翌朝は、驚くほど普通に始まった。目覚ましの音もカーテン越しの光も、昨日と何ひとつ変わらない。顔を洗い髪を整えいつも通りの服を選ぶ。鏡の中の自分は少しだけ目元が腫れているけれどそれも時間が経てばきっと引いていく程度のものだった。泣いた昨夜が、夢だったみたいに。
職場も朝から静かだった。端末の起動音、紙をめくる音、キーボードを叩く、規則的なリズム。私は自分の受付カウンターに立ち、淡々と業務を進める。昨夜の事を思い出さないようにしているわけではない。ただ、この場所に持ち込まないと決めているだけだ。
「お疲れ様でーす」
その声が聞こえたときほんのわずかな違和感が走った。驚いたわけではない。ただ、反応が一瞬だけ遅れてしまった。顔を上げると、ホークスが立っている。ヒーロースーツも、立ち方も、声の調子も、いつもと変わらない。
「お疲れ様です」
「スマホ、またやっちゃいました〜ん」
困ったように、肩をすくめながら差し出される端末は、見慣れた不具合の症状だった。私は受け取り電源を入れ、指先で状態を確かめる。画面の反応は鈍いが、致命的ではなさそうだ。
「……今回は、軽傷ですね」
「助かる!」
会話はそれだけ。昨夜のことに触れる言葉も、体調を気遣う声音も、意識して、避けた気配すらない。ここは、私の仕事場で、彼はヒーローで、私は今、窓口担当。その前提がきちんと守られている。
「名字さん」
その呼び方。昨夜、確かに名前を呼ばれたのに今日はきれいに元に戻っている。それがありがたいのか、それとも少しだけ物足りないのか、自分でも判然としない。
彼は、カウンターの向こうに立ち、私の手元をあえて見ない。視線を落とさず、けれども距離を取りすぎることも詰めすぎることもしない。私はそっと彼に視線を向けた。
「また、手作りお弁当、食べたいなー」
「……ほしいとき、連絡してください」
「明日!」
「……はい。では、代替機、用意しますね」
「お願いしまーす」
軽口。事務的なノリ。端末の受け渡しが終わり彼は帰り際に、いつも通り、小さく手を挙げる。いい。それでいい。今はそれで、十分だった。
「じゃ、また」
「はい。お疲れ様です」
ドアが閉まる音が、今日はなぜか少しだけ長く耳に残った。何も変わっていない。業務も距離も呼び方も。それなのに彼が何も言わなかったことだけが、静かに胸の底へ沈んでいく。慰めない。蒸し返さない。昨夜の出来事を私のものとして、きちんと扱う。その態度は優しさというよりも、もはや、信頼に近いものだった。私はペンを取り次の書類に視線を落とす。仕事は続く。日常は、壊れない。ただひとつだけ違うのは、彼の視線が私に留まる時間がほんのわずか長くなったこと。そして、私がそれに気づいても以前のように目を逸らさなくなったこと。
泣いた夜は、確かにあった。消えない。でも、それは傷ではない。日常の折り目の中に、静かに畳まれて、しまわれている。名前を、呼ばれないまま。それでも、確実に、前とは違う場所へ進み始めているのだと、私はまだ言葉にしないまま、しっかりと理解していた。
*
また、別の日。それは、記念日でもなければ、前もって、約束された時間でもなかった。端末の受け渡しがひと段落して、業務の波が引いていくあの独特の静けさがカウンター周辺に漂い始める頃。私は書類をまとめ、ホークスはカウンターの向こうで、壁に軽く背を預けていた。
いつもならここで軽口のひとつでも落として、そのまま立ち去る。今日もそうなるはずだった。
「名字さん」
その呼び方は、変わらない。私はペンを置き、顔を上げる。
「はい?」
彼はすぐには続けなかった。言い淀んでいるというよりも、言葉の形を探している沈黙だった。余計なものを混ぜないために慎重に呼吸を整えているようにも見える。
「昨日今日と、任務が立て続けでして」
「うん」
「……ちょっと、疲れましたー」
ひとこと、それだけ。愚痴と呼ぶには短すぎて弱音と断じるには軽すぎる。けれど彼が自分から「疲れた」と口にするのを、私はほとんど聞いたことがなかったので少し驚きはした。
「珍しいですね」
私が声色を変えずに率直に言うと、彼は小さく笑う。
「ですよね。言うつもり、なかったんですけど」
口元はいつも通りなのに、目だけが、わずかに冴えていない。眠れていない人の目だと職業柄、すぐにわかってしまう。
「休めてます?」
「え……、まあ」
すこし間のある返事。歯切れが悪い。肯定とも否定ともつかない、その曖昧さが、答えだった。
「眠れてない顔ですよ」
「名字さん、ほんと、そういうとこ鋭い」
「ヒーローしか来ない職場ですから」
少し冗談めかして返しながら私はカウンターの内側で立ち上がる。さっきまで飲んでいた珈琲とは別の新しいカップを取り出す。豆の袋を開けて湯を注ぐ音が静かな空間に優しく落ちる。私は、何も言わずにカップを差し出す。彼は、一瞬だけ目を瞬かせ、それから、素直に受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
それ以上のやり取りはない。ただ「疲れた」と言葉にしたヒーローと、それを否定も大げさにも扱わない時間がほんの数秒、そこにあっただけ。それだけでこの午後はいつもより少しだけ静かに深く進んでいく気がした。彼は一口飲んでから、やや低い声で、ぽつりと言った。
「俺さ」
「うん」
