数日経ってから遅れて効いてきた。——ああ、わたし、やってしまったな、と。朝の通勤路で、信号待ちのあいだにふと蘇ったのは、あの夜の、間の悪い一言だった。
『ホークスって……私のこと、好きだったの?』
勢いと酒に背中を押されて考えもせずに投げてしまった言葉。すぐに返ってきた「そういうわけじゃないと思うんすけどね」という、曖昧な答えよりも問いそのものが、あとからじわじわと胸の内側を擦ってくる。
聞かなくてよかった。聞かないほうが、たぶん楽だった。彼のあの笑い方もわざと軽くしていた口調も思い返すたびに余計な解釈ばかりが増えていく。冗談だったと自分に言い聞かせる一方で、もしもほんの一欠片でも本音が混じっていたら、なんて考えてしまう。その想像が、いちばん厄介だった。だからその日は、仕事に集中することにした。端末のログを確認し、修理依頼を処理し、報告書を淡々と積み上げる。考えない。思い出さない。名前を出さない。そう決めたはずだった。
「お疲れさまでーす」
聞き慣れた声が、受付カウンターの向こうから落ちてくる。嫌なほど、反射で分かってしまう。それでも今日に限っては顔を上げるタイミングを逃してしまった。仕方ないのでそのまま報告書に視線を落としていると、また、声が降ってくる。
「すみませーん」
ようやく顔を上げると、そこにはいつも通りの彼がいた。軽い笑み。申し訳なさそうな肩の竦め方。そして、無言で差し出される端末。
「……また?」
「水没、ではないんですけど」
言いながら、言い訳の準備をしている顔。
「落としましたーん。高さ、まあそれなりデス」
私は溜め息を飲み込んで、指が触れないように端末を受け取る。画面は、無残にひび割れていて電源も入らない。完璧に、いつものやつだ。
「……壊す頻度、更新してますよ」
なるべく平静に言うと「学習能力低めなんで」と彼は悪びれずに笑った。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ緩む。同時に、後悔が戻ってくる。
「このあいだは、学習能力高いって自分で言ってなかったっけ?」
「えー?それ、俺でした?」
「あなた以外でそんなことを言うヒーローいないってば」
あの質問さえしなければ彼は何も変わらない。軽口も距離感も、こちらを試すような曖昧さも、そのままだ。だから変わったのは、たぶん、私のほうだけだ。
端末を作業台に乗せる。ひび割れた画面に指を滑らせながら、私は手順通りに電源の反応を確認した。起動しない。やっぱり、だめか。
「……うーん」
独り言みたいに零しつつケーブルを繋ぐ。その作業の合間に、ほんの一瞬だけ、視線を横に逸らしてしまった。チラ見程度。とくに意識したわけじゃない。ただそこにいるのが分かっているから反射みたいなものだった。ホークスはカウンターの向こうで、いつも通り気楽そうに立っている。壁に貼られた注意書きを眺めているふりをして、でもどこか手持ち無沙汰な顔。私はすぐに視線を戻す。けれど——。
「ん?……なんすか?」
気づかれてしまった。そっと顔を上げると彼がこちらを見ていた。眉をわずかに上げて特に気にしていない、そんな体を装った表情で。
「いや、別に」
私は、壊れた端末から目を離さずに答える。
「画面、完全に死んでるなって」
「それは……まあ、はい。覚悟はしてました」
彼は苦笑を含んだまま、小さく頷く。彼はそれ以上、踏み込んでこない。さっきの視線の意味を問うこともからかうこともせずただ業務の流れに乗ったまま待っている。そういうところだ。変に探らない。気づいてもなかったことにする。私は代替機の準備を進めながら、また一度だけ今度はもっと短く彼を見た。ホークスは、気づいているのに知らないふりをして今度は、天井を見上げている。
「……俺、何かしました?」
ほっとしたのも束の間、彼は軽い調子で、独り言の延長みたいに言った。
「……なにが」
「すっごく視線を感じるので。俺、また何かやらかしたかなって」
「してないです」
考えるより先に言葉が出た。私の得意分野だ。
「端末、壊しただけ」
「それは、毎回じゃないですか」
その返しに、ほんの少しだけ空気が緩む。私はようやく端末から顔を上げて、意識的に業務用の笑顔を作った。
「で、修理、どれくらいかかりそうです?」
彼もこちらの切り替えを察したのだろう。声の調子を仕事用に整え、私から視線を外して自分の端末へと目を落とす。
「……今日中は、無理かな。代替機出しますね」
私は画面から目を離さないまま淡々と答えた。
「了解です。助かります」
その「助かります」が、仕事の意味だけで使われていることに妙に安心してしまう自分がいる。踏み込まないし、触れない。聞かない。そうして保たれる関係が、まだ壊れていないことに——。あの夜の話題も余計な確認もここには持ち込まれない。それでいいのだ。それが、正しいから。
「——代替機、これです。」
私がいつものように差し出すと、彼もいつものように素直に受け取る。
「ありがとうございます」
代替機の受け渡しと簡単な注意事項を伝えて、業務としては一段落する。私は端末のログを保存しながら、さっきから思考だけが少し遅れているのを自覚していた。そばにあるパソコンの画面を見ているのに内容がまったく頭に入ってこない。
