その日も朝は同じ速度で始まった。二番の受付カウンターの内側に立ち端末の受け取りと返却を淡々とこなす。
あの日の��食事会�≠フ余韻は仕事の場には持ち込まない。それは私の癖であり彼もまた、それをよく理解していると、こちら側だけで勝手に思い込んでおくことにしている。
「お疲れ様でぇーす」
「……お疲れ様です」
その日はいつもより少しだけ声が明るかった。過剰というほどではないが冗談が先に立つ、あの��ヘラヘラホークス�≠フ調子に、わざわざ戻してきたのが分かる。私はカウンターの下から慣れた手つきでエコバッグを取り出した。
「——はい。今日のぶん」
「わぁ〜☆ ありがとうございまぁーす」
相手が受け取る前に私は、その手を一度、軽く引っ込めてから小さく息を吐く。彼がきょとんとこちらを見やる。
「……あのねぇ。」
「はい?」
「『明日、お弁当よろしくお願いしまぁーす!』じゃないよ。お母さんか、私は……」
「ああ〜、メッセージぃ?」
彼は、わざと語尾を上げる調子で言い返して、一瞬だけ、視線を逸らしてから悪戯っ子みたいに笑った。
「すんません。もうさ、直接お願いしちゃおうと思いまして」
そう言いながら差し出される手つきはいつもと同じようでいて、ほんのわずかに落ち着きがなかった。指先がせわしなく動き、受け取る動作が、ほんの少しだけ前のめりになっている。その小さな違和感に私は何も言わずただ目を伏せた。変わらない軽口の裏で彼がどこか急いでいる事だけは確かだった。でも、そこにはあえて触れない。
「……最近、ほんと平和っすね」
「なにが?」
「スマホ。壊れてない」
「奇跡ですね」
「いや、努力の賜物です」
胸を張る仕草に私は笑って頷く。それで終わるはずだった。けれど彼はお弁当の入ったバッグを大切そうに手に抱えたままふと思い出したように続ける。
「あ、そういえば」
声は軽く、語尾もいつも通り——少なくとも、私には、そう聞こえる。
「名字さんの彼氏さんって嫉妬とかしないタイプなんすか?」
一瞬、時間がずれる感覚があった。けれど私はそれを表には出さず、小さく笑って返す。
「うん」
「ほぅ」
「しないね。たぶん」
「へー」
彼は少しだけ目を丸くしてから、すぐに笑顔に戻った。
「寛大だなぁ」
「言ったでしょ。そういう人なの」
「なるほど」
その返事に、彼の肩が、ほんの少しだけ緩む。安心した、というような表情。それが、痛いほど分かってしまう。そして彼は勢いをつけるみたいに続けた。
「じゃあさ」
「なぁに」
「また、ご飯行きましょ?」
あの日と同じような言い方。同じ誘い方。同じ距離。同じ軽さ……。私はすぐには答えず言葉を選ぶ間を挟んでから返す。
「気が向いたらね」
否定でも肯定でもない、いつものような返し。それで十分だと、彼もわかっている。そして彼はいつもと同じように、小さく笑う。
「相変わらず、雑っすね」
「そんなもんでしょ」
「でも、嫌じゃない感じ」
「……嫌なら、そう言うよ」
「ですよね」
その一言で、彼は納得したように頷く。冗談を言い、いつも通りに振る舞っている。けれどその軽さは今までのものとは少し違っていた。感情を隠すための軽さ。処理しきれないものを、笑いで包んでいる感じ。
「じゃ、また。」
「はい。お疲れ様です」
彼が去ったあと私は作業台に視線を落とした。何も変わっていない。業務もやり取りも距離も。それでも彼が安心した顔をした理由だけが胸の奥に残った。安心していい理由を彼が必死に探していること。そしてその理由を私が与えてしまっていることに。
十八歳——。プロヒーローとはいえまだ感情の扱い方を完全には知らない年齢。軽くして笑ってやり過ごす。それを責めるつもりはない。私もまた同じように線を引きながら今日もここに立っているのだから。変わらない顔で。変わらない距離で。今日もまた、何事もなかったように。それが今の私たちにとって、いちばん正しい形だった。
*
結局、約束は流れずに残った。仕事終わり——特別な理由もないまま、ふたりで食事に向かう。「ご褒美」という言葉はもう使われない。けれどどちらからともなく取り消されることもなく約束は約束として、静かに履行される。
その日の店は、前回よりも少しだけ、賑やかな場所だった。彼が選んだのか、たまたま目についたのか、その違いを確かめることはしない。テーブルに向かい合って座り、メニューを開く。その動作ひとつひとつが必要以上に丁寧に感じられるのは、気のせいではないと思った。
「ここ、いいですね」
「うん。話しやすい」
