彼とこうして関わるようになってから約一年。気づけば、私とホークスの関係は、説明を必要としない形で続いていた。端末の修理と受け渡し、お弁当とお礼のお手紙、たまの食事と恒例の懇親会に、帰り道の他愛もない会話。どれも特別ではなく、どれも欠けると、少しだけ困る。恋人でもなく同僚でもなく、ただの顔見知りというには、あまりにも互いの生活に入り込んでしまった距離だった。
 そんな関係のまま、季節はそのまま年の瀬へと滑り込み十二月二十八日。「忘年会しましょ!」という、彼のあまりにも軽いひと言から始まった予定がようやく、噛み合った日でもあった。年末特有のざわついた空気が街に満ちていて私たちはその中を肩を並べて歩いた。仕事納め。街全体がすでに一年を畳み始めている。店に入って向かい合った座敷席で、グラスをテーブルに置きながら私は口を開いた。

「ここ最近、結婚式が立て込んでてさぁ」
「へー」

 今日も今日とてウーロン茶を片手に彼は、興味深そうに相槌を打つ。

「だからか」
「なにが?」
「最近、なんか化粧ちょっと、濃いめだなーって思ってました」

 一瞬の間。沈黙。私は即座に「……こらっ」と睨みつける。

「引っ叩くよ」
「やだ、怖っ」

 そう言いながらも彼は、いつもと変わらず楽しそうに笑った。

「でも、似合ってますよ。なんていうか……式場慣れ?してる感じ?」
「それ、褒めてる?」
「たぶんね」
「たぶんが、多いなぁ」

 また料理が運ばれてきて、会話は自然に続く。最近は率先して彼が取り分けてくれる。始めこそ彩りがどうだの量がどうだのと質問攻めに合っていたものの、今はそれを自然体でこなせるまでに成長している。

「ほんと、ご祝儀貧乏だよ……」
「えー? そんなに?」
「毎回、封筒に入れるたびに思う。ああ、これで何回美味しいご飯食べられたんだろう、って」
「はは。現実的」
「現実的だよ、ほんと……貯金がどんどん減っていくんだから」
「じゃあ、倍にして返してもらわんとっすねー」

 彼は箸を動かしながら美味しそうに頬張って、そして、ふと目を伏せたまま問いかけてくる。

「……結婚願望、ないんすか」

 何気ない調子。探るというより、話題の流れに乗せただけの声。私は「んー」と少し考えてから正直に答える。

「どうなんだろうね」
「即否定じゃない」
「否定するほど考えたこともないだけ」
「ふーん」

 それ以上、彼は踏み込まない。それが、いまの私たちの距離感だった。そしてその日もそのまま食事を終えて、会計のタイミングになる。すると「今日こそ」と、彼が立ち上がりかけた。

「俺が払います」
「だめ」

 私は先に伝票を取って立ち上がり彼の横をすり抜ける。彼が慌てて止めにかかる。

「ちょっと、待ってくださいってぇー」
「聞きません」

 慣れたやり取りだ。これでもう何度目になるだろうか。しかし、結局、私が支払いを済ませて、事なきを得た。お店を出ると夜の空気がきりりと冷たい。年末特有の冷え方だ。すると、彼が歩きながら、唇を尖らせてぼやく。

「ねー。いつになったら、俺に支払わせてくれるんすかー」
「まずは、成人になってから」
「えー」

 彼はわざとらしいほど大きく肩を落とし、落胆したふりをしてみせる。吐いた息が白く宙にほどけていく。間もなく今年も終わるのだと思うと、不意に感傷が差し込み、私はそのまま空を見上げた。

「じゃあ、あと一年っすねー」
「……え?」

 その言葉に思わず私は、足を止めかけた。横を見やるが、彼は、平然と前を向いて歩いている。

「え、待って……」
「はーい?」
「いつの間に……十九歳に、なったの」

 一瞬の沈黙。彼は少しだけ視線を逸らしてから照れ隠しみたいに言った。

「……今日ス」
「は?」
「今日で、ジューキューです」

 私は言葉を失って、また、彼を見る。年の瀬。忘年会。何でもない顔で並んで歩いていた相手が今日、十九歳になったという事実だけが、遅れて胸に落ちてくる。それでも彼は、相変わらず軽く笑っている。時間は確実に進んでいる。その事をまざまざと思い知らされる。
 歩き出してから、しばらくは、さっきの言葉の続きをどちらも口にしなかった。十九歳。今日が誕生日。その事実だけが、遅れて夜気に混じり、胸の内側でゆっくりと形を持ちはじめる。

「……ちょっと、寄っていい?」
「はい?」

 交差点をひとつ過ぎたところで、私はふと足を止めた。彼が首を傾げるのを横目に私はコンビニの明るい灯りへ向かう。何を買うかはもう決めていた。迷う時間も、説明する時間も要らない。

「外で待ってて!」

 振り返らずにそう言うと、背後で一瞬だけ間が空いて、それから「なんすかー、もう」と、不服そうな声が返ってきた。しかし素直な彼は「了解です」とまるで忠犬のように外で待機する体制に入った。ガラス越しに見える彼は店内を覗き込むでもなく、ただ自動ドアの外で待っている。肩を竦め両手をポケットにしまったまま時折通り過ぎる人の流れを目で追いながら、理由のわからない待ち時間を、きちんと受け取っている。
 私はレジを済ませて袋を受け取り、外に出る。すると彼は腕を両手で擦って白い息を吐きながらすぐに聞いてきた。

