数日後。私は「お礼」と称して、彼を、飲みに誘った。理由は単純であの夜にきちんと区切りをつけたかったからだ。怖さが消えたこと。夜を、また普通に越えられるようになったこと。そして何も奪わず、何も踏み越えず、そばにいてくれたことへの感謝をできるだけ日常の延長で手渡したかった。
 選んだのは、以前にも、何度か来たことのある居酒屋だった。木目のカウンターに、少し低めの照明。仕事帰りの客たちの声が互いを邪魔しない距離で、溶け合っている。落ち着きすぎず、騒がしすぎない雰囲気。その中間にある空気が今夜にはちょうどよかった。

「今日は、大丈夫そうですね」

 隣でグラスを置きながら、彼が、不意に言う。

「え? なにが?」
「いえ。元気そう、って意味です」
「……うん。おかげさまで」

 短く返すと、彼はそれ以上掘り下げなかった。確認はするけれど、診断はしない。その距離感が今の私には、ありがたい。
 グラスを合わせる音は軽く会話は自然に転がり始める。仕事の話、最近目にしたニュース、期間限定の酒が思ったより飲みやすかったこと。彼はいつも通り軽くて、でも丁寧でこちらのペースを乱さない。私もまた、肩の力を抜いたまま笑い、突っ込み、言葉を拾う。あの夜のことは、話題にしなくても、ちゃんとそこに在った。
 料理が一段落して、グラスの中身が、半分ほど減ったころだった。私はしばらく胸の奥に置いたままにしていた考えを、箸の先でなぞるみたいに口にする。

「私、さ……? 空手とか、ボクシングとか」
「はい?」
「……習おうかなって、思って」

 彼の箸がほんのわずかに止まる。次の瞬間には何事もなかったように戻るけれど、その、小さな変化を、私は見逃さなかった。

「護身用ですか?」
「うん」

 それ以上は言わない。言い足さなくても彼には伝わっている。彼は一度グラスに視線を落とし、氷が触れ合う音を聞いてから、静かに頷いた。

「いいと思います」
「……そう?」
「健康的ですし。それに自分を守れるって感覚、結構、大事ですよ」

 評価でも、励ましでもない。ただ、事実を置くような言い方だった。

「自分を、信頼できるようになりますし」

 その一言で、胸の奥が、少しだけ落ち着いた。怖さを消すためじゃなく前へ進むための選択だとちゃんと肯定された気がしたからだ。
 そこで、この話題は一旦、終わった。彼はそれ以上踏み込まず、私も深掘りしなかった。会話はまた別の軽さへ戻っていく。越えない線を保ったまま、同じテーブルで酒を飲む。その当たり前が今夜は、なぜだか少しだけ尊く感じられた。
 やがて店を出て夜の空気に戻る。アルコールと料理の匂いが、外気に触れて、ゆっくり薄まっていく。帰り道は、自然と、並んで歩く形になっていた。歩調が揃い言葉がなくても不都合はない。靴底が、舗道に触れる音だけが、一定のリズムで続く。こういう沈黙を、私は嫌いじゃない。埋めようとしなくても成立する時間は、それだけで、信頼に近いからだ。しばらくして彼が前を向いたまま、口を開いた。

「……さっきの、話ですけど」
「うん?」

 夜風に言葉が溶けるまでの短い間。彼は視線を正面に向けたまま続ける。

「俺でよければ、稽古つけますよ」

 思ったよりもさらりとした言い方だった。踏み込むでも、誘うでもない。提案として、きちんとした形で差し出される声音。

「空手もボクシングも、専門じゃないですけど」
「……でも、強いでしょ」
「まあ……。こう見えて、パワー押しには、割と無力なんで」
「……」
「真正面から殴り合うより、動き続けられる体を作ってる感じですかね」

 冗談めかしてはいるけれど、逃げない。自分を過大にも過小にも見せない、その立ち位置が今の彼らしいなと思う。

「……いいよ、忙しいでしょ?」
「否定はしないですけど」
「ほら」
「でも」

 彼はほんの少しだけ歩幅を調整する。こちらに合わせるというより会話の速度に足並みを揃える感じで。

「二次会のときとか。お互い、時間できたら」
「……」
「そのときに、ちょっとずつ、ですけど」

 継続を、約束しない言い方。義務にもしない。だからこそ現実的だった。私は歩きながらほんの少しだけ考える。断る理由は見当たらなかった。気まずさも警戒もない。ただ受け取っていいものかを確かめるための、短い逡巡。

