彼が端末を持ってくるのは、いったいこれで、何度目だろうかと私は内心で数えかけてやめた。数えたところで意味はないし、回数が増えるほど彼の無茶な現場を想像してしまうだけだ。
 受付のカウンター越しに差し出された端末は、見慣れた装いで、見慣れない傷を、負っていた。画面の端に細かな亀裂、フレームには、擦過痕。致命的ではないが、放置すれば、支障が出る類の破損だ。

「……落としました?」

 私は業務用の声でそう聞く。感情は乗せない。ここは仕事場で私は彼の友人でも、飲み仲間でもない。今はただの、顧客である。

「んー。落とした、って、いうか……ぶつけた、感じで」

 彼は苦笑して言い直す。その曖昧さがだいたいの現場の激しさを物語っている。

「状況は?」
「屋上。風、強くて。ちょっと判断ミスですね」

 判断ミス、という言葉を軽く使うところが彼の悪い癖だと思う。私は端末を受け取って、電源を落とし、チェックリストに沿って確認を始める。指先が勝手に動くのは、もう何年も、この仕事をしているからだ。

「内部は、問題なさそうですね。画面とフレーム交換で済みます」
「あー、助かります」

 彼は素直に、そう言った。間も無く、ハタチを迎えるというのにこういうところは変わらない。そう、感謝を軽くしないところ。

「今日中は無理ですね。明日の、夕方には」
「了解です」

 それだけで、業務としてのやり取りは終わる。声に含まれる温度も表情に浮かぶ色も、すべてが職務の範囲に収まっていて互いにそれ以上を求めないことを当然の前提としているような、短く、整った応答だった。
 私は端末をトレイに戻して、パソコンに残る、未入力の項目を埋めていく。キーボードを叩く音が思ったよりもはっきりと耳に届く。彼はカウンターの向こうで一歩下がって待っている。距離はきちんと保たれている。近すぎず遠すぎず仕事の邪魔にも私情の入り込む余地にもならない位置。何度も繰り返されてきた配置だから、今さら意識するまでもないはずなのに、ふとした瞬間にだけそれが『選ばれている距離』なのだと、気づいてしまう。

「はい、ここにサインしてください」
「はーい」

 軽い口調。どこか、肩の力が抜けたまま彼は、書類を引き寄せ慣れた手つきでペンを走らせる。ヒーローとしての顔とも、私が知っている彼ともどちらにも寄り切らない、こういうとき特有の、曖昧な表情。

「書きましたっ」
「はい」

 私は、確認のために書類を手に取る。その瞬間だった。

「これ、サインする意味あります?」
「え? どうして」
「だって、俺もう、顔パスで行けません?」

 両手を後ろに組んで背を折りながら書類に顔を近づけている人気ヒーロー。あまりに屈託のないその物言いに思わず書類の端で彼のおでこを軽く叩いてしまう。「痛っ」と声を上げながらも彼は反射的に身を引くこともなく、むしろ自ら、額をこちらに差し出してきている。その仕草が、いかにも彼らしくて、呆れと同時に変なところで感心してしまう。

「自分で言いますか? それ」
「いやぁ、将来的にはありかなって」

 冗談めかした調子のまま視線だけが一瞬、私の顔を探るように動く。すぐに逸らされるその間に言葉にされなかった意図が含まれているのかどうか、考えるほどの時間も与えられない。

「……あの、」

 次に発せられた声は、さっきまでの、業務用のそれとは少し違っていた。わずかに低く抑えられていて、呼び止めるためだけに選ばれた音。私は自然と顔を上げる。

「終わったら今日、時間、あります?」

 問いかけは簡潔で余白が多い。誘いとも確認ともつかない言い方に、私は一瞬だけ迷ってから、曖昧なまま頷いた。

「うん、少しなら」
「じゃあ、軽く」

 それ以上の説明はない。場所も内容も、あらかじめ決めなくても通じる程度には、私たちはこのやり取りに慣れてしまっている。その省略の仕方が、今の距離をそのまま形にしたもののようで、私は書類を元の位置に戻しながら胸の奥に小さく沈んでいく感覚を、見ないふりをした。

 仕事を終えたはずの社内には、昼間の熱がまだ居座っていて、廊下の奥に進むたび、空調に追い出され損ねた空気が身体にまとわりつくようだった。日中の業務で削られた集中力が、今になってじわじわと緩み、靴音だけがやけに大きく響く。
 外に出ると、そこに彼がいた。私服に着替えたらしい彼はついさっきまで纏っていたヒーローとしての張りつめた輪郭を、ほんの少しだけ外側にずらしている。完全に脱ぎ捨てるわけでもなく、かといって、任務中のそれを保つでもない、その中間の姿が、私はどうにも落ち着かない。

