ホークスの誕生日が過ぎたあと、部屋に残ったのは、洗い物の乾ききらない匂いと、空になったケーキの箱、それから、言葉にしなかった選択の余韻だった。
祝うことはできた。触れないことも——まあ、未遂と言ってしまえば未遂に近い気はするけれどそれでも一応、約束どおり守れたのだと思う。
ただ、それで何かが終わったわけでも区切りがついたわけでもないということを、私はその後の生活の中で遅れて理解していった。シンクを拭くこと、窓をほんの少しだけ開けること、暖房の、設定温度を下げること、そうした取るに足らない動作の一つひとつがあの夜の続きとして、静かに私に戻ってくる。
大晦日は思っていたよりもずっと静かにやってきた。街は騒がしくなる準備を着々と整えているのに、私の部屋は相変わらずで、耳に入るのは、時計の針が刻む音だけが正確すぎるほど正確に、時間を進めているという事実だった。
年を越すという行為が誰かと一緒にいることで特別なものになるのだとしたら、それは、花火やカウントダウンの派手さではなく同じ空気を同じ速度で吸って吐く、その時間の密度の問題なのだろう。そんなことを、私はぼんやりと考えながら鍋の火を弱める。湯気が少し穏やかになり部屋の空気が落ち着いていくのを見つめながら私はまだ名前のつかないこの夜を、そのまま、受け入れることにした。

ホークス
大晦日どうします?
——数日前。そんな短いメッセージが届いた。問いかけというより、確認に近い。予定を聞いているだけの体裁を保ちながらも、その先の選択をこちらに預けてくるような言い方。
彼はいつもそうだ。選択肢を差し出して決して押し付けない。だから私は、すぐに返事を書けず画面の上で指先を止める。
——仕事。打ってからすぐに消す。嘘ではないけれどそれだけを書いてしまうと、会話がそこで終わる気がした。だから、少し考えてから、短く返す。

名前
私は仕事

ホークス
俺もです
間を置かずに、返事が来る。たったそれだけ。けれど、その先に続きがないことが、逆に続きの余地を作っている。私はしばらくスマホの画面を見つめたまま、何も打たずにいた。仕事が終わる時間も、どこで年を越すのかも、詳しい話は一切出ていない。ただ、「同じだ」という事実だけが静かに共有された。

名前
私は仕事

ホークス
俺もです

ホークス
終わるの遅いですか
ひとりでそんなことをぼんやり考えていると、向こうからもう一通、メッセージが飛んでくる。私は今度こそ、正直に打つ。

名前
たぶん、少しね

名前
社内で毎年、簡単な
慰労会があるから

名前
そっちは?

ホークス
俺も終わるのは
遅めですね

ホークス
でも
終電は間に合います
あえて『終電』という言葉を選ぶあたり——。公共交通機関など本来の彼には、ほとんど関係がない。あの個性があれば時間も距離も規則正しく区切られるものではないのだから。それでも彼はわざわざそう言った。その言葉の行間にあるのは『年を越すまえには帰れる』という、事実だけ。ただ帰る先がどこなのかまではどこにも書かれていない。地元福岡なのか、それともセーフハウスなのか。その選択肢だけが曖昧なまま画面に残されている。
私は無意識の内に画面の向こう側を思い描いてしまう。彼が、どんな表情でこの文を打っているのかを、想像してしまう。軽い調子を崩さずに、それでも慎重に言葉を選びこちらの出方を待っているであろう彼の表情を。踏み込みすぎず、引きすぎず、その境界線の上に立ったまま返事が届くのを待っている顔を——。

ホークス
年越し

ホークス
賑やかなのは苦手で
続けて届いたメッセージに私は小さく息を吐いた。知っている。彼が必要以上に人の多い場所を好まないことも節目だからといって無理に気分を高めて盛り上がろうとしないことも、どちらも、もう、十分すぎるほどに。
短く『私も』とだけ返す。それからすこしだけ時間が空いた。画面に、新しい通知は増えない。沈黙が、私の返した文が表示された画面の向こう側からじわじわとこちらへ滲み出してくる。その無言の間が、私にはどうにも重たく感じられた。このままそれぞれの場所で年を越す事もできる。それは間違いでも寂しさでもない。そう理解しているつもりだった。それでも——考えるより先に指が動いた。