「なに買ったんすか?缶ビール?」
「ばか」

 私は小さく笑って、彼の目の前に手を伸ばす。

「はい。あげる」
「……へ?」

 差し出されたビニール袋を、彼は戸惑いながら受け取る。中を覗き込み、次の瞬間、目を見開き言葉を失った。二つ入りの、ショートケーキだ。余計な装飾のない、シンプルなもの。彼が、ゆっくりと私を見る。

「え……これ、」
「ハッピーバースデー、ホークス」

 声音は優しく、穏やかに。祝うというよりも、事実をそっと、置くように。その場に、柔らかな空気が落ちる。年末の冷えた夜に少しだけ温度が戻ったみたいにして。彼はしばらく何も言えず、袋を持ったまま立ち尽くしていた。驚きと戸惑いと、それから言葉にできない何かが混ざったような顔。

「……ずる」

 ようやく出たその声は、冬の寒さに一瞬でかき消されてしまうほどに、かすれていた。

「今日、普通の、忘年会だと思ってたんすけど」
「それも、間違ってないよ」

 私はそう言って先に歩き出す。彼は慌てて後を追って来て、少しだけ、私と距離を詰めた。

「……あの、」
「なぁに」
「これ」

 彼が、横に並んでコンビニ袋を軽く持ち上げる仕草が、目の端に映る。

「一緒に、食べません?」

 その言い方は、遠慮がちで、でも——まっすぐだった。そして彼は一瞬、言葉を選ぶ。

「寒いんで、ここじゃ、なくて……」
「……」
「俺の、セーフハウス——とかで」

 夜の街の中で、その言葉だけが少しだけ重みを持つ。私は歩きながら考えるふりを装いそれでも立ち止まらずに答えた。

「……いいよ」

 短く、でも迷いなく。彼の足取りがほんの少し軽くなる。彼のセーフハウスへ向かう道は、静かだった。さっきまでの冗談も軽口もない。ただ、袋の中でケーキが揺れないように彼が気を遣って歩いているのが、視界の端に映っただけ。
 十九歳の誕生日。忘年会の帰り道。コンビニの灯り。何も派手なことは起きていない。けれど、この夜は、きっと、彼の中で長く残る。そう思いながら、私は並んで歩く。この先のことは、まだ考えない。ただ今は、ショートケーキひとつ分の時間を一緒に過ごすだけで、十分だった。


 *


 エントランスを抜け、エレベーターを上がり、彼の背中について廊下を進む。扉が開いた瞬間に思ったのは『普通のマンションだな』ということだった。拍子抜けするほど、生活者の匂いがある外観でだからこそ、その内側にある物との落差が際立つ。
 彼が先に中に入り、ルームライトのスイッチを押す。白い光が一斉に点いて、遅れて暖房の低い駆動音が立ち上がる。冷えていた空気がみるみるうちに緩み部屋の輪郭が柔らいでいく。けれど、驚くほどに、生活感がない。物はある。最低限の家具も、整えられた収納も。ただ、誰かの癖や、日々の滞在を示す痕跡がきれいに削ぎ落とされている。長く住むための場所ではなく、ただ戻ってくるための場所、という印象だった。

「どこでも好きなとこ、座ってくださいねー」

 軽い声。私はソファに腰を下ろし、彼はキッチンのほうへ向かう。皿とフォークを二つ迷いなく取り出してくる動きが、ここを何度も使っていることを静かに示していた。ガラステーブルに置かれた、ショートケーキ。二人分の皿とフォーク。向かい合うでもなく隣り合うでもなく少し斜めの位置。

「……いただきます」
「いただきまぁーす」

 声が重なる。ケーキは、ごく普通の味だった。甘さも、軽さも、ちょうどいい具合の。

「コンビニのケーキ、侮れないっすよね」
「うん。変に凝ってないのがいい」
「わかる。ヒーロー事務所の差し入れ、だいたいこれ系が最後まで残るんで」
「みんな、見栄えに騙されるから」
「俺は即取ります」

 そんな、どうでもいい話をする。仕事の話でも将来の話でもなく今日でなければならない理由もない会話。食べ終わると彼は皿を片付け、なぜか棚の下から、ジェンガの箱を取り出した。

「え……どうして、あるの?」
「さあ?」

 肩をすくめる彼が箱の中からジャラジャラと、ガラステーブルの上に、ジェンガを転がす。

「前の人が置いてった説、濃厚です」
「ここ、使い回しなんだ」
「公安の支給なんで」
「そっか。……やるの?」
「やりましょう」

 彼は床にあぐらを掻いてジェンガを積み上げていく。途中、個性の剛翼を器用に使いこなして、バランスよく縦に積み重ねていく。間も無くして「はい、できました」という声を合図に集中するでもなく、勝ち負けも曖昧なまま、適当に抜いて倒れて、笑い合う。

「早いですってー。今の、絶対いけたでしょ」
「いや、無理。羽根が邪魔してきたもん」
「俺のせいにしないでくださいよ」
「手がまだ、かじかんでるんですぅー」
「はいはい。ね、今度やるとき賭け事しましょ」
「じゃあ、それまでに訓練、積んでおくよ」