「えー? 迎えにきてくれたの?」
「あったり前じゃないすかー」

 軽く返される声。けれど、その言葉の裏にある行動だけは、いつも軽くない。

「暇なの?」
「はい?」
「ちゃんと、ヒーロー活動してる?」
「してますってー、失礼な。紳士なだけです」
「はいはい」

 そう言いながら歩き出すと彼は歩調を合わせるでもなく、遅れるでもなく、自然に、隣に並ぶ。触れない距離を保ったまま、それでも、並行して進む感じが妙に、二人の時間らしいなと思う。

「ホークス」
「はーい?」

 名を呼ぶと間の抜けた返事が返ってくる。わざとらしいほど気軽な声色に、こちらの内側が少しだけ緩む。

「今日も、壊しましたねー」

 店のビルまでの短い道を進みエレベーター前で足を止めながら言うと彼は小さく肩をすくめた。

「ですねー。いやぁ、最近、ツいてない感じで」
「最近更に無茶してる感じの間違いじゃない?」
「……否定は、しません」

 素直だ。あっさりとした認め方。言い訳もしなければ、冗談に逃げるでもない。その素直さが、かえって、胸の奥に引っかかる。エレベーターの到着を告げる音が、二人の間に割って入る。扉が開くまでのわずかな時間、私は表示灯を見つめたまま、次に続ける言葉を探していた。

「……自覚、あるならいいですけど?」
「まぁ……ほどほどに、ってやつですよね」

 本当に今日は素直だな。だから余計にこちらも言葉を選んでしまう。何かを言えば届いてしまいそうで言わなければそれはそれで放置してしまうような気がして。彼の横顔はそういう逡巡を知ってか知らずか、相変わらず軽やかなままだった。店の中に入り並んで腰を下ろす。照明は強すぎず壁際に溜まった影が昼の名残を引き受けてくれているようだった。
 注文を済ませると会話は一度途切れ、代わりにテーブルの上の木目や、氷がグラスの内側で触れ合う音が、必要以上にはっきりと意識に上がってくる。破損した端末のことも現場のことも話題はいくらでもあるはずなのに、この日は、どれも、言葉の形にまで届かなかった。私自身が口を閉ざしているのか空気に先回りされているのか、その境目が曖昧なまま、時間だけが少し進む。だからなのか、先に沈黙を割ったのは、彼だった。

「——この前の」
「うん」
「ゴーコンのあと、どうなりました?」

 問いは軽く投げられたようでいて、どこか落ち着いた位置に着地している。私は、グラスを持ち上げかけた手を止め、そのまま視線を落とした。

「……どの、話だろ」
「はは。そんな多くしてんすかー、ゴーコン」
「……そういうわけじゃ、ないけどさぁ」
「そういうわけありな言い方でしたよー」
「……特に。連絡は来たけど、続いてないよ」
「そっか」

 それだけ言って、彼は、それ以上踏み込まなかった。深追いしないという選択を彼はよくする。私も同じ選択をすることがあるから、その判断の重さが、わからないわけではない。グラスの縁に触れた指先が、少し冷たい。

「スマホ」

 話題を変えるように、彼が言う。声の調子も、目線の高さも、あくまで、平常のまま。

「明日、取りに来ますね」
「はいはい」
「また、壊したら……?」
「……また、持ってきてください?」

 業務用の返答。けれど、それを口にした自分の声が思ったよりも柔らかく聞こえて、私は内心で小さく首を傾げる。彼は、それを面白がるようにほんの少しだけ口元を上げた。

「そのときも、もちろん名字さんが対応してくれます?」
「当番ならね」
「じゃあ、当番の日を狙って壊します」
「もう、それはやめて?」

 軽口が交わされて、張りつめていた空気が目に見えない程度に和らぐ。笑いがこぼれるほどではない。ただ、呼吸が少しだけ楽になる。けれど、その和らぎの奥に、以前にはなかった種類の間が混じっていることを私ははっきりと感じていた。会話が続いているのに、別の話題に移ってもいいのに、なぜか、次の一言を置く場所だけが定まらない。