それだけで注文は決まる。食事が運ばれるまでの時間、会話は、穏やかに続いた。最近の任務で起きた少し笑える出来事。壊れなくなった端末の話。お弁当の味付けが薄かっただの濃かっただのどうでもいいやり取り。笑いもある。沈黙も居心地が悪いほどではない。ただ、その沈黙の質が、以前とは少し違っていることに、私は、気づいていた。埋めなくてもいい、という安心ではなく、触れないほうがいい、という判断に近い静けさ。
食事が半分ほど進んだ頃、彼が不意に箸を置いた。深刻というほどではない。ただ、話題を切り替える前の、癖みたいな間だ。
「ねえ……そういえば、」
声は軽い。あくまで、ついでのように——。
「彼氏さん、今日
その一言で空気がわずかに変わる。『今日も』という言い方に、やや違和感を覚えつつも私は、箸を止めず、短く答えた。
「うん」
それだけ。それ以上でも、それ以下でもない。言葉が途切れる。会話がほんのわずか宙に浮く。彼はすぐに笑うでも茶化すでもなく、視線をやや落としたまま、烏龍茶の入ったグラスに触れる。氷がかすかに音を立てて、その音が必要以上に、大きく聞こえた。
「あ、そっか」
ようやく出てきた声は、いつもよりも少しだけ低かった。
「……それなら、よかったです」
それ以上、何も言わない。質問を重ねることも冗談に逃げることもない。私はそんな彼の横顔を見ながら、気づく。彼は、聞きたかったわけじゃない。確かめたかっただけでもない。ただそこにある事実を、自分の中にもう一度、収める必要があったのだ、と。
食事は、そのまま続く。会話も、再開される。さっきまでと、同じ話題。似た調子。変わらない距離。けれどさっきの一拍の沈黙は確かにそこにあった。飲み込まれた言葉の重さだけがテーブルの下で、静かに残っている。
店を出ると夜の空気がひんやりと頬に触れた。昼の名残をすっかり失った街は灯りの輪郭だけを浮かび上がらせていて、歩く速度まで自然と落ち着いていく。足音が、昼よりも少しだけはっきり聞こえる気がした。
今日も当たり前に奢ると決めていた私はいつものように先に会計を済ませた。その背後で彼が、少しだけ、大げさに肩をすくめていた。
「出世払い、しますんで」
冗談めいた口調。いつも通りの軽さ。本当は、他にも言いたいことがあったのではないか。そんな考えがふと頭をよぎる。けれどそれを確かめる術はない。彼は飲み込むと決めたものを、いつもきちんと飲み込んでしまう人だから。
「ごちそうさまでしたでしたぁー」
「いいえー。出世払い、期待してまーす」
そう返すと彼は少しだけ照れたように笑った。並んで歩き出す。肩の距離は行きと変わらない。近すぎず遠すぎず説明の要らない位置。灯の下を抜けるたび影だけが少しずつ形を変える。するとしばらくして、彼がぽつりと言った。
「……ねえねえ、」
「んー?」
「今日の店、ほんとアタリでしたね」
「うん。気を遣わない感じでね」
「名字さんああいうとこだとよく食べますよね」
「それ、どういう意味?」
「悪い意味じゃないです」
わざとらしく慌てて付け足す彼を、私は横目で見やる。そして、ふん、とこちらもわざとらしく鼻を鳴らした。
「ちゃんと、美味しいって顔するなって」
「……それ、褒めてる?」
「んー、たぶん?」
「たぶん……って」
私は笑って、足元を見る。彼もつられたように自分の足元に視線を落とし、短く息を漏らして、笑った。そのまま、何気ない調子で彼が続ける。
「次は、俺の奢りで行けるようにちゃんと頑張ります」
「お、出世払い?」
「現金一括で」
「うわ、期待値、高すぎ」
「高いほうが、やる気出るんで」
そう言って彼は少しだけ胸を張った。たわいもない会話。そこに意味を持たせるほどでもなく、切り捨てるほど軽くもない。言葉は夜道に静かに落ちていく。肩の距離は変わらない。けれども、その距離をどう保つかだけは、お互いに少しずつ上手くなっている気がした。だから今夜はそれで十分だった。
「今日も、ありがとうございました」
別れ道。彼は、いつも通りの声でそう言った。『今日も』と言われたことにはあえて触れない。
「うん、こちらこそ」
しかし去り際、彼は一瞬だけ、何か言いかけたように見えた。けれど結局、何も言わない。私は一人になって、歩きながら思う。彼は、軽く振る舞おうとして、ちゃんと、重く受け取っているのだと。感情を持て余しながら、それでも壊さない選択をする、そんな、お年頃かもしれない。その不器用さが今夜はやけに静かだった。そして私はその静けさを、否定もしなければ慰めもしない。それが今の距離に許された、唯一の誠実さだと、知っているから。
その日の夜、帰宅してから、私はソファに腰を下ろした。コートを脱ぐ気力もないままスマホを手に取る。特に用事はない。けれど画面を点ける理由を、もう自分に説明する必要もなかった。
少しして通知が鳴る。思っていたより少しだけ遅れて——。