「……以上です。何か、質問ありますか」
そう言って顔を上げたもののホークスはすでに一歩、出口側へ下がっていて、視線も、そちらに向けられていた。返事はない。私は曖昧に瞬きをして、そのまま数秒間、ぼうっと、立ち尽くしてしまう。——しっかりしなきゃ。そう自分に言い聞かせた、次の瞬間だった。
「……聞いてます?」
「うわっ!」
耳元で声がして、反射的に肩が跳ねる。心臓が冗談じゃなく大きく鳴った。顔を上げるとさっきまで数歩、離れていたはずのホークスが、いつの間にかすぐそこにいて、悪びれない顔でこちらを覗き込んでいる。ま、待って……ち、近い。
「びっくりしすぎじゃないです?」
「え、あ……」
「人をオバケみたいに扱わんでくださいよ」
やや声を潜めたまま楽しそうに言う。その軽さがさっきまで保たれていた距離感をいとも簡単に曖昧にしてしまい私は返す言葉を一瞬、失った。反射的に、足を一歩引くと、背後に積まれていた段ボールに踵が当たり、かすかな音が立った。
「や、やめてよ!急に!」
「へ?」
「耳元で喋らないで!」
「いや、だって」
と、彼は悪びれもせず、肩をすくめる。
「二回くらい話しかけたんですけど、完全に魂、抜けてたんで」
「か……考え事、してただけ」
「へぇ」
ほんの少し間が空く。何か言い返さなければと思っている間に、先に彼のほうが言葉を足した。
「仕事中に?」
探るような言い方ではない。ただの、確認だ。それが逆に、落ち着かない。
「う、うん。業務のことを」
「それはそれで問題では?」
咄嗟の返答は即座にそう返されてしまう。私はそれ以上、口を開けず書類を揃えるふりをした。視線を落とし、紙の端をきちんと揃えることで、話題を終わらせようとする。ホークスはそれ以上踏み込んでこない。そして、何事もなかったかのように、いつもの調子に戻った。
「あ、そうだ」
「……なに?」
「借りた代替機、設定は、いつも通りです?」
「うん。前のバックアップ、入れてあるから」
「了解でーす。ほんと、助かりまーす」
業務の言葉だけが、きれいに行き交う。それがかえって、さっきまでの揺れを、なかったことにしてくれる。彼は「じゃ」と短く区切って、一歩下がって距離を取る。
「また壊したら来ますね〜」
冗談めかした声で言いながら、彼は私に、背を向ける。
「来なくてよろしい」
思わず混じった本音に「努力は、します」と、笑って返された。去っていく背中を見送りながら私は端末のログを保存する。視線を向けて、気づかれて、それでも、何も起きない。それでいい。今は、それがいい。
「名字さん」
彼が風を切るようにもう一度こちらを振り向き軽く手を挙げる。
「今日も、ありがとうございましたー」
「……はい。気をつけて」
声に出した言葉よりも、胸の奥に残った余韻のほうがずっと長くそこに留まっていた気がした。
彼はくるりと背を向けて出口へ向かう。さっき耳元で感じた声の近さだけが、なぜか残っていて私は思わず、自分の耳に触れそうになった。
——だめ。小さく自分に言い聞かせる。近づかない。考えすぎない。聞かない。
ホークスの背中が見えなくなってから私はようやく、深く息を吐いた。端末は壊れても、距離は壊れない。それが今の私たちの、いちばん厄介なところだった。端末のひび割れをなぞりながら、私は知っている。彼がまた壊して現れたら。私はまた同じ場所で、同じ距離で、受け取ってしまうのだということを。
*
ホークスと関わること以外で私の私生活が歪み始めたのも思い返すとこの時期くらいからだったかもしれない。夏は境界線を曖昧にする季節だと思う。空気が湿り、夜が長くなり、言葉にしなくても通じてしまうような錯覚が日常のあちこちに忍び込む。
その夏、私たちはいつの間にか、同僚でも仕事相手でもない、かといって、恋人でもない、妙に安定した場所に腰を下ろしていた。たとえばそれは親友のようで、たとえば、姉弟のようでいて、どちらに転んでも説明がつくしどちらでもないと言われればそれも否定はできない、そんな関係。
仕事のときの私は、相変わらず線を引く。声の調子も距離も、視線の高さも、すべてが管理下にある。感情は業務外、踏み込みは厳禁だ。それは彼、ホークスに対しても、例外ではない。端末の受け渡し、動作確認、セキュリティ更新の説明。それだけを、淡々とこなす。彼もそれを理解していて、仕事中は余計な冗談を言わない。その分、仕事が終わったあと、私たちは少しだけ別の顔を許し合う。
その日もいつものように、ふたりで食事をする流れになり駅から少し離れた小さな店に入った。蒸し暑い夕方だった。空がまだ明るくてアスファルトの照り返しが肌に残る、そんな時間帯。カウンター席で肩が触れそうで、触れない距離。彼は最近ウーロン茶を卒業してレモン水に落ち着いている。今日もそのグラスを手に取り氷の音を立てながら、一口飲んだ。
「……居酒屋で、レモン水飲む系ヒーローて」
「なに、急に」
「いや、なんか……健康意識、高すぎません?」
「それ、ヒーローが言う台詞?」
