あの夜から、いくつか眠りを重ねた。劇的に、何かが変わったわけではない。ただ酔いが抜けたあとも身体のどこかに残る鈍い感覚と言葉にしなかった続きを、日常の隙間に、何度も思い出してしまう日が続いていた。
 ホークスに助けてもらった記憶はありがたさと気恥ずかしさと、あと名づけ損ねた感情を伴って今も、静かに胸の底に沈んでいる。越えなかったことも踏み込まなかったことも、どちらも間違いじゃなかったと、頭では理解しているのに、心のほうはまだ、整いきらないままだった。

 その日は珍しく予定のない完全なオフだった。平日の昼間、商業施設のネイルコーナーは思ったよりも人が少なく硝子越しに並ぶカラーチップが過剰にならない光を返している。
 仕事用でも誰かのためでもない。ただ、自分の休日に選ぶ色。それが、どうにも難しい。深くて少し艶のある色。指先に意思を宿すような主張のある赤。落ち着いていて、距離を保つ色。感情を静かに整えてくれる、冷静な青。

「ん〜……決まらない」

 思わずこぼれた声は、ショーケースの中に吸い込まれていく。私は無意識のままスマートフォンを取り出していた。考えるよりも先に指が覚えている名前を押している。

『——はーい、ホークスでーす』

 まさかの、コール一回。相変わらずの早さに、少しだけ笑ってしまった。

「お疲れさま。今、大丈夫?」
『はい。珍しいっすね、真昼間に。休みですか』
「うん。完全オフ」
『いいですねぇ〜』

 たった一言。それだけで肩の奥に溜まっていた力がふっと抜ける。私はもう一度赤と青のネイルボトルを見比べる。照明の下で二色はそれぞれ、違う顔をしている。

「ねぇ」

 何でもないみたいに、でも、ほんのすこしだけ頼るような声音で。

「赤と青だったら、どっちがいいと思う?」

 一瞬だけ、間が空いた。たぶん彼は私の質問の意図を、想像している。仕事中でもなんでもない場所で、こうして何かに迷っている私のことを。その沈黙が不思議と、心地よかった。

『んー』

 受話器の向こうに微かに風を裂く音が混じっていた。耳を澄まさなければ聞き逃すほどの気配。けれど私はそれを知っていた。彼は今空にいる。電話越しでさえも感じ取れる、重力から解き放たれた人、特有の呼吸が、そこにはあったから。

『……用途は?』

 そして、その空気に触れるようにして彼の声がふいに少しだけ低くなった。軽やかさの奥に微かに張りつめた真面目さが混ざる。まるで風の中に手を伸ばして言葉ではなく温度で何かを確かめてくるような声音。

「用途?」
『仕事用か、遊び用か』
「んー。今日はただの、自己満足」

 そう言って小さく笑うと、電話の向こうでも、同じ温度の気配が返ってきた。笑い声ではない。ただ、空気がわずかに緩む音。

『それなら……』

 ほんの短い沈黙。考えるというより、確かめるための間。

『赤、ですかね』
「即答だ」

 ショーケースに並んだネイルボトルを彷徨っていた指が、ふと止まる。

『名前さん、青はいつでも似合うんで』

 あまりにも自然に言われて、胸の奥がわずかにざわつく。褒め言葉だと理解するよりも先に反射的に問い返していた。

「……それ、褒めてる?」
『もちろん』

 いつものように迷いのない声。今日も変わらず余計な飾りはない。

『でも、赤は——』
「……」
『名前さんが今日はこれって選んだときじゃないと、たぶん、しっくりこない』

 その言い方が妙に具体的で、私はショーケース越しに赤のネイルチップを、指先に当ててみる。ガラスに映る自分の手は、いつもより少しだけ、意思を持っているように見えた。

「……なにそれ、やけに詳しいねぇ」
『長い付き合いなんで』

 軽く言う。でも冗談の逃げ場を用意していない声音だった。——赤。決めきれなかった色が急に現実味を帯びる。

「じゃあ、赤にする」
『いいと思います』
「責任取ってよ」
『え?』
「変だったら、文句言うから」
『はいはい。受け付けますよ』

 冗談めかしたやり取りなのに、声の端はやわらかい。その温度に、私は少しだけ甘えてしまう。

「……ねぇ、ホークス」
『はーい?』
「こういうことを、聞いてくる相手ってさぁ」
『うん?』
「……他にも、たくさんいるでしょ?」

 何気ない調子を装って投げた言葉。でも本当は答えの出方を待っている自分がいた。赤を選んだ指先よりも胸の奥のほうが先に反応しているのがわかる。平日の、ネイルコーナーの静けさの中で私は、スマートフォンを耳に当てたまま彼の次の言葉を待っていた。

