三月に入ったばかりの空気は、まだどこか頼りなく春霞が街の輪郭を少しだけ曖昧にしていた。昼間は確かに光が柔らいでいるのに夕方になると花冷えの気配が忍び寄ってきてコートを脱ぐ決心はつかないまま、季節だけが先へ進んでいく。
彼岸も近いのだろう、道端の沈丁花が気づけば甘い匂いを忍ばせていて、春がもう引き返さないところまで来ていることを静かに知らせていた。
そんな頃合いに彼は今日も何事もなかった顔で現れた。端末を水没させて持ってくる——という一点において相変わらずだなと胸の内でため息のようなものが無意識のうちに落ちる。
「お疲れさまで〜す!」
「……お疲れさまです」
濡れたままの端末を差し出しながらホークスは春先の風みたいに軽い仕草で肩をすくめた。悪びれるでもなく弁解を挟むでもない。ただ、いつも通りであることだけを、当然のように携えて。
「いやぁ〜、やっちゃいましたねぇ〜」
「やっちゃいましたねぇ〜、じゃないでしょ」
「ですよねー!……あ、対応、お願いしまーす」
私は慣れた手つきで対応を済ませ、いつも通り代替機を手渡す。ここまでは、何も変わらない。彼も私も、特別なことは何ひとつ言わない。言わないまま、ちゃんと、日常の形を保っている。
「いやいや、ほんと。うっかりうっかり」
受け取った代替機を軽く振って、彼はいつものように「すんませんでした」と、礼を言う。その仕草があまりにもいつも通りすぎて、一周回って私は逆になぜか、ほっとしてしまう。
「今度は、水没させないでくださいね」
「んー......努力目標、ってことで!」
「……目標、低すぎるんですけど?」
「いや、春はですねぇ、油断すると色んなものが落ちる季節なんで」
正直、何を言っているのかはよく分からない。論理として整っているわけでもないし、説得力があるわけでもない。ただ妙に彼らしいとは思う。そう思ってしまう自分に少しだけ困ったりする。私は端末を回収ボックスに滑り込ませながら意識していないはずの口元がわずかに緩んでいるのに気がついた。仕事の手つきのままなのに心だけが先に、警戒を解いてしまっている。
——ああ、だめだ。こういうところで私はもうこのヒーローに、負け始めているのだと思った。
「じゃあ次は、桜が散る前くらいに?」
「もー。そんな縁起でもない言い方やめてもらえますー?」
「水没フラグじゃなくて、来店目安です」
「ははっ! 気をつけまぁーす」
軽く肩を竦めるその動きに羽の気配が混じる。ほんの一瞬、視線が合って、すぐに外れる。それだけのことなのに、間に置かれた空気が微妙に、揺れた気がした。
「花冷えですし、帰り道、気をつけてください」
「花冷え?」
ホークスは一瞬きょとんとした顔で瞬きをしてそれから少しだけ首を傾げた。その仕草が、空を飛ぶヒーローというより、初めての単語を聞いた普通のただの青年みたいで私は思わず目を細めてしまう。
「……もう春なのに、急に寒くなること」
「へえ」
「安心しかけたところに、まだ終わってなかったって、言われるみたいでさ……」
「……」
「ちょっと、意地悪な寒さ」
「ああ……なるほど」
彼は、小さく息を吐くみたいに理解してから、言葉を返した。
「名前さんも。無理しないで」
それだけ言って彼は軽く手を挙げる。それ以上でも、それ以下でもない。今日も境界線のこちら側で過不足のない言葉だけが行き交い、きれいに話は閉じられる。——そう、思った。
「ほんと、助かりました」
彼はもう一度だけそう言って踵を返しかける。その背中が、視界から抜けていく直前——ほんの呼吸ひとつ分の刹那だった。
「あ、来週の話なんすけど」
あまりに自然で、あまりに無造作な切り出し方だった。今の流れの延長線に、そんな言葉が用意されているとは思っていなくて私は一瞬、思考が置いていかれたまま反射的に聞き返してしまう。