「俺は、ほら、カラダが資本なんで」
「説得力があるような、ないような」
そんな軽口を交わしながら箸を動かす。会話は取り留めもなく仕事の延長とも、完全な雑談ともつかないところを行き来していた。彼はもう一度レモン水を口に含み、ふっと息を吐いてから何気ない調子でこちらを見る。
「……最近、元気ですよね」
軽い声だった。けれどその言い方が妙に的確で私は一瞬だけ言葉に詰まる。元気——と言われるほどのことはしていない。ただ、以前よりもよく笑うようになった自覚はあるし、色々な誘いを、断らなくなったのも事実だった。
「うそ。そう見える?」
「はい。あ、悪い意味じゃなくてね?」
彼は、慌てて言い添える。
「なんか、前より……外、向いてる感じで」
そう言ってまた箸を動かす。私たちのあいだには最近こういう会話が増えていた。お互いの生活に踏み込みすぎないまま、それでも完全に無関心ではいられない、ほどよい距離での観測。
「実は……さ。合コンに、誘われてて」
口に出してから自分でも驚いた。わざわざ言う必要のない話題を、私は選んでしまったのだと、遅れて気づく。ホークスは一瞬だけ動きを止め、それから何事もなかったように食事を再開した。
「こないだ言ってたやつすか?」
「ううん、また別の。」
「へえ。いーんじゃないす?」
声色は変わらない。軽くも重くもない彼らしい反応だった。
「……んー。いいのかな、って思って」
私はグラスを持ち上げるでもなく、その外側に浮いた水滴を指先でなぞりながら、ぽつりと続けた。冷えた硝子に触れる感触だけが、やけに現実的だ。
もう、ちゃんとした人と、出会わなければいけない年齢に差し掛かっている。誰かに急かされたわけでも期限を切られたわけでもないのに、そう思ってしまう自分がいる。そんな考えがここ最近頭の奥で、静かに居座っていた。
「周りもみんなさ、次の段階に、進んでるし」
言葉にするほど、少しずつ輪郭が曖昧になる。
「今回のは、職場の知り合い経由で……わりと、真面目そうな、集まりで……」
言い訳みたいに条件を並べる自分が、少しだけ可笑しかった。『進んでる』と言いながら、その決意を誰かに確認してほしいような話し方だと、自分でもわかっている。ホークスは私の話を遮らない。ただ、箸を止めて、静かに聞いている。
「行けばいいんじゃないです?」
返ってきたのは、迷いのない声だった。即断に近い。それなのに彼は私から視線を逸らさない。
「ま、無理してないなら、ですけど」
付け足されたその一言が妙に胸に残る。無理をしているかどうかなんて、自分でも、よくわからない。ただ、動かなければ何も変わらないという焦りと、動いてしまったら壊れるものがあるかもしれないという不安が、同時に存在しているだけだった。箸先で皿の縁を軽くなぞりながら、私は少し、間を置く。
「……ホークスは、どう思う?」
気づけば彼の意見を求めていた。答えが欲しいというより選択の重さを誰かと分け合いたかったのかもしれない。彼は一瞬、視線を、上にやる。天井を見るでもなくただ考えるための癖みたいな仕草。
「俺? 俺はァ……」
少しだけ言葉を探す間があって穏やかな声で、続けた。
「名字さんが、ちゃんと選ぶなら——」
「……」
「どんな選択でも、いいと思いますけど?」
「うーん……」
「合コンだろうが、偶然だろうが」
彼は、レモン水の入ったグラスを回しながら、淡々と言葉を重ねる。
「誰かと出会うこと自体が悪いわけじゃないですしね」
その言い方が、驚くほど真っ当で、それでいて大人びていて十九歳の青年の口から出たものとは思えなかった。彼が背負ってきた時間の重さを、私はこういう瞬間に、いつも思い知らされる。
「……そっか」
私は小さく息を吐いて笑った。納得したというよりも、一度、自分の考えを受け止めてもらえた安心感に近い。
「……じゃあ、行ってみようかな」
「うん」
それだけ。彼はそれ以上踏み込まない。質問もしないし冗談で茶化すこともない。ただ、いつも通りの距離で、同じ時間を、過ごしている。その変わらなさが少しだけ、心に引っかかる。それが安心なのか物足りなさなのか、それとも触れてはいけない感情が静かに揺れているだけなのか——私はまだ、その正体を、言葉にできずにいた。
食事を終えて店を出ると、夜風が思ったよりも涼しかった。昼間の熱をまだ引きずっているはずの舗道が足元でひんやりと息を吐く。夏は、こうしてときどき、季節を間違える。ほんの一瞬だけ肌と心の感覚がずれるのだ。
駅までの道を、並んで歩く。人通りは少なく、遠くで、車の音が低く流れている。彼の歩幅は、いつも通り私に合わせられていた。意識しているのか、無意識なのかはわからない。ただその事実だけが、静かに横にある。
私は、ふと考える。自分は、どこに向かおうとしているのだろう、と。進んでいるつもりで実は円を描くように、同じ場所を回っているだけなのかもしれない。そんな考えが、夜の隙間から忍び込む。
「うまくいくといっすねー」
改札が見えてきたところで、彼が言った。応援とも祈りともつかない、感情を乗せすぎない声。だからこそ、逃げ場のない言葉だった。
「……なにが?」
「え?ゴーコン」
