また、失恋した。その事実を心の中でもう一度言葉にした瞬間、胸の内側で小さく何かが欠ける音がした気がした。

 『ごめん、君とは付き合えないな』

 あまりに端的で逃げ場のない一言だった。言い捨てられた、という表現が、いちばん近いのに、不思議と乱暴さはなく、むしろ、整いすぎた声音だったことが、あとからじわじわと効いてくる。凛とした笑顔。感情を挟まず、相手を傷つけない距離をきっちり測ったようなあの表情が今も妙に鮮明だ。失恋なんて、これまでにも、何度となく経験してきた。慣れていると言ってしまえば嘘になるけれど、少なくとも対処法は知っているはずだった。
 泣くか、飲むか、忙しくするか。そのどれかを選べば時間が勝手に薄めてくれる。けれど今回はそう簡単に片づけられる感触ではなかった。まだ恋と呼ぶには、少しだけ手前。正式に付き合っていたわけでもないし未来の約束を交わしたこともない。それでも彼に惹かれていたのは疑いようのない事実で、むしろ「まだ何も始まっていない」状態だったからこそ期待も想像も自由に膨らんでしまっていたのだと思う。

「はぁ………」

 彼となら付き合いたかった。本当に、それだけだった。優しい色香があって、立ち居振る舞いは凛としていて、それでいてふとした瞬間に可愛げも覗く。完璧ではないところも含めて、ちょうどいい距離で人を惹きつける人で、近づきすぎると壊れてしまいそうで、でも離れるには惜しくて、気づけば私は、かなり無防備な気持ちで彼を見ていたのだと思う。
 今思えば、あれはもう、恋に限りなく近い段階だった。だからこそその手前で断ち切られた事がこんなにも深く残っている。うまくいかなかった理由を並べることはできる。タイミングとか相性とか彼なりの事情とか。どれももっともらしくてきっと間違ってはいない。でもそれらを集めても「それでも彼と付き合いたかった」という気持ちだけが、きれいに余ってしまう。
 胸の奥に沈んだままのその感情を、どう扱えばいいのか分からないまま、私はただ、失恋したという事実だけを、静かに反芻していた。

「うぅぅ……」

 喉の奥から情けない声が漏れる。自分でも驚くほど、素直な音だった。

「なんすかー?いつもに増して、ど〜んよりしてますねぇ」

 隣から投げられる声は軽い。軽いけれど、ちゃんと、こちらを見ているのがわかる距離だった。私は椅子の背にもたれたまま、視線だけを天井に向ける。

「だって……あんなに紳士で、人当たりもよくてプロヒーローで、凛としてて、しかも、しかも、独身なんて……」

 言葉を並べれば並べるほど、胸の奥がじわじわ痛む。条件を挙げているはずなのにどれも彼そのものに結びついてしまって整理がつかない。横でホークスは、何も言わない。その沈黙が、続きを促してくる。

「女性という生き物、み〜んなに優しいんだよ?高身長で男前で。でも内面は穏やかで、いつも、凛としてるの」

 言いながら私は自分がどれだけ熱を帯びているかを自覚する。理性的に語っているつもりでも、声の端々に感情が滲んでしまう。

「その人、ずっと凛としてるヒーローなんすね」

 その返しはなんだか少しだけ、引っかかる言い方だった。それでもかまわず私は、先を続ける。

「大人の男性でさ?……とにかく、凛としてる」

 繰り返してしまうのは、それ以外の言葉が見つからないからだ。相手の印象を、ひとつにまとめようとすれば、結局、そこに戻ってきてしまう。

「私とゆっくり飲んでみたいって言われたから、わざわざ予定潰してまで行ったのに……」
「恒例の懇親会すか?」
「親睦会」
「え、なにが違うんす?同じでしょ」

 からかっているのか適当に流しただけなのか、それとも本気なのか。どれにも当てはまりそうでどれでもない気もして判別がつかない。噛み合っているようで噛み合っていない会話。私は小さく眉を寄せて、続きを吐き出す。

「あんなの、一種のヤリ逃げだよ」
「え、ワンナイトしちゃったんす?」
「してない。触れてもいないよ」

 その事実を口にした瞬間に、胸の奥で何かが、かすかにきしんだ。期待していたわけじゃない。そう思っていたはずなのに今さらになって、別の自分が、顔を出す。その存在に気づいてしまったこと自体が、少しだけ痛い。

