バレンタイン前日の夜——。どうして、よりによってこの日なのかと、断る理由を探すみたいに一瞬だけ考えてそれでも頷いてしまった。けれど結局、こうして席に着いているのは、他でもない自分で、そういうところがいつも通りだな、と、グラスを手にしながら、内心で苦笑した。
 今日は職場の顔なじみとヒーローたちが集まる恒例の懇親会。いつもと何ひとつ変わらないはずなのに、店内にはやけに熱がこもっていて新年会シーズンはとっくに過ぎたはずなのに、妙に人が多い。
 こういう顔見知りばかりが集まる場での賑やかさは嫌いじゃない。笑い声が重なって空気が少し浮つく感じも、場の熱に身を委ねてしまえば案外心地いい。けれど今日は、その輪郭がほんの少しだけ眩しく感じられた。彼、ホークスもいつものように、この場にいたからだろうか。同じ空間にいること自体は決して珍しくない。それなのに、今夜はなぜか視界に入る頻度が多い。誰かと話して笑う横顔も名前を呼ばれて軽く応じる仕草も、その一つひとつが必要以上に意識に引っかかる。
 もしかすると理由は、とても単純なのかもしれない。いつもなら気づけば自然と私の隣に座っているはずの彼が今日は最初から少し離れた位置にいた。その距離は、せいぜい数席分に過ぎない。それでもなぜか、落ち着かない。理由を探そうとしてもはっきりした答えは見つからないし、考えれば考えるほど、輪郭だけが曖昧になる。ただ、目に入ってしまう。それだけのことなのに、それだけでは済まされない違和感が、胸の奥に残っていて、自分でも、どうしてこんなに引っかかっているのか、うまく説明できなかった。
 ——バレンタインイブ。それだけで、意識の置きどころが、微妙に狂ってしまう夜だ。

「今年は誰が一番、チョコレート貰うのかな〜」

 少し離れたテーブルから、そんな声が聞こえてくる。酒も場も十分に温まった頃合いで、誰かが必ず振る話題だとわかっているのに、耳は勝手にそちらを拾ってしまう。
 案の定、その流れで名前が挙がるのは決まっていて、場の視線が一斉に彼のほうへ集まるのが、この位置からでも、はっきりわかった。

「まあ……この、うら若きヒーローでしょ〜!」
「毎年すごいもんね〜」
「ホークス事務所、パンクするんじゃなーい?」

 軽口と笑い声が重なり、空気が少しだけ弾む。私は聞こえないふりをして目の前の会話に意識を戻した。戻したつもりだったというほうが正しいかもしれない。隣に座る同僚や、顔見知りのプロヒーローたちと仕事の話とも世間話ともつかない当たり障りのない言葉をやり取りする。

「実は最近、スマホを壊す頻度が減ったんです」
「……それは、いい兆しですね」
「お忙しい皆さんにも、迷惑かけてばっかりは、いられませんからね〜」
「……いえ、私たちは、それが仕事ですから」

 笑って、頷いて、相槌を打つ——いつも通りの流れ。いつも通りの距離感。それだけのことなのに、今日は言葉が少し遅れる。返事をするまでにほんのわずかな間が生まれてしまう。その小さな遅れに、自分だけが気づいている。

「名字さん」

 不意に少し離れた席から声をかけられる。思いがけず名指しされて私は顔を上げた。その瞬間、手元の感覚が追いつかずに、持っていたビールのグラスが傾く。
 ——ガッシャーン。
 泡と一緒に、琥珀色の液体がテーブルを越えてこぼれ落ちる。一瞬だけ周囲の音が途切れたように感じた。けれどそれもほんの刹那で誰かの笑い声や、椅子が引かれる音、慌てた足取りが重なり合い、場は、すぐに元の騒がしさを取り戻す。
 向こう側のテーブル。ホークスのいるあたりも変わらず、賑やかだった。

「あ……、ごめんなさい」
「大丈夫、大丈夫」
「濡れなかった?」
「俺、こっち拭きますよー」

 次々に差し出される優しい手と声に、私はただ頷きながらぺこぺこ頭を下げる。しかし、謝りながらも視線だけが、こぼれた液体の輪郭を追っていた。

「ほんと、すみません……」
「気にしないで。ほら、タオル」
「店員さん呼ぶね」
「あ、すみませーん!生、もう一つと、おしぼりお願いします!」

 周囲が手際よく動く中で、私はほんの少しだけその場に立ち尽くしていた。
 何をしているんだろう、私。胸の奥で、そんな言葉が静かに浮かぶ。別に大きな失敗じゃない。誰かを困らせたわけでも、場を、壊したわけでもない。それなのに、こういう小さな出来事一つで自分の輪郭が揺らぐ。さっきまで保っていたはずの平常心がゆっくりと音を立てて崩れていくような感覚だけが、やけに生々しく残った。
 テーブルに残った水滴が布で拭き取られていくのをぼんやりと眺めながら、私はもう一度、深く息を吸った。
 今日はまだ、イブだ。それなのに、もうすでに何かが、噛み合っていない。その違和感だけが、胸の奥で静かに居座り続けていた。

