振られるときというのは、案外、あっけない。理由は曖昧で声は優しくて、これ以上踏み込まれないように綺麗に整えられた言葉ばかりだった。
『君は悪くない』
『僕の問題なんだ』
『タイミングが違った』
どれも否定しきれないから、怒ることも、縋ることもできない。私はただ頷いて、言葉は残さずその場をあとにした。
翌日の午前中。私は、ホークスと会っていた。会っていたと言っても、プライベートではない。端末の不具合で、いつものように彼が持ってきていつものように私が対応して、いつものように、他愛もない会話をしただけの話だ。彼は変わらず落ち着いていて少しだけ笑っていた。何も兆しはなかった。
だから、夜。気づいたらグラスの中身は何度も空になっていて、誰と飲んでいたのかも今自分がどこにいるのかも、もう曖昧だ。指先が痺れて、頭の奥がふわふわしてどうしてか、スマホだけがやけに重く感じる。……やだな。そう思いながら画面を見ていた。履歴の、上のほう。何度もかけ合って、何度も取り合った番号。
——ホークス。
理由なんて、最初から、用意していなかった。ただこの瞬間に声を聞きたかった。それだけだ。
発信してから耳元で流れるコール音が、実際の長さよりも引き延ばされて感じられる。ひとつ、ふたつ、と数えるうちに、胸の内側で落ち着きのないものが、騒ぎ始めた。
『——はい』
取った。その瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れたみたいに音を立てる。
「あっ……もし、もし……」
自分の声が思っていた以上に掠れていて、喉の奥がひりつく。言葉を発しただけで感情のほうが先に零れ落ちそうになる。
『名前さん?』
わずかに、緊張を帯びた声。午前中にも聞いたはずの声なのに距離がまるで違う。受話口越しにあるだけで、こんなにも近い。
「……う、うん」
『え、どうしました? すんません、着信相手、見らんで出た』
少しだけ間が空く。その沈黙がこちらの状態を測る時間のようで、私は息を整え損ねる。
『今、どこですか』
問いかけというより、状況確認だった。私は、笑おうとして口角を持ち上げきれずに失敗する。
「わかんない」
『……飲んでます?』
「うん」
正直すぎた返事のあと、向こうが、言葉を失う気配が伝わってくる。電波のせいじゃない、考えている沈黙。
『……どれくらい』
「たぶん、結構」
電話の向こう側、短く息を吸う音が聞こえた。抑えられた呼吸。感情を整えようとする彼の癖。
『名前さん、今日の午前中、普通でしたよね?』
「うん」
『だから……心配になるんですけど』
言葉を選ぶための、わずかな停滞。その一言で視界がにじむ。理由のわからない涙が勝手に意思もなく溜まっていく。
「……ごめん」
『謝らないでください』
返事は早かった。遮るみたいに、でも、やわらかく。
『今、誰かと一緒です?』
「……たぶん、いない」
『今、たぶんは、困ります』
少しだけ苦言めいた言い方。でも声は低く落ち着いている。責めるより先に、状況を整えようとする声だ。
「……誰もいない」
『動けます?』
「……うーん」
頭の中で、身体の状態を確かめる。足の感覚、視界の揺れ、重たい重力。
「無理かも」
そう答えた後に聞こえた音。ため息ではない。でも、決断の前に息を整えるときの静かな呼吸が伝わってくる。そして『——じゃあ』と彼は声の調子を変えずに言った。
『位置情報、送れます?』
午前中と同じ口調。端末の話をしていたときと何ひとつ変わらない声。その平常さが今の私にはどうしようもなく救いだった。受話口の向こうで彼が立ち上がる気配まで、なぜだか、想像できてしまって、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……ホークス」
名前を呼ぶ。呼んだだけなのに、喉の奥が熱を持つ。
『はい?』
返事は、すぐだった。迷いも、探る間もない。そこにいる、という確信だけが届く。
「……今日さ」
『はい』
「午前中は、普通だったよね」
『……そうですね』
すこしだけ考える間があった。それでも否定はしない。「じゃあ」と、言葉が途中で途切れる。頭の中には思いが溢れているのに声にすると形を保てない。
