾げながらも頷く。この瞬間、理由は言わなかった。彼も、深くは聞かなかったので、とりあえず、ほっと胸を撫でおろす。

「なんか、端末関連です?」
「いえ、たいしたことじゃないです」

 それは嘘ではなかった。その日、彼は帰り際、すこしだけ不思議そうな顔をしながらも「じゃ、また明日」と言って軽く手をあげて出ていった。
 そうして迎えた翌日。彼は、本当に顔を出してくれた。約束というほど、大げさなものではないあの言葉を、律儀に守って、いつもより少し早い時間に、受付の前に立っていた。

「あの……来ましたけど」
「ありがとうございます」

 私は短くそう言ってカウンターの下から小さな紙袋を取り出す。中身が何かは、なんとなく見なくても、わかるような重さである。

「はい、どうぞ。」

 紙袋を差し出した瞬間、彼の動きが止まった。

「……え」
「お弁当です」
「……」
「お弁当。」
「………え?」

 もう一度。まるで理解が追いついていない顔。

「毎日、自分の分も作ってて。ついで、です」

 そう言って笑った自分の声が思ったよりも自然で、私は少しだけ驚いた。彼はしばらく、紙袋を見つめたまま動かない。次第に、喉が鳴り、目が潤んでいくのが、はっきりとわかった。

「えっ……ちょ、ちょっと、待ってくださいっ」

 思わず声が上ずり私は反射的に両手を前へ突き出して、空気を遮るように、小さく振った。その仕草が必要以上に大きかったことに気がついて、遅れて周囲へ視線を走らせる。誰かに見られてはいない。確認してから私は一歩だけ距離を詰め、声量を落とした。

「あの……泣くほどのことじゃ、ないですから」
「……いやっ、」

 彼は短く否定して、腕で目元を豪快に擦った。背中の羽の赤がわずかに揺れ、呼吸が整うまでのほんの短い間(ま)。それから、小さく息を吸い直し、言葉を選ぶように、低く続けた。

「もう、ばり……嬉しか、です……っ」

 その一言は、余計な説明を伴わずに、まっすぐ胸へ落ちてきた。驚きでも同情でもなく、ただ、静かな重さとして。私は、返す言葉を探しながら結局、何も足さずに頷いた。空腹より先に誰かの気遣いが染みる瞬間がある。その事実だけが私の内側に、ゆっくりと沈んでいった。

「……ここまで気にかけてもらうの、初めてで」
「そっか……」

 私は一度だけ短く息を吐いた。そして、あらかじめ用意していた言葉を、余計な感情を混ぜないように選ぶ。

「たいしたおかず、入ってないけど。よかったら食べてください」

 それ以上は言わなかった。言葉を足せば、せっかく自分で引いた線を踏み越えてしまいそうで、黙ることがいちばん正確な返答だと直感が告げていたから。
 彼は紙袋を両手で胸に抱え込むようにして受け取り、深く頭を下げる。その仕草には礼儀というより、感情の置き場を探すような切実さが滲んでいた。

「ほんと……ありがとうございますっ」

 声から、いつもの軽さが消えている。冗談も、取り繕いもないそのままの音。私はただ頷いた。励ますことも否定することもせず言葉を与えないまま——。このときは、まだ知らなかった。この「ついで」が彼の中に、どれほど長く残ることになるのかを。
 けれど、もし空腹よりも先に、誰かの気遣いが胸に染みる瞬間があることを彼がその日、初めて思い出したのだとしたら。それだけでこの行為は十分だったのだと思う。


 *


 翌日も彼は来た。それは予告でも約束でもなくただ、昨日と同じ時間帯に同じ動線を辿るようにして現れたというだけの事で、だから私は受付の向こうに立つ赤い羽根を見ても、驚かなかった。驚かなかったけれど、少しだけ、呼吸が整うのを待った。

「お疲れさまですっ!」

 私が言うより先に彼が声を上げる。昨日よりもはっきりとした声だった。疲労の底がほんの少しだけ持ち上がったような音。
 彼は「ご馳走さまでした」と両手で紙袋を差し出してくる。昨日と同じものだ。けれど、中身の重さが違うのは、受け取る前からわかった。