「ただの女たらしじゃなくてー?そのヒーロー」

 彼は今度こそ揶揄うような調子で言う。けれどその声色にはどこか探るみたいな響きが混じっていた。

「違うよ! 全然ちがう!」

 私は思わず、勢いよく否定してしまう。否定の強さがそのまま自分の感情の輪郭を浮かび上がらせてしまったことにあとから気づくことになるのだけれど。

「あんな揃いに揃った人、滅多にいないよ……」

 自分でも、驚くほどの熱量だった。言い切ったあとで、はっとして隣を見る。ホークスは、目を見開いたまま、私のほうを見ていた。その表情のまま、ゆっくりと息を吐き、肩の力を抜く。短い溜め息のあと、容赦のない声が落ちてきた。

「そんなヒーロー、いくらでもいるでしょ。まあ気にしない気にしない」
「居ないよ! この世に、ひとりだけだよ!」

 声が裏返りそうになるのも構わず、そのまま、押し出してしまう。

「本当に、かっこいいんだからァ……」

 感情のほうが先に走って言葉の手綱が追いつかない。自分でも分かるくらい、みっともない。

「でもですよ?」

 そう挟んだものの、彼はすぐに被せてこない。ほんの少しだけ間を置いてから、静かに続けた。

「そのヒーロー、名字さんのこと好きじゃないんですよね?」

 ぐさり——ストレートに胸を正確に突かれた。

「うっ……」
「そのヒーローからしたら名字さんは��ひとりだけ�≠カゃなかったってことすよ。残念ですけど」

 ぐさり——二度目の衝撃。それは、淡々とした口調だった。感情を一切乗せないからこそ、飾り気のない現実だけが、真っ直ぐこちらに届く。

「ほんっとに酷いこと言うよね、ホークスって」

 私は睨むように、横の席へと顔を向ける。

「鬼なの? 悪魔なの?」
「現実は、甘くないんで」

 しかし彼は私の視線など気にも留めず軽く肩をすくめただけだった。

「俺は、真実を伝えただけで」

 その言葉に反論したいのにできない。分かっているからだ。彼の言うことが正しいという事を。それでも私は胸の奥に残った熱をどうにもできないまま黙り込んだ。慰めよりも正論のほうが今はずっと痛かった。
 目の前のテーブルにはレモンサワーと烏龍茶のグラスが並んでいる。彼は広々とした高い天井を見上げてからハァと大げさに息を吐いてみせた。私はというと既に酔いが回っていて頬杖をついたまま、意味のない唸り声を漏らしている。そんな私を見て、彼は困ったように苦笑いを浮かべた。

「……なによ」
「いえ?別に、なんでもないデス」

 週末のこの店はいつ来ても満席だ。行きつけと呼ぶには少し賑やかすぎるけれど騒がしさに紛れていられるところが、今の私にはちょうどいい。
 店内のBGMがふいに切り替わり誕生日ソングが流れ出すと、花火の刺さったバースデーケーキが運ばれていく。それに合わせて若者たちの歓声がどっと広がり空気が一段階だけ熱を帯びた。その音の波に押されるみたいに、私はぽつりと、口を開いた。

「私って、いつ彼氏できるんだろう……」
「知らんですよ」

 間髪入れずに返ってきた声が、妙に現実的で、少しだけ笑ってしまう。

「このまま一生独身だったら、どーしましょ」

 グラスに残った氷が溶けていくのをじっと見つめる。透明な水が増えていく様子が、やけに寂しい。ホークスは気怠そうに頬杖をついていた手をほどき、杯を持ち上げて、ぐっと一口飲んだ。

「一生独身でも、良くないです?」

 独り言みたいに言ったあと、軽く肩をすくめて続けた。

「なにひとつ不足ないでしょ」
「何がいいのか、さっぱり分かりませんけど?」

 私はわざとらしく、ため息を混ぜて返す。

「不足だらけだよ。はぁ……今年のクリスマスもひとりかぁ」
「だいぶ先の心配してるんすね」

 そう言ったあと彼は少し間を置いてから、急に思いついたみたいに声を上げる。

「あ、そうだ」
「なに」
「俺たちプロヒーロー主催のクリスマス会、来ません?」
「やだよ。振られた職業の人たちとのクリスマスなんて」

 私は考えるよりも先に首を即座に振っていた。彼は苦笑しながらも間を置かずに、すぐに言葉を重ねる。

「それ、言い方だいぶ雑じゃないです?」
「そう?」
「あれも嫌、これも嫌て。欲張りなんすよー」
「……」
「だから振られるんじゃないすかー? 万年失恋おねーさん」
「うわぁ……ひどすぎる」