「……ん、そうだね」
私はそう返して小さく頷く。それ以上の会話は続かない。無理に続けようともしない。その沈黙が、最近の私たちにはいちばん自然だったから。それでも胸の奥が、わずかに軋む。進もうとしているのに前向きな選択をしようとしているのに、その感覚が消えないのは、きっと、気のせいだ。そう、何度も自分に言い聞かせる。これは健全な選択で、大人として正しい行動で、誰にも迷惑をかけない。背筋を伸ばし、そう信じる姿勢を取ることは、もう随分と上手くなった。
「じゃ、また。」
短い別れの合図。彼はそれ以上、何も言わずに軽く手を挙げる。私もそれに「うん、また」と、短く応えて、改札へ向かう。振り返らない。振り返ってしまえば何かを確かめてしまいそうだったから。
この夏、私たちはまだ、なにも失っていない。けれど同時に何かが少しずつ、音を立てずに形を変え始めていることにも、もう気づいてしまっていた。それが、壊れる前触れなのか、次の場所へ向かうための移動なのかは、まだ、わからない。ただ、夜風だけが、その変化を知っているような顔で、私の横をすり抜けていった。
*
その日も、特別な理由はなかった。彼の任務が終わる時間に合わせて連絡が来て暑さの残る夜の街を少し歩き、遅い夕食をとる——それだけの、もう何度も繰り返してきた流れ。私は仕事帰りのまま、彼はヒーローとしての一日を脱いだ直後のすこしだけ気の抜けた顔で、向かいの席に座っている。
夏の夜は音が多く、店内のざわめきとグラスの氷が触れ合う音と隣の客の笑い声が会話の隙間を勝手に埋めてくれるから私たちは意識しなくても自然に言葉を交わせた。今日も今日とて、他愛のない話ばかり。先輩ヒーローの愚痴から最近よく見るCM、季節限定のメニューがもう終わっていたこと。
彼は、相変わらず軽く、私は相変わらず相槌を打つ。そこに、何の緊張もなかったはずなのに、ふと、話題が尽きた瞬間、音が一段落ちたように沈黙が生まれた。その沈黙を先に拾い上げたのは彼だった。
「……そういや、」
不意に、レモン水の入ったグラスがテーブルに戻される。氷がぶつかる乾いた小さな音が思った以上に、その場に残った。
「どうだったんです? ゴーコン」
その言い方に、私は一瞬だけ、呼吸を忘れる。「合コン」ではなく、わざわざ、「ゴーコン」。茶化しているようでいて踏み込みすぎないための距離の取り方だと、もうわかっている。わかっているからこそ余計に、答え方を迷った。
「え? ああ……普通?」
口に出した瞬間、自分でも驚くほど感情が平坦だった。嘘ではない。盛り上がりも、気まずさもなく会話は途切れず、連絡先も数人と交換した。けれどその先の風景が、まるで浮かばなかった。ただ流れて、終わった夜。言葉通りの��普通�=B
「でた、フツー」
ホークスは少しだけ笑う。からかうほど強くもなく突き放すほど冷たくもない、いつもの温度。その一言で、なぜか私の内側だけが、わずかに、居場所を失った。責められたわけでも期待されたわけでもない。それなのに胸の奥に、説明のつかない違和感が沈む。私だけが何かを測られているような、あるいは自分で自分を秤に乗せてしまったような、そんな感覚。
「……期待、してた?」
思わず冗談めかしてそう言ってしまう。自分で投げた言葉なのに、少しだけ、怖かった。彼は、一瞬目を見開き、それから、ヘラっと笑って首を振る。
「いえ。期待っていうか……確認、ですかね」
「確認?」
「ちゃんと、行ったのかなーって、カクニン」
あくまで、軽く、けれど言葉は慎重に選ばれていた。確認、という言葉の中に、彼自身の感情が含まれているのかどうか。私は、それ以上を探る勇気を持てなかった。
「……ちゃんと、行ったよ」
「ですよね」
「ちゃんと、喋って」
「はい」
「ちゃんと……帰ってきた」
少し意地の悪い言い方になったかもしれない。ホークスはそれに気づいたのか、肩をすくめる。
「ワンナイトは?」
「残念、ありませんでした」
「それなら、十分じゃないですか」
その言葉で会話はいったん落ち着いて、また、取り止めのない話に脱線して、笑い合った。
店を出ると夜風が昼間の熱をようやく冷ましてくれていた。並んで歩く帰り道、街灯の間隔ごとに、影が伸びては縮む。さっきまであった沈黙はもう重たくはない。けれど、消えたわけでもなかった。今日は、私のほうから口を開く。
「でも——さっきの話の、続きだけど」
「はい」
「行って、よかったかな、とは、思ってる」
自分でも少し考えてから出てきた言葉だった。
「ちゃんと、前に進もうとしてる感じがして」
それは彼に向けた言葉であると同時に自分自身への、確認でもあった。立ち止まらない理由を、誰かと共有したかっただけなのかもしれない。
「そーいうの、大事ですよね」
彼は少し間を置いてから答える。急がず、でも逃げずに。
「無理に好きになる必要はないと思いますけど」
「……」
「動こうとするのは……ちゃんと、してると思います」
��ちゃんとしてる��——褒め言葉のはずなのにその評価が胸に静かに刺さる。距離を保ったまま線のこちら側から言われた言葉だからだろうか。
「そっか」