ホークス
年越し

ホークス
賑やかなのは苦手で

名前
私も

名前
うち、来る?
送信してから、逃げ道を自分でも作っていないことに気づく。訂正の余地はあったのに冗談めかすことも条件を付けることもできたのに、あえて残さなかった。
少ししてから画面が光る。届いたメッセージの返事は、なんとも、彼らしい温度だった。

ホークス
無理してないなら
静かなほうがいいですし
改行の仕方も言葉の選び方も、本当に彼らしいなと思う。無理はしていないと言い切れるほど、私は自分に正直ではない。それでも彼が来る事を望んだのは事実だったし、その望みを、ちゃんと自分の言葉で差し出してしまったことも、もう、取り消せなかった。
彼が二十歳を迎えた年の大晦日の夜はそうして思ったより静かに、形を持ちはじめていた。
*
彼は年越しの少し前に現れて、玄関で靴を揃え部屋に入る前にほんの短い間、視線を巡らせた。侵入するというよりも、確認に近い仕草だった。室内の明かりの具合や、空気の温度、私の表情、そういうものを一息で読み取ろうとする彼らしい癖だ。
「お邪魔しまーす。あ……」
「ん?」
「いや、なんか。優しい匂いがします」
「鍋だよ。あと、ちょっと寒いかも」
「ん? どうしてです?」
「換気しすぎた」
「はは。ちょうどいいですよ」
軽く笑って彼は上着を脱ぐ。その仕草ひとつで外の冷たさが部屋のなかへ連れ込まれ、代わりにこの空間の静けさが、彼の肩にそっと乗るような気がした。テレビはつけたままだったけれど画面を真正面から見る時間はほとんどなかった。ローテーブルの上にカセットコンロを置き鍋を中央に据える。湯気が立ち上るたび言葉は自然と少なくなり沈黙が気まずさを帯びない。箸を伸ばす距離も互いの肩が触れない位置で無意識の内に保たれている。そのわずかな間合いがいまの私たちにはいちばん、正確だった。
「……落ち着きますねぇ」
「んー?なにが」
「この感じ。騒がしくない年末」
「はは。地味でしょ」
「俺は、こーゆーほうが好きですけど」
言い切らない調子なのに、その声には、迷いがなかった。好みを主張するというよりも、事実を静かに置いていくみたいな言い方だった。私は、返事をしないまま彼の手元を眺めていた。指先は力が抜けていて、忙しない気配がどこにもない。こうして、何も決めずに同じ時間を過ごしていること自体が、彼にとってはもう答えなのかもしれない。そんなことを考えていた、そのとき。
「年を越す瞬間って、どう過ごす派です?」
彼が唐突に問う。問いかけの軽さとは裏腹に、どこか本音を探るような間が、そのあとに静かに落ちていた。
「んー......とくに、決めてないかな」
「そうなんですね」
「気づいたら越えてることが多いからね」
「なんか、らしいっすねぇ」
「褒めてる?」
「もちろん?」
鍋の中で具材が静かに揺れる。テレビの中では司会者の声が少しずつ浮き足立ちはじめ、画面の隅に表示された数字が年の終わりを視覚的に押し出してくる。私は足を組み替え口直しにみかんをひとつ手に取った。皮を剥く音が、思った以上に大きく響き、その乾いた音に自分が少し緊張していることを知る。
「みかん、食べる?」
「あ、いただきます」
「年末感、強制的に出るよね」
「確かに。我が国の文化です」
彼はそう言って湯気の向こうで笑った。時計の針は確実に進んでいるのに部屋の中だけがゆっくりとした速度で留め置かれているみたいだった。年を越す、という行為が、特別になるとしたら、多分、こういう取り立てて何も起こらない時間の積み重ねなのだろうな、と、私はぼんやり思う。
箸を置く位置、湯のみを持つ指先、視線を外すタイミング——そのどれもが、言葉より雄弁に、互いの距離を、示していた。それでいて、不足はない。
「……ここ、こたつ似合いますよね、ぜったい」
唐突に、みかんの皮を剥きながら、ホークスがそんなことを言った。鍋の湯気と、テレビの音が重なった空間で、その一言だけが少しだけ浮いて聞こえる。
