気がつけば、グラスの中身がいつの間にかずいぶんと減っている。シャンパンはすでに底が見えワインもボトルを傾ける角度がさっきより確実に深い。液面が下がるたび、時間だけが前に進んでいるのを、視覚的に突きつけられる。
 決して計算していなかったわけじゃない。量は控えめにしたし飲むペースだってたぶんゆっくりだった。きちんと食べて水も挟んで理屈の上では問題ない。身体は、そういう前提で準備してきたはずだった。それなのに——おかしい。
 私はテーブル越しに、向かいに座る男を見る。彼は、まったく変わっていなかった。頬に赤みも差していないし、視線も揺れない。言葉の運びも呼吸の間だって任務中と同じ精度を保っている。グラスを持つ指先に至るまで、冷静そのものだ。
 同じ時間、同じアルコールを共有しているはずなのにまるで別の流れの中にいるみたいだった。私だけが、緩やかに足元を掬われていく一方で、彼はまだ、陸地に立っている。

「……強くない?」

 思わず、独り言みたいに零すと、彼は、グラスをそっと置いて、こちらを見る。

「お酒、ですか?」
「うん。私、もう結構……」

 言い切る前に言葉が曖昧になる。その曖昧さを彼は拾わない。ただ事実だけを確認するみたいに軽く首を傾けた。

「飲みすぎてます?」
「たぶん。……いつもより」

 そう答えながら私はもう一度、彼を見た。変わらない。ほんとうに、何も。その差が少しだけ、心細くもある。

「……ねえ」

 不意に呼びかけると、彼はすぐに反応した。

「はい?」

 返事が早すぎてわずかに息を詰まらせる。間がなさすぎる。酔いのせいか、その正確さが、少しだけ、怖かった。

「……なにか、飲み方……変えた?」
「んー、変えたっていうほどじゃないですけど」

 彼はそう前置きしてから、淡々と続ける。

「水、多めにしてます」
「……それだけ?」
「それだけです」

 言い切り。誤魔化さない音。私はグラスの中の残りを見つめる。液体は、もう少しで、なくなりそうだ。

「顔色も、変わらないね」
「そうです?」
「そうです」

 私がそう断言すると彼はまた、ほんの少しだけ首を傾げた。本気で、理由を考えている顔だ。

「私……同じにしてたつもりだったんだけどな」
「体質、ありますしね」
「体質……?」
「……まあ、これでも一応、九州男児なんで」

 さらっと言うし。さらっと、言いすぎだ。私は自分のグラスへ視線を落とす。飲むたびに視界の輪郭がわずかに、柔らいでいく。照明の光が必要以上に滲み胸の奥が理由もなく温かい。アルコールのせいにしてしまえば簡単なのに、その手前で留まっている感覚が、いちばん厄介だった。

「それ……免罪符みたいに使うのずるくない?」
「使ってないですって。事実を述べただけで」
「事実が強いのが、いちばん困るんだけど……」
「でも、困ってる顔、してないですよ?」

 小さく笑って返される。私は鼻で小さく笑う。軽く受け止められるその感じに、少しだけ、救われる。けれど同時に彼との距離がほんのわずかにずれたまま戻らない気もしていた。私は身動ぎをして、呼吸を整える。グラスを置く音が、思ったより、大きく響いた。

「ちょっと休憩、入れたほうがいいです?」
「……いや、無理はしてない。大丈夫、たぶん」
「��たぶん�≠ェ出てる時点でだいぶ来てますね」
「うるさい」

 酔いは、悪くない。どちらかと言えば、好きな方。ただ、彼の変わらなさだけが今夜は妙に目についてしまう。同じテーブルにいて、同じ時間を飲んでいるはずなのに。私たちはまだ同じ地点に立っていない。

「……ホークス?」
「はい?」
「ちゃんと、楽しんでる?」
「ええ。楽しんでますよ?」
「ほんと?」
「はい。主役じゃない方が目の前で崩れていくのなかなかレアですしね」
「言い方」
「事実なんで」

 言い切られて、また可笑しくなる。危険信号はとっくに点灯していた。酔いが回るというよりも感覚の境目が、甘くなっていく感じ。言葉を選ぶのが少し楽で沈黙が少し心地いい。それに比べてこの男はどうだ。姿勢も目線も距離感も何ひとつ崩れていない。——私、リアルガチに、そろそろ限界では?そんな疑問が浮かんだ瞬間、なぜか、少しだけ悔しくなって、同時に可笑しくもなる。