 そのままソファに戻り並んで背もたれに沈む。テレビはあるけれど、つけない。沈黙が気まずくならない距離感だ。すると彼が、ぽつりと言う。

「……なんか。友達の家、みたいっすね」
「うん……親友の家、くらい?」
「お、格上げされた」

 そう言って少し笑う。それから少しだけ空気が変わった気がした。深くなる、というより内側へ寄るような感じ。彼が、高い天井を見つめたまま呟く。

「さっきさ」
「うん?」
「居酒屋で彼氏さんの話、出たじゃないですか」
「うん」
「付き合ったきっかけは相手の家行ってそれからそーいう雰囲気?……に、なってって」
「うん……」
「……相手、俺ですよ?」

 思わず彼を見る。けれど、彼はまだ天井をぼんやりと見つめたままだ。視線は遠く焦点が合っていない。冗談めいた言い方を選んだのは、きっと逃げ道を残すためだ。

「意識なんて、今さらせんでしょ」

 軽い声。いつもの調子。けれど、その裏にある慎重さが、逆に目立つ。

「……どう、だろうね」

 私がそう返すと、彼はようやくこちらを向く。視線が合うまでに、ほんの少し時間がかかった。私は、言葉を探しながら続けた。

「今さら、って言うなら」
「……」
「意識してないのは、ホークスの方だと思う」

 彼の柔らかそうな黄色い眉が、わずかに動く。

「え」
「え? だって、意識してたら——」

 そこで私は、視線を逸らした。自分の言葉に、重さが出るのを、無意識に避けるみたいにして。

「こんなに、気楽じゃないよ。」

 沈黙が落ちる。ホークスは小さく息を吐いて、苦笑した。

「それ、褒めてます?」
「たぶんね」
「……たぶんが、多いなぁ」

 そう言いながら彼はソファに深く身を沈めた。その背中がクッションに、吸い込まれていく。

「でも」

 そう呟いた彼の声が、少しだけ、低くなる。

「この感じ、嫌じゃないです」
「……ん、私も」

 それ以上、踏み込まない。踏み込めない、ではなく、踏み込まない。十九歳の誕生日の夜——。セーフハウスのソファ。床に散らばったジェンガの残骸。恋でも約束でもない。でも確かに一緒にいることを選んでいる夜。私はその事実を言葉にしないままただ受け取る。彼もまた同じように。今はそれでよかった。それ以上を望まないという選択が、いちばん、誠実だったから。


 *


 年が明けてからの時間は驚くほど静かだった。世間の仕事始めの慌ただしさも一段落し街はまだ冬の色を残したまま、次の季節へと向かう準備をしている。
 ホークスが十九歳の誕生日を迎えても、日々はただいつもの延長線上に小さく印がついただけのように過ぎていった。そんな彼の誕生日から少し経った、平日の夜。私たちは特別な理由もなく、また二人で食事をしていた。店は、馴染みになりつつある、落ち着いた居酒屋の、カウンター席。肩が触れない距離で並び同じ方向を向いて座る。向かい合わないこの配置関係が、今の私たちにはちょうどいい。彼は、箸を動かしながら言う。

「この店、やっぱ落ち着きますねー」
「うん、だね」
「いい感じに静かで、量もちょうどいい」
「たしかに。ヒーロー向きかもね」
「ですよね。ガツガツ食っても、誰も見てない」

 そう言って笑う。以前と、同じ軽さ。けれど、どこか落ち着きも混じり始めている。食事が半分ほど進んだ頃、彼は少しだけ箸を止めた。それが考え事をするときの癖だと、もう知っている。

「……名字さんって」

 その呼び方に、胸の奥がわずかにくすぐったくなる。けれど私は何も言わず、続きを促すように視線だけを向けた。

「今まで、どんな人と付き合ってきたんですか」

 空気が、薄く張る。別に驚きはなかった。ただ来るとしたら今だろうな、という感覚が、静かに胸に落ちただけだ。

「急だね」
「はい。でも、今聞くのがいちばん、普通な気がして」

 それでも彼は、笑ってごまかしたりはしない。もちろん視線も逸らさない。私は少し考えて箸をそっと置いた。木の先端が器の縁に触れて微かな音を立てる。

「……普通の人だよ」
「それ、前も聞いた気がする」
「事実だから」

 彼は小さく息を漏らして、納得したように頷いた。その反応に、私は続きを促される。

「長く続いた人も?」
「いるよ」
「短いのも?」
「いる」
「傷ついたことも?」
「あるよ」
「忘れられないことも?」

 その問いだけは少し、間を置いてから答える。

「……ある。」

 彼はそれ以上、深掘りしない。年数も、回数も聞かない。知りたいのは履歴じゃなくて温度なのだと分かる。その理解が、かえって、胸に残る。
 彼は「ふうん……」とだけ言ってグラスに指を添えた。氷が、軽く触れ合う音がする。しばらくしてからホークスは声の調子を変えずに続けた。

「今の人は」
「……」
「どんな、人なんですか」

 私は視線を落とす。グラスの中でアルコールがわずかに揺れて光を反射する。答えを並べる前に小さく、息を整える。

「優しいよ」
「うん」
「干渉しすぎない」
「うん」
「仕事のことも、無理に聞かない」

 そこで言葉が途切れる。彼は急かさない。ただ黙って聞いている。その沈黙が続きを引き出す。

「——たぶん」
「……」
「私には、合ってる」

 その言葉は、彼に向けた説明というより、自分自身に向けた確認だった。声にして初めて輪郭を持つ答え。彼はすぐに何か言うことはせず、ただ一度だけ、ゆっくりと頷いた。

「そっか」

 それだけ。軽くも重くもない、けれどちゃんと受け取ったという響き。私は再び箸を取り、彼もそれに倣う。会話は続く。けれどさっきまでとは少し違う流れで。言葉にしてしまったことで戻れなくなったものと、逆に、安心して置いておけるもの。その両方が、テーブルの上に、並んでいるような気がした。彼はもう、踏み込まない。私もこれ以上は、足さない。