「じゃあ……お願い、してもいい?」
「ええ、はい。」

 返事は早かった。でも、軽くはない。受け取る覚悟が、すでに整っている声だった。
 並んで歩く夜の中で、その一言が、静かに次の時間を指し示す。大げさな約束はない。ただ越えない線を保ったまま、少しだけ並走する未来が、そこに置かれた気がした。

「——なら、交渉成立すね」
「うん」
「ただし、無理のない範囲で」
「はい」
「嫌だったら、いつでもやめていいですし」
「うん」
「場所も時間も、名前さんの都合優先で」

 言い切らない。押し付けない。その配慮がいかにも彼らしかった。守ることと、支えることを、同じ動作にしない人。前に立つときと、隣に並ぶときを、きちんと使い分ける人。
 駅の灯りが見えてきて、足が自然と緩む。人の流れが増え、夜の密度が少しだけ薄まる。

「じゃあ、また連絡するね」
「はい。楽しみにしてます」

 その「楽しみ」は期待を膨らませるための言葉じゃない。先の約束を縛るものでもない。ただ、予定として、事実として、静かに置かれただけの響き。
 改札の前で別れ、私は一人で歩き出す。背中に夜風を受けながら、考える。あの夜に助けられた延長としてではなく自分で立つための選択として彼の申し出を受け取れたこと。怖さの反動でも、依存でもない。自分の足で選んだ、次の一歩。
 越えない関係のまま言葉は少なく約束も軽い。それでも、信頼だけが、少しずつ、確かな重さを持って身体に落ちていく。急がない。崩さない。その積み重ねが、今の私たちにはちょうどいい。


 *


 その日は特別な予定のないいつもとおなじはずだった、という言い訳が、あとから残るような夜だった。
 洗い物を終えて乾ききらない手でスマホを触りながら、ソファに沈み込む。テレビはつけているけれど内容はほとんど頭に入ってこない。画面の向こうで誰かが喋って、笑って、次の場面へ切り替わっていく。その流れを、ただ受動的に眺めているだけの時間だった。
 こういう夜はだいたい何も起こらない。連絡が来るとしても業務連絡か、どうでもいい通知か、そのどちらかだ。だから、テーブルの上で画面が光った瞬間も、私は特に身構えなかった。その、名前が、表示されるまでは——。



ホークス

明後日
非番なんですけど





 唐突に届いた彼からのメッセージ。心臓が一度余計に脈を打つ。驚いた、というほどではない。ただ予期していなかった場所を軽く叩かれたような感覚。日常の表面が、ほんの少しだけ波打つ。



ホークス

明後日
非番なんですけど


ホークス

名前さんは?
お仕事?





 続く文面はいつも通りに丁寧で、軽い。だからこそ、その裏にある「非番」という単語が、妙に重く残る。私は、深読みをしないように、画面を見つめたまま呼吸を整えた。そして余計な感情を挟まないように、事実だけを返す。



名前

休み。
偶然にも





 画面に浮かんだ短い言葉をしばらく眺めてから呼吸をひとつ挟む。休みという事実と、偶然にもという付け足し。そのどちらにも、意味を持たせないようにわざと軽く返したふりをした。
 少しの間があって、続けて通知音が鳴る。その間が思っていたよりも長く感じられたことには、気づかないことにする。



ホークス

予定なかったら
します?稽古





 指が止まる。ほんの数秒。それだけの時間なのに胸の奥がわずかに騒ぎ、鼓動の間隔が不揃いになる。予定があるかどうかではなく今それを聞かれた、という事実だけが、静かに残った。



名前

福岡は?





 打って、送ってしまってから我ながら迂遠だと思う。稽古の話を避けて、距離の話にすり替えたのだと、自分でも分かっていた。



ホークス

福岡?


名前

戻ったりしないの?