「……無理、してないですよね」

 彼が視線をグラスに落としたまま言う。随分と主語をぼかした、問いかけだった。

「どっちに?……仕事? プライベート?」
「どっちも、です」

 曖昧な返答。けれど、誤魔化しているわけではないのだと、その声の運び方でわかる。

「無理してたら、すぐ顔に出るタイプだと思ってるんで」
「それ、信用していい評価?」
「褒めてますよ。かなり」

 私は小さく息を吐いてから、グラスをそっと、持ち上げた。

「……ちゃんと考えてる。前に進むことも、立ち止まることも」
「はい」

 短い相槌が、返ってくる。肯定とも、否定とも取れる、その受け止め方が、今の彼らしい。

「なんで——放っておいても、大丈夫だと思ってます」
「……放っておく、って、言い方」
「いや、違うなぁ……まあ、見てる感じで」

 言い直すその仕草に、彼なりの誠実さが滲む。何も起きない夜の予感が、テーブルの端にそっと置かれたような気がして、私はそのまま、視線を外した。ここから先、何を選ぶかは、まだ決めていない。ただ、選ばないという選択肢が、今日もまた静かに許されていることだけは確かだった。
 店を出て、駅へ向かう道に出ると、昼の名残はすでに影に沈み、街は、夜の手前で呼吸を整えているようだった。
 アスファルトの上に落ちる信号の色が規則正しく切り替わるたび、私たちの足取りもそれに合わせて止まったり進んだりする。そして信号待ちで立ち止まった、そのときだった。

「……名前さん」

 不意に静かな声が届く。苗字ではなく私の下の名前。その呼び方にはいつも短い余白が挟まる。
 意識しているのか、無意識なのかはわからないけれど、その一瞬の間が私には、はっきりと伝わってしまう。私は、ゆっくり顔を上げた。

「仕事、無理しないでくださいね」
「……それ、あなたが言う?」

 冗談めかして返したつもりだったけれど、声は思ったよりも自然と、落ち着いていた。

「……いや、最近、忙しそうなので」

 理由は後付けだと、彼自身もわかっているはずだ。それでもそう言わずにはいられなかったのだろうと思う。私はそれ以上突っ込まず、代わりに視線を前に戻した。

「誰のせいだと思ってんの」
「えーっと……俺?」
「しか、いないでしょうが」

 少しだけ強めに言うと、彼は、ははっと笑って「すんません」と、軽く頭を下げる。その仕草があまりにも自然で、責める気持ちの行き場を私は一瞬で失ってしまう。

「ほんとに、壊しすぎなんだもん」
「はい、気をつけます……たぶん」
「たぶん、って」

 小さく息を吐き、私は一度だけ間を置いてから言葉を選び直す。

「……まあ、私も。」
「はい?」
「気をつけます」

 そう答えると彼は満足したように、小さく頷いた。それ以上何も言わない。その沈黙が、確認の代わりになっている。信号が変わり私たちは再び歩き出す。並んでいるけれど肩は触れない。歩幅も速すぎず遅すぎずどちらかに寄ることはない。

「じゃあ、ここで」
「はい」

 改札の手前で足が止まる。人の流れは途切れず私たちだけが、流れの縁に立っている。

「……明日、夕方ですよね」
「うん。取りに来るんでしょ」
「行きます。ちゃんと」

 念押しするような言い方に私は小さく笑った。

「代替機、壊さないでね」
「それは、努力目標ってことで」
「……もう。」

 そう言いながらも、それ以上は言わない。彼もそれ以上続けない。ただ、ほんの一瞬だけ視線が重なる。

「じゃあ、また」
「うん。またね」

 軽く手を振る仕草すらないまま、私たちはそれぞれの改札へ向かう。
 壊れた端末は、明日には直る。部品を取り替えデータを戻せば、元の機能を果たすようになる。でも、こうして少しずつ生まれていく感覚のずれだけは、修理の方法が見当たらない。名前の呼び方、言葉を置く間、聞かないという選択。その、一つ一つが目に見えないまま確かに積み重なっていく。
 それでも、今夜はまだ何も起きない。それが、私たちにとっての安心であり、同時に、静かな、残酷さなのだと、歩きながら、私は考えていた。


 *


 秋の気配がようやく夜に落ち着きを与え始めたころだった。昼間の名残りを引きずらなくなった空気が部屋の中にも静かに満ちていて窓の外から聞こえる音も必要最低限に削ぎ落とされたように感じられる。
 ふとカレンダーに目をやれば、彼、ホークスの二十歳の誕生日までもう一ヶ月も残っていない。だからといってその数字に特別な意味を持たせていたわけではない。ただ、季節がひとつ進もうとしていることを偶然、意識しただけだ。
 そろそろ寝ようかなと、ベッド脇の、スタンドライトに手を伸ばした、その瞬間——。スマホが控えめに震えた。こんな時間に誰だろうと画面を見て、私は一度だけ瞬きをする。表示されていた名前が予想の範囲にありながらもどこか場違いに思えたからだ。