 私は、わざとらしく胸元を押さえて、大袈裟に傷ついた顔を作ってみせた。

「優しさのかけらもない!」

 訴えるように言うとホークスは短く息を吐き、うんざりしたように、眉を下げた。別に、本気で傷ついているわけじゃない。ホークスに、優しさなんて最初から期待していないし彼の言葉が残酷だとも思っていない。それでも今はこうして言葉を投げ合ってくれる相手がいるだけで、心が少し楽になる。酔った勢いで零れそうな感情を、雑に受け止めてくれる人が隣にいるという事実がなによりありがたかった。たとえそれが、年下のプロヒーローであったとしても。私の話を、遮らずに聞いてくれて適当に突き放してくれて、最後まで付き合ってくれる。それだけでこの夜はずいぶん救われている気がした。

「はぁ〜……彼氏、欲しいなぁ……孤独だ」

 酔いに任せて胸の奥に溜まっていた言葉をそのまま吐き出す。自嘲に近い響きだったはずなのに口にした瞬間、思ったよりも重くテーブルに落ちた気がした。

「——てか、」

 しばらく沈黙が落ちていたところへ、不意に、隣から、少し低くなった声が差し込まれる。

「ん?」

 顔を向けるとホークスはグラスを置いたまま、こちらを見てはいなかった。視線は前方の、どこでもない一点に落とされている。

「眼中にありましたっけ」
「え、」

 「なにが」と聞き返す私より先に、彼が言葉を足す。

「彼氏候補に、ヒーロー枠」

 一瞬、意味を測りかねて、私は間の抜けた顔のまま固まってしまった。思考が追いつくより先に彼の声だけが、淡々と続く。

「ヒーローは、付き合ったらダメな職業って前に言ってませんでしたっけ」
「……言った?」

 自分の記憶を辿るように、私は首を傾げるが、どうしたことだろう、曖昧な感触しか私の中には残っていない。

「……それ、私?」

 次の瞬間ホークスが盛大に息を吐いた。そして聞こえるか聞こえないかの音量で「こンの、酔っ払いが」と、零された気もするけれど、たぶん、聞き間違いだろう……そういうことにしておく。ただ、その溜め息はまるで呆れと疲労をそのまま形にしたみたいだった。

「はっ……アホくさ」

 ホークスは、短く吐き捨ててから、椅子の背に手をかける。

「俺、もう帰りますよ」
「えっ?」

 思わず、声が裏返る。状況が飲み込めないまま彼の動きだけが、現実として先に進んでいった。

「今の名字さんと絡むのは、時間の無駄遣いなんで」

 言い切りだった。冗談に逃げる余地も、軽口に戻る隙もない。私は一瞬、言葉を失ったまま彼の横顔を見つめる。席を立ちかけた彼が背を向けたまま、低く付け加える。

「だって、嘘つきなんすもん」

 ため息混じりに吐き捨てるようなその一言に、空気が目に見えない温度を失う。心臓が鈍い音を立てて沈んでいくのが分かる。
 彼が機嫌を悪くしている顔を見ること自体は、今までにも、何度かあった。軽く眉を寄せたり、口数が減ったりそういう兆しなら見慣れている。けれどこんなふうに正面から距離を切られるのは初めてだった。
 何が嘘で何が本当だったのか。自分でも整理がつかないまま、私は言葉を探すことすらできず、ただ冷めていくグラスを見つめる。氷はもう溶けかけていて、さっきまでの賑やかな音も、どこか遠くに感じられた。
 今日も笑って流せる夜だと思っていた。冗談を言って軽口を叩いて最後はいつも通りに終わる。そんな安易な見通しだけが、今になってひどく、浅はかだったことを思い知らされる。