呼ばれたわけでも試されたわけでもない。ただそっと置かれた言葉だった。私は、手を止めず、けれど耳だけは、きちんと彼のほうに向ける。
「まだ、十九なんすよね」
「知ってます」
即座に返すと彼は自嘲気味に、「ですよね」と口の端を緩めた。笑いは浅い。それが、軽く流すための表情だと、すぐにわかる。
「周りは、年上ばっかで」
「……」
「なのに現場だと、頼られて、任されて……」
彼は言葉を探すように視線を落とし、カップの縁を指でなぞる。
「できて当たり前でしょー、みたいな顔、されるときがあって」
私は、何も言わない。頷きもしないし、否定もしない。ただ、彼の言葉が途中で落ちないように沈黙を置く。
「嫌じゃないんですよ?全然。」
「……」
「ちゃんと、期待されてるって、わかるから」
そこで言葉が途切れた。彼は一度、息を吸ってから、また、ゆっくりと吐く。
「でも……」
続きは、すぐには来なかった。その��でも�≠フ先にあるものが、軽くないことを、彼自身がよく知っている間だった。
「時々、自分が何歳なのか、わからなくなる」
静かに落とされたその一言は思っていたよりも深く、胸の奥に届いた。十九歳。若い、と簡単に片づけるには背負っているものが多すぎる年齢。
「べつに、逃げたいとか、投げ出したいとかじゃなくて」
彼は、少しだけ急いで付け足す。
「ただ……誰にも言わずに抱えてると、ちょっとだけ、重い」
沈黙が流れる。私はそのとき初めてゆっくりと口を開いた。
「今、言えてますよ」
彼の視線が一瞬だけ、こちらに戻る。私はその目を、逸らさない。
「え?」
「言えてる。ちゃんと」
「……はは。そうですねー」
小さく息を吐くその音がさっきよりもいくらか柔らかくて、少しだけ安心した。
「名字さんだから、言えたのかも」
その言葉に、私は答えない。肯定すれば意味が変わるし、否定すれば、嘘になる。だからただ、そのまま、そこに置かせる。
「あ。俺、いま……変なこと、言いました?」
「いいえ?」
私は迷いなく即答する。それだけで、彼の肩がほんのわずかに下がった。
「大丈夫ですよ」
「……そっか、よかった」
弱音を吐いたからといって何かが劇的に変わるわけではない。彼は泣かないし、甘えもしない。ただ、言葉にしてしまった重さが確かに少しだけ軽くなった瞬間だった。
「——じゃ、」
彼は、カップをこちらに戻し、いつもの調子を取り戻そうとする。
「また、すぐに来ます」
「うん」
「ごちそうさまでした」
「はい。お疲れ様です」
名前は呼ばれない。それでも私は知っている。今日、彼がここに置いていったのは弱さではなく信頼という言葉でしか呼べない重さだと。そしてその重さは、もう一方通行ではなくなっている。
彼が背を向けたあとも、その余韻は、静かに、この場所に残っていた。
翌日も世界は何事もなかった顔で動いていた。同じ時間に起き同じ道を歩き同じフロアに入る。職場の空気はいつも通り静かで、今日も機械音と紙の擦れる音だけが、均等に時間を刻んでいる。
私は、端末のログを確認しながら昨日のことを思い出さないようにしているわけではなかった。彼が弱さを見せたこと。思い出しても触れない。それがいちばん正しい扱い方だと、身体のほうが知っていたから。
「お疲れ様で〜す」
聞き慣れた声。顔を上げるとホークスが立っている。表情はいつも通り。少し軽くて少し余裕があって、昨日の重さを、どこにも残していない。
「お疲れ様です」
今日も私は同じ調子で返事をする。彼は端末を差し出しながら今日もまたいつもの調子で言った。軽口みたいな声色を聞き流し私はカウンターの下から、見慣れた赤いエコバッグを取り出す。少しだけ布の角がよれているのも、もう気にならない。
「はい。約束だからね」
「お!」
と、短い声が弾む。彼から頼まれていた手作りお弁当。ホークスはそれを受け取ると、いつものように大事そうに胸の前に抱え込んで少年みたいな笑顔を浮かべた。その無防備な一瞬にこちらの調子が狂いそうになる。けれど次の瞬間には彼はすっと表情を引き締める。仕事用の顔。プロヒーローの目。その切り替えの速さに、私は何も言えなくなったまま、ただ彼の言葉を待った。
「今日は壊してないです。奇跡的に」
「それは良かったですね」
「でしょ。成長期なんで」
軽口。冗談。いつものやり取り。私は端末を受け取り動作確認をする。彼はカウンターの向こうで肘をついて待っている。昨日確かに「疲れた」と言った人と同じ人物だ。それが、不思議と矛盾しない。
「なんか、急に重くなっちゃって」
「このアプリを消せば、問題なさそうです」
「わー、助かります」
その一言の言い方がほんの少しだけ柔らかい。違いはそれだけ。私はコーヒーを淹れるかどうか一瞬だけ迷ってからやめた。昨日の延長にしないために。
「では、これで」
「はい」
彼は端末を受け取り帰り際に、いつものように軽く手を挙げる。
「また来まーす」
「はい、お待ちしてます」
それだけ。けれど確実に、今まで言ったことのない言葉選びだった。彼は振り返らずに出ていきドアが静かに閉まる。私はその音を聞きながら、胸の奥で小さく、息を吐いた。
何も変わらない。弱音を吐いた翌日も、それを聞いた私も、関係も、距離も。でも、それがどれほど難しくて、どれほど誠実な選択なのかを私は知っている。言わないこと。蒸し返さないこと。特別扱いをしないこと。それは、忘れたからではなくちゃんと受け取ったからこそできる態度だ。