ホークス

常に行き来してるんで
結構、帰ってる方ですよ





 短い往復。ただの情報だけが行き来する温度のない会話。その裏側で、心拍だけが妙に正直に、速さを主張してくる。私はそれを、見ないふりをして、指先を画面の上に戻し、言葉を落とす位置だけを探した。



名前

じゃあ
つけてもらおっかな


名前

ホークスの
極秘お稽古





 冗談めかした文面を選んだのは、真面目に返す勇気がなかったからだ。送信してから、スマートフォンを伏せる。画面が暗くなると同時に、胸のざわめきも一段、奥へと引っ込んでいく。完全に消えたわけではない。ただ、今は触れない位置に置かれただけだった。


 *


 その休日は、朝から静かだった。特別な準備をしたわけでもない。ただいつもより少しだけ早く身支度を整え、約束の時間より早めに家を出る。街の音も、電車の揺れも、休日特有の緩さをまとっている。
 指定された場所に着いて足を止める。目の前にあるのはずいぶんと見慣れた、高層マンション。彼のセーフハウスだ。もう、何度も来ているはずなのに来るたびに少しだけ背筋が伸びる。エントランスを潜り慣れた動作でインターホンを押すと間を置かずに声が返ってきた。

『おはようございまーす』
「おはよー」
『鍵、開けます』
「お願いします」

 機械的な応答。その、淡々としたやり取りが、かえって、安心を連れてくる。自動ドアが開き、エレベーターに乗り込む。静かな箱が、上昇するあいだ、私は、無意識に息を整えていた。
 降りた先、廊下の向こうに、つい先ほど「鍵、開けます」と言った張本人が立っている。今日は私服で、羽根も控えめ。仕事のときよりも色数が少ないぶん、表情の輪郭がくっきりして見えた。

「待ち伏せじゃん」
「あ、そういう言い方しますー?」
「ありがと。待ち構えててくれて」
「来るの、早かったですね」
「ちょっとね」

 軽口を交わしながら、玄関に入る。靴を脱いで一歩踏み込むと、相変わらず広い。家具は、必要最低限で、床の余白が、よく目に入る。生活感は確かにあるのに住みつくための温度が抑えられている。寝泊まりと、待機のために用意された空間だと、配置そのものが語っていた。

「飲み物、何にします?」
「水がいい」
「あら?」
「なに?」
「いや……お酒って、言われるかと」
「水!そんな、飲兵衛じゃないです」
「はは。了解でーす」

 そう言って、彼はキッチンへ向かった。軽い足取りで、でも動線に無駄がない。自分の居場所をきちんと把握している背中だ。私はその後ろ姿を目で追いながら、ソファの端に腰を落ち着ける。
 ここで、稽古をつけてもらう。守られる時間の延長ではない。あの夜の、続きでもない。自分の身体を自分で信じられるようになるための時間。そう、頭の中で何度も言い直す。言葉にしないとすぐに、揺らいでしまいそうだったから。
 小さく息を吸って、吐く。緊張はある。でも、不安とは少し違う。準備をしてきた人間の、あの独特の落ち着かなさ。するとペットボトルの軽い音がして彼が戻ってきた。ミネラルウォーターを手にしたまま差し出す前に、彼は私の正面で立ち止まった。そして遠慮も配慮もない視線で上から下まで、ゆっくりと私を眺める。

「……なに?」

 やや訝しげに問いかけると彼は一拍も置かずに言った。

「いや、すごいなって」
「すごいって?」
「なんていうか……気合い、入ってる感じで」

 完全にからかう口調だ。声の端が明るすぎる。口元は隠そうともせず、楽しそうに緩んでいる。
 この日のために——と言ったら、さすがに言い過ぎだけれど少なくとも、どうでもよくはない。新しく揃えたトレーニングウェアは動きやすさと見た目のバランスを何度も悩んで選んだものだ。我ながら、可愛いとも思っている。

「似合ってるでしょ?」
「まあ、着せられてる感は、満載ですけどね」
「似合ってるでしょー?」
「それ着たまま、電車乗ってきたんすよね?」
「もうっ! 似合ってるでしょ!?」

 思わず声が大きくなる。張り合うつもりなんてなかったのに、気づけば語尾に力が入っていた。彼はそれを面白がるみたいに、へらりと笑って、「ですね」と、それだけ言ってようやくミネラルウォーターを差し出してくる。私は、それを受け取りラベル越しに冷たさを感じながらもう一度、自分の装いを、視線でなぞった。動くための服。守られるためじゃなく、倒れないための服。胸の奥で、少しだけ、覚悟が整う音がした。