「ちゃんと、洗ってきました!」
「はは。よかったのに、そのままでも」
「いえ。そこは、礼儀ですから」
「ふふ。ありがとうございます」

 そう言いながら私は紙袋を受け取る。弁当箱は言った通りきちんと乾かされて、蓋と本体が揃えられタオルで包まれていた。雑ではない。けれど過剰でもない。そうして彼は少しだけ胸を張って言う。

「感想は、ですねぇー」
「乾燥?」
「……ちがう!名字さんが思ってる方の乾燥じゃなくて、心で感じたことや思ったことを表現する方の��感想�≠ナす」
「あ、ああ……そっち?」
「手紙に、書きました!」
「え……手紙?」

 思わず聞き返すと、彼は得意げに頷いた。

「はい。ちゃ〜んと」

 紙袋を得意げに指差す彼を見て私は紙袋の口を覗き込み、弁当箱を取り出す。その底には、折り畳まれた、小さな紙片が見えた。私はそれを指で挟み上げながら、すぐには開かない。

「帰ったら、読みますね」

 そう言って微笑むと、彼はなぜか、少し照れたように視線を逸らした。

「あ……はい」

 それ以上、内容については、触れない。ここで読む必要はないし、今、読むべきでもない。私は弁当箱を所定の場所に置き、カウンターの下からもうひとつの紙袋を取り出す。昨日よりもほんの少しだけ軽いそれを、そのまま彼に差し出した。彼は、やや戸惑いを含んだ声で首を傾げた。

「ん……? なんです?」
「今日のぶん」

 その一言で彼の表情が一気に変わる。驚きと、理解と、そして、隠しきれない喜びが順番を待たずに浮かんでくる。

「……え、いいんですか?」
「おかず、余ったので」

 昨日とよく似た言いわけ。同じ位置に引かれた線。「今日はタッパーだけど」と言った私の声が届かなかったのか、それともそんな事はどうでもよかったのか、彼は紙袋を受け取りながら、ただ何度も頷いていた。

「ありがとうございますっ」
「——ただし、」

 私はそこで一度、言葉を挟む。彼がきょとんとこちらを見やる。

「毎日は、無理ですからね?」

 軽い調子で言ったつもりだった。冗談のように聞こえるくらいが、ちょうどいい。彼は一瞬だけ固まってから、すぐに笑った。

「ですよね」
「はい」
「……でも、今日があるなら」

 その先は言わずに、彼は紙袋を大事そうに持ち直した。私はそれ以上、何も、足さない。期待を煽らない。約束にしない。ただ、必要な分だけを渡す。

「ちゃんと、食べてくださいね」
「はい」

 その返事は、昨日よりも、少しだけ強かった。彼が去ったあと私は弁当箱の入っていた紙袋からそっとあの小さなメモを取り出す。読むのはまだ先だ。今日の仕事が終わって、靴を脱いで静かな部屋に戻ってから。そのときまで、この言葉は、私だけの時間に取っておく。
 ——毎日は無理。けれど、ゼロでもない。その曖昧さの中で関係はゆっくりと形を変えていく。壊さないために引いた線が、いつか、渡るための目印になることも知らずに。
 私は今日も、カウンターの内側に立ち、変わらない顔で、次の来訪者を迎えた。


 *


 夜、部屋の灯りを最小限に落としてから、私はようやく、紙袋の底に残されていた小さなメモを取り出した。折り目は丁寧で筆圧が弱めの文字は驚くほど整っている。勢いで書いたのではなく、いったん考えてから、ゆっくり置かれた文字だとすぐにわかった。
 内容はそんなに長くなかった。味付けのこと、量のこと、温かかったこと。それから、食べ終わったあと、不思議と、肩の力が抜けたこと。読み終えても、私はすぐに紙を畳めなかった。言葉の意味というより、書かれた時間が、行間に残っている気がして。台所の匂いも鍋の音も、ここにはないはずなのに、なぜか、夜の静けさが少しだけ柔らいだ。私はメモを畳み、引き出しのいちばん手前にしまった。見返すためではなく、すぐに、触れられる場所へ置くために。今日も線は越えていない。そう、自分に言い聞かせながら、灯りを消した。

