二月という月は暦の上ではまだ冬のただなかにあるはずなのに街の色だけが一足早く浮つき始める。コンビニの棚に並ぶチョコレートの包装は、やけに饒舌で、甘さと一緒に『気持ちを渡せ』と無言で迫ってくるようで、私はそれを横目に見ながら、必要なものだけを買って店を出た。冷たい夜気に触れた瞬間、胸の奥に溜まっていた微かな居心地の悪さが、白い息と一緒にほどけていく。彼の二十歳の誕生日を境に何かが劇的に変わったわけではなかった。仕事中の距離は保たれ、外食では軽口を交わし、二次会は起きる日も起きない日もある。越えない線も名前の呼び方も、暗黙の了解としてそこに在り続けた。
 それでもホークスは少しずつ変わっていった。声の調子が落ち着き笑うまでの間が伸び、言葉の前に短い沈黙を挟むようになった。軽さが消えたわけではない。ただその裏に選び取られた静けさのようなものが増えた。彼はもうどう見られるかだけでなく、どう在るかを考え始めている。
 それと並行するように、私も前に進もうとしていた。成人の日を過ぎた頃から、私は以前よりもはっきりと『出会い』を、口にするようになり、合コン、紹介、偶然の再会。期待しては引っ込める、その報告を、なぜか私はいつも最初に、彼にしていた。ホークスは、何も言わない。否定も、過剰な肯定もしない。ただ、「そうなんですね」「それなら、よかったです」と、距離を崩さない相槌を返す。その均衡こそが彼の成長なのだと、私は思っていた。

 そして、その日も、私は彼と二人きりで食事を交わしていた。いつもの居酒屋。カウンター席。グラスの水滴がテーブルに小さな円を描く。私はすでに少し気分が上向いていて、言葉も軽い。

「ね、聞いて」
「……はい?」

 グラスの縁を指でなぞりながら切り出した私の声に、彼は顔を上げた。以前より、反応が遅い。悪い意味ではなく受け止めてから返す癖が、すっかり身についている。

「最近ねぇ、いい人できたかもしれない」

 そう告げると彼はほんの一瞬だけ瞬きをして、それから、何事もなかったように、グラスを口に運んだ。氷が軽く鳴る。その音が、やけに大きく聞こえた。

「……お。」
「え……」
「ん?」
「反応、薄くない?」
「いえいえ」

 言いながら彼はグラスを置ききちんとこちらを見る。逃げない目。けれど、踏み込みもしない。

「今回は、どんな感じです?」
「えー? どんな、って」

 私は少し考えてから肩をすくめた。言葉にしてみると、意外と、単純な要素ばかりだ。

「落ち着いてて、ちゃんと話聞いてくれる」
「うん」
「年も、近いし」
「なるほど」
「仕事の愚痴を言っても、変に口出さないの」
「それは、ポイント高いすね」

 妙に分析的な言い方に、思わず笑ってしまう。彼らしいと同時に少し前とは違う距離の取り方にやや戸惑いもあるけれど。

「でしょ?」
「はい」

 相槌は淡々としているのに、視線は外さない。評価も、牽制もない。ただ情報として受け取っている顔だった。

「楽しそうですね」
「うん。久しぶりにね」

 それは正直な気持ちだった。未来を思い描いているわけじゃない。ただ、前を向いて��次�≠�、考えられる自分に戻ってきた、その感覚が純粋に嬉しかった。だから、少しだけ踏み込んだ。

「やっぱりさぁー」
「……」
「このまま一人でいるよりも、ちゃんとした人と出会ったほうが、いいかなって思って」

 短い沈黙が落ちる。彼はすぐに言葉を重ねなかった。その間が、今の、彼らしさだった。

「そう思えるの、いいことだと思います」

 穏やかな声。否定も強い肯定もない。ただ選び抜いた言葉だけが置かれる。その慎重さに、私はなぜか少しだけ、胸の奥を撫でられた気がした。

「また、ダメだったらさ、」
「はい」
「そのときは、こうしてまた、笑って聞いてよ」
「笑ってました?俺」
「言葉のあやじゃん」
「その予定まで俺がいる前提なの、すごいすね」
「だって、聞いてくれるでしょ」
「まあ」

