週末の午後またしてもインターホンが鳴った。胸の奥で小さく、嫌な予感が芽を出す。こういう予感は大抵裏切らない。私は短く息を吐き覚悟を決めるようにしてドアを開けた。案の定、予想はズバリ的中していた。

「こんにちはー」

 そこに立っていたのはいつもと変わらない顔のホークスだった。軽い声、軽い笑み。けれど足元にはやけに存在感のある紙袋が二つ仲良く並んでいる。

「……なに、それ」
「半纏です」

 即答だった。迷いも照れもなく、まるで当然のように——。

「却下って言ったよね」
「言われました」
「なのに?」
「実物見たら、印象変わるかなって」

 最悪の理屈だ。検討も確認も、合意もすっ飛ばして、結果だけを持ってくる。こたつで学習したはずなのに、なぜこの人は同じ過ちを繰り返すのだろう。
 今日は遠慮という概念をどこかに置いてきたらしく「お邪魔しまーす」と言いながら彼は早々に部屋へ入り床に紙袋を置く。そして、ガサガサと音を立てて中身を取り出すと得意げに、ばさっとそれを、広げてみせた。

「名前さん!」
「はい」
「見て見て!ジャ〜ン」

 赤と青——。送られてきた写真よりも、実物はずっと落ち着いた色味で生地も厚く、安っぽさはない。……ない、けれど。

「……ほらぁ♪」
「ほらぁ、じゃない」

 腕を組んで睨む私をよそに彼は気にした様子もなく、自分のほうをさっと羽織ってみせる。
 こらこら。ちょっと待ちなさい。なぜあなたが赤い方を着るのか。いや、別にいい。別に、いいけれども……。

「サイズ、ちゃんと確認しましたし」
「聞いてない」
「聞いたら、ダメって言われるじゃないですか」

 自覚はあるらしい。悪びれもしない。なおさら厄介だ。
 結局、流れに押されるようにして私は青の半纏を羽織ってしまった。というより羽織らされたと言ったほうが正しい。肩に、ずしりとした重みが乗り思った以上に身体が包まれる。見た目の通り生地がしっかりしていて空気を含む。こたつとの相性が悪いはずがない、という事実に、気づいてしまうのが悔しい。

「……え、あったかい。」

 自分でもわかるくらい、声のトーンが落ちた。それを、あの男が、見逃すわけがない。

「似合ってます」
「言わないで」
「赤も良かったですけど、名前さんは青のほうが落ち着きますね」

 評価が、やけに的確で腹が立つが、彼自身は、何食わぬ顔で赤の半纏を羽織ったままもう完全に��こたつに入る人�≠フ佇まいをしている。準備が完璧すぎる。

「ほんと、勝手だね」
「お揃い、嫌でした?」

 声のトーンが、ほんの少しだけ落ちる。冗談めかしているようで、実は答えを待っている聞き方だった。私は答えない代わりにこたつに足を入れる。半纏の裾が布団の中でふわりと広がり、じんわりと熱が伝わってくる。

「……嫌じゃない……のが、腹立つ」
「ははっ。それは、よかったです」

 満足そうに言って、彼も自然な動作でこたつに入る。赤と青の半纏は、あっさりと部屋の一部になった。またひとつ彼の生活が、私の空間に溶け込んでいく。誰も宣言しなかったのに、気づけば同時にこたつに入り、同じ温度を共有している。
 境界線は今日も曖昧なまま。でも、それを壊さない距離で彼はちゃんと居座っている。こたつの中に、半纏と一緒に溶け込むようにして。私は、小さく溜息をつきながら半纏の袖に指を埋めた。布の重みと温度が、思っていた以上に落ち着く。これはもう手放せなくなってしまう予感しかしない。ほんとうに、厄介なヒーローだと思う。

「——で。一応、聞きますけど」
「なんすか?」

 彼は当たり前みたいな顔で、こたつの上に置かれたみかんの籠から、一つを取った。迷いのない動作で、するすると皮を剥いていく。分厚い指先なのに、毎回しっかりと白い筋まで丁寧に取っているのが、いちいち、腹立たしい。

