夜中に、ふと目が覚めた。理由はわからない。夢を見ていたわけでも物音がしたわけでもない。ただ眠りが浅くなった瞬間に意識だけが浮上してしまったような感じだった。
 隣から聞こえるのは、規則正しい呼吸音。彼は宣言通りこちらに背を向けたままきちんと眠っている。私はしばらく天井を見つめてから、そっと寝返りを打った。布が擦れる音が、やけに大きく感じられて、思わず息を殺す。彼の背中は思っていたよりも近くて羽根の付け根のあたりが薄闇の中でもわかる。
 起こす気はさらさらない。ただの、出来心だ。そう言い訳をしてから私は彼のほうに静かに体を寄せて、人差し指を伸ばした。羽根と羽根の間、背の中央部分を指先でそっとなぞる。書くというほど力は入れていない。撫でる、の延長みたいな動きで、文字の形を辿るだけだ。

 ……け
 ……い
 ……ご

 自分でも何を書いているんだろうと思いながらもう一度今度は少しだけはっきりと指を動かす。

 ……お
 ……め
 ……で
 ……と
 ……う

 くすぐったそうな反応は、一切ない。呼吸も、変わらない。やっぱり起きていないのだと改めて認識する。私は調子に乗って、もう一回。今度は短い言葉を、なぞっていく。

 ……ね
 ……て
 ……る?

 闇に紛れるつもりで、指先だけで綴ったつもりだった。言葉は音にならず背中に触れるかすかな圧だけが私の存在を伝える——はずだった、が。次の瞬間。

「……寝てますけど」

 低く、はっきりとした声がして、想定していなかったその返答に、私は思わず息を詰まらせる。胸の奥で、心臓が一度だけ強く鳴った。

「えっ」

 声が裏返りそうになるのを、必死で抑える。

「……起きてた、の?」

 ホークスは、それでも身体の向きを変えない。こちらを見ないまま、ただ背中越しに、少しだけ肩をすくめた。

「半分くらい。なんか……背中が、うるさくて」
「うるさくて、って」
「文字、書かれてたんで」

 私は布団の中で、思わず顔を押さえる。暗闇の安心感に甘えていた分、恥ずかしさが遅れて押し寄せた。

「……読めたの?」
「はい」
「全部?」
「全部」

 短く答えたあと彼の声にほんのわずかな笑いの気配が混じった。

「名前——と、『おめでとう』と……」

 そこで意図的に置かれたみたいな間が落ちる。言葉を選んだというより夜の空気に一度、預けたような沈黙。

「……『ねてる?』って。」

 私は耐えきれず、小さく声を立てて笑ってしまった。抑えたつもりだったのに、布団がわずかに揺れる。その振動がきっと彼の背中にも伝わったはずだ。

「ごめん……まさか、読まれると思わなくて」
「そりゃ、俺の背中ですから」
「背中で会話しないでよ」
「する人、初めて見ましたけどね」

 そう言いながらも、声は柔らかい。咎めるでもからかうでもなく、ただ、受け止めている調子。

「起こしちゃった?」
「いえ。起きてたんで」
「じゃあ……くすぐったかった?」
「まあ……悪くは、ないです」

 少し考える気配。それから呼吸がひとつ、整えられる。その言い方が、妙に律儀で妙に優しくてなんだか可笑しい。触れない約束のまま、こんなふうに距離だけが近づいていく夜があるのだと、今夜、私は初めて知った。暗闇の中で、彼の背中は変わらずこちらを向いている。それでも言葉は確かに届いていた。越えないと決めたはずの線の手前で静かに、そして確実に。