 濡れたテーブルを拭き終えて、ようやく場も、落ち着いた頃、向こう側の席から椅子が引かれる気配がした。顔を上げなくても誰が立ったのかはわかる。こんなざわめきの中でも彼の動きだけは不思議と拾えてしまうから。
 ホークスは軽く会釈をして席を外した。たぶんトイレだろう。そう思ったのは、歩き慣れた動線だったからだ。誰かに声をかけられるでもなく、引き止められるでもなくただ自然に立ち上がって店の奥へと消えていく。その背中を私は、見ないふりをした。見ないふりをしながら、意識だけがそちらへ引き寄せられているのが、腹立たしい。

「大丈夫? さっきの」
「え? あ、うん。もう平気」

 声をかけてくれた同僚にそう返しながら新しく運ばれてきたビールを一気飲みしてやった。泡の感触がやけに喉に残る。ほんの数分。それだけの時間なのに、彼がいない向こう側の席が少しだけ静かに見えた。
 やがて足音が戻ってくる。トイレの方向から、あちらへ——では、ない。一度、元の席の近くを通ったはずなのに、彼はそのまま、腰を下ろさず視線だけを軽く巡らせてから方向を変えた。私の隣の席が空いている。そのことに気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。偶然かもしれない。けれど彼はそのまま迷いのない足取りで、こちらへ向かって来る。

「……お邪魔します」

 低く、抑えた声。それだけ言って彼は私の隣に腰を下ろした。誰に断るでもなく誰の許可を得るでもなく。それが、あまりにも自然な動きだったから、周囲も特に反応しない。ただ、さっきまであった距離だけが、静かに消えた。肩が触れない程度の近さ。でも、さっきより確実に近い。

「……もう一杯、いきます?」

 彼がそう言って、私のグラスを見る。それは、さっき私がこぼしたことを、ちゃんと覚えている人の視線だった。

「……うん」
「了解です」

 彼は店員を呼ぶときも、大げさな仕草はしなかった。ただ指を軽く上げて、通りすがりの店員に短く、注文を伝える。その横顔を私は、正面から見ないようにしていた。
 隣に来た理由を彼は説明しない。さっきの事に触れるでもなく慰めるでもなく、気まずさを解消しようとする気配もない。ただ、そこに座った。それだけ。でも、それだけで胸の奥のざわつきが少しだけ、形を変える。

「……向こう、騒がしいね」
「ですね」
「いつも、こんなだったっけ」
「いつも、こんなです」

 なんでもない会話。それなのに、言葉と言葉の間に、さっきとは違う緊張が混じっているのを、私は感じ取っていた。
 彼は、誰かに言われたから来たわけじゃない。場の流れでも空気でもない。たぶん自分で決めてここに来たのだ。そう思うと胸の奥に残っていた小さな棘がゆっくりと向きを変える。抜けたわけでも消えたわけでもない。ただ、少しだけ刺さり方が、変わった気がした。
 この距離が、これからどうなるのか。それは、まだわからない。けれど少なくとも彼は今、私の隣にいる。それだけの事実が妙に重く、そして、残酷だった。

 何杯飲んだのか、もう正確には覚えていない。ただ頭の内側が薄く霞がかったように頼りなくて考えを組み立てるよりも先に、言葉だけが転がり出ていく感覚が残っていた。
 酔いのせいにしてしまえば楽なのに、実際にはそれだけじゃないと身体のどこかが知っている。私は自分でもわかるくらい、ほんの少しだけ棘を含んだ調子で、隣にいる彼へと声を投げていた。わざとじゃない。けれど柔らかくしようともしていない。

「これ、やだ」
「え? 前、好きって言ってませんでしたっけ」
「今は、そういう気分じゃないの」
「えー、わがまま……」

 まだまだこれは、軽いやりとり。たぶん今さら珍しくもない光景だ。周囲の人たちも、私とホークスの間に飛び交うこういう応酬には慣れてしまっていて誰も口を挟まない。むしろどうぞご自由に、というような半ば公認めいた空気すら漂っている。そのことが今夜は少しだけ、心細かった。