「お酒の強さを張り合う会じゃないんで、べつに頑張らなくていーですよ?」

 苦笑混じりの声でホークスが言う。冗談めいているようで、線はちゃんと引いてくる言い方だ。私は、肩をすくめて返す。

「だから、頑張ってない。大丈夫だってば」
「……たぶん?」
「……たぶん」
「ほら、マジであとで来ますってー。反動ー」
「うぅ〜、負けたくないィ〜」

 自分でも子どもみたいな言い方だと思いながら意地だけで笑う。するとホークスは「はいはい」と呆れたように、でもどこか楽しそうに言った。

「やっぱり勝負してるじゃないすかぁ、それー」

 その軽口の奥に、きちんとした心配があることだけは、否応なく伝わってきていた。
 同じ誕生日を祝っているはずなのに、主役より先に酔っているのはどう考えても私の方だった。私はグラスを置いて、もう一度、呼吸を整える。彼はそれを何も言わずに見ている。心配しているのか見守っているのか判断がつかないその視線がやけに近く感じられて、胸の奥が、また一段だけ熱を帯びた。

「……じゃあさ?」

 私は半ば冗談のつもりで、水の入ったグラスを指先でくるりと転がしながら言った。氷が控えめに音を立てる。その小さな響きが今の私の内部とよく似ている気がした。

「この前、あそこまで酔っ払ったのってさ、」
「……」
「いったい、どれくらい飲んだの?」

 問いを投げた瞬間、彼の動きがほんのわずかに止まる。目に見えるほどじゃない。ただ、呼吸の切り替えが、一段遅れた感じで。

「……どれくらい、ですか」
「うん。参考までに」

 参考にしてどうするんだ、というツッコミは、頭の中で即座に却下する。今の私は、理屈よりも感覚のほうが、少し前へ出てしまっている。

「えー......」

 彼は、視線を宙に泳がせる。思い出しているというより、どこまで正直に話すかを、測っているような、静かな間。

「……正確な量は、覚えてないんですけど」
「でしょうねぇ……」
「ただ……」

 言葉を探す沈黙が、一拍、短く挟まる。

「たぶん、普通に考えたら」
「うん?」
「飲みすぎでは、ありますかね……」
「どれくらいのレベルで?」
「……笑えない、レベルの、やつ?」

 その言い方があまりにも率直で私は思わず額を押さえた。頭痛ではない。情けなさに近い感情が少し遅れて胸の奥に滲んでくる。

「なん樽?」
「タル?」
「うん。一樽? それとも、二樽くらい?」

 冗談半分で投げたはずの言葉なのに彼は真面目に考え込む。その姿勢が、逆に怖い。

「樽は……さすがに」
「さすがに?」
「半分くらいなら、あり得たかもしれません」
「あり得たんだぁ……」

 可笑しいのに、ぞっとする。その境目で笑いが少し遅れて追いついてくる。

「それで、ああなったの……?」
「はい」
「……反省は?」
「めちゃくちゃしてます」

 返事は早く、迷いがない。驚くほど素直で言い逃れの余地も残さない調子だった。

「なので」
「はい」
「今日は、このくらいで止めてます」

 そう言って彼は自分のグラスを軽く持ち上げる。中身はまだ余裕を残した量。ペースも呼吸も完全に制御下にある。

「……大人じゃん」
「そう言われると、照れますけど」

 私はそれを見て軽く敗北感を覚えた。同じ酒、同じ空間、同じ時間を共有しているはずなのに、こちらだけが先に、境界へ近づいている。体質の差というのは、どうしようもなく残酷だ。けれど同時に、胸の奥が少しだけ緩むのも感じていた。彼が自分の過去を武勇伝にも、笑い話にもせず、静かに引き受けていること。そして今夜は、その延長線上にいないと言葉よりも態度が語っていること。グラスの中で液体が、ゆっくりと揺れる。揺れているのはたぶん、私のほうだ。

「……ちゃんと、大人してるね」
「まー、二十歳に?なったので」

 冗談みたいに言いながら、彼は、視線を逸らさない。祝われる側であることをきちんと受け取ろうとしている顔だった。照れも逃げもない。ただ静かに、そこにいる。私はグラスを置いて、少しだけ深く息をつく。祝うという行為は、騒ぐことでも特別な言葉を並べることでもない。こうして向かい合い、過去を軽く振り返り、現在を確かめながら、今日を無事に越えていくことなのだと、ようやく腑に落ちる。