私は今日もまた次の書類に目を落とす。しかしペンを走らせながら、ふと、思う。彼はきっと、安心していると。昨日の自分を、ここに置いてもよかったのだと。置いたまま今日に戻ってきても関係は壊れないのだと。それは、恋でも友情でもない。名前をつける必要のない、静かな信頼。
そして、私は知っている。この何も変わらない一日が、あとから振り返ったときに、いちばん、確かな転換点になることを——。
*
��二次会�≠ニいう言葉が、私たちのあいだではすっかり合言葉のようになっていた。誰かが口にするわけではない。ただ皆での会食が一段落して解散という空気が周囲に漂いはじめると、自然と視線が交わる。「このあとどうする?」と互いに明言することもなく、それでも次の行き先はもう決まっているように、さりげなく、足が向かうのだった。
その夜も、そうだった。特別な理由も、特別な約束もない。ただ、コンビニに寄っていくつかの買い物を済ませて、彼のセーフハウスへ向かう。ビニール袋の中には、いつもと変わらない品々。棒付きのアイスや、甘さ控えめの炭酸飲料、それからスナック菓子と、気の抜けたおつまみたち。まるで��何も起きない�≠アとを、織り込み済みで準備されたような、ささやかな夜の道具たち。
扉を開けると迎えてくれるのは相変わらず無機質な空間だった。人の気配というものがほとんど感じられない、きれいすぎる室内。なのに、私はそこに足を踏み入れるたび、不思議なことに気が緩む。靴を脱ぎ、買ってきた袋を低いテーブルの上に置く。——と、そのとき。
「すんません、ちょっとシャワー浴びてきていいすか?」
声がして顔を上げるとホークスが軽く頭をかきながら立っていた。申し訳なさそうというよりは少し照れたような、肩の力の抜けた調子。私が、「どうぞ?」と、答えると、彼はふっと笑って、
「今日、汗だくで」
と、言い添えた。タオルを片手に浴室のドアの向こうへと姿を消していく。閉まる扉。その直後から水の音が小さく鳴りはじめた。湯気の気配がかすかに空気の密度を変える。私はソファに腰を落とし袋の中身を取り出してはテーブルに並べていく。そう、それはいつもの手順だった。自然な流れで、手慣れた仕草で——の、はずだった。
……ところが、ふとした拍子に、視界の端に、見慣れないものが映り込んだ。黒っぽいケース。小さな棚の脇、少しだけ、隙間のあいた場所に、無造作に差し込まれているそれ。主張しないその在り方が逆に、目を引いた。
何気なく立ち上がり、手に取ってみる。触れた瞬間に背中を冷たい何かが走った。固まるような沈黙とともに、私はそれが何であるかを、瞬時に理解した。
「…………え…………。」
思わず小さく声が漏れた。自分でも気づかないほどの音量で。それは、アダルトビデオのケースだった。パッケージの派手さこそないがそれ故に余計に、視線のやり場に、困るような代物。隠すつもりなのか、うっかりなのか、判断のつかないその配置が、なぜだか妙に生々しかった。
見てしまった、という罪悪感が胸の奥を、ゆっくりと満たしていく。覗いたつもりはない。でも知ってしまった。知ってしまった以上は、忘れることはできない。と、そのときだった。浴室から聞こえていた水音がふいに途切れる。はっとして振り返る。まずい、と頭が理解するよりも早く、現実は進んでいく。浴室のドアが開く乾いた音。心臓の音を悟られまいと呼吸を整えている、そのわずかな間に、この黒いケースの持ち主が、姿を現した。
「……あ、」
「……あ……」
声が重なった。彼は、首にタオルをかけたまま上半身裸で立っていた。湿った髪が肩にかかり、水滴が鎖骨を伝って落ちている。緩いスウェットのウエストに手をかけて私の視線の先——つまり自分の私物が私の手元にあることに気づいたその瞬間、彼の表情が青ざめて、微かに引きつった。
「——ちょ、ちょっと!!」
一歩で間合いを詰めて、勢いよくそれを私から取り上げる。慌てた様子に、私はきょとんとしたまま、見上げるしかなかった。まるで、こちらが悪いことをしたみたいな空気。けれど怒る気にはなれなかった。むしろ、面白いと思った。だってこんなに慌てて気まずそうにする彼を見るのは、たぶん、初めてだったから。
「やめてっ! もうっ、返して!」
甲高く跳ねた彼の声が、部屋に響いた。身体が咄嗟に反応したのだろう。��速すぎる男�≠ニ半ば愛称のように囁かれる彼の手は、あっさりとそのケースを掴んでいた。私が手を伸ばすよりも早く彼の視線がこちらを向く。ほんの一瞬だけ眉間に皺が寄ってその顔に戸惑いが浮かんだ。何か言い訳を探しているのだろうと、言葉を発する前から分かってしまったのは、きっと私が、彼のことを少しだけ、知ってしまったせいだ。
「あ……いや、そ、それ……」
私も、言葉を探して口を開こうとしたが、その間に、彼の動きのほうが先を行く。両手でそれを抱え込み小さく肩をすくめたかと思うと次の瞬間には手にしたケースを、そのまま背中へ回した。まるで子どもが見られたくない秘密を咄嗟に隠すみたいな仕草で、彼は明らかに狼狽していた。
湯上がりとは別の意味で、頬がわずかに、赤くなっている。その赤みは、まっすぐ見つめていた私の視線を思わずそらさせるほどで、視線の置き場所が突然この部屋からなくなったような感覚が走った。
「……見——ま、した……?」
「見えちゃった、だけです……」