 そう言って彼は、小さく、苦笑した。肩の力を抜いた仕草なのに、どこか、逃げたいのに逃げられないような感じがある。思い違いだろうけど。

「聞く側としては、慣れました」
「慣れないでよ」
「無理ですって」

 軽口の応酬。何度も繰り返してきたやり取りのはずなのに私はふと、違和感に足を止められる。彼が私の話を聞くとき以前より、ほんの少しだけ背筋を伸ばしている。構えるほどではない。でも受け取る姿勢が変わったような、微妙な雰囲気。

「……なんです?」

 視線に気づいた彼が、穏やかに尋ねる。私は、「いや」と答えながらグラスを持ち上げる。氷がからりと鳴った。

「大人になったなぁって思って」
「今さらですか」
「そっ、今さら」

 そう言って、乾杯の代わりに軽く掲げると彼も同じように応じる。その動きが揃うまでの間が、妙に心地いい。彼はグラスを下げ、声を落として言った。

「名前さんが前に進むなら——」

 短い沈黙。私は、彼を見る。背後では、店内のざわめきが、変わらず流れている。

「俺は、それを邪魔しない人でいたいです」

 その言葉はまっすぐで、余計な、装飾がない。だからこそ私は一瞬、返事を失った。関係は変わらない。でも人は変わっていく。グラスの中で、氷がまた、小さく音を立てる。
 私たちは、まだ同じ席に座っている。けれど、その夜、同じ場所にいながら少しずつ違う大人になり始めているのだと、はっきり感じていた。


 *


 バレンタインが一週間に迫った、ある日の夜。ホークスは、その日も「少しだけいいですか」とまるで礼儀正しい訪問者のような声色でインターホンを鳴らした。少しだけ、という言葉がすでに信用ならないことを私はもう十分すぎるほど知っているのに、それでもドアを開けてしまう自分の癖を、今さら直す気にもなれなかった。
 部屋に入るなり赤い半纏を羽織った彼はいつもより羽根を畳んだような大人しさでこたつの縁に腰を下ろす。こたつ布団の下で私の足先と、彼の膝が触れそうで触れない距離を保ったまま曖昧に温もりだけを共有している。その距離感が今夜はやけに、意識に引っかかった。

「最近このネタ、多くないですか」

 彼はみかんを剥きながらテレビから流れてくる映像をちらりと見て何気ない調子でそう言った。果肉に爪を立てる音が、やけに大きく耳に残る。

「……そう?」
「パトロール中に寄る店、ぜんぶ、どこもそんな感じで。」
「……」
「なんか、戦場みたいですよね」

 冗談めかした言い方なのに、視線は私を見ていない。そのことが胸の奥を小さく軋ませる。私は曖昧に頷きながら、こたつの上に置いた手を重ねた。知らんぷりをするのは彼の前ではいつもより簡単で、そして少しだけ、卑怯だ。

「バレンタイン、だからね」

 そう口にしたのは、私のほうだった。自分でも驚くほど声は平坦で、感情の起伏を意図的に削ぎ落とした響きになっていた。

「ですね」

 彼はそう返してやっとこちらを見る。その目は軽く笑っているのに、どこか測るような慎重さを帯びていて、私は思わず、視線を逸らした。
 言葉にしなければならないことと言葉にしてはいけない気がすることの境目が今夜はやけに曖昧だった。チョコレートを渡す、渡さない、という単純な二択の裏側に、関係性の定義や、踏み込む勇気や越えてはいけない線が、幾重にも折り重なっているのを、二人とも気づいているからこそ、何も言えなくなる。