『いますけど』

 その一言で、胸の奥が不意に強く鳴った。音がした気がした、というほうが正確かもしれない。

『今、この電話に出てるのは俺なんで』

 続けて少しだけ笑う気配。声の端がさらに一段やわらかくなる。

『それで、十分なんじゃないですか?』

 十分、という言葉が、思った以上に深く落ちてくる。重たいわけじゃない。ただ、静かに沈む。

「……そだね」

 自分の声が、少し遅れて返る。否定も肯定も、強くしない、今の、そのままの温度で。

『買ったら、写真送ってください』
「なんで?」
『確認です』
「なにを」
『似合ってるかどうか』

 当たり前みたいに言うのが、ずるいなと思う。確認なんて言葉を使いながら、距離を詰めてくるところが、彼らしくもあるけれど。

「はいはい、エッチ」
『ひとこと多いです』
「ふふっ」

 笑いが、ガラスケースの前で零れる。周囲には誰もいないのに、なんだか声を、潜めたくなる。

『じゃ、休日、楽しんで』
「うん、ありがと」

 そこで自然と通話が切れる。スマートフォンの画面が暗くなって、私は赤のチップをもう一度、指先に当てた。さっきよりも少しだけ、いい色に見える気がする。照明のせいじゃない。たぶん、選び方が、変わったからだ。
 こうして、何でもない選択を自然に彼に委ねていること。そのことが、どれだけ特別なのかを、私はまだちゃんと言葉にできていなかった。ただ指先に残る赤の予感だけが静かに、確かな余韻として、残っていた。


 *


 その日は本当に、いつも通りの夜だった。任務終わりだというのにホークスは連絡一本でふらっと現れて玄関でジャケットを脱ぎながら「匂いにつられて来ました」などと相変わらず意味のわからないことを言う。私はそれを、「はいはい」と受け流しながら冷蔵庫を開けて残っていた野菜と卵に手早く火を通す。特別なメニューでも凝った味付けでもない。ただ二人分としてちょうどいい量を作る、それだけの話。
 並んで食べて他愛のない話をする。今日の現場の話、どうでもいいニュース、冷蔵庫の奥で忘れ去られていた調味料の話。笑ったり、相槌を打ったり沈黙が挟まっても気にしなかったり。特別なことは、何もない。
 シャワーもそれぞれ済ませて、髪を適当に乾かして、部屋着のまま、ソファに転がる。テレビはつけていないのに、外の音と家電の微かな駆動音だけで時間がだらだらと溶けていく。あの輪郭が曖昧な、いつもの夜だ。

「……もう、寝ます?」

 欠伸を噛み殺しきれない声でホークスが言う。

「うん。今日はもう限界」
「ですよね。俺も羽根が限界です」

 羽根、という言い方に小さく笑って「じゃあ、就寝時間だね」という、流れになるはずだった。だが、その、ほんの直後。

「あ、そういえば」

 と。思い出したようにホークスが言った。私は首を傾げて「ん?」と、返す。

「この前のネイル、どうなりました?」
「え……。なんでネイルって、わかったの?」
「わかっちゃいますよぉー。だってぇ、名前さんでしょ」
「こわっ……え。てか、急に?」
「はい。気になってたんで」

 私はソファに座ったまま何でもない顔を装って足を組み替える。指先よりも足先のほうが無防備なのは、自分でもわかっている。

「赤にしたよ。手は仕事あるから、足用だけど」
「見せてください」
「やだ」
「えー、なんで」
「なんでも。そもそも、まだ買ってないし」
「えー? なんそれ」

 軽い押し問答。いつもの、距離感。冗談めいたやりとり。しかし、次の彼から放たれた一言が、ほんの少しだけ、この空気をずらした。

「じゃあさ」

 ホークスは立ち上がり、部屋の棚に視線を走らせた。探すというほど大げさでもなく置き場所を把握している人の目つきでいくつか並んだ小物のあいだを確かめる。

「塗ります?」
「……はい?」
「足ならいいんでしょ」

 言い切りが早い。けれどその調子がいつも通りすぎて、こちらが身構える暇もない。「いい」の基準がどこに置かれているのか考えようとしても答えが、見つからない。少なくとも、私の常識の範囲にはない。

「いや……今は別の、塗ってあるし」
「だから、確認です」

 そう言って、振り返った彼の手には、見覚えのある小さなボトルがあった。
 ——あのとき選んだ色。偶然のふりをしているけれど、用意されていた気配が、ほんのわずかに滲む。私は何も言わずそのまま視線を逸らした。言葉にしたら、たぶん負ける気がしたから。