「……もしもし?」
『あっ、出たァ〜……っ!』

 出た瞬間、耳に届いた声は、妙に明るかった。夜の静けさを押しのけるような、軽やかさで。

『えっ、起きてました?ですよね〜寝るにはまだちょ〜っと、早い感じでぇー』

 勢いだけでつながれた言葉に私は思わず天井を見上げる。

「早いって……もう、日付、変わってるけど?」
『え、そうでしたっけ。あー……まあ、そういう日もありますよねぇ〜』

 語尾がふわふわしている。間延びしたテンポ。言葉が出てくるまでの間が、いつもよりわずかに長い。考えてから話しているというよりも、思いついたものを追いかけているような感じだった。

「……で? どうしたの、こんな時間に」
『いやぁ〜、ちょっとねぇ……なんだか今日ぉ、月がぁ、やたらきれいだなぁ〜って思ってぇ?』

 私は無言のまま、窓のほうに、視線を向ける。カーテンの隙間から見えるのは、街灯のぼやけた光だけだ。

「いや……月、出てる?今日。曇ってない?」
『え、うそでしょ。出てますって〜、ほらぁ』

 ほらぁ、と本気で月でも差し出すみたいに言われたところで、こちらに見えているのは、街灯の明かりだけなので、どうしようもなく、受け取りようがない。

『いやね?今日はいい日だったな〜って思って』
「抽象的すぎるね」
『えー、ですよね?俺も今、そう思いましたっ』

 電話の向こうで、くすくすと、笑う声がする。その笑い方がいつもの彼より少しだけ無防備で、私は眉をひそめた。
 話が噛み合っていないというよりも彼のほうがほんの少しだけ現実からずれている。眠気なのか気分なのか、それとも別の理由なのか——。問いただすほどのことでもないのに、放っておくには妙に引っかかる夜。

「ホークス」
『はァい?』

 返事は間延びしていて音の立ち上がりが遅い。呼びかけに対する反応というより言葉そのものを転がしているような声だった。

「飲んだでしょ」

 そう、やや強めに言った瞬間、ほんのわずかな空白が生まれる。電話の向こうからは、ピーポーピーポーと救急車のサイレンが、通り過ぎていく音が重なった。遠ざかるその響きが妙に現実感を連れてくる。

『エ? いやァ、えぇーと……』
「声」
『こえ』
「テンション」
『てんしょん……あー、……』

 言葉を繰り返すたび歯切れが悪くなっていく。誤魔化そうとしている気配が、通話越しでもはっきりわかる。私はベッドに腰を下ろし、スタンドライトの明かりを、もう少しだけ落とした。

「飲んだんでしょ」
『え……まあ、その……すこ、し、』
「すこし?」
『シャカイベンキョー......てき、な......?』

 苦し紛れの言い回しに、思わず、眉が寄る。

「二十歳前で?なんで、あと一ヶ月待てないの」
『あ、そこ突きますゥ?わー、さすがですねぇ』

 軽口に逃げようとする声色が、逆に今の状態を物語っている。

「今まで私の前では、ずーっと我慢できたのに」
『ねっ。怖いっすね〜、人生って! イエイ☆』

 なにがイエイ☆だ。私はあんたが怖いよ……。まるで星でもつけるようなその語尾に余裕があるあたりが余計に心配になる。私は深く息を吸ってからゆっくり吐いた。思っていた以上にため息が重い。

「正直に答えなさい」
『はいっ!』
「……どのくらい?」
『はい?え、えーっと……覚えてる範囲で言うとそんなに、は……』
「その覚えてる範囲が、もう怪しい」
『じゃ、なくてね?ちゃんと理性はありますよ』

 言い切った、その直後だった。電話口に不穏な沈黙が落ちる。回線が切れたわけでも雑音が入ったわけでもない。ただ彼の呼吸だけが少し遅れて聞こえてくる。その間が私の神経を逆なでする。

「……ホークス?」

 返事はない。私は、無意識に眉間に力を入れ、一度、耳からスマホを離して画面を見つめたまま次に言うべき言葉を探していた。問い詰めるべきか落ち着かせるべきか、その判断がつかないまま夜だけが静かに進んでいく。仕方なく、また耳にスマホを当てた、その瞬間。

『……あ、』
「え、なに」
『ちょっとやばい』

 その短い前置きだけで胸の奥がひやりとする。ああ、出たよ、出ました——来る。そういう予感だけは、こういうとき、外れない。

『待って、吐く——』

 次の瞬間、豪快で盛大な嘔吐音が耳に流れ込んできた。反射的に私はスマートフォンを少しだけ遠ざける。通話を切るほどではない、その微妙な距離。荒い呼吸、喉を焼くような音、水なのか、何なのか何かを探すように引きずる気配。どれもこれも、妙に具体的で、想像を拒まない。
 ……そして、私とて、経験がある。だからこそ過剰に騒がずにいられたのかもしれない。私は、もう一度、今度は意識して、深く息を吐いた。