「律儀に背、向けてたのにね」
「約束したんで」
「でも、読んでるし」
「読むのと触るのは、別枠です」
「その理屈、初めて聞いた」

 暗闇の中で彼が小さく息を吐くのがわかった。笑うほどでも否定するほどでもない、ちょうど、中間の呼吸。そして理屈を並べた自分を少しだけ可笑しがっているような気配。

「……起きちゃったなら、少し、話します?」
「眠くない?」
「眠いですけど」
「じゃあ寝なよ」
「でも、」

 一拍。その「でも」が落ちるまでの間に、彼が何を選ぶのかを私はなぜか待ってしまっていた。

「名前さんが、面白いことするから」

 自然と名前を呼ばれて、胸の奥が静かに鳴る。初めて呼ばれたときともさっき呼ばれたときとも違う、夜の名前。音量は小さいのに距離だけが、はっきりと縮まる感覚。

「……ごめんなさい」

 いつもみたいに冗談めかすこともできたのに、そうはならなかった。というか、出来なかった。暗闇は言葉を、正直にするらしい。

「いーえ?」

 彼は短く返してから、少しだけ声を落とした。

「さっきの、名前付きの『おめでとう』」
「……ん?」
「……ありがとうございました」

 背中越しでもわかるくらいに、丁寧に選ばれた声のトーン。その感謝の言葉は、誕生日に対してというよりも、私の行為そのものに向けられている気がした。

「……名前付きって、ケーキのプレートみたい」
「ケーキも、美味しかったですよ」
「背中越しで言われてもなぁ」
「それが、ちょうどよかったんです」

 理由を聞く気は、しなかった。聞けば、言葉にしてしまえば、この夜に必要な温度を、少しだけ下げてしまいそうだったから。
 それきり、また沈黙が落ちる。さっきよりも、ずっと穏やかな静けさ。気まずさのない、放っておいても崩れない沈黙。彼の呼吸が少しずつ深くなっていくのを、背中越しに感じる。私もそれに合わせるように、ゆっくりと息を吐く。

「……もう一回、書いてもいい?」

 冗談半分で聞くと、背中越しに返ってきた声はさっきよりも少しだけ、低かった。

「今度は、読まれない前提でお願いします」
「それ、無理じゃない?」
「じゃあ、短いやつで」
「なにがいい?」
「……おやすみ、とか?」

 その提案が、あまりにも無難で、あまりにも、彼らしくて、私は思わず笑ってしまう。いいよ、と言う代わりに、もう一回だけと心の中で決めてそっと、指先を伸ばした。羽と羽の間。さっきと同じ場所。そして今度は、ほんの少しだけ、はっきりと。


 ……す


 一文字だけ書いたところであえて指を止める。その瞬間、背中越しに、彼の呼吸がわずかに変わったのが、伝わってきた。吸う量が増えたのか、吐くのを一拍遅らせたのか、理由はわからない。

「……続き、どうぞ」

 落ち着いた声。けれど、どこか警戒している。さっきまでの余裕が、ほんの少しだけ引っ込んでいるのがわかる。

「なに、読めたの?」
「『す』って書きましたよね」
「うん」
「……」

 数秒の沈黙。その間に、彼はきっと、あらゆる可能性を頭の中で並べていることだろう。

「……それ、次」

 すると彼が言葉を選ぶみたいに少し間を置いてから続ける。

「『カ行』じゃ、ないですよね?」

 図星を突かれて、私は思わず口元を押さえた。暗闇でよかった、と思う。

「なんで、そうなるの」
「この流れで『す』なんて来たら、普通そう思いません?」
「普通ってなに」
「少なくとも、俺はそう思います」
「なにそれ」
「ホークス辞書です」

 背中越しなのに、なぜか、表情がはっきり想像できてしまうのが悔しい。きっと、困ったように眉を寄せて、それでも目は閉じたまま、という、そんな顔だろうな、と。

「……期待、した?」
「いや、別に」

 即答すぎて、逆に怪しい。声がほんの少しだけ上ずいている気がしたのは、気のせいじゃないと思う。

「じゃあ、続き書くね」
「はい」

 その素直な返事が、逆に私を煽る。少しだけ、意地悪な気持ちになる。私はゆっくりと、今度は迷いなく指を動かした。

 ……け
 ……べ

 いやに長い沈黙が落ちる。空気が、はっきりと変わったのがわかった。背中越しに伝わる体温がさっきよりも、近く感じられる。触れてはいないのに、距離の意味だけが変わってしまった。