「なんて、調べたの?」
「え? これすか?」
「そう」
「羽織/もこもこ/はんてん、で、調べました」
「待て待て。羽織、もこもこまではわかるよ?」
「はい」
「なんでそこに、はんてん、が付くの」
「え、そもそも俺は、はんてんが目当てなんで」
「……あ、そ。」

 呆れたように言いながらも、私は彼の手元から目を離せずにいた。みかんの皮がきれいに一列につながっていく。その様子がこたつの温度と相まって妙に日常的で、妙に馴染んでしまっている。

「あ!」
「なんすか、びっくりした」

 声を上げた私に、彼が顔を上げる。

「もしかして、あの……9,800円、って」
「あー。バレちゃいました?あれ、SKに送る予定だったんす」
「いや……経費で落とそうとしてんじゃないよ」
「はは。違うくて。そんなやり取りしてたんで」
「どんなやり取りだよ、もう……」

 思わず笑いそうになるのを堪えながら私は額を指で、押さえる。こたつの中の熱が、じんわりと身体を緩めていくせいか、怒る気力もどこかへと逃げていく。

「……高いって、いくらないんでも」
「なにがですか?」
「これ一着、約一万円もしたってことでしょ?」
「え? あ、まあ……」
「こたつの件もあるしさ……私、払うよ?」

 ため息まじりに私がそう言った瞬間、彼の動きが、ぴたりと止まった。手にみかんを持ったままこちらを見る。

「え」

 その一音がやけに素直だった。私は思わず自分の言葉を胸の内でなぞり返し今のは少し踏み込みすぎたのではないかと遅れて考え始める。親切のつもりだったのか、遠慮のなさだったのか、その境目が曖昧で、ほんのわずかに心が落ち着かなくなった。

「やめましょうよー、そーゆー萎える話」
「萎えないよ。さすがに、申し訳ないよ」
「いいんですって。ハタチ迎えるまで名前さんにたくさんご馳走になった身分なんで」
「……」
「俺、けっこー今、お金持ちなんすっ」

 最後は胸を張って、そう、言い切った。子どもみたいで、ヒーローみたいで、どうしようもなく彼らしい言い方だった。境界線は、まだ、ある。でもその線の内側に半纏とこたつと、彼が増えただけの話だ。触れない距離も踏み込まない約束もちゃんと残したまま温度だけが共有されていく。
 みかんの皮の香りが、部屋にふわりと広がる。冬はきっと、まだ長い。けれどこの場所で、この距離で過ごす冬なら悪くないと思ってしまう自分がいた。


 *


 年が明け彼の成人式も無事に終わり、気づけば街の空気が少しずつ��バレンタイン�≠�、意識しはじめた頃だった。
 ホークス推薦のこたつと、なぜか当然のようにお揃いになった半纏が揃った結果ひとつの必然が生まれた。避けようのない帰結と言ってもいい。そう、冬の風物詩——��おでん�≠ナある。

「……この状況で、おでん以外あります?」

 赤い半纏の袖を、少し上にまくり上げながら、ホークスが、やけに真剣な顔で言う。

「鍋は年末にやったでしょ」
「でも、おでんは別枠です」
「別枠って、なに」
「文化です」

 意味はよくわからないけれど、語気だけは妙に確信に満ちていた。私は小さくため息をつきつつ私のマンションのキッチンに立つ彼の横顔を盗み見る。古風すぎるし、似合いすぎる。腹立たしいほどに、馴染んでいる……。

「なんでそんなに手際いいの」
「煮込み系、割と得意なんで」
「それ、プロヒーローのスキルツリーに必要?」
「生存力、大事です」

 冗談とも本気ともつかない調子で言いながら、彼は大根を迷いなく切り、鍋に具材を放り込んでいく。だしを注ぎ火を入れて、あとは待つだけ。その流れで二人揃ってこたつに潜り込むまでが、あまりにも自然だった。そこで「ちょっと」と、私が言う。