「……まさか、買ってきたの?」
「名前さんの家に来る予定だったんで」
「意味が分からない……」

 呆れながら言ったはずなのに、声はどこか柔らかい。断る理由はいくらでもあったのに、結局、口に出なかった。たぶん、本当に眠かっただけ。そして、たぶん、それだけじゃなかったと思う。

「ほら」

 ソファの前に腰を下ろした彼が促すように軽く手を伸ばした。その動作はあくまで自然で何かを期待させるような速さも、ためらいもない。

「足、貸してください」
「……変なことしないでよ」
「何もしませんって」

 即座に返ってくる否定。その即断が、逆に信用できてしまうのが厄介だった。
 私は何も言わずにクッションに身を預け素足をそっと差し出す。ホークスの指先は足首に触れる寸前で止まる。触れていないのに距離だけが正確だった。

「あっ、なんも塗っとらんやーん。嘘つきぃ」
「ねえ、近い……」
「動かないでください」

 急に、声が低くなるから驚く。からかいの色が消えて、完全に集中した音になる。小さな刷毛が爪先に触れる。ひんやりとした感触。彼の視線が足元に落ちているのがわかる。
 距離は、やっぱり近い。でも、何も起きない。だから私は、知らんぷりを決め込む。完全に。

「……やっぱ、赤ですね」

 ネイルのキャップを持つ手を止めたまま、彼がぽつりと、そう言った。誰に向けたというより、自分の中で確認するような声音で評価というより納得に近い響きで。その短い言葉が、爪先の赤をもう一段、はっきりさせる。
 選んでもらった色のはずなのに、なぜか始めにこれを選んだ理由まで見透かされた気がして私は視線を逸らしたまま、何も返せない。彼も、また静かに作業に戻る。その沈黙が、赤の輪郭だけをゆっくりと浮かび上がらせていった。

「名前さん、足の爪に赤って、」
「うん?」
「ちゃんと、��休んでる日�≠フ色してる」
「なにそれ」
「褒めてますよ?」

 一本ずつ丁寧に塗られていく。触れないようでいて、確実に近い距離。私は途中、スマホを見るふりをするけれど画面の文字はまるで頭に入ってこない。ただ呼吸だけを整え刷毛が離れる瞬間を待っている。時間が、やけにゆっくりと流れる。

「……はい、終わり」

 そう告げて、ようやく刷毛が爪先から離れた。長くも短くもない沈黙のあとに残るのは赤の艶とさっきまでそこにあった彼の気配だけだ。

「乾くまで、ちょっと待ってくださいね」

 何事もなかったかのように言って、彼は、立ち上がる。声も調子もいつも通りだ。あまりに普段通りだから、こちらの鼓動だけが少し浮いて聞こえる。

「名前さん、動かない」
「命令口調」
「事故防止です」

 軽い応酬のまま彼は数歩距離を取り肩や背中をほぐすように、身体を伸ばし始めた。視線は私に向かない。向けない、のだと思う。その横顔が、意識的に線を引いているように見えて、妙に目に残る。
 近かった——確実に。足先に残る温度がそれを雄弁に語っている。それでも彼は、一線を越えない。肌には触れず言葉も増やさない。だから私も何も言わない。ただ、ソファに腰を預けたまま、乾いていく赤をじっと眺める。
 選んだ色が静かに定着していく時間。その間に余計なものまで固まってしまいそうで呼吸を浅くする。こうして、知らんぷりを続けられる距離がいちばん危うい。

「……よし」

 彼が、ようやくこちらを見る。その視線は短く穏やかで何も起こらなかった夜を確かめるみたいだった。

「乾きました」
「早いね」
「速乾性重視で選んだんで」
「女子じゃん」
「男子です」
「ありがと」
「どういたしまして」

 やり取りはそれだけ。それ以上も、それ以下もない。言葉の数は少なく、どれもが必要最低限で触れないことを前提にした夜の終わり方だった。部屋の明かりを落とす。さっきまで共有していた空間がゆっくりと影に溶けていく。私たちはそれぞれの寝場所へ向かう準備をしながら、同時に、何も起こらなかったことを確認し合っているようでもあった。——が、その直前。

「……似合ってましたよ」

 付け足すように、ほんの小さな声で。
 ——名前さん、と。
 名前を呼ばれたのは、それきりだった。それなのに、その響きだけが耳の奥に残って離れない。声がやけに近く感じたのはきっと、足元に残った赤のせいだけじゃないのだろう。
 今夜もまた越えていないはずの境界線の内側で言葉にしなかった感情だけが静かに、深く、胸の底へと沈んでいった。