「名字さんはさァー」

 呼びかけられた声の温度で、続きを言われる前から内容がなんとなく察せてしまう。私は返事をせず、グラスを傾けたまま待った。

「恋すると、ちゃんと悩むタイプですよねー」

 それは問いではなかった。確かめるでも、探るでもない。静かに積み上げてきた観察の結果を、そっと、差し出すような言い方だった。

「そうかな」
「そうです」

 即答。迷いのないその断定に思わず苦笑が漏れる。私としては、軽く返したつもりだったけれど声は思ったより、慎重になったような気がする。もしかするとそれがバレていたのかもしれない。

「自覚ないだけで」
「失礼だなぁ」
「褒めてますよ?」

 冗談めいた調子。でも、視線は真面目だった。私は少しだけ笑って、箸を置く。器の縁に触れた音が、思ったより静かに響いた。
 彼は、私の恋愛遍歴を知りたいわけじゃない。今の彼氏を評価したいわけでもない。ただ、私が誰かを選ぶときどんなふうに立ち止まり、どんな重さで考えてきたのか。その時間を、自分の中にきちんと置いておきたいだけなのだと、分かってしまう。十九歳。未成年。まだ、名前を呼ばない距離。それでも感情の輪郭だけは確実に近づいてきている。
 会計を終えて店を出ると、夜の空気が頬に触れた。春の気配はまだ遠く、息をすると少し白い。並んで歩く歩幅は、意識しなくても自然に揃う。

「今日も、ごちそうさまでした」
「今日も、どういたしまして」

 いつも通りのやり取り。名前は、呼ばれない。それでも今夜は、少し深いところまで話してしまった気がした。踏み込んだわけではない。ただ、避けずに置いた、というだけなのに。
 彼は歩きながら何か言おうとして結局、今日もやめる。私はそれを横目で見て、何も言わない。今はこれでいい。この距離は、急がない。静かに慎重に、名前のある関係へ向かっている途中なのだから。


 *


 ずっと言わずに過ごしてきた。言わなかったというより言葉にしないことで、形を持たせずに、済ませてきたのだと思う。現在進行形の、彼氏のことだ。私が選び続けている、少なくとも表向きには��現在�≠ノついての話。
 実を言えば今の彼氏は、誰がどう見ても遊び人だった。一般的に浮気と呼ばれる類の出来事は、一度や二度では済まない。発覚しては、謝って、しばらく大人しくして、そして時間が経てばまた同じことを繰り返す。驚くほどに型通りの循環。
 私が許容していたわけではない。納得していたわけでもない。ただ別れるための決定打を自分の手で用意できなかっただけだ。嫌いになりきれなかったというより、終わらせる理由を作ることに疲れていたのかもしれない。だから惰性のように関係だけが続いた。情ではなく慣れのほうが強くなった頃には選んでいるつもりで、ただ流されているだけだということにも、気づかないふりが、上手くなっていた。そして、その夜も始まりは、いつもと同じだった。
 『今から来いよ!』と言う、相手の都合だけで投げられてくる短いメッセージ。理由も、説明もない見慣れた文面。私はスマホを見下ろしたまましばらく、動かなかった。胸のどこかが、ひどく静かだった。



名前

今日は厳しい





 そう返した。本当は、会えないほど予定が詰まっていたわけじゃない。ただ、その瞬間に、会う気持ちになれなかった。それだけのこと。
 送信して、画面を伏せる。それで、終わるはずだった。けれど、皮肉なことにそのあとで予定が空いた。思っていたよりも早くぽっかりと時間ができた。その瞬間、自分でも驚くほどあっさりと気が変わっている自分自身に気づく。
 これだから、と、私は。そう思いながらも否定しきれない。こうして、何度も同じところを行き来してしまう。強く拒むことも、きっぱりと断ち切ることもできずにその場その場の気分で関係を延命させてしまう。選んでいるようで選ばされている。決めないことで決断から逃げている。そのことを私はもうちゃんと分かっていた。分かっていながらまだ、言葉にする勇気だけが、足りなかった。



名前

やっぱり行く!





 送ってから、少し後悔する。けれど、そのまま外に出た。彼の部屋に着き合鍵でドアを開ける。この手順も、もう慣れてしまっていた。しかし、違和感は、玄関を入った瞬間にあった。空気が、知らない匂いを含んでいる。甘くて重い、他人の気配。ワンルーム。奥の部屋から声が聞こえた。玄関を開けた先で、私は、すべてを理解した。
 この位置から見切れている、ベッドだ。乱れたシーツ。彼と知らない誰かの喘ぎ声。それ以上、細部を記憶する気はなかった。頭が真っ白になる前に体が勝手に動いた。私は逃げるように部屋を飛び出し、廊下を走る。エレベーターのボタンを強く連打する指が震えている。

「——待てって!」

 背後から、聞き慣れすぎた声が、飛んでくる。まずい——と思うより先に身体が反応していた。エレベーターじゃなくて階段だ、そう判断して、踵を返し、マンションのエントランスを抜けて、外へ出る。息が喉に絡み、視界の端が滲む。それでも、走る。