「……ねえ」
「はい?」
「足、踏まれてるんですけど」
「あ、すんません」

 彼はすぐに足を引いたけれどその距離が微妙にずれたまま戻らない。私はテーブルの端に視線を落としながら、その小さな違和感を、どう扱えばいいのか、わからずにいた。

「……今日は、なんか、ご機嫌ナナメすね」
「……」
「隣、座ったら、まずかったです?」
「……なんで、わざわざそんなこと聞くの」
「……」
「意地悪」
「……すんません」

 謝り方がいつもより少しだけ遅い。冗談の形をしているのにどこか探るみたいな声音が混じっている。そのことに気づいてしまって、胸の奥が、わずかにざわついた。

「さっき、大丈夫でした?」

 彼が、不意にぽつりと、そう言った。

「なにが」
「ビール。こぼしてたでしょ」

 そう言いながら彼は私の好みをよく知っている手つきで、新しい皿に、料理を取り分けていく。視線はこちらに向けないまま当たり前のように。
 やばい——胸の奥で何かが音を立てて緩んだ。なんで、こんなときに。なんで、そんなふうに。
 急に視界が滲みそうになって私は慌てて両肘をテーブルにつき額に手を当てる。俯けば、少なくとも表情は見られない。そう思ったのに隣にいる彼は、すぐに変化を察したらしかった。

「……え? 大丈夫すか?」
「……」
「具合、ようなかと?」
「……ちが、ちょ、……酔っ、」

 言葉が途中で引っかかる。自分の声が、思っていたよりも頼りなく聞こえて、余計に、情けなくなる。

「ちょっと、待ってくださいね。——あっ、」

 彼は椅子を引くこともなくすぐに声を上げた。その動きに、ためらいはなかった。そのことが、ありがたいのに、今は少しだけ、ずるい。

「すんませーん。水、氷入ってないやつ、ひとつお願いしまぁーす」

 その声がやけにしっかりして聞こえて、余計に感情のほうが先に溢れそうになった。胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。理由は、ひとつじゃない。今この瞬間だけの話でもない。ただ積もっていたものが少しずつ、形を崩しているだけだ。
 一週間前。彼はいつも通り私のこたつに入りに来た。特別なことは、何もなくて、いつも通りに話して笑って、夜が更けて。そして、帰り際に。

『ちゃんと素敵なバレンタイン過ごしてください』

 私が言ったからだ。「いい人が、できたかも」なんて、あんなふうに。自分で投げた言葉のはずなのに、どうして今さら、こんなにも胸に残っているのだろう。
 今日は最初から彼が隣にいなかった。それだけのことだ。席が少し、離れていただけ。いつもと違う配置だっただけ。それなのに、理由を探してしまう自分がいる。それでも結局、彼はこうして来てくれた。遅れて隣に座って私のグラスの減り具合に気づいて水を頼んでくれている。その仕草がいつも通りで、だからこそ、余計に心に引っかかる。わかっている。大したことじゃない。誰に責められたわけでもないし、何かを、約束されているわけでもない。ただ勝手に期待して、勝手に落ち込んでいるだけだ。それでも喉の奥に何かがつかえて飲み込めない。その、言葉にもならない違和感をどうしても、誤魔化しきれなかった。

「水、きましたよ。ここに置いておきますねー。あっ、手ぇ届きます?」
「……」
「わ。こぼしちゃった。すんません、拭きます」
「……」
「それで、無理じゃなければ、なんですけど……あれ、半分こしません?」
「……」
「俺、アレ食いたくて。ずっと、狙ってたんす」

 やだ……だめ。ここで泣くのはさすがに違う。そう言い聞かせた瞬間、抑え込んでいたものが、逆流するみたいに、視界の奥がじわじわと、焼けついていく。瞬きを一つするたびに感情のほうが先に、溢れ出そうで、ついには、呼吸の仕方までわからなくなった。

「ごめん」

 そう口にした声が自分でも思ったよりも低く、短く響いた。私はほとんど反射的に椅子を引き、立ち上がる。ガタンと脚が床を擦る音はしたはずなのにちょうどその瞬間、誰かの笑い声とグラスがぶつかる音が重なって私の動きは運よく人波に紛れた。
 それでも——視界の端で、彼だけが顔を上げたのがわかった。驚いたというほどではない。ただこちらを捉える目。その視線が、なぜか胸の奥に突き刺さる。