「嘘つきって……だって、ほんとに覚えてないんだもん」

 ホークスが、立ち上がる気配。椅子を引いて、きちんとテーブルに押し戻す音が、やけに大きく響く。私はその音を背中で聞きながら、グラスの縁を指でなぞり、独り言のように呟いた。返事はない。足音が少しずつ遠ざかっていく。誰に向けた言葉でもないはずなのに胸の奥に沈殿していたものがわずかに揺れて浮かび上がる。それが後悔なのか、悔しさなのか、それとも——もっと別の感情なのかは、まだ分からなかった。

「……」

 嘘でしょ。本当に、帰っちゃった……?
 そう思いながらも、私は入口のほうを確かめることができなかった。振り向いてもし本当に彼の姿がなかったら。その現実を受け止める勇気が、まだなかったから。
 どれくらいの時間が経ったのかも分からない。ただ呆然としたまま手元のグラスに視線を落とし続けていると背後からふわりと声が降ってきた。

「……べつに、怒ってないすよ?」

 反射的に振り向くと、帰ったはずの彼がそこにいた。思わずすがるみたいな目でホークスを見てしまう。彼は私の視線に気づいて肩をすくめる。

「トイレですってー、ト・イ・レ。」

 そう言ってから、彼は何事もなかったように、また椅子を引いて、隣に腰を下ろした。

「もう……ほんとに帰ったのかと思ったじゃん」

 自分の吐き出した声に、ほっとした響きが混じるのを隠せない。すると彼は軽く笑って言った。

「はは。すんません」
「……」
「ちょっと、飲兵衛さんに意地悪してみました」

 声は確かに笑っている。けれど彼の目は冷静でどこか退屈を持て余すみたいに前方のグラスへと向けられていた。その視線が少しだけ痛い。もちろん、今ひとりになるのが嫌だという、身勝手な理由もある。でもそれ以上に、こうして隣にホークスがいて私の話を聞いてくれるという状況そのものが、楽しかったのだ。私にとっては、救いの時間。けれど彼にとってはきっと違う。失恋した女の愚痴なんて面白いわけがない。そう思うと、胸の奥がじわりと重くなる。
 私は無意識に肩をすぼめる。嘘つきと言われた言葉を反芻しながら思い当たる節が、意外と多いことに気づいてしまう。覚えていないふりをして都合よく流してきた、言葉や感情。思い返せば、いくつもある。
 そうやって内側で考え込んでいると、隣から、低く短い音が落ちてきた。ハァ、と。ホークスがため息をついたのだ。

「で?」

 不意に投げられた声に、思考が一段落ちる。

「え?」
「次は、もう目星ついてんすか?」

 何の話だろうと首を傾げたところで、彼は少しだけ言葉を補う。

「相手ですよ。彼氏。ほしーんでしょ」
「……あぁ、そのこと」

 ほぼ氷がなくなったグラスを持ち上げて、少し考える。

「うーん……知り合いが合コン行こうって言ってくれてるけど」
「そーすか」

 質問してきたわりに彼は興味なさそうに頷く。

「じゃあ早く行って、さっさと旦那候補捕まえてきてくださいよ」
「旦那ねぇ……」

 笑い混じりに呟いてから、グラスのなかを覗き込む。

「見つかるかなぁ……本当に一生独身な気がしてきた」
「……」
「なんかもういいかな、恋は」

 残った氷が、カランと乾いた音を立てる。その音を合図にするみたいにして私はホークスを覗き込んだ。こういう席でのこのヒーローの存在が、不意に妙にかっこよく見えてしまって、我ながら単純だと思う。
 黙っていれば男前なのに、口を開けば、どこか軽薄で鳥みたいにフラフラしている。その落差がたまにずるい。だからこそ沈黙の合間にふと現れる、磨かれたみたいな表情や、ヒーローとしての彼の姿を思い出すとこちらが勝手に気恥ずかしくなってしまう。それでも無口な彼が知らない人のようだとは思わなかった。軽口を叩いても、黙り込んでも——ホークスは、ホークスだ。

「名字さんは」

 不意に彼が、何でもない調子で言った。

「誰かに惚れてるときが、一番らしいっすよ」
「……ん? そお?」
「はい。惚れた男がいないときは、地味な女性になる」
「えー、そうかなー」
「バックに花、背負ってますからね」