 *


 夜はすでに落ち着いた顔をしていて、私たちを急かすことも、引き留めることもしなかった。
 その日も特別なことはなかった。仕事終わりに落ち合って軽くご飯を食べて、飲んで、帰り道にホークスが、何気なく言う。

「もう一杯だけ、行きます?」

 それは、誘いというよりも、確認に近い言い方だった。私は少しだけ考えて、首を傾ける。

「……二次会って言うの、やめたの?」
「ちょっと変えてみました、ニュアンス」
「ニュアンスね?……まあ、じゃあ一杯だけ」
「はいはい。そう言って一杯じゃすまないやつ」
「うるさいなぁ」
「じゃあ、いつもので」

 いつもの、という言葉が示す場所はもう説明を必要としなかった。
 ホークスのセーフハウスは相変わらず整いすぎてもいなければ、散らかりすぎてもいない、彼の性格がそのまま床と棚に反映されたような空間。冷蔵庫から取り出された缶を受け取る頃には外の夜気が身体からすっかり抜けていた。

「なんか、今日は静かですよね」
「わたし?」
「はい」
「ちょっと、疲れてるだけ」
「それ、最近ずっと言ってません?」
「……気のせいです」

 そう返すと、彼はそれ以上突っ込まなかった。代わりに、棚の下から小さな箱を引っ張り出す。

「ジェンガ、やります?」
「また、急だね」
「頭使わないやつがいいかなって」

 テーブルの上に積まれた木片は、もう、何度もこの部屋で崩されてきたため角が少し丸くなっているものもある。

「先、どうぞ」
「ずるい」
「じゃんけんします?」

 結局いつも通り私が先攻だった。序盤は穏やかに進む。互いに無難なところを引き抜いて、音を立てずに積み上げていく。缶が空きもう一本目に入ったあたりで、タワーは、目に見えて不安定になっていた。

「……それ、危なくない?」
「いや、ここならいけます」
「そこ、さっき私が狙ってた」
「じゃあ、取り合いですね」
「いや、待って——」

 彼の指と、私の指が、同じブロックにかかる。どちらも、絶対に離さない。

「なんすか?」
「他のにして」
「も〜、離してくださいよー」
「そっちが」
「大人気ないすよ?」
「年上を敬う文化、知ってます?」
「今それ言います? そんな年変わらんくせに」

 始まった……いつもお決まりの軽口の応酬だ。そのままほんの少し力が加わった瞬間ジェンガの塔ではなく、私が、バランスを崩してしまった。

「わ——っ」

 ジェンガが倒れる音より先に、視界が塞がる。気づいたときには、床に押し倒される形になっていて、ホークスの体重が、ぎりぎり逃げ道を塞ぐ位置で止まっていた。——近い。息が、かかる。

「……あ」

 ——と。彼の腕が私の肩の横で止まる。完全に覆い被さっているのに触れている部分は驚くほど少ない。だからこそ、逃げ場がない。

「……すみません」
「……わざとでしょ」
「半分……?」

 視線が絡む。冗談みたいな距離なのに胸の奥が妙に静かになる。すると「でも」と彼が言った。

「ここから、どうします?」

 試すような声。思い出す。以前、彼に教えてもらった、力で対抗しない交わし方。視線を切り、肩を抜いて、重心をずらす。私は息を整えてから教えられた通りに身体を動かした。するり、と。彼の体重が、私の上から外れる。
 ホークスが小さく声を漏らして、次の瞬間には体勢が逆転していた。私はソファの端に座り直し彼は一拍遅れて、起き上がる。

「……完璧です。」

 彼が笑う。その表情は、からかいよりも、少し誇らしげだった。

「ちゃんと、できてるじゃないすか」
「……復習、したから」
「偉いです」

 軽く頭を下げる仕草。その距離はもう安全圏。倒れたジェンガの木片が、床に散らばっている。さっきまでの緊張が嘘みたいに、部屋の中は静かだった。

「続けます?」
「……今日は、やめとく」
「賢明です」

 彼はそう言って、何事もなかったように木片を箱に戻し始める。越えていない。触れていない。それでも確かに一線のすぐ手前に立っていたことだけが、身体の奥に残っていた。
 私は缶の残りを一口飲みながら倒れたジェンガよりも、不安定なのは自分のほうかもしれない、なんて、思ったり、思わなかったり。