「はい?」
「完全に、居座る人のオーラ醸し出してる」
「失礼ですね。正当な共同作業の待機です」

 半纏の裾がこたつの中で重なり、足が触れる。どちらも避けない。ただしそれ以上もない。その微妙な距離を保ったまま彼はみかんを剥きながら言う。

「こたつ、やっぱ正解でしたね」
「ホークス基準で言わないで」
「半纏も」
「それは認めない」
「うひゃ〜、厳しいっすね!」

 鍋の縁から湯気が立ちのぼりはじめた頃合いで彼が腰を上げる。その瞬間、空気がわずかに揺れて、彼の香水の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。

「そろそろ、行きますか」

 その言い方が出動前みたいで思わず笑ってしまった。おでんは、こたつの上のカセットコンロに鎮座し、湯気とだしの匂いと、半纏と、こたつが一斉に主張してくる。情報量が、やたら多い。

「いただきまぁーす」
「どうぞ」
「じゃあ……大根から」
「一番最初にそれ行く?」
「信頼の証です」

 ふうふうと子どもみたいに息を吹きかけながら大根を口に運ぶ若きヒーロー。そして、ほんの、数秒後——。

「……熱っ!」
「だから言ったのに」
「いけると思ったんですよ」
「思考がヒーローすぎるね」

 今度は私が卵に手を伸ばすと、彼が「あ」と、即座に手を出して、さっと、それを止める。

「それ、最後の楽しみに取っておいたほうがいいです」
「なに、その鍋奉仕感」
「全体の幸福度の話ですって」

 結局ちくわ、はんぺん、こんにゃく、と順番に消えていく。こたつの中で足を動かすたび半纏がわずかにずれて、また触れる。

「……これ、完全にここで冬越す気だよね」
「え?」
「この装備の話」
「はい。長期戦の構えです」

 即答に近い返しだった。冗談めかした口調なのに妙に現実味がある。私は小さく息を吐き、鍋の中を覗き込んでから残っていた具材をひとつ静かに足す。拒否しようと思えば、まだ理由はいくつも並べられたはずなのに、いざそうしようとするとどれも、今の空気には馴染まなかった。
 気づけば、二人とも黙って箸を動かしていた。こたつの中で、半纏越しに伝わる体温は、一定で過不足がない。触れているのに主張しない温度。会話が途切れても間が気まずくならない。むしろ言葉がないほうが落ち着くくらいだった。湯気の向こうで、彼が大根を持ち上げるのを横目に見ながら、私は不意に、声を出す。

「あのさ」
「はい?」

 彼の視線が、静かにこちらを向く。その気配を正面から受け止めきれず私は反射的に視線を鍋のほうへ逃がした。おでんのだしが、こたつの上でかすかに揺れている。

「……チョコ、好き?」

 言葉が落ちた瞬間、しまった、と思う。あまりにも直球で、逃げ道のない問いだった。鍋でも、半纏でも、この空気はごまかせない。
 彼はすぐには答えなかった。箸を止め、大根をいったん皿に戻しほんのわずかな間を置く。その沈黙が、やけに丁寧だった。

「……甘いのは、割と」
「割と、って?」
「苦いのよりは、ですね」

 こちらの反応を確かめるような言い方だった。私は相変わらず鍋を見つめたままで、ぽつりと、続ける。

「……バレンタイン、近いじゃん」
「ですね」
「別に、深い意味じゃなくて」
「はい」

 その「はい」が、妙にやさしい音で胸に残る。それ以上、すぐに続く言葉はなかった。こたつの中で布団がわずかに擦れる気配も、いつの間にか止まっていて、部屋には、何も起きていない時間だけが流れていく。沈黙は重たくないのに簡単に破ってしまうのも惜しくて、私は視線を落としたまま、その間に身を預けていた。
 言わなくてもいいことだとわかっている。でも言わずにやり過ごすには今日は少しだけ気持ちが前に出すぎていた。私は一度、息を吸ってから、ようやく、口を開く。