「ちょっと……外の空気、吸ってくる」

 誰に向けたともつかない、言い方だった。引き止められないように、理由にならない程度の言葉だけを置いて、私は、椅子の背に掛けていた鞄を掴む。視線を上げる余裕もなく、そのまま通路へ身を滑らせた。踏み込んだ瞬間、足元がわずかに揺れる。酔いのせいにできるほど、単純じゃない揺れだと自分だけはわかっていた。胸の奥に溜まっていたものが、形を持つ前に逃げ出したかっただけなのだと思う。

「大丈夫ー?」

 背後から、同僚の軽い声が追ってくる。

「ん、すぐ戻る」

 私は振り返らずに答えて、小さく手を振った。戻るかどうかなんて正直、その時点では自分でも決められていなかった。けれど、戻らないと言うほどの覚悟もなくて、結局、曖昧な言葉を選んでしまう。
 通路を抜けながら、背中に残る視線を一つだけ意識する。誰のものかは、考えないようにした。今はただ、外の空気に触れたかった。それだけで十分だと自分に言い聞かせるみたいに足をただ、前へ運ぶ。扉の向こうに、夜が待っている。その静けさに身を預けるための、一歩だった。
 店の扉を開けると外の空気が一気に流れ込んできた。冷たい。さっきまで、まとわりついていた熱と匂いが、一枚剥がれる感覚。
 夜の街は、思っていたより静かだった。通りを行き交う人の足音も、遠くの車の音も、すべてが少し距離を置いて聞こえる。私は店の壁際に寄り鞄を持ち替えてから、深く息を吸った。

(……落ち着け)

 胸の奥が、ざわついている。理由は、わかっている。わかっているのに言葉にすると余計に形を持ちそうで、私はただ、呼吸の数を数える。
 どうして、こんなことで。隣に、座ってくれただけ。水を頼んでくれただけ。料理を取り分けてくれただけ。それだけの事で気持ちが崩れるほど私は弱かっただろうか。一週間前の夜がまた頭をよぎる。こたつの中で他愛のない話をして、何も決めないまま、時間を過ごして——。

 『素敵なバレンタイン、過ごしてください』

 あの言葉は、祝福だったのか。それとも、線を引くための、やさしい距離の取り方だったのか。
 考えすぎだ、と、何度も自分に言い聞かせる。彼はいつもそうだ。必要以上には踏み込まない。期待させることもしない。その代わり離れすぎることもない。それを、心地いいと思ってきたのは私のほうだったはずなのに。
 ——じゃあ、何が不満なの。自分に問いかけて答えが返ってこないことに、少しだけ苦笑した。情けない。大人になったつもりでいたのに、こういう夜になると、感情の扱い方を見失う。

「……ふう。」

 もう一度、息を吸う。冷えた空気が肺の奥まで入りようやく視界が少しだけ澄んだ。「戻ろ」とそう小さく呟いた、そのときだった。

「名前さん」

 聞き慣れた声が背後から届く。振り返る前から誰なのかはわかっていた。
 ホークスは、店の外に出てすぐのところで立ち止まっていた。ジャケットを羽織ったまま、片手にはスマホ。もう片方には——私のコート。さっきまで店のハンガーに掛けてあったそれを無言で腕にかけている。その仕草があまりにも自然で、言葉より先に、胸の奥が小さく揺れた。
 彼は少しだけ困ったような表情でこちらを見ている。追いかけてきた、というほど慌ただしくはない。けれど、置いていくことも、見なかったことにすることもできなかった。放っておけないと思ったという、その距離感が、そのまま姿勢に、表れていた。コートを持ってきた、という事実が戻る場所を、まだ切らせていないのだと、静かに告げているみたいで。

「……大丈夫ですか」

 責めるでも問い詰めるでもない声。ただ様子を確かめるためだけの調子。私は答えずに、夜空を一度仰いだ。それから、ゆっくりと、彼のほうを見る。

「……ちょっと、酔っただけ。大丈夫」
「それ、さっきも聞いた気がします」
「気のせいだよ」

 そう返すと、彼は小さく息を吐いた。安心したのか、それとも、どこまで踏み込むべきかを測っているのか。その判断がつかない沈黙が、二人のあいだに落ちる。
 店内の喧騒は扉一枚隔てただけで、もう遠い。外の空気の中で、私たちは、並んで立っていた。彼はすぐに何かを言おうとはしなかった。代わりに、通りを一度見渡してから私との距離をほんの少しだけ詰める。近づきすぎない、でも離れすぎない。いつもの、彼なりの距離感。