私がすぐさまそう答えると彼は苦笑するように肩を落とした。
「それ、不可抗力じゃないですかぁ……」
「……すみません」
謝る理由がどちらにあるのかわからないまま、気まずい沈黙だけが、室内に落ちる。あまりにも微妙な間合いの中に互いの呼吸だけがすれ違う。彼は一度、深く息を吐いた。それから、どこか、やけくそのような口調で言う。
「いや、その……あれです」
「その……あれ?」
私は促す。ついでに視線もすこしだけ逸らしておいた。まっすぐ見つめてしまえば、彼が余計に気まずくなると、なぜか分かってしまったから。
「処分、し忘れてて……」
「へぇ……そう。」
軽く返したつもりだったが、思ったより語尾が冷たかったかもしれない。私はそれ以上踏み込まないまま、小さく数回、瞬きをした。
「あ、あの……」
「……はい?」
「変なもん見せて、ほんと……すんません、」
「大丈夫です」
「えー、敬語……」
彼が少しだけ寂しげに笑って言う。私は言葉を返さない。そのかわり彼がそのケースをそそくさと、まったく使用感のない引き出しへしまうのを黙って見ていた。閉じられたその音が、小さく、部屋に残った。そのあと、彼はタオルで髪を拭きはじめた。乱暴に、バサバサと、まるで照れ隠しみたいな手つきで。
「……忘れてください」
「努力します」
「……っ、」
その短いやり取りに、ようやく少しだけ空気が緩む。言葉の温度がすこし下がったことで、ようやくソファに、腰を落とせる。彼もまた、距離を取って、いつもと同じ位置に座った。でも、さっきまでと同じ空間が、どこか違って見えるのが、不思議だった。別に何かが起きたわけじゃない。触れたわけでもない。ただ、知らなかったことを知ってしまった、それだけのこと。けれど、その『それだけ』が妙に大きな存在感で部屋の片隅に静かに横たわっていた気がした。
「——アイス、食べる?」
「ぃえ……だいじょうぶ、です、」
「……そ?」
私は立ち上がってキッチンに向かい、冷凍庫を開けて、棒付きアイスの袋を取り出す。ぱりっとした包装を破りながら私は思った。もう私たちはただの��友だち�≠ニいう場所には、いないのかもしれないと。そう思ってもそれを口にすることも確認することもない。ただ、それでも、こうして同じ空間にいるという事実だけがどこか危うくて同時にいちばん大切な何かを物語っているような気がした。
テレビの音だけが部屋の空気を誤魔化すように流れている。まるで、私たちのあいだに置かれた境界線のようにずっと平熱で変わらない音量で。私は、そのノイズを破るように、棒付きアイスを口に運びながら、気の抜けた声でつぶやいた。
「ねえ?」
「はい?」
彼はすぐにこちらに顔を向けた。とくに警戒も期待もない、いつもの、穏やかな調子だった。
「さっきのさ、見たいんだけど」
私のそのひと言が落ちた瞬間、部屋の空気が、ぴたりと静止する。まるで、凍りかけた水面に、うっかり足を乗せてしまったみたいに。
「は?」
ホークスの声が裏返った。彼の声域で、そんな響きになるのは珍しい。私は答えず手にしていた棒付きのアイスを口元へ運び、少しだけ大げさに舌先でなぞる。味を確かめるというより、相手の反応を待つような、あからさまな間。すると彼は一瞬、言葉を失ったように眉をひそめて、視線を泳がせてから、ため息混じりに言った。
「……なに、してんすか」
「え? こういうの、好きかなーって」
軽く冗談で言ったつもりだったのに返ってきたのは、勢いのある否定だった。
「好きやなかですよっ!」
思わず吹き出しそうになる。ちゃんと拾ってちゃんと返してくれるところがいかにも彼らしい。けれどその直後に耳まで赤くなっているのを見て私は内心で少しだけ反省した。さすがにやりすぎたかもしれない。そう思いながらもアイスを噛み砕く音だけは、なぜかやけに大きく部屋に残っていた。
「……いや、ごめん。冗談。」
私はすぐに言葉を継ぎ足す。けれど表情は崩さず視線だけは、逸らさないようにした。冗談めいて投げたつもりの言葉だったけれど自分でもどこまで本気だったのか、測りかねていたのかもしれない。
「どんなのが好みなのかなーって、純粋な興味」
「純粋な興味で言う台詞じゃない!」
即座に跳ね返ってきたその言葉に私は心の中で小さく笑う。彼は、慌てたようにソファから立ち上がりついさっき自分で秘密を隠した引き出しの前に立ちはだかる。まるで誰かに秘密基地の入り口を見られた小学生のように。
「だめですっ。絶対だめ」
背中をぴんと張り、両手を広げて、守るような姿勢に入るヒーロー。それは防御というよりも、羞恥の壁だろう。
「そんな、全力で守るほどのものなんだぁ」
「違います!守ってるのは俺の尊厳です!」
そう叫ぶ彼は耳まで赤く染まっていてその熱がこちらにも伝染しそうになる。私は、笑いを堪えきれず、口の端を指で押さえる。
「へぇ?」
わざと間を置いてから、声音に色をつける。
「じゃあ、相当……」
「あー!あー!あ〜!それ以上、言わんでっ!」
彼は顔を片手で覆い、もう片方の手でこちらを制するように伸ばした。その姿があまりに必死で私の肩が、ふるふると揺れた。
「……名字さん、悪ノリするとこ間違ってる」
「ごめんごめん」
笑いながらそう言う私に彼は半ば本気で困ったような顔をする。でもそれもなんだか可笑しくて可愛らしくて、笑いが完全には引っ込まない。
