それからホークスは、端末を壊して持ってくるときはもちろん、食事に行っても、帰り道でも、メッセージの文面でも徹底して私を名字で呼ぶ。以前からそうだったと言われればその通りなのにいざ意識してしまうと、その当たり前が、やけに耳についた。
『名字さん、これ』
『名字さん、どう思います?』
『名字さんは、どうしたいです?』
丁寧で距離があって何ひとつ間違っていない。その正しさが少しずつ私の中で形を変えていく。
名前を呼ぶ。それだけの事がこんなにも意識を占めるようになるなんて、思ってもみなかった。彼が自制をしているのはわかっている。あの夜の別れ際に彼自身が差し出した『権利』を、誕生日まで使わないと決めたのだろう。その選択がどれほど彼らしいかも、理解はしている。だからこそその誠実さが厄介だった。名字で呼ばれるたびに名前で呼ばれる未来を、勝手に、想像してしまうから。それは望んではいけないことのはずだったのに——。
しかし、そんなある日の事。職場での昼休み、いつもと変わらない雑音の中で、同僚が何気ない調子で口にした言葉が、空気の流れをほんの少しだけ変えた。
「そういえばさ。ホークス、もうすぐ二十歳じゃない?」
その名前が出ただけで心臓が小さく反応する。私は平静を装い書類から目を離さないまま淡々と答えた。
「らしいね。去年はコンビニのショートケーキ、ご馳走したよ」
「コンビニぃ!?」
同僚が声を上げる。私は思わず彼女を見やってから、また書類に視線を戻した。
「あらら〜。可哀想に、ホークス」
「一緒に食べてあげたから大丈夫」
私が書類をめくりながら言うと「それ、完全に保護者枠じゃん!」と、笑い混じりの声が返ってくる。
「でも、若いよねー。ハタチかぁ〜」
「……だね。若いねぇ」
「本人からは、誕生日の話とか出てるの?」
「……ううん」
私は、ペン先を整えながら答える。
「あんまり、興味ないみたい」
「えっ、意外。」
目の端で、同僚が首を傾げる仕草が映る。
「『何かご馳走してくださいよ〜!』とか激しくアピールしてきそうなのに」
小さな笑い声が昼休みの空間にほどよく散っていく。私はその輪郭を意識の外側で聞いていた。
「二十歳ってさー、やっぱヒーローに限らず特別だもんね〜。お酒、タバコ解禁だしさ」
そう言われた瞬間、胸の奥で、言葉にならない感触が静かに動く。
「名字さんは、何かするの?」
不意に名指しで振られて、私は思わず書類から顔を上げた。
「え? え、っと……別に。」
答えは考えるよりも先に口をついて出た。その軽さとは裏腹に胸の内側では、まだ整理のついていない何かが、ゆっくりと居場所を探している。
「私、その日は仕事だし……」
「あー、そっか。大人だねぇ」
「大人とかじゃなくて。予定が仕事ってだけで」
「でも、期待してるんじゃないの?相手的には」
その一言に、なぜか胸の奥がざらつく。大人。そう呼ばれる立場にいるのは、たしかに事実だ。でもその言葉で片づけてしまっていい距離なのかどうか、私はまだ判断がついていない。
その日の午後。本日も、飽きることなく端末を持って来たホークスはまるでいつも通りだった。丁寧に話し、必要なことだけを伝えて私が処理を終えるのを待っている。何も変わっていないはずなのに、私の側だけが少しずつ、言葉にできない違和感を抱え始めていた。
「そういえば……誕生日ネタ、出てましたよ」
端末を操作しながら私がそう切り出すと、彼は一瞬だけ、目を瞬かせた。
「ええ? 俺の? 誕生日ってだけで?」
「そう。誕生日ってだけで」
「ウゲー。なんで」
「十八歳でトップテン入りヒーローは誕生日でも噂されるんじゃないですか?」
「それ、皮肉混じってません?」
「いいえ? さすがですね、って話です」
軽く、笑い合う。声の調子も、視線の高さも、いつも通りだ。二人の間に、特別な含みはない。
「何か特別なこととか……ホークス事務所側とかでは、するんですか?」
なんとなく会話の流れで尋ねる。彼は少しだけ考えるように視線を泳がせてから、首を傾げた。
「どうでしょうね。周りは騒ぎそうですけど……俺は、いつも通りでいいかなって」
——いつも通り。その言葉が、さっきとは違う重さで胸に落ちる。当たり前のように繰り返される言葉なのに今は、選び取られたものとして胸に響いた。
