次に彼と会ったのは、何事もなかった顔をした日常のただ中だった。
受付カウンター越しに差し出された端末を受け取る前に私は、ごく自然な動作のふりをして胸の奥に溜まった空気の位置を確かめる。
端末の症状、使用履歴。指先が追うべき項目は整然として、手順も判断も、いつも通りなのに、視界の端に映る彼の立ち姿がどうしても、余計なものを連れてくる。あの月の出ていなかった夜。いや、正確には、彼が覚えていない夜を。現実は何ひとつ揺れていない顔をしているのに、私の中だけがほんのわずかに時差を抱えたままだった。
「おはようございます」
名前も名字も呼ばれない挨拶。丁寧で均等で、業務中の温度を保った声だ。私の中で何かが軽く音を立てる。
「おはようございます」
返した声は私自身が聞いても過不足のない調子で、ここが職場であることを正しく示している。彼はプロヒーローで私は端末対応をする担当者。今日ほどその前提に救われた日はないと思った。
「スマホ、少しだけ反応鈍くて」
「はい」
「昨日の現場で、砂、噛んだ感じがあって……」
「預かります」
受け取った端末は、致命的な不具合を抱えてはいない。ただ、彼の手の癖や、持つときにどこへ力が集まるか、その無意識までを知ってしまっている自分に気づき私は視線を落とす。触れる距離が近いほど動作は静かに確実に、選ばれていく。
「今日中に戻ります?」
「ええ。夕方には」
「助かります」
短い頷き。目を合わせる時間は長すぎも短すぎもしない。整えられた長さだからこそ、何も残らない、残らせないという意志がそこにはあった。作業に入ると時間はいつも通りの正確さで進む。基板を確認しログを洗い、動作を一つずつ潰していく。身体が覚えている手順。思考が寄り添う、集中。なのに、名字も名前も呼ばれないことが、こんなにも静かな違和感として胸に居座るなんて想像していなかった。
「……あ、これ」
思わず、独り言に近い声が漏れる。
「え、何かありました?」
背後から届いた彼の声は、距離を測るように、やや控えめだった。
「……いえ。軽微です。問題ありません」
振り返らずに答える。振り返ればあの夜とその翌日のあいだに引かれた線を私自身が踏み越えてしまいそうだったから。
覚えていない——彼はそう言った。誤魔化しのない責める余地のない言い方で。だから私はあの夜のことを何ひとつ付け足さなかった。呼ばれた私の名前も外された眼鏡も越えないと告げられた境界線もすべてここには持ち込まないと決めた。忘れた側と、覚えてしまった側。その非対称を、今日も仕事という形で整えていく。何も起きなかった顔をした日常の中で、静かに。
夕方、端末を渡す時間になり、彼はまた何事もなかったように、カウンターの前へ立った。昼間よりも少し影の濃くなった照明の下で赤い羽根の色だけが、相変わらず目に残る。
「ありがとうございました」
名字ですら呼ばれない礼の言葉。業務の終わりを告げる、きれいすぎる区切りだった。線を引かれたというより、最初から線など存在しなかったかのような言い方。
「問題なさそうでした?」
「はい。しばらく様子を見てください」
「了解です」
それだけで、会話は終わる。終わってしまう。
——ああ、戻っている。私たちは、ちゃんと、元の場所に。なにも起きなかった関係に。戻れること自体はきっと正しい。正しいはずで、それを否定する理由も、資格も、私にはない。
「……名字さん」
不意にその名を呼ばれた瞬間、胸の奥でリズムがわずかに狂った。けれど彼はそれ以上近づいてこない。声も視線も、踏み出す角度を選び抜いたままだ。
「この前は、すみませんでした。電話」
「電話だけ?」
「あ、えっと……いろいろ、ご迷惑をおかけしました、ほんと」
具体を持たない謝罪。誰にでも向けられるような、一般論としての言葉。安全で、角がなくて、こちらが何も返さなくても成立してしまう。
「もう、大丈夫」
私は口角を上げる。自分でもよくできていると思う程度には。
「体調、戻ったなら、それでいいよ」
「はい。気をつけます」
そう言って彼は一歩引いた。距離が元に戻る。いや、元より少し遠い位置に、きれいに収まっていく。その後ろ姿は、相変わらず軽やかなのに、今は追いかける理由を一切与えてくれない。
今日も、赤い背中を見送りながら、私は思う。記憶に残らない夜よりも、記憶に残ってしまった沈黙のほうが、よほど扱いに困るのだと。触れていないのに確かに存在してしまった物は消し方がわからない。
その夜、家に戻ってから何気なくカレンダーに目をやる。彼の二十歳の誕生日まであと三週間。指先で、数える必要もない日数なのに、その数字だけが、やけに明確だった。
何事もなかったように時間は進み、何も起きていないはずなのに私の内側だけがほんのわずか、置き去りにされている。追いつく努力をするほどでもない距離で、ただ、静かに——。
*
それから数日後——仕事終わりの時間を正確に射抜くように、ホークスから、短いメッセージが届いた。通知音は控えめだったのに、画面を開くまでの指の動きだけが、少しだけ急いていた気がする。

今日、少しだけ
時間あります?