「……名前さん」

 低く、地を這うような声音で呼ばれて私は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。声を殺して息だけが揺れて、その振動が布団に伝わるのを、なぜか、彼には悟られたくなかった。

「なに」
「今の、完全に俺をからかってましたよね」
「えぇ? いやぁ、そんなつもりじゃ……」

 暗闇の中で、私のくぐもった声に思わず笑いが混じる。それが癪に障ったのか、ホークスは溜め息を含ませて、言葉を続けた。

「……『す』で止めて」
「うん?」
「一瞬、期待させてからの『すけべ』はさすがに手口が汚いですって……」
「期待してたのは、そっちでしょ」
「否定できないのが、余計ムカつくんですけど」
「ふふっ」
「ほんと人が悪い。分かっててやってる感じが」

 やや機嫌が悪そうに聞こえるその声は、きっと演技だ。怒っているふりをしながらも、その裏でちゃんと場の温度を測っている。そんな彼らしい優しさが、はっきりと伝わってきた。

「……ひどいなぁ」
「……人の背中で遊ぶ人に言われたくないです」
「でも、読んだ」
「職業病ですね」
「これ、何かの潜入捜査のときとかに使ってね」
「なかですよ……これが活用される捜査なんて」
「わー、ザンネンだ」

 少しだけ彼の肩が揺れる。背中越しでも、その小さな動きは意外なほどはっきりと伝わってきて暗闇の中で、彼が今どんな顔をしているのかまで想像できてしまう。

「……でも」

 そこで短い沈黙が落ちる。言葉を探しているというより、どこまで踏み込めるかを測るための、慎重な間。

「『すき』よりは、安全ですね」
「やっぱそれ、期待してたんじゃん」
「『すき』より『すけべ』の方が安パイなんで」
「なんか、比較対象おかしくない?」
「理性的判断でした」
「その理性、どこ基準なの」
「……ギリギリを越えないライン、俺基準です」

 あまりにも真面目な言い切りに私は思わず声を立てて笑ってしまう。抑えたつもりだったのに、布団がわずかに揺れ、その振動が夜の空気をやさしく崩す。張り詰めていた何かが音もなくほどけていくのがわかる。

「……もう、書かないし」
「……そうしてください」
「期待してたくせに」
「してませんって」
「即答すぎる」

 暗闇の中で、彼が小さく息を吐く。その呼吸は笑いの名残を一つずつ畳むみたいに丁寧で、少しだけ低い。

「……じゃあ、今度こそ」

 言葉の続きを告げる代わりに私は気を取り直すように指先を短くなぞった。何かを確かめるためでも越えるためでもない。ただこの夜をきちんと終わらせるための、小さな所作。

 ……お
 ……や
 ……す
 ……み

「……はい」

 今度は、間を置かずに読まれる。次いで、彼の呼吸が、またゆっくりと深くなっていく。

「おやすみ、ホークス」
「おやすみなさい、名前さん」

 声が、さっきより少しだけ柔らかい。それで、会話は終わったはずなのに私はまだ、終わらせる気になれなかった。指先を引っ込める代わりに、もう一度だけ、そっと彼の背中に触れる。文字にならない線をくるりと描く。意味のない、ただの悪戯心。