「そう」
「はい」
それ以上、会話は続かない。彼は、何も変えていない。ただ、変えないことを、選び続けているだけだ。その選択が誕生日という期限に向かって静かに、しかし確実に、積み重なっていく。
呼ばれない名前。祝われている空気。そして、成人——二十歳を迎えるヒーロー、ホークス。
彼が帰ったあと私は卓上のカレンダーに視線を落とし、その日付を指でなぞる。このまま、何も起きなければきっと��いつも通り�≠ナ終われる。穏やかで無事で、何も失わずに。けれど同時に、何かが起きてしまう準備だけは、もう整っているのだと、はっきりわかってしまった。
選ばなかった言葉も、呼ばれなかった名前も、すべてが、そこへと向かっている。
*
十二月二十八日が近づくにつれて私は無意味な寄り道をするようになった。仕事帰りに用もないのに駅ビルを一周してみたり、雑貨屋の前で足を止めたりショーウィンドウに映る自分の顔を確認しては、また歩き出す。プレゼントを探しているというより、決めきれない自分を納得させるための時間だった。
ネクタイ。マグカップ。香りが弱めな、ハンドクリームなど。——どれも悪くはない。けれど、どれも、しっくりはこない。彼が欲しいと言ったのは『時間』で、私はそれを渡すつもりでいる。それなのに物まで添えようとすると急にすべてが過剰に思えてしまう。踏み込みすぎではないか。期待させるのではないか、と。
棚に戻した箱を私はもう一度手に取り、結局、何も買わずに店を出た。紙袋ひとつ持っていない帰り道が、やけに心細い。
そして、この頃あたりからホークスは、さらに徹底するようになった。メッセージは簡潔で短い用件だけ。食事の誘いはあっても、帰りが遅くはならない。二次会もしない。そして何より——。
『名字さん、今日はこのあと予定あります?』
『名字さん、それ無理しなくて大丈夫です』
『名字さんなら、そう言うと思いました』
いつも通りで正しくて、距離がある。あの夜、彼が欲しいと言った『権利』は、まるで存在しなかったかのように、丁寧に、棚上げされている。呼ぶ練習すらしない。間違えて口にしかけることもない。自分で決めた線を、彼は一度も踏み越えない。それが優しさだとわかっている。私に気負いさせないための。ただ、わかっているからこそ少しだけ、残酷だ。
ある日の彼との食事の席。特別な話題があったわけでもなく、店の中では取り立てて意味のない会話が、いつも通りに続いていた。
「今日は、割と静かですねー」
「平日だしね。こういう日、落ち着くよね」
「わかります。……あ、これ美味しそうですよ」
「それ、さっきから私も、気になってた」
「じゃあ、次来たとき頼んでみましょう」
取り替えのきく約束。今日でなくても困らない話題。彼はグラスを置くたびにこちらをちらりと確認するような視線を寄こし、私はそれに気づかないふりをして頷いた。名前は呼ばれない。けれど会話の中に、わずかな温度だけが残っている。
「名字さん、最近、疲れてません?」
「うそ、そう見える?」
「いえ。なんとなく、ですけど」
探るようで、決めつけない言い方。私は笑って首を振る。
「大丈夫。たぶん、季節のせい」
「それなら、いいです」
「うん」
「でも、無理せんでくださいね?」
「はいはい。ありがと、ヒーロー」
それ以上、踏み込まない。食事は静かに終わり会計を済ませて、私たちは、いつもの流れで店を出た。そして、並んで歩いていた、その帰り道。街灯の下で、私が、小さな段差につまずきかけた瞬間、彼が反射的に腕を伸ばした。けれど触れる寸前で、その動きが止まった。
近づきすぎない距離——反応だけが先に出て、理性が追いついたあとの、正確な制動。店で交わしたどうでもいい会話の数々が、ここでようやく意味を持つ。あの穏やかさは何も起こさないための準備だったのだと、私は遅れて理解する。越えない夜は、こうして、いつも、何気ない顔をして始まる。
「……大丈夫ですか、名字さん」
距離を保ったままの声だった。近づきすぎない位置から、きちんと選ばれた高さと速さで、届く問いかけ。私は笑って頷いた。
「大丈夫。ごめん」