「……来週?」
彼は、立ち止まる。振り返りはしない。ただ、考えるときの癖みたいに、ほんの少しだけ、首を傾けた気配が伝わってくる。
「土曜日」
「ど、ようび……?」
「空けてください」
「え」
「もう、店も決めてます」
相談でも確認でもない。「空けておいてもらえますか」でもなく、「もしよければ」でもない。確かに彼は「空けてください」と言った。けれどその声音には命令めいた硬さはなく、また、押しつけがましさもない。断ろうと思えば断れるはずだ。忙しいとか、都合が悪いとか、理由はいくらでも作れる。それなのに、不思議なことに、そのための��言い訳�≠セけが最初から綺麗に取り払われている。選択肢は残されているふりをして主導権はすでに彼の手の中。それが、このヒーローのいつものやり方だった。
「嫌なら、言ってもらっていいです」
「その、場合は……?」
「諦めます」
そう言いながら彼は、ほんの少しだけこちらを振り返った。正面から確認するほど露骨ではないけれど視線の端で私の反応を探るような、そんな仕草。けれども、その横顔に浮かんでいるのは、どこか落ち着いた確信で——まるで、もう答えが決まっている事を知っているみたいな『諦めない前提』の表情。私は返事をしないままほんの数秒だけ間を置く。考えるふりをして、実際にはもう胸の中で、答えは決まっているのに。
「……空いてる、けど」
私が言い終わる前から彼は小さく息を吐いた。
「よかった」
——と。喜びも、勝ち誇りも見せず、駆け引きをするでもない。ただ、予定がひとつ静かに確定した事を受け取るような声音。その、淡々とした反応がかえって、彼の本気を滲ませていて、私はなぜだか目を逸らしたくなった。
「じゃあ、詳細は後で送りますね」
「……うん」
彼はそれだけ言って、今度こそ帰っていった。その背中を見送りながら私は胸の奥に残る違和感をうまく言葉にできずにいた。これは誘われたというより、もう、組み込まれていた予定を教えられただけに近い気がする。
彼がいなくなったあとも私は、妙に落ち着かなかった。楽しみという言葉にするには大袈裟すぎるし、かと言って、不安と呼ぶほどの棘もない。ただ彼が「決めていた」という事実だけが、繰り返し思い出される。
私の予定を聞く前に。気持ちを確かめる前に。それなのに乱暴さはない。押しつけられた感じもしない。たぶんあのヒーローは逃げ道を用意することで自分が一歩前に出ていることを隠すタイプなのだ。そのやり方が、ずるいだけ。
*
土曜日——今日は、ホワイトデーだ。
店は落ち着いた雰囲気で、彼の選びそうな場所だった。照明はやや低く、木の色が多い内装で、騒がしさはちゃんと外に置いてきている。料理もお酒も気取らないのに、手を抜いていない。彼がメニューを選ぶとき必要以上に迷わないところもらしいと思った。
「重くないほうがいいですよねー?」
「うん」
「このへん、外れないです」
差し出された小皿をつつきながら、私は頷く。味は予想通りだった。派手さはないけれど、ちゃんと美味しい。彼は、自分のグラスに口をつける前に私の減り具合を一度だけ確認してから、同じペースで飲む。その癖も、もう説明はいらない。
「ねぇ?」
グラスの縁を指でなぞりながら、彼がふと思い出したように声を上げる。酔いのせいかそれとも夜の空気のせいか、その呼びかけは、いつもより少しだけ、柔らかく聞こえた。
「最近、花の匂いしません?」
そう言って彼はグラスを傾けたまま、何気ない仕草で窓の外へと視線を流す。閉め切った室内にいるはずなのに外気の存在を探るみたいな目つきだった。
「あー。沈丁花かな」