「……私のほうが、先に潰れそうなんだけど」

 正直にそう言うと、彼は迷いなく頷いた。

「顔、赤いですよ」
「言わないで」
「無理しなくていいですからね」

 その言い方が妙に保護者じみていて、私は少しだけむっとする。心配されているのはわかるのに今夜に限っては、その正しさがほんのわずかに、癪だった。

「今日の主役は、あなたでしょ」
「主役でも、無茶はしません」

 淡々とした口調。けれど、視線はちゃんと私を捉えている。逃がさないけれど縛らない目。私はソファに少し体を預ける。アルコールのせいで、頭の中の余計な思考がふわりと浮きやすくなっていた。
 ——このヒーローはいったい、あの夜、本当にどれくらい飲んだのだろう。そして、どれくらい理性を削ったのだろう。答えは聞かない。今夜は聞かなくていい。ただ一つ確かなのは酒の量よりも、この距離のほうが、よほど危ういということだった。向かい合って座り同じ空気を吸い、同じ時間を共有しているだけで、均衡がゆっくりと、傾いていく。
 それからしばらくは意識して話題を軽くした。互いに仕事でやらかした失敗談を、少しだけ誇張して話したり、最近観たどうでもいい番組の話をしたり。彼が妙に真剣な顔でケーキの入っていた袋を眺めている理由を、当て合ったりもした。

「絶対、ショートケーキだと思ってるでしょ」
「あ、ばれました?」
「わー、去年より大きくなってるぅ〜!って言うリアクション、心の中で練習してたでしょ?」
「わー、バレと〜」

 そんないつもと変わらない他愛ないやりとりに自然と笑いが落ちる。

「そんなネタに走ってたまるか〜!」
「おー? それは、期待大ですねぇ」
「ザンネン。正解」
「なんそれ。どっちです?残念で正解って」
「いちごのショートケーキでした」
「……ふはっ、サイコーです」

 酔いは確実に回っているのに、会話は不思議と転ばない。言葉が滑り落ちることも、感情が暴走することもなく、ゆるやかに、同じ流れを保ったまま進んでいく。
 彼が意図的にペースを落としているのも、はっきりとわかっていた。話す速さも、グラスを口に運ぶ回数も私の呼吸に合わせて少しずつ調整されている。主導権を握ろうともしないのに結果的に場を支えているところが彼らしかった。守られている、というより、整えられている。その感覚が酔いの奥で、妙にくっきりと残る。
 危ういのは確かだ。けれど崩れないとわかっているからこそ私はこうして、身を委ねてしまっているのだろう。

「——じゃ、片づけよっか」

 そう言って私が腰を上げると、彼もすぐに動いた。合図はいらない。言葉を交わさなくても役割が自然に分かれる。皿を重ねて、グラスを運び、テーブルの上が少しずつ空いていく。手際は静かで無駄がない。その様子が、あまりにも生活感を帯びて見えて、私は一瞬、視線を逸らした。この人はこうやって誰かの部屋に溶け込めてしまうのだ。ヒーローの顔とは違う静かな順応性。環境に合わせて自分の輪郭を丸める、柔らかさ。
 私は最後に冷蔵庫を開けて、奥にしまっていた白い箱を取り出す。持ち上げるとひんやりとした重みが腕に伝わった。重さそのものが今日という特別な日の証拠みたいで、思わず背筋を伸ばす。

「はい、本日の主役。」

 箱をテーブルに置くと彼の目がほんのわずかに見開かれる。驚きは控えめで、けれど目の奥ではたしかに、ひと呼吸分だけ、空気が変わったのがわかった。

「……え、ホール?」
「今年はね」
「すごい、ですね……」

 飾り気のない素直な感想だった。私は箱を開け丸いケーキをそっと中央に据える。生クリームの白が部屋の灯りを受けて、やわらかく反射する。その瞬間、祝いという言葉がようやく形を持った気がした。すると彼が少しだけ、身を乗り出す。

「あっ! あれ、やりたいです」
「どれ?」
「ろうそく、フーって吹くやつ」

 言い方が妙に真剣で、やたらと子どもっぽい。思わず笑いそうになるのを、喉の奥で止める。

「やるの? 二十歳だけど」
「二十歳でも、やりたいです」

 迷いのない返事だった。言い訳も照れもない。だからこそ、無下にはできないと思った。

「はいはい」

 私は立ち上がり引き出しを開ける。捨てどきを逃して溜め込んでいたロウソクを取り出し本数を数える。年齢分というわけにはいかないよね、と考えてほどほどの数を選んだ。一本ずつケーキに立てるたび、彼の視線が、それを楽しげに追っている。