「……気に入ってるんだけどなぁ〜」
「似合ってないって、言ってないすよ?」
「形から入る主義なの、私は」
「いや、可愛いなーと思って」

 その一言で、思考が止まった。このひと、今、なんて言った? カワイイ——?
 反射的に聞き返すことも冗談として流すこともできないまま、私はその場で固まる。けれど当の本人は、こちらを、一切見ない。視線も寄越さず背を向けたまま、床にマットを広げる準備をしている。手際はいつも通りで動きに迷いがないぶんその言葉だけがやけに無防備に宙へ放り出されたみたいだった。
 初めてだ。ホークスからそんなふうに言われたのは。服装の話?雰囲気?それとも——今のやり取りそのもの?意味を測ろうとして、頭が忙しくなる。どこに落ち着けばいいのか基準が見つからない。私が何も言えずにいると彼はマットを整えながら背中越しに、まるで独り言の延長みたいな調子で続けた。

「そういうとこ、ほんと可愛いなって」

 追撃。しかも、訂正も照れもなく。胸の奥が、軽く跳ねる。動揺が遅れて身体に伝わってくる。私は視線を落として、ペットボトルを持つ指先に力を入れた。冷たい感触に縋るみたいにして。

「……別に、可愛くないけど」

 返した声は自分で思っていたよりも低かった。否定というより、逃げに近い。受け取る準備が、まだ整っていないから。彼はそれに反論しない。すると、マットの端を軽く叩いて位置を確認しながら——。

「そーいう、自覚ないとこ含めて、ね?」

 あっさりと言った。距離は、変わっていない。触れてもいない。それなのにさっきまでとは違う種類の緊張が部屋の空気に混じり始めているのを私は、はっきりと感じていた。

「じゃ、ここでやりましょ」

 彼がようやくこちらを振り返り床に敷き終えたマットを顎で示す。

「マット、敷いたんで」

 ——それは、さっきから全部見ていたけれど。そう心の中で突っ込みながら、私は改めて足元に視線を落とす。床の色に馴染む落ち着いた色合いのマットが、無駄のない位置取りでぴたりと収まっている。端も歪みがない。準備という行為に、余計な癖が出ないところが、いかにも、彼らしかった。

「……早いね」
「速すぎる男なんで、って言いたいとこやけど」
「……」
「慣れてるだけですよ?」

 さらりと返す声。誇るでもなく、軽んじるでもなく、ただ事実として置かれる。彼は、一度だけ私を見てから、思い出したように口を開いた。

「……あの、一応、聞いときますけど」
「なに?」
「着替え、します?」

 一瞬、言葉に詰まる。自分の格好を、頭の中でなぞる。新調したばかりのトレーニングウェア。動きやすさも体温のこもり方も問題ないはずだ。

「——っ、このままで、大丈夫ですけど?」
「了解です。動きやすければ、それで」

 揶揄っているくせに、即座に引く、その判断の速さ。私が出した答えをそのまま採用する。私が半眼でじっと見ると彼は気づいたように口の端を緩めた。

「なんです?その目」
「……なんでもない」
「ほんと、似合ってますって」
「……」
「あー、疑ってます?」
「うん、ちょっとだけ」

 そう言うと彼は「はは」と短く笑った。軽い。けれど、誤魔化すための笑いじゃない。
 彼は私から二歩ほど距離を取った位置に立ち、腰に手を当てる。近すぎず、遠すぎず。触れない距離。でも声はしっかり届く。稽古をするための距離というより人と人がきちんと向き合うための間合いだった。