 そして、翌日も、彼は来た。予告はなかった。けれど昨日と同じ時間帯に、同じ足取りで現れるのを見て私は心のどこかで、来るだろうと思っていた自分に気づく。

「お疲れさまでぇ〜す」
「お疲れさまです」

 挨拶は、短く、いつも通り。彼はカウンターの前で立ち止まり、今日は二つ、紙袋を差し出してきた。一つは見覚えのある色。もう一つは、少し小さい。

「これ、昨日のです」

 弁当箱兼タッパーは、また、きちんと洗われ、乾かされ、同じ紙袋に収まっている。そしてもう一方の袋から、ふわりと香りが立った。

「……コーヒー?」
「はい。淹れ立てですよ」
「……」
「来る途中、寄って来ました」

 彼は後頭部に手を当てて少しだけ照れたように言う。

「あ! 砂糖とミルク、ありでよかったです?」
「うん。甘党だから」
「そんな気、してました。俺も、同じなんで」

 根拠はないのだろう。けれどその言い方が妙に自然で、私は小さく笑ってしまう。

「ホークス、ありがとうございます」
「……いえ。」

 そこで会話はいったん途切れる。受け取る手と渡す手がほんの一瞬だけ同じ高さに並んで、それ以上は近づかない。私はカウンターの下からもうひとつの紙袋を取り出した。昨日と同じくらいの重さだ。

「はい、これ……今日のぶん」

 差し出すと、彼が目を瞬かせる。一瞬、言葉を失ったあとで彼の顔が、はっきりと明るくなる。

「……え、いいんですか?」
「今日も、余ったの」

 同じような言い回し。同じ、線の引き方——。そこだけはぜったいに崩してはいけない。だから私は軽く、念を押す。

「毎日は、無理だからね」
「はい、わかってますよ」

 返事は短いけれど昨日よりも迷いがない。彼は紙袋を受け取り、同じように胸の前で持ち直す。まるで落とさない位置を、もう身体が覚えているみたいにして。

「これも……ちゃんと、飲みますね。」
「飲む、じゃなくて、食べてください」
「はは、それも含めて」

 私はそう言って、小さく頷いた。紙袋がひとつ増えて、一つ減る。それだけのやり取り。けれどその反復の中で関係は少しずつ形を変えていく。越えてはいけない線を毎回、確かめ直しながら。
 私は今日も、カウンターの内側に立ち、今日も変わらない顔で次の来訪者を迎えた。それで今は十分だった。
 それが習慣と呼べるほどになるまでにどれくらいの回数が必要だったのかはもう覚えていない。お弁当を渡して、紙袋を受け取って、短い手紙を夜に読み、翌朝には洗われた容器と、淹れ立てのコーヒーが、返ってくる。それを何度か繰り返すうちに私はある日ふと、気づいた。今使っているものはもともと自宅にあった間に合わせのもの。機能としては十分で壊れてもいない。でも——。
 しかし、このときはその「でも」の正体を私はまだ、言葉にできなかった。

 休日の午後——。用事のついでに立ち寄った駅ビルで、私は、生活雑貨のフロアを歩いていた。目的は、最初から決めていたわけではない。ヘアオイルを切らしていたことを思い出し、ついでにそこまで来て足が自然と、弁当箱の並ぶ棚の前で止まった、ただ、それだけの話だ。
 色とりどりの容器が、整然と並んでいる。大きさも、形も、素材も、驚くほどに選択肢が多い。私は一度、深く息を吸ってから、棚を見渡した。
 ホークスに似合うもの。そう考えた瞬間、自分でも驚くほど思考が渋滞した。赤は、わかりやすすぎる。黒は少し重たい。黄色、派手。シンプルすぎると味気がなくて凝りすぎると、彼の生活に馴染まない気がする。手に取っては戻し、また、別のものを持ち上げては、角度を変えて眺める。蓋の閉まり具合。サイズ。洗いやすさ。量感——ちゃんと、食べてほしい。その一点だけは、はっきりしている。だからこそ大きすぎてもいけないし小さすぎても意味がない。そのときふと、棚の端に、落ち着いた色合いのものが目に留まった。主張しすぎない、深い色。丈夫そうで、でも無骨すぎない。手に取った瞬間なぜか彼がそれを受け取る姿が浮かぶ。あの、少し驚いた顔。それからきちんと、両手で持つ仕草。

「……これ、良さそう」

 彼専用——。その言葉が、胸の奥で、かすかに鳴る。私は、慌てて首を振った。違う。そこまでじゃない。これは、ただの効率の話だ。もしものときのために用意しておいたら便利。それだけのこと。そう言い聞かせながら私はもう一度、棚を見渡す。同じ色味でも、微妙に、違うみたいだ。マットか、艶ありか。角ばっているか丸みがあるか。気づけばかなりの時間が経っていた。通路を行き交う人の流れが、何度も入れ替わる。