理由は書かれていない。だからといって、断る理由も思い浮かばず私はいつも通りの軽さを装って返事を送った。指定された店へ向かう道すがら季節はすっかり冬に傾いていて夜風が頬に触れるたび余分な熱が少しずつ引いていく。歩く速度と呼吸が揃ってくるにつれ、頭の中も静まっていくはずだった。
店に入ると、彼はすでに席に着いていた。軽く手を上げて合図をする仕草も、笑い方も、以前と何ら変わらない。変わらないことが今は少しだけ眩しい。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
それだけで始まる、何度も繰り返してきた夜。注文を済ませて、料理が来るまでの短い空白に、私たちは他愛のない話を置いていく。最近の任務のこと、ニュースで見かけた出来事、季節限定のメニューが思ったより甘かった、という、些細な感想。私は相槌を打ちながら、どこかで意識が、ゆっくりと軸を外していくのを感じていた。言葉は耳に届いているし、意味も追えている。ただ、返す言葉が、わずかに遅れる。その微細なズレが積み重なっていくのを、彼は見逃さなかった。
「……名字さん」
「なに?」
呼ばれ方は名字のまま。それが、私と彼の今の距離を、正確に示している。
「今日、疲れてます?」
声の高さがほんの少し落ちる。探るようで決めつけない、彼らしい聞き方だった。
「そう見える?」
「うーん……」
彼は箸を置き、視線を一度だけ、宙に預ける。考えるための、短い間だ。
「上の空っていうほどじゃないですけど。なんか遠い感じで」
的確すぎて私は思わず苦笑した。否定も肯定もできないところを、静かに、言い当てられると、こちらの逃げ場は、自然となくなる。テーブルの上で湯気が細く立ちのぼり、会話の続きを待っている。
「……ごめん。考え事してただけ」
「仕事?」
「半分は」
嘘ではない。けれど、残り半分の輪郭を言葉にするつもりはなかった。口にすれば、置いてきたはずのあの夜が、また息を吹き返してしまう気がしたから。
「無理して付き合わせてたら言ってくださいね」
「無理じゃないよ」
そう答えると、彼は、ようやく肩の力を抜いたように静かに息を吐いた。目に見えるほどの変化ではないのに安心したことだけは確かに伝わってくる。
「それなら、よかったです」
それ以上、踏み込んでこない。私の沈黙を問い詰めない。代わりに、話題を少しだけ軽い方向へずらす。その選び方が彼らしい。ありがたくて、同時に胸の奥がわずかに締めつけられる。優しさは距離を詰めることだけじゃないと彼は、知っている。
料理を口に運びながら、私はふと思う。彼は、覚えていない夜の事を引きずっていない。記憶に残らなかった出来事は、彼の中ではすでに過去にすらなっていない。だからこそ、今もこうして、変わらない距離で、隣に座っていられるのだ。
「……ねえ。」
呼びかけると、彼はすぐに顔を上げた。反応が早い。その早さに、少しだけ言葉を失う。
「はい?」
「……、ん、なんでもない」
結局、言いかけてやめる。視線を逸らした私を彼は一瞬だけ不思議そうに見て、それでも深追いはしなかった。
「了解です」
小さく笑って、また箸を取る。その横顔を見ながら言わなかったことが積み重なっていくたびに私たちはきっと同じ場所に立ったまま、少しずつ違う景色を見ているのかな、なんて思った。
食事を終えるころ、会話はまた、元のリズムに戻っていた。少なくとも、そう見える程度には。皿が片づけられ、店内のざわめきが少しだけ落ち着いた頃、彼はいつもの調子で話し、私はそれに応じていた。けれど、その均整はどこか仮のものだと私だけが知っている気がした。それでも彼は最後まで、私の様子を気にかける視線を崩さなかった。
店を出て並んで歩く帰り道。夜気は思ったよりも冷えていて、首元から入り込む空気が、昼間に残っていた温度を、押し流していく。何も起きていないはずの夜に、言葉にしない違和感だけが、静かに積もっていく。街灯の下をいくつも越えながら、私は何度も口を開きかけては閉じる。形になりきらない何かが喉の奥で引っかかっている。
「……」
「……」
沈黙が伸びる。伸びるほど彼の歩幅がわずかに私に合わせて調整されていることに気づいてしまう。その事実が、かえって言葉を遠ざけた。
