解散はいつも唐突で、けれど、自然だった。
恒例の食事会兼飲み会の終盤、誰かが、時計を見て立ち上がり、それに釣られるように、椅子が引かれ、あちこちで「お疲れ」「またね」という声が交わされる。その流れの中で私とホークスが途中まで一緒に帰ることはもはや説明の要らない前提になっていた。今日も「じゃあ、あとはよろしくね」と、誰かがホークスの肩を叩いて言う。
「ホークス〜!名字さんのこと、しっかり送って行ってねー!」
「あと、君は端末壊しすぎじゃ〜!反省しろー」
別の誰かが、冗談とも本気ともつかない調子でそんなことを言う。
「はいはい。なんか、ついでにディスられとー」
彼は千鳥足で帰っていく人々に軽く手を上げて応じる。否定も照れもない。その反応の自然さに私はもう、いちいち心を動かされなくなっていたはずだった。
夜風に当たりながら並んで歩く。街灯の間隔、歩幅、沈黙の長さ。全部が、いつも通り。すると彼が不意に「あ、」と言って足を止め、スマホを取り出した。
「さっき、みんなで撮った写真、見ます?」
画面がこちらに向けられて、私は自然と一歩、彼と距離を詰める。肩が触れ合うほどの近さだがそれも、もう、今となれば特別ではない。
「わー......」
思わず声を上げた。画面の中には思ったよりも整った笑顔が並んでいたから。仕事の顔でもなく任務のあとの疲れ切った顔でもない。
「これ、いい写真だねぇ」
「ね。」
「みんな、とってもいい笑顔」
そう言うと彼はほんの一瞬だけ視線を伏せた。画面から零れる淡い光が、夜の輪郭を曖昧にしながら、彼の横顔をやわらかく照らし出している。その沈黙は迷いというほど長くはなく、けれど、軽口で押し切るには十分すぎる間だった。
「……送ります?」
言葉は低く控えめで、断られる余地をきちんと残したまま夜の空気に置かれる。軽い提案のようでいてその言葉だけが夜の空気に少し重く残る。
私は一瞬、迷った。断る理由も、躊躇う理由もどちらもはっきりしない。ただこの一歩が、これまで保ってきた線をほんの少しだけ揺らすことを身体が先に理解してしまっただけだ。
「……じゃあ、うん」
そう答えた声は自分でも驚くほど短く、決意というよりは、流れに身を預けた結果のように響いた。彼の手にあるスマホと、私の手の位置は近いままで、ほんの少し動かせば触れてしまいそうなのに、その距離だけは不思議と保たれている。
画面に集中しようとするほど、別の感覚が立ち上がる——さっきから、微かに漂う匂い。夜風と混ざった清潔でどこか温度の低い香り。やっぱりいい匂いだなぁ……ここまで近いのなら、いっそ聞いてしまってもいいのでは、と一瞬だけ思う。『香水、なに使ってるの?』そんな一言が、喉の奥までせり上がってきて、結局、言葉になる前に引っ込んでいく。その間、番号を入力する距離も同じ画面を覗き込む距離も何ひとつ変わらない。変わったのは画面の中にこれまで存在しなかった数字が並んでいく、その事実だけだ。
「登録しましたー」
彼がそう言った直後に、私のスマートフォンが小さく震えた。その振動は必要以上に大きく感じられて私は一瞬だけ、画面を見下ろす視線を遅らせる。——今、確かに何かが増えた。でもそれは踏み込んだというより連絡できる距離が、静かに許されただけのことだった。私はようやく画面を確認し届いた名前と通知を何でもないふうを装って受け取る。