私が答えると、彼はわずかに眉を動かす。
「……ジンチョウゲ?」
聞き慣れない音を、舌の上で確かめるみたいにゆっくりと復唱する。その慎重さが、彼らしくて少し、可笑しい。
「この時期になると、たまにふっと香るやつね」
「……」
「気づく人と、気づかない人がいるけど」
「へえ」
短い相槌。けれど興味は失っていないらしく、彼は少しだけ間を置いてから意識するように息を吸い込んだ。空気を、胸いっぱいに取り込むその仕草が子どもみたいで、でも妙に真剣で私は思わずその横顔を凝視してしまう。
花の姿は見えない。ただ名前だけが共有されてその匂いだけが、確かにこの夜のどこかに混じり込んでいる気がした。
「ああ……それだ」
ホークスは、納得したみたいに視線を戻して、今度は何事もなかった顔でグラスに口をつける。そのまま、会話は続く。仕事の話もするけれど、愚痴にはならない程度で終わる。ニュースの話もどこかで、切り上げる。深くなりすぎない。踏み込みすぎない。まるで最初から、そう決めているみたいに。
笑うところではちゃんと笑う。沈黙が落ちても無理に拾わない。グラスの底が見えるころには、時間の流れが少しだけ、緩んでいるのがわかる。彼は特別なことを言わない。私も何も聞かない。それでもテーブルの上に並ぶ皿の数や、グラスの位置や時々重なる視線がちゃんと『二人で飲んでいる夜』を、形にしていた。
会計を済ませ、暖簾をくぐって店の外へ出る。扉が閉まると同時に、さっきまでまとわりついていた賑やかな声や料理の匂いが嘘みたいに背後へ押しやられた。夜気が一気に肌へ触れて火照っていた頬が、ゆっくり冷えていく。歩道に出ると、店内の灯りがガラス越しににじんで見え、さっきまでの時間が一段、低い場所に置き去りにされたような気がした。
並んで歩き出して数歩。靴音だけが規則正しく続くその途中で、彼がふっと歩みを緩める。私はその変化に半拍遅れて気づき、足を止めた。振り返るでもなく、ただ、その場に立ち止まった彼の背中が、夜の空気のなかで少しだけ、強調されて見える。
「名前さん」
「ん?」
「はい」
差し出された小さな箱は、思っていたより軽かった。リボンも派手な装飾もなく、どこか簡素でそれなのに手に取った瞬間、理由もなく、背筋が伸びる。ホークスはそれを私の手のひらに乗せてから、少しだけ言い淀む。
「消え物にしようか、正直、迷ったんですけど」
そう言った瞬間、彼の視線が、ほんの一度だけ外れた。こちらを見ないその短さに、考えていた時間の長さや言葉にするまでに辿った逡巡が滲んでいる気がして、私は何も言わずに続きを待つ。
「半々、くらいのとこにしました」
「半々?」
聞き返すと、彼は小さく頷いた。その仕草は、説明を用意してきた人のそれだ。
「ほら最近……形に残るものばっか、もらってたじゃないすか」
「かたち……」
「……お守りとか、ハンドクリーム?とか」
「あ、ああ……うん。」
「……ちゃんと意味があって、ちゃんと、大事にするやつ」
そこまで言ってから、彼は一度言葉を止める。急に慎重になるのではなく考え直すように呼吸をひとつ挟む感じで。
「でも……完全に残るものだと」
「……」
「俺のほうが、気にしそうだったんで……」
自分の内側をそのまま差し出すみたいな言い方だった。照れも言い訳もないぶん、妙に正直で、私は思わず、口元が緩みそうになるのを堪える。
「これなら」
彼は話題を前に進めるように、静かに続けた。
「使ってもいいし、使わなくてもいいし」
「……」
「なくなっても別に、責められる感じじゃない」
「……」
「だから、ちょうどいいかなって」
そう言われて、私は受け取った箱を、一度だけ見下ろしてから、顔を上げた。
「……開けていい?」
「どうぞ」
