今ではすっかり恒例になりつつある二次会からそのままのかたちで流れ込むような泊まりの夜。けれどそれがいつから当たり前になってしまったのか正確な境目はもう思い出せない。
 あの頃——まだこの関係に名前をつける前の、はじまりの話をしてみようと思う。

 初めてホークスのセーフハウス——もとい彼のパーソナルスペースに泊まった日。あの夜の空は酔った私を咎めることも急かすこともなく、ただ深く、黙したまま広がっていた。
 その日も、いつもの顔ぶれで行われた懇親会。駅前の居酒屋で解散したのは、終電を目前にしたタイミングだった。
 千鳥足で家路に向かう同僚たちを横目に、私はなぜだかそのまま帰る気にはなれなくてつい彼の横に並ぶようにして歩いていた。ホークスは特に何も言わなかった。ただ当たり前のように、私と同じ方向へ歩き出しただけ。

「てかさー、あたし、今日めっちゃ飲んだよね!ね、ホークス〜?」

 足元がややふらつきつつ、私は笑って彼の腕をつついた。彼は目を細めて、私の顔を一瞥する。

「……自覚あんなら、セーフですかね」
「自覚あるもーん! 酔ってないし〜」

 そう言いながら酔っていない人間の歩き方ではない足取りで、私はコンビニの明かりに向かって突っ走った。アイスが食べたいだの、ジュースを買うだの、やたらとテンション高く、言いわけを並べながら。
 結局、何かしらたくさん買い込んだまま、彼の部屋に転がり込むことになったのは、もう自然な流れだった。すでに、何度か来たことのある部屋だったわけで、こうして夜に来るのも初めてではなかった。
 ジャケットを脱いで、スカートの裾を整える。少し酔いがまわって、頭がぼんやりする。だけど胸のあたりだけは妙にくすぐったくて私はそれを誤魔化すように笑った。

「ホークスの家ってさ〜、落ち着くよねぇ〜」
「カラーボックスとマットだけで成立してる部屋ですけどね」
「でも、なんか、安心するじゃーん?」

 私がそう言うと彼は床に座って水を飲みながら「んーまあ。っすね」とだけ返す。酔いのまわった頭でもそれがなんだかやけに優しい言い方に聞こえた。
 ソファに座ってアイスの袋をがさがさと漁っていた手がふと止まる。まぶたの裏に、ぼんやりと浮かんできたのは、たぶん帰り道で見かけたカップルか何か。二人で笑いながら同じ方角に消えていった。たぶん、それだけの光景だった。でも、なぜだろう。突然、喉の奥がつまった気がした。

「……どうしたんですか?」

 彼が心配そうに伺うのがわかった。でも私は、何も返せない。返せるほどうまく言葉がまとまっていなかったのかもしれない。そして、絞り出すように、私は言う。

「ねえ……」
「はい?」
「なんかさ、全部うまくいかないなって思うときって、あるよね」
「まあ……あるにはありますけど」
「そういうとき、どうしてる……?」
「俺? うーん……寝ます」
「ふふ。そっか……」

 短いやりとりだった。だけど、なぜか涙が止まらなくなってしまった。理由なんて、なかった。酔っているから。陽気に笑っていたのに今はただ泣きたい。それだけのことで顔を手で覆ったまま私は声を殺して泣いた。

「……やば。泣くのおっそ。」

 隣で彼がぼそっと呟くのが聞こえた。彼の言葉はいつもふざけてるようでいて、でも、ちゃんと聞いてくれている。だから私はよけいに、泣けてきてしまったのだ。

「ホークス……あたしさ、」
「はい」
「ほんとは、もっとちゃんとしたかっただけなのにさ……」
「うん」
「ぜんぜん、ちゃんとできないよ……」
「うん……それ、いま俺に言うんすね」

 笑ってる。絶対に笑ってる。顔は見えなかったけれど、でも彼はちゃんと、背中を撫でてくれていた。羽根じゃない、ちゃんと手で、そっと。

「タオル取ってきますよ。鼻水垂れ流してもいいなら、このままでもいいけど」
「……バカ」

 私は泣きながらそう言って、そしてまた笑っていた。
 ほんの一瞬だけ目を閉じたつもりだったのに、次に気づいたときにはさっきまで確かにソファにいたはずの私は、いつのまにかベッドの上に寝かされていた。きっと彼が運んでくれたのだろう。頭の奥がじんじんと鈍く疼いて、視界もわずかに歪んでいる。それでも、ベッドの縁に腰を下ろす彼の横顔だけは不思議なくらい静かにはっきりと見えた。