ホークスでーす

【写真を送信しました】
彼らしい軽めの文字。それから、さっき一緒に見ていた写真。私は思わず口元を緩めてしまう。声には出さない。けれど確かに、少しだけ笑っていた自分がいたのは確かだ。
「……届いたよ」
「ん、よかった」
それだけのやり取り。距離は縮まっていない。触れ合う肩の位置も歩く速度も何も変わらない。それでもポケットの中にしまい込んだスマホにはさっきまでは存在しなかった名前がある。たったそれだけの違いが夜をほんの少しだけ別のものにしていた。今日も別れ道に差し掛かり、私たちは自然と足を止める。
「じゃあ、ここで」
「はい。気をつけて」
彼は一歩下がり、いつものように、手を振る。私は一人になってから、もう一度だけ、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を開いた。写真の中の笑顔はさっきと変わらない。連絡先を交換した。ただそれだけのこと。急に距離が縮まったわけでも、なにかが始まったわけでもない。ただ簡単に連絡できるようになったという事実が静かに、ここに置かれただけだ。
私は画面を閉じて、夜道を歩く。この一歩は、踏み込みではない。でも、もう、戻れない位置に立っていることだけは確かだった。それでも今はそれでいいのだ。
*
その日の端末対応は特別な内容ではなかった。水没でもなければ画面割れでもない。強いて言えば動作が一瞬だけ重くなる、という曖昧な症状で再現性も低く説明もややこしい。私はカウンター越しに端末を受け取り、いつも通り、必要な確認事項を淡々と並べていく。
「今のところ、こちらでは症状出てないですね」
「そうなんすよー。たまーに、なんですけど」
「��たまに�≠ェ、いちばん、厄介なんです」
「ですよねぇ」
そんなやり取りをしながら、私は修理の手順を説明する。念のためバックアップを取ってからの初期化。設定の再確認。時間は、いつもより少しかかること。
「今日中には、終わらないかもですねー」
「そか。了解です」
彼はすぐに頷き少し考えるように視線を上げてから、軽い調子で続けた。
「じゃあ、終わったら……」
そこで彼は一度言葉を切り、手渡した代替機を軽く持ち上げる。その仕草に深い意味はなさそうで、けれどだからこそ隠しきれないものが滲んだまま、いつもより少しだけ柔らいだ声で言った。
「……連絡、入れてくださいね?」
その言葉は、あまりにも自然に出たように聞こえた。冗談でもなく確認でもなくただの段取りの一部のように。私は一瞬だけ指先を止めたけれど否定はしなかった。
「わかりました」
それだけを答える。彼も、それ以上は何も言わない。いつもの距離。いつもの応対だった——と思う。
その日、業務が終わり私はカウンターの内側で日報をまとめながらふと考える。あれは、前なら言い合わなかった台詞だ。でも、変わったのは、言葉だけで、態度は何も変わっていない。だからこそ、深く意味づける必要はない……はずだったのに。
夜。帰宅をして、靴を脱ぎ、いつものように、スマホをテーブルに置いたときだった。画面が、短く震えた。

今日も対応
ありがとうございました
ホークスからだった。業務連絡——と言えば、そうとも言える。けれどもう一文、いや、二文、画面の下に、続きが控えていた。

あのあと、何回か
試したんですけど

やっぱり重く
ならなかったです
私はソファに腰を下ろし、少しだけ考えてから返事を返す。

あのあと、何回か
試したんですけど

やっぱり重く
ならなかったです

それならよかったです
しばらく様子見てみてね
送信——。それで終わるはずだった。けれど、間を置かずにまたすぐに、通知が飛んで来る。

それならよかったです
しばらく様子見てみてね

了解です!

名字さん
今日寒くなかったです?
あまりに唐突で用件がない。私は思わず口元を緩めてしまう。そして、特に思い悩むことなく、普通に返事を返す。

ちょっとね。
そっちは?