「……世の中の、行事に、さ?」
「はい」
「ちゃんと、乗ってみる一年にしようかなって、思っただけ」
「……なるほど」

 彼は納得したように頷きほんの少しだけ口角を上げた。

「手作り、とかです?」
「……聞く?」
「聞きますよ」

 即答だった。探るような間も遠慮もない。そういうところが、やっぱり、彼らしい。

「……検討中」
「検討は、具体化の一歩手前ですね」
「やめて、その理論」
「じゃあ、市販?」
「……それも、検討中」
「ははっ。なるほど?」

 彼はこたつの縁に肘をつきそのままこめかみを預けるようにしてほんの少しだけ身を乗り出す。視線は私に向いているのに、圧はなく、逃げ道も残した距離だった。近すぎない。それでいて——遠くもない。半纏の袖がこたつ布団に触れてかすかに擦れる音がする。その些細な音までが今夜の会話の一部みたいに感じられた。

「楽しみにしてて、いいやつです?」
「期待されると、やめたくなる」
「じゃあ、期待しないように期待します」

 もう、意味がわからない。でも、彼らしいなと思ってしまうから完敗だ。鍋の中でこんにゃくが踊るように揺れ、湯気がゆっくりと立ちのぼる。半纏とこたつとおでんとまだ形にならない約束。どれも、今の距離感に、妙にちょうどよかった。

「……ちなみに」
「なに?」
「中にナッツ入ってるやつは、苦手です」
「言うと思った」
「え、どうして?」
「前から居酒屋で私がナッツ食べてるの、すごい顔で見てたから」
「え、どんな顔です?」
「……こーんな、顔」
「はは。かわいい」

 ……何それ。やめてよ。かわいいなんて言葉をそんな軽さで投げてくるのは反則だと思う。冗談みたいなやり取りなのに、なぜか、胸の奥がむず痒くて、視線の置き場に困る。私は、彼のほうを見ないまま、湯気の立つ鍋に意識を逃がした。

「なんで、ナッツ嫌いなの?」
「生存力の話です」
「だから、さっきから、その理屈なんなの」

 彼は笑ってまた箸を伸ばす。結局、理由までは教えてもらえなかった。冬は、まだ続く。でも、その先に置かれた二月のイベントの気配を、私は確かに意識してしまっていた。

「……あの」

 彼がほんの少しだけ声の調子を落とす。さっきまでの軽さを引き算するみたいに、こたつの中の空気が静かになる。その変化に、私は箸を止めて自然と耳を傾けていた。

「こういうの、いいですね」
「なにが」
「普通の夜」

 私は答えず、だしを一口飲む。身体の奥まで、静かに沁みていく。境界線は、今日もちゃんと、そこにある。でも、その線の内側で湯気を挟んでおでんをつつき、他愛ない話をしている。
 ホークス推薦のこたつ・半纏・おでんは、どうやら、信頼と日常をゆっくりと煮込む装置だったらしい。派手な出来事は何ひとつ起きなかった。それでもこの夜は、ちゃんと、特別だった。


 *


 ホークスがメディアに取り沙汰される回数が、明らかに増えた。以前から注目度は高かったはずなのに、二十歳を超えてからのホークスはどこか��場慣れしている大人�≠フような顔をするようになった。笑顔の角度、立ち位置、視線の配り方。カメラの向こうにいる不特定多数を意識しながらそれでも自分を失わない術を、静かに身につけていく。
 それでも私たちの関係は変わらなかった。仕事で交わす距離も、私的な距離も、互いの呼び方も線の引き方も。変わらないこと自体が少しだけ、不思議なくらいだった。
 その日は恒例の、会社関係の複数人での飲み会だった。顔見知りばかりの、気楽な席。笑って、食べて適度に騒いで、終電が近づく頃には自然と人数が減っていく。残ったのは、いつもの流れ。

「二次会、どうします?」

 誰かが言い出す前に私たちの答えはもう決まっている。飲み会の二次会には、あたり前に参加せず、私と彼は二人で二次会の会場に向かうのだ。そう、ホークスのセーフハウスである。
 コンビニで、適当にアルコールを買い足して、二人で肩を並べてエントランスをくぐり、エレベーターに乗る。扉が閉まった瞬間に肩の力が抜けるのが、お互いにわかる。

「今日、結構飲みましたよね」
「うん。でも、まだ大丈夫」
「それ、前にも聞いたやつです」
「えー? そうだっけ?」
「んで、俺ン部屋で潰れて、爆睡コース」
「飲み会コースのメニューみたいに言わないで」