それだけで済ませるつもりだった。けれどその瞬間、喉の奥まで言葉がせり上がってきて慌てて飲み込む。
——呼んでほしい。名前を。ほんの一度でいいから。今じゃなくてもいいから、彼の、判断で。けれどそれは私の役目じゃない。彼が「欲しい」と言ったものを彼自身がこんなにも慎重に扱っている以上、私の方から踏み込むわけにはいかなかった。触れなかった腕よりも止めた意志のほうがはるかに雄弁だったから。
彼は一瞬だけ私の足元を確認するように視線を落としそれから何もなかったように顔を上げた。安堵の色も焦りも表に出さない。その整いすぎた振る舞いが、今は少しだけ胸に刺さる。
——ああ、そうか。彼は、ちゃんと、我慢している。欲しいと言ったからこそ、使わない。触れられる距離にあっても、触れない。名前を呼べる関係にあっても、呼ばない。そのすべてが誕生日まで取っておかれているのだと、私は遅れて理解する。解禁の瞬間まで彼自身が守り抜くと決めた境界線。その内側に私を置いているという事実が遅れて、静かに効いてくる。
「捻ってません? 無理に——」
「ほんとに、大丈夫だから」
私は彼の言葉を遮るように、そして、念を押すように言った。彼にではなく、自分に向けて。
「……はい、それなら。」
短い返事。それ以上、何も付け足さない。また並んで歩き出す。肩が触れそうで触れない距離。さっきまでよりも、わずかに意識されてしまった空間。何も起きていないはずなのに起きなかったことだけがこんなにもはっきりと残る夜だった。
その後、家に帰ってから靴を脱ぎソファに腰を下ろす。何も入っていないバッグを床に置く音が思ったよりも静かに響いた。
「……どうしよう」
誰に聞かせるでもなく口に出してみる。答えは返ってこないけれど、その沈黙が、今はちょうどいい。でもひとつだけ、確かなことがある。彼は誕生日まで私の名前を呼ばない。欲しいと言ったからこそ使わない。解禁の瞬間まで取っておく。それは彼なりの覚悟で誠実さで、そして、私への信頼なのだと、思いたかった。
壁のカレンダーに、目を向ける。誕生日まで、あと、数日。プレゼントは、まだ決まらない。
「……間に合うかな」
小さく呟いてみても焦りは薄まらない。けれど呼ばれない名前だけが、日を追うごとにはっきりと重さを増していく。それを受け取る準備が私にできているのかどうかは、まだわからない。ただ時間だけは、静かに、確実に、誕生日へ向かって進んでいた。
結局、私は彼のバースデーを、自分の家で祝うことに決めた。どこかのお店を予約するよりも、誰かに声をかけるよりも、そのほうがいちばん、いつも通りで、そしていちばん逃げ場がない気がしたからだ。特別にしようとすれば、いくらでも方法はある。けれど私はあえて特別にしない事を選んだ。
日常の延長線に彼を招き入れてしまえば曖昧なままにしてきた距離も、言葉にしなかった感情も否応なく、同じ空間に置かれる。たぶんそれが、いまの私にとってもっとも正直な祝い方だった。
彼の素晴らしき一生に一度の二十歳の誕生日。今年こそはホールのバースデーケーキにしようとそれだけは迷わず決めて、仕事帰りにケーキ屋へ寄った。ショーケースの前で立ち止まり、並んだケーキをひとつひとつ眺めながら、名前を書いてもらうプレートの文字数を確認する。胸の奥で、小さく息を整える。ヒーロー名でもない。未だに知らない彼の本名でもない。ただの王道の横文字『Happy Birthday』。それでいい。それ以上の言葉を添える勇気は、まだ、持てなかったから。
酒類売り場ではほんの一瞬だけ迷う。二十歳を迎える前に起こしたあの泥酔の夜が頭をよぎる。あれ以来彼は一滴も飲んでいないと言っていた。私の前でアルコールを口にしたこともない。
シャンパンを一本、手に取って重さを確かめるように指に力を入れる。いったん棚に戻し、ノンアルコールの列へと視線を移す。安全で、無難で、間違いのない選択。けれど今年は二十歳だ。その節目を、なかったことにはできなかった。
結局、シャンパンを一本と、軽めのワインを、二本。量も種類も控えめにする。それは、過去もこれからも無視しないための私なりの線だった。祝いすぎず、恐れすぎず。うまくいくかどうかは、当日にならないと分からない。それでも私は買い物袋を持つ手に少しだけ力を込めて、レジへ向かった。