「……別に、無理しなくていいですからね」

 彼はそう言ってみかんを一房、口に運ぶ。その一言が気遣いなのか、距離の確認なのか、私には判別がつかなかった。

「無理、って?」
「イベントごと、苦手そうじゃないですか」
「……」
「世の中の行事にちゃんと乗ってみる一年にしようっていう心がけは、素晴らしいですけどね?」

 そう言われて私は小さく笑った。否定も肯定もせずに、ただ笑ってやり過ごす。その仕草が彼にとってどんな意味を持つのかを考えるのが、少し怖かった。
 こたつの中の温度は変わらないのに空気だけが微妙に、冷えていく。触れ合えば簡単に埋まってしまいそうな隙間を、あえて残したまま私たちは『普通の夜』を演じ続けている。チョコレートの甘さも、告白の言葉も、まだ鍋に入れないまま、ただ、出汁だけが静かに煮詰まっていくような、そんな、夜だった。
 やがて彼は時計を確認するでもなく理由を探すふうでもなく、こたつの縁に手をついて、ほんの少しだけ、体を起こす。その仕草が今夜の終わりを告げる合図であることを私はもう何度も学習してしまっていた。引き留める理由はあるのに、引き留める言葉は選ばれない。そういう夜の締め方がいつのまにか、二人の間で、暗黙の了解になっている。
 彼は「そろそろ」とも「帰ります」とも言わずただ自然な流れのまま半纏を脱いで、上着に手を伸ばす。その背中を見送りながら私は自分が呼び止めないことを、少しだけ誇りに思い、同時に、少しだけ、後悔していた。

「名前さん」

 玄関先で、私に背を向けたままブーツを履いている彼が、私の名前を、そっと置くように呼ぶ。私も、それに小さく返した。

「ん?」
「ちゃんとした人だと、いーすね」

 その言葉が胸に刺さった。あの日——居酒屋で不意に言った「いい人、できたかもしれない」という自分の言葉。それをここで、持ち出してくるあたり、やっぱり、ずるいな、と思う。

「うん」

 そこで彼はブーツを履き終えつま先を軽くコンコン、と鳴らしてから、そっと振り返った。

「……ちゃんと、素敵なバレンタイン、過ごしてください」

 ニコッと。いつもの、あの笑顔で——。
 彼が帰ったあと、ひとりになった部屋で私は、こたつの上に置かれた、みかんの皮を見つめる。剥かれた痕跡だけが残るその橙色を、なぜか捨てられずにいる自分に、苦笑が漏れた。
 すれ違っているのは気持ちじゃない。たぶん、踏み出すタイミングだけだ。そのことを二人ともわかっていながら今夜もまた境界線のこちら側で足踏みをしている。
 踏み出さなかった夜の続きを、私たちは特別に回収することもなく、日常のなかに、そっと押し戻した。みかんの皮はとうに捨てたし、こたつの上もいつも通りに片づいている。それでも部屋の空気のどこかに、言葉にならなかった余韻だけが薄く、残ったまま——。だから、次に彼が訪ねてきたときも、理由はあくまで穏当だった。端末の不具合。それ以上でも、それ以下でもない。

「このマーク、どうしても消えなくて」
「はい」
「今日は、ちょっとだけ顔出そうかと思ってたんですけど」

 そう言いながら彼は端末を差し出す。あくまで仕事の延長、という顔つきで。ちょうど昼休みを挟む時間帯で、受付フロアは、人の出入りが多く私の担当カウンター以外も、空いているところはほとんどなかった。
 業務としては、ごく普通の対応で済ませるべき場面だったのに、私はその端末を受け取りながらつい油断して、口を滑らせてしまう。

「端末を変にいじって言う台詞ではないですね」

 冗談のつもりだった。いつもの軽口。少しだけ距離を測るための、癖みたいな言い方。
 けれど彼は一瞬、目元を細めた。言い返すでも笑うでもなく、ただ、視線を落とす。その沈黙が思った以上に長く感じられて、胸の奥にわずかな不安が引っかかる。私はその間を埋めるみたいに慌てて言葉を足した。

「忙しいでしょうし、無理しなくていいですよ」

 気遣いのつもりだった。彼の時間を奪わないようにという配慮。そう信じて疑わなかった。でもその言葉が空気に落ちた瞬間、彼の表情が変わる。ほんの僅かな変化なのに、見慣れているからこそ、はっきりとわかってしまった。