「……戻ります?」

 そう聞かれて私は答えに詰まった。戻るかどうか、ではない。戻った先で、何事もなかった顔ができるかどうか。その自信が、まだ、なかった。

「もうちょっと、ここでいい」
「了解です」

 即座に、肯定もしないし、否定もしない。彼はそれ以上、理由を尋ねなかった。
 沈黙が続く。冷たい空気が、まだコートを着ていない首元に触れて、ようやく、現実に引き戻される感じがした。私は両手をポケットに突っ込み足先で小さく地面を擦る。

 ——コート、返してよ。

 そう言えば済む話なのにその一言がどうしても喉まで上がってこない。寒いからじゃない。気を遣われたくないからでもない。ただ、この状況でそれを口にした瞬間、彼が持ってきてくれた意味まで、全部、突き返してしまう気がした。
 放っておけなかったこと。戻る場所を、切らなかったこと。その全部を「余計なことだった」と思わせてしまいそうで。それに、今さらだった。さっきまで店の中で、あんなふうに感情を乱しておいて、ここに来て急に線を引くみたいな真似をするのも、違う気がする。
 何より、彼が無言でコートを腕にかけて立っているその距離感を、今はまだ壊したくなかった。
 だから私は、何も言わない。寒さを、ごまかすみたいに肩をすくめて、夜の空気を、受け入れるふりをする。胸の奥では、別の感情がざわついているのに、それを、外に出す術が見つからない。この沈黙が、長引けばいいのか、それとも、早く終わってしまえば楽なのか。その判断すら、もう自分では、つかめなくなっていた。

「……さっきの」

 夜気に溶けるような低い声で彼がようやく口を開く。切り出し方が慎重すぎて、それ自体がこれ以上は踏み込みたくない気持ちの、表れみたいに聞こえた。

「気にしなくて、いいですからね」
「なにを」
「ビール。ああいうの、よくありますし」

 慰めでもフォローでもない。ただ事実を並べただけのような言い方。
 大したことじゃない、という線を引こうとしているのがわかる。その線が、私を守るためなのか彼自身が、踏み込みすぎないためなのか、判別がつかないまま、言葉だけが胸の奥に残る。

「別に……ビールこぼしたことで、落ち込んでたわけじゃないし」

 つい口をついて出た。自分でも驚くほど感情が先に滑り出てしまった言葉だった。彼は、すぐに返さない。遮りもしない。ただ、こちらを見る。その沈黙が、続きを促しているのがわかってしまって、私は一度出してしまった言葉を、もう引っ込められなくなる。
 言えば、きっと面倒になる。でも言わなければ今夜は、このまま終わる。その境目に立たされたまま、私は次の言葉を探していた。

「……恥ずかしかったけど、それだけ」

 それだけ、と言い切るには胸の奥が少し騒がしすぎた。私は自分の言葉に、半分だけ嘘を混ぜている。

「ただ……」

 続けようとして詰まる。何を言えばいいのか、どこまで言えばいいのか、わからない。それでも彼は急かさない。でも、その沈黙が逆に私を追い詰める。
 ——なんで、こんなにも言いづらいんだろう。理由は、はっきりしている。私は、彼に「察してほしい」と思っている。でも同時に、それを口にするのが、ひどく格好悪い気もしている。

「……今日、さ」
「……」
「楽しそう、だったね」

 ようやく出てきた言葉は、我ながらずいぶんと遠回りだった。核心に触れるにはまだ勇気が足りなくて、けれど沈黙のままではいられなくて選び取ったのがこんな切り出し方だったのだと思う。

「そうですか?」
「うん。みんなと」

 彼は一瞬、考えるように視線を外す。その仕草が答えを探しているというよりも、どの言葉なら角が立たないかを量っているように見えて、私はそれ以上、視線を追えなくなる。

「懇親会なんで」
「知ってる」

 知っている。わかっている。それでも、その、��当然�≠フ中に、自分が含まれていない気がしてしまった。最初から隣にいなかったこと。名前が出るたびに向こうで笑いが起きること。それらを私はずっと『気にしていないふり』で、やり過ごしてきた。そうするのが大人として、正しい気がしていたから。