「でも、なんか……安心した」
「……何がですか」
彼は、まだ顔を覆ったまま声だけで返す。私は食べ終えたアイスの棒をテーブルに置いてソファの背に体重を預けた。
「ちゃんと、慌てるんだなーって」
そう告げると、彼の手がゆっくりと顔から下ろされる。何かを考えているような静かな目をして少しの間、黙っていた。そして、その目の奥が、ほんの少しだけ、陰ったように見えた。照れでも怒りでもなくてその奥底に何か別のものが宿っているような、すぐには名前のつけられない、それでも、確かに熱を持った何かが——。
「……当たり前じゃないですか」
「……」
「俺、別に、余裕あるわけじゃないんで……」
言葉の輪郭はやや不恰好で、けれどその不器用さゆえに、芯が透けて見えた。まるで照れ隠しのふりをした本音——いや、きっとそれは照れではなく、あくまで、防波堤だった。ほんの少しでも触れられれば堰を切るように溢れてしまいそうな何かを、寸前でせき止めるための。
私はそれ以上、追いつめなかった。ただひとつ軽く肩をすくめて応じる。
「……はいはい。」
「……、」
「じゃあ、その尊厳は、そっとしときます」
私のその言葉にひと呼吸おいてから彼が、深く長く、息を吐いた。その吐息はまるで、胸の奥の空洞をひとつ少しだけ軽くしたようにも見えた。
「お願いします……いや、マジで」
口調は笑っていたが、まつげの陰に隠れた瞳の表情までは読み取れない。彼はゆっくりとソファへ戻り、私との間に、きちんと空気の層を挟んだまま静かに腰を下ろす。物理的な距離ではなく、感情と理性の境界線のようなその間合いは、何も言わずとも、互いに保たれていた。テレビの音がさっきより少しだけ大きく感じられるのは部屋の中の沈黙を埋めるためか、それとも、ただの気のせいか。画面の光が、彼の横顔の輪郭に柔らかく影を落としていた。
何も見ていない。何も起きていない。けれど、冗談として放ったひと言が、彼の内側に引かれた境界線を、ちらりと照らした。その線を、笑ってごまかせたこと。何げなく話題を切り替えられたこと。それが今の私たちにとって、何よりの救いだった。越えない。でも、もう無関係でもない。その狭間で私たちは今日も確かに同じ場所に腰を下ろしている。肩が触れるほど近くはないが背中合わせで、背中の熱を感じられるほどには、同じ時間に、居合わせていた。
「——でもさ」
テレビの光が頬を照らすなか、不意に私が口を開くと、彼は即座に嫌な予感を察した顔になる。目元が、わずかに引きつり、まるで「その続きを聞きたくない」と額に書いてあるような顔で私をそっと見る。
「……何ですか、その間」
「ん? なんでしょうね」
「……また、なんか言おうとしてます?」
「さあ、何を言おうとしてたんだろうね」
私は、リモコンを手に取ってチャンネルを変えながら、とぼけて返す。今にも崩れてしまいそうな冗談と本音の境界線をすれすれで歩く夜。重ならないまま並んでいるだけのはずなのに気づけば体温は交じり合うようになっていた。それは恋と呼ぶにはまだ心もとない、けれど、友情とは呼びきれないなにか。名前のない関係が、たしかに、この部屋に根を張りつつあるのを、私は、感じていた。
「ジェンガは?」
私のそのひと言に彼が瞬時に反応する。けれど声に出すまでのあいだに、わずかな間があった。まるでやり過ごせるかもしれないとほんの一瞬、期待したような顔。
「ジェンガ?」
「あるでしょ。ほら、そこ」
私はテレビ台の下、そこに仕舞われているはずのそれを指さす。彼はその方向を一瞥して、それから、わかりやすく目を逸らした。肩が、微かに落ちて、まるで観念したみたいにため息を吐く。それは小さな敗北のような音だった。
「……ありますけど?」
投げやりにも聞こえる返事。その声音に、私はことさらに、明るい調子で応じる。
「ホークスが負けたらさぁ?」
とびきり柔らかく、笑みを添えて。けれどその笑みは、ほんの少しだけ、悪戯じみていたのかもしれない。彼はあからさまに「ゲッ」という顔をして、それでも、真面目に言葉をなぞる。
「負けたら……?」
「さっきの、見ようよ。一緒に」
さっきの、とは。もちろん��あれ�≠フことだ。彼が慌てて引き出しに押し込んだ、触れてはいけない秘密の絶対領域。
「条件、重っ……!」
彼の拒否はいつも少しだけ甘い。強く反対するくせに何故か全否定しきらない。そんな曖昧さを私はこの頃、すこしずつ覚えてきている。
「やだ?」
「やだに決まってるでしょっ!」
返ってくる声は大きいのに、拒絶のトーンは、どこか、緩い。揺れている、と言ってもいい。
「じゃ、勝てばいいだけだよ」
その一言で彼の中のスイッチが、ぴたりと切り替わるのがわかった。いつもの冗談交じりの態度から、わずかに真顔になる。
「……言いましたからね。」
低く静かな確認だった。ヒーローという職業が育ててきたであろう競争心が、こんな場面でも、反射的に立ち上がってしまうらしい。彼はすっと立ち上がり、迷うことなくテレビ台の下からジェンガの箱を取り出す。その動作が、妙に滑らかで何かひとつの儀式のようにも見えた。互いに床に座り膝を曲げながらテーブルの前に向かい合う。ジェンガのブロックを積み上げる彼の手つきは、想像以上に慎重で一つひとつを置くたびに空気の密度が、少しずつ変わっていく。ジェンガの塔がきれいに完成すると彼は真面目な顔で私を見た。