「火、どうする?」
「俺、ライター持ってます」
「ほんとに?なんで」
「職業柄、です」

 そう言ってポケットからライターを差し出す。受け取ると、金属にわずかな体温が残っていて、その小さな温もりが、思いがけず胸に触れた。

「じゃあ、灯すね」
「電気、消してもいいです?」
「えっ? あ、どうぞ」

 彼が照明のスイッチに手を伸ばす。パチと短い音がして部屋が暗くなる。キッチンの小さな灯りだけが残り、テーブルの輪郭が影に溶けた。私はライターを点け一本ずつ火を移していく。小さな炎が増えるたび甘い匂いとほのかな熱が立ち上り空気が少しずつ変わっていく。祝うという行為が音もなく、場を満たしていくのがわかる。
 すべてに火が灯ったところで、私はライターをテーブルの脇に置いた。炎は揺れながら静かに、彼の二十歳を祝うように照らしていた。

「準備、できたよ」

 私の声を合図に、彼はろうそくの灯ったホールケーキを見つめたまま、ほんの少しだけ、姿勢を正す。背筋が伸びるその仕草がいつもの彼よりもずっと無防備で、どういうわけか、幼く見えた。任務前の緊張ともヒーロー活動中の集中とも違う行き場のない気持ちを抱えたままの姿勢。

「……あの」

 控えめな声が落ちてくる。直接、呼ばれたわけでもないのに、私は自然と視線を上げる。

「なに?」
「歌って、もらっても?」

 あまりにも自然な要求で私は一瞬、意味を測り損ねる。言葉が耳の中で転がって、ようやく形を結ぶ。

「……歌?」
「はい。あれです」

 言葉足らずなのに何を指しているのかは、はっきりとわかってしまう。誕生日を祝うときに歌うあの決まり文句。子どものころから刷り込まれた短い旋律。

「二人だけだよ」
「だから、です」

 即座に返されるその言葉に逃げ道はなかった。ロウソクの光に照らされた彼の顔はいつもよりも柔らかく、二十歳になる直前のどうしようもない素直さをそのまま残している。隠そうとも、取り繕おうともしていない顔。

「……仕方ないなぁ」

 私は小さく肩をすくめてから一度、呼吸を整える。部屋は静まり返り、聞こえるのは炎が立てるかすかな音だけ。上手な歌でもない。特別なアレンジもない。ただ、今日という日を越えるための小さな儀式。
 炎が揺れて、影が壁に滲み、彼は黙ったまま、それを受け取ろうとしている。祝われる側としてではなく、役割を外した、ひとりの人間として。

「♪ ハッピーバースデー トゥーユー」

 音程はたぶん完璧じゃない。でも、わざと崩すこともしない。ただ今ここにある声を、そのまま差し出す。飾らず、守らず、逃げないままで。

「♪ ハッピーバースデー トゥーユー」

 彼は、ロウソクの向こうで、その灯火をじっと見ていた。視線は揺れない。照れも笑いもない。ただ、受け取るためだけに置かれた目。祝われる人の顔というより、何かを静かに待っている人の顔だった。

「♪ ハッピーバースデー ディア……」

 そこで、言葉に詰まってしまった。名前、どうしよう。ホークス……でいいのかな。いいよね、だって彼は、ホークスだし。
 そう自分に言い聞かせるようにほんの短い間を挟む。もう一度、歌い出そうとして、小さく息を吸った、その瞬間。

「けいご」
「え?」

 ロウソクの火だけが灯る狭い室内。揺れる炎に照らされた彼の横顔は、どこか、遠くを見ているようで、現実から半歩だけ外れている。
 ——いま、なんて? 理解が追いつく前に彼の視線がゆっくりこちらへ向けられる。光を宿したホールケーキを挟んで、視線が重なる。

「けいごです。名前、俺の。」

 声は低く静かで、言い逃れの余地を残さない。お願いでも、強要でもない。ただ事実を、そこに置かれただけ。

「あ……そ、う。そっか」

 間の抜けた返事をしながら胸の奥が、きゅっと縮むのを、必死に抑え込む。

「呼んで」
「……」
「歌ってください」

 淡々としているのに退路がない。私は、ほんの一瞬だけ迷ってそれでも視線をロウソクへ戻す。仕切り直すように、もう一度、息を吸う。

「♪ ハッピーバースデー トゥーユー」
「……」
「♪ ハッピーバースデー トゥーユー」
「……」
「♪ ハッピーバースデー ディア……けい、ご」

 声が少しだけ揺れた気がした。それでも名前を口にした瞬間、歌はもうただの儀式ではなくなっていた。音程でも声量でもない。名前を呼んだという事実だけが、空気に残る。

「♪ ハッピーバースデー トゥーユー……」

 歌い終えると、彼は小さく息を吸った。それは拍手の代わりでも、照れ隠しでもない、ちゃんと受け取った人の呼吸だった。

「……ありがとうございます」

 その声が、やけに静かで、私は胸の奥が締まるのを感じた。祝われた人の声というより渡されたものを、確かに抱えた人の声だったから。

「……じゃ、どうぞ」

 そう促すと彼はロウソクに向かってゆっくりと呼吸を整える。次に何が起きるのかを私はもう、はっきりとわかっていた。彼は一度だけ深く息を吸い、身を乗り出す。そして、ふっと、息を吐いた。炎が一斉に揺れ、次の瞬間すべてが消える。残ったのは芯の焼ける匂いと、ほんのり白い煙。それから、音を失ったみたいな静けさ。