 部屋に入って慣れたように靴を脱いでソファに沈む。テレビはつけない。テーブルの上に、缶を並べてだらだら時間を溶かす。途中でジェンガを引っ張り出すのも、今ではお決まりのコースだ。

「それ、絶対危ないって」
「いや、ここいけますし」
「無理無理」

 案の定、崩れる。木の音が床に散って、二人で声を上げて笑った。

「……はい、ホークスの負け」
「負けましたねー」
「ごちそうさまです」

 罰ゲームも決めないまま新しい缶を開け直す。夜はまだ長い。ふと、ジェンガを片づけながら、私は思いついたように、口を開いた。

「ねえ」
「はい」

 彼は、缶を口に運びながら、あまりにも自然に返事をした。その仕草が、作業の延長みたいで、少しだけ、可笑しい。

「ホークスはさ」

 言葉を探すために、ほんの短い間を置く。

「誰か、いい子、いないの?」

 思ったよりも軽く口をついて出た質問だった。探るつもりも揺さぶるつもりもない。ただ、これまで彼が何度も私に向けてきた話題を同じ温度で返してみただけ。彼はわずかに目を瞬かせ、それから缶をテーブルに置いた。金属が触れる乾いた音が小さく響く。

「……いい子、ですか」
「うん」
「どういう基準での」
「ちゃんと会話できるとか、無理しないとか」
「なるほど」

 彼は一度、天井を見上げる。考えるというより整理しているような視線だった。そうしてから、ゆっくりと、息を吐く。

「……今は、いないですね」
「そっか」
「はい」

 それで終わると思った。私もそこで話題を切り替えるつもりだった。けれど彼は、少しだけ間を置いて、言葉を足す。

「職業柄、出会い自体はあるんですけど」
「うん」
「ちゃんと向き合えるタイミングじゃないなって思うことのほうが多くて」

 言い訳でも、自己弁護でもない。ただの、現状報告。その淡々とした口調に彼がもう感情を振り回される側ではないことが、はっきりと、表れていた。

「……大人」

 私がそう言うと彼は少し困ったように笑った。その笑みは軽いけれど、逃げはない。

「そう、見えます?」
「見える見える。前よりずっと」
「それ、褒め言葉なら受け取りますけど」
「褒めてるよ」

 そう言いながら私はまた缶を持ち上げる。彼もそれに応じる。乾杯というほど仰々しくはない、小さな動き。それでも、同じ時間を共有していることだけは、確かだった。
 大人になる、というのは、何かを得ることだけじゃない。向き合えないと判断する力を持つことなのかもしれない。彼を見ながら私はそんな事を考えていた。

「まあ、でも。逃げとも言えますけど」
「自覚あるならいいんじゃない」

 私がそう返すと、彼は、小さく肩をすくめた。否定も肯定もせず、評価を求めない仕草。

「……名前さんは、どうなんですか」
「私?」
「最近、いい人。」
「ああ」

 私は缶を指先で軽く回し、肩をすくめる。

「まだ、どうなるかわからない」
「そ、すか」

 短く返して、彼はまた缶に口をつける。視線は合わない。でも聞いていないわけでもない。その距離が、今の彼らしさだった。
 沈黙が落ちる。気まずさはない。ただ同じ夜を共有しているだけの静けさ。エアコンの低い音と遠くの車の走行音が、会話の隙間を埋めていく。彼はしばらくして、ぽつりと言った。

「……焦っては、いません」
「……」
「今は」

 付け足すようなその一言に、私は自然と頷いていた。

「うん、それでいいと思う」

 セーフハウスの明かりは相変わらず柔らかい。壁際に落ちる影も、テーブルの上に反射する缶の鈍い光もどこか現実の輪郭を少しだけ曖昧にしてくれる。
 メディアに映る彼とここで缶を傾けている彼はたしかに同じ人間なのに、纏っている空気だけがわずかに違う。ヒーローとしての顔と、肩の力を抜いた一人の男としての顔。そのどちらも知っている立場になったことを私はこの場所に来るたび静かに実感する。変わらない関係のまま少しずつ変わっていく大人同士として私たちは、今日も、何でもない顔で同じテーブルを挟んでいた。
 少しだけ会話が途切れたあと、私は、缶をテーブルに置き、間を埋めるような、けれど埋めすぎない調子で、口を開く。何気ないふりをしているつもりでも、内側ではわずかに、呼吸のリズムが乱れているのを、自分だけが知っていた。