 ……くる
 ……くる

 背中越しに、彼の呼吸がまた、少しだけ乱れるのがわかった。それでも彼は動かない。律儀に、背を向けたまま。だから、つい。

 ……とん
 ……とん

 羽の付け根あたりを、軽く叩くようになぞったその瞬間——空気が、音を失った。

「……っ、」

 低く、息を呑む音がした。次の刹那、ばさっと空気を切る音。羽根が動いたのだと理解するより先に、胸の奥で嫌な予感が跳ねる。
 あっ、やりすぎたかも。そう思ったときには、もう遅い。書いた文字は消せないし今夜の空気も元には戻らない。
 羽根が大きく揺れ布団がわずかに持ち上がる。反動みたいに、彼の体が、こちらへ向き直った。動きは速いのに乱暴さはない。ただ迷いがない。気づいたときには同時に、手首を取られていた。強くはない。けれど、逃がさないと、決めた力。指先が絡まらない距離で、私の手を確かに押さえこむ。その距離感が、かえって彼の理性を雄弁に語っていた。

「名前さん」

 至近距離で呼ばれて、心臓が、どくんと大きく鳴った。自分の音なのに、彼にも聞こえてしまいそうで思わず息を止める。月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいる。淡い光の中で彼の瞳がはっきりと見えた。琥珀色。普段よりも少し暗くそれでも確かに、私だけを捉えている瞳。

「……もう、終わりです」

 声は低く静かだった。怒ってはいない。けれど笑ってもいない。ただしっかりと線を引くための声音。それは短いひと言なのに、揺るぎがない。私は思わず生唾を呑む。そのわずかな動きさえ、暗闇では、大きく感じられる。

「……これ以上は」

 そこで彼自身が一度、深く息を整えた。呼吸を言葉の前に置くその順序が、今夜の彼のすべてを物語っている。

「二十歳(ハタチ)の理性が、持たないんで——」

 正直すぎる告白だった。飾りも照れ隠しもない事実だけを差し出す言い方。
 私は喉の奥でこくりと音を立ててしまう。その生々しい響きはたぶん、彼の耳にも届いていたと思う。越えないと決めた理由が理性であること。その理性が揺らいでいると、正直に示してしまうところまで含めて、彼らしい。

「……ご、ごめん」
「謝らなくていいですけど」

 そう言ってから、彼は私の手をゆっくりと離した。名残を残さない、きれいな動き。触れていた時間より、その離し方のほうがずっと胸に残る。

「楽しかったですけどね」

 そう付け足して、小さく息を吐く。感情を切り離すための呼吸。そしてもう一度、身体を翻す。羽根がまたばさりと音を立て元の位置に収まる。背中がこちらを向き、さっきよりほんの少しだけ距離ができた。その数センチが、今夜いちばんの安心だった。私は、胸に残る鼓動を、ゆっくりと鎮めながら、天井を見つめる。心臓はまだ早鐘を打っているのに思考だけが先に落ち着いていく。

「……おやすみ」

 私が蚊の鳴くような声で言うと彼がゆっくりと深く、ため息みたいな吐息を吐いた。

「おやすみなさい、名前さん」

 今度は、確かに眠りに向かう声だった。さっきまでの緊張が、音もなく解けていく。月明かりは静かに部屋を、照らしたまま。触れない約束も、越えない線も、きちんと、守られている。ただ、羽根の揺れと手首に残った温度だけが、この夜が特別だったことを、黙って証明していた。

 *

 ——なにが、どうして、そうなったのか。朝の光はいつもよりも、容赦がなかった。カーテンの隙間から差し込む白い光にあてられて、私は目を覚ました。
 眠りの底から引き上げられるような感覚のままぼんやりと視界を整えて、そして息が止まった。こちらに体を向けて彼が眠っている。ホークスは昨夜きちんと背を向けていたはずなのに今は私のほうを向き気持ちよさそうに目を閉じて、規則正しい寝息を立てている。琥珀色の瞳は伏せられ、長い睫毛が、朝の光を受けて影を落としていた。寝顔は驚くほど無防備で、もはや、ヒーローの、それではない。

(——え。……待って)

 混乱したまま、視線を下げる。彼の片腕が私の腰に回っていた。思わず「ひぇ!?」と声をあげかけて、朝特有の掠れた声では声にならなかったことに心底、安堵する。
 逃がさない力ではない。ただ、そこにあるのが自然だと言わんばかりの、無意識の重み。そして問題はもう一方の手だ。その手は私の指と絡めるわけでもなく、けれどたしかに、握られている。眠っているあいだに探して、見つけて、そのまま離さなかったみたいにして——。

「………っ、」

 心臓が朝からうるさい。どく、どく、どく、と耳の奥で鳴って体の内側が一斉に目を覚ました。昨夜の記憶が羽根の音と、月明かりと、低い声と一緒に、遅れて押し寄せてくる。

(——越えないって、言ってたよね……?)