「私さ」

 声が少しだけ硬くなる。自分でもわかるくらい余裕が削れていく感覚があった。

「こういう場で、ホークスの隣にいるの、慣れてきたと思ってた」
「……」
「でも、今日は——」

 そこで言葉が途切れる。うまく言えないというより、言ってしまえば、戻れなくなる気がして、視線が、落ち着きなく揺れた。

「ちょっとだけ……置いていかれた気がした」

 言ってしまってから、胸の奥がきゅっと縮む。こんな言い方をするつもりじゃなかったのに、と遅れて、後悔が追いついてくる。彼は、すぐには返さない。その代わり私の手元、ポケットに突っ込んだままの指先に一瞬だけ視線を落とす。その視線が、私の内側を覗かれたみたいで、落ち着かない。

「……なるほど」
「……」
「だから、それで……」
「……」
「ああいう言い方に、なったってことで?」

 責める調子じゃない。整理をしようとする声。けれど、その冷静さが逆に、今の私には少しだけ刺さった。

「やけにトゲトゲしいっていうか、なんか……」
「……そういう、言い方しないで」
「え」
「分析、しないでよ」

 自分でも尖った声だと思う。でも、止められなかった。理屈で整えられてしまったら、この揺れそのものがなかったことにされる気がしたから。

「置いていかれた��気がした�≠チて言ってるだけなのに」
「……」
「正しいかどうかじゃ、ないでしょ……」

 胸の奥で溜まっていたものが少しずつ形を持ち始める。ここまで来てようやく自覚する。私は、彼が��遠くにいる存在�≠ナあることを今日ほど、突きつけられたことがなかったのだと。そして、その不安を、上手く扱えずにいる。
 彼は黙ったまま、私を見ている。その視線が、逃げ場をくれない。だから私はきっと次に余計なことを言ってしまう。その予感だけがはっきりと胸に残っていた。
 私は一度、彼から視線を外した。夜の街灯が、濡れたアスファルトに滲んでいてその光の揺れを眺めているふりをしながら胸の奥に溜まっていたものを、言葉に変えようとする。うまく言えないまま、黙ってしまえばよかったのに、彼が、何も言わずに待っていることが、かえって、逃げ道を塞いでいた。それが、逆に苦しかった。

「……こういう場所に、いるとさ」

 出てきた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。感情が先走らないように無意識に抑え込んだ結果の平熱みたいな声で、それがかえって本音を際立たせる気がした。

「ヒーローってやっぱり……遠い存在だなって、思うんだよね」

 それは、責めでも皮肉でもない。ただの実感。けれどその実感を口にした瞬間、胸の奥に残っていた不安が別の形に変わってしまう。言葉にしたことで戻れなくなる感覚。

「みんなに囲まれて、当たり前みたいに名前呼ばれて」

 私はそこで一度、息を吸う。続きを言うためというより、崩れないための呼吸だった。

「……どうせ、明日もいっぱい貰うんでしょ」

 言ってしまってから、しまった、と思う。外の静けさがその一言を必要以上に強調してしまって逃げ場がなくなる。彼は答えない。ただ、視線を逸らし唇を軽く噛む。その沈黙が店の中で感じたものよりもずっと重く、夜気に沈んでいく。

「……何をです?」
「決まってるじゃん。チョコしかないでしょ」

 自分でも嫌味だとわかっている言い方だった。わかっているのに止められなかった。言葉が角を持っていくのを、見て見ぬふりをした。

「どうせ両手じゃ足りないくらいでしょ。袋とか自分で、用意しちゃってるんじゃないの?」

 街灯の光の下で、彼の表情が、わずかに曇る。いつもなら軽く笑って受け流すはずなのに、そうしない。その違いが、胸の奥にひっかかる。

「……まあ、そういうことも、ありますけど」
「でしょ」
「だからって」

 彼はそこで、言葉を切る。続ける前に、一度、気持ちを整えるみたいな間。その慎重さが、逆に距離を感じさせた。

「今、ここで言われるとは、思ってなかったですけどね」

 鼻先で笑ったような冗談めかした語尾。けれどその奥に仕込まれた棘は誤魔化しきれていなくて私は無意識のうちに肩に力を入れてしまう。軽く受け流せるほど、距離はもう、遠くなかった。