「……成功ですね」

 『成功』という言葉に、わずかな違和感を覚えながらも、暗がりの中で彼が小さく、笑ったのが見えた。その笑顔がヒーローホークスが二十歳になった、最初の表情だった。

「願い事は?」
「内緒です」
「ずるーい」
「誕生日の特権です」

 その言い方がいつもより少しだけ軽くて、冗談めかしているのに、逃げてはいない。
 私は電気をつける。ぱっと明るくなった部屋の中で彼はケーキの前に座ったまま、なぜか動かなかった。ロウソクの立ったケーキ。呼んだ名前。消えた火。ひとつの儀式は、確かに終わったはずなのに終わっていないものが、まだそこに残っている。空気の中に、言葉にならない余白がある。その理由を、私はもう、わかっていた。

「……どうしたの」
「いえ」

 返事は短い。そのあと、ふいに、間が落ちる。ほんのわずかな沈黙なのに部屋の輪郭が少しだけ変わった気がした。

「今、」
「今?」
「切り替わったなって」

 私が「なにが?」と問う前に、彼は声音をやや落としたまま続けた。

「日付」

 そう言われて、私はスマートフォンに目を落とした。表示された時刻は零時を、ほんの少しだけ過ぎている。境目を越えたという実感は薄いのに確かにもう昨日ではない。数字だけが、音もなくそれを告げていた。

「……おめでとう。大人の世界へ、ようこそ」

 改めて口にすると彼は少し照れたように視線を逸らす。

「ありがとうございます」

 名字も、名前もない。ただの丁寧なお礼。それでもその声には節目を受け取った人特有の重さがあって軽くはないが重すぎもしない。これからを引き受ける準備の音。
 私はケーキを切り分け皿に乗せる。フォークを渡すと彼は一口目を、驚くほどゆっくり運んだ。味を確かめるというよりも、今日という日を壊さないようにするみたいに。

「……美味しいです。世界一」
「よかった」
「甘すぎなくて、ちょうどいいです」

 そう言ってから彼はふっと真顔になる。笑いの余韻が静かに引いていく。さっきまでの柔らかな空気がすっと張り直されるのが、はっきりとわかった。祝う時間は、まだ終わっていない。でも、何かが始まる前の、短い静けさが、そこに訪れていた。

「……ひとつ、いいですか」
「なに?」

 彼はフォークを置き、私を見る。逃げも飾りもない目。探るでも、試すでもない。ただ、ここにあるものを、正面から見ようとする視線だった。

「さっきの、歌」
「うん」
「……名前、止まりましたよね。最初」

 指摘は、驚くほど静かだった。責める調子でも正解を引き出そうとする声音でもない。ただ事実を、そっと、テーブルの上に置くような言い方。確かめる、というより、共有しようとしている。

「うん、止まった」
「ですよね」

 短いやり取りのあと言葉を探す沈黙が落ちる。重くはないが軽くもない。ロウソクを消した後のあの、空白に似ていた。

「俺が、欲しいって言ったから」

 それは質問ではなかった。自分の言葉が相手にどんな影を落としたのかを、正確に把握している人の声。

「気負い、させちゃいましたよね」
「……ちょっとね」

 正直に認めると、彼は小さく息を吐く。後悔というより受け止めたという呼吸。逃げずに一度、自分の胸に落とした音。

「ありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ……名前、教えてくれて」

 そう言うと、彼は一瞬、視線を遠くに送った。過去を見る目というより過去と距離を測るような短い空白。それから、少し困ったように笑う。

「……ああ、いえ」
「……」
「あんなの、昔に捨てた名前なんで」

 口調は軽いのに、その言葉自体はまるで、軽くなかった。そしてこれは絶対に冗談や軽口として受け取ってはいけないと、そう、本能が告げる。けれど私はあえて今は踏み込まない事を選んだ。