そうして迎えた誕生日前夜——。私はあの時の「保留」にした返事をまだ、正式には返していない。いや、返さないまま時間だけをここまで連れてきてしまった、というほうが正しいのかもしれない。今日は仕事終わりに少しだけ顔を合わせて軽く食事をした。特別なことはしない。話題も、意識して特別なものを避ける。
彼も私も妙に落ち着いていた。嵐の前の静けさというほど不穏ではない。ただ何かを待っている感じが二人のあいだに、静かに漂っている。
店を出て、駅へ向かう道。夜風は思ったよりも冷たく、街灯の下で、私たちの影が細長く伸びていた。歩調は自然と揃い言葉がなくても不都合はない。沈黙が、重たくならない程度に、ちょうどいい温度で続いている。その均衡を崩すように、彼が歩きながら、不意に尋ねてくる。
「明日は、お仕事でしたっけ」
前を向いたままの声。振り向かずに投げられた問いかけが、かえって距離を意識させる。
「うん」
私は間を置かずに答えた。迷いはなく、淡々とした調子で。それ以上、何も付け足さない。その一音だけで十分だと互いにわかっているみたいにまた並んで、歩き続ける。夜風が二人のあいだをすり抜け、影だけが、黙って先へ伸びていった。
「ふうん。そのあとは」
「ん、普通に」
「そーですか」
彼はそれ以上、聞いてこない。続きを促すでもなく、別の話題を探すでもない。その、踏み込まなさが、今夜は少しだけ、ありがたかった。
駅へ続く道の先に、改札の灯りが見えてくる。自然と足が緩み、やがて止まる。ここで別れる。いつもの場所。いつもの流れ。私は、ほんの一瞬だけ迷ってから、決めた。
「……あのさ」
声に出した途端、思っていたよりも揺れが混じってしまった。彼が足を止めて振り向く。名字も名前も呼ばれないまま。
「明日の夜、うち来て」
次に出た自分の声は、不思議なほど落ち着いていた。逃げ場を探さない音だった。
「え」
「パーティってほどじゃないけど」
余計な説明を足さないよう、言葉を選ぶ。選びすぎると、かえって嘘になる気がしたから。
「今年も、ケーキは用意した」
「……」
「あと、飲み物も」
そこですこしだけ、間を置く。彼と目が合う。夜風が二人のあいだを通り抜け街の音が遠のく。
「素晴らしき一生に一度の、誕生日だから」
彼は何も言わずに私を見ている。呼びかけも、相槌もない。ただ静かにまっすぐに。その視線が問いでも、拒否でもないことだけは、はっきりとわかる。
「……あとで、住所、送るからさ」
そう付け足したとき、彼はようやく息を吐いたように小さく笑った。その表情が、やけに綺麗で今にも消えてしまいそうなほど、儚く見えた。
「……了解です」
小さく、たったそれだけ。問い返さない。冗談にもしない。重くも、軽くも扱わない。
「じゃあ、明日」
「うん。明日ね」
改札を抜けていく彼の背中を見送りながら私は思った。これは、プレゼントだ。物でも言葉でもない。彼が欲しいと言った『時間』を、ようやく差し出す準備が整っただけ。
名前は、まだ呼ばれていない。けれど、明日はきっと、そのための日になる。
*
翌日、夜の九時を少し過ぎた頃、インターホンが鳴った。特に時間を指定していたわけではないので、これは遅刻でもなんでもない。彼らしい、と言えばそれまでなのに、その数分の幅にさえ、今日という日を、どう扱えばいいのか迷っている気配を感じてしまう。
モニター越しに映るホークスは私服に着替えているものの肩の力がまだ抜けきっていなかった。任務の余韻をそのまま連れてきたような立ち方。背筋はまっすぐで、足の位置も整っているのに、どこか、ヒーローから、切り替えきれていない。ドアを開けると、彼は一拍遅れて息を整えた。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
声は落ち着いている。けれど、靴を脱ぐ動作がどこかぎこちない。揃えたつもりのつま先が微妙にずれて直そうとして、またやめる。玄関に上がった途端、視線が部屋を一周し、それから、行き場を失ったみたいに宙を彷徨う。
「どうぞ?」
「あ、はい。おじゃま、します……」