「……あの、さ。」
私は、声に出しかけて、やめる。
「——あの……。」
「……」
「あ、いや……ごめん」
また、やめる。自分でも呆れるほどの逡巡に、彼は一度、深く息を吸った。
「名字さん」
名字で私を呼ぶ声がさっきより少し低い。夜の中で、その輪郭がはっきりする。
「言うなら、ちゃんと聞きますけど?」
立ち止まって、私を見る。その視線は柔らかいままなのに逃げ道を残さない。待つ覚悟だけが、静かにそこにあった。
「……ごめん」
結局、それしか出てこない自分に、内側で歯がゆさが募る。
「……はぁ、もういいっすよ」
すると、思っていたよりも少しだけ、強い声が返ってきた。
「無理に話さなくていーんですけど、別に」
そう言って彼は一度、視線を落とす。ため息に混じって続いた言葉は抑えようとして抑えきれなかった本音だった。
「……なんていうか、その煮え切らない感じが、こっちまで、モヤっとしてくるっていうか」
そのひと言が胸の奥をちくりと刺す。正論だとわかっているからこそ、反論の余地もなく、痛みだけが静かに残った。
「……じゃあ、いいよ」
私も声を落として言った。子供だなと自分でも思う。でも、怒鳴るほどの勢いはなく、むしろ、自分の中に沈めるような低さだった。
「私のことなんて、気にしなくても」
吐き捨てる、というより、切り離すための言葉だった。私はそれだけ告げて彼の横を一歩、通り過ぎる。靴音が夜道に乾いた音を残し、はっきりと距離が生まれる。このまま離れる。そう思った次の瞬間だった。
「——待ってって、」
腕を掴まれた。強くはない。ただ、迷いのない動きだった。引き留める——という意志だけが、過不足なく伝わってくる力加減。
「っ……!」
思わず息が詰まり肩が小さく反応する。身体が先に動いてしまったことを、私自身がはっきりと自覚する。掴まれた腕がわずかに震えているのもきっと彼には、伝わってしまった。
「あ……」
一瞬で、彼の表情が変わる。掴んでいた手が、はっとしたように離れた。指先の力が抜けるまでが、あまりにも早い。
「いや、あの……ごめんなさい、」
彼は即座に距離を取る。さっきまでの強さは、そこにはない。声は低く抑えられていて、別人のもののようだった。夜の空気に溶けるような静けさで、ただ謝罪だけが残る。
私は振り返らないまま掴まれていた腕をそっと押さえる。触れられた事実よりも触れられた瞬間に自分の身体が覚えていた反応のほうが重く残っていた。越えないはずの線に、ほんの一瞬だけ、触れてしまった。その事実を互いに言葉にしないまま、夜は静かに続いていく。
「いま……俺、……、」
言いかけたまま彼はさらに一歩距離を取った。その後退は早すぎるほど用心深くて、触れてしまった事実を自分自身から切り離そうとする動きに見えた。
「……怖がらせるつもりは、なくて」
私は自分の腕を引き寄せ、指先をきゅっと握りしめる。掴まれた場所にじんじんと、遅れて熱が残っている。触れられていた時間よりもその余韻のほうが長く、夜の空気の中で主張していた。
「ううん……怖かった、わけじゃない」
そう言うと彼はゆっくりと顔を上げた。視線が合うまでのわずかな間に私の中でも言葉の整理が進んでいく。
「……ただ、びっくりしただけ」
私は深く息を吸う。胸に入った空気が少し遅れて落ち着きを連れてくる。自分の反応に、今さらながら気づく。掴まれたこと自体が、恐怖だったわけじゃない。ただ、予想していなかった。それだけなのに。
それでも、彼の表情は晴れない。自分の行動を何度もなぞり直している目だ。責められていないのに、責任だけを引き受けようとしている。その沈黙が、かえって私の胸をざわつかせる。
「……でも、」
「や……俺が、悪いです」
私が何かを付け足すより先に彼は短く言った。声は低く、逃げ道を作らない調子で、それ以上、触れないと決めた人の音だった。
「俺が感情、出しすぎました」
きっぱりと言い切る声だった。迷いを振り切るような、まだ十九歳の青年が、自分を律する音。未来があるからこそ、ここで立ち止まれるのだという強さがその短い言葉に詰まっている気がして私は胸の奥がわずかに軋むのを感じながら視線を落とした。
「……私、も……」
すぐには続きが出てこない。言葉を選ぶための沈黙が、夜に溶ける。