「……なに。怒ってるの?」
「そういう話じゃないです」

 彼は一歩、こちらに踏み出した。ほんの僅かな移動なのにその分だけ空気が詰まる。さっきまで確かにあったはずの逃げ道が、静かに、削られていく。

「……そっちだって」

 珍しく彼の方から言葉が続く。その事実だけで胸の奥が、ざわついた。聞きたくないのに、聞き逃せない。

「今日、こんなとこで、のんびり飲んでて……」
「……」
「俺なんかと、こんなとこで話してて、平気なんです?……色々と」
「……は?」

 思わず声が低くなる。自分でも驚くほど感情がそのまま、表に出てしまった。

「なにそれ」
「いやいや」
「……」
「前、言ってたじゃないですか」
「なにを」
「いい感じの人がいるかも、って」

 胸の奥で何かがきしんだ。触れないようにしていた場所を、正確に、指先でなぞられたみたいな感覚。

「……それが、何」
「その人のために、夜な夜な何か作ったりとか」
「……」
「そういうのしなくていいんですかって聞いてるだけです」

 周囲の音がすっと遠のく。揶揄っているようで決して軽くない。探るようで、でも確実に責める響きがある。言葉を整理する余裕なんてなくて、理屈より先に、感情だけが前に出てしまうのを、自分でも止められなかった。

「……それ、今、ここで言う?」
「先に振ってきたのは、そっちでしょ」
「だからって」
「だからって、何すか?」

 私の言葉を遮った彼の声は静かだった。声量も語調も必要以上に整っている。その落ち着きが、かえって私の胸の内側を締めつける。感情を抑えきれていないのはどう考えても私のほうなのに。

「……すみませんでした」
「……」
「お互い、踏み込みすぎましたね」

 そう言って、彼は短く息を吐いた。その吐息が夜気に混じって消えるより早く、彼は私の正面に立つ。腕にかけていた私のコートを広げる仕草は迷いがなくて、まるで話の続きをしているみたいだった。

「ちょっと、動かんで」

 ぶっきらぼうな言い方。気遣いよりも先に口をついた、そんな調子なのに手つきだけは驚くほど丁寧で、半ば強引に、けれど確かに守る位置へ、コートが私の肩に掛けられる。

「……寒いまま、言い合いする気で?」

 コートの重みが急に現実を引き戻す。さっきまで宙に浮いていた感情が、布の重さと一緒に身体に戻ってくる。その優しさが、今はいちばんずるかった。喉の奥が詰まる。ああ、だめだと遅れて気づく。

「……なんで」

 声が震える。抑えたつもりだった分だけ、かえって、はっきりと伝わってしまう。

「なんで、そんなこと、言うの……」
「……」

 彼は一瞬、視線を落とした。それから意を決めるように、顔を上げる。言葉を探すそのわずかな間に、彼自身の迷いが滲んでいた。

「なんで、名前さんが泣きそうになるんすか」
「……っ、」
「……泣きとうなるとは、こっちやけん」

 低く、抑えた声。怒鳴るでもなく、責めるでもない。ただ、感情を押し殺したまま零れた本音が確かに、そこにあった。

「俺、勝手に決めつけられるの好きじゃないって言いましたよね」
「……」
「でも、それ以上に」

 彼は一度、言葉を探すように視線を落として、夜気のなかで短く、息を吐いた。ほんのわずかな沈黙のはずなのに、その間に彼の中で何かが整理されていくのが伝わってきて、私はただ待つしかなかった。軽く済ませることも冗談に逃げることもできるはずなのに、そうしないと決めた表情が街灯の下ではっきり見えてしまう。その数秒が、今夜の会話の重さを否応なく引き伸ばしていた。

「……自分が、どう思われてるのか、わからなくなるのが」
「……」
「いちばん、しんどい……。」

 コートの中で私は指先を強く握りしめる。泣きそうなのは、弱いからじゃない。ちゃんと、向き合ってしまったからだ。夜の空気は冷たいのに、胸の奥だけがどうしようもなく熱を帯びていた。
 私たちはそれ以上、何も言わなかった。どちらかが口を開けば、また言葉が角を持つ気がして、二人とも沈黙を選んだまま、並んで立っている。
 遠くで車の走る音がして、風に乗って、店内のざわめきが断片的に漏れてくる。
 その時だった。背後で扉ががらりと開き、閉じ込められていた熱とともに、人の気配や笑い声がまとめて吐き出されるようにして、夜の路上へと広がっていった。

「はいはーい、仲直りして帰りなさいよ〜」
「ホークス、ちゃんと送ってあげてね〜」

 軽い調子の声が半ば冗談、半ば本気で、夜気の中に放られる。どうやら懇親会はお開きになったらしい。私と彼が外で立ち尽くしているあいだに店の中では、区切りがついていた。振り返らないまま、私は小さく息を吐く。彼も何も言わない。否定も肯定もせず、ただ同じ方向を向いたまま。
 次々に、店から人が出てくる。さっきまで同じテーブルを囲んでいた同僚やプロヒーローたちがコートを羽織りながら、三々五々、夜道へ散っていく。