無事に帰れました?
彼からのメッセージは、いつも、このくらいの間隔で届く。気を遣いすぎない程度の距離感で、急かさないし忘れもしない。私が『着いたよ』と短く返すと、すぐに既読がついた。

着いたよ

よかった

今日の店
また行きましょー!

うん
懇親会でも使いたいな

いいすね!

静かすぎると名字さん
同じよーに静かになるから
その一文に、私は小さく笑った。そんなところまで、よく見ているな、と。自覚していない癖を当たり前みたいに言い当てられると、少しだけ、居心地が悪くて、でも、悪くはないな、と思う。

そんなことないと思うけど

ありますあります

懇親会だと
帰り道の方がよく喋る
図星だった。返事を打つ指がほんの一瞬だけ、ためらうように止まった。

帰り道は
何も考えなくていいから

あー、それ
わかる気します
そのまま会話が途切れるかと思った。けれど、数秒後に、また通知が鳴る。

あ、お弁当

明日も大丈夫そうですか?
いつもの話題。いつもの流れ。日常に戻るための、合図みたいな一言。

いいよ
取りに来てね

了解です

無理なときはちゃんと
言ってくださいね
その言葉に胸の奥がほんの少しだけ緩む。頼ることを前提にしないで逃げ道だけは残してくれる言い方。

名字さん

ありがとうございます

どういたしまして

おやすみなさい

おやすみ
それ以上は続かない。スタンプもない。余計な一言もない。私はようやく画面を閉じて目の前のテーブルにスマホをそっと伏せる。
特別じゃない。でももう「用事があるから連絡する」という関係でもない。そういうやり取りが静かに当たり前になっていく途中に私たちはいるのだと思った。
*
それはまだ空気が張りつめるほど寒くなる前の昼下がりのことだった。私はカウンターに向かい黙々と書類を書いていた。公安特別通信管理室の業務は端末を扱う手の動きだけでなく、こうして紙に向き合う時間も、意外と多い。
報告書、確認書、照合用の記録など……どれもこれも形式は決まっていて、だからこそ、余計な思考を挟まずに済む。ペン先が紙を滑る音だけが静かな室内に落ちている。すると——。
「……名字、名前」
不意に、自分の名前を呼ばれた。反射的に顔を上げると視界のすぐ目の前に、彼——ホークスが立っていた。あまりにも音がなく、あまりにも、自然にそこにいたものだから、心臓が一拍遅れて跳ね上がる。
「……っ、」
「すみません」
即座に謝罪の言葉を述べながらも彼はいつものように屈託なく笑った。
「やっちゃいました」
そう言って軽く掲げられた手の中には水没したばかりと一目でわかる端末。所々、汚れていて、わずかに曇った画面。
「……またぁ?」
「はい。今日は、落とした自覚あります」
その言い方に、私は小さくため息をつき、椅子から立ち上がろうとして——その前に彼の指先がふとカウンターの上へ伸びたのを目の端に見た。置きっぱなしにしていた書類。私の直筆で記された名前の文字の部分を彼はまるで無意識のようになぞる。確認するというより、確かめるように。大切なものの輪郭を覚えるみたいにゆっくりと。
「……名字、名前——ね」
「……」
「綺麗な、名前ですね」
低く、穏やかな声。慈しむような、やさしげな表情。それだけで、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。
「……っ、ちょっと」
私は慌てて書類を引き寄せて、胸元に隠す。
「社外秘です」
「あ」
彼は一瞬きょとんとした顔をしてから、すぐに申し訳なさそうに笑った。
「すんません。つい」
「……つい、で勝手に、触らないでください」
「はい……」