即座の返事。でも急かす感じはなくて、ただ、待つだけという距離感だった。指先でそっと蓋を持ち上げる。中には、練り香水がひとつ、静かに収まっている。柔らかい色味の容器。近づけるとほのかに清潔で落ち着いた香りが立ちのぼった。甘さは控えめで、それでも冷たすぎない。まるで春先の夜みたいな匂いだ、と思った。
「え……いい、匂い」
「よかった」
返事はすぐに返ってきた。でも得意げでもなく押しつけがましさもない。ただ、安心したようなやさしい音。
「使い道は、名前さんの、自由でいいです」
「……」
「毎日じゃなくてもいいし」
「……」
「外に出るときじゃなくてもいい」
そう言ってから、彼は少しだけ声を落とした。さっきまでよりほんの少し距離を詰めるみたいにして。
「……思い出したくなったとき、で」
それ以上は何も足さない。その沈黙ごと含めてこれが、彼なりの��お返し�≠ネのだと私は遅れて理解する。
「ちなみに、俺は……」
「……」
「毎日使うもののほうが、好きなんで」
それは、主張でも要求でもなく、ただの好みの申告みたいな響きだった。なのに、その一言で、この贈り物が急に、重さを持つ。
私のテリトリーに、静かに置かれるもの。彼がいなくても、ふとした瞬間に、思い出してしまう装置。
「……ずるいね」
「え? 何がです?」
「こういう、選び方」
そう言うと、彼は、一瞬だけ目を伏せてから、いつものように、肩をすくめた。誤魔化すための仕草というより照れと自覚のあいだをうまくやり過ごすための小さな逃げ道みたいな動きだった。わざと軽く振る舞っているのが、かえって、よくわかる。
「期待は、してないですよ」
「え……?」
私の間の抜けた声にホークスは少しだけ口元を緩める。
「ほんと。使わなくてもいいし」
「……」
「思い出してくれたら、ラッキーくらいで」
そう言い切る声は穏やかで、引き留める響きがない。それがいちばん、心に残る言い方だった。でも、その��ラッキー�≠ェ、どれだけ本気かを、私はもう、知っている。
触れない。縛らない。でも、ちゃんと、残る。対等でいようとするふりをして、主導権だけは、手放さない。それが、今のヒーロー・ホークスの攻め方なのかもしれない。私は、練り香水の蓋を閉めて、そっと箱に戻す。
「……ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
そう言って彼はようやくほんの少しだけ笑った。その笑みは達成感でも安心でもなくただ渡すべきものを渡し終えた人の、静かな表情だった。
この香りがいつ、どんな場面で使われるのかはまだ、私にもわからない。それでも彼は迷いなく��置いていった�≠フだ。私の生活の、誰にも気づかれない隙間に、そっと、入り込むように。
ホワイトデーは、もらったものを返して帳尻を合わせる日じゃない。そんな言葉を直接言われたわけでもないのに胸の奥でそう理解してしまってじんわりとした温度が広がっていく。これは交換じゃないし、取引でもない。ただ、一方的に差し出された、彼の意思だった。
「……これで、ちゃんと、フェアだね」
冗談めかして言ったつもりだった。けれど彼はその言葉を受け取らず一瞬だけ目を見開かせる。そしてすぐに、穏やかな声で言った。
「フェア、じゃないです」
「……え?」
「俺が、渡したかっただけなんで」
「……」
「あなたに、渡す理由があったから」
淡々としている。説明もしないし、誤魔化しもしない。余白を与えるようでいて、逃げ道だけはきれいに塞いでくる言い方だ。
「見返りも、期待も、ないです」
「……」
「だから」
彼は、ほんの短い間を置いてから——
「受け取ってもらえたら、それで。」