「……それで?」

 促すと、彼は一瞬だけ視線を落とし、それから覚悟を決めたみたいに、もう一度こちらを見る。これから言うことが簡単な続きではないと互いにわかっていた。

「じゃあ次は、俺の番かなって」
「何の」
「権利の」

 胸の奥が静かに鳴る。期待でも不安でもない。確認される準備が整ったときの音。実際には音は立たないのに、たしかに内部で、反響する感覚があった。

「使うの?」
「……確認してからにします」

 そう言って、彼はきちんと背筋を伸ばす。軽口でも流れでもない。冗談に逃がさない態度。選択の場を、正面から整える姿勢。

「今、呼んでもいいですか」

 許可を奪わない聞き方だった。選択肢を、きちんと私の側に残したままの声。私は、ほんの短い間だけ考えて、それから、ゆっくり頷く。

「……いいよ」

 返事を受け取って、彼は、ほんの少しだけ息を吸う。間を作る、その慎重さが、今夜のすべてを物語っていた。

「名前さん」

 私の名前が、静かに呼ばれる。祝福でも、衝動でもない。ただ丁寧に。必要な、音として——。その瞬間、胸の奥で何かが、緩む気配がした。

「……はい。」

 自分の声が、思ったより落ち着いていることに少しだけ驚く。呼ばれたという事実を、きちんと受け取れている。揺れているのは感情であって、足元ではない。

「名前さん」
「はい」
「名前さん?」
「はいはい?」
「——名前。」

 まっすぐ、あの琥珀色の瞳に射抜かれて思わず息を飲む。理由も分からないまま顔に熱が集まるのがわかる。誤魔化すように目を伏せ軽く咳払いをしてから意味もなく髪を耳にかけた。すると、彼がくすりと笑った気配がして、私はもう一度、顔を上げる。

「……呼び捨て、じゃん」
「ごめんなさい」
「いいけどさ……べつに」
「名前さん」
「はいっ」
「改めて」

 彼はやや目元を緩ませてから、それでも視線を外さずに言う。

「今日は、名前さんの家に呼んでくれて、ありがとうございました」

 それ以上、踏み込まない。けれどもう戻れない一歩を確かに、踏んだ夜。
 ケーキの皿の上でフォークが小さく鳴る。その音が、区切りの合図みたいに、部屋へ落ちる。

 残りのケーキを食べ終えて、皿を重ねて流しに置くころには部屋の空気も私の頭の中も少しだけ落ち着いていた。時計を見ると日付はもう完全に誕生日を越えた側へと寄っている。
 昨日には戻れない。けれど、急ぐ必要もない。その事実だけが夜の底で、穏やかに光っていた。


 *


「そろそろ、帰りますね。」

 ホークスがそう言って立ち上がる。言い方も、タイミングも、きちんと��大人�≠セった。酔いに身を預ける気配も名残惜しさを前に出す素振りもない。今日という日を、丁寧に畳もうとする人の所作。
 私は頷き、何も言わずに玄関まで一緒に歩く。靴を揃える彼の背中を見ているうちに、胸の奥で小さなざわめきが生まれた。音にならない、でも確かに主張する感覚。このまま終わらせても何も間違っていない。むしろ、正解に近い。
 それでも——だから私はドアノブに手をかけた彼の動きが止まったその瞬間を逃さなかった。

「……あの、さ」

 自分の声が少し遅れて耳に届く。彼はくるりと身体ごと振り返る。

「泊まって、く?」

 言葉は、思っていたよりも軽く出た。軽いのに胸の内側では心臓が妙に騒がしい。彼はすぐには答えない。驚いた様子も戸惑いも見せず、ただ、視線を落とし、呼吸を整えるようにして一度だけ深く息を吸う。

「……いいん、ですか」

 確認する声が、やけに静かだった。私は慌てて言葉を足す。

「あの、無理なら、全然……いい」

 逃げ道を用意している自分が、少し情けない。

「あのほら。誕生日だったし……もう、遅いし」

 理由を並べながら、私は彼を見ない。沈黙が、短く続く。その間に彼は一歩だけ、私との距離を詰めた。反射的に、わずかに身を引いてしまう。ほんと、情けない。

「……じゃあ、」

 低い声。一瞬だけ彼の顔を見る。自分の心臓の音が、やたらとうるさい。

「甘えさせてもらっても、いいですか」

 ��泊まる�≠ナはなく��甘える�=B私もよく使うはずの言葉なのに、今日という日に選ばれたその響きに、胸の奥が静かに締まる。

「——ただし」

 しかし彼は、はっきりと言った。なんとなく、背筋が自然と伸びてしまう。

「今日も、越えないです」

 その一言に、彼の覚悟が滲んでいる。欲望ではなく、選択としての自制。その『即答』が、胸の奥に、小さな引っかかりを残した。守ろうとしているのは、距離か、約束か、それとも私なのか。いや。その、全部なのかもしれない。