「じゃあ、まずは——」
「はいっ」

 私は、マットの中央に足を置く。ここからは、守られる時間じゃない。教わる時間だ。そう意識した途端、背筋が自然と伸びるのを、自分でも、はっきりと感じていた。

「今日は、ほんとに初日なので」

 彼は、そう前置きしてから、私のほうを見た。声音は柔らかいけれど、どこか、線を引くような落ち着きがある。私が「うん」と頷くと彼は間を置かずに続ける。

「強くなるとか倒すとか、そういうのは、やりません」

 はっきりした否定。けれども、突き放す感じはない。期待を下げるというより目的を正確に定め直すための言葉だった。

「自分の距離を知るのが、今日の目的です」
「距離?」
「はい。近づかせない距離。近づかれたら離れる距離」

 淡々とした口調なのに、言葉のひとつひとつが現実的で身体感覚に直結している。理論ではなくヒーロー活動等で積み重ねてきた人の説明だと、すぐにわかる。彼は視線を床へ落とし私の足元を示した。

「まず、立ち方からいきましょう」
「……立ち方?」
「はい。逃げやすい立ち方です」

 そう言って彼は言葉より先に身体を動かした。体重の、かけ方。膝の、緩め方。つま先の向き。ほんの数センチ、ほんの数度の違い。それだけで全体の印象が変わる。派手さはない。だが無駄がない。

「真似してみてください」

 促されて、私は見よう見まねで足を置く。

「……こう?」
「いいですね」

 即座に返ってくる肯定。それだけで、少し肩の力が抜ける。

「もう少しだけ、重心、下げましょう」

 彼が近づく。距離は確かに縮まったのに、触れない。指先も腕も、私の身体には届かない。ただ視線と声だけで、軌道を修正してくる。

「……そう。今の位置なら、後ろにも横にもすぐ動けます」

 彼の声は、落ち着いていて急かさない。私は、自分の足裏にさっきよりもはっきりと床の感触を感じていた。守られるための距離じゃない。自分で逃げるための距離。それを、初日に教えようとする彼のやり方が、妙に胸に残った。

「今の感じ、覚えててくださいね」
「うん」

 頷いたものの、その「感じ」が何を指しているのか私はまだ完全には掴めていなかった。足裏に残る床の感触なのか重心の位置なのか、それとも彼の声の落ち着きなのか。

「——次、いきます」

 ホークスは、そう言ってから、一歩だけ距離を詰めた。踏み込みは浅く、測るような足運びで、そこで、ぴたりと止まる。

「じゃあ、腕、掴まれたときの外し方です」
「うん」
「触ります。いいですか」

 確認は簡潔で、逃げ道も含んだ聞き方だった。

「……うん」

 返事をしてからほんのわずかな間が置かれる。そのあとで彼の指が、私の手首にそっと触れた。力は驚くほど弱い。捕まえるというより、位置を示すためだけの接触。なのにその瞬間、私は急に現実へ引き戻された。たぶん、改めて触れられたからだろう。白いシンプルなVネックのTシャツ。そこから覗く、鎖骨の線。視界の端で揺れる影。微かに知っている彼の香水の匂い。距離。視線。手の温度。情報が、一気に流れ込んでくる。

「……力、入れなくていいですからね?」

 彼の声は変わらない。淡々として、仕事の延長みたいに、落ち着いている。その落差が、余計に意識を引き寄せる。顔にじわっと熱が集まるのがわかる。首筋まで妙にあたたかい。——やばい。そう思ったのに、口には出せなかった。彼の指はまだ、必要最低限の位置にあるだけなのに、私のほうが勝手に距離を詰めてしまっている気がして少し悔しかった。

「じゃあ、この状態から——」

 説明は続く。私は必死にさっき言われた「今の感じ」を思い出そうとした。重心。足。逃げ道。自分の身体に、意識を戻すために。

「このくらいで十分です。掴まれた想定」
「ほ……ほんとに、軽いね」
「はい。最初は、こんな感じで」

 彼の声は終始一定だった。感情を上乗せしない訓練のための声。そのまま、外し方をゆっくりと示してくれる。引っ張らない。力で、振りほどかない。ただ、角度だけを変える。

「ね? 力、要らないでしょ」
「……ほんとだぁ」

 言われた通りに動かすと、拍子抜けするほど、あっさりと手が離れた。掴まれていたはずの感覚が、音もなく消える。そして彼はすぐに一歩分、距離を戻す。触れていた時間よりも、離れるまでのその早さの方が、なぜだか強く印象に残った。必要以上に踏み込まない。その判断が、無意識の癖になっているのだろう。
 同じ動作を、何度か繰り返す。最初はぎこちなかった腕の動きが、少しずつ自分のものになっていく。呼吸もいつのまにか整っていた。汗をかくほどではない。けれど、身体の内側が、ちゃんと動いているとわかる感覚がある。怖さではなく、制御できているという実感。それが、思っていた以上に、心を軽くした。