「今、どこにいるの」
『……えっ、と』
「えっと、じゃない」
『それがですねぇ、ちょっと……わからなくて』
「わからない?」
『はい……。気づいたら、ここでした』

 言いわけにもなっていない返答だったけれど、不思議と腹は立たなかった。それよりも、呆れが先に立ち、その向こう側で、頭の中が冷えていくのがわかる。

「位置情報、送れる?」
『あ、それなら』

 返事とほとんど同時に、メッセージの通知音が鳴った。——まったく。こんなところで発揮するなよ、速すぎる男。
 画面を切り替えると確かに現在地が表示されている。見覚えのあるエリアだ。完全に、知らない場所ではないという事実が、わずかに心拍を落ち着かせる。

「わかった……そこ、動かないで」
『了解です! あ、座ってますよ。ちゃんと』
「そこで待ってて」
『はいっ。名字さんっ』

 いつもの呼び名。それが妙に素直な調子で呼ばれて私は一瞬だけ、言葉を失う。責任感なのか、線引きなのか、はたまた甘えなのか、その境目が曖昧な声だった。

「行くから」
『え、来るんですかぁ?』
「他に、誰が行くの……」
『……ですよねぇ、ふふ』

 その返事を最後に、私は通話を切った。ベッドから立ち上がると、体が勝手に次の動きを選んでいく。着替えは最低限、顔を洗う時間も惜しい。すっぴんなことに一瞬だけ迷って、それでも構わないと判断する。適当な眼鏡をかけて顔の輪郭を隠す。秋の夜は、思ったよりも冷えるから、薄手のコートも羽織った。
 鍵を手に取り、玄関を出る前に、もう一度だけスマートフォンを確認する。位置情報は、まだ、動いていない。
 もう、まったく……。そう思いながらも、足は自然とドアの外へ向かっていた。
 彼が成人を迎えるまで、あと、一ヶ月。大人になる準備としてはあまりにも不器用な夜が、もう始まってしまっている。そのことを止める気も、見捨てる気もない自分に気づきながら。

 位置情報の示す場所は思っていたよりも静かな通りだった。深夜というよりも、夜明け前に近い時間帯。車の往来もまばらで街灯の白い光だけがやけに現実感を強調している。
 信号機の向こう側——縁石に腰を落としたヒーローの姿が見えた。足を思いきり豪快に広げて、背中を丸めて、だらしなく前屈みになっている。右手にはスマートフォン、その画面はもう暗い。左手には、残りがほんのわずかになったミネラルウォーターらしきペットボトル。キャップは閉めないままで指に、引っかけるように持っている。
 ヒーローとしての彼を知っている人間が見たらまず気づかないだろう姿だった。私は、信号機のこちら側でしばらく動けずにいた。酔っている。間違いなく。けれど、それ以上に、あまりにも、無防備で無様で、それでいてどこか子どもじみた座り方が胸の奥を、ざらつかせる。呼び出された理由が、今さらながら重くのしかかってくる。
 信号がようやく青に変わった。私は横断歩道を渡りながら、歩幅を自然と早めていた。人の駆け寄る音に気づいたのか彼が顔を上げる。その瞬間だった。

「……あ、」

 と、目が合ったと思う間もなく、彼の表情が、ぱっと明るくなる。作りものではない、幼いほど素直な笑顔だった。

「名前さぁ〜ん」

 名前を呼ばれた次の瞬間、彼は、しゃがみ込むように立ち上がり、勢いのまま私を抱きしめた。ぎゅう、と、容赦のない力で、腕が回る。

「ちょ、ちょっと——」

 言い終わる前に胸元に顔を埋められる。肩口におでこを押しつけて、すりすりと擦られる。

「来てくれたぁ……」

 吐息と一緒にアルコールの匂いが立ちのぼる。基準値という概念があったら、確実に振り切っている濃度だ。こちらまで頭がくらくらしてくる。

「息、できない、離して……っ」
「え〜……?」

 名残惜しそうにそう言いながら、ようやく腕の力が緩んだと思った、その瞬間。彼はまた、その場にしゃがみ込んでしまう。いわゆる、ヤンキー座りと呼ばれる体勢で。私は一歩引いてから彼の両肩に、そっと手を置いた。

「もう……。立てる?」
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて」
「じゃあ、半分くらい」

 信用ならない返答だったが抱きつかれて縁石に戻されるよりはましだと私はため息を一つ吐いて彼の腕を取る。

「セーフハウス、送るから」
「ふぁーい……」

 よろよろと歩き出して、まだ、数歩も進まないうちに彼が急にぴたりと立ち止まった。その腕を引いていた私もその反動で後ろへ引き戻される。
 どうしてくれるんだ。思わず「うぉ」と色気も何もない声が漏れてしまったではないか。