「……そういう言い方されると、来る理由、なくなりますね」

 低く、抑えた声。責める調子ではないのにそこには確かに、線を引く響きがあった。冗談として受け流す余地を、意図的に残していない言い方。
 私は一瞬、言葉を失う。自分の言ったことが、そんなふうに受け取られるとは思っていなかったから。

「……え、今の……、そんな意味で捉えたの?」

 驚きが先に立って声が少しだけ強くなる。彼は肩を竦めるだけでそれ以上は何も言わなかった。説明も、弁解もない。その態度が余計にこちらの足場を不安定にする。
 短い沈黙の後、彼は何事もなかったかのように話題を切り替える。

「今週、やたらとイベント続きでして」

 軽い調子。本当に、それだけの近況報告のはずだったのにその軽さがなぜか胸に引っかかった。さっきまでの微妙な空気を、なかったことにするみたいで私はその言葉をうまく受け止めきれずにいる。彼の声が、遠ざかる前提で話が進んでいく感じが、思った以上に堪えた。
 ああ、これはたぶん……。もう、何もなかった顔では戻れないやつだ。そんな予感だけが、胸の奥に静かに、沈殿していく。

「……忙しいほうが、楽しいでしょ」

 口に出してから、自分でも驚いた。どうして、そんな言い方を選んだのか、はっきりした理由は見つからない。ただ、彼が��忙しい側の世界�≠ノいることを先に肯定してしまった自分がどこかで悔しかったのだと思う。

「それ、皮肉ですか」

 彼の声が、ほんのわずかに硬くなる。いつもの軽さが削ぎ落とされて、言葉だけが真っ直ぐに、こちらへ向けられる。その変化に遅れて気づいて喉の奥が詰まる。

「別に。……でも、そう聞こえるなら、いい」

 引くに引けなくなって、私は視線を逸らした。自分の言葉を拾い直す余裕も訂正する勇気もないまま空気だけが目に見えて冷えていく。それでも胸の奥で何かが焦って、私の口は、止まることを知らなかった。

「イベント続きねぇ……」
「……」
「いいですね、人気者のヒーローは」
「……」
「……どうせ、期待してるでしょうしね」

 軽口のつもりだった。少なくとも口にした瞬間までは。けれど言い終えてから今の自分がどんなふうに映っているかを、遅れて理解する。側から見れば完全に感じの悪い言い方だ。わかっているのに、引き返せない。言葉は宙に落ちたまま彼はすぐには返してこなかった。その沈黙が、さっきまでの間とは違って、はっきりと、重さを持っている。冗談として受け取られなかったことが音もなく伝わってきて、胸の奥がざらりと擦れる。

「……何を、根拠にです?」
「来週?」
「……来週が、なんすか」
「どうせ、忙しいでしょ、って話です」
「俺が忙しい前提なの、嫌なんですけど」

 ほとんど即座に返ってきた言葉。その速さと、声に含まれた棘で、ようやく彼が、傷ついていることに気づく。しかし、気づいたときにはもう、言葉は戻せなかった。

「……そんなつもりで言ったんじゃないです」
「でも、そう聞こえました」

 短い沈黙。謝るタイミングは、いくつもあったはずなのに、どちらも選ばないまま、時間だけが間に落ちていく。その沈黙が余計に関係の輪郭を歪めていった。

「……話題にも、しないんだ」

 ぽつりと零れた言葉は彼に向けたというより、自分自身への、呟きだった。触れなかったこと、避け続けたこと、その全部が、今になって重さを持って返ってくる。
 あの日は自分から言ったくせに。玄関先で私の名を呼んで「ちゃんと、素敵なバレンタイン過ごしてください」なんて——。
 ちゃんとって、何だろう。一度、心の中でその言葉を転がしてようやく気づく。ああ、そうか。私は拗ねているのだ。あんなふうに、距離を測るみたいに、他人行儀な言葉で締められたことに。気遣いだと、わかっているのに。正しさだと理解しているのに。それでも胸の奥では、別の答えを期待してしまっていたから。