それでも私は、いつも通り、短く笑う。
「じゃあ、ちゃんとしてるってことで」
「はい。ちゃんとしてます」
彼も笑った。それで会話は、いったん終わる。けれど、歩く速度も、肩の距離も、どこか微妙に揃わないままだった。前に進もうとしているのになぜか足元だけが少し、揺れている。
この夏、私たちはまだ、なにも壊していない。けれど同時に、名前のない関係だけが、少しずつ形を変えながら、同じ場所に留まり続けている。その事をたぶん私たちはどちらも、もう気づいていた。
駅が近づくにつれて歩幅が自然と揃っていく。意識をして合わせたわけでも、示し合わせたわけでもない。ただ、そうなるのを何度も繰り返してきただけだ。別れ際の空気も沈黙の質も私たちはもう、十分に知っているはずなのに、その日は、ほんのわずか、時間の流れが緩んだように感じられた。
「また、連絡しますね」
彼が、いつもと同じ調子でそう言う。
「うん」
「……次は、その後の結果報告ですかね?」
冗談めいた声だった。けれど語尾を必要以上に上げず逃げ道を作らないところが彼らしい。軽く投げたようで、ちゃんと、受け止める準備をした言い方。
「……どうだろ。まだ、何も決まってないし」
「ですよね」
即座に返ってくる同意。彼は小さく笑い、それからほんの少しだけ視線を逸らした。街灯の光が彼の横顔をなぞっては離れていく。
「まあ、焦らなくていいと思います」
「……」
「名字さんのペースで」
ペース、という言葉が、やけに柔らかく、耳に残る。私は一瞬、返事を忘れた。彼はいつも私の歩調を乱さない。前にも出ないし引き留めもしない。ただ一歩横で同じ速さを保つ。それが、ありがたくて、同時に少しだけ、残酷だった。
「……ありがとう」
ようやく、それだけを返す。それ以上の言葉は慎重に選ぼうとするほど、形を失ってしまった。
「いーえ。じゃ、おやすみなさーい」
「うん、おやすみ」
今日は、手を振ることもなかった。私たちは、それぞれの方向へと、歩き出す。背中に向けられた視線があるかどうかは、確かめなかった。確かめないことも、もう、暗黙の選択になっている。
——普通、という言葉で片づけた夜が、なぜか心に残った。前に進もうとしているはずなのに、どこかで、立ち止まっているような感覚を抱えたまま、私は駅の階段を下りていく。冷えきらない空気が肌にまとわりついている。夏の夜はまだ、答えをくれない。
*
恒例の職場の人達とヒーロー達との懇親会は、いつも決まって、同じ温度で進む。騒ぎすぎず、かといって静かすぎることもない。仕事の延長線上にある、ぎりぎりの息抜き。
私は端の席でグラスを傾けながら適度に相槌を打ち、今日こそ必要以上には飲まないようにしていた、はずだった。
「名字さん、もう顔、赤いですよー?」
ホークスが、私のグラスをちらりと見て言う。冗談めいた声だけれど、視線はきちんと観察している。
「え? 気のせいじゃない?」
「いや、完全に赤いですって」
「うそだぁー」
「これ、何杯目でしたっけ」
そう言って、慣れた手つきで私のグラスを指で軽く叩く。その動きに合わせて、ふっと、香りが流れ込んできた。香水——。まただ、と胸の奥で小さく思う。甘さはほとんどない。けれど、石鹸とも柑橘とも言い切れない体温に近い匂いが夜の空気に溶けている。汗の名残と、ほんのわずかな清潔さが混じった境界の曖昧な香り。鼻先をかすめるだけなのに、呼吸のリズムが一拍ずれるのが自分でもわかる。
「あっ、無視しとろー?」
「……」
いい匂いなのか危ない匂いなのか。その判断がつかないところが、いちばん厄介だった。私は、無意識に、もう一度だけ息を吸ってしまってから視線をグラスに落とす。彼は何も気づかないふりをしている。たぶん本当に気づいていない。ただ隣にいて、いつも通りの距離でいつも通りに指を引いただけなのにその香りだけが妙に遅れて胸に残っていた。
「——覚えてない、」
「……」
「時点で……アウ、ト?」
「はい。アウトです」
即答。迷いのない返事。即座に切り捨てるようでいて、どこか柔らかい。彼は自分のレモン水を一口含み、喉を鳴らしてから、ほんの少しだけ、声量を落とす。
「無理しなくていいですよ」
「してないよ?」
「明日、休みだからって、ペース早くせんでも」
「それ言われると、余計飲みたくなるんだけど」
「それは知らんですよ」
肩をすくめるでもなくただ事実を並べる口調。けれど、言い放つというより、線を引いてくれている声音だった。
「え、てか。どうして知ってるの? 休みって」
「もう。自分で言いよったやろうがぁ……」
最後だけ少し砕ける。語尾が緩んで、いつもの軽さが覗く。そのわずかな変化に私は思わず笑ってしまって肩をすくめた。覚えていないのは私のほうなのに。覚えているのはいつも彼だ。それがありがたくて、少しだけ、ずるい。
「大丈夫。ちゃんと、帰れるから」
「はいはい。じゃあ、帰りはちゃんと回収しますんで」
「なにそれ」
「保護者系ヒーローです」
彼はそう言って、軽く、グラスを持ち上げた。冗談みたいなやり取り。でもその距離感が、今の私たちには、ちょうどいい。そうして、宴は幕を閉じ、解散の流れになったとき、誰かが「二次会どうする?」と、言い出すよりも先に私たちは、自然と視線を交わしていた。