「最近」

 ジェンガを箱に戻し終えたホークスがソファに腰を下ろしながら不意に言った。指先はもう次の動作に移っていてポケットから取り出したスマホの画面を確かめている。私は、床にぺたんと座り込んだまま、缶を口につけ、少し遅れてその声を追った。立ち上がる気にはなれなかった。身体が重いというより、ここから動く理由を、今はまだ持ちたくなかった。

「……俺がいないと、落ち着かない感じ、してません?」

 スマホの画面を見つめたままの、問いだった。試すようでも、責めるようでもない。ただ、確かめるための言い方。

「……してない、とは言わないけど」

 正直に答えると、彼は小さく息を吐いた。笑わない。否定もしない。視線も合わせない。スマホの光だけが、彼の横顔を淡く照らしている。

「それ、悪いことじゃないですけど」
「でも?」

 私は、彼の横顔を見る。目を細めているのは、画面が眩しいからなのか、それとも、考えごとをしているからなのか、判然としない。

「でも、俺がいないとダメになるのは、違う」

 言い切りだった。声は、穏やかなままなのに、線だけが、はっきり引かれる。優しさと同時に、引き受けないという意志が、そこにはあった。

「稽古は、出来るようになるためのもので」
「……」
「安心するための場所にしちゃうとズレるんで」
「……」
「さっき、もう完璧だったんで」

 その一言が胸の奥に小さく刺さる。責められたわけじゃない。評価されたわけでもない。ただ、見られていたという事実だけが、静かに残る。

「……私、甘えてる?」

 問いかけると彼はスマホに視線を落としたまますぐに首を横に振った。

「甘えていいところと、そうじゃないところが、あるだけですよ」
「ずるい言い方」
「よく言われます」

 ほんの少しだけ、口元が緩む。それからまた、彼は言葉を足す。

「俺は、手を貸しますけど」
「うん」
「でも、立つ場所までは、決めない」

 声は穏やかだった。責める調子はない。ただ、譲らない部分だけが、静かに示される。

「俺がいなくても出来る、って、思えてます?」

 ここでようやく彼がこちらを見る。その視線に耐えきれず今度は私のほうが目を逸らした。床に置いた缶の縁を、指先でなぞる。

「……半分、くらい」
「十分です」

 即座の肯定だった。迷いも、評価も含まない。

「残りは、名前さんが埋める分なんで」
「私が?」
「はい。俺じゃなくて」

 その言葉が胸の奥で静かに位置を定める。頼れなくなる不安よりも自分に戻される感覚のほうが先に来た。

「じゃあ、さ……」

 私は少しだけ間を取る。言ってしまっていいのか、確かめるための時間だ。

「稽古、もう、やめる?」
「やめません」
「即答だ」
「依存しないことと、続けないのは別です」

 彼はまたスマホに視線を戻し、肩をすくめた。その仕草が、どこか安心させる。

「来たいときに来る」
「うん」
「出来ることは自分でやる」
「……うん」
「で、危なそうだったら、俺が止める」

 順番がきれいに整っている。その配置が、妙にしっくりくる。

「それって、私、信頼されてる?」
「かなり」
「……そっか」

 私は前を向いたまま、ほんの少しだけ、口元を緩めた。守られているわけじゃないと自分に言い聞かせる。立つ場所を、ちゃんと、自分の足元に戻してもらっているだけなのだ、と。そう考えたほうが、たぶん、今の関係を、正しく捉えられる気がした。その距離が今の私にはちょうどいい。そう思っているつもりで、私は、息を整えた。

 帰り道は、思っていたよりも風が冷たかった。セーフハウスを出て駅とは反対方向の道を選ぶ。遠回りでもよかった。夜気に晒されて、少しでも頭を冷やしたかった。さっき交わした会話が胸の奥でまだ形を持たないまま、沈みきらずに残っていたから。

 ——依存。

 彼の口から出たその言葉は、責めでも拒絶でもなかった。それでも、足取りをわずかに重くするだけの力はあった。自分で立つための稽古だったはずなのに、いつの間にか「彼がいる時間」そのものを、支えにしていたのではないか。その可能性を、私は否定できなかった。だから気づくのが遅れた。
 背後から、急に距離が詰まる気配。靴音が私の歩調をなぞる余裕もなく、乱暴に重なる。

「——っ、」

 声を上げる前に腕を掴まれた。強い力。意識が追いつくより先に、身体が引かれる。
 ——外す。角度を変える。視線を切る。頭ではわかっている。彼と何度も繰り返したはずの動きなのに身体が動かない。足がもつれ重心を失う。次の瞬間、私は尻餅をついていた。冷たい路面の感触が、遅れて、じわりと伝わってくる。