俺は飛んでたんで

だいたい寒いです
そこから先は驚くほど自然だった。天気の話、任務の合間に見た景色から、どうでもいいこと。意味を持たない、小さなこと。そして、気づけばそんなやり取りは「用事があるから」ではなく、「返したいから」で、続いていた。しかし翌日。彼が、端末を取りに来たときに私たちは、何も、変わりはしなかった。
「お疲れさまでーす」
「お疲れさまです」
カウンター越しのいつもの距離感。仕事の声。私的な話題は出てこない。それが心地よかった。連絡を取っていることと、距離を縮めることは、同義ではない。私は、そう思っていた。
*
それから数日後。ホークスを含むヒーロー達の姿が見えないまま始まった懇親会は顔ぶれ自体はいつもと大きく変わらないのに肝心な存在が欠けているせいで、席の空気にわずかな歪みを残していた。
話題は自然と、ここ最近になって急激に増えたヒーローたちの任務調整へと流れていった。重なり合う出動予定、現場ごとに微妙に異なる動線、誰がどこまで把握しているのか、そうした細かな事情が、グラスを傾ける合間の肴として、次々に口に上る。
「今度来たヒーローの誰かに聞いてみようかな」
誰かがそう言うと、向かいの席から、気のない調子で相槌が返ってくる。
「まあ、それがいちばん手っ取り早いよねー」
グラスの縁が触れ合い、氷の音が小さく鳴る。話題は、あくまで業務の延長で、深刻さはない。だからこそ、その次のひと言はあまりにも自然に滑り込んできた。
「てか、それ。今、ホークスに聞いてみれば?」
不意に投げられた名前に、私はグラスを持ったまま動きを止めた。ほんの一瞬のことなのにその間がやけに長く感じられる。
しかし「そうだよー!」と、間髪入れずに別の声も重なる。
「名字さん、ホークスに直接、聞いてみてよ?」
冗談めいた調子。けれど、その言葉には迷いがなくすでに前提が共有されている響きがあった。私は一拍遅れて、問い返す。
「……なんで?」
返しながら自分でも声がほんの少し硬くなっているのがわかった。
「どうして、私が?」
「え? だって……」
すぐに返ってきたのは、拍子抜けするほど軽い答えだった。
「今すぐ聞ける手段、持ってるでしょ?」
ウインク付きで投げられたその言葉を受けて、私は反射的にほんのわずか眉を寄せる。その軽さの裏にある期待を、見なかったことにはできなかったから。
「待って……なんで彼と、連絡先交換してるの、知ってるわけ?」
問いかけると、彼女たちは顔を見合わせてから悪びれもせずに笑った。
「わかるでしょ」
「うん。誰でも、ね♪」
その言い方は、詮索でも暴露でもなく、ただ、「そういう距離に見える」という事実をあっさり受け止めているだけだった。私はそれ以上言葉を重ねなかった。否定もしなければ肯定もしない。その場に特別な説明は要らなかったし、誰も深く突っ込まない。驚きもしない。��すぐに聞ける�≠ニいう選択肢がもうそこにある前提で話が進んでいるだけだ。私はグラスに視線を落として、氷が溶ける音を聞きながら、小さく息を吐いた。
別に、連絡先を交換しただけ。少しだけ雑談をするようになっただけ。それなのに世界のほうが先に、関係を認識している。
その夜、帰り道で、私はスマホを取り出した。まだ、送らない。けれど名前を探すことは、もう迷わずできる。距離は、縮まっていない。でも、確実に繋がっている。それだけの事実が静かに、確かにそこには存在していた夜だった。
*
その日の解散も相変わらず賑やかだった。店の前で三々五々に別れ笑い声と手振りが夜に溶けていく。私とホークスが途中まで一緒に帰ることも今では誰も、説明しない。むしろ、それを前提にした冗談が飛んでくる始末である。
「じゃあ、またね〜」
「ホークス〜!名字さんのこと、ちゃんと送ってあげんのよー!」
「はーい」
背中越しに投げられた声に彼は軽く手を上げて私の横に並ぶ。歩き出すタイミングも、歩幅も、もう、調整などしない。否定もしないし、照れた様子もない。それが、今の彼らしさだった。
夜の空気が一段落ち着く。飲み会の熱が街灯の下で、ゆっくり冷めていく感じ。私たちは並んで歩き、自然と同じ速度になる。
「……なんか、」
少し先を歩いたところで間を置いてから彼が、ぽつりと言った。
「最近、あたりまえに名字さんのボディガード、やらされてません?」
冗談めかした口調だ。けれど、その言い方は、もうある種の��役目�≠�引き受けている人のそれだった。私は「いいじゃん」と、即座に返す。
「してよ、ボディーガード」
「未成年っすけどね」