「ホークス」
「はい」
「今日は、ごめんね」
「今日は?」
「ごめん……今日、も。」
「冗談ですって。てか、何で謝るんすか。泣くの別に、禁止じゃないでしょ」
「でも……」
「泣けるときに泣く人のほうが俺は好きっすよ」

 それは、今まで聞いたどんな優しい言葉よりもたぶんずっと、胸に沁みた。私は布団のなかで、こくりと頷いてそっと目を閉じる。視界はふわりと白んでいる。さっきまで濡れていた目も、もう乾いてきたのかまぶたが少しだけ重たく感じる。それでも眠るには惜しいような、惜しくないような、そんな中途半端な夜の余白に私はぽつぽつと言葉を漏らし続けていた。布団の中に沈み込んだ私のすぐ傍で、ホークスは、床にあぐらをかいていた。部屋の間接照明がぼんやりと彼の肩の輪郭を照らしている。その光の中で、彼は何も言わずただ黙って私の話を聞いている。スマホも触っていないし時計を見る気配もない。ただうっすらと笑っているような顔で頷いたり、たまに「へぇ」とか「それで?」とかごく短く相槌を打つだけ。

「——でさぁ……そのとき、なんかお母さんが、すっごい、真顔でさぁ……」

 私の話は、すでに何の脈絡もなかった。実家の犬のこと、夕飯の味付け、電車の中で見かけた、変な広告。学生時代、バイト先であったどうでもいいミス。とりとめのない話題が、ぽろぽろと、こぼれては、散っていく。
 それでも彼はそれを拾おうともせず放り投げもしない。ちょうど雨粒が水面に落ちて波紋が自然に広がっていくのをただ眺めるように耳を傾けてくれていた。

「……ね。ホークス、聞いてる?」

 私が問いかけると、彼は軽く息を吐いて、声を低く返した。

「聞いてる、っていうか……ずっと、聞いてるんですけどね」
「ふふ……だって、喋りたくなるじゃん。なんかこうしてると」
「そっすね、しゃべってていいっすよ。俺、寝てないんで」

 思わず笑ってしまった。まるで、寝かしつけられているのは彼のほうのようだ。私は頬に布団を当てて、じっと彼を見た。正面じゃなくて、少し斜め下にいる彼の姿が、灯りの影に、溶け込んで見えた。あぐらをかいた膝に肘を乗せて、片頬に指を添えている。ちょっと、ゆらゆら揺れているところを見ると、確かに眠そうなのに、ちゃんと目は開いている。ただ、三重まぶたくらいには、なっているけれども。すると不意に今度は、彼のほうから、声をかけてきた。

「名字さんって、規定はあるんです?」

 低く、探るでもなく、確かめるでもない声音。ベッドに横になったまま天井を見ていた私はその問いを受け止めるのにほんの少し時間がかかる。そして、視線だけをそちらに向ける。

「規定、って?」
「付き合う相手の条件、的なやつです」

 床に座ったままのホークスは、ベッドにもたれかかるような姿勢で、こちらを見上げている。
 距離は近いのに触れない位置。いつもの配置。彼からの唐突な質問に私は一瞬だけ言葉を選ぶ。

「別に……これといって、こだわりは」

 あまりにも曖昧な答えになってしまった。でも嘘ではない。むしろ、そう言うしかなかった。

「ヒーローとかは?」
「え?」

 まさか、そこを突かれるとは思っていなくて、思わず間の抜けた声が出た。私は少しだけ戸惑いながら、適当に濁すように返す。

「ヒーローは……どうかな。私は、うーん。」
「へえ」

 短い相槌。否定も肯定も含まない。

「ほら、付き合ってはいけない職業3Bって、あるじゃん?あれと、似てるかも」
「なんすか、それ」
「美容師、バンドマン、バーテンダー」
「ほう、なるほど?」
「私考案——付き合ったらダメな職業、3Hだよ」

 言い切ったあと、部屋に小さな沈黙が落ちる。間接照明の光が彼の髪の影を床に落としている。気まずさを誤魔化すように、私はすぐに、言葉を足した。

「……ヒーロー、ピアニスト……評論家?」
「え、後半の二つ、出会う確率めちゃくちゃ低くないす?」
「そう?意外と、いるかもよ?」
「そーすか」
「うん」
「……なんで、ダメなんすか。その、3Hは。」