「あれ」
「なに」
「鍵……」

 ポケットを探る仕草。ジャケット、パンツ——もう一度、ジャケット。残念、空振りだ。

「ない」
「うそでしょ……セーフハウスの?」
「たぶん。か、どっか。」

 いや……どっか、で済ませるな、と言いかけて飲み込む。今この状態で探し物をさせても事態が悪化するだけだ。

「……タクシー、拾うよ」
「え、どこ行くんです?」
「うち」

 そう言った瞬間、彼が、きょとんとした顔で、こちらを見る。……あの、さ。その無防備な目、本当に、やめてもらえないかな。

「え、いいんですか」
「今は、それしか選択肢がないでしょ」
「……そっか」

 納得したのか、よくわかっていないのか、彼は素直に頷いた。タクシーが停まり、私は半ば押し込むように、彼を後部座席へ座らせる。シートに沈み込んだ彼は、すぐに力を抜いた。

「名前、さん……」

 私の名前を呼ぶ声は、さっきよりも小さい。

「起きてて、ヒーロー」
「……努力、しまぁす」

 窓の外に流れる街灯をぼんやり眺めながら私は運転手に行き先を告げる。秋の夜は思ったよりも冷えている。なのにタクシーの車内は彼の体温とアルコールの匂いで、妙に息苦しかった。
 彼を自分の家まで連れて行くという選択をした理由を、私はまだ、うまく言葉にできずにいる。ただ、放っておけなかった。それだけが、いまのところ、唯一の真実だった。

 *

 玄関のドアを閉めると、私は室内の灯りをつけないまま彼を洗面所へ誘導した。眩しさは余計な刺激になるし、何より、この時間に現実味を持たせたくなかった。

「はい、うがい」
「はーい……」

 素直にコップを受け取りぐちゅぐちゅとやっている様子は驚くほど大人しくて逆に不安になる。
 続けて手を洗わせて水を飲ませる。冷蔵庫から取り出した新しいミネラルウォーターを半分ほど減らしたところで、ようやく私は一息ついた。

「ソファ、座れる?」
「余裕デス」

 そう言ってリビングに入った彼は、座るというより、流れるようにソファへ倒れ込んだ。

「わー、……初めてきましたよねぇ」

 天井を見上げたまま、間延びした声で言う。

「はいはい。感想は明日ね」
「なん、冷とぅなかぁ……?」
「なに言ってるか、わからないよ」
「えー?すんません、方言やけん」
「……もう、寝るの?」

 そう問いかけると、返事はむにゃむにゃとした音に変わり、言葉としては成立していなかった。私はそれを寝た判定とみなし、クローゼットからブランケットを持ってくる。ソファ脇にしゃがみ込み、彼の肩にかけようとした、その瞬間。

「——うぉ!?」

 再び色気の欠片もない声が、自分の喉から飛び出した。ぐい、と腕を引かれる。体勢を崩して、気づけば、彼の上にまたがる形になっていた。
 距離が、近すぎる。心臓が、うるさい。自分の鼓動の音が彼にも伝わってしまうのではないかと錯覚するほどだ。

「ちょ……なに、して……っ」

 言葉は途中で消えた。ホークスが私を見ていたから。酔っているはずなのに、妙に鋭い瞳孔で。焦点が合っていないようで合っている。現場で、敵を射抜くときの目と、同じだと思ってしまう。もしも私が敵だったら今ので即死だろう。そんな現実逃避じみた思考が、頭をよぎる。しかし次の瞬間——彼の手が、そっと私の顔に伸びてきた。指先が、かけていた眼鏡のフレームに触れる。

「……これ、外していいです?」
「え」

 返事を待つでもなく彼はゆっくりと私の眼鏡に両手を伸ばしそのまま外した。フレームが指先を離れた途端、視界は一気に柔らかくなり、部屋の輪郭が溶ける。彼の顔が、近すぎる距離で滲む。