 煽った張本人が言う台詞としては、さすがに、筋が通らない気もするが、まだ越えてはいない。触れてはいけないところには、触れて、いない。なのに、これは……あまりにも。
 私は息を殺したまま、そっと、彼の顔を見る。眠りは深い。呼吸は穏やかで、胸がゆっくり上下している。その様子に、ほんの少しだけ安堵したその瞬間。

「……ん、」

 眉間がぎゅっと寄せられて、低い声が喉の奥で鳴った。心臓が跳ね上がる。まぶたが、わずかに動く気配。目を覚ましかけている。指先が、私の手をきゅっと無意識に、握り直す。待て待て……ダメよ、ダメダメ。これぜったいにダメなやつ!
 私は、考えるより先に、動いていた。そっと、けれど手早く、彼の腕から自分の体を抜く。腰に回された腕を音を立てないように外し、握られていた手を、名残を振り切るみたいに解く。そしてそのままベッドから、飛び出した。
 足が床に着いた瞬間冷たい感触が一気に現実を引き戻す。振り返る余裕もなく、私は寝室を抜けた。背後からはまだ規則正しい呼吸の音。彼は、完全には目を覚ましていない。
 とりあえずキッチンに立って深く、何度も息を吸って吐く。呼吸法だけ見ればもはや出産間近のそれだ。朝のやたらと陽気な空気が容赦なく肺に突き刺さってくる。

(——落ち着け。落ち着くんだ……わたし!)

 私は額に手を当てた。越えてはいない。何も、していない。それなのに、どうしてこんなにも、胸が騒がしいのか。
 そのとき。ベッドのほうから布が擦れる微かな音が聞こえて、私はびくりと、両肩を揺らした。誕生日を越えた朝は、想像していたよりもずっと落ち着きがなく騒がしい中、始まってしまった。
 キッチンで私は無意味にコップを洗っていた。まだ使っていないはずのコップを、必要以上に、念入りに、丁寧に。水の音で頭の中のざわめきを押し流そうとしていたのかもしれない。

「……おはようございまぁす」

 するとそのとき背後から少し掠れた声。心臓が嫌な音を立てて思わず「ぎゃあ!」と叫びそうになった。

「っ……!」

 勢いよく振り返って、私は思わず一歩下がる。そこにいたのは言わずもがな、ホークスだった。寝起きそのままの姿。髪はあちこちに跳ねていていつもの整った感じが、まるでない。Tシャツの襟元は少し歪み、目もまだ、完全には覚めきっていないのにそれでも彼は間違いなくここにいる。

「……そんなに、驚きます?」

 苦笑混じりにそう言われて、私は一瞬、言葉を失った。自分でも自覚はしていなかったけれど、たぶん、思った以上に顔に出ていたのだと思う。朝の光の中で、彼が立っている。ただそれだけの事実に、心臓が一拍遅れて追いついていない。

「い、いつから……」
「え。今さっきです」

 そう言って、彼は軽く目を擦った。その仕草があまりにも生活の延長すぎて、昨夜の出来事が、夢ではなかったのだと、嫌でも思い知らされる。

「起きたら、名前さんいなくて」

 名前を呼ばれた瞬間、朝の空気が、一気に濃くなる。光は柔らかいのに、胸の内側だけが、妙にざわつく。

「……逃げられた、って思いました」

 冗談めかした言い方だった。声の調子も軽いし笑みもある。けれど視線は穏やかで、責める色が一切ない。その無防備さが、逆に心に刺さる。
 やだ……あのヘラ顔が眩しく見える。あのさ、その感じ、やめれる……?お願いだから今だけはほんと。てか、そもそも、何から逃げるんだよ。しかし、それはすべて言葉にはならず、胸の奥でだけ、そんな声が渦を巻いた。