「……どうします?」
「どうする……?」
「……ですよね」
ほとんど、合言葉みたいなやり取りだ。誰かに聞かせるためでも結論を急ぐためでもない。ただここで一度、確認するためだけの言葉。こうして今日も今日とて��二次会�≠ニ称して、私たちは、自然な流れのまま、ホークスのセーフハウスへと向かうことになる。
明日は休みだし、そもそも泊まるつもりで来ているはずだった。なのに、玄関の鍵が閉まって、室内灯の、やわらかな明かりに包まれた瞬間——
「……今日、泊まっていい?」
自分でも驚くほど慎重な声だった。今までは、泊まるときは泊まるし、そうでないときは帰る。それだけのことだったはずなのに、最近は、その��自然�≠ェ、ひどく曖昧に思えてしまう。彼は、靴を脱ぎながら、ちらりとこちらを見た。
「え、今さらですか」
「……今さら、だけど」
「いや——、」
一瞬だけ考える素振りをしてから、ホークスは肩をすくめる。
「いいですよ?てか最初からそのつもりで来てる感じでしたし」
「……ほんとに?」
「え?……ほんと、です」
即答ではなかった。でも、迷わせない言い方。それが、彼なりの線の引き方だと、もうわかる。
「逆に、無理して泊まる必要もないですし」
「……」
「途中で帰りたいって言われたら、ちゃんと送りますよ」
彼は、そう言ってから少しだけ間を置いて付け足す。
「でも、泊まるなら——俺は全然、歓迎です」
声は軽い。けれど、言葉は適当じゃない。私は小さく息を吐いて、ようやく頷いた。
「じゃあ……お邪魔します」
「はい。どうぞ」
彼は先に部屋へ入り電気を点ける。その背中を見ながら思う。泊まること自体は、何も変わっていない。変わったのは、それを口に出す重さと、それを受け取る側の温度だけだと。
最近の��自然�≠ヘ、不確かで、少しだけ慎重でそれでも確実に、選ばれている。
ホークスは、先にシャワーを浴びると言って、浴室に消え私はソファに腰を下ろした。壁越しに聞こえる水音が、一定のリズムで、続いている。その音を聞きながら、私は無意識に棚の下段からジェンガを取り出して、床に並べはじめた。何も考えずに手だけを動かしていたい夜だった。積み上げて、抜いて、また、積み上げる。崩れそうで崩れない、そのぎりぎりの状態が、今の、私たちみたいだと、余計な連想が頭をよぎる。カチ、と木片が小さく鳴った、そのとき。
「……何してるんです?」
背後から声がして思わず肩が跳ねた。振り向くと、ホークスが立っている。髪はもう乾いていていつもの無造作な癖毛は今はタオル地のヘアバンドにまとめられていた。お風呂上がり特有の肌にまだ熱を残した空気をまとっている。石鹸とシャンプーが混ざった、あの匂い。さっきまで浴室にあったはずの湿り気が彼と一緒にリビングへ流れ込んできたみたいだった。
「……あ、」
声にならない音だけが口から零れる。彼は私の手元が止まっているのを一瞥してから首にかけたタオルの端を指でいじり、小さく首を傾げた。
「え。そんな驚くこと、あります?」
「いや……その……」
言い訳を探す前に意識のほうが先に追いついてしまう。ヘアバンドに、ラフな、部屋着。乾かしたあとの髪。以前なら私の前でここまで無防備な姿は見せなかった。少なくとも、見せることを、選ばなかった。シャワーから出てきても、さっと寝室に引っ込んで、ある程度、整えてから戻ってくる。いつも、そうだったはずなのに。
「......普段、こんな感じなんだ」
「え? あー......、はい。」
少し間を置いてから、彼は、照れ隠しみたいに笑った。
「今さら取り繕っても、って思って」
「……今さら、って」
「今さらです。言葉の通り」
即答に近い調子。けれどどこか慎重で、軽い。私は視線を逸らしながら、胸の奥で小さく、息を整える。彼の普段がこんなふうに自然に目の前に置かれるようになったこと。それが嬉しいのか、危ういのか、まだ判別がつかない。ただ前よりも確実に距離が変わっていることだけは、否定できなかった。
「……まったく、意識されてない証拠だね」
「……はい? なんすか、それ」
「前に言われた言葉を、そのまま返しただけ」
彼は、一瞬だけ言葉を探すように黙り、何かを考える素振りを見せてからゆっくりと、その口を開いた。
「それ、真面目に返したほうがいいやつです?」
「いいえ」
私は視線を合わせないまま、きっぱりと言う。
「なにも、返さなくていいです」
その言い方がおかしかったのか、あるいは可笑しさを見つけてしまったのか。彼がふっと笑った気配だけが、空気の端に残った。
「それで……何してたんです?」
彼は話題を戻すように、もう一度、同じ問いを投げる。私はジェンガのブロックに伸ばしかけた指を引っ込めて、小さく肩をすくめた。
「別に。部屋の中、見てただけ」
「観察?」
「探索、かな」
そう言うと彼はくすっと笑って、タオルを外しソファの背に掛けた。
「危険物は、ちゃんと片付けてありますよ」
「さっき、見たけど」
「なにを?」
「引き出し」
「それは事故です!」