「……やっぱり」

 小さく確信めいた声。酔いの軽さに紛れない、落ち着いた音程だった。

「なに、が」
「目。ちゃんと、名前さんだ」

 名前を呼ばれて喉が鳴る。酔っているからだと自分に言い聞かせる。けれど、その声の静けさは言い訳を許さないほどに、真っ直ぐだった。

「……ホークス、離して」
「やです」

 迷いのない返答。余計な装飾のない言い切り。

「わたしの方が、いや、かも……」
「今、それ言います?」
「なに、が……」
「この、状況で?」
「……言う、よ。」

 私が体を引こうとした瞬間、彼の手が逃げ道を塞ぐようにソファの背に置かれる。強さはない。ただ、位置が巧妙で、退くには一言必要になる。

「ふふ……怖い顔、してますよ」
「誰の、せい……」
「俺」

 自覚はあるらしい。そして素直だ。そう思うと怒る気持ちは、行き場を失う。

「名前さん」

 また、下の名前——。胸の奥で嫌な音がした。近づくほどに、その音は、鮮明になる。

「俺、ちゃんとしますから」
「何、を」
「越えないやつ」

 そう言い切ってから、彼は、すこしだけ視線を逸らす。その仕草に、彼の理性が残っていることがわかる。

「だから、今は——ここにいてほしいだけです」

 欲しいものだけを正確に口にする、その狡さ。まず、その言い方が何よりもずるい。私は一瞬、言葉を失った。

「俺——欲しいと思ったら、どうにも、我慢できない性分で」
「……ほんとに、酔ってるよね」
「はい。自覚はあります」
「明日、覚えてない可能性も高い」
「それは……まあ」
「なら」

 私は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。判断は、もう決まっていた。

「今は、寝なさい」

 短い沈黙。観念したように、彼の手がわずかに緩む。

「……はい」

 彼が肩を落としたその隙に私は身体を起こし、外された眼鏡を奪い取って、そっと自分の目元に戻した。視界が現実へ引き戻される感覚が、わずかに惜しい。
 ブランケットをかけ直すと、彼は、すぐに目を閉じる。呼吸が整い、部屋の空気も、落ち着いていく。越えなかった夜は何も起きないからこそ、強く記憶に残る。そのことを、私はよく、知っていた。

「おやすみなさい……名前、さん——」

 私の名前をなぞるような声は、もう、夢の縁に触れかけていた。語尾が溶けて、息の温度だけが残る。名前を呼ばれたという事実だけが、遅れて胸に届く。

「……おやすみ、未成年ヒーロー。」

 私は小さく返しブランケットの端を整えてからソファから離れた。彼の呼吸は、すでに安定していて起こしてしまう心配はない。触れずに済んだ距離が、今は正解だったのだと、自分に言い聞かせる。
 キッチンの灯りを落とし、足音を殺して一歩、下がる。何も、越えてはいない。確かに線は守られた。それなのに、胸の奥だけが、まだ落ち着く場所を見つけられずにいる。鼓動が静まるまでには、もう少し時間が必要らしかった。
 越えなかった夜は静かだ。静かな分だけ記憶に残る。私はその事実を抱えたまま、足音を殺して寝室へ向かった。

 *

 翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。カーテン越しの光がやけに白く、頭の中に昨夜の出来事が順序よく並び始めるまでに、少し時間がかかった。
 ソファのほうから物音はしない。念のため近づいてみると、ブランケットは、きちんと畳まれたまま、そこに、彼はいなかった。代わりに、ローテーブルの端には見覚えのある赤い羽根と、空になった、ペットボトル。それだけが昨夜が夢ではなかった証拠みたいに置かれている。
 キッチンで湯を沸かしながら、私は、深く息を吐いた。——覚えていないだろうな、とは思っていた。それでも、昼を少し過ぎた頃に鳴ったスマートフォンを見た瞬間、胸の奥がわずかに揺れたのは事実。



ホークス

おはようございます





 画面に表示された文面は驚くほど律儀だった。それだけで、彼の今の状態がだいたい察せてしまう。続けてほとんど間を置かずに通話がかかってきた。ためらいのなさが、逆に慎重さの裏返しのようにも思える。

「はい」
『あっ……名字、さん』

 耳に届いた声は完全に通常運転だった。昨夜のあの緩さはどこにもなく、落ち着いていて、少しだけ低い。翌日の空気に、きちんと馴染んだ音。

「体調は?」
『あー......正直に言うと、頭が、重いですね』
「……」
『——あと、胃も。』
「でしょうね」
『ですよね……』

 苦笑が混じる。——まったく、「ですよね」で済ませる話じゃないでしょうに。
 私はマグカップを手に取り、湯気の向こうに、視線を逃がした。コーヒーの苦味が思ったよりもはっきり舌に残る。

『……あの。確認、なんですけど』
「うん」
『俺、昨日……途中からの記憶が、まったく……なくて』

 やっぱりと思いながら私はカップをソーサーに戻した。音を立てないように置いたはずなのに、やけに大きく響いた気がする。

「どこまで覚えてるの」
『ヒーロー仲間と食事して、ちょっと飲んで……そのあと、店を出たあたりまでは……』
「そこから?」
『……気づいたら、自分の部屋でした』

 自分の部屋——その言い方が正しいのかどうか彼自身も迷っているらしく、言葉の後にわずかな間が落ちた。思い出そうとしているのかそれとも思い当たる節を避けているのか。
 電話越しに聞こえる呼吸はきちんとしている。昨夜の彼と、今朝の彼のあいだには、はっきりとした断層がある。その事実を私は静かに受け止めながら、次に続く言葉を待っていた。