返事は素直なのに足取りが定まらない。ソファの前まで来て立ち止まり座るでもなく窓のほうを見て、また、私を見る。何を選べば正解なのか、測りかねている様子だった。どう見てもそわそわしている。
「落ち着かない?」
思わずそう口にすると彼は一瞬だけ苦笑した。
「ええ、まあ……」
否定しないのがなんとも彼らしい。取り繕わずでも理由も言わない。正直なまま線は越えない。
「あ、もしかして……」
私はキッチンのほうへ歩きながら、できるだけ何気ない調子で言った。
「シャワー、浴びたい?」
その言葉に、彼の動きがぴたりと止まる。身体だけが先に反応して、言葉が追いついていない。そして「あ」と、一拍。
「……はい」
視線を逸らしながら、少しだけ言いづらそうに続けた。
「なんか、その……急いで来たんで、汗臭い気がして」
無意識に自分の袖を引っ張る仕草が、任務明けだと雄弁に語っていた。気にしなくていいと言われる前提で、それでも気にしてしまうところが、彼、ホークスだ。
「いいよ。タオル出すね」
「すんません、助かります……」
その一言と同時に、ほっとしたように、すっと肩が落ちる。張り詰めていたものが、一段階だけ解けたのが、こちら側にも伝わった。
「着替え、持ってきてる?」
「あ、はい。一応」
「じゃあ、どうぞ」
洗面所へ案内すると彼は中へ入る直前で、一度だけこちらを振り返った。何か言い忘れたような確かめるような間。私は「ん?」と首を傾げる。
「……ありがとうございます」
名字も、名前も呼ばない。ただの、それだけの言葉なのに、やけに丁寧な目線だった。扉が閉まる。その向こうで、彼がようやく、一人になった気配がして、私は小さく息を吐いた。同じ部屋にいるだけなのに、境界線はまだ、きちんと残っている。けれど今夜はその線の内側に、確かに彼が立っていた。
ほどなくしてシャワーの音が立ち上がる。一定のリズムで水が床に当たる音。私は、キッチンに戻りグラスを並べながら、その音を聞いていた。
落ち着かないのは、きっと私も同じだ。任務を終えたばかりの彼が、私の家でシャワーを浴びている。その事実が特別でも何でもないようでいて今日は少しだけ違う意味を帯びている。誕生日。約束した時間。ホールのケーキ。
私は、シャワーの音に紛れて、深く息を吸う。まだ、何も始まっていない。でも、それでいいと自分に言い聞かせながら次の準備を続けた。キッチンで手を動かしながら、何度か時計を見やる。ご飯は、温め直すだけでいいところまで用意してあるしシャンパンも冷えすぎないようタイミングを計って冷蔵庫から出した。グラスを二つ並べるその配置にまで、なぜか、慎重になる。
「んー......こんな、感じ?」
ひとり呟いたところで背後で浴室のドアが開く音がした。振り向くとホークスが、タオルで髪を拭きながら、立っていた。さっきまで纏っていた任務の匂いはすっかり消えていて、顔つきもひと回り、軽くなっている気がする。
「生き返りました」
そう言って、彼は、少し照れたように笑った。洗剤と石鹸が混じった匂いがさっきまでの任務の名残をゆっくりと、押し流している。肩の力も、先ほどよりも目に見えて抜けていた。
「よかった」
「いや、ほんと……ありがとうございます」
名字も、名前も呼ばない。ただ、その分、視線だけが真っ直ぐだった。逃げ場を作らない目線。感謝を軽く扱わず、誤魔化さない目。
「タオル、足りた?」
「はい。……柔らかくて、気持ちよかったです」
「でしょ? それ、気に入ってるやつなの」
それだけの会話なのに、生活の中へ踏み込ませすぎない、ちょうどいい距離が、保たれている。
彼は、部屋の様子をもう一度だけ見回してから無意識に声を落とした。
「……なんか、静かですね」
「そう? まあ……外、寒いしね。今日は特に」
そう答えながら、私はテーブルの上に用意してあったシャンパンに、手を伸ばす。ラベルに触れる指先が、少しだけ温かい。
「今ね、ちょうどいいところ」
そう言って、シャンパンボトルを軽くかざして見せる。ガラス越しに映る泡はまだ音も立てずに眠っている。
「開ける前でした?」
「うん。主役、まだ立ってるし」
「……それ、俺ですか」
「他に誰がいるの」
彼は、一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑った。