 少しだけ声のトーンが変わった気がした。私は天井を見つめたまま、正直に答える。

「……きっと、苦しいから」

 それ以上は、うまく言葉にできなかった。自分でもどこまでが本音で、どこからが言い訳なのか分からない。やっぱり空気が少しだけ重くなる。私はそれを察して視線を床に落とす彼を見下ろしながら、話題を彼のほうへと投げ返す。

「じゃあ、ホークスは?」
「ん?」
「付き合いたくない職業」

 彼は一瞬、考えるように黙った。そして困ったみたいに、小さく笑う。

「俺、ですか?」
「うん」
「……特に、ないですけど」
「即答だね」
「だって」

 彼が肩をすくめて、少しだけ言葉を選ぶ。

「職業で切ると、後悔しそうなんで」

 その言い方がひどく彼らしいと思った。しかし「ただ」と、一拍だけ置いてから続けた。

「自分の生活を他人に委ねすぎる人は、ちょっと無理かも、です」
「それ、職業じゃないじゃん」
「でも、割と重要じゃないです?」
「……」
「名字さんみたいに、自分で立ってる人のほうが、俺は安心します」

 不意に、胸の奥が小さく鳴る。褒め言葉なのかどうか分からないまま、私は目を閉じた。

「……それ、誉めてる?」
「一応……?」
「……」
「今のところは」

 その��今のところ�≠ェ、どこに繋がっているのかは分からない。けれど、床に座る彼とベッドに横になる私のあいだに流れる沈黙はさっきよりもほんの少しだけ、柔らかくなっていた。

「ねぇ、ホークス……」
「んー?」
「このまま朝まで話してたら、どうする?」
「んー……。途中で寝落ちしてても、許してくださいね」
「寝かせてあげるよ、ちゃんと」
「そのままベッドで寝てくれたら、それだけで、十分ですけどね」

 その一言に私はなぜか胸の奥が静かに揺れた。なにかを求められたわけでもないのに、なにかを肯定されたような気がして。
 ふと、静かになった。会話が自然に途切れて、私はゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏にはうっすらと彼の声が残っていた。彼がそこでちゃんと見ていてくれるということだけで、息を吐くのが少しだけやさしくなった。空気が深くなる。夜の底が、ゆるやかに近づいてくる。遠くで、何かが鳴ったような気がした。外の車の音か誰かの足音か。けれど私はもう、その音を気にすることすらなく、ひとつ、長く息を吐いた。

「おやすみ、ホークス……」

 それだけはちゃんと声に出して言った。酔いに沈みかけた意識の底で、名前を呼ぶことだけは、最後まで手放したくなかったから。すると彼が、少しだけ間を置いてから低く、小さく、たぶん、笑ったのだと思う。羽音ほどにもならない微かな気配を含ませて、こう返した。

「はい。おやすみなさい。また、明日も元気で」

 その言葉は、子どもに言い聞かせるみたいでもあり、まるで仕事の締めの挨拶みたいでもあってだからこそ不思議と安心できた。返事をしようとしたはずなのに、唇はもう動かない。身体の力がゆっくりと抜けていく。
 天井の輪郭が滲み、部屋の静けさが深く沈んでいくなかで、私はただ彼がそこにいるという事実だけを抱えたまま眠りへと落ちていった。それが私の意識に残った、最後の記憶だった。


 *


 うっすらと瞼の裏が白んでいる。まるで水面のようなまどろみの中で私は少しずつ現実の輪郭に戻ってきた。
 布団の感触、肌にあたる空気、そして、どこか微かに残るお酒のにおい。まぶたを持ち上げると部屋はまだ静かだった。ほんのりと射し込む朝の光が、カーテンの隙間からこぼれている。天井は変わらず見慣れた白。静かすぎる部屋の中で私はごくゆっくりと顔を横に向ける。すると、視界の端に、彼がいた。ホークスはベッドのすぐそばに座っていた。いや、正確には、床の上であぐらをかいたまま上体だけを傾けて、ベッドの端に腕を置き、その腕に頬を乗せて眠っている。無防備ですこし不自然な寝姿勢。けれどその姿には、夜の名残がそのまま宿っていてなんだか胸がすうっと撫でられるような気がした。