『服も、ちゃんと着てて……』
「……」
『あと、スマホも、あって……ただ、』
「ただ?」
『……どうやって帰ったのか、まったく思い出せないんです』

 声音に嘘は混じっていない。ただ、困惑だけがある。だからこそ私の中に小さな違和感が残る。私だって知りたい。あなたが、いつ、どうやって出て行ったのかを。けれど少なくとも誤魔化している様子ではなかった。

「迎えに行った」
『え』
「電話、かかってきたから」

 短い沈黙が落ちる。通話が切れたわけでも雑音が入ったわけでもない。ただ、彼の思考だけが、立ち止まったのがわかる。

『……俺、から? うそ。』
「ほんと」
『え、……マジ、ですかぁ』

 本気で、驚いている声だった。取り繕う余地のない、素の反応。私はすこしだけ、声のトーンを落とす。

「吐いてたよ」
『……』
「場所も、わからないって言ってた」
『……それ、は……』

 言葉を探している気配が、受話器越しにも伝わってくる。申し訳なさと情けなさが、同時に喉につかえている感じ。

『あ、あの。ご迷惑を……』
「かけました、って言い切りなさい」
『…………おかけました』

 素直だ、と内心では思う。こういうところが、余計に、始末に悪い。

「鍵、なくしてたけど」
『あ、それ……ポケットの奥に、ありました』
「でしょうね」

 苦笑が重なる。昨夜の、あたふたした光景が、記憶の端で小さく、再生される。

『あの……』
「なに」
『俺……変なこと、言ってませんでした……?』

 その質問が来ることは最初から想定していた。私は一瞬だけ考える。どこまでを事実として渡しどこからを伏せるか。その境界線を、心の中で、確かめる。

「別に」
『別に、の範囲が、広いんですけど……』
「名前、連呼してたくらい」

 今度の沈黙は少し長い。現実の時間がそのまま間として落ちてくる。

『はぁ? うそでしょ……下の名前、ですか』
「そーぅ」
『……』

 通話の向こうで彼が息を吸う音がする。深くも浅くもない、整えようとする呼吸。その向こうにある感情を、私はまだ、言葉にするつもりはなかった。

『それは……すみません……』
「謝るほどじゃないよ」
『でも……』
「酔ってたしね」

 そう言い切ると、受話器の向こうで、彼の息がふっと抜けるのがわかった。緊張を解く音というより、張りつめていた自責が、ようやく居場所を見つけたような呼吸。

『ですよね……。ほんと、管理できてなくて』
「二十歳手前で学べてよかったと思いなさい」
『はい。身に沁みてます……』

 いつもの調子に戻った声だった。軽さの中に、反省がきちんと折りたたまれている。そのことになぜだか私は少しだけ安堵していた。昨夜の彼と翌日の彼とが、同じ人物であると確認できた気がしたから。

『昨日は……本当に、ありがとうございました』
「もうしないならいいよ」
『約束します。神に誓って』
「信じてるの?神様なんて」
『いや、信じてないですけど』

 その返しに私は思わず笑いそうになって代わりにカップの中の湯気へと視線を落とした。言葉にしてしまえば、どれも軽くなる。だから、あえて何も返さない。
 覚えていない。それでいいと、頭では、思っている。越えなかったのだから、問題は起きていない。そう整理することもできる。けれど、昨夜、確かにそこにあった間や視線や呼び方が、何事もなかったように消えてしまうことに、ほんのわずかな引っかかりが残る。それは爪の先に残る薄い違和感のようなもの。

『……今度、ちゃんと』

 彼が言いかけて、言葉を止める。その躊躇が、妙に、彼らしかった。

『いえ。改めて、謝らせてください』
「それで十分だよ」
『……はい』

 通話はそこで終わった。切断音が鳴るより先に私は、画面を伏せる。ソファにかかったブランケットをクローゼットにしまい、昨夜の体温が残る場所を元の状態に戻していく。片づけるたびに、何かが整っていく一方で別の何かが整えられないまま、置き去りになる。
 記憶に残らない夜と、残ってしまった、感情。そのわずかなズレがこれからの私たちを少しずつ静かに、歪ませていくのだろう。そう思いながら私は自分自身をこれ以上詮索することなく、キッチンの灯りを落とした。


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