「こたつ?……え、今さら?」
「今さらだから言うんですってば」
彼は器用に指先を動かしながら、半ば冗談めかした調子で続ける。
「——ね、買いましょうよ。ちゃんとしたやつ」
「……ちゃんとしたって、どんなの」
「んー、よくある定番の物じゃなくて。ちゃんとした、家具屋さんのやつ」
「家具屋さん、って」
「この部屋用に、ですよ?」
そこで一度、言葉を切る。彼の視線が、手元のみかんから、私へと移る。
「二人分、じゃなくて……名前さん用に。」
相変わらず言い方が巧妙だと思う。距離を詰めるようでいて線は越えない。自分がそこに含まれていることを匂わせながら、決して居場所を要求しない。私はみかんをひと房、口に運び、甘さと一緒に、その言葉を飲み込む。
「……検討します」
曖昧に、でも——拒否には、ならないように。
「お、前向きですねぇ」
彼は満足そうに言ってまた皮を剥きはじめる。テレビの音が少しだけ大きくなる。画面の向こうでは今年を振り返る映像が流れ、歓声と拍手が、何層にも重なっている。私たちはそれを、真正面から見るでもなく、かといって、完全に無視するわけでもなく、それぞれの時間を持て余すように過ごしていた。
「......一年、早かったですねー」
彼は両手を後ろについて身体を少し預け視線をテレビではなく、天井のほうへと投げたままで、ぽつりとこぼす。その声音は、年末特有の感慨というより、静かな確認に近かった。
「……そうだね」
「何してたか、ちゃんと思い出せます?」
「全部は無理」
答えながら、私は思う。こうして特別な予定も決めないままただ同じ部屋で年の終わりを迎えているこの時間そのものが、もう十分に、特別なのだと。
もうすぐ今年が終わる。テレビの中では大きな声と数字が準備運動を始めているのに、私たちはそこから少し外れた場所で静かに、その境目へと近づいていた。
「……この一年、どうでした?」
彼の声が、ほんのわずか低くなる。問いかけというより、様子を探るような調子。
「仕事は、まあ、いつもどおり?」
「それ以外は」
「……考えないようにしてた、かも」
嘘ではない。でも全部でもない。その曖昧さを彼は、責めない。追及もしない。ただ、みかんに手を伸ばし白い筋を丁寧に取りながらゆっくりと皮を剥く。その沈黙が答えの代わりになることを彼は、知っている。
「……俺は、選ばない一年でした」
少し間を置いて、ぽつりと落とされた言葉に、私は、顔を上げる。
「……選ばない、って?」
「踏み込める場所があっても、踏み込まないって選択をした、って意味です」
彼は言葉を選ぶようにそう言った。理由は聞かなかった。聞かなくてもどこかでわかってしまう気がしたから。
テレビの音が変わりカウントダウンが始まる。数字がひとつずつ、大きく表示される。九、八、七——。私は時計を見て鍋の火を止める。湯気が弱まり部屋の空気が少しだけ落ち着く。——六、五。食べ終えた皿をまとめてキッチンに運びながら、背中を向けたまま、声を投げる。
「ホークス?」
「はぁい?」
「そろそろ、お風呂入っちゃえば?」
——四、三。
「名前さん、お先、どうぞ?」
「……じゃあ、そうします」
二、一。——零時。拍手も掛け声も上げない。代わりに鍋から立っていた最後の湯気がすっと、静まる。その変化の方が私には、はっきりとした合図だった。
「……あけまして、おめでとうございまーす」
背中越しに、彼の声が届く。テレビから流れてくる賑やかな音を、やわらかく押しのけるような穏やかな響き。
「……おめでとうございます」
振り返らずに返したそのひと言で、年は確かに切り替わった。大きな区切りではないけれど同じ場所にいるという事実が、静かな記録として胸の奥に残る。そんな感覚だけがゆっくりと広がっていった。
私は先に浴室へ向かい静かに扉を閉めた。湯が肩に触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが音もなくほどけていくのがわかった。熱とともに年の終わりの緊張が、ゆっくり沈んでいく。