「話したほうが、いいですか?」
「そうじゃないけど」

 結局、何も言わないまま、何も解決しないまま時間だけが過ぎる。そして��言わなかったこと�≠セけが、はっきりと残る。

「今日、なんか……刺さる言い方しますね」
「……そっちが、軽すぎるだけ」

 そのやり取りで、今日はもう、修復できないと悟った。喧嘩ではないし、声を、荒げたわけでもない。ただ、何もなかった顔に戻ることだけが、できなくなった。彼は端末を受け取りほんの少し距離を取る。

「……じゃあ、ありがとうございました」
「……はい」

 帰り際の声はお互い、いつもよりも、他人行儀だった。自動ドアが閉まったあと、カウンターに残った静けさの中で、私はようやく思う。もしかして私の言い方が悪かったのかもしれない、と。その考えは、眠るまで消えず、翌日になってもなお胸の奥に残り続けることになった。


 *


 その夜、私は仕事帰りにひとり飲み屋街へ足を向けていた。誰かと約束していたわけでもなく、気晴らしと呼べるほどの理由も自分では思い当たらなかった。ただ、まっすぐ家に帰る気になれず気づけばグラスを傾けていたというだけの話だ。
 バレンタインまで、あと数日。だからといって特別な意味を持たせていたつもりはない。ただ、静まり返った部屋でひとり考え込む時間がいつもより少しだけ重たく感じられただけだった。
 思った以上に飲んでしまったことは、自分でも途中から薄々わかっていた。けれどその自覚すらだんだんと、曖昧になっていく。
 帰り道、足裏の感覚が信用ならず舗道の縁石に何度も靴先を引っかけた。誰かと肩がぶつかって小さな声で謝ったような気もするし、しなかった気もする。ただ、夜風だけが、やけに冷たくて、コートの前を掴む指に無意識に力を込めていた。

「大丈夫ー?」

 知らない声がして次の瞬間、手首を掴まれた。反射的に、身を引こうとしたものの、力の抜けた身体は、思うように反応してくれない。

「おねーさん、酔ってるでしょ。危ないよー?」

 顔を上げると、見知らぬ男が、こちらの反応を測るみたいに少しだけ距離を詰めて立っていた。善意なのか下心なのか。判断しなければいけないはずなのに頭の回転が追いつかない。手首に残る体温が、はっきりと不快なのに、振りほどく力が今の私には足りなかった。
 ——と、そのときだった。空気がわずかに張り詰める。風を切る音が、耳の奥を掠める。視界の端に、影が落ちた。次の瞬間、私の手首からその男の指が離れた。

「——その手、離してください?」

 低く、よく通る声だった。聞き覚えがありすぎて、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。酔いの奥に沈んでいた意識が、急に現実へ引き戻される感覚。

「オネーサン、俺の連れなんで」

 淡々とした口調。威圧するでも、説明するでもなく、ただ、事実を置くような声音だった。顔を上げると路地灯の下に、ヒーローが立っている。ヒーロースーツ姿の、ホークスだ。あまりにも、見慣れた姿なのに、この場所ではひどく現実味がなかった。
 途端に、周囲がざわめく。「あ、ホークスだ」「本物?」そんな声が遠くで混じる。でも彼は、一切、気に留めない。視線は私と、その男だけに向けられていた。

「え、マジ? ホークスと……知り合い?」
「え?……いや、あの、たまたま……です」
「……あ、そ。なら、俺はこれで……」

 男はそれだけ言い残して早々に距離を取った。まるで最初からそこにいなかったかのように夜の人波に紛れていく。残されたのは冷えた空気と、私と、赤い翼の生えた、ヒーローだけ。

「……何、してるんですか」

 ホークスは私の顔を覗き込むようにしてすぐに眉を寄せる。その視線に、責める色はない。ただ状況をひとつひとつ確認するような、落ち着いた厳しさがあった。

「だいぶ、飲みましたね」
「……ちょっとだけねー」
「ちょっとの顔じゃないです」

 叱るでも突き放すでもない。ただ淡々と事実を並べるだけの言い方なのに、それが今の私には、妙に胸の奥へ沈み込んでくる。正論だとわかっているぶん、反論の行き場がなくて、代わりに感情だけが、じわじわと滲み出してくる。