声が少し裏返る。私は思わず笑ってしまった。こうして冗談が通じる距離で、風呂上がりの彼と向き合っていること自体が、もう十分に��変化�≠セった。境界線はまだ、越えていない。けれど、彼の生活の内側にほんの少しだけ足を踏み入れている。そんな実感が、静かに胸に残っていた。
「ジェンガやってた。暇だから」
「一人で?」
「一人で」
そう答えると、彼は喉の奥で小さく息を鳴らすように笑った。背後に近づいてくる気配。ソファのきしむ音と床に落ちる重心の気配だけで、彼が距離を詰めたことがわかる。
「負けたら、どうするんです?」
「別に? 何も。」
「それ、一人でやってて面白いですか」
「ん……今は、ね?」
自分でも逃げるみたいな返事だと思った。彼は何も言わず私の正面、ジェンガを挟む位置に腰を下ろす。あぐらをかいて乾いたはずの髪を一度、無造作に撫で付ける。名残を払うような仕草で。
「じゃあ、俺もやります」
「……」
「二人なら、多少は緊張感出るでしょう」
そう言ってためらいもなく木片に指を伸ばす。その距離が思ったより近くて私は無意識に視線を落とした。指先が、木に触れる音が、妙に大きく聞こえる。
「先、やっていいですよ」
「いいの?」
「どうぞ?」
指を引っ込めた彼に顎で促され、私は一段目に指をかける。少しだけ力を探ってからゆっくりと押す。するとブロックは拍子抜けするほど、あっさりと抜けた。
「おー......今日も、意外といけますね」
「ジェンガ大会、出られるかも」
「調子に乗ると、あとで来ますよ」
その言い方が、どこか含みを持っていて、私は思わず彼の顔を見る。けれど彼は何事もなかったように、次の番へ移っていた。一本、慎重に抜き取り、上へ置く。塔は、まだ均衡を保っている。
しばらくはそれだけが続いた。言葉は最小限で木が擦れる音と、時折こぼれる短い笑い声だけが部屋に落ちる。浴室の湿気が、まだ空気に残っていて、呼吸をするたび、少しだけ重い。
「……さっきから、」
不意に、彼が言う。ジェンガを押し出す手は、止めないまま。
「様子、変ですよね」
「そう?」
「はい。なんか……考え事してる感じで」
視線はまだジェンガの塔に向いたまま。だからこそ、逃げ場がない。
「はい、次。」
促されて、私は次の木片に指をかける。けれどそこから先へ進めなかった。見抜かれている、という感覚が、胸の奥で小さく音を立てる。言葉にするほどのものじゃない。でも何もない顔で続けられるほど、平坦でもなかった。
指先が木片の縁で止まったまま、私は一瞬だけ呼吸を整える。塔はまだ崩れていない。けれど、どこか、均衡が変わり始めている気がしていた。
「……別に、大したことじゃない」
そう言った瞬間、自分でもその言い方が逃げに近いとわかった。ジェンガの塔にかけた指先が、ほんのわずかに迷っている。
「そういう言い方するときって、大抵、そうじゃないです」
彼は、笑うというより、困ったみたいに口角を緩めて、こちらを見た。責めるわけでも、答えを急かすわけでもない。私の言葉が整うまで待つ、いつもの距離感。
「……泊まるか、どうか……迷ってただけ」
口に出してしまえば、意外なほど、軽かった。言葉は空気に落ちて、そのまま消えていく。彼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから短く相槌を打つ。
「ふうん」
それ以上、広げない。広げないからこそ続きを話すかどうかの選択が、こちらに戻ってくる。
「……どうしよっかなぁ」
「……さっき、聞きませんでしたっけ?」
「聞いたねぇ」
「今までも、普通に泊まってましたよね」
「……そう、なんだけど」
「今回は?」
「今回は……ちゃんと聞いたほうが、いいのかなって」
言い終わる前にジェンガが微かに軋んだ。塔がほんの少し傾く。私は慌てて、手を引っ込める。その小さな動きに、彼の視線が一瞬だけこちらに寄る。
「名前さん」
呼ばれた瞬間、胸の奥がひくりと鳴った。普段は一貫して名字で距離を保つくせに、こういう、言葉を選んでいるときに限って何の前触れもなく境界線の内側へ踏み込んでくる。その自覚があるのかないのかはわからない。無自覚だとしたら、その無自覚さが、いちばん厄介だと、私は知っている。ただ私だけが知ってしまう、これは特別な呼び方で逃げ場のないところに落とされる音だということを。
「聞かなくてもいいし聞いてもいいと思います」
「……どっち」
「どっちでも、俺は困らないですし」
困らない、という言葉に、思わず小さく笑ってしまう。冷たくもなければ突き放してもいない、ただ、事実としての返答。それが、彼らしい。
「……じゃあ、聞く」
「はい」
「——今日、やっぱり、泊まっていい……?」
短い沈黙。彼は、傾きかけた、ジェンガの塔を見つめ、それから、私へ視線を戻した。
「どうぞ?」
それだけだった。特別な意味を含ませるでも、軽く流すでもなく、ただの許可。その単純さに、胸の奥が少しだけ緩む。ほどけたのは安心というより、確認が終わった感覚だった。
次の瞬間、彼が木片を抜く。耐えきれずに塔は音を立てて崩れ落ちた。
「あ、」
「……俺の負けですね」