その一言で、私はようやく気づく。この人は、対等でいようとしていないのだ。優位に立ちたいわけでも、貸しを作りたいわけでもない。上にも下にも立たずただ自分の意志だけを、選択だけをまっすぐ差し出してきている。駆け引きも保険もない。その潔さが、かえって重たい。
拒めない。というより拒むための理由を、最初から与えられていなかった。私は箱を抱えたまましばらく何も言えずに立ち尽くし胸の奥に残ったその静かな熱だけを、確かめていた。
「……わかった」
そう答えるしかなかった自分に少しだけ笑ってしまう。触れられていない。でも距離はもう前と同じじゃない。その変化を、指でなぞるみたいに意識してしまって、私は無意味に箱の角を親指で押した。
それから二人で、しばらく並んで歩いた。夜の街はさっきまでいた店の余熱を少しずつ手放していて、アスファルトの冷たさが靴底からじわじわ伝わってくる。会話は途切れがちで、無理に繋ぐほどでもない沈黙が歩幅に合わせて続いていく。
駅が近づくにつれて人の流れが増える。改札の灯りが視界に入ったところで、ホークスが自然に歩みを緩めた。まるで、ここが終点だと最初から知っていたみたいに。
「じゃ」
彼は立ち止まって、いつもの調子に戻った声で言う。
「電車降りたあとも、寒いと思うんで」
「花冷えだもんね」
「です。油断すると、普通に風邪ひきますよ」
途端に現実的な忠告だ。さっきまでの空気を、あえて引きずらないようにしているのがわかる。その不器用な切り替えが、いかにも彼らしくて、少しだけ、可笑しい。
「ヒーローの、アドバイス?」
「いえ、一般人の経験談です」
「それ、信用していいやつ?」
「そこはまあ……七割くらいで」
私はくすっと笑う。彼も、ようやく、肩の力を抜いたように、短く息を吐いた。
「また、スマホ壊したら行きますね」
「縁起でもないこと言わないで」
「言っとかないと、フラグ立つんで」
「もう……。立てなくていいから」
改札前の少し広くなった通路でそんなやり取りをしながら立ち止まる。彼はいつも通り、私との距離を、ほんの半歩ぶん空けた。何度も見てきた仕草。変わらない動き。なのに、さっき渡されたものの存在だけが、確実に今日を��特別�≠ノしている。
ホームから、電車が近づく低い音が、伝わってくる。アナウンスが重なり人の流れが一段と速くなる中で彼は、もう一歩だけ後ろに下がり、行く方向を示すみたいに体を向けた。
「じゃあ、あんま無茶しないでくださいね」
「それ、そっくりそのまま返す」
「……ですね。気をつけます」
それだけ。名前も余計な言葉もない。彼は改札を抜けてから一度だけ振り返り軽く手を挙げる。そのまま人波に紛れて、ホームの方へ消えていった。改札のこちら側に残ったまま、私はしばらく動けずにいた。電車のドアが閉まる音と、発車の合図。人の流れが戻りさっきまで彼が立っていた場所だけが、取り残されたみたいに静かになる。
バッグの中に手を入れて指先で小さな箱の角を探る。紙の感触に触れた瞬間、さっきまでの会話が、遅れて現実になる。私はそのまま、改札脇の壁に背を預けて、箱をそっと取り出した。開けるわけでもなく、ただ、掌に乗せるだけ。それだけなのに、胸の奥がわずかに熱を持つ。まだ使っていないはずの香りが空気に混じってすでにここにあるような気がして、私は無意識に息を吸った。
触れられていない。でも、確かに何かは置いていかれた。
それが何なのかを言葉にするには、まだ早い。ただ、次に彼と会うとき私はきっと、この場所とこの箱の重みと、この夜の匂いを、思い出す。それだけは、もう決まっていた事実だった。
*
春は、ある日を境に冬から切り替わるものではなく、冬が終わりに近づくにつれて気づかれない程度の速さで、そっと、流れを変えていくのかもしれない。