「今日は、ここまででいいと思います」

 その彼の言葉は、区切りとして自然だった。

「え、もう……?」
「はい。初日は余裕が残るところで止めたほうがいいんで」

 無理をさせないための判断。強くするためじゃなく続けるための終わらせ方。彼はそばに置いてあったミネラルウォーターを差し出してくれる。受け取った瞬間、ペットボトル越しに彼の体温がわずかに残っているのが伝わった。

「……どうです?」
「うん……思ってたより、難しくなかった」
「それ、いい感想です」

 褒めるでも、評価するでもない。彼はただその言葉を受け止めるように、静かに返した。成果を急がせない、優しげな声音で。

「じゃあ、次回も、同じ感じで」
「同じ、感じ?」
「同じようなペースって意味です」
「うん」
「嫌だったら、いつでも言ってくださいね」

 確認は短く逃げ道は、きちんと残す。その言い方に、押しつけの気配はない。私は頷き、足元のマットを見下ろしてから、もう一度、彼を見る。広い部屋の中央。互いに向き合いながら、距離は保たれたまま。近すぎず、遠すぎず、声が自然に届く位置。
 今日、教わったのは技そのものではなかった。境界線の引き方。近づかれたときの逃げ道の作り方。そして、自分の身体を自分の判断で動かすという感覚。越えない。けれど独りにもならない。彼は踏み込みすぎず、私は突き放されもしない。一緒に考え必要な分だけ関わる。そのバランスがこの部屋には言葉にされないまま息づいていた。
 一緒に床へ腰を下ろし、水を飲み終えてペットボトルを置いた、そのタイミングだった。彼が、ふっと表情を切り替える。ほんの一瞬で、さっきまでの指導者の顔からいつもの軽さへ戻る。その切り替えの速さが、やはり、彼らしいと思う。

「もうすぐ、お昼ですねー」
「あ、ほんとだ。もうそんな時間か」
「じゃ、何か食べに行きましょうか」

 明るい声だった。迷いがない。区切りをつけるための提案。外へ出て空気を変えて、今日という時間を一度きれいに畳むためのごく健全な流れ。
 私は、ほんの短い間、言葉を選ぶ。本当はこのまま二人で何もせず、少しだけ静かに過ごしたかった。身体に残る稽古の感覚が消えてしまう前に外の世界へ戻りたくなかったのだと思う。けれどその気持ちを正面から出すほど、私は正直でも、無防備でもない。

「あのさ?」
「はい?」
「……ウーバーとかで、注文しない?」

 あくまで思いついただけ、という調子で。深い理由は、これっぽっちもないふりをして。

「ほら、こんな格好だし。」

 理由はもっともらしいと自分でも思う。彼は、少し考えるように首を傾けてから、軽く笑った。

「その格好で電車乗ってきた人のセリフです?」
「……っ、」
「うそうそ。それ、いいですね」
「いい?」
「はい。移動もしなくて済みますし」

 賛成の仕方もあっさりしている。留まることを特別な選択にしない。その態度に、私は内心で、小さく息を吐いた。肩の力が、ほんのわずか抜ける。自然な流れで一緒に床からソファへ移動し、彼のスマホを、二人で覗き込む。画面をこちらに向ける角度も、距離を詰めすぎない位置取りも、無意識のようでいて、きちんと整えられている。

「何がいいです?」
「んー、……軽めがいいかな」
「了解です。胃、疲れてない感じで」
「そうそう」

 やり取りは短く、テンポも良い。決まった店、決まった注文。指先が画面を滑るのを横目で追いながら、私はふと、部屋を見回した。
 午前中の光がさっきより少し傾いて、床に柔らかく落ちている。稽古の時間とこれからの昼食。その境目にあるこの何でもない静けさが、思いのほか、心地よかった。