淡々とそう言って散らばった木片を拾い集める横顔。その仕草を見ながら思う。越えないと決めている線の内側で、私たちは確実に、同じものを共有し始めているのだと。
「片づけたら、どうします?」
何気ない問いかけ。私は、彼の手の中で片付けられていく、ジェンガのブロックに視線を落としながら返す。
「……もう、今日はいいかな」
「じゃあ、ソファで少し休みます?」
「ううん……もう、寝る。ベッド、借りるね」
「了解です」
「明日の朝、シャワー借りていい?」
「いっすよー」
それ以上言葉は重ならない。確認しすぎない。期待を足さない。だからこそ余計な不安も生まれない。夜は静かに進んでいく。越えないと決めた線を、ちゃんと守ったままで——。
私がベッドに向かおうと寝室の前に立ったときホークスは、ジェンガを片付けていた手を止めて立ち上がった。
「あ、ちょっと待っててください」
そう言われて、クローゼットの前に立つ背中を見送る。引き戸が静かに開いて閉まる。そのわずかな音のあいだに、夜がもう一段、深くなる。
「これでいいです?」
差し出されたのは、少し大きめのTシャツと、スウェットのパンツ。どちらも色は落ち着いていて生活感が薄い彼の部屋に馴染んだものだった。
「洗ってあります」
「ん、ありがとう」
受け取ったとき布に残った微かな匂いに、胸の奥が一瞬だけ揺れる。彼の匂いというほど強くはない。ただ、ここで過ごしてきた、時間の延長線みたいな、静かな気配。
「脱衣所、使っていいですよ」
「うん」
そう返して私はバスルームへ向かう。鏡の前で服を脱ぎ借りたTシャツに袖を通す。少しだけ長い袖と緩い襟元。鎖骨がいつもより無防備に覗いているのに気づいて、私は思わず手を止めた。
鏡の中、鎖骨のあたりに薄く残った跡。完全に消えきっていない、淡い色。今日の出来事とは、関係ない、過去の名残。それでも、この場所ではやけに目立つ気がした。これを付けた人がどんな人だったのかも、もう、覚えていないくせに。
私はため息をひとつついてTシャツの襟を少し引き上げてみる。隠れきらない。まあ、暗いし、気づかれないだろう。そう思ってドアを開けた。
「戻りましたぁ」
言いながらリビングに入ると彼はソファの横に立っていた。着古した部屋着と、おでこについたタオル地のヘアバンドが、いつものヒーロー然とした雰囲気を、どこか生活側に引き寄せている。
「……あ。」
彼の視線が私の顔からほんの少し下へ落ちる。その動きは一瞬で、でも、確かだった。何も言わない。ただ、じっと見ている。私が首を傾げた、そのタイミングで彼は一歩距離を詰めた。近い。思わず、息を止める。
「……ここ、」
彼はそう言って指で示すこともせず、ただ視線だけで場所を示す。
「隠したほうが、いいっすね」
低く落ち着いた声。冗談でも責めるでもない。まるで、判断を告げるみたいな言い方。
「え、あ……」
言いかけた私の言葉を待たずに彼はそっと手を伸ばした。肌には触れない。けれど、Tシャツの襟元を、ぐい、と持ち上げる。
「……失礼します」
そう一言添えるところが、やっぱり彼らしい。指先は触れないはずなのに、布越しに伝わる温度だけが、なぜか、はっきりと分かった。熱いわけでも長く留まったわけでもない。それでもそこに人の意思があったことを身体のほうが先に覚えてしまう。
「これで、大丈夫です」
襟を整え終えると、彼はすぐに、手を引いた。距離も、言葉も、元の位置へ。戻る速さが、彼の中の線引きを雄弁に語っている。
「……ごめんね」
「いえ」
短い応答。彼は目を逸らし無意識の仕草みたいに、ヘアバンドを指で軽く押さえた。湿気の残らない、きちんと乾いた髪。以前は見せなかった、生活の側の姿。
「俺の部屋ですし。変な誤解されたくないんで」
言葉は穏やかで、でもどこか理由を自分に向けて確認しているようにも聞こえる。私は、小さく笑った。
「ホークスがつけたって、思われたくない?」
「いや、違うくて。」
「……」
「……朝起きて、俺がつけたって思われたくないだけで」
「……そんなことあるわけないじゃん。それじゃ記憶喪失か、認知症だよ」
「はは、ですね」
即答に近い軽さ。冗談が、ちゃんと冗談として着地する。この距離が、今夜は心地いい。
「でも、ありがと」
「どういたしまして」
それ以上、何も続かない。続かないこと自体が選択で、配慮で、信頼なのだと分かっているから私はその沈黙を受け取る。
「じゃ……ベッド、どうぞ」
「うん」
灯りが落とされ間接照明だけが残る。ベッドに入る前、私は一度だけ振り返った。ホークスは、ソファに腰を下ろして、スマホを手にしている。画面の光が彼の横顔を薄く縁取っていた。ふと、彼が顔を上げる。視線が合う。言葉を探すよりも早く、彼は小さく手を上げた。
「おやすみなさい」
「ん……おやすみ」
声は低く、落ち着いている。部屋が静まり私は目を閉じる。
越えなかった。けれど、確かに近かった。その夜の境界線は、襟元を整える仕草ひとつ分だけ、静かに揺れている。何も起きない夜がこんなにも落ち着けて安らぐものになったのはきっと、この夏からだ。私たちは今何も持たないまま同じ夜を共有している。その事実だけで、十分だった。