「ちゃんと話せなくて、ごめん……」
彼は何も言わずに、ただ頷いた。街灯の下で、二人の影がさっきよりも少し離れて伸びている。触れなかった手と、触れてしまった一瞬。その、どちらもが、今の私たちを正確に映していた。
「……大丈夫、」
小さな声でそう言いながら私は、視線を足元に落とす。「大丈夫」と言うには、少しだけ、無理があると自分でも、わかっていた。
「私が変だったし、それに——」
「違います」
しかし彼はまた、私の言葉を遮るように、先に口を開いた。
「……俺が、やりすぎました」
「……」
「踏み込みすぎたと思ってます」
その言い切りに、彼の倫理が滲んでいた。感情よりも先に線を引くことを選べるその判断の早さがありがたい反面、胸の奥をわずかに傷つける。
短い沈黙が落ちる。そのあいだに夜風が二人の間をすり抜けていった。そしてようやく、今度は私のほうから口を開く。
「……最近、考え事、してるだけなの。」
「……」
「あなたの……ホークスの、せいじゃない」
彼は、何も言わずに聞いている。急かさない。ただ、距離だけは保ったまま、逃がさない位置にいる。
「……その。言えないことも、あるから」
それは彼に向けた言葉であると同時に自分への小さな、免罪符でもあった。全部を説明できない夜もある、と。すると、少しの間を置いて、彼が静かに言う。
「そういうときは、無理に笑わなくていいです」
声は柔らかく、それ以上踏み込まないと決めた響きだった。近づきすぎず遠ざかりすぎず。その距離こそが、今の彼の精一杯で、そして私たちが選び続けている『越えない形』だった。
「黙ってても俺は、ちゃんとここにいますから」
「……」
「ずっと、ですよ。……ずっと。」
その言葉が、思っていたよりも静かで、そして優しすぎて、私はすぐに、返事を返せなかった。慰めでも約束でもなく、ただ事実として差し出されたような声音だったから。
街灯の下で、二人分の影が並んで伸びている。肩が触れるほど近くはない。けれど、背を向けて離れるほど遠くもない。触れない距離。越えない距離。それでも、完全には断ち切れない場所に、私たちは立っていた。何も言わないまま同じ夜気を吸い、同じ光の下にいる。それだけのことが、今は十分すぎるほど重い。進まない選択を重ねてきた結果として残る、この静かな居場所を、私はまだ、手放す覚悟ができずにいた。
*
最近の私はどうかしていたのだと思う。理由を挙げようとすれば、仕事の忙しさや、睡眠不足や季節の変わり目のせいだとか、いくらでも並べられる。けれど、いちばん近いところにある正体はたぶん、時間だけが先へ進み、私たちのあいだに横たわる曖昧な沈黙がいつのまにか��説明しなくてもいいもの�≠ニして定着しつつあることへの、微かな恐怖だった。
言葉にしなくても成り立ってしまう関係は楽で優しくて、そして少しだけ残酷だ。問い直さなくても済むかわりに確かめる機会も静かに失われていく。私はその事に気づかないふりを続けるにはもう少しだけ、年を重ねすぎていた。
ホークスの誕生日が、もうすぐそこまで迫っている。節目という言葉がやけに重く胸に触れる。十九歳から二十歳へ。数字がひとつ、変わるだけなのに、彼を取り巻く世界の扱いも責任もきっと変わっていく。その変化を思えば思うほど私は、��今まで通り�≠ノ、戻らなければならないのではないかと感じていた。
そう考えたとき、それは、義務感というより、逃げないための決意に近かった。
時間に任せて何も選ばないまま流れていく事は私たちらしくない。越えないことを選ぶならその選択にきちんと向き合う必要がある。そう思って私は自分から、彼を食事に誘った。

任務忙しい?
ご飯食べに行かない?
送信してから画面を伏せるまでにほんのわずかな間があった。その短い時間に返事が来なかったらどうしようとか、忙しいと言われたらどう受け取ろうとか、余計な想像が、静かに頭を占める。しかし、少しして、スマホが控えめに震えた。

今日は比較的落ち着いてます

急ぎの案件もないですし

名字さんがよければ
全然、行きたい感じで
最後の一文に彼らしい遠慮と、わずかな温度が混じっている。即座に踏み込まないその書き方に私は小さく息を吐いた。

それならよかった
仕事終わりでいい?