 私がじっと見つめていることなど露ほども知らずにこのヒーローは頬杖をつき、グラスを両手で包んだまま、どこか楽しげに言葉を続けている。まるで観察結果を報告するみたいに、無邪気で、無責任で、それなのに、妙に的確だった。

「浮かれて上機嫌で、おめでたいあなたが、一番いい」
「え、私……そんなふうに、なるの?」

 思わず眉を顰める。自分の姿を思い浮かべようとしてみるけれど、どこか他人事のようでうまく像を結ばない。

「うそ、痛々しいじゃん」
「え、自覚なかったんすか?」

 軽く言われて、返す言葉を探しかけたものの、結局そのまま飲み込んだ。納得がいかない気持ちを誤魔化すように、私は、目の前のピーナッツをひとつ摘んで口に放り込み、ほとんど水になりかけたアルコールで流し込む。その様子を見られていたのだろうか。音も立てずに笑う気配がした。視線を向けるとホークスは喉の奥で、くつくつと笑っている。

「……なに、笑ってんの?」
「えぇ? いや、おもしろくて」
「はぁ?」

 自分でも分かるくらい、少しだけ声が尖った。

「さっきは、地味な女とか言ってたくせに」

 その瞬間、通路のほうでガシャンと派手な音がした。店員が、盆ごとグラスを落としたらしく、周囲が、一瞬ざわつく。店員たちの「すみませんでしたー!」という声と一緒に、空気が揺れる。そちらに一度気を取られてから視線を戻すとホークスはもう笑うのをやめて何事もなかったように烏龍茶を飲んでいた。

「……ねぇ、ホークスってさぁ」
「はい?」
「ほんと、親切だよね」

 少し酔った勢いで言うと、彼は怪訝そうに眉を寄せた。

「……なんすか。どうしました、急に」
「だって、誘ったらいつも来てくれるし、愚痴、聞いてくれるし」

 視線は横に向けないままで、言葉を選びながら私は続ける。

「いい人だな、って」

 ときどき優しくはないけど。そう心の中で付け足しながら含みのある笑みを向けると彼は当たり前でしょ、とでも言うように、少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「……それに、私の恋路を応援してくれるし」
「ですね、応援してますよ?」
「……」
「まあ、うまい事いったのは、見たことないですけど」
「今まではね?」

 私は食い気味で、強がるように言う。

「これからは、期待に応えて、うまいこといってみせるよ」
「ふーん。そーすか」

 抑揚のある声でそう返されて、私は、グラスを傾けた。その言葉が、賛成なのか、距離なのか、まだ、判断がつかないまま——。

「全部、見守ってますよ」

 さらりと言われて、私は思わず眉をひそめた。

「……見守るって、なんか変なの。ホークスに、似合わないよ?」

 彼は少し考えるように視線を宙に泳がせてから曖昧に肩をすくめる。

「そうすかねぇ。まあ……確かに、ニュアンスはちょっと、違うかもしれないですけど」
「ニュアンス?」
「はい」

 その返事と同時にグラスに触れてもいないのに私の前のレモンサワーの中で、氷がからりと音を立てた。溶けただけのはずなのにその小さな音がやけに耳に残る。

「名字さんの恋路が、うまいこといって」
「うん?」
「しばらく経つのを、待ってんですよ」
「はぁ〜? なんで? 意味わかんない」
「おもしろいんで」

 あまりにも軽く言われて、私は言葉を失う。

「……地味な、女なんでしょ?」

 自分でも分かるくらい、少しだけ拗ねた言い方だった。我ながら根に持っているなと思う。でもピーナッツを口に運ぶ手は止まらない。こういうときほど、食べ物に逃げる癖がある。

「だから、余計にね?」
「はぁ? どういうこと?」

 噛み砕く余裕もなく問い返すと彼は一瞬だけ、言葉を切る。それから、ほんのわずかに口角を
 上げた。

「……知りたいです?」
「うん」

 即座に答えてしまった自分に、内心で少しだけ後悔する。次の瞬間、こちらを射抜くような視線が飛んできた。ギロリ、と。空気の温度がほんのわずか下がる。怯えそうになるのを堪えて、私は目を逸らさなかった。睨み合うというほど大げさではないけれど、視線だけでやり取りするには、十分すぎる圧だった。
 ホークスと二人きりで食事をするようになってから私は初めて知ったのだ。この人の鋭い視線がただの��殺気�≠ナはなく、場の雰囲気そのものを凍りつかせる力を持っているということを。
 そしてもしその殺気とやらで人が本当に死ぬのなら私はもう何度だって息の根を止められているはずだった。——まったく。ホークス、いちいち人を脅かすんだから。そう思いながらも私は目を逸らさずに、彼の次の言葉を待っていた。