「名前っ!」

 人通りが増え始めたところで、背後から大声で呼ばれ、身体が勝手に止まった。次の瞬間、腕を強く掴まれる。反射で振り払う。その勢いのまま向き合う形になる。胸が忙しく上下し心臓の音が耳の内側で鳴っている。
 しかし彼は、追いついたはずなのになぜか目を合わせない。街灯の下でその視線だけが逃げ場を探していた。

「……違うんだって、」

 言いかけて、言葉が途切れる。私は、何も言わない。言えなかった、というより言う価値を感じなかった。しばらく、車の走行音だけが間を埋める。彼は喉を鳴らし、ようやく口を開いた。

「……悪い」

 一拍。唐突で驚くほど軽い音。まるで、謝れば場が片づくと信じているみたいな言い方だった。

「別れたい——」

 一瞬、頭が追いつかない。追いかけてきたのは説明のためでも、引き留めるためでもなかったのだと、遅れて理解する。

「……は?」

 自分の声が、ずいぶん遠くで響いた気がした。

「いや、ほら……」

 彼は言葉を探すように、視線をさまよわせる。靴先で地面を擦る癖が、やけに目につく。

「こんなの、続ける意味、ない……じゃん?」

 その言い方が、決定的だった。私が耐えてきた時間も、迷い続けた夜も、まとめて、切り捨てる調子。不思議と怒りも悲しみも、涙さえもなぜか出てこない。

「……そっか」

 口から出たのはそれだけ。彼は安堵したように息を吐いて、もう一度だけ「ごめん」と言った。その謝罪は私に向けられたものではない。自分を楽にするための、処理みたいな言葉だった。私は何も返さず背を向ける。もう、追ってくる気配はない。夜の空気が冷たく、肺の奥まで入り込む。遠くで笑い声がして、車が通り過ぎ、世界の音が戻ってくる。
 ——終わった。理解は遅れてやってくる。私が決めたわけじゃない。ただ選ばれなかっただけ。それでも、あの関係が終わったことだけは、確かだった。

 私は歩き出す。行き先は決めない。ただ前へ。この夜のことをまだ誰にも話せないまま。けれど隠し続けてきた嘘が壊れたことで本当に向き合うべき場所がようやく輪郭を持ち始めた気もした。
 それが、これからの春へ続く、いちばん痛くていちばん正直な、始まりだったのかもしれない。
 前も見ずに足元だけを追いかけるように歩いていた。夜の舗道は、昼間よりもずっと不親切で、街灯の影が段差を曖昧にし人の気配だけがやけに近い。私は気付けば早足になっていた。理由は、自分でもわかっている。考えるのをやめたくて、立ち止まりたくなくて、ただ身体を前に運ばせていたのだ。が——そのとき。どん、と真正面から鈍い衝撃。

「……あ、すみません、」

 条件反射のように謝りながら顔を上げた、その先に——ホークスがいた。あまりにも、現実味のない位置に立っていて一瞬、幻覚かと思ったほどだった。

「わ〜、偶然っすねー」

 いつものように、にこやかに笑う。軽く、柔らかく場をほどくための笑顔。私は目を泳がせた。言葉が出てこない。声を出したら、今まで抑えていたものが一気に、溢れてしまいそうで。だから何も言えないまま視線を逸らして、彼の横をすり抜けようとする。

「ん?」

 小さく首を傾げる気配。しかし、目も合わせず相槌も返さぬままそのまま無言で通り過ぎようとした、次の瞬間だった。


「名前さん」


 低く、はっきりとした声。同時に、腕を掴まれる。ガシッ、と逃げ道を塞ぐ力。体が、強制的に振り向かされて、目が合う。初めて、呼ばれた。名字でも、曖昧な呼びかけでもない。私の名前。私は息を呑む。彼の目は、冗談も笑みも、一瞬で消えていた。真っ直ぐで、鋭くて、逃がさないと決めた、鷹のような瞳。感情を見極めようとする視線——。喉が鳴る音だけが、自分の耳に響く。

「逃げんで」

 低く、短い言葉。責める声ではない。命令でもない。私は俯いた。視線を落とした途端、世界が少しだけ静かになる。

「顔、上げて?」

 今度は、驚くほど優しい声だった。私は、ゆっくりと顔を上げる。涙は出ていない。ただ、目の奥が熱い。そこにいたのは、さっきまでの鋭さをしまい込んだいつものホークスだった。柔らかく口角を上げて、少しだけ首を傾げる姿。

「ご飯、食べに行きましょ」

 まるで、何もなかった夜の続きみたいに。その一言で、張り詰めていた空気が、かすかに緩む。逃げることも、説明することも、今は求められていない。ただ、立ち止まることだけを許された、初めてヒーローに、名前を呼ばれた夜。それは、すべてが変わる前の、ほんの一歩目だった。


 *


 個室の引き戸が静かに閉まると外の喧騒は嘘のように遠のいた。小さな卓と、低い照明。下は、掘り炬燵になっている。選ばれたのは向かい合う席ではなく、並んで座る配置だった。それだけで胸の内側に余計な余白が生まれる。逃げ場がないという意味ではなく視線を交わさなくても気配が届く距離だということが、否応なく意識される。
 ホークスは自然な所作で腰を下ろし私のために少しだけスペースを詰めてくれた。近い。けれど絶対に触れない。慣れたように注文を済ませて、運ばれてきた料理を彼は、迷いなく取り分ける。手際がいい。どの皿を先に回しどれを後に残すかその順番に一切の躊躇がない。