「……大人しくしてりゃいいのに」

 上から黒い影が覆いかぶさる。喉が、ひくりと鳴った。だめだ。逃げる距離も、声を出す余裕もない。さっきまで確かにあったはずの技術が全部遠い場所へ押し流されていく。そのときだった。風が上から落ちてきた。——羽音。空気を裂く、あの、音。

「離れろ!」

 低く、はっきりした声。視界が一瞬で赤に塗り替えられる。掴まれていた腕が引き剥がされて、次の瞬間、身体が宙に浮く感覚と不審者が地面に叩きつけられる鈍い音が重なった。

「——っ、あンだよっ!」
「警察、もう呼んでます」

 短い制圧。迷いのない、動き。相手が逃げ出すまでの、ほんの数秒。私はその場から、動けずにいた。脚に力が入らない。現実だけが少し遅れて追いついてくる。

「名前さん!」

 迷いも、抑制もない呼び方だった。

「大丈夫でした?」

 彼はすぐには触れなかった。代わりに私の前に膝をつき視線を合わせる高さまで、自分を下げてくる。その距離の取り方が、今は胸に刺さる。

「だから、送るって言うたとに……」
「……」
「あげん振り切られたら、引くしかなかもん」
「……」
「……立てます?」

 問いかけは静かだった。それは命令でも、判断でもない。

「……わかんない」

 声が震えているのが、自分でもはっきりわかった。守られたという実感より先に立てなかったという事実だけが、胸の奥で重く残っていた。

「いいです。無理しないで」

 そう言ってから、ようやくホークスは私の腕に手を添えた。引き寄せるでもなく、抱え込むでもない。ただ、重心が崩れないように支えるだけの距離。触れられているのに、体温が、押し寄せてこない。その控えめさが、今はありがたかった。

「……ごめん」

 何に対しての謝罪なのか自分でもはっきりしないまま言葉だけが先に落ちる。助けられたことかちゃんと、出来なかったことか、それとも、彼の言葉を、裏切ったような気がしたことか。

「謝らなくていいですって」

 即座に返される。柔らかいけれど逃げ道を塞ぐ言い方だった。

「どうしたんすかー?さっきはちゃんと交わせてたのに」
「できなかった」

 軽口に近い調子なのに視線は真剣だった。私はそれを受け止めきれず、半ば、遮るように、言葉を重ねる。声が、思ったよりも低く落ちる。

「教えてもらったのに」

 言いわけにしたいわけじゃない。ただ、事実を並べないと胸の奥が詰まってしまいそうだった。

「ぜんぶ、頭から、飛んで」

 恐怖が、身体の操作を奪う感覚。わかっているのに動けないその無力さが、遅れて押し寄せる。彼は、私の言葉を遮らなかった。訂正もしない。評価も下さない。ただ、私が呼吸を取り戻すまで同じ距離でそこにいる。

「……怖かったですね」

 その一言が、いちばん奥に届いた。責めでも、分析でもない。起きた感情を、そのまま、名前で呼ばれただけなのに、堪えていたものが、静かに崩れていく。

「……うん」

 泣くほどじゃない。けれど、声はもう、平気な形をしていなかった。彼は、少しだけ息を吸い、声の高さを落とす。感情に寄り添うときのそれ。

「今日、防げなかったのは」
「……」
「あなたが弱いからじゃない」

 迷いのない断定だった。慰めでも、励ましでもなく、事実として言い切る声。私はその言葉を、すぐには受け取れないままただ支えられて立っていた。

「予期してなかった」
「……」
「それだけです」

 私は、地面を見つめたまま、小さく頷く。

「……俺が、間に合ったから言えることじゃないですけど」
「……」
「一人で、全部できなくていいですよ」

 それは、稽古とは少し違う言葉だった。依存を許す言葉じゃない。でも、孤立させない言葉。

「……送ります」
「……うん」

 立ち上がるとき、彼は私の背中に、ほんの一瞬だけ手を添えた。すぐに離れる。越えない。でも置いていかない。
 歩き出した夜道で、私は思う。稽古は、意味がなかったわけじゃない。ただ、現実はいつも想定通りじゃないという事を思い知らされただけだ。半歩前を歩く彼の背中を見ながら、私はもう一度だけ立ち方を思い出す。今度は独りじゃないと。
 歩き出してしばらく、私たちは言葉を交わさなかった。彼は私の半歩前を歩き、周囲を確認するように、ときどき視線を走らせる。さっきまでの緊迫が、まだ、夜に張りついていて、靴音だけがやけに大きく響いた。