「名字さんが、食べごろになるのを待ってるんすよ。俺は」

 カウンターの上に頬杖をついたままホークスが言った。その仕草だけ見れば、拍子抜けするほど気の抜けた、どこか可愛げすらある姿なのに——口から出てきた言葉は、まるで可愛くなかった。ピーナッツをつまもうとしていた私の指がぴたりと止まる。背中の内側を、冷たいものがなぞったような感覚が走った。理由は分からない。ただ、ぞわりとした。

「……え?」
「……」
「ホークスって……私のこと、好きだったの?」

 自分の声が思ったよりも低く出る。問いかけた瞬間、彼は頬杖を解いた。代わりに片手を後頭部に回し視線をあらぬ方向へ向ける。その横顔は、答えを探しているというより言葉を選びあぐねている人のそれだった。

「……そういうわけじゃないと思うんすけどね」

 曖昧な返答。胸の奥が、期待とも落胆ともつかない形で揺れる。

「え?」

 一瞬の間。それでも、相手からの返答はない。

「……あ、冗談? あー、もう!」

 私は誤魔化すように、必要以上に、大きな声で笑った。アッハッハ、と響いた自分の笑い声が、やけに空虚に耳に残る。運が悪いと思った。その瞬間、店内の雑音がふっと途切れて、場が一瞬、妙な静けさに包まれたから。居た堪れなくなって私はわざとらしく咳払いをする。何事もなかった顔で、再びピーナッツを口に運ぶ。
 ……危ない。今のは、危なかった。ホークスの言葉を真剣に受け取ろうとした自分が馬鹿みたいだ。しかし彼は、なおも続ける。

「好きとか惚れたとかそういう話じゃなくてさ」
「……」
「もっとこう……大らかに、っていうか」
「ふーん。もういいよ。なんか、意味不明だし」

 私は動揺を隠すために、被せるように言った。短い沈黙が落ちる。今度はそれを、彼が、強引に破った。

「……とにかく!」
「な、なに。びっくりしたぁ……」
「あなたは、まだ食べごろじゃないんすよ」
「……ねえ。」
「はい?」
「よく、サイテーって言われない?」

 私は半眼でじっとりと、彼を見やる。

「もういいってば。何も言葉とか発しないほうがいいよ?」
「あなたが知りたいなんて言うからこんなことになったんでしょうが!」
「私が悪かったです。もう知りたくないです」

 私の即座な降参にホークスは、ハァと短く息を吐いたかと思うと、次の瞬間には、ハハッと声を出して笑っていた。その切り替えの早さに、心底うんざりする。私は返事をする代わりにアルコールの抜け切ったレモンサワーを一気に飲み干す。喉を通る液体は、もう冷たくも美味しくもない。ただ今の気分には丁度、よかったかもしれない。
 この人はいつだってそうだ。肝心なところだけ曖昧なまま。人を揺らしておいて、最後は軽口で逃げていく。それでも私は、グラスを置きながら思ってしまう。こんな言葉に、こんな距離にここまで心を乱される自分のほうが、よほど厄介なのだと。