「なんで、夜だけ……」
『……』
「こんなに……ダメなんだろ——」
受話口の向こうが、静かになる。数秒。けれどそれ以上に長く感じる沈黙。そのあいだ私は息を浅く繰り返しながら答えを待つというより許可を求めていたのかもしれない。
『……それは』
彼はすぐには続けなかった。軽く誤魔化す事も理屈を並べる事もせず言葉を探すというよりどの距離で差し出すかを測っているような沈黙だった。逃げ道を用意しない代わりに、踏み込みすぎない、その、独特の間。
『普通、だと思います』
声はいたって穏やかで、断定を避ける響きだった。正しさを押しつけるでも、慰めに逃げるでもなく、ただ「そういう日もある」という事実を、静かにそこに、置くみたいな言い方で。
『昼は、立っていられても』
「……」
『夜は、座り込む日もあります』
その言い回しが、あまりにも彼らしくて、私は思わず小さく息を漏らしてしまう。笑ったつもりだったのに、目の奥が急に熱くなる。気を抜いた拍子に、感情の向かう先を、取り違えてしまったような、そんな感覚。
『……今から行きます』
「……」
『俺が、行くんで』
真っ直ぐな言葉だった。唐突ではあるけれど、思いつきではない。決めてから口にしている声。距離も時間も、自分で引き受けるときの、それ。
「無理、しなくていいよ」
反射的に言った。相手を思っているふりをした遠慮と、自己防衛が混ざった言葉だと、自分でもわかっている。それでも、簡単に「来て」とは、言えなかった。
『無理じゃないです』
しかし返事は早い。迷いを挟まない即断。その短さが彼の選び方をはっきり示していた。出来るかどうかじゃなく行くと決めたという事実だけを残す言い方。
『名前さんが、無事でいることのほうが大事なので』
淡々としているのに揺るがない声。その一言で胸の奥に張りつめていたものが、音もなく緩む。
通話は、そこで切れた。余韻だけが耳に残り、私は椅子に身を預ける。背中が触れた背もたれの冷たさが、ようやく現実を思い出させる。あまりにも彼らしい判断であまりにも一直線で。助けを求めたことを後悔しなくていいと思わせてくれる人がいることに、今さら気づいてしまった夜。
——だめだ。このままでは、あのヒーローは、必ず来る。
酔いの膜に包まれて曖昧になっていた思考が、そこでようやく、現実の輪郭を取り戻した。あのヒーローは、口先だけで、「行く」と言う人じゃない。仕事を途中で切り上げることも移動手段を無理に確保することも躊躇わない。そういう人。だからこそ、今ここで止めなければならない。
私はゆっくりと息を整えて、もう一度スマートフォンを握る。指先に残る微かな震えを意識して押さえ込む。折り返しの発信。コールの音が鳴る前に、相手が出る。
『はいっ?』
少しだけ息の切れた声。何か、作業をしながら話しているのが、ありありと伝わってくる。
「あの、ごめん」
『なんすか。今、急いで仕事、片付けてて——』
「大丈夫」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。逃げない声。揺らがないつもりの声。
『……へ?』
短い沈黙。彼の思考がそこで一度止まったのがわかる。
「大丈夫そう。もう」
『本当に?なんか、説得力ゼロなんですけど?』
「うん。でも……さっきよりは、全然」
私はテーブルの上のグラスを見つめながら言った。中身はもう空っぽだ。ただ酔いの名残だけが体の奥に静かに沈殿している。
「ホークスの声、聞いたら……元気出た」
『……』
「聞きたかったから。ホークスの、声……」
沈黙。電話越しに、彼が何かを飲み込む気配がした。
『それ……今、言います?』
「今じゃないと、言えない」
『……』
また、短い間。慎重に言葉を選んでいるのが、はっきりとわかる間だ。
『……本当に、行かなくて、いいんですか』
「うん」
『あとで、具合悪くなったり』
「なったら、また連絡するよ」
『……約束ですよ』
「約束」
渋々、という響きが声に滲んでいた。納得しきれていない。それでも、私の言葉を尊重しようとしている。その葛藤が、逆に胸に刺さる。