「……ごめん」

 意味も整理できないまま私はそう謝っていた。彼は一瞬、きょとんとした顔をしてから、すぐに首を振る。

「いや。俺も、ちょっと……」

 一拍。言葉を探すような、短い沈黙を置いて。

「状況、理解するのに時間かかってるんで」

 その言い方に救われた気がした。混乱しているのは、きっと、私だけじゃない。

「……だよね」

 短く返す。それ以上は言葉を足さなくても昨夜の続きがはっきりと二人の間に横たわっているのがわかるから。越えていないのに越えたみたいな朝。なにも起きていないのに、なにかが、確実に残っている。

「……あの」

 彼は少しだけ視線を逸らしてから続けた。その間の取り方が、やけに慎重だ。

「寝相、悪かったです?」

 思いがけない質問に、私は一瞬だけ言葉を選び損ねる。否定も肯定も、どちらも正確じゃない。

「……悪い、というか」
「というか?」

 問い返されて、私は視線を足下に落とし小さく息を吸う。

「……無意識、だったでしょ」

 彼は「あ」と、小さく声を出して、耳の後ろを掻いた。照れとも違う、困惑と納得が、混じったような仕草。朝の光は何も裁かない。ただ、夜に残された余韻を、そのまま照らしているだけだ。
 そして私たちは、まだその余韻を、どう扱えばいいのかを知らないまま、同じ朝に立っている。

「……………多分?」
「間が長いな。多分じゃ困るし疑問系やめて?」
「はは。ですよね」

 彼はそれでもほんの一瞬だけ考えるような顔をしてから、どこか安心したように表情を緩めた。それは答えの内容よりも、言葉が返ってきたこと自体に、ほっとしているみたいに見えた。

「でも」

 そこで彼は声のトーンをわずかに落とす。冗談でも軽口でもない、きちんと線を引くための声。

「不快だったなら、ちゃんと言ってください」

 その言い方があまりにも誠実で、私は一瞬だけ目を伏せた。逃げ道を作らないのに押しつけてもこない。その距離の取り方が昨夜と同じだった。

「……不快じゃ、ないよ。」

 私は、目を泳がせながらも、できるだけ素直に言葉を返す。

「ただ、びっくりしただけ……」
「……そう、ですか」

 彼は目に見えてほっとしたように息を吐いた。肩の力が抜けるその変化がわかりやすくて、少しだけ可笑しくなる。

「それなら、よかった……」

 寝癖のままの彼がそんなことを言うものだから私は思わず、笑ってしまった。昨夜の張り詰めた空気が、ゆっくりと、朝の光にほどかれていく。

「その頭で言われても、説得力ないけどね」
「ひど」
「でも、珍しい」
「寝癖?」
「うん。ヒーローじゃない感じで、いいよ」

 そう言うと彼は小さく肩をすくめた。言い返すより先に、受け入れてしまう仕草だ。

「今日は、非番なんで」

 それだけでなぜか納得してしまうから不思議。誕生日の朝——気まずさは、まだ完全には消えていない。けれどそれ以上に変な安心感があった。昨夜の続きを、無理に回収しなくてもいいという静かな了解。
 私はピカピカに洗い抜いたコップを置き、深く息を吸う。朝の匂いがようやく現実として部屋に満ちてくる。