「ルール確認します」
その言い方が、あまりにも真剣で、思わず噴き出しそうになる。
「どうぞ?」
「机揺らしたら負けで」
「当然」
「指は片手」
「はいはい」
「……笑ったら負け、とか言いませんよね」
「はは、言わない言わない」
私は、手のひらで口元を押さえながら答える。そう言っている時点でもう十分笑いかけていたと思うけれど。
私たちはテーブルを挟んだまま、静かに姿勢を正す。部屋の中の重力が少しだけ、変わった気がした。緊張というほどのものではないが、確かななにかが塔のてっぺんにそっと乗せられたようなそんな気配。
「先攻、どうします?」
「若いほう」
「不利じゃないすかー」
「じゃあ、体感年齢で」
「……俺で」
言いながら彼は苦笑して肩を回し、手のひらを一度強く握ってから、小さく開く。そして、まっすぐに塔へと、指を伸ばした。ひとつ目。指先で探るようにしてぐっと押すと、乾いた音が部屋にひとつだけ響く。
——カタ。その静かな音が、今夜という時間をほんの少しだけ、先に進めた。
「……これ、いけます」
そう言って、彼は下唇をそっと噛む。声に出すよりも少し早く、表情がそれを先取りしていた。真剣な眼差しが塔に注がれて、指先が滑るように動く。そしてそのブロックはわずかな抵抗ののち無事に塔から引き抜かれた。ホークスは、ほっとしたように小さく息を吐き、得意げに私を見る。
「はい、どーぞ?」
得意満面というには照れが混じっていてそれが彼らしい。さて私の番だ。無言で指先を伸ばし、さして迷いもせず三段目の端に触れる。少し硬いけれど、押してみると、わずかにたわんだ。
「あ。そこ、危ないですよ」
彼が身を乗り出して言う。けれど、私は笑って応じた。
「まあ、見てなって」
指先にかかる、微かな力。わずかにブロックが滑る。引き抜くと、それはあっけないほど素直に私の手に収まった。乾いた小さな音がテーブルに落ち、ジェンガの塔は、また一段と背を伸ばす。
「ほら」
「うわ、強い」
彼の口から、素直な感嘆が漏れたかと思えば、次の瞬間には小さな舌打ちが続く。塔は静かに、しかし確実に、歪み始めている。
「……名字さん、心理戦仕掛けてきてません?」
その声に、私は肩をすくめるように首を傾け、わざと、無邪気なふりで返す。
「気のせい気のせい」
「さっきから……静かすぎる」
「集中してるだけだよ」
彼は、不満そうに唇を尖らせながらも、黙って塔に向き直る。中段のブロックに指をかけ慎重に力を加え始める。私はその手元を見つめるふりをしながら、彼の指先に目を留めた。想像よりも、逞しくて繊細だ。訓練されている手。飛ぶために掴むために、護るために、使われてきた手。そういえば、こんなふうにじっくり見たこと、あったかな。
そんな他愛もないことを考えていたら彼の手がピクリと止まった。音もなく動かないブロックの前で彼の眉がわずかに寄る。その目元に、珍しく迷いの色が差していた。
「……いけそ?」
「声、かけないでください」
「ふふっ」
私はそのまま無言で彼の手元へ視線を落とす。そのブロックはどうやら根が深いらしい。微動だにしない。力を入れれば塔全体が揺れるだろう。
静寂が流れる。テレビの音はいつの間にか耳に入らなくなっていた。二人して息を潜めひとつの木片の命運に集中する。けれど、それはゲームのためだけではない。この、沈黙の向こう側にあるものが、少しだけ、怖かった。
彼が選んだその一手が、崩れればいいと思っているわけじゃない。けれどもしこの塔が倒れたらそのとき、彼の��尊厳�≠ヘ、どうするのだろう。そんな、いじわるな考えが、喉の奥でくすぶっていた。
「……っ、」
ホークスがほんのわずかに力を込める。すると塔の中心で木の軋む音がした。ミシ——とまるで遠慮がちに鳴ったその音は静かな室内ではやけに大きく響いて一瞬、私の喉の奥をこそばゆく通り抜けていった。そこで、ヒーローの手が止まる。
「あ! ちょ、ちょっと待って」
「待たないでしょ」
私が間髪入れずに返すと、彼は半ば本気、半ばおどけたような調子で言い返してきた。
「今、呼吸整えてます」
「たかがジェンガに?」
「命かかってるんで」
そう言って、彼は浅く座り直し、背筋をぴんと伸ばす。わざとらしく見上げた天井へ向けて深く息を吐き出す仕草は少しだけ滑稽で、でもどこか一生懸命で、嫌いじゃなかった。そして再び同じ場所へと指を添える。やや緊張した面持ちのままブロックを押すとぬるりと木片がずれる。けれどその瞬間、塔全体がわずかに、けれどはっきりと傾いた。
「——あ、」
彼が低く漏らしたその声と同時に、私は思わず口元を吊り上げてしまっていた。明らかに敗色が濃い。慌てて彼が叫ぶ。
「待って、ストップっ!」
「あ、触ったら負けだよ」
小さく私が囁くと彼は一瞬だけ固まり、そして諦めたように伸ばした手をそっと引いた。瞬間、がしゃーん。積み重なっていた木片たちがもろく儚く、そしてやけに音高く崩れ落ちた。塔があっけなく瓦解するその様子を私たちはしばらく何も言わずに見つめていた。そしてその静寂を破ったのは、私の声だった。
「……負け」
「……負け、ですね」
ふたりの言葉が、少し間を置いて重なる。彼は天を仰いで、肩ごと脱力するように、盛大なため息を吐いた。
「まじか……」
悔しさと諦念と、ほんの少しの笑いが混ざったような声音だった。私はそんなヒーローの姿を、膝を抱えながら見つめ、唇の端を緩ませる。