「……さっき」

 私がそう口を開くと彼はすぐに歩幅を緩めた。立ち止まりはしない。ただ、私の呼吸や足取りが乱れていることをきちんと察した上で速度だけを落とす。その判断の早さが今は少しだけ眩しい。

「はい」

 前を向いたままの返事だった。声は落ち着いているけれど、周囲への注意だけは解いていない。視線は進行方向を捉えたまま、耳だけがこちらに向いている。

「全然、動けなかった」
「……」
「頭では、やることわかってたのに」

 言葉にした途端、情けなさが形を持ってしまう気がして私は視線を落とす。自分の足先を見つめながら歩くと、さっきまで感じていた地面の冷たさが、今は妙に遠く感じる。

「足が、固まって」

 自分で言っていて、胸の奥が、きゅっと縮む。失敗を報告しているみたいで無意識に肩が内側へすぼまる。

「それ、普通です」

 返事は即座だった。迷いも含みもない。否定の余地を残さない調子で、彼は言う。

「予測できてない接触は」
「……」
「誰でも、そうなります」

 彼はそこでほんの少しだけ振り返り私の歩幅を改めて確認する。横に並ぶ位置を微調整するその動きが、言葉よりも、雄弁だった。

「俺が、教えたのは」
「うん」
「構えてる状態からの話です」
「うん……」
「あと——予期できる展開。」

 理屈としてはきちんと整理された説明だった。筋も通っているし、間違っていない。それなのにその言葉を聞きながら、胸の奥で小さな違和感が渦を巻く。まるで、ホークスから来る危険は私が予期できていたはずだと言われているみたいで。
 もちろん、そんな意図じゃないことはわかっている。ただ、頭がまだ追いついていない。恐怖が身体に残ったまま、理屈だけを受け取ろうとしているから、噛み合わないのだ。
 私は一度、息を吸い直す。きっと、まだ冷静な判断が、できていないだけだ。そう思おうとしている自分と思いきれない自分が、胸の奥で並んで立っていた。

「今日のは」
「……」
「完全に、不意打ちだった」

 彼のその言葉は、感情を抑え込んだあとの空白みたいな響きだった。私は一度、深く息を吸ってから、ゆっくり吐く。肺の奥に残っていた冷たい空気が、ようやく外へ出ていく。

「……それでも」
「……」
「できるようにならなきゃ、って思ってた」

 言い切った途端、その考えが自分自身を縛っていたことに遅れて気づく。努力のつもりで抱えていたものが、いつの間にか義務に変わっていた。
 彼は、ほんの一瞬だけ黙り込んだあと、歩みを止めた。私も釣られて足を止める。街灯の光が、二人の影を、足元に並べる。

「……それ、違いますね」

 声は低いけれど押しつけがましさはない。訂正というより、方向を戻す言い方。

「全部に対応できるようになる必要は、ない」
「……」
「できなかった自分を、責める必要もないです」

 その言葉に胸の奥がきゅっと縮む。否定されたのではなく、重荷を外された感覚に近い。

「……じゃあ、稽古って」
「意味、ありますよ」

 被せるように言ってから、彼は少しだけ言葉を選ぶ。説明しすぎないための間。

「今日みたいなとき」
「……」
「助けを呼ぶ前に、潰れないための準備です」

 私は、ゆっくり頷く。理解したというより腑に落ちていく過程に身を任せるみたいに。

「……呼べなかった」
「でも、声出そうとしてましたよね?」

 淡々とした口調だった。そこには評価も同情も含まれない。

「肩、動いてたんで」
「……見てたんだ」
「見てます、いつも」

 それだけ。でもその一言が静かに効く。誰にも気づかれなかったと思っていた、小さな抵抗が、確かに見られていたという事実。私たちは、再び歩き出す。街灯の下を抜けるたび影が少しずつ、形を変える。

「さっき……言われたこと、思い出して」

 独り言みたいな声だった。前を向いたまま言葉だけがこぼれる。

「ごめん」
「……なにが、ですか」

 そう返されて理由を探してみるけれど、うまく言葉にならない。

「依存してるって、言われた、あとだったから」
「……」
「それなのに」

 彼は、少しだけ息を吐いた。その音が、考えを切り替える合図みたいに思えた。

「さっきは……またホークスを、頼ってた」
「……さっきのは、判断です」
「……」
「あなたを、現実に戻すための」
「……」
「呼びかけ、みたいな。」

 それ以上は何も足さない。説明を重ねない事で意味だけが残る。

「……じゃあ」
「はい」
「それで、いいや」

 そう言うと、彼もようやくほんの少しだけ肩の力を抜いたのがわかった。それが、肯定の代わりだった。

「……今日は」
「……ん?」
「よく、耐えました」

 褒めるでも、慰めるでもない。起きた事実を、そのまま置くような一言。
 家の灯りが見えてきて、張り詰めていた足が、ようやく、緩む。守られたという感覚より先に、立って帰ってきたという実感だけが静かに残っていた。