「……って、悩みすぎ」

 思わず小さく呟いて、私は苦笑した。お弁当箱ひとつで、ここまで立ち止まる理由を誰かに説明することはできない。自分にすら、完全には説明できないのだから。
 結局、私は、最初に手に取ったものに戻った。派手ではないけれど長く使えそうな色と形。彼が乱暴に扱ってもたぶん平気だろう。レジに向かう途中で、私はもう一度だけ考える。これはただの親切心だ。善意。��ヒーロー�≠ヨの気遣い。それ以上ではない——はずだ。

「プレゼント用に、ラッピングしますか?」
「えっ? あ、いえ……大丈夫、です」

 店員から渡されたお店のロゴ入りの紙袋を手に外へ出ると、午後の光が少しだけ、傾いていた。私はその中で、袋の中身を確かめることもなく、ただ、歩いた。
 まだ渡していない。けれど、もう、戻れない。そういうものを人はときどき��ついで�≠ナ買ってしまうのだと思う。


 *


 その朝は、いつもと何も変わらない顔をして、始まった。
 受付のカウンターに立ち来訪者の流れを処理しながら、私は視界の端で赤い羽根が近づいてくるのを確認する。彼が来る時間も立つ位置も紙袋を持つ手の高さも、もう説明が要らないほど身体に馴染んでいた。

「お疲れ様です」
「お疲れ様でーす、名字さん」

 いつもと同じように挨拶を交わし私はいつものようにカウンターの下から紙袋を取り出す。けれどその日のそれはいつもよりも少しだけ形が違っていた。私が差し出した瞬間、彼の視線が、不意に止まる。

「……あ、」

 声にならない声が漏れる。紙袋を受け取りながら、彼は中を覗き、すぐにこちらを見る。反応が早すぎる。さすが——速すぎる男である。

「……前のと、違いますね」
「……うん。たまたま買い物ついでに見つけて」

 私は一拍置いてから頷き、あらかじめ用意していた言葉で返した。深く意味づけしないための、無難な説明だ。

「……なので、気に入らなかったら、言ってくださいね」

 そう言って微笑んだはずなのに、彼の表情は、なぜか晴れなかった。嬉しい、の手前で止まっているような妙な間だ。そして彼は「……あの」と紙袋を抱え直して、少しだけ視線を落とす。

「あっ……やりすぎ、でした?」

 私が心配そうに、そう問うと、彼は慌てて首を振った。

「ち、違います。めちゃくちゃ、嬉しいです」

 即答。けれど、続く言葉が、少しだけ詰まる。

「ただ……その……」
「……その?」
「前のやつも、結構、気に入ってて」

 前の——私は一瞬、記憶を辿る。今まで使っていた、弁当箱の話だろうか。

「……前、の?」
「はい。あの……」

 彼は少しだけ気まずそうに笑って私に返却した紙袋を小さく指差した。

「アヒルみたいな、柄のやつ?」

 その言い方に、私は思わず聞き返す。

「あひるの……ペックル?」
「そうそう、それです」

 妙に自信満々な頷きだった。私は紙袋の中からいつもなら引き出しへ仕舞うはずの小さなメモを取り出す。そして、開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは丸みのある線で描かれた、見覚えのあるアヒルの柄。