「あ、これ。お先どうぞ〜」
「……ありがと」
「あとこれ、好きですよねー?」
「……ん。」

 私の前に置かれた小皿には自然と私が好むものばかりが、集まっていく。油が重すぎないもの、香りが強すぎないもの。食べるペースを乱さない味。その後の注文も、淡々としていた。

「これと、これね。あと、そっちのは少なめで。二杯目はぁ……いつもので、いいっすよね」

 ��いつもの�≠ニいう言葉が、ここに置かれる。彼が私の好みを把握していることを、誰に見せるでもなく、当然の前提として。私は何も言わずにグラスに口をつけた。アルコールが喉を滑り体の奥へ沈んでいく。味を確かめる余裕はない。ただ温度だけがわかる。

「あ、そーそー。さっきはすみませんでした〜」
「……」
「急に腕、掴んじゃって。痛かったですよね」
「ん……へいき。」

 それからの会話も主導権はほとんど彼が握っていた。最近の任務の話からヒーロー同士の小競り合い、忙しさの愚痴、どうでもいい現場で起きた些細な出来事。冗談めいた調子ではあるけれど、ふざけきらない。重くもならない。私は相づちを打ちときどき短く返すだけ。それで十分だった。沈黙が挟まっても、居心地は悪くならない。隣に座っているからだ。視線を合わせなくても、彼の呼吸の深さや肩がわずかに上下するのがわかる。そういう位置、そういう距離。
 しばらくして、話が途切れる。箸が器に触れる音と、グラスが置かれる控えめな音だけが残り、彼が、こちらを向いた気配がした。

「ちょっと、もらっても?」

 確かめるような口調だった。けれど返事を待つ気配はない。気づいた時には私の手元のグラスに彼の手が伸びていて、そのまま口をつけていた。一口だけ。躊躇も遠慮もなく、まるで、最初から自分のものだったみたいに、自然に。

「——ちょっと、だめっ!」

 思わず反射的に声が出て、私は慌てて手を伸ばした。その瞬間、彼の手が私の腕を取る。強くはない。ただ離さないと、わかる圧。思った以上に温かいその手の温度が、妙に現実的で怖かった。顔を向けると、彼はいつもの調子で笑っている。柔らかくて人懐っこい表情。けれど、目だけは、私から絶対に逸らさない。

「やっと目、合いましたね」

 軽い声音。冗談みたいな言い方。けれど視線は外れない。私は息を止めたまま、動けずにいる。並んで座る、という選択が、ここで初めて意味を持ったのだと、遅れて気づく。
 この距離は偶然じゃない。彼は何も言わない。掴んだままの腕も、離さない。空気がゆっくりと別の温度へ傾いていくのを、私は、否定できなかった。掴まれた腕から、じわじわと熱が伝わる。力はないのに、逃げられない。拒まれているわけでも、縛られているわけでもない。ただそこに、留められている、その感覚だけが静かに、しかし確実に、胸の奥へ届いてくる。
 耐えきれなくなったのは——私のほうだった。自分でも驚くほど唐突で、理由を探すより先に、視界が滲む。

「……っ、」

 息を吸おうとして喉が引っかかる。堪えようとするほど目の奥が熱くなり、次の瞬間、ぽろりと涙が落ちた。彼の手がわずかに緩む。小さく息を呑む気配。けれど、離れない。涙は止まらない。
 最初に零れたのはほんの一滴だった。しかし、一滴が二滴になり、呼吸が乱れ、肩が小さく震え始める。音を立てないように噛み殺そうとしても感情はそんな配慮をしてくれない。
 そのとき、彼の腕が静かに私の背に回される。引き寄せるでも閉じ込めるでもない。ただ、崩れ落ちないようにと支える位置。私は抵抗できず、その胸に、顔を埋める形になる。

「……こん中、やったら——」

 低く穏やかな声が頭上から落ちてくる。背後で羽根がわずかに擦れる音。彼の剛翼がゆっくりと動く気配がして、左右から私を囲うように降りてくる。視界が、ふっと暗くなる。羽根は、一気に覆いかぶさるのではなく、確かめるように慎重に距離を詰めてきた。外の音が遠のき、個室の気配さえも、羽毛の内側へ押し出されていく。私は、完全に彼の内側に収められていた。——温かい。腕だけの抱擁とは、まるで違う。

「誰にも、聞こえん」

 その言葉が合図になった。胸に溜めていた息が一気に外へと溢れ出る。嗚咽が零れ子供みたいに声を出して泣きじゃくる。彼の手が私の後頭部に触れ、指先が髪を乱さないようにゆっくりと撫でる。何度も何度も、確かめるみたいにして。
 背中や肩、頭の上まで、柔らかな羽毛と温かい腕に包まれて逃げ場も視線も言い訳もなくなる。ただ彼の体温と、規則正しい呼吸だけが、近くにある。安定している。本当に、守られている、という感覚。外界から切り離されたその場所で私はようやく泣くことだけに集中できた。彼の剛翼は盾じゃない。檻でもない。今の私を、静かに隠すための、たったひとつの、居場所だった。

「……大丈夫です、大丈夫」

 囁くような声。「泣くな」でも「理由を言え」でもない。ただ、ここにいていい、という許可。私は彼の服を、ぎゅっと掴む。みっともないほど強く。それでも、彼は何も言わない。撫でる手を止めず、私の身体の揺れを、受け止め続ける。
 自分の泣き声が個室の中で柔らかく反響する。引き戸の向こうには届かない閉じた世界。誰にも見られず誰にも説明せず、ただ崩れていい場所を私は、初めて見つけた気がした。