「……ここ、ほんと静かだよね」

 窓の向こうを見ながら、思ったことをそのまま口にすると、彼は、少しだけ間を置いて頷いた。

「ですね。まあ……結構、高いですし」
「やっぱり、階数が高いと違うんだ」
「音、上がってこないですからね。代わりに地震きたら、逃げるのは大変ですけど」
「はは、現実的」

 そう言って笑うと、彼は小さく肩をすくめた。

「オフの日って、いつもこんな感じなの?」
「まあ……任務ない日とかは、だいたい」
「家で?」
「基本、寝てます」
「即答だ」
「寝溜めしとかんと、あとで響くんで」

 空になったペットボトルを手に彼はキッチンへ向かう。戻ってくるとさっきとほとんど同じ位置に腰を下ろし背もたれに軽く体を預けた。距離は変わらない。けれど同じ部屋で、同じ時間を共有しているという実感だけが、ゆっくりと積もっていく。

「稽古、疲れました?」
「ううん。むしろ、すっきりした」
「それなら、よかった」

 声は穏やかで、余計な温度はない。ただ、確認するための言葉。それが、かえって心に残る。
 それからインターホンが鳴るまでの時間、言葉は少なく沈黙が続く。それでも、居心地の悪さはなかった。互いにスマホを眺めたり視線を外したまま、それぞれの、呼吸で過ごす。話さなくてもここにいていいと、許されているような空気。
 ややあって、インターホンが鳴った。彼が立ち上がり、慣れた手つきで受け取りに行く。戻ってくる足音は軽く、袋の擦れる音が部屋に落ちる。テーブルに並べられた容器の蓋を外すと、湯気と一緒に、昼の匂いが広がった。配置は、さっきと同じ。床に座って向かい合うでもなく、寄り過ぎない距離。

「……なんか、合宿みたいじゃないです?」
「ああ、一日目で終わるやつね?」
「それ、だいたい楽なやつですね」

 小さく笑い合って箸を取り一緒のタイミングで「いただきます」を言う。運動の後に食べる昼は思っていたよりも美味しかった。舌に残る味そのものより音の少ない時間がそう感じさせているのだと思う。噛む音さえ、今日は穏やかだ。

「顔バレとか身バレとか、気にしてないの?」
「え? ぜんぜん」
「さすが、トップヒーロー」
「関係ないですよ。気にするのに疲れただけで」

 肩をすくめるその言い方が、妙に正直で、私はそれ以上を聞かなかった。本当は、言わなかったことがある。でも、それは胸の奥にそっと置いておく。今日は、言葉を増やさないほうがいい。

「ふうん」

 それだけ返して、また箸を動かす。彼も、深掘りしない。外へ出なかった選択、それ自体がもう答えだった。越えない距離のまま、同じ場所に、同じ時間を置く。話しすぎない。触れすぎない。けれど独りでもない。それが、今の私たちに許された、いちばん贅沢な昼だった。
 食べ終えた容器をまとめて片づけると、部屋はまた、もとの静けさへ戻った。さっきまで漂っていた食事の気配が薄れ、窓から差し込む光だけが床の上にやわらかく広がっている。正午を過ぎた光特有の、角の取れた明るさ。時計を確かめなくても、午後に足を踏み入れたことがわかる。
 彼はソファに背を預け、羽根を邪魔にならない位置へと整える。無意識の所作なのに、そこにはいつも、場を乱さないための配慮が滲んでいる。私は少し距離を取った位置に腰を下ろし、さっきコーヒーを淹れてもらったマグカップを、両手で包んだ。中身はもうぬるくなっている。でも今はその温度が、妙に心地いい。

「……疲れ、出てきちゃいました?」

 彼は前を向いたまま穏やかな声でそう聞いた。探るでもなく、急かすでもない。

「ううん。むしろ、変な緊張が抜けた感じ」
「それなら、うまくいってますね」

 成功、とは言わない。その代わり手応えを確認するような言い方。評価ではなく共有だとわかる響きだった。
 それきり、言葉は途切れる。でも、その沈黙は落ち着いていた。部屋の広さがちょうどいい余白をつくり、二人の間に無理な近さも遠慮も生まれない。外の音は高層に遮られ、ここだけが時間の流れから少し切り離されたみたいだった。私は、マグカップに口をつけ、彼は天井を見上げたまま静かに呼吸している。何も起きていない。けれど何も足さなくていい時間が確かにここにあった。