『……じゃあ』
「うん」
『今日は、行きません』
「ん、ありがとう」
私の言葉をしっかりと受け取ったあと、小さく息を吐く音が、耳に反響する。
『でも』
「なに」
『ちゃんと、水飲んで、もう帰って、暖かくして寝てください』
「はいはい」
『……はいはい、じゃないです』
「……はい」
そのやり取りにあと、ほんの少しだけ、空気がほどけた気がした。
『……帰ったら、連絡して』
「うん。お仕事、頑張って」
『ほどほどにします』
通話が、切れる。スマートフォンの画面が暗くなると私の周りの世界もまた静かになる。けれどさっきまでの孤独とは、どこか質が違った。
来なくていい、と言えたこと。そして、それを彼がきちんと受け止めてくれたこと。酔いはまだ残っている。それでも、私はもう大丈夫だった。
夜はまだ長い。でも、独りで沈みきるほどではない。暗くなった画面をしばらく握りしめたまま耳の奥に残る彼の声を反芻する。落ち着いていて早口で、判断が早い、あの声。
『 ……今から行きます。俺が、行くんで 』
その一言だけで、胸の奥が、きゅっと縮んだ。なぜ私は振られたのか。なぜ、こうなったのか。まだ整理はつかない。ただひとつだけ、はっきりしている。午前中と同じ世界に、夜の私はもう、立っていられなかった——それだけだ。
*
それは——先の電話よりもさらにひどかった。時刻は深夜の二時を少し過ぎたところ。店を出てからどれくらい経ったのかも曖昧で、街灯の光がやけに白く画面の明るさが目の奥に刺さる。指が思うように動かず、通話ボタンを押した記憶すらどこか他人事のようだった。ただコール音だけが耳の内側で反響している。
『……っ、ちょ! ずっと連絡、待って——、』
「ねえ聞いてぇ〜ホークス!あのね、私さっき」
出た——!と思った瞬間に相手の声を遮る形で言葉が、堰を切ったように溢れ出た。
『……名前さん?』
「ちがうっ! あ、ちがうくないかぁ」
『なんが……』
「いやー、違わないけどぉ〜」
『……』
「そうじゃなくてぇ、あの人がさ〜?なんかぁ、こー、やさしい顔してさぁ〜?」
自分でも何を主語にしているのかわからない。それでも、酔った口は止まらない。
『——ちょ、ちょっと待ってください』
制止の声を、私は軽々と飛び越える。
「君は悪くないって言うの、ずるくなーい?悪くないなら続けなよって話じゃなーい?ねえ、聞いてる?ホークスぅ!」
語尾が伸びて、自分の声が、知らない人のものみたいに響く。
『……聞いてます。聞いてますけど』
彼の声は低く、落ち着いていた。昼間と同じ、現場対応の声。その安定感が今の私には妙に心地よくて、だからこそ、勢いづいてしまう。
「午前中さぁ、普通だったんだよぉ〜?」
『……』
「端末持ってきてさぁ、壊した!って、言ってたでしょー? あれ、絶対わざとでしょー?」
『それは違います』
「でもさあ私、ちゃんと笑ってたし、コーヒーも飲んだしぃ、なのに、夜になったら——」
言葉が絡まる。何を言いたいのか、自分でも、掴めない。感情だけが先に走って、後から理由を探している。
『名前さん、あの。』
彼がすこしだけ、慎重に割り込んでくる。声のトーンが、ひとつ下がる。
『二回目の、質問ですけど』
「ひゃい!」
『……今、どこです?』
「椅子」
『場所を聞いてます』
「……えーと、ベンチぃ?」
『じゃ、なくて。あなたの居場所』
私は視線を上げて、周囲を見回した。ネオンが滲んで、文字が読めない。看板の色だけが、ぼんやりと溶け合っている。ここがどこなのか、説明できる言葉が見つからない。
「なんかぁ……光ってるとこぉ?」
『それ、情報量ゼロです』
「ごめぇーん……」
謝りながら、なぜか笑ってしまいそうになる。可笑しいわけじゃない。ただ感情と身体の境目がもう曖昧だっただけ。
「たぶん、駅……じゃない、駅……?」
自分でも本当に曖昧すぎると思う。言葉にした瞬間、それが頼りない音として夜に溶けていく。
『名前さん』
低く名前を呼ばれた途端、意識が少しだけ引き戻される。声が、さっきよりわずかに強い。
「はぁい?」
『動けます?』
「……たぶん、無理かなぁ〜?」