「じゃあさ」
「はい」
「好きなタイプは?」

 口にしてから胸の奥が少しだけざわつく。質問そのものは軽い。居酒屋でも打ち上げでも、よくある類の話題だ。それなのにこの場で、この人に向けて投げた途端、空気のどこかが、薄く、張りつめるのを感じてしまう。
 彼はすぐには答えない。缶の縁を親指でなぞりながら考えているというより言葉をどう並べるかを慎重に整えているような表情を浮かべている。その沈黙が妙に落ち着いていて、私は急かす気になれなかった。

「……難しい質問ですね」
「またそういう」
「いや、本当に」
「……」
「適当に答えるの、得意じゃなくて」

 そう言って彼は小さく息を吐いた。逃げない。でも、急がない。答えを即座に差し出すよりも、間そのものを引き受けるような態度。その様子を眺めながら私は思う。答えの内容以上にこうして考える時間を惜しまなくなったところにこそ彼が変わってきた証があるのだと。
 やがて彼は一度、わずかに苦笑してから、声の調子を落とした。

「昔はわかりやすいのが好きだったと思います」
「わかりやすい、って?」
「褒めてくれて、応援してくれて、俺がヒーローだって前提で、接してくれる人、とか」

 彼の立場を思えば、ごく自然な答えだ。期待に応え続けることを、当たり前のように求められてきた人の言葉。

「でも」

 一拍。ほんの短い沈黙が、テーブルの上に落ちる。

「今は、ちょっと違います」
「どう、違うの」
「俺がヒーローじゃない時間のほうを、ちゃんと見てくれる人」

 彼は視線を上げないまま、言葉を選んだ。缶を置く控えめな音が、静かな部屋に小さく響く。

「仕事の話をしなくても、無理に持ち上げなくても、同じテンポでいられる人、ですかね」
「……それ、だいぶ具体的じゃない?」
「そうです?」
「うん」

 私は目を伏せて小さく笑った。その笑いには、からかいと同時に、どこか、安心にも似た感情が混じっていた。

「ほんと、大人になったね」
「さっきから、そればっかり言われてます」
「だって事実だし」

 彼はようやくこちらを見る。照れも冗談も混じらない、落ち着いた視線だった。その視線を受け止めながら、私は自分の番が来たことを、静かに理解する。

「名前さんは?」
「私?」
「好きなタイプ」

 一瞬、言葉に詰まる。私は視線を落とし、缶の側面を伝う水滴を目で追う。冷たいはずのそれがなぜか妙に現実的で、考える時間をくれた。

「……昔はね」
「はい」
「優しくて頼れて、わかりやすく好きって言ってくれる人が、よかったかも」
「昔は、ですか」
「うん。今は——」

 少しだけ間を置いて、少しだけ考えてから私はそっと、言葉を置くように答える。

「ちゃんと話ができて、笑い合えて、距離を……大事にしてくれる人」
「距離」
「そう。踏み込みすぎない人?」

 その言葉に彼の口元がほんのわずかに動いた。その変化を見逃さない自分が少しだけ可笑しい。

「……それ、結構」
「なに」
「難易度、高いですね」
「でしょ」

 二人で、声を抑えて笑う。テーブルの端には、途中で投げ出されたままのジェンガの残骸。缶の数は増えているのに酔いは深くならない。代わりに、会話だけが静かに沈んでいく。

「まあ」

 すると彼が、まるで話を締めるように言った。

「……タイプなんて、あとから変わることもありますし」
「そうだね……」

 私は小さく頷く。お互いが言葉にした「好きなタイプ」に、具体的な誰かの名前は、まだ浮かばない。けれどこの夜の会話は互いがどんな大人になりつつあるのかを、確かに、映していた。


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