「パトロール中に、嫌でも目に入ったんで。あの足取り、だいぶサービス精神旺盛でしたね」
「……」
「上空からでも、さすがに目立ってましたよー?ふらふら具合が」
「……監視されてたみたいで、嫌」
「偶然です。正直放っとける感じじゃなかった」

 否定は即座だった。けれど、その声音は決して柔らかくはない。距離を詰めるでも突き放すでもない、判断を、保留したままの線引き。その中途半端さが、かえって苛立ちを呼び起こす。

「……だいたい私、ホークスの連れじゃないし」

 言ってから少しだけ後悔する。そんな言い方をしたかったわけじゃない。たださっき彼が当然のように「連れだ」と言ったことが、なぜか引っかかっていた。

「そんなの、向こうだって見れば察しますよ」
「うわー、言い方ァ」
「連れかどうか以前に、あの状況で声かけられて無害で済むと思ってるなら、相当楽観的です」
「……」
「そんなに目、座らせて——」

 彼の視線が私の顔を正面から捉える。その真剣さに酔いの奥でぼやけていた輪郭が急にくっきりしてしまう。

「もし、ほんとにマズい相手だったら、どうするつもりだったんです?」
「……」
「……ほんとに危ない相手だったら、笑って済む話じゃなかったですよね」

 責めているようで、実は問いかけている。そのことに少し遅れて気づく。私は言い返そうとして言葉を探して、結局、何も出てこなかった。

「嫌な思いしたなら、すみません。でも——」
「……でも?」
「……ほんと。今の状況、危なかったです」

 彼はそう言って、私の腕に手を伸ばした。強く掴むわけでもなく、逃がさないようにするでもない。ただ、そこにいることを確かめるみたいな、ためらいを含んだ触れ方。
 ——それなのに。私は反射的にその腕を引いてしまう。触れられたこと自体が嫌だったわけじゃない。むしろ逆で、その距離の近さが、今の自分には少しだけ怖かったのだと、腕を引いたあとで気づいた。

「……説教?」
「心配です」
「同じでしょ」

 自分でも刺のある言い方だとはわかっていた。でも喉元までせり上がってきたものを今はうまく飲み込む余白も、余裕もなかった。

「大人なんだから、これくらい」
「大人でも、危ないものは危ないです」
「……そうやって、全部管理したいわけ?」

 一瞬、彼の動きが止まる。ほんのわずかな間。でも、その沈黙が今夜の距離をはっきりと浮かび上がらせた。

「……そういう言い方、するんですね」
「じゃあ、どう言えばいいの」

 夜風が二人の間をすり抜けていく。さっきまで耳に入っていた周囲のざわめきは、いつの間にか遠のいていて、今はただ、彼の視線だけが静かにこちらを捉えていた。

「……俺、なんかしました?」

 その問いかけは責めるよりも先に困惑が滲んでいた。私はすぐに答えられず視線を逸らす。酔いのせいで言葉が鈍っているのではない。ただ何をどう言えばいいのか自分でも、わからなくなっていた。

「気に障るようなこと、また……」
「……」
「ごめんなさい」

 最後の謝罪が、胸に刺さった。——どうして、あなたが謝るの。悪いのは私なのに。そう思った瞬間、喉の奥がひりついて、言葉が詰まった。

「……俺は」

 彼はそこで言葉を止め、一度だけ視線を外す。街灯の光が、その横顔の輪郭をやけにくっきりと浮かび上がらせた。ほんの短い間だったのにその沈黙が彼なりに言葉を選んでいる証のように感じられる。