「じゃあ、座ります」
「どうぞ」
クッションを引き寄せた時の布が擦れる小さな音が、控えめに響く。彼は一瞬、座る位置を測るように視線を落として、それから私と向かい合う形で床に腰を下ろした。近すぎず遠すぎもしない間隔。膝と膝のあいだに、ちゃんと、空気が残る距離。
「……この高さ、落ち着きますね」
「ん? 高さって?」
「同じ、目線の高さ」
「……でしょ。今日はこれくらいがいいなって」
なんとなく適当に返したけれど言われてみれば確かに。床に近いぶん、視線も自然と低くなる。
彼が背筋を整えると、シャワーの名残の匂いがさっきよりも穏やかに漂った。シャンパンの中の泡は、まだ合図を待つみたい静かに揺れている。越えない距離のまま、同じテーブルにつく。それだけで今日はもう、十分に特別だった。
「あ! その前に、一つだけ」
「はいっ」
彼はテーブルを挟んで私と向かい合い、自然に正座の姿勢を取る。背筋が伸びて、手は膝の上。
こういう瞬間は、無理に場の空気を軽くしようともしないし、逆に崩そうともしない。そういうところが相変わらず、彼らしかった。
「お酒で、もうへまはしないでね」
一瞬、彼はきょとんとした顔をして、それからすぐに、観念したように苦笑した。
「……はい。肝に銘じます」
「あの未成年泥酔事件は、完全に前科だから」
「弁解の余地、ないですね」
そう言いながらも声は落ち着いている。軽くもふざけてもいない。過去を冗談にせず、きちんと、引き受けた人の声だった。
「今日は、ちゃんとゆっくり飲む感じで」
「うん、それが一番です」
私はそう言い返して、シャンパンの栓を抜く。小さな音とともに封が切れグラスに静かに注がれていく。細かな泡が立ち上がり、部屋の空気に、ほんの少しだけ祝いの匂いが混じる。その音が、なぜか、妙に澄んで聞こえた。
「じゃあ、」
グラスを差し出すと、彼は一拍だけ間を置いてから、それを受け取った。急がない。その一瞬が今日という日を、丁寧に扱っている証みたいに、感じられた。
「……お誕生日、おめでとう」
「……ありがとうございます」
グラスが、軽く触れ合う。澄んだ音が、思ったよりも長く、部屋の中に残った。彼は一口含んでから、小さく息を吐く。
「……大人の味、ですね」
「わかるの? 大人の味」
「美味しいです」
「急に感想が真面目なんですけど?」
「まあ、節目なので?」
「甘すぎないのにした」
「さすがです」
そう言ってほんの少しだけ口角を上げる。その笑顔はいつもの軽さよりもほんのわずかに内側を向いていた。いつもよりも少し柔らかくて、私は思わず視線を逸らした。
「……二十歳、どう?」
「え。どう、って言われると……」
彼はグラスを持ったまま、少しだけ目を伏せて考える。長いまつ毛が揺れている。
「……正直、あんまり実感はないです」
「……そっか」
「ただ、」
「ただ?」
「区切りだな、とは思います」
あの夜と同じ言葉。でも今は誰にも預けず自分の中で確かめるように言っている。
「こうして、祝ってもらえる場所があるのは……普通に、ありがたいですね」
そう言って彼は私の部屋を見回す。本当に泥酔事件の事を覚えていないんだなと改めて感じる。あのとき一度、ここに入っているというのに。
派手な飾りも特別な演出もない。ただ、いつも使っているテーブルといつもの照明と、少しだけ丁寧に選んだお酒と料理が、並ぶ空間。
「……地味で、ごめんね?」
「いえ。落ち着きます」
即答だった。私は途端に照れ臭くなってしまい無意味に咳払いをした。もう、酔ってきたのかもしれない。
「こういうの、嫌いじゃないです」
「あ、そ?……よかった」
「はい。すごく」
その「すごく」は静かで、けれども、偽りがなかった。祝われることよりもここにいることそのものを受け取っているような声音。
私はその様子を見ながら、ようやく実感する。これは、ちゃんとした誕生日だ。騒がなくても、盛り上がらなくても、彼が今ここにいて、今日という日を越えていく準備をしている。名前はまだ呼ばれていない。けれど乾杯の音のあとに残った静けさが、今までよりも近い。
テーブルの上には二人分の料理と、開けられたシャンパン。誕生日は、もう始まっているのだ。