「ごめん——、ごめんね……ホークス……っ、」
「もう、よかよ……。無理に、喋らんでも」

 彼の心臓の音が耳元で規則正しく鳴っている。速すぎず遅すぎず。それが今の私の呼吸の代わりになっていた。泣き疲れて嗚咽が小さくなっても彼は離れない。頭を撫でる手だけがこの夜が現実だと、静かに教えてくれている。
 胸の中は相変わらず静かだ。彼の呼吸と、私の名残の震えだけが、ゆっくり混ざり合う。撫でる手が止まらないから言葉を選ぶ必要がなくなる。

「…………きょう、ね、」

 声を出そうとした瞬間、喉が、ひっくり返る。胸の奥に溜め込んできたものが、出口を見つけてしまったみたいに、どんどん押し上がってくる。

「……彼の部屋……、行ったら、ね……?」

 一拍、言葉を置いて、呼吸を探す。短く吸って浅く吐く。整えようとするほどうまくいかない。

「……他の人、と、いた……」

 それだけで、視界がまた滲む。涙が落ち、彼の服に濡れた跡が増えていく。それでも今は、謝る言葉さえ浮かばない。

「……何回も、あった、の……前から、たぶん」
「……」
「……わかって、た……」

 声が震えて文が途切れる。彼は何も言わない。ただ、背中に回した手に、ほんの少しだけ、力がこもる。その変化が、続きを許してくれる。

「別れ、られなかった、のは……、私で……、」

 喉の奥がきゅっと鳴る。声が前へ出てこない。引っかかって、砕けて、それでも零れる。

「好きだった、っていうより……ひとりに、なるのが、怖くて……っ、」

 言葉を選ぶ余裕がなくなる。最後は、ほとんど息のようだった。言葉は意志と関係なくほどけていく。止めようとするほど、指の隙間からこぼれ落ちるみたいに。私は彼の胸に顔を埋めたまま、もう抗うのをやめて、ただ出てくるままに任せていた。

「……友達が、さ…………」

 視界は布越しに滲み、輪郭を失っている。ただ彼の体温に混じった匂いだけが、やけに鮮明だった。ライムみたいに軽やかで、落ち着いた匂い。それが、今の私には逃げ場みたいに感じられる。

「どんどん……同棲、とか……結婚、とか、していって……」
「……」
「……式の、招待状とか……写真とか……」

 言葉にするたび胸の内側が狭くなる。息が浅くなり、吸い込もうとすると、喉の奥で、ひゅっと音が鳴った。ちゃんと呼吸しているはずなのに、空気が足りない。

「……みんな、……幸せ、そうで……っ、」

 それでも、止められない。空気が押し出されるみたいに息が詰まって、苦しい。

「勝手に……なんか、焦ってた。ほんとに……」

 声にするたびに堰が切れて、涙が止まらない。零れるたび、奥に溜め込んでいた重たいものが、少しずつ剥がれ落ちていく。軽くなるはずなのに今はただ、痛い——。

「だから……、どうしようも、ないって……っ、わかってる、人でも……っ、」

 言葉が、追いつかない。考えを形にする前に、感情のほうが、先に溢れてしまう。探そうとするほど掴めなくなって声は細く途切れがちになる。

「彼氏、っていう、肩書きに……縋って、た、」

 自分で言っていて情けなくて、恥ずかしくて。それでも今は、隠す理由が見つからなくて……。

「ちゃんと、大事にされてないって、わかってたのに……っ、」
「……」
「私、ずっと……ずっと、自分のこと、後回しにしてきた……から、」

 声は、もうほとんど音にならない。彼の胸が、わずかに上下する。深く息を吸う気配が伝わってくる。それでも彼は口を挟まない。ただ、そこにいる。いてくれる。私は、最後の言葉を搾り出すみたいに続けた。喉が詰まる。

「——で、……きょう……、」
「……」
「追いかけて、きたくせに……別れたい……って言われ、て、」
「……」
「……笑っちゃう、で、しょ……う?」

 笑えてなんかいない。喉の奥で小さく、音が鳴る。それでも今は、そう言うしかなかった。私は一度、深く息を吸う。

「……選ばれなかった、って、いうより……」
「……」
「なん、か……捨てられた、みたいで……っ、」

 次の瞬間、彼の手が、私の後頭部で止まった。撫でる動きが途切れ、代わりに、抱きしめる力がさらに強くなる。それは、逃げ場を塞ぐためじゃない。私が崩れ落ちないように、位置を定め直すための力だった。

「……それ、」

 低い声が、耳元に落ちる。空気を震わせるほどでもないのに、それは、はっきりと届いた。

「違う」

 短く、揺れのない音。私は、顔を上げかけて、できずに、ただ首を横に振った。否定したいのか受け取るのが怖いのか自分でも分からないまま。彼はそれ以上、言葉を足さない。ただ抱いた腕を緩めない。その沈黙が続きを待っているのだと、身体で分かってしまう。掠れた声が、彼の胸元で潰れる。言葉になる前の音だけが行き場を失ってそこに残った。

「違わない……」
「違います」

 彼はすぐに被せるように言い直す。声量は変えず強さも足さない。ただ逃げ道を塞がない位置で繰り返す。そうして額が私の頭にそっと触れた。ぶつかるほど近づかず離れすぎもしない距離で。呼吸の温度が、ゆっくり混ざる。