「……うん」

 私はようやく彼を正面から見る。目が合った。彼はなんとも表現し難い、少し、情けなさそうな顔をしていた。

「それで、いい。」

 彼はそこで、ほっとしたように小さく笑った。

「ありがとうございます、名前さん」

 名前で呼ばれる。さっきよりもほんの少しだけ自然に。
 ドアを閉めて、鍵をかける音が、夜を区切る。誕生日はまだ続いている。けれどこの夜が特別である理由は、もう十分すぎるほど、揃っていたと思う。玄関の灯りを落としてリビングに戻ると、彼は一度だけ周囲を見回してから、随分と遠慮がちに口を開いた。

「……じゃあ、俺、」
「うん?」
「床で寝ますんで。」

 答えは早かった。考えるための余白も、逡巡もない。選択肢を並べる前に結論へ辿り着いてしまうその迷いのなさが、かえって彼の緊張を雄弁に物語っていた。

「は?」

 思いがけず素の声が漏れる。自分でも驚くほど短くて、飾り気のない音だった。彼の言葉を理解するより先に感情だけが反応してしまったのだと思う。『床』という単語が、やけに冷たく、耳に残った。
 ついさっきまでは同じテーブルを囲み同じ夜を祝っていた相手が、まるで罰を受けるみたいに、自分の居場所を下へと移そうとする。その発想がどうにも、飲み込めない。

「体、痛くなったら……ソファも借りれますし」
「……」
「床でも、全然……」
「全然じゃないでしょ。床、硬いし、寒いよ?」
「いえ、慣れてます」
「慣れてるの基準、おかしいって」

 私は胸の前で腕を組み少しだけ語気を強める。彼は苦笑して視線を逸らした。その仕草が余計に腹立たしい。この夜をここまで丁寧に扱ってきた人が、今さら床を選ぶ理由が、本当にそれでいいのか。私は、それを確かめずにいられなかった。

「……さっき、」
「うん」
「越えない、って……自分で、言ったんで……」
「言ったね」
「だから、その……ベッドは」

 言葉を選びながら続ける彼に、私は首を振る。そして一歩、距離を詰めて言い切った。

「だからこそ、でしょ」

 その言葉に今度は彼が、わずかに身を引いた。触れない程度の距離を、きっちり、保ったまま。
 声を荒らげたわけじゃない。でも、迷いはなかった。譲るつもりがないことを、言葉より先に、体が示してしまったような感覚。床に寝るという選択が彼なりの誠実さであることはわかる。それでも私はこの夜をそんなふうに扱われたくなかった。越えないという約束と、粗末にしないという配慮は、同じではないのだから。

「床で寝られるほうが、落ち着かない」

 それは理屈というより感覚だった。彼は一瞬、言葉に詰まる。視線が揺れ何かを言いかけて飲み込む。その沈黙が、思考の速さを物語っている。

「それは……」
「私が嫌なの」

 主語を、はっきりさせる。遠慮でも、配慮でもない。これは、私の意思だと念を押すために。
 すると彼は観念したように小さく息を吐いた。その呼吸には折れたというよりも、受け取った、という響きが混じっている。

「じゃあ、俺が……ベッドの、横の——」
「うん」
「……床、で。」
「は?」
「はい」
「……わかった。それなら、私が床で寝る」
「え」
「え、じゃない」

 反射的に返した自分の声が少しだけ強く響く。このやり取りが、もう無意味な押し問答ではないことを、私は自覚していた。今度は彼のほうが、はっきりと慌てて首を振る。

「いや、それはダメです」
「なんで」
「名前さんのうちなのに、名前さんが床って」
「あなたが床も、同じでしょ」
「同じじゃないです!」

 きっぱりとした否定。それは、一歩も引かない声音だった。

「……年齢的にも、立場的にも」
「今、それ言う?」

 私が睨むと、彼は少しだけ肩をすくめる。謝るでも、取り消すでもない。それでも、自分の線は崩さない。その仕草が、彼らしかった。お互いに譲らない。けれど、衝突もしない。このやり取りそのものが、今夜の距離感を何より雄弁に示していた気がした。

「……じゃあ、ソファで」
「ホークス」
「……はい」
「あなたついさっき人の家のシャワー浴びてさ」
「はい」
「綺麗さっぱりしたくせに、床か、ソファ?」
「……はい」
「私は?」
「……ベッドで」