「……コーヒー、飲む?」
「いただきます」

 はっきりとした声音で、即答だった。遠慮も、駆け引きもない。

「あ、その前に。」

 一歩、きちんと距離を保ったまま、彼が言う。近づかないけれど、離れもしない位置で。

「改めて。昨日は、ありがとうございました」

 名前はもう呼ばれない。けれど声はやさしい。昨夜の名残を、静かに包む声。

「いいえ。……改めて、ハタチ、おめでとう。」
「はい」

 短い応答のあと寝起きのヒーローは少し照れたように笑った。その笑顔は、昨日よりも肩の力が抜けていて、どこか素のままだった。
 朝は、まだ始まったばかりだ。昨夜の境界線はそのままに。けれど同じ時間を越えたという事実だけが、静かに二人の間に残っていた。
 私がコーヒーを淹れているあいだ、ホークスはカウンターキッチンの向こうで、やけに、背筋を伸ばして、立っていた。寝癖はそのままなのに、姿勢だけが、妙に改まっている。肩の位置、足の置き方、視線の高さ——。どれもが「失礼のない距離」を探っている人のそれで、その、ちぐはぐさが、かえってこちらの緊張を煽った。
 お湯を注ぐ音が、やけに大きく聞こえる。豆の香りが立ち上がるのに空気はまだ、どこか硬い。

「……あの」

 彼が先に口を開いた。呼びかける声が、いつもより低く、慎重だ。

「昨日の、ことなんですけど」

 その言い出し方だけで、何を指しているのかはわかった。私は、手元のマグカップから目を離さないまま続きを待つ。顔を上げてしまうと言葉を選べなくなりそうだったから。

「俺、途中で……振り向いたじゃ、ないですか」
「うん」
「それで……」

 一拍。言葉が、続かない。彼自身が、その先をどう言語化すればいいのかまだ掴めていない間。

「とは言え、やっぱ……不快、でしたよね」

 確認というより、決めつけに近い声音だった。自分に向けて下した判決を、そのまま差し出しているみたいな言い方。私はようやく、彼のほうを見る。

「なんで、そうなるの」
「え、だって」

 彼は視線を落とし、指先を軽く握る。無意識に力が入っているその手が、彼の緊張をそのまま、表していた。

「名前さん、朝……すぐ、出て行ったけん」
「そ、それは……」
「俺、やっぱり線、越えたんやなかか、って……思いよって」

 昨夜の光景が、静かに蘇る。羽根が、ばさっと鳴ったこと。手首を取られた感触。月明かりの下で見た、琥珀色の瞳。どれも確かに境界線のすぐ手前だった。でも——。
 私は、ため息をひとつ吐いた。責めるためじゃない。考えを整えるための、短い呼吸だ。

「……違う」
「え」
「そっちじゃ、ない」

 ホークスがきょとんとした顔でこちらを見る。本当に、予想外だったという表情。

「じゃあ、どういう……」

 私は、マグカップをカウンターに置き、指先を離す。朝の光の中でこの話をするのは正直かなり気恥ずかしい。夜なら勢いで言えてしまうことも明るさの前では、きちんと、言葉を選ばなければならない。それでも彼が、ここまで真面目に向き合っている以上、曖昧にはできなかった。湯気の向こうで、彼は何も言わずに待っている。逃げも弁解もせず、ただ答えを受け取る姿勢で。だからこそ、私はきちんと話さなければならなかった。

「今朝、ね?」
「はい」
「目が、覚めたら……」

 私は一度そこで言葉を切った。カウンター越しに立つ彼の様子を見て、どこまで伝えるべきかをほんの一瞬だけ測る。朝の光は正直で、夜ならば曖昧にできた事までくっきりと浮かび上がらせてしまうから。

「ホークス……こっち向いて、寝てた」

 その一言で彼の眉がぴくりと動く。どちらかというと無意識に表情が反応してしまった、という感じで。

「……はい」
「腕、私の腰に回ってて」

 言葉にした途端、今朝の体温が、遅れてよみがえる。彼の身体が近かったこと。抱き寄せられる形になっていたこと。
 一度ちらっと彼を見やればその首元から赤みが一気に上がっていくのがわかった。それでも私は先を続ける。