「関係ある?」
私は歩きながら彼の腕を、上から下まで値踏みするみたいに一度だけ見て言い、軽く鼻で笑う。
「そのムキムキの体格だったら、無敵でしょ?」
「やだ〜」
彼は大げさに身をよじってから、肩を竦める。
「名字さんのエッチー」
「しずかちゃんじゃん」
私がそう言うと彼は少し考える間を挟んでから吹き出すように笑って言った。
「じゃあ名字さんは、ジャイアン役です?」
「それはない。チョップするよ」
「即答ー。しかも、チョップて」
夜道に、くすくすと笑いが落ちる。もう沈黙を気まずいと思う必要はこの空気感にはなかった。そして数歩進んだところで、彼がふと思い出したように「てか、」と言う。声の調子がほんの少しだけ変わる瞬間。少しだけ、真面目な声。
「名字さんってさぁ、」
「なに?」
「めちゃくちゃ、いい匂いしますよね」
「え?」
思わず足を止めそうになって私は平静を装う。一瞬だけ、心臓が跳ねたのを隠しながら。
「そう? てか、ホークスのエッチー」
「はいはい。しずかちゃんは譲りますよ」
「今日は香水とか何もつけてないんだけどなぁ」
「そーなんすか?」
彼は首を傾げてから、しかしすぐに悪戯っぽく続けた。
「じゃあ、体臭だ。体臭」
「フェロモンって言いなさいよフェロモンって」
「えー?どれどれぇ〜……クンクン、」
「ちょっと、」
抗議するより早く、彼はポケットに両手を突っ込んだままわざとらしく腰を屈めて顔を近づけてくる。試すようなその動き。ふたりの距離感が、完全にバグっていることに彼は今気づいているのだろうか。
「未成年でも、それは許されませーん」
それでも私は笑いながら、彼の肩を手のひらで軽く押し返す。力を入れなくても、ちゃんと身を引くところが、なんとも彼らしい。彼は、素直に下がりつつ、それでも、楽しそうに言う。
「えー、ダメでした?」
「ダメです」
「まだまだ知りたいこと、多いお年頃なんすよ」
「可愛い顔してても、騙されませんからねー?」
「はは。」
彼はすこしだけ私から視線を逸らして、照れたように笑った。
「可愛い顔、て。」
それ以上は、突っ込まない。その先は、あえて拾わない。こういうところで踏み込まないのも、もう習慣だった。もう、お互いにわかっている。
「でも——、」
言葉を探すような間。ふと横を見ると彼は歩きながら、空を見上げていた。
「こうやって普通に帰れるの、結構好きで」
私はすぐに答えず街灯の影が足元を流れていくのを見てから、そっと言う。
「……私も。」
即答しないのが私なりの照れ隠しだったのかもしれない。すると、彼から先に、言葉を紡いだ。
「お互いに仕事のときは仕事の顔で、」
「うん」
「気の抜けた場面では、気の抜けた顔で」
「うん」
「で、帰り道は……」
彼は言い切らず言葉を探して、結局、肩をすくめてみせる。
「帰り道、って感じで」
「ははっ。雑ー」
「でも、伝わるでしょ?」
……うん、伝わる。だから、私はただ頷いた。街灯の下を並んで歩く。肩が触れそうで触れない距離。その絶妙さが苦ではなくて妙に心地いい。近すぎないのに、遠くもない。この感覚を、もう説明する必要などなかった。そうしてやがて別れ道が見えてきて、彼が少しだけ改まって言う。
「今日も、無事送り届けました」
「うん。今日もありがとうございました、ボディガード系ヒーローさん」
「どういたしましてー」
彼は軽く敬礼みたいな仕草をしてから一瞬だけ真面目な目で私を見た。
「じゃあ——また、次も」
「……うん」
それだけで十分だった。別れたあと私は一人で夜道を歩きながらさっきまでの会話を反芻する。からかって笑って、近づいて、ちゃんと離れる。
——仲がいい、という言葉をもう否定しなくていい。けれど、その先の名前は、まだ要らない。今は、この帰り道が、何度でも重なっていけば、それでいい。
*
その日、カウンターの向こうから差し出された端末は外見だけならいつもと変わらない。けれど電源を入れた瞬間に感じる、あの、独特の鈍さ。私はため息を飲み込んでから、端末を裏返した。見た目はいつも通りで、画面にも、ひびは入っていない。それでも指先に伝わるわずかな違和感。内部に入り込んだ水分特有のあの感触が否応なく記憶を呼び起こす。私は何も言わずに、ゆっくりと顔を上げた。
「……ホークス、」
「はい?」
返事は即座だった。ただ声の調子だけがほんのわずかに軽くなっている。
「これで、三日連続ですよね」
一拍。彼は、ほんの一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから諦めたみたいに息を吐き首の後ろに手をやった。