向こうの部屋では、まだ、テレビの音が続いている。彼はソファに座っているのだろうか、それとも、彼が到着するまで私が見ていた窓の外を、同じように眺めているのだろうか。想像はしても確かめる理由はなかった。別々にお風呂に入る。それだけのことなのに今の私たちにはそれが必要だった。触れないこと踏み込まないことを改めて選び直すためのささやかな儀式みたいに。
湯船の中で目を閉じながら、私はふと、思う。触れなかった一年、踏み込まなかった一年。そのすべてが、ただの先延ばしではなかったのだと、せめて今夜だけは、信じていたい、と——。
私がリビングに戻ると、入れ替わるように彼が浴室へ向かう。足音が遠ざかり、また戻ってくるまでの短い時間、部屋には時計の音と、テレビの気配だけが残った。彼が戻ってきた頃、私は自分でも驚くほど思いつきのように口を開いていた。
「ねえ、初詣、行く?」
「はい?」
濡れた髪を軽く拭きながら彼がこちらを見る。言葉自体は軽い。けれど胸の内側では理由がいくつも、折り重なっている。年の初めだからという建前と、誰かと歩く理由が欲しかったという本音と。どちらも否定できず結局そのまま一緒に差し出してしまった。彼は視線を一度だけ窓の外へと流し夜の冷え具合を測るように、ほんの短い間、考える。
「混んで、ますよね……」
「うん。たぶんね」
「……それでも、いいなら」
それで十分だった。条件でも、躊躇でもなく、ただこちらの意思を確かめる言い方だったから。
外に出ると、夜の空気は思った以上に冷たく、吐く息が白くなる。彼は小さく抑えた個性の羽をダウンの中に隠し、キャップを、深めにかぶっている。その仕草が、いつもより少しだけ無防備に見えた。
「寒くないです?」
「大丈夫。そっちは?」
「俺も、平気です」
人の流れに身を任せながら、私たちは、並んで歩く。肩が触れそうで触れない距離は外に出ても変わらない。近づこうとすれば近づけるし、離れようと思えば離れられる、その曖昧な幅のまま。
新しい年は、もう始まっている。その入口を、こうして並んで歩いていることだけが、今夜の、確かな事実だった。
「こういうの、仕事柄どう?」
歩きながら私が聞くと、彼はすぐには答えずに少しだけ歩調を落として考える。人の流れと距離を測るような視線が、一瞬だけ周囲を巡った。
「んー、警戒はしますね」
なんとも正直な答えだった。そこで言葉を切り彼は不意に暦だけが静かに一枚めくられたあとの冷えた闇の向こうを見上げる。
「でも、今日は——」
「……」
「大丈夫な日、だと思ってます」
その言い方に理由は添えられなかったけれど、私はそれ以上を求めなかった。
やがて、神社の灯りが見えてきて、列に並ぶ。足元で砂利が小さく鳴り、前に進むたび、身体がわずかに揺れる。その揺れに合わせて今年に持ち越したものと、ここで置いていくものが、曖昧に混ざっていく気がした。
並んで鈴を鳴らし手を合わせる。願いを言葉にする事はしなかった。代わりに彼の横顔を視界の端に留める。灯りに照らされたその輪郭がいつもよりも、凛として見えたから。
「……何、お願いしました?」
歩き出してから彼が聞く。こちらは振り向かず並んだままの声だった。
「秘密」
「じゃあ、叶ったら教えてください」
「……考えとく」
「それ、好きっすねー」
からかうような調子に、私も、小さく笑う。
帰り道——屋台の明かりが遠ざかり、人の声が薄れていく……はずだったのに、境内の端に並ぶ湯気と灯りが、私たちの足を自然と緩めた。立ち止まる理由を探す前に、もう足が向いている。
「あ、甘酒ありますよ」
彼が少しだけ声を弾ませて指さす先で、小さな紙コップが次々と、手渡されている。
「飲みます?」
「んー、せっかくだから」
受け取った甘酒は、思っていたよりも熱くて、思わず両手で包み込む。指先からじんわりと温度が戻ってくる。
「どうです?」