 どうして、こんなにも静かなんだろう……彼の吐息は深く、規則正しくて、まるで、何かを護るように、ぴたりと、この場所にとどまっていた。おそらく私が寝つくまでは起きていたのだろう。話の終わらない夜に付き合って、そのまま寝落ちした。きっと、それだけのこと。けれど、ただ、それだけのことが、胸の奥をじわりと温める。

「………。」

 私は、声を出さずに見つめたまま、そっと手を伸ばしてみる。けれど触れる寸前で指を引っ込めた。起こしてしまいそうだったから。それに今だけはこのままの距離でいたかった。近いのに触れない。けれど間違いなく、朝を迎えるまで一緒の時間を過ごしたという実感がここに残っている。
 彼のまつ毛がわずかに動く。夢の中で何か見ているのかもしれない。子どものように、無邪気な寝顔に、ふと笑いそうになって私は口元を布団で隠した。
 こんな朝が来るなんて、昨日の夜には、思いもしなかった。けれど今、ここに、ちゃんとある。誰にも邪魔されない時間が、彼の隣に——。
 カーテンの隙間から入ってくる光が少し、強くなってきた。その眩しさが彼を起こす前に、私はさらに息を潜める。もう少しだけ、この静けさのなかにいたくて。
 私たちは何も約束していない。けれど今だけはそっと守られているような朝だった。

 しばらくすると、彼のまぶたが、また、ほんのわずかに震え、光の粒に触れるようにゆっくりと揺れている。そして数秒後、彼は、呼吸をひとつ深く吸い込み、静かに目を開けた。

「……ん……」

 聞き慣れたその声が寝起き特有の湿り気を帯びて私の耳をくすぐる。ホークスは腕に頬を乗せたまま焦点の合わない視線を宙に彷徨わせたあと、ようやく自分の状況に気づいたらしい。私と目が合うと、ほんの一瞬ぽかんとした顔をして、それから、眉をしかめた。

「俺……、寝て、ました……?」

 私は小さくうなずく。すると彼は「うわ、やっちゃった……」と呟いて身体を起こそうとしたが腕に痺れがきたのか、顔をしかめて止まる。

「……腕、死んでる……」
「言わんこっちゃない。」

 思わずくすっと笑ってしまう。彼はまだあぐらのまま、私のすぐそばで動けずにいる。その姿がなんだか不格好で、それでいて、とても、彼らしかった。

「つーか……あれ?」
「ん?」
「俺、ちゃんとソファ、戻ったっけ……」
「戻ってないと思う。ずっとここで……寝てたんじゃない?」

 その言葉に、彼は軽く目を見開き、そして少しだけ、照れくさそうに笑った。

「まじで?俺、酔っ払いの相手してた記憶まではあるんすけど……」
「してた。ずっと、話聞いてた。くだらないことばっかり」
「はは、でしょうね。名字さん酔うと、ほんとに止まんないんで」

 私は布団の中で、目を細めた。どこか遠くから聞こえるような彼の声。静かな朝の空気に、彼の低くて柔らかい声が、やけに似合っていた。

「寝ながら喋ってたし、途中で泣くし、笑うし。感情フルコースでしたよ……?」
「感情ジェットコースター、って言われなくて、よかった」
「俺、たぶん一晩で、人生の縮図見ましたもん」
「……じゃあ、ありがたく記録しといて」
「あー、録音しときゃよかったな〜」

 わざとらしく言うその声に私も小さく笑った。ベッドと床という高低差はあるのに、距離はまったく遠くなかった。心地よくゆるんだ空気の中に冗談と眠気がまだ漂っている。

「腕、痛いなら、ちゃんと布団で寝ればよかったのに」

 不意に私がそう言うと、彼は肩をすくめる。

「いやなんか。途中で立ち上がるのもな、って」
「優しいね」
「違います、ただタイミング逃しただけでーす」

 彼の返しはいつものように軽い。けれど、その言い方の端に、わずかな照れと、気遣いの名残がにじんでいた。

「ほんとに?」
「……ほんとです」

 嘘じゃないけど、本音も混じっている。そんな言い回しだった。
 私は天井を仰いだまま目を閉じる。あたたかい気配がまだそこにある。誰かがそばにいるという事実だけが輪郭を持って残っている朝。今日も、境界は越えなかった。それでも優しい余韻だけはちゃんと持ち越してしまった朝だった。
 しばらくして、身体を起こそうと目を開ける。まだ少し重たいまぶたのまま、ふと、視線を横に流す。