「……はい」
素直すぎるほどの肯定に、私は苦笑に近いため息を落とす。
「……記録、更新です?」
「更新しなくてもいい記録です」
私は端末を作業台へ置きながら、淡々と言う。
「もうさすがに、ペナルティ設けようかな……」
本気半分、冗談半分の、あくまで業務の延長としての軽口のつもりだった。けれど彼は次の瞬間驚くほど勢いよくカウンターに両手をついて頭を下げた。
「すみませんっ!」
その声が、少し静まりかけていた室内に響く。しかし、こちらに視線が向いたのは一瞬のことでまたいつも通りの空気に戻っていく。
「ほんとに……俺が全部、悪いです!」
「まったく……思ってないでしょうが」
言いながらも、私はどこか可笑しくて、視線を端末に戻した。ホークスはこういうところで妙に真面目になる。すると、今度は、がらりと空気を変えるように、彼が顔を上げて言った。
「いや、これはもう……」
そして少し間を置いてから、わざとらしいほど大げさに、肩をすくめて見せた。その仕草を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感がすっと広がった。
「ご褒美くれたら、改心できるんですけどねー」
出た。はい、出ました。完全にふざけた口調。一瞬で切り替わるいつもの軽い男の様相である。だから私は深く考えることもせずそのまま作業を続けながら、やや適当に返事をした。
「いいよー?」
どうせ、守れない。どうせ、続くわけがない。最悪、明日にでも同じ症状で持ってくるだろう。本当に、そのくらいの気持ちだった。しかし……
「……え?」
彼の声がわずかに上ずり、動きが一瞬ぴたりと止まる。それでも私は動じない。
「壊さなかったら、何か考えるよ」
そう付け足したとき、彼はすぐに笑って流すと思っていた。けれど、彼はそのまま視線を落とし黙り込んだ。何か、考えている様子だ。そして、数秒。いや私にとってはもう少し長く感じられた沈黙だったかもしれない。彼は下唇を噛みやがて意を決したように、もう一度、顔を上げた。
「……じゃあ、」
声は、さっきまでより少しだけ低い。そして、言葉を慎重に選びながら、先を続ける。
「一週間」
「うん?」
「一週間、壊さなかったら……」
「はいはい?」
「二人きりで——食事、行ってくれます……?」
私は思わず手を止め目をぱちぱちと瞬かせる。それから、確かめるようにその言葉を復唱した。
「二人きりで、食事……?」
「はい」
即答ではあったものの、彼は、すぐに逃げ道を用意するように付け足す。
「もちろん、名字さんの奢りで」
そう言って、軽く、ウインクを飛ばして来た。あまりにも彼らしい逃げ道付きの提案に、思わず私は小さく笑ってしまった。
「それさ……目標設定のハードル低すぎない?」
「俺にとっては結構高いです。一週間ですよ?」
「ああ、そっちじゃなくてさ……」
「え?」
「いや……ごめん。こっちの話。気にしないで。まあ、わかった」
「ほんとに?」
「ほんとです」
私は溜め息混じりに言って、肩をすくめた。
「いいよ、私の奢りね。」
「やった。」
そのときも、やはり思っていた。どうせ途中でまた、どこかで水に落とす。もしくは、飛行中に落下事故。これは、成立しない約束だ——と。
しかし、それから一週間。私は、カウンターの内側で端末のチェックリストを見ながら違和感を覚えていた。記録に名前がない。故障の報告も、修理依頼もない。偶然だろうかと一瞬だけ思ってから、否定する。三日連続で壊す人間が、偶然、一週間無事でいる確率なんて無いに等しいことを私は知っている。そして、その日の午後——。
「お疲れさまで〜す」
「……お疲れ、さまです」
いつもと変わらない調子で、彼が現れたのだ。私はまず、いちばんはじめに、彼の手元を見た。
「……壊して、ません?」
「壊してません。ほら、今も。」
迷いのない即答。彼は得意げに口角をやや吊り上げて、端末をひらひらと振って見せた。
「……落としても?」
「落としてません」
「水には……」
「近づいてません」
胸を張って言い切る彼の姿に、私は思わず息を吐いた。近づいていないと言い切るその様子からして、ちゃんとヒーロー活動はしていたのだろうかと、つい疑問がよぎってしまうけれども。
「……珍しい。やれば、できるじゃん」
「まあ、約束ですから」
その言い方は、冗談の続きを装っているくせに妙に真剣で、不思議と、軽くはなかった。
「俺、言ったことは守る主義なんで」