仕事を終えて、駅から家へと向かう道を歩く。人通りはまばらでコンビニの白い明かりを過ぎると、街灯は途切れ途切れになり、夜の輪郭が急に曖昧になる。肩に残った疲労を引きずりながら、私は歩幅だけを一定に保っていた。考え事をしていたわけじゃない。ただ、身体が慣れた帰路を、なぞっていただけだ。
そのとき背後で靴底が擦れる音がした。自分のものではない、と理解するまでに、ほんの僅かな時間がかかった。気づいた瞬間背中の皮膚が薄くなる。一定の距離で私の歩調に合わせてわずかに調整される速度。早すぎず遅すぎず。偶然を装うには、出来すぎている。
「……。」
私は振り返る理由を探し、同時に振り返らない理由も探す。角を曲がった途端、音が近づいた。呼吸の気配が、空気を押し分けて、距離を詰めてくる。街灯の下で影が重なり、私の影の縁に別の輪郭が滲んだ。
「——ねえ、おねーさん」
男性の声だ。ずいぶんと湿り気を帯びた音で、道を聞くでも、はたまた、夜の挨拶でもない。
「ちょっといい?」
疑問系で投げられたそれは返事を待たない言い方だった。足を止めるよりも先に、右側の視界がわずかに狭まる。距離を量る視線がこちらを外側からなぞる。肘から先が、空気を裂く感触だけが遅れて伝わってくる。触れられるその直前にだけ立ち上がる理由のない嫌な予兆。逃げる、という選択肢が思考に浮かぶ頃にはもう遅く体のほうが先に硬直し、喉は鳴ることを忘れていた。
その瞬間——空が鳴った。羽音。上から落ちてくる風。
「はーい、そこまで」
低く澄んだ声が、夜を切り裂いた。次の瞬間、赤い影が、視界を横切る。街灯の光を裂くように羽根が開き、着地の衝撃が路面を震わせた。私の腕が引き剥がされる。乱暴ではない。だが、抗えない力だった。不審者らしき男の身体が、半歩、後ろへ持っていかれ、呼吸が乱れる。
「……っ、あぁ?」
「通報済みです、オニーサン。」
「な、なんだよっ、」
「あ、動かないでください?痛くしますよ」
短い応酬。相手は舌打ちをし、視線を泳がせて逃げ道を測る。そして背を向け走り出した。追う距離は、確かにあった。けれど私の目の前にいるヒーローは、そのあとを追わなかった。代わりにこちらへ向き直る。
「大丈夫でした?」
その声を合図にばらばらになっていた身体が、ゆっくりと元の位置へ戻っていく感覚があった。夜はまだ続いているのにさっきまで確かにそこにあった最悪の部分だけが、きれいに切り取られてどこか、別の場所へ落とされたみたいだった。
「……怪我、ないですか」
ヒーロースーツ。夜気に揺れる赤い羽根。パトロール中だったのだろうと遅れて理解する。
ホークスだ、と、名前が追いついたころには、張り詰めていた息がようやく、肺の奥まで落ちてきた。吸うという行為を思い出すみたいに指先に残っていた痺れが、じわじわと引いていく。
「……うん。たぶん、大丈夫」
「ほんとに?」
彼は一歩、近づきかけて止まる。距離を測る、その癖。ヒーローとしての判断と私的な理性が、同時に働いている間だと、私にもわかる。
「確認させてもらっていいですか?」
「うん……」
「触っても?」
「……うん、いい。」
私の返事を待って、肩、腕、手首。必要最低限だけ。指先の圧は正確で、迷いがない。けれど、離れるのは早く、名残を残さない。
「問題、なさそうですね」
小さく息を吐く音が聞こえた。張りつめていたものがそこで初めて落ちたのがわかる。夜の音が戻り、遠くで車が走り去る。街灯の下に、静かな沈黙が落ちる。彼はほんのわずか言葉を探すような間を置いてから、私の名を呼んだ。
「名前さん」
軽口ではない。冗談でもない。輪郭のはっきりした、確かな呼び方だった。
「……怖かったですね」