そう返しながら胸の奥で何かが静かに定まっていくのを感じていた。越えない関係のままでも、立ち止まらずに選び直すことはできる。この夜はそのための小さな一歩になるはずだった。約束の店で顔を合わせた瞬間、彼の表情がほんのわずかな遅れを伴って緩んだ。笑顔と呼ぶほど明確ではない。ただ肩の奥に溜めていた力がふっと抜けるような変化。安堵という言葉を当てるには小さすぎるのにいったん気づいてしまうと見過ごせない種類のものだった。私はそれを見なかったことにして、いつもと同じ調子で声をかける。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
——声の抑揚。語尾の落とし方。間の取り方。うん、大丈夫。どれも元の位置に収まっている。決まった役割をなぞるように��普通�≠ノ振る舞うというミッションは思っていたよりもずっと簡単だった。簡単すぎてうまくいっているという手応えより先に胸の奥に鈍い感触が残る。その正体を確かめる前に私たちは席に着き、注文を済ませ、料理が運ばれてくるまでの時間を、会話で埋めていく。
「今日は、結構混んでますね」
「この時間帯、最近多いみたい」
最近の現場の話。ニュースの小さな話題。期間限定メニューの当たり外れ。彼はいつものように軽やかで、それでいて雑にならない距離を保ったまま言葉を選び、ところどころで、ほんの少し、茶化す。その度合いも、以前と変わらない。
「それ、前も外したよね」
「学習しない男みたいに言わないでくださいよ」
「だって、事実じゃん?」
私は笑って突っ込み、言葉を返す。間が空けば彼が埋め私が拾う。何度も繰り返してきたリズムが自然に戻ってくる。そうそう。これだ。胸の奥で素直に楽しいと思える感覚が、ゆっくりと息を吹き返す。さっきまで引っかかっていた違和感が角を丸めながら遠ざかっていくのがわかる。無理に押し流すのではなく時間をかけて位置を変えていく感じ。すると、彼が何気なく言った。
「……なんか、今日はいい感じですね」
「なにが?」
「会話の流れ、というか」
私は一瞬、驚いたがすぐ小さく肩をすくめる。
「いつも通りでしょ」
「ですね」
その一言に、背中や肩の力が抜けていくのが、言葉の温度から伝わってくる。彼の方も同じ場所に、戻ってきている。ついさっきまでの緊張が、まるで最初からなかったみたいに。その自然さが少しだけ心地よくて、少しだけ、胸に残った。
「……今日は、元気ですね」
不意に彼がこちらを見て言った。探るようでもあり、確かめるようでもある、その、言い回し。真正面からは踏み込まず、様子を測る距離感が、いかにも、彼らしい。
「え? そう?」
「はい。なんていうかほんと、いつもの感じで」
言葉を選びながら最後に、そう付け足す。その間合いにも気遣いが滲んでいる。私は小さく息を吐き、わずかに笑った。——いつもの感じ。その言葉が嬉しいのか胸に引っかかるのか、まだ自分でも、判断がつかないまま。
「戻っただけだよ」
「戻るの、大事です」
彼はそう言ってグラスを口に運ぶ。冗談めいた調子の奥に真面目さが沈んでいるのを、私はもう知っている。軽く流しているようでいて、彼は、いつだって、立ち位置を見失わない。
食事が進み空になった皿が静かに増えていく。店内のざわめきが一段落したころ、私は、会話の流れを確かめるように、少しだけ姿勢を正した。
「ねえ、そういえばさ」
そう切り出すと彼も箸を止め私と同じくらいの角度で背筋を伸ばす。言葉を受け取る準備をするときの、あの癖。
「はい?」
その返事はいつも通り穏やかで、でもどこか、構えを含んだような音だった。
「誕生日、もうすぐでしょ」
「あー、……はい」
わずかな間のあと、彼の瞳が少しだけ見開かれる。そのあとで照れを隠すように口角が上がり、困ったような笑いに変わった。
「覚えてたんですね」
「一年前から知ってる」
「それは……プレッシャーですね」
「だいぶね?」
軽口の形を借りて言葉を交わしながら私はその先を躊躇わずに続けるつもりでいた。ここで止まってしまえばまた「今まで通り」に逃げてしまう気がしたから。
「……欲しいもの、ない?」