「……おはようございます」

 低く、寝起きの声。改まって告げられた今日の始まりの挨拶に胸の奥が小さく揺れる。彼は目を開けたまま動かずにこちらを見上げていた。床にあぐらをかいたままベッドに腕をつき、その上に頭を乗せたままの、不格好な姿勢で。

「……ん、おはよ。」
「ははっ、声ガラガラ」
「……私さ、寝相、悪くなかった?」
「いえ。すごく……優等生って感じで」
「それはよかった」

 私が笑うと彼はようやく腕に力を入れて身体を起こし首を軽く回す。合わせて、小さく息を吐く音。

「……首、痛い」
「でしょ」
「ベッド使えばよかったなァって、今さら思ってます」
「今さら言う?」
「今さら言うやつです」

 言葉は軽いのに、どこか照れが混じっている。そのやり取りが妙に自然で可笑しくて私は思わず息を漏らして笑った。

「あ、でもさ。それって一緒に寝るってこと?」
「撤回します。ソファ使えばよかったなって」
「言い直す意味、あるの?」
「大事です。俺、こう見えて……紳士なんで」

 夜に酔って泣いて、眠りに落ちたはずなのに。朝になるとちゃんといつもの距離に戻れている。その事実が、なぜだか少しだけ、誇らしかった。
 近づきすぎず、離れすぎず、笑いながら同じ朝を迎えられる距離。この関係は、名前を持たない。でも、確かに昨夜と今朝のあいだに何かが静かに積み重なっている。

「朝ごはん、どうします?」
「え、作るの?」
「一応、最低限は」
「期待しないでいい?」
「お願いします」

 彼は立ち上がってキッチンへ向かう。筋肉質の逞しい背中。無防備な朝の動き。私もベッドから降りて、少し遅れて、その後を追った。

「何あるの」
「えっとー......卵と、パンと、コーヒー?」
「完璧じゃん」
「ハードル下げてもらって助かります」

 フライパンに火をつける音。コーヒーの湯気。昨夜の静けさとは違う生活の音が部屋にゆっくり戻ってくる。

「……昨日さ」

 彼の隣でコーヒーを淹れていると不意に、彼が口火を切った。

「いっぱい話してましたよ」
「覚えてないです」
「ですよね」
「……変なこと、言ってない?」
「まあ……」
「まあ?」
「今は、保留にしときます」

 そう言って、わざとらしく肩をすくめる。その軽さに、私は救われる。

「ありがとう」
「何がです?」
「聞いてくれてたこと」
「……まあ、友だち?ですからね」
「友だちなんだ」
「友だち、でしょ……え、違いました?」
「ははっ、うん。オトモダチ」
「……その言い方、なんか引っかかるんすけど」
「ま、いいんじゃない? 今は、それで」

 その会話は、いつも通りで、だからこそ、ちょうどよかった。越えない線を、ちゃんと分かっている声。テーブルに並んだ少し焦げた卵と、焼きすぎたトースト。向かい合って座り同時に「いただきます」を言う。

「……あ、卵しょっぱいすね」
「今さら」
「これはこれで、目が覚める感じで」
「もう、前向きだなぁ」
「曲がりなりにも、ヒーローなんでねー」

 笑いながらふたり同時にコーヒーを飲む。何も決まっていない。名前も約束も、先の話もない。けれど、この朝が、ちゃんと穏やかで、昨日の夜を裏切っていないことだけは、確かだった。

「——じゃあ、これで。」

 食べ終えたあと、彼が、声の調子をやや上げて言う。

「今日は、それぞれ、通常運転で」
「うん」
「無理は、なしで」
「それ、昨日も言われた」
「大事なことは、何回でも言います」

 ヒーローらしくもなく恋人らしくもない、その距離。でも、今の私たちには、それがいちばん、ちょうどいい。
 初めて泊まった朝は、思っていたよりもずっと静かで思っていたよりもずっとあたたかかった。関係未満のまま、それでも確かに、ひとつの夜とひとつの朝を共有した、という事実だけを胸に、私たちは、それぞれの日常へ戻っていく。また、��二次会�≠フ合言葉を、使う日が来るまで——。


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