「あー、寒っ」
「二次会どうするー?」
「俺、明日朝イチなんで帰ります」
「じゃあ、気をつけて〜」

 笑い声と鍵の音とタクシーを呼ぶ声。それらが重なり合って、さっきまで張りつめていた空気が少しずつ薄まっていく。誰かがこちらを見て何か言いたそうにする気配もある。でも誰も踏み込んではこなかった。今の私たちにそれ以上の言葉はいらないと、察しているみたいに。
 気づけば通りには人影がまばらになっていた。さっきまでの賑やかさが、嘘のように、夜だけが残る。私と彼は少し距離を空けたまま歩道の端に立っている。同じ帰り道なのに、今はまだ、同じ輪の中に戻る気になれなかった。街灯の下でようやく、私は、彼の横顔を見る。彼もまた、何かを考えるように、遠くを見ていた。二人きりになるまでに、少しだけ時間が必要だった。その沈黙が今夜の私たちには、ちょうどよかった気がする。
 並んで歩いているのに会話はない。足音だけが一定の距離を保ったまま舗道に響いている。歩幅は揃っているはずなのに、どこか噛み合わない。いつもなら、彼のほうから何か言う。あるいは、私が冗談めかして、空気を緩める。でも今夜は、どちらもその役割を放棄していた。沈黙が不自然にならないほど、互いに、余裕が削れている。

「……寒いですね」

 ややあって、先に口を開いたのは、彼だった。沈黙に耐えかねたというより、何か言わなければこのまま終わってしまう気がした、そんな、声色だった。

「今さら」
「ですよね」

 それだけで済ませればよかった。言葉としては十分だったし、それ以上続けなくても歩けたはずなのに、彼は、それを選ばなかった。

「でも」

 彼は歩調を緩めないまま、言葉を続ける。足を止めないという選択が、逃げないつもりなのだとはっきり伝えてきた。

「さっきの言い方、俺も良くなかったです」
「……」
「ただ」

 そこで言葉が途切れる。ほんの短い間だけれど何をどこまで言うかを、量っている沈黙だった。軽く済ませることもできたはずなのに、そうしないと決めた気配が、背中越しにも伝わってくる。

「決めつけられるの、ほんと……あんま得意じゃなくて」

 胸の奥で何かが弾けた。怒りというほど強くはない。でも、見ないふりをしてきた感情が、もう誤魔化せなくなる音だった。

「決めつけた覚え、ないけど」
「じゃあ、さっきのは?」
「……」
「あれ、何なんですか?」
「……」
「どうせ貰うでしょ、って」

 私は足を止めた。彼の横顔が、少し先に行ってから振り返る。その距離が言葉の温度差を際立たせる。

「だってそれ、事実でしょ」
「事実かどうかじゃなくて」
「じゃあ、何」
「……気持ちの、話です」

 振り返った彼の顔はいつもの余裕をほんの少しだけ失っていた。冗談で受け流す余地を残さない正面からの視線。

「俺、ああいう言い方されると」
「傷つく?」
「……距離、取られてる気がする」

 言葉が二人のあいだに落ちる。拾い上げる前に空気の中で少しだけ冷えていく。

「じゃあ——」
「……」
「私が、どう思ってるか、考えたことある?」

 そう言った瞬間、自分でも驚くほど声が震えていた。問いかけというよりも、抑えていたものが形になってしまった感覚。

「ないでしょ」
「……」

 彼は何も言わなかった。否定も、言い訳もない沈黙。それが答えのようで、私は視線を逸らす。

「……今日は、ここまでにしよ」

 これ以上続けたら、もっともっと、言わなくていい事まで言ってしまいそうだった。そう思った瞬間、身体が先に動いていた。私は彼の横をすり抜ける。すれ違うとき、コートの裾が、わずかに触れた気がした。

「じゃあね」

 振り返らずに告げた言葉は、別れの挨拶というより、逃げに近かった。背後で彼が何か言おうとした気配がした。でも結局、私の名前は、呼ばれなかった。夜風にさらされながら歩く帰り道で、胸の奥に残ったのは怒りでも悲しさでもなく言わなければよかった言葉と、言えなかった言葉が、同じ重さで沈んでいく感覚だった。
 私は背中に残る気配を振り切るように、夜の中へと、足を進める。明日がバレンタインだということを、思い出さないふりをしながら——。


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