「……甘い。お米の味がする」
「ですね。こういうの、年越し感あります」
「もう年は明けました」
「あっ、そーでしたっ」
並んで少しずつ口に運ぶ。会話は途切れがちでその代わりに、白い湯気が息と一緒に立ち上る。言葉を交わさなくても不自然にはならない間で、飲み終える頃には冷えていた体の奥まで温かさがゆっくりと、戻ってくる感覚があった。私たちはそのまま屋台を一つ、二つと覗きながら、境内の灯りの中に留まっていた。
「たこ焼き、行っちゃいます?」
彼が軽く顎を上げて言う。考えるより先に口が動いた。
「行く」
答えてから、自分でも少しだけ早かったと気づいて、視線を逸らす。こういうときの反応はどうしても誤魔化しが効かない。
屋台の前で串を受け取り湯気の立つたこ焼きを手にしたまま立って食べる。思った以上に熱くて息を吸い込みながら距離を取るとその様子を見て彼が、小さく笑った。
「火傷しないでくださいよ?」
「そっちこそ」
「俺は、慣れてるんで」
そう言いながらも彼もすぐには口をつけない。表面を少し冷ましてから慎重に齧る。その仕草が妙に子どもっぽく見えて私はまた視線を外した。屋台の灯りが彼の横顔を柔らかく照らしている。ヒーロー活動中に見る表情とはまるで違う。警戒や計算が前に出ない、ただ年の初めの夜に紛れた顔だと思った。
たこ焼きのソースの匂いと、夜の冷えた空気が混ざる。その中で私は自然と歩みを緩めお守りの並ぶ棚の前で、足を止めた。色とりどりの小さな布切れが揺れているのを眺めながらここまで一緒に歩いてきたことを、少し遅れて実感する。
言葉にしなくても隣にいること自体が、今夜の出来事を、確かなものにしていた。
「ちょっと、待ってて」
「へ?」
「待ってて」
念を押すと、彼は少し訝しげな顔をしてから、人の流れを邪魔しないように一歩身を引き境内の隅へと移動した。私はその背中を確認してから、そそくさとお守りの列に並ぶ。
鈴の音と人の気配に包まれながら、順番を待つあいだ、何度か無意識に彼のほうを見てしまう。向こう側に移動した彼は、あえてこちらを見ないようにしているのか、視線を外し、白い息を吐きながらただ静かにその吐いた息の行方を見守っていた。待つことに、慣れている人の姿勢だ。
黙っていれば文句のつけようもないほど整った顔立ちなのにひとたび口を開けば、どこか軽薄で風に乗って飛ぶ鳥みたいに、掴みどころがない。その落差がたまにずるいな、と思う。だからこそ沈黙の合間にふいに現れる磨かれたような眼差しやヒーローとしての彼の姿を思い出すとこちらが勝手に気恥ずかしくなってしまう。
——って、そういえばいつだったか同じようなことをぼんやりと、考えた夜があった気がする。きっと彼への印象は、これからもこうして更新されながら根本のところでは変わらないのだろう。
「お待たせー」
「……もう、遅いですって」
「ごめんごめん」
「本気で凍え死にそうでした」
「ははっ、大げさ」
白い息が重なる距離まで戻ってきて、私は手の中のものを、そっと差し出す。
「——はい……これ。」
シンプルな色合いのお守り。派手さも、目立つ意匠もない。ただ余計な意味を持たせないように選んだもの。
「え?」
「うん」
「俺、に?」
「そう。ヒーロー、危ないから」
彼は一瞬だけ目を瞬かせてから、ゆっくりと、それを受け取る。
「え……ありがとうございます」
「うん」
「……大事にします」
淡々とした言い方だったけれど、扱いはとても慎重だった。軽い言葉のように聞こえても本当に言葉のとおりにする人だと指先がお守りをなぞるその仕草を見て、すぐにわかってしまう。
だから視線を逸らしたのは、私のほうだった。見てしまったら、きっと顔に出る気がしたから。境内の灯りが彼の手元をやわらかく照らす。その小さな布切れが今夜の記憶として彼の中に残ればいいと思った。
「寒くないですか」