語尾が勝手に伸びてしまうからもう仕方ない。自分の声が、自分のものじゃないみたいだ。
『椅子から立てない感じですか』
「う〜ん。重たいぃ」
本当に重たいのはたぶん身体じゃないと思う。それでも今は、その区別がつかない。
『立てます?』
「立てる!ふふ」
そう言って、勢いで体を前に傾ける。足に力を入れたつもりが、視界がぐらりと揺れて、失敗。結局また、椅子に戻った。
「……ねぇ〜、無理だったぁー」
『ですよね』
その「ですよね」がやけに優しい。責めないし驚きもしない。ただ、受け止めるだけの音。
『……てか、帰ったんやなかと?』
「あー、帰ってますん!」
『はぁ。どっちばい』
「帰ってなぁーい!」
自分でも可笑しくなって、ついにケラケラと、笑い出してしまった。自分の笑い声に誘い笑いを受けて、どうにも止まらない。
『わかった、わかりましたから』
「はははっ!あー、おかしいっ」
『まずは、深呼吸しましょう。今、俺が言うことだけ聞いてください』
「やだ」
『……即答しないでくださいよ』
少し困ったような間が挟まる。その沈黙が変に今は、安心する。
「ホークスさァ」
『はい?』
「私って、重い?」
急に、核心みたいな言葉が知らずに口から飛び出す。めんどくさい女だ。夜中にヒーローに電話をして、こんなことを聞く女。絶対にモテない。それは今この瞬間、自分がいちばんよくわかっている。
『……今は』
「んー?」
『酔ってます』
「ひどぉーい」
『事実やけん』
それでも、「重い」とは言われなかった。否定されなかった。その事に胸の奥が少しだけ緩む。私の声も、自然と小さくなる。
「ねえ、あのね」
『はい』
「午前中の私と夜の私、別人みたいじゃない?」
『……似てますよ』
「うそ、やだぁ〜」
『嘘じゃないです』
「むぅ〜……」
『どっちも、名前さんです』
はっきりした声。胸の奥がきゅっと縮む。否定でも慰めでもない、ただの、事実みたいな言い方だった。それでも私は、意味もなく、続ける。
「じゃあさぁ」
『……はい』
「ハイティーンなってめちゃくちゃなこと言ってても、嫌じゃない?」
『……』
「こうして、夜中にヒーローに電話しても?」
『……』
「あっ、いま『自覚はあるんすね』って言おうとしたでしょ〜? ビンゴっ☆ふふっ」
沈黙。電話の向こうで少しだけ間が空く。私の頭もほんの少し、冷静になる。
『正直に、言いますね』
「うんっ」
『支離滅裂です』
「ひどい!」
『でも』
「……」
『ヒーローでも、切ろうとは、思ってません』
その一言で視界が滲んだ。夜の光がぼやける。ため息がこぼれる。あ、泣きそうだ……。
「うぅ、ホークスぅ……」
『はい』
「ごめんね……」
『いえ。謝らんで、いいですよ』
「でも……」
『今は酔ってて、傷ついてて、判断力が落ちてるだけなんで』
きっぱりとした声。冷静な分析。でも、絶対に突き放さない。
『行くけん』
「え?」
『俺が、行きますから』
「……」
『今の位置、送れます?』
今日いちばん優しい声音で言われて私は震える指で画面を操作する。文字が滲んで何度か、押し直す。
「……送ったぁ」
『……なるほど。確認しました』
その短い返事に安堵が滲む。私はベンチの背に体を預け、もう一度目を閉じる。夜はまだ深い。でももう、独りじゃなかった。
『いいですか、今から言うこと、ちゃんと聞いてください』
「うーん……」
『寝らんでくださいよ』
「はーい……」
子どもみたいな返事になってしまう。それでも彼は、声を荒げない。
『まず、その場を動かないでください。絶対に』
「えー、うーん……」
『人が多いところなら、そのまま座ってて』
「人……いる、かなぁ」
『いたら、なおさら動かんで』
「動かーん……」
その声に、少しだけ笑いが混じった気がした。たぶん、呆れている。でも、見捨ててはいない。夜の空気が、少しだけ冷たくて、頭の奥で鳴っていた音が、ゆっくり遠のいていく。
「ねえ……ホークスぅ?」
『はい?』
「……電話、切らないままで、いい?」
声にすると、弱さがそのまま形になる気がして少しだけ躊躇った。でも、隠す元気はもう残っていなかった。
『いいです』