その問いを口にした瞬間、彼の動きがごくわずかに止まった。箸を置くでもなく、こちらを見るでもない。ただ場の時間だけが一段落ちたような静けさ。冗談として、受け取るべき問いだということは彼自身もわかっているはずなのにそれでも考えるための余白が、確かに生まれる。
「……」
「……」
沈黙が妙に澄んでいて私は耐えきれずに視線を逸らした。これはただの、普通の質問だ。今まで通りに戻るための、何でもない一言。そう自分に言い聞かせながらも彼がどんな顔で答えるのかを私は少しだけ怖がっている。体感では、数秒以上にも感じられたその間のあとで彼は、ゆっくりとグラスに視線を落とした。縁を、指先でなぞる。その動きは考え込んでいるというより言葉の形を探している仕草だった。そういうところが相変わらずだなと思う。やがて、ほんの少し間を置いてから。
「欲しいもの、ですか」
「うん」
短いやりとりのあいだに店内のざわめきが戻ってくる。彼は唸るように「うーん」と腕を組み、軽く笑って肩をすくめた。
「急に言われると、難しいですね」
その声はいつも通り軽くて、けれど、不用意に踏み込まない温度だった。私はそれを聞きながらまだ答えが出る前なのに、胸の奥で小さく、息を整えていた。
欲しいものを尋ねただけのはずなのに、どこか試されているような気がしてしまう自分をそっと誤魔化しながら。
「……そんな、難しいかな?」
「はい。難しい質問すぎます」
「難しく考えなくていいよ。ほら、靴下とかでもいいし」
「いや……それはそれで、実用的すぎません?」
「実用性重視のヒーローが、それを言う?」
「はは。まあ……たしかに」
くすっと、息を漏らすような笑い。その軽さに私は内心で小さく、安堵する。空気はまだ、重くなっていない。少なくとも、今のところは。彼は「正直に言うと」と前置きしてから、いつもより少しだけ、言葉を選ぶ調子で続けた。
「もう、だいたい持ってるんですよねー。必要なもの」
確かに。ヒーローという仕事柄、支給品も多いだろうし、周囲が放っておかない立場でもある。その事実を彼は、誇るでも、卑下するでもなく、ただ、淡々と口にする。その平熱さが、かえって彼らしいと思う。
「……じゃあ、いらない?」
「いらない、って言うと角が立つんで」
「立たないよ」
「立ちますって」
そう言い切って彼は少しだけ困ったように眉を寄せた。その表情に、私のほうが先に負ける。
「……でも」
その一言で、私は箸を止めた。彼は一度、息を整えるように、間を置いてから、こちらを見ずに言う。
「もらえるなら、嬉しいです。何でも」
——何でも。その言葉は、思っていたよりも、静かに音を立てず、その場へ落ちた。軽く言ったはずなのに余計な意味を削ぎ落としたぶんだけ、逃げ道がない。私は一瞬、返す言葉を失う。
欲しいものを具体的に挙げなかったこと。期待しないふりをしたまま受け取る姿勢だけを示したこと。それが彼なりの距離の取り方だと私はもう知っている。知っているからこそ、その何でもという答えをただの社交辞令として片づけることができず、胸の奥に小さく、けれどたしかな重さを残した。
「ずいぶんと……雑な、まとめ方だね」
「まぁー、自覚はありますけど」
そう言いながらも、彼は、笑っている。逃げるための笑いではなく、視線を逸らすこともしないまま、きちんと、こちらを見据えた顔で。
「名字さんが選んだものなら」
その言い方がずるいな、と思う。選択の責任を丸ごとこちらに預けてくるくせに、期待だけは、きちんと含ませる。その温度が軽すぎもしなければ重すぎもしないところが、余計にたちが悪い。
「……参考に、ならない」
「すみません」
謝罪の言葉とは裏腹に、その声には微塵も後ろめたさがない。それでいて、どこか楽しそうで、私は思わず、小さく息を吐いた。
「二十歳だよ? 晴れて、大人の仲間入り」
「はい」
「そんなさ、素晴らしき一生に一度の誕生日なんだからさぁ」
「そんな、大袈裟でしょ。毎年きますって」
「そうじゃなくてさ。もう少しくらい、ワガママ言えばいいのに、って思って」
彼は私の言葉を受け止めるように、一拍置いてから、首を傾げる。
「わがまま、ですか」
その声音には、拒否も否定もなかった。ただ、定義を探すみたいな静けさがある。
「じゃあ……」
「うん?」
「当日は、時間もらっていいです?」
プレゼントではない。形のあるものでもない。その提案が口に出された瞬間、胸の奥で、ほんのわずかに、何かが鳴った。音と呼ぶには小さく、でも、確かに意識に触れる違和感。