「こういうの、見たくないだけです」
「……」
「知らない人に、触られてるのとか」

 淡々とした言い方なのに、それがまた胸の奥をちくりと刺した。守られている、というよりも、距離を測られている気がしてしまう。その感覚がなぜか、悔しかった。

「……じゃあ、見なければいいよ」
「それは無理です」

 返事は、早かった。けれど、語尾だけがほんの少し弱くて言い切りきれないものが残っている。その揺らぎに、私は余計に、苛立ってしまう。

「……あのさ」
「はい」
「私がこうなるの、そんなに想定外だった?」

 彼は答えなかった。ただ私をまっすぐに見る。その視線から逃げ場がなくて、私は思わず、別の言葉を探してしまう。

「……忙しいんでしょ」

 ふいに違う言葉が口を突いた。本当は、こんなふうに言いたかったわけじゃない。ただ彼が自分とは違う場所に立っている気がして、その距離を先に突き放したくなっただけだ。

「パトロールしてるなら、もっと困ってる人を、選びなよ」
「……」
「イベント続きで、楽しいんでしょ」
「それ、また言います?」

 彼の声が、わずかに低くなる。

「……事実でしょ」

 そう言った瞬間、彼の眉がほんの少し寄った。その小さな変化がはっきりと『触れてはいけないところ』に触れてしまったことを教えてくる。

「……ほら、みんな見てるよ」
「今それ、関係ないんで」
「あるでしょ。ほら、カメラ向けられてる」
「今は、ヒーロー活動中です」

 その言葉に周囲の視線の存在を意識する。ざわめきの中に、確かにこちらへ向けられた興味や、好奇の気配が混じっている。でも彼は一切そちらを見ない。私だけを、真っ直ぐに見ている。

「そういうの」
「……」
「正直、あんまり好きじゃないです」

 声は、静かだった。でも、はっきりと線を引く響きがあった。軽口でも感情的な反発でもない。ただ、彼自身の境界を示す言葉。

「忙しい=楽しいって決めつけられるの、嫌で」
「……」
「それに」

 そこで、少しだけ間が空く。彼は、言葉を探すように唇を噛み、ほんの一瞬、視線を落とした。

「あなたがこうやって……無茶する理由にされるのも」

 そこまで言って、彼は口を閉じた。その判断は続きを言えばもっと踏み込んでしまうとわかっているようでもあった。

「……帰ります?」

 それは命令でも提案でもない。ただ今の距離をこれ以上悪化させないための、静かな確認。

「……うん」

 素直に頷いてしまった自分に、少しだけ驚く。反発も、言い返しも浮かばなかった。今はただ、この場を収める選択を、身体が先にしてしまった感じだった。
 彼は私の歩調に合わせて半歩前を歩く。近すぎず遠すぎない位置。触れない距離。でも、確かに離れてはいない。その曖昧な並び方が今夜の関係そのものみたいに思えた。
 途中、何度か足元がもつれて、つまづきそうになる。そのたびに彼の手が、反射的に空を掴む。けれど実際には触れない。伸びかけて、止まる。その繰り返しがなぜか胸に残った。守ろうとして踏み込まない。その距離感だけが、今夜の輪郭として、深く胸に残った。

「……さっきは、ごめん」
「何がです?」
「言い方」

 自分でもどこまでを指しているのか曖昧な謝罪だった。それでも、言わずにはいられなかった。彼はすぐには返さず、少しだけ、考える間を置いてから答える。

「……謝らなくていいです」
「……え?」
「わざと突っかかってきてるのわかってたんで」
「……」
「今日は、そういう夜なんでしょ」

 責めない声音。決めつけもしない言い方。その優しさがかえって胸の奥をきゅっと締めつけた。理解されているのに踏み込まれない。その線引きが、静かに効いてくる。別れ際、彼は、一歩だけ距離を取った。その一歩が、今夜の終わりをはっきりさせる。

「ちゃんと着いたら、連絡してください」
「……」
「そんなヤな顔しても、引き下がりませんよ?」
「……気が、向いたら」
「ダメです。これはヒーローからのお願いです」

 それだけ言って彼は空へ戻っていった。羽音と風の気配だけを残して、夜空に溶けるように姿が消える。見上げた先には、もう何もない。
 部屋に戻ってからも胸の奥に残ったのは叱られた記憶より触れられなかった距離のほうだった。言い合いでも喧嘩でもない。それでも、確かに、何かが残った夜。
 ——バレンタインは、もうすぐだ。この距離のまま迎えることになるのだろうか。そんな考えを振り払うように私は部屋の灯りを落とした。眠るまでのあいだ彼が降りてきたときの風の音だけが何度も耳の奥で繰り返されていた。


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