 一瞬のためらいを挟んだ、その、返答。最後の正解を、選びかねているみたいな声。

「それ、逆に落ち着かないってば!」

 思わず声を張って言い切ると、その場に沈黙が落ちる。夜の音が、急に際立つ。遠くを走る車の音、エアコンの微かな駆動音、互いの呼吸。それまで言葉で埋まっていた空間が数秒分、何も言わずに保たれる。彼は視線を落とす。考えるというより覚悟を整えるような間。そして、ぽつりと。

「……じゃあ、」

 顔を上げる。逃げも、冗談もない、まっすぐな目だった。この先に出る言葉が今夜をどこへ運ぶのか。私はその続きを、息を詰めて待っていた。

「……ベッドで、寝ますけど」
「うん」
「背、向けます」

 短い宣言のあと、彼は一度だけ、言葉を噛む。それだけでは足りないと、自分でもわかっている様子で、少し慎重に続けた。

「触らないです」
「うん」
「一切」
「信じてる」

 そう返すと彼は少しだけ困ったように笑った。約束を交わしたわけでもない。ただ「信じる」と告げただけなのにその一言が今夜いちばん確かな境界線になった気がした。

「……それ、地味にプレッシャーなんですけど」
「自分で言い出したんじゃん」
「いや、そうなんですけど……」
「なに」
「俺、一応……男の子、でして」
「今さら」
「そこは否定しないんすね……」

 小さく交わしたやり取りに張り詰めていた空気が、ほんのわずか緩む。越えないと決めたまま、同じ夜を引き受ける。それは逃げでも、妥協でもない。誕生日は、まだ終わらない。けれど、この瞬間、私たちはすでに��大人�≠ニしての夜を選び取っていた。
 私はぷりぷりしたままシャワーを浴びに行く。湯気の向こうで気持ちを切り替えるつもりが完全には切り替わらないまま、タオルで髪を拭いて、リビングへ戻った。結局、私たちは並んで寝室に入り、灯りを落とした。ベッドに横になると彼は宣言どおり、律儀に身体の向きを変え、こちらに背中を向けた。距離は、触れない程度。けれど、遠すぎない。互いの体温がわずかに重なる位置。

「名前さん……」
「なぁに?」
「……寒く、ないですか」
「平気。ホークスは?」
「大丈夫です」

 低い声が暗がりに溶ける。意識しなければ気づかないはずの距離なのに、今はその数センチが、やけに具体的だった。シーツが擦れる微かな音、彼の呼吸の規則性。どれもが、近すぎないことを証明するためにかえって存在感を主張してくる。背中合わせのまま、同じ天井を見ないで同じ夜を共有する。越えない、と決めた線のこちら側で、眠りに向かう準備だけが、静かに整っていった。

「ねえ……?」
「はい?」
「……近く、ない?」

 闇に向かって探るように言うと彼が小さく息を吐いた気配がした。返事の前に、ほんのわずかな間がある。

「……これ以上離れると、落ちます」

 即さず、しかし曖昧にもならない声音。その、真面目さが可笑しくて私は思わず息を零すように笑ってしまう。

「そっか。……それは、困るね」
「はい。物理的に」

 ベッドが微かに軋む音も、遠くで刻まれているはずの秒針の気配も今日はやけに遠い。代わりに彼の背中が静かに、上下するのが伝わってくる。規則正しい呼吸。起きているのか、もう、眠りへ傾き始めているのか、その境目。
 私も、無意識に呼吸を整える。吸って、吐く。そのリズムが、少しずつ彼のものと重なっていくのがわかる。

「……起きてる?」
「……起きてます」

 小さな間を挟んだ返答。起きていると言いながら、すでに半分は夜の底に足を浸しているような声だった。

「……おやすみ、ホークス」
「おやすみなさい、名前さん」

 互いの名前が暗闇の中で、やわらかく落ちる。呼ばれること自体はもう特別ではないはずなのに夜に溶けるとまた別の重さを帯びる。音としては短いのに、余韻だけが長い。
 私は目を閉じる。触れないという宣言と、同じベッドという事実。その矛盾が、なぜだか今夜は心を落ち着かせてくれた。越えないと決めた線は冷たい境界ではなく、静かな信頼として、ここに在る。

 誕生日の夜はまだ続いている。けれど、何かを証明する必要は、もうなかった。触れなくても、確かめなくても、選び合った時間が、すでに十分だったから。
 彼の呼吸に少しずつ自分の呼吸が重なる。同じ夜を同じ速度で、ただ静かに越えていく。派手な始まりよりもずっと確かな結び。そう思いながら私は、眠りへと身を預けていった。


  • prev | next

  • back
VERTEX