「時間、って……?」
「んー、食事とか。いつも通りでいいので」
——いつも、通り……。
その言葉を彼が選んだことに意味がないはずがない。だから私は、できるだけ軽い調子を装って返す。
「それなら」
「はい」
「別に、誕生日じゃなくてもいいんじゃない?」
「誕生日がいいんです」
即答だった。けれど声は穏やかで、押しつけがましさは一切ない。彼はテーブルに片肘をつき、その上に顎を乗せると、こてん、と首を傾げる。
「素晴らしき一生に一度の誕生日なんでしょ?」
「ま、まぁ……そうは、言ったけど……」
「じゃあ、その日で」
「……理由、は?」
ほんの冗談めかした問いかけだったはずなのに彼は曖昧に笑って、少しだけ、視線を落とした。
「……まあ。区切り、みたいなものなので」
二十歳になるという節目。大人になる、という言葉を彼は最後まで口にしない。口にしないまま必要なことだけを、静かに差し出してくる。踏み込みすぎない、距離で。でも、逃げもしない位置から——。その選び方が彼らしくて私はまた一つ軽く、頷くことしかできなかった。
「……考えとく」
そう返すと彼は一度だけ満足したように小さく頷いた。
「はい。ぜんぜん、急ぎませんよ」
その言葉に嘘はない。それは、待つことを選ぶ人の声だったから。
彼はそれ以上、この話題を、引き延ばそうとはしなかった。自然な流れで料理の話へ戻り会話はまた緩やかに、弾み始める。新しく運ばれてきた皿の匂い、湯気、箸が触れ合う音。
「そういえば、ヒーローたちって成人式やったりしないの?」
「……成人式、ですか?」
「ほら、芸能人はさ。振袖とか袴とか着て、毎年ニュースになるじゃん」
「あー......たしかに、見ますねぇ」
さっきよりも、話し声が無理なく、喉を通る。空気は確かに、少し前よりも軽くなっていた。
「ヒーローもそういうの、あってもいいと思うんだけどなぁ」
「え、見たいです?ヒーローの晴れ着姿なんて。日頃から派手なコスチューム着とーとに?」
「えー、見たい見たい。もしそういう場があれば絶対、特集組まれるでしょ」
「でしょうね……俺はまあ、想像つきますけど」
「うわ、やな感じ〜、何その余裕。想像って?」
「いや羽根んとこ、逆にどうするかってくらいの話で。邪魔だし、ぜったい」
「羽ばたかせろ、羽ばたかせろ!バッサァって」
くだらない想像に私たちは軽く笑い合う。声を潜める必要もないただの食事の席。そう思い込ませてくれるような、穏やかなやり取りのあとで、彼はほんのわずか、間を置いた。
「俺は、それより」
「ん?それより?」
「名字さんの成人式の写真のほうが、ちょっと、気になりますけどね」
それは唐突で、でも、彼らしい視点だった。
「はい、却下ー」
「はは、即答ー。え、見せてくださいよ、今度」
「あー、あー、何も聞こえませーん」
わざとらしく耳を塞ぐ仕草をすると、彼はくすくすと、喉の奥で小さく笑った。その音が、テーブルの上の空気を柔らかくする。
——今まで通りに戻りたい。その願いはたぶん半分は叶っている。こうして笑って軽口を叩いて特別な意味を持たせない会話を重ねているのだから。けれど同時に誕生日という一点に向かって、時間が静かに収束していくのを、私ははっきりと感じていた。流れ続けていたはずの日々が、目に見えない線で、そこへ導かれていくような感覚。抗うほどの力もなく、ただ気づいてしまうだけの予感。
「ザンネン」
「こらこら、残念がるな」
「だって、絶対ちゃんとしてるじゃないですか。似合うの、わかりきってるし」
「……」
「赤でした?それとも黒?もしくは黄色とか?」
「勝手に想像しないで、エッチ」
「エッチて。まあ、想像くらいは自由かなって」
冗談めいた言葉の応酬の裏で、私は、気づいている。彼が欲しがったのは物ではなかった。形に残るものでも記念になるものでもない。ただ同じ時間を過ごすこと。それだけだということを。
それが何を意味するのかを今ここで言葉にする必要はない。考えるのは、もう少し、先でいい。私はそうやって自分に言い聞かせながら、冗談の調子を崩さないまま、そこから先へは踏み込ませない。話題は自然と別の方向へ流れていく。それでも胸の奥では、もう答えの輪郭だけが、静かに浮かび始めていた。