「選ばれなかったんじゃない」
「……」
「あなたが自分を、選ばなかっただけです」

 叱るでも教えるでもない言い方だった。でも、感情を正すための言葉じゃない。ただ事実の置き場所を、変えるための声音。

「これ以上傷つく自分を、選ばなかっただけで」
「……っ、」
「やけん、捨てられたのは——相手のほうです」

 その言葉が、胸の奥で、ぎしりと音を立てた。壊れるほどじゃない。けれど長い間、動かさずにいた場所が、初めてきしんだ感覚。反論しようと口を開きかけたその瞬間に「でも」と彼はすぐに続けた。切り捨てないように、置き去りにしないように。

「今は、ちゃんと泣いてる」

 私の後頭部で止まっていた手がまた動き出す。一定の速さで何度も確かめるみたいに、やさしく頭を撫で続けてくれる。

「それは、後回しじゃなか」

 その言葉に、堪えきれなくなった。私はまた、声を上げて泣いた。押し殺すことも、形を整えることも、もうできなかった。ただ、彼の胸に顔を埋めて身体の奥に溜めていたものをひとつ残らず外に出す。
 名前を呼ばれたことよりも抱きしめられたことよりも剛翼に包まれたことよりも「泣いていい」と言葉にされずとも今この瞬間を肯定された事のほうが、ずっと深く刺さっていた。こんなふうにみっともなく順序も整合性もなく全部を吐き出しても、それでも離れない人がいる。その事実だけが夜の底で静かに、しかし確かに、光っている。
 私はその光にしがみつくように泣き続けながらようやく、自分を置き去りにしない場所に、辿り着いた気がしていた。

 店を出ると、夜は、すっかり深くなっていた。さっきまでの個室の空気が嘘のように、外はひんやりとしていて、頬に当たる風が、泣き腫らした目に少しだけ沁みる。私は、無意識に顔を伏せ、呼吸を整えようとした。隣に並ぶホークスは何も言わない。ただ、歩幅だけが、きちんと私に合わせられている。
 泣いたあと特有の、身体のだるさ。感情を吐き出した反動で、足元が少しふらつく。それに気づいたのか、彼はほんの一瞬、腕を伸ばしかけて、けれど触れなかった。その距離感が今はとても、ありがたかった。するとしばらく歩いてから彼がぽつりと問う。

「……寒く、ないですか」
「……大丈夫」

 声は掠れていたけれど嘘ではない。街灯の下を通るたびアスファルトに影が伸びてまた消える。人通りは少なく年が明けた後の夜らしい、どこか宙に浮いたような静けさがあった。

「……さっきのこと」

 彼がそう切り出して言葉を途中で止める。続きを急かすような沈黙ではなかったから、私は何も言わず、その先が落ちてくるのを待った。

「話してくれて、ありがとうございます」

 それだけだった。慰めでも、励ましでもなく、起きた出来事をそのまま受け取った、という声。私は喉の奥で一度、息を整えてから小さく言う。

「……ごめんね、」
「……」
「急に、あんな……」
「いいです」

 即答だった。言葉を選ぶ気配すらない、あまりにも、迷いのない返し。その潔さがかえって胸に引っかかり、私はそれ以上、続きを口にできなかった。

「急じゃ、なかったと思うんで」

 それ以上踏み込まない。否定もしない。説明もしない。並んで歩く足音だけが規則正しく続く。駅が近づくにつれて、人の気配が少しずつ増えていく。街のほうが先に、現実へ戻る準備を始めているみたいだった。私たちは改札の前で、自然と足を止めた。

「……送り、ますよ」
「……ううん。ここで、大丈夫」

 そう言うと、彼は短く視線を落とし、それから小さく頷いた。

「——じゃあ、」

 と、白い息を吐いて、それでもまだ、離れすぎない位置に立ったまま、彼は続ける。

「今日は……ちゃんと、休んでください」

 言葉を選ぶみたいにほんの少し間を置いたその言い方が、端末を持ってくるときの彼と同じで、だからこそ、胸の奥に静かに沈んでいった。

「うん」
「あの、連絡……」

 一瞬、迷いが滲む。声に、わずかなためらいが混じる。それから、確認するような問いが、投げられる。

「……入れても、いいですか」
「……うん、いいよ」

 私はそう答えた。それで、十分だった。彼は、ふ、と安心したように息を吐き、少しだけ口角を上げる。 

「じゃあ、また。」
「うん、またね。」

 改札を抜けて振り返るとホークスはまだそこに立っていた。手を振るわけでもなく、追ってくるわけでもなく、ただ、見送るための姿勢で。
 電車に乗り込みドアが閉まる。走り出す車内でようやく私は大きく息を吐いた。ヒーローの胸を借りて泣いた夜。終わった関係。名前を呼ばれたあの瞬間。全部が重なっているはずなのに、心は不思議と静かだった。そのとき、スマホが小さく震える。




ホークス

無事、乗れました?






 彼らしい短いメッセージ。私は、画面を見つめてから、ゆっくりと文字を打つ。



ホークス

無事、乗れました?


名前

うん。ありがとう





 送信してからスマホを胸に抱える。この夜は、終わった。けれど何かが始まったわけでもない。
 ただ——もう一人で抱え込まなくていい場所がこの街のどこかに確かに存在している。その事実だけを連れて私は電車に揺られながら静かに目を閉じた。


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