「……ありがとう」
「当然ですよ」

 彼は半歩前を歩いたまま言った。振り返らず、立ち止まらず、それでも距離だけは確かめるような歩き方だった。

「俺、そういう役目ですからね」
「……」
「一応、ヒーローなんで。」

 その言葉に、依存はない。甘さもない。ただ、責任だけが静かに残る。越えなかった夜。けれど独りでもなかった夜。そのどちらでもある場所に立つことを、私はまだうまく言葉にできないまま少しずつ覚え始めていた。
 マンションが見えてきて階段を登り部屋の前に差し掛かると、足が自然と止まる。意識して減速したわけじゃない。玄関灯の白い光がさっきまでの夜を現実の輪郭に引き戻していく。彼は周囲を一度だけ確認してから、ようやくこちらを見た。

「……今日は、もう大丈夫そうですね」
「……」
「途中から、足取りが軽くなってたんで」
「……うん、軽くなった」

 鍵を取り出しながら答えると、彼は「ならよかったです」と短く言った。そのまま、踵を返して帰るものだと思った。けれど、彼は、動かない。数秒の沈黙が流れる。

「……あの」

 呼び止める声が、少しだけ遅れて落ちる。

「別に」
「……?」
「俺から、離れろとか、そういうんじゃなくて」

 言い出した途端に、言葉が絡まる。ホークスは一度、視線を落としてから、また、上げた。整え直そうとする仕草が、かえって、本音に近い気がした。

「……さっき、言ったこと」
「うん」
「依存がどうとか、あれも」

 歯切れが悪い。いつもの彼なら、もっと簡潔に整理して話すはずなのに、今日は、違う。言葉を選んでいるというより、削ることができずにいるようだった。

「俺だって」
「……」
「いつまで、こうして元気でいられるか、わからないですし」

 その一言で、胸の奥がわずかにざわつく。理解する前に、身体が反応してしまう。

「……え」
「あ、いや」

 彼は、すぐに否定するように手を振った。

「病気とかじゃなくて」
「……」
「ほら。命、張ってる仕事なんで。一応」

 一応、なんて言葉で、軽くしようとしている。でも、軽くなりきらない。私は鍵を握ったまま、何も言えずに、彼を見ているしかなかった。

「だから」
「……」
「俺がいる前提で、安心されるのは」

 言葉を探すその間に、風が吹く。背中の羽根がかすかに揺れて、遠くの街灯の光を受ける。

「……違うかなって、思っただけです」

 それは、拒絶ではない。距離を置こう、という話でもない。ただ彼なりの誠実さだった。自分がいつまでもそこにいられる存在じゃないかもしれないことを、誤魔化さずに伝える、その選び方。それから「でも」と、彼は少しだけ声を落とす。

「一緒にいちゃダメ、とか」
「……」
「そういう話でも、ないです」

 矛盾しているのに、嘘じゃない。私はようやくそこで、口を開く。

「……難しいね」
「はい……」

 ホークスは苦笑して即座に頷いた。そして——

「俺も、そう思います」
「……ありがとう」
「……?」
「言ってくれて」

 今はそれだけで十分だった。彼は一瞬、驚いたように目を瞬かせてから、困ったみたいに笑う。

「……伝わったなら、よかったです」

 深く踏み込まないまま、話は、そこで終わる。彼は一歩下がり、いつもの距離を取り戻す。近づきすぎないことで、壊さない選択。

「じゃあ」
「うん」

 そのまま彼に背を向けて鍵を回し私は一度だけ足を止めて、振り返った。

「……ホークス」
「はい」

 名前を呼ぶと、彼はきちんと目を向ける。その視線がまっすぐで、無意識に逃げ場を与えない。

「無理は、しないで」
「……それ、俺の台詞ですよ」

 そう言って軽く手を上げる。いつもの調子で。私はまた彼に背を向けて扉を開け、鍵をかける。カチリと音が響くと、そこでようやく外と内が、はっきりと分かれた。

 彼の言葉は、優しさだった。でも同時に期限を含んでいる。いつまでも続くものじゃない。だからこそ、今を大切にしろ、と言われた気がして。
 私は玄関のこちら側に立ったまま、しばらく、動けずにいた。安心と不安が、同じ形をして胸の奥に残っている。その重なりをまだうまくほどけないままで——。


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