「じゃ!」
「ちょっと、待って——」
「約束」
「約束、重かってぇ……」
ホークスは、両手で顔を覆って項垂れたまま、またひとつ重たそうな息を落とす。さっきよりもさらに深く。
「……見る、だけですよ?」
「うん、見るだけ」
「コメント禁止」
「努力する」
「笑ったら追い出しますからね」
「えー、厳しいなぁ」
私が笑うと、彼は、小さく舌打ちしてから立ち上がり無言であの引き出しに向かう。その背中がほんの少し丸まって見えたのは、きっと気のせいではない。彼は引き出しを開けながら聞こえるか聞こえないかの声で文句をこぼしている。けれどそれもどこか可愛げがあって、あからさまな拒絶とは違う温度があった。
ようやく、ケースを手に取った彼が、こちらを見ずに、ぽつりと呟く。
「……名字さん」
小さく呼ばれた名前に振り向くと、ホークスはまごついたように微かに、口元を歪めていた。
「なぁに」
私が応じると、彼はほんの少しだけ目を伏せて肩をすくめるように言う。
「ほんと、人が悪いっすよ」
「勝負事だからねぇ」
くすっと笑って、私も軽く肩をすくめて返す。引き出しが、微かな音を立てて閉じられる。その音がなぜだか、部屋の中に一つの句読点を打ったような気がした。私は思う。勝ったのはあくまでゲームだけ。けれど私たちは今夜越えないことを互いにちゃんと知っている。だから、崩れたジェンガのように笑って終われる地点で、きちんと、止まっているのだ。そう思いながら彼がテレビの下のデッキにメディアを差し込む姿を横目に私は何の気なしに立ち上がった。スイッチを探して、部屋の電気を落とす。明るすぎると、なぜか落ち着かなくて、ただそれだけの理由。理屈ではない感覚だけが背中を押した。——が、そのとき。
「あ、ちょっ……!」
突然、彼の声が裏返った。焦ったように、振り返るその表情が、テレビの光で微かに照らし出される。私は思わずリモコンの音量ボタンを連打しテレビの声を絞った。音が消える。残ったのは、互いの呼吸と照明の消えた室内にかすかに浮かぶ光だけ。
二人でソファに戻る。何も言わず自然とほんの少しだけ距離を取って座った。横目に見るとホークスは三角座りになり、目を画面と私の間で右往左往させている。その目の丸さが妙に情けなくてけれど少しだけ、愛おしい。完全に思考が迷子になっている。私はこらえきれず、くすっと笑ってしまった。追い出されるかもしれない。
「——ちょ。なんすか、も〜……」
彼は顔を両手で覆い、そのまま、ソファの背にもたれて、ずるずると身体を沈ませる。
「……てか、いきなり暗くするんで」
「ん?」
「心の準備とか、そういうの……」
「心の、準備?」
つい意地悪く問い返すと、ホークスは、慌てて首を振った。
「違う、そういう意味じゃなくて!」
やや矢継ぎ早に言い直すその様子が、ますます可笑しい。
「大丈夫だよ、音消してるし」
私がそう言えば、彼はさらに眉をひそめる。
「や、そういう問題じゃ……」
彼の言葉はそこで、宙に消えた。ソファに身を沈めたまま、ゆっくりと深く息を吐く。そして、仰ぐように天井を見つめた。その仕草につられるように私の視線も天井へ向かう。けれど、すぐに逸らした。気づいてしまったのだ。彼が、まだ、上半身裸のままだということに——。
別に特別な意味を持つものではない。職業柄、その身体つきはテレビやネットや報道で、いくらでも見ている。見慣れていると言っても過言ではなかった。なのに、この密室、この沈黙、この、微妙に張り詰めた空気の中では、どうしても意識してしまう。余計な意味を与えるつもりなどまったくないのに。
「……」
「……」
視線のやり場が、わからなくなる。こんなはずじゃなかった、と思いながら私は小さく咳払いをして、あえて全然関係のない方向に顔を向けた。テレビの中では、誰かが不自然に背中を反らせて妙な声を上げている模様。声は聞こえないから、はっきりとはわからないけど。私は半ば無理やり言葉を絞り出した。
「……これが、ヒーローホークスの、趣味?」
彼は肩をすくめる気配を見せたもののこちらを見ずに答える。
「……参考資料です」
「ふぅん、教育的だねぇ」
「や、もう。その言い方……」
呆れるように笑って、彼は、両手でまた、顔を覆った。頬がまたじんわりと熱を帯びているのがわかる。私はというと、笑いながらも視界の端に彼の肌のラインがちらついて妙な火照りを感じていた。
「名字さん……ほんと悪ノリするとき、容赦ないっすよね」
「勝負に勝ったからね」
「ジェンガの話、まだ引きずってるし……」
いや——ほんと、間が悪い。なぜこんな提案をしてしまったのかと、今さらになって後悔する。
彼のそのぼやきに乗じて笑いたくなりながら、私は、言葉にできない安堵を覚えていた。責めるでも逸らすでもなく彼がただ天井を見つめ続けてくれているという事実。それだけで救われる夜もあるのだと思った。
距離はある。けれど、この部屋の静けさと柔らかな暗さがその隙間を包むように埋めてくれる。触れない。でも、遠すぎない。
「て、いうかさ……」
沈黙に耐えかねて放った私の言葉に、彼はゆるやかに視線を寄越す。それは、警戒心がうっすらと滲んだ目つきだった。
「……まだ、何か?」
「さっきの顔」
「はい」
「今年いちばん、面白かった」
「ひどい!」
抗議の声は張られていたのに、どこか少しだけ緩んでいた。声の芯に笑いの気配が滲んでいる。