歩き出してから、彼が少しだけ声を落として、聞いてくる。本日これで、二度目だ。気づかいとしては過剰なくらいなのに、不思議と鬱陶しさはない。必要以上に近づかず、必要なところだけを確かめる——そういう距離の取り方が、やっぱり彼らしいと思ってしまう。
「ん、大丈夫」
「……なら、よかった」
それだけのやり取りで、会話は一度途切れる。駅の灯りが見えはじめ、境内の賑わいは、完全に背後へ流れていった。さっきまでの喧騒が、嘘のように遠ざかり、足音と息遣いだけが、夜の中に残る。年の始まりは、こうして少しずつ特別ではない日常へと溶け込んでいくらしい。
「ことしっの、春はぁ〜、どこ行こうかぁ〜♪」
不意に通りの向こう側からやけに伸びた歌声が聞こえてきた。若い数人の団体が肩を組みながら大声で歌っているのが目に入る。大方、年越しの集まりの帰りなのだろう。声の大きさと足取りの不揃いさからして、かなりのアルコールが入っていそうだ。
どうやらその様子に気づいたのは、私だけではなかったらしい。ホークスもダウンのポケットに両手を突っ込んだまま、ちらりとそちらに視線を向けていた。その横顔を一瞥してから、私は前を向き直り、ふと、思いついたように声をかける。
「あの曲、知ってる?」
「へ?」
彼が我に返ったようにこちらを向いた気配を、視界の端で捉える。
「��春夏秋冬�≠チて歌」
「あ〜……えっと……」
「ははっ。今の間、絶対知らないやつでしょ」
「……いや、なんとなくは?」
「��なんとなく�≠ヘ一番怪しい」
「へへ……はい、しったかしましたー」
少し間を置いてから言い訳めいた声で続ける。
「ほら、タイトルは、あれです。聞いたことある気がしたんですけどね」
「便利な言い訳だねぇ」
「だって、あるじゃないですか。そういう雰囲気だけ知ってる枠って」
「あ、開き直った」
「認めるの、早いのが取り柄なんで」
最後はどこか照れたように、でも逃げずにそう言うのが、いかにも彼だった。
「ふふ……アンサーソングとかもあるんだよ?」
「アンサーソング?」
聞き慣れない言葉だったのか彼はわずかに首を傾げる。その仕草に、探るような戸惑いが滲む。
「それって、なんすか」
「んー、カバーとは、ちょっと違うけど……」
私は歩みを緩め、考えを探すように視線を少しだけ上へ泳がせてから、言葉を選びつつ、説明を始めた。
「原曲に対する返事みたいな位置づけの曲かな」
「返事……」
「続きだったり、別の視点だったりね」
「へえ」
興味があるのかないのか、判断のつかない相槌だった。彼は歩きながら一度視線を足元に落とし小さな石を蹴る。その音だけがやけに耳に残る。
「詳しいんすね」
「職業柄ね」
「え? なんそれ、どういうことすか」
意外にもすぐに食いついてくるホークス。前言撤回だ。どうやらちゃんと興味はあったらしい。
「……今は、あまりないけどさ?」
「はい」
「専用の着信音とか、待ちうたとかさ、ちゃんと設定し直してほしいってよく言われたんだよね」
「待ち、うた……?」
「あ、知らない?」
思わず笑いがこぼれそうになる。横目で、彼の様子を窺うと冗談でもはぐらかしでもなく本当に初めて聞いた言葉だという顔をしていた。その、無防備さが、夜の冷えた空気の中で妙に目立つ。
「自分に電話をかけてきた相手に聞こえる、呼び出し音のこと」
「へえ……」
彼は感心したように、短く息を吐く。
「今は、時代が変わっちゃって」
「はい」
「アラーム音を同じものにしてほしいとか、そういう依頼ばっかだけど」
「うぇ〜、そげん細かかヒーロー、いると?」
「いるねぇ。意外と多いよ」
笑いながらそう答えると、彼も小さく笑った。
「なんか、安心しました」
「ん? なにが?」
「ヒーローでも、そういうところは普通なんだなって」
その言葉に、私は返事をしなかった。代わりに歩く速度を、ほんの少しだけ緩める。
「春夏秋冬、ね……」
「そ。春夏秋冬……」
夜はまだ冷たいけれど、会話はどこか緩やかで行き先を急ぐ必要はなかった。
新しい年は、こういう取り留めのない話を挟みながら、静かに進んでいくらしい。