けれどその返事はどこか楽しそうで反省の色は薄い。私は咳払いを一つして業務用の声に戻る。
「——で、症状は?」
「完全に沈みました」
「いつ?」
「さっき」
「……潔いですね」
「褒めてます?」
「褒めてません」
私は端末を受け取りいつも通りの手順で確認を始める。画面の反応、内部の湿気、エラーログ。指先は迷わず動き頭もすでに切り替わっている。彼は、カウンターの向こうで大人しく待ちながらさっきのことを蒸し返すでも冗談を言うでもなくただ、いつもの出立ちでそこにいた。さっきまで私の名前を指先でなぞっていた人物と同じだとは思えないほどに、涼しい顔をして。
「修理、今日中にいけそうですよ」
「さすが」
「代替機、出しますね」
「お願いしまーす。あっ、あれば赤がいいです」
「今はシルバーの二世代前の端末しかないです」
「ちぇ」
そこで、話は終わる。それ以上は、触れない。触れさせない。私はそれを正しい線引きだと理解している。けれど、ペンを置いたあと、無意識に担当者として、自分の名字が書かれていた場所を見てしまったのも、また事実だった。
——名字と、名前。ただの文字列。ただの個人情報。それなのに、あの指先の温度だけが、妙に残っていた気がした。
*
それからしばらくのあいだ、ホークスは、私のフルネームを知ってしまった事実をなかったことにするみたいにして、普通に以前とまったく同じような呼び方で私と接していた。
「お疲れ様でーす、名字さんっ」
端末を持って現れるときも代替機を返しに来るときも、懇親会の席で声をかけてくるときも名字だけ。そこに、何も付け足さない。私はそれに、最初は、ほっとしていた。
あの日、カウンターの上で彼がなぞった文字の感触が、いつまでも、残っているような気がしていたから。もし次に呼ばれるとしたら、名前ごと呼ばれてしまうのではないか。そう考えるたび、仕事の場に、要らない緊張が混ざるのがわかっていた。だから、変わらない呼び方は正しい。線は守られている。そう思っていたはずなのに、彼が呼びかけるたび「名字さん」という音が、ほんのわずかに重く聞こえてしまう。
前と同じなのに同じではない。知ってしまったものを使わないという選択が、そこに、含まれているからだろう。
「名字さん、スマホここに置いて行きますねー」
「ありがとうございます」
やり取りは業務的で、滑らかだ。彼も、余計な冗談を言わない。私も、それ以上踏み込まない。それでも、視線がふと、書類の上に落ちることがある。彼に署名をもらう紙に書かれている自分の名前は名字だけのはずなのに。以前なら、気にも留めなかったはずの、自分の文字。ホークスは、もうそこを見ない。覗き込むことも、指を伸ばすことも、二度とない。
知ったからこそ、触れない。そういう、距離の取り方ができる人間だということを、私は遅れて理解する。恒例の懇親会の席でも、同じだった。
「名字さんっ、お隣、いいです?」
「あら、ホークス。どうぞ?」
それだけ。名前を呼ぶ必要のない場面を、彼は選んでいる。周囲が気づくほどの変化ではない。気づくのは、たぶん、私だけ。それがすこしだけ拍子抜けだった。別に名前を呼ばれたいわけじゃない。呼ばれて困るくせに。けれど、呼ばれない理由がわかってしまうというのは、思った以上に落ち着かない。今日も端末対応が終わり彼が帰り際に、軽く手を振る。
「じゃ、また来ます」
「また来ないように、心がけてください?」
「俺に言ってます?できるわけないでしょ」
「開き直らないでください」
「だってー、事実ですもん」
「はいはい……。お疲れ様です」