「手、繋いでた」

 沈黙。次の瞬間、光が走ったみたいにホークスの顔がみるみる内に赤く茹で上がった蛸みたいな色に、染まっていく。それは、頬だけじゃない。耳まではっきりと。そして彼は声を上擦らせた。

「…………はっ?」
「その反応やめて」
「い、いや、でも」

 言葉が渋滞する。思考が追いつくより先に感情だけが暴走しているような状態なのだろう。

「それ、俺……や、………は?」
「寝てたから……無意識だと思う、よ?」
「……っ、で、しょうけど……え、は?」

 そう言った直後、今度は、顔色がすっと引く。赤から、青へ。本当に感情のグラデーションが、忙しすぎるヒーローである。

「……え、」
「なに」
「俺、じゃあ……」
「ん?」
「完全に、やらかしてません……?」

 彼の表情があまりにも真剣で、私は一瞬、返す言葉を失った。

「だから……さっき、言ったでしょ」
「……」
「……不快じゃない、って」
「でも!」

 彼の声が裏返る。私は思わず「わっ」と、声を出してしまった。

「腰、ですよね!?」
「声、でかいよ……」
「手、も……」
「……だから」

 そこで私はついに、笑ってしまう。責める気はまったくないのに彼だけが一人で反省会を始めているのが、どうにも可笑しかった。

「あなたが思ってるほど、大事件じゃないから」
「——いやっ! 俺にとっては、大事件です!」

 また顔を真っ赤にして大真面目に、真剣な顔で言うものだから、余計に可笑しい。

「……俺、寝相、そんなに」
「悪いね」
「……っ、」

 彼は頭を抱えかけて途中でやめた。本気で落ち込む、一歩手前だろう。マジで落ち込む五秒前である。

「……すみませんでした」
「え。なんで、謝るの」
「いや、無意識とはいえ……」

 そこで、彼は、はっとしたように顔を上げる。自分の反省より、私の気持ちのほうが、急に気になったらしい。

「……名前さん、それで」
「なに」
「怒ってるわけじゃ、ないんですよね」
「ないよ」

 即答すると彼は目を見開いてから、力が抜けたように、大きく息を吐いた。

「……よかったぁ」

 そう言って、カウンターに、額を軽く預ける。肩から緊張が落ちるのが、はっきりわかる。

「俺、完全に……嫌われたと思ってました」
「どんな飛躍だよ」
「昨日の夜、振り向いた件も含めて、全部」

 私は、ふっと鼻で笑ってから、首を振る。

「噛み合ってなかっただけだよ」
「……ですね」

 彼もようやくこちらを見る。相変わらず、逃げも言い訳もない、まっすぐで、綺麗な目だ。

「俺、線を越えたと、思われたく、なくて……」
「……」
「ぃや、ほんともぅ……なんしよっちゃろ……」
「ホークス」
「……はい」
「私はね?」

 そこで、一拍、私は言葉を整える。彼が、私を上目遣いで見上げる。

「ホークスが、あまりにも律儀すぎて……」
「……」
「それなのに、朝になって急にあんな大胆なことするから——」
「……」
「どうしていいか、わからなかっただけ」

 その言葉に彼はなぜか目を瞬かせた。たぶん、予想していなかった答えだったのだと思う。

「……律儀、と……大胆、すか」
「そう」
「……それは」

 そして言葉の続きを探すみたいに、ほんの少し間が空いてから、彼は困ったように笑った。

「褒め言葉として、受け取っていいやつです?」
「……いいよ?」
「……やった。」

 朝の光の中で、誤解はようやく解けた。越えていない線は守られていて、でも触れてしまったという事実だけは、きれいに消えることなくそこにちゃんと、残っている。
 それをどう扱うかは今はまだ決めなくていい。少なくともこの瞬間だけは同じページにちゃんと戻れたのだから。


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