「……これ、」

 声が、少しだけ遅れて出た。彼は照れたように頭の後ろを掻いて言う。

「好きなのかなって、思って」
「……」
「調べて……メモ帳、買ったんすよ」

 その言葉に私は一瞬、思考が止まる。そして、メモ帳と、彼を見比べてから、正直に言った。

「……好き、っていうか」
「はい……」
「これ、さ……何かのイベントの景品で当たっただけ、で……」
「……え」

 間の抜けた声。私は途端に気まずくなり彼から視線を外して、それでもはっきりと伝える。

「可愛いとは思うけど、特別、好きってわけじゃなくて……」

 言い終える前に彼の表情がゆっくりと変わっていく。驚きから、理解へ。そして何とも言えない照れと、気恥ずかしさへ——。

「……俺、完全に読み違えてましたね」
「……みたい、ですね」

 少しの沈黙。けれど不思議と重くはない。彼は新しい弁当箱の入った紙袋を、もう一度、両手で持ち直し、顔を上げて、はっきりと言う。

「——でも、」
「……」
「これもほんと、すごく嬉しいです」

 その言い方は、先ほどよりも落ち着いていて、余計な力が入っていなかった。

「よかったです」

 私はそれだけ答えた。専用、という言葉は使わない。意味を広げない。けれど、否定もしない。彼が去ったあとで私はカウンターの内側で一人、小さく息を吐いた。弁当箱一つ。メモ帳ひとつ。その程度のことでこんなにも考えてしまう。多分もうとっくに「ついで」ではない。それでも私は今日も線を引いたまま立っている。壊れない距離を、慎重に選びながら。


 *


 それは、いつもと同じように始まった一日だった。今日もお弁当を渡し、端末の状態を確認し、彼の雑な報告を聞きながら、端末の修理の受付を済ませる。
 相変わらず彼の端末は過酷な目に遭っていて、私はもはや驚きもせず淡々と、必要な処置を頭の中で組み立てていた。

「……今回は、水没じゃないんですね」
「奇跡的に」
「奇跡、頻発してますよ?」
「俺、運いいんで」

 そう言って笑う顔は、初めて会った頃よりも、ずっと落ち着いている。
 あれからも懇親会等で何度も顔を合わせ、仕事以外の場所で言葉を交わすようになってから彼の中の軽さは、少しずつ形を変えていた。
 修理の受付を終え、私はいつものように、返却された紙袋を受け取ろうとして手を止める。差し出されたのはいつもの紙袋ではなかった。小さなエコバッグだ。弁当箱がちょうど収まるくらいの大きさで、彼自身を主張するような、赤い生地。その隅に、控えめだけれど確かに存在感のある、アヒルの刺繍。私は一瞬、言葉を失う。

「……これ、」
「はい。あひるのペックル」
「……覚えたじゃん、名前」
「学習したんで」
「早いね」

 彼はあまりにも自然に頷いた。まるで当たり前でしょ、みたいな顔で。

「たまたま、見つけたんで」

 その��たまたま�≠ニいう言葉が、ここまで信用できないことも、なかなか珍しい。私も人の事は言えないけど、などと、心の中でそう思いながら彼の手元から目を逸らした。

「紙袋、毎回返すのも、あれかなって」
「……あれ、って?」
「ほら、懇親会でも言われるじゃないですかー」

 彼は、少し笑って続ける。出た、ヘラヘラ顔である。

「『いつもあの紙袋なの?』って。この前も突っ込まれましたしねー」
「……」
「お弁当袋、用意した方いいと思うよーって」

 ああ、確かに……。何度か、そんなやり取りがあったような気がする。私たちの間だけで完結していると思っていた反復は、いつの間にか、周囲にも認識される程度には目に見えるものになっていた。

「なので、」

 彼は真っ赤なエコバッグを、私のほうへと少し押し出す。

「これで、おあいこです」

 そう言って片目をパチンと閉じて見せる。ウインクである。あまりにも軽くあまりにも彼らしい仕草だ。私は、何も言い返せなかった。否定する言葉も、線を引くための言葉も、どれもここでは不釣り合いだったから。

「嫌だったら、言ってくださいね」
「……嫌、じゃないよ」

 絞り出すようにそう答える。彼はそれを聞いて「よかった」と、満足そうに笑った。
 赤い生地に、あひるの刺繍。専用の弁当箱に、専用の袋。それらを��ついで�≠竍�たまたま�≠ニいう言葉で包むには、もう少し積み重なりすぎている。

「じゃあ、また」
「……はい。気をつけて」

 彼が去ったあと、私はエコバッグを手に取ってしばらく眺めていた。軽くて、丈夫で、使いやすそうで、そして——あまりにも、彼らしい選択。おあいこ、という言葉は、もともと、貸し借りを終わらせるためのものだ。けれど、これはたぶん終わらせるためではない。同じ位置に立つための合図。
 そう気づいてしまった瞬間、私はそっと視線を落とした。まだ言葉にはしない。できない。けれどもう戻れないことだけは確かだった。それでも明日も私は弁当を作り翌日には彼がエコバッグを持って現れる。
 変わらない顔をして——すこしだけ、変わった距離のままで。


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