ドアが閉まったあと、私は小さく息を吐いた。変わらない距離。変わらない呼び方。それなのにこの関係はもう、知らなかった頃には戻れない。フルネームを知られてしまったことよりもそれを使わずにいられるという事実のほうが、静かに、私の中に残り続けていた。
あのヒーローは踏み込まない。でも、引いてもいない。その中間に、名前、ひとつ分の距離が、確かに存在していた。
それでも日々は、変わらず流れていった。ホークスは相変わらず頻繁に端末を持ち込み、相変わらず壊し、相変わらず軽口を叩き、相変わらず、ヘラヘラと笑っている。私は、相変わらず淡々とそれを受け取り修理の手配をして代替機を渡す。全て変わらない、名前を呼ばれないこと以外は。
「ねえ、名字さん?」
「はい?」
「今日も、忙しそうですねー」
「見ての通りです。誰かさんのせいで仕事が押してるんです」
「ですよね。この時間帯、書類と格闘してるイメージあります」
私の嫌味を嫌味として受け取らない選択をしたのか、しかし、私もそれ以上は踏み込まずペンを置かないままで応じた。
「勝手なイメージつけないでください」
「でも、当たってる」
そう言って彼は笑う。笑い方は前と同じなのに距離の取り方だけが、ほんの少しだけ、慎重だ。彼は以前のようにカウンターに寄りかからない。私の手元を覗き込まない。呼びかけるときも必ずワンクッション置く。それが、意図的だとわかるからこそ私は何も言えなくなる。呼ばれないのが正しい。そう何度も自分に言い聞かせる。気づけば昼休み前の時間帯だ。作業が一段落したところで、彼が、ぽつりと言う。
「名字さんって——」
その呼びかけだけで、身体がわずかに、先回りする。続きを待つというよりも、身構える感覚に近い。言葉が来る前に受け止める準備をしてしまう、私の癖。
「休みの日、ちゃんと休んでます?」
「……それ、今聞く?」
「はい。今がいちばん聞きやすかったんで」
「……休んでますよ。たぶんね」
「出た。��たぶん�=v
彼は、小さく笑う。私は決まった流れのようにため息をつく。
「それ、俺がよく言うやつ」
「真似しないで」
「尊敬です」
言い方は冗談でも、視線は真面目だった。彼は私のことを知ろうとしている。けれど下の名前は呼ばない。その選び方が、十八歳らしく不器用で同時に、驚くほど、誠実だと思う。
また別の日。飲み会の帰り道、気づけば自然と隣を歩いている。夜の空気が、昼よりも少しだけ本音を引き出す。
「今日の集まり、長かったですねー」
「歓送迎会込みだと、どうしてもね」
「名字さん、途中から静かだった」
「え、その前……うるさかった?」
「いや?」
彼は少し考える。歩調が、ほんのわずか緩む。
「安心してるときの、静かさ。」
私は歩きながら息を吐いた。言い当てられたというより、見抜かれた感じ。
「……それ、褒め言葉?」
「はい」
「即答」
「即答です」
「迷いがないね」
「必要あります?」
それ以上は言わない。名前を呼ばれないまま、そんな言葉だけが積み重なっていく。夜風に街灯の影が長く伸びる。肩が触れそうで触れない距離。彼は、ふと足を止めかけて思い直したように歩調を合わせた。
「……名字さん」
——また、その呼び方。しかし私は相変わらずまた、振り返るのだ。
「ん?」
言葉を探すような沈黙。彼は何かを言いかけて結局、またやめる。
「……いや。なんでもないです」
そう言って笑って誤魔化す。きっと名前を呼ぶことよりも、呼ばずにいられない感情のほうが、彼には、厄介なのだ。それは、私も同じだった。名前を呼ばれないことで保たれているこの距離がいつか崩れるとわかっているからこそ、今はまだここに留まっていたい。
呼ばれないまま。呼ばせないまま。それでも、私たちは確かに前よりも近くで同じ時間を、同じ速度で、歩いていた。