「……でも」
彼はそのまま目線を逸らし、ぽつりと呟いた。
「笑ってくれるなら、まあ……いいです」
意外なその言葉に、私は小さくまばたきする。けれど驚いた素振りは見せず平静を装って返す。
「……なに、それ」
「だって、気まずくなるより、全然マシじゃないですか」
さらりと言うその声音はどこか柔らかい自嘲を含んでいた。彼は、いつもそうだ。ふざけているようで、核心だけはふとした瞬間に置いていく。その軽やかさの中に繊細な呼吸があることを私はもう知っている。
暗い部屋。消された音。事故みたいに始まった今日のやりとり。どれも普通なら、居心地を悪くするはずなのになぜか空気は壊れていなかった。むしろ、笑ってしまえば何もかも帳消しにできるような、奇妙なあたたかさがあった。私たちは、ちゃんと、そこに留まっている。私はリモコンを手に取りテレビの画面を無音のまま消す。映像が消え代わりに部屋の静けさが輪郭を持ち始めた。薄闇に包まれた空間が、ようやく本来の形を取り戻す。私は立ち上がって照明を点ける。柔らかな光が広がりさっきまで曖昧だった影がはっきりと輪郭を結ぶ。
「……もう、寝よっか」
意図せず、あまりにも自然な声が喉を通った。
「賛成です」
今度は、彼がすぐに返す。即答というより、それ以上、何も挟む必要がなかったという感じで。
今夜はこれでいい。越えない。踏み込まない。それでも笑い合えるまでは来た。遠慮でもなく、諦めでもない。言葉にすればきっと壊れる何かを黙ったまま、そっと差し出し合っているような、そんな夜だった。
*
シャワーのあとの熱が背中に薄く残ったまま、私は、リビングへと戻る。その一歩目で、空気の匂いが少しだけ、変わっていることに気づいた。湿気を帯びた浴室の気配とはまるで別の、整えられた静けさがあった。目に入ったのは、きちんと角の揃えられたベッド。枕は二つ並んで置かれ、掛け布団の端までもが、ぴんと伸ばされている。まるで誰にも触れられていない儀式のように。
その清潔な空間は、さっきまでの笑い混じりの空気やジェンガの塔が崩れた余韻といった全ての余白を切り落とすように、整然とそこにあった。私は言葉を失い少しだけ立ち止まる。視線をずらすと彼はソファに寝転がっていた。黒いロンTに着替えて、クッションを軽く抱え込むようにしてスマホを片手に、何かを眺めている。もう、寝る準備はできているらしい。
「……仕事、早いね」
そのひとことに彼は画面から目を離すことなく抑揚の薄い声を返す。
「んー、習慣なんで」
タオルで髪を拭く私に背を向けたまま彼の声音はどこか、淡々としている。けれど、投げやりなわけじゃない。ただ整えておくべきものを整えただけ。そんな、プロフェッショナルに近い所作。
「レディーファーストです」
「さすが」
「ちゃんと、寝られるようにしとかないとって」
「……自分は、今日もソファで?」
何気なくそう尋ねると、彼はようやく首だけでこちらを振り返って、目だけで笑った。
「はい。ここ、慣れてるんで」
冗談でもなく、恩着せがましくもなく。それはただの『選択』としての返答だった。私は、再び視線を寝室の奥、ベッドに戻す。整えられたその場所はもはや彼の気配すら感じさせないほど完璧に��私のためだけの空間�≠ノなっていた。
「ホークス」
「はーい?」
「ありがとう」
「どういたしましてー」
そのやりとりは、ほんの一秒で終わる。でも、それ以上の言葉は、必要なかった。私たちの間にあるものは丁寧な礼のようなものなのだと思う。たった一言のなかに全てがきちんと詰め込まれていた。
私は寝室に入り、そっとベッドに腰を下ろす。シーツはさらりと新しい洗剤の香りを含んでいてまるで今夜のこの選択が間違っていないのだと、静かに肯定するためにそこにあるみたいだった。私がベッドに身を預けたのを確かめたのだろう、彼が軽く羽根を散らす。すると、天井灯がふっと落とされて間接照明だけが部屋に残った。柔らかく揺れる橙の光が輪郭を曖昧にしながら、二人の距離をなぞっていく。
ベッドとソファ。ほんの少ししか離れていないはずなのに、そのあいだには目に見えないものが幾重にも重なっている気がした。なんとなく開けっぱなしにしていた扉の向こう、この位置から、ソファの背が見える。彼はスマホの画面を眺めながら、ぽつりと呼吸に紛れるような声で言った。
「……ゆっくり、休んでくださいね」
「うん……」
ただそれだけ。でも、それで十分。今夜はそれ以上を、求めない。確かめ合うでもなく、約束を交わすでもなく、それでも互いにこの夜を、同じ空間で過ごすことだけは、ちゃんと、選び取っていたから。
私は天井を見上げる。そこにはなにも映らないけれど、ふと目を閉じた瞬間、今日の笑い声が、耳の奥にゆっくりと、残響するのを感じた。
「ねぇ……ホークス」
「……はい?」
「明日、起きたら……さ?」
「はい」
「朝ごはん、一緒に食べようね」
「……もちろん。食べますよ、全力で」
ベッドの中から声を投げると、彼はほんの少し身体を起こして、まるで、それが正式な誓いでもあるかのように、真面目な声で返してきた。私は小さく笑いながら、ふたたび目を閉じた。
この夜は越えなかったからこそ記憶に残る夜になる。安易な答えを交わすのではなく、そっと、重なる空気のなかで、お互いの存在だけを確かめ合えた、静かで、優しい夜のお話。