私は一瞬、言葉を失う。その一言が、胸の奥に静かに落ちたのだ。だってそれはヒーローにしてヒーローすぎる言葉だったから。
冗談だと思っていた。軽口の範囲内だと、そう思っていた。けれど彼は一週間、ちゃんと約束を守って壊さなかった。誰に見られていたわけでもなく、誰に強制されたわけでもなく。
「じゃあ——」
と、彼は、少しだけ照れたように笑う。
「名字さんの奢り、決定すね」
私は一度、目を見開いてから静かに微笑んで、ゆっくりと頷いた。冗談だと思っていた約束が、こうして現実になる。ご褒美でも、罰でもない。ただ、約束を守った人に対しての、当然の応答。それだけのことなのに、胸の奥に今までとは違う重さが残る。その事実が、これまでのどんな軽口よりも静かに、そして確実に、私の中に、残っていた。
お店を選んだのは、彼の方だった。「どこでもいいよ」と言ったのは、確かに私ではあったが、気取らず、けれども、騒がしすぎない場所を選んでくれたのは、なんとも彼らしいなと思う。
任務帰りのヒーローが立ち寄るには、少し落ち着いていて、女性が一人で来ても違和感のない、その中間のような店だった。
「こういうとこ、好きそうだなって思って」
そう言って彼は、照れたように笑う。私はその言葉に軽く頷いただけで、深くは聞かなかった。向かい合って座り、料理を待つあいだも、会話は途切れない。仕事の話はしない。彼の任務の詳細にも踏み込まない。代わりに、どうでもいい話をする。最近よく眠れているかとか、この前の懇親会で誰が一番酔っていたか、とか。
彼はよく笑い、私もそれにつられる。いつもの業務の声ではない、少し、柔らかい調子で。
そのとき不意に、テーブルの上の私のスマホが震えた。画面を一瞥しただけで私は自然と口元を緩めてしまう。意識したわけではない。ただの、反射だ。返事を打つ指も、ためらいなく動く。
——と、そこで、視線を感じた。その様子を、彼が見ていたのだと気づく。そして、一拍置いてから、彼が口を開いた。
「彼氏さん、ですか?」
その一言で、空気が微かに変わった気がした。さっきまで流れていた軽さがふっと止まったのがわかった。
「うん」
しかし私は、間を置かずに答える。彼の目が、はっきりと見開かれる。
「……え」
「え?」
「いや……」
彼は、言葉を探すように、少しだけ視線を泳がせた。
「いたんすね、彼氏……さん?」
「うん」
「……え、いいんです?」
「なにが?」
「こうやって、その。男と、二人で……?」
「うん」
即答する私に、彼は、きょとんとしたあとに、「ふはっ」と吹き出した。次いで、肩を揺らしながら笑う。
「まるで意識されとらーん」
冗談めいた言い方。けれど、その奥に、ほんのわずかな戸惑いが混じっているのを、私は見逃さなかった。だから私は声を落とし、少しだけ間を置いてから言う。
「違うよ」
「違うって?」
「そういうのじゃ、ない」
「……」
「私の彼氏は、寛大なの」
その言葉は、説明でも言い訳でもなく、ただの事実として、テーブルの上に置かれた。彼はそれ以上、何も、言わなかった。笑顔は保ったまま、けれど、さっきまでとは少し違う沈黙が挟まる。
食事を終え、店を出る。夜風が二人のあいだを冷ますように、吹き抜ける。帰り道。歩き出してからしばらくして、彼が先に口を開いた。
「……付き合って、どれくらいなんす?」
「んー」
私は、少し考えるふりをしてから答える。
「一年くらいかな」
「雑っすね」
「そんなもんだよ」
「記念日とか、ちゃんと覚えてるタイプです?」
「んー。覚えてない」
「えー」
彼は半ば呆れたように言う。そして、独り言をこぼすみたいにして言った。
「彼氏さん、すごい」
「そう?」
「俺なら、拗ねます」
「はは。拗ねそう」
彼のその言い方は冗談の形をしていた。けれど歩幅がほんの少しだけ、さっきよりも速くなっている気がする。
「……どんな人なんすか」
「普通の人」
「余計わかんない」
「普通だよ」
「ふーん、普通ね」
それ以上は答えない。聞かれないからではなく答える必要性を感じなかったから。
今日も、別れ道が近づく。彼はふと足を止めていつも通りの声音で言った。
「今日は、ありがとうございました」
「うん、こちらこそ」
軽く手を振り合い、それぞれの、帰路につく。その場を少し離れてから、私は一度だけ、背後を振り返った。彼はもうこちらを見ていなかった。
彼氏がいる——そう、事実を言っただけ。それだけで、空気が変わる距離に私たちはもう立っているのだと、遅れて気づく。けれど、まだ何も、壊れてはいない。そのことだけが静かに夜の中で現実だった。