「まっ、俺は気長に待ってますけどねー」

 あまりにも軽い調子で彼は言った。思わず私は「はい……?」と、聞き返す。

「気は、長い方なんで」

 それはまるで、世間話の続きでもするみたいな口ぶりだった。その軽さと温度差にこちらの思考だけが一拍遅れて頭の中で噛み合わないまま立ち止まる。

「……ホークスが私のこと好きなのかと思って、焦った私が、馬鹿だった」

 半分は、冗談のつもりで言った。でも半分は、本音だったと思う。彼が「え?」と首を傾げる。

「なんで、焦るんです?」
「……だって」

 私は水滴で濡れ、手の熱を帯びたグラス抱えて見つめたまま、ぽつり、ぽつりと答えた。

「好きな人の話とか、失恋の話とか……さ?そういうの、もう、言えなくなるでしょ?」
「……いやいや。自惚れないでくださいね?」
「へっ?」

 即座に被せるように言われて、私は彼に視線を向け、素っ頓狂な声を出してしまう。

「あなたが誰と恋愛しよーがしまいが、気にすること、ないですよ」

 その言葉に、胸の奥がひやりとする。そして、ほんの一瞬、間を置いてから——

「どうせ、俺のもんになるんですから」

 ぞわり、とした。腕ではなく、背中から一気に鳥肌が立つ感覚。冗談なのか、本気なのか。ホークスの口元には薄く笑みが浮かんでいるだけで、どちらとも判断がつかない。私はとっさに姿勢を正すみたいな気持ちで、コホンと咳をひとつ落とした。そして、なるべく冷静に言う。

「……自惚れてるのは、ホークスでしょ」
「へ?」
「なに��俺のもの�≠チて。私、ホークスのものになるの?」
「んー、俺の予定では?」

 少し考える素振りを見せたわりにはその口調は軽い。けれど、はぐらかしもしない。逃げることなく、彼はそのまま、言葉を続けた。

「大丈夫ですよ」
「……」
「無理やり奪うようなことは、しないんで」
「……あのー、本気、ですか?」
「はい。大マジです」
「……」
「だから早く誰かと付き合って来てください!」

 彼は急に明るい声を出して、バシンッ!と私の背中を叩いた。勢いはあったけれど悪意はない。そのことが、余計に混乱を招く。私は特に動じることもなく、小さな皿に手を伸ばした。けれど、そこにあったはずのピーナッツはもう綺麗になくなっている。空振りした指先が、こつん、と音を立てた。
 ホークスって、本当に変な人だ。私に恋をしているわけでもないのに、私のことを待っていると言う。欲しがっているようで縛らない。手を伸ばしているようで触れない。全然わからない。意味不明だ。
 きっとこれは、冗談なのだろう。面白がって、私をからかっているだけ。え……、そうだよね?ホークス。
 私は空になった皿を見つめながら、その問いを胸の奥にしまい込んだ。

「あーあ、楽しみっすねー」

 他人事みたいな声でホークスが言う。私は返事をしない。ただ、グラスの縁を指でなぞりながらその軽さをやり過ごす。

「次は、どんな人なんすかねぇ〜。俺、当ててもいいです?どんなタイプの人か」

 ——この人やばいかも。頭のどこかで、そんな冷静な警告が鳴る。だからもう、会わないほうがいいのかもしれない。距離を取ってちゃんと線を引いて、さっさと、次の恋に進んだほうがいい。それでもきっと私はこれからも小まめに会い続けるのだろう。理由ははっきりしているのに言葉にするのが億劫なだけで。

「うわ!これ美味そー。次来たら頼みましょ♪」

 ホークスのほうこそ自分の立ち位置を、あまりよく分かっていない。失恋してもすぐに吹っ切れてしまうこと。泣く前に笑ってしまうこと。次へ進めるはずのタイミングで、なぜか踏み出せなくなること。それは全部、このヒーローのせいかもしれないのに。素敵な人に出会ってもぎりぎりのところで恋に発展しない。決定打が欠けたまま、曖昧な関係に戻ってきてしまう。
 もし彼がほんの一言でいいから「惚れてる」と言ってくれたら。それだけで私はたぶんあっさりその気になるのに……そんな単純なことに、このヒーローは、気づいていない。それとも、気づかないふりをしているだけなのか。私は小さく溜め息をこぼす。それを聞きつけたのか、ホークスがこちらを見ていつもの軽い笑みを浮かべた。そして、少しだけ声を弾ませる。

「そんな顔、しないでくださいよっ」
「……」
「本当に、名字さんの恋愛成就、祈ってるんですからね!」

 その言葉は、あまりにも正しくて、あまりにも嘘くさい。

「……ハァ」

 私はもう一度、短く息を吐く。反論も肯定も、もうどうでもよかった。この人は待つと言いながら何も奪わない。応援すると言いながらどこにも行かせない。それでも私は今日もこの席に座っている。曖昧な距離と、軽口と、分かりきったすれ違いの中で。
 たぶん、次の失恋のあとも。私はまた、ここに戻ってくる。そう思いながら空になったグラスを見つめて、この夜を、静かに終わらせた。


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