店を出ると、夜はすっかり冬の匂いに変わっていた。歩道に落ちる街灯の光が白く、私たちは、並んで歩きながら、さっきまでの賑やかさを少しずつ手放していく。会話は軽いまま続いていたのに別れ際が近づくにつれて言葉の隙間が増えた。駅の手前で、自然と足が止まる。
「今日は、ありがとうございました」
そう言って彼は、いつも通りの距離で、立っていた。近すぎもせず、遠すぎもしない位置。声も仕草も、ここまできれいに��普通�≠セった。
「こちらこそ。……じゃあ、またね」
私がそう返して、彼に背を向けて歩き出した、その直後だった。
「——あの、」
不意に呼び止められて反射的に私は足を止め、振り向く。
「……ん? なに?」
「……ありました、欲しいもの」
あまりに唐突な切り出しに、私は一瞬、瞬きをする。彼は視線を足元に落とし、それからすぐに上げ直した。躊躇いは確かにあるのに、逃げない目。ここに至るまで言うか言わないかをきちんと選んできた人の視線だった。
「あなたを」
その言葉が、空気のなかで静止する。夜の音がわずかに遠のく。
「……ちゃんと、名前で呼んでもいい権利」
言い切りだった。軽口に逃がすでもなく冗談として回収する気配もない。静かに、しかし確実に置かれた言葉に、私の心臓が遅れて反応する。
「……それって、プレゼントの範囲?」
思ったよりも、平静な声が出て、自分でも少し驚く。彼は、小さく頷いた。
「範囲です」
「……」
「いつもじゃなくても。必要な、ときだけで」
「必要なとき、って?」
「……考えてる、ときとか」
答えは曖昧なのに、言い方だけがやけに具体的だった。彼が、どこまで踏み込み、どこで止まるつもりなのかが、はっきり伝わってくる。距離を越えないために、距離を定義している。
「拒否権は?」
私が思わずそう問うと、彼は、間を挟まずに、答えた。
「もちろん、ありますよ」
「……」
「でないと、フェアじゃない」
その言葉と同時に、彼の口元がほんの少しだけ緩む。優しさと理性が同じ場所にある、いつもの表情だ。越えないまま、確かに一歩だけ近づく。その提案の仕方に私はまだ返事を持たないまま、夜の空気の中に立っていた。
「だから、権利です」
「……」
「行使するかどうかは、俺が決めて、許可するかどうかは、名字さんが決める」
公平で理屈っぽくてそれでいてどこかずるい。感情を裸のまま差し出さないくせに、こちらには選択を委ねてくる。そのやり方がなんとも、このヒーローらしかった。
「……ずいぶんと、理屈っぽい誕生日だね」
「大事なところなので」
迷いのない、返答だった。取り繕わず、けれど重くもならない、その平熱の調子のまま。夜風が二人の間を静かに通り抜ける。まだ、数えるほどしか呼ばれていない名前。音としては短く記憶としては頼りないはずなのに呼ばれる可能性だけが確かな予感として、その場に残っていた。
「……考えとく、って、言ったよね」
私はそう前置きしてから、ほんのわずかな間を置く。彼の視線が、言葉の続きを待っているのがわかる。急かさない。ただ、逃がさない。
「今も、それでいい?」
「はい」
今度も迷いはなかった。彼は一歩も距離を詰めてこない。ただ、その場に立ち、選ばれるかどうかを、こちらに委ねたまま、姿勢を崩さない。
「じゃあ——」
私は一度、呼吸を整える。深呼吸というほど、大袈裟ではないけれど言葉を外へ出すには十分な準備の間。
「誕生日まで、保留で。」
拒否でも許可でもないその置き方を彼は正しく受け取ったらしい。その証拠に、表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「了解です」
短くそう言って、彼は深く頭を下げる。感情を上に乗せない、きちんとした所作。その丁寧さが今はただ、ありがたかった。
「じゃ……今日は、ここまでで」
「うん」
それ以上、言葉を足さない。別れ際、彼は一度だけ、こちらを振り返る。
「おやすみなさい、名字さん」
「……おやすみ」
背中が、少しずつ遠ざかっていく。名前はまだ呼ばれていない。けれど、呼ばれる準備だけが、静かに整ってしまった夜だった。時間も、距離も言葉さえも、すべてがその一点へ向かって、もう戻れない角度で、ゆっくりと、傾き始めている。私はそのことを、はっきりと感じていた。