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、音もなくほどけていく。でも、まだ崩れきるほどではない。足は地面についているし自分の体重も支えられている。倒れ込むほど弱ってはいない、ぎりぎりのところだ。
「……うん、」
それだけで、十分だった。彼は抱きしめない。触れない。ただ、私と夜のあいだに立つ位置を、無言で選ぶ。守るというより遮る。越えない線を保ったまま恐怖だけを外へ追い出すように——。その背中が今は何よりも近くて、遠かった。
「家まで、送ります」
「……ありがとう」
「ヒーローの仕事なんで」
そう言って彼は、歩き出す位置を私の半歩前に取った。前に出すぎない。振り返れば、すぐ声が届く距離。守るための配置で越えないまま、それでも距離は、縮まっている。
道は短かったはずなのに、足取りは慎重になった。夜気が肌に触れるたび、先の出来事が遅れて輪郭を持つ。彼の羽根が歩みに合わせてわずかに揺れる。音はしないのに、存在だけが頼もしい。
無事にマンションまで到着し部屋の前まで来てようやく足が止まる。玄関灯の白い光が点き夜の影が一段、後ろへと下がった。
「……ありがと、送ってくれて」
私がそう言うと、彼は周囲を一度だけ確かめ、短く頷く。
「鍵、開けられます?」
「……うん」
鞄から鍵を取り出す。指先が思っていたよりも言うことを聞かない。差し込んで回して、金属の音が鳴るまでの数秒が、やけに長い。扉が開いた瞬間、胸に張っていた力が、少しだけ抜けた。
「……よかった」
彼の低い声が背後から届く。私ではなく状況に向けたような言い方だった。
「中、明かりつけますね」
「うん」
私が靴を脱いでいるあいだに、彼がスイッチに手を伸ばす。ぱち、と音がして、玄関に白い光が落ちた。脱ぎ終えて振り返ると、彼はもう玄関の外に立ったまま、きちんと、距離を保っている。中へはもう入らないという選択。今夜は、それが正しい。そのことを、言葉にしなくても二人ともわかっていた。
「何かあったら、すぐ連絡ください」
「うん。ありがとう、本当に」
「いえ」
短い応答。それで、十分なはずだった。けれど彼は、背を向ける前に一度だけ、私の顔を見る。
「……今日は、ちゃんと休んでくださいね」
それだけ言って、夜へ戻る体勢に入る。玄関に残る灯りの下で、私は深く息を吸った。胸の奥にあった緊張が、ようやく言葉を持つ。
もう、安全。今になってやっと、その言葉が、意味を持った気がした。でも、だからこそ——。
「ホークス」
小さく呼ぶと、彼は、広げかけた翼をたたみ、すぐに振り返った。
「……入って」
自分でも驚くほど、言葉は自然に落ちてきた。
「ごめん。少し、だけ……」
彼は一瞬だけ判断を測るように動きを止めた。それから足の裏にしっかりと体重を戻し、完全にこちらを向いた。警戒を含んだ目で玄関の内側を確かめる。
「……いいん、ですか」
「うん……。そばに、いてほしい」
言い切ったあと、ほんの短い間を置いて、私は息を整える。
「……ごめん」
重ねた謝罪は、弱さの言い換えだった。
「……失礼します」
彼は低くそう言って、靴を揃えて、中へ入る。玄関に、二人分の気配が増えただけで、外の夜が一歩、遠のいた。
リビングの照明をつけると、いつもの部屋が、いつも通りの顔で迎えてくる。変わらない配置、変わらない匂い。その当然が今は少しだけ、救いだった。
「適当に……座って」
私がソファを指すと彼は私より先に腰を下ろさなかった。代わりにクッションを一つ手前に引き寄せる。
「こっち、どうぞ」
「……ありがとう」