「……ねえ」

 私が声を出すと、彼は顔をこちらに向かずとも間を置かずに応じた。

「はい」

 名前を呼ばなくても、たとえこちらを向かなくても、返事はきちんと返ってくる。その距離感が今の空気に合っていた。

「最初、正直……ちょっと、不安だった」

 言葉にした瞬間、胸の奥で、遅れて何かがほどける。

「……不安、ですか?」
「うん。でもね、思ってたのと、全然違った」

 どう違ったのか、自分でも整理しながら話しているのがわかる。彼は口を挟まない。相槌も促す言葉もない。ただ、聞くための姿勢だけを静かに保っている。その沈黙が、続きを呼ぶ。

「守られてる感じじゃなくて」
「……」
「自分で立てる場所を、教えてもらった、感じがして」

 言い終えたところで、ようやく彼が、こちらを見る。驚いた様子はない。むしろ確認が取れたという顔だった。

「それ、まさに目指してたやつです」
「やっぱり?」
「はい」

 短く頷いてから、少しだけ言葉を足す。

「俺がいる前提だと、意味ないですから」

 その言い方には誇示も謙遜もなかった。ただ、そう在りたいと思って、選んできた線の話をしているだけ。ヒーローとしてではなく一人の人間としての、距離の引き方。私はカップをテーブルに置き視線を床へ落とす。マットの端、光の境目、影の濃淡。どうでもいいものばかりなのに、今はそれらが、気持ちを落ち着かせてくれる。

「……強く、なりたい」

 小さな声でそう言うと、彼はすぐには返さなかった。しかし数秒の沈黙のあと、いつもの調子に近い声で答える。

「なれますよ。名前さんなら」

 それ以上は言わない。でも、その一言で、十分だった。越えない線を引いたまま、相手を一人にしない。そのバランスがこの部屋の静けさと同じ温度で、確かにここにあったから。

「……あの夜さ」

 声に出した瞬間、思っていたよりも静かな音になった。彼は「はい」とすぐに応じる。躊躇いのない返事。その早さに胸の奥がわずかに揺れる。呼吸が一拍ぶん、遅れて追いつく。

「助けてくれたでしょ」
「仕事なんで」
「わかってる。でも……」

 続くはずだった言葉が喉の手前で止まる。彼は急かさない。こちらを見もしない。ただ、待つという選択を、迷いなく取っている。

「……それだけじゃ、なかった?」

 小さくても、かすれた声でも、届いたのだと、わかる。彼は短く息を吐き、空気を整えてから、静かに言った。

「俺、あのとき」
「……」
「相手を追わなかったの、わざとです」

 予感はあった。けれど、聞くことと知っていることは、同じじゃない。

「あなたを、一人にしたくなかった」
「……」
「それだけです」

 理由は装飾されない。言い訳も英雄譚もない。私は、言葉を探すのをやめて、ただ頷いた。喉の奥で何かが静かに沈む。沈黙が落ちる。けれど、その沈黙は、さっきよりも少しだけ距離が近い。音がないぶん、気配がはっきりする。

「……今日、来てくれてよかったです」

 彼が、ぽつりと落とす。独り言みたいで、でも確かに、こちらへ向けられた声。

「うん」
「無理してない顔、してたんで」

 その観察力と言い方に、思わず口元が緩んで、少しだけ、笑ってしまう。

「無理は、してないよ」
「それなら、いいです」

 確認だけして、彼は視線を背もたれへと戻す。踏み込まない。引き留めない。線を、越えない。その一貫した姿勢が、今はとても、頼もしい。

「……次、いつにする?」

 やや前のめりで私がそう聞くと彼は少し考えるように指先を動かしてから言った。

「お互い、無理のない日で」

 いつもの調子だ。即断しない。その控えめさが軽率さと無縁であることをちゃんと伝えてくる。
 午後の光が、ゆっくりと部屋を横切っていく。影が伸び、また形を変える。私たちは同じ空間で同じ時間を使っているだけなのに、それがやけに大切なことのように感じられた。越えない距離のまま言葉を急がず答えを急がず、ただ同じ午後を共有する。その静けさこそが、今日いちばんの、極秘稽古だったのかもしれない。


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