腰を下ろした途端遅れて震えが来た。寒さではない。さっきまで無意識に抑え込んでいた反応がようやく居場所を見つけたみたいに、身体の奥で小さく鳴り始める。歯が鳴るほどではないのに、内側だけがわずかに揺れる。彼は何も言わない。少し離れた位置に腰を下ろし視線もこちらを見すぎない角度で落ち着かせている。触れない。でも立ち去らない。その選択が今は何よりありがたい。
「……何か、飲みます?」
「うん……飲みたい」
「冷蔵庫、勝手に開けていいです?」
「ん、いいよ」
立ち上がる気配。キッチンでグラスを取り出す音が静かに響く。戻ってきた彼が言葉を足さずに差し出してくれた。冷たい水が喉を通ると呼吸が一段、深くなる。吸って、吐く。その繰り返しを思い出す。
「大丈夫、ですか」
「……うん。たぶん」
その曖昧な私の返事を、彼は訂正しなかった。代わりに、ほんの少しだけ間を置いてから言う。
「落ち着くまで、いますね」
「……うん」
彼の一言で、胸の奥がようやく、自分の重さを取り戻す。私はソファの背にもたれ、天井を見上げた。照明の輪郭がさっきよりも、はっきりしている。視界の端で、彼の赤い羽根が静かに揺れていた。そこにある、という事実だけで、夜がもう一度、形を持ち始めていた。
しばらく、何も話さなかった。時計の針が進む微かな音。遠くを走る、車の気配。冷蔵庫の低い駆動音や、床に落ちる影——部屋の中の生活が、静かに、呼吸を続けている。
「……さっき」
私が口を開いた瞬間、彼は、すぐに反応した。待っていた、というほどではない。ただ聞く準備だけは、最初から整えていたみたいに。
「はい」
「怖かった……」
それ以上は続けられなかった。言葉にした途端あの呼びかけや、近づいた距離が、また胸の奥に触れてしまいそうで。すると彼はほんの少しだけ視線を落とす。
「……暗かったですしね」
「……」
「俺こそ……勢いよく掴んじゃって、すみませんでした」
「違う、謝らないで」
謝罪が先に来る。その順番に思わず慌てて声が少しだけ強くなってしまったけど訂正はしない。
「……助けてくれて、ありがとう」
彼は言葉を返さなかった。ただ、静かに頷く。その動きは軽くも重くもなく今の距離にちょうどいい重さだった。少し時間が経って、震えが収まってきたのを自分でも感じる。指先に戻る感覚。呼吸の速度が、普段のそれに近づいていく。
「……もう、大丈夫そう」
「ほんとに?」
「うん」
彼はすぐには立ち上がらなかった。数秒、私の様子を確かめるように黙ってから、ようやく腰を上げる。その慎重さが、最後まで崩れない。
夜はまだ終わっていない。けれど、最悪の部分だけは確かに過ぎ去ったのだとその動作ひとつで私は理解した。
「じゃあ……今日は、ここまでで」
「ん、……ありがとう、ホークス」
名前で呼ぶと彼は一瞬だけ視線を伏せた。そのあとで、いつもの調子に戻すみたいに、口元を、わずかに緩める。
「当然です。俺、ヒーローなんで」
軽口に聞こえるのに、そこに逃げはない。私はそれ以上、何も返さずに頷いた。
玄関まで見送る。靴を履いて、外へ出る直前、彼は、もう一度だけ振り返った。夜の空気を背にしたその姿は、さっきまでより、少しだけ遠い。
「……何かあったら必ず、連絡してください」
「うん。わかってる」
彼は短く頷き、扉の向こうへ戻る。扉が閉まる音。続いて、鍵をかける乾いた響き。その音が、家の中へと、ゆっくり戻ってくる。私はしばらくその場から動けなかった。
ようやくソファに戻り、深く、息を吐く。肺の奥まで、静かな空気が満ちていく。怖さは、もうない。代わりに残っているのは——触れなかった時間、言葉を抑えた距離、そして……そばにいてくれたという、事実の重さだけだった。
夜はきちんと終わった。けれど何かが確かに、胸の奥に残っている。その感触を確かめるように私はもう一度だけ、静かに息をした。