即座に返ってくる。その速さが躊躇いのなさを物語っている。
「黙ってても?」
『それで大丈夫です。むしろ、切らんで』
語尾が、ほんのわずかに柔らかい。私は、何も言わず通話を繋いだまま呼吸だけを続ける。息を吸って吐いて、それを繰り返す。夜の冷気が肺の奥に溜まり、ゆっくりと身体を冷ましていく。
ハイティーンで支離滅裂で、格好悪くて感情の置き場もわからない夜。それでも彼は電話の向こうにいて、切らずに、同じ時間を共有してくれている。午前中のちゃんとしていた私と夜の完全に壊れてしまった私。そのあいだを、彼の声だけが無理なく行き来していた。そして電話は本当に、切れないままだった。
「……もしもし」
私が不意に、確かめるみたいに呼びかけると、『いますよ』と、必ずそう返ってくる。その一言だけで、世界がまだこちら側に留まっている気がした。
「ねえ、ホークス」
『はい』
「私さ」
言葉が途中でほどけてしまい、しっかりとした形になってくれない。
「……ちゃんと、ダメだったんだよね」
『ちゃんと? 何がです?』
「恋愛」
ネオンの灯り、人の声——。夜の隙間に、短い沈黙が落ちる。
『ダメだった、って思ってる時点で』
彼は、すぐには結論を出さなかった。夜の空を飛びながら考えているのが、音の間から伝わってくる。
『ちゃんと、向き合ったんだと思いますけど』
「……慰め?」
『事実でしょ』
また、即答だった。遠くで風の音。規則正しい羽音。彼がこちらへ向かっているのが通話越しにもはっきりわかる。
『名前さん』
「なぁに」
『今、俺が着いたら』
「うん?」
『怒られますか』
「なんでぇ? 怒らないよ……嬉しいよ」
『泣かれます?』
「……それは、わかんない」
『了解です』
淡々とした返事。その落ち着きが逆に可笑しくて、私は小さく笑ってしまう。笑うと、喉の奥が少しだけ痛んだ。
「ねえ」
『はい』
「ヒーローってさぁ」
『はい』
「こういうのも、任務の一環?」
『……残念ながら、今日は——』
「……」
『任務じゃないです』
ほんの一瞬、声が緩む。その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。熱いのに、騒がしくない。
「……あ」
不意に視界の端で影が動いた。風が舞った気がした。街灯の下、羽はもう畳まれていて私服で、それでも、立ち姿だけでわかる人影。
『いた』
「……ほんとに来たぁ」
『当たり前でしょ。行くって言ったんだから』
電話の向こうでも、同じ声がする。なんだか、不思議な気分だ。
『見えました』
彼は通話を切らないまま、ゆっくりと近づいてくる。そして、ようやくたどり着くと、私の前にしゃがみ込み、目線を合わせる。距離が縮んでも急がない。その仕草が、なんとも彼らしい。
「こんばんは」
「……こんばんはぁ〜、ヒーロー。ふふっ」
近くで見ると思ったより端正な顔をしている。それに気づいた瞬間、別の意味で胸がざわつく。
だめだ——酔ってるな、私。そう思いながらも目を逸らせなかった。
「立てます?」
問いは短い。試すでも、急かすでもない声音。
「……たぶん」
「じゃあ、ゆっくり」
彼は手を差し出す。でも、掴ませる前に、ほんのわずか、間を取る。
「触っていいですか」
「……うん、触って」
「いや、言い方」
指が重なる。力は強くない。引き上げるのではなく崩れない位置を教えるだけの支え方。足裏に重さが戻ってくる感覚を私は一つずつ確かめる。
「すみませんでしたぁ……」
「謝るポイント、そこじゃないです」
口からこぼれたその言葉に、淡々と返される。一回目の電話で嘘をついたことを、ここで指摘されるのだと思っていた。けれど彼は違うところを見ていた。
「今日は、よく耐えました」
「耐えたぁ?」
「朝から」
その言い切りに言葉が途切れる。評価でも同情でもない。ただの事実として、彼はそう置いた。
「帰れます?」
「……どこに」
「選択肢、二つありますけど」
彼は、指を二本突き立てる。ピースサインだ。平和の象徴。場違いなほど、穏やかな仕草。
「タクシーで、ご自宅」
「うん」
「もしくは——」
「……」
「俺の、セーフハウス」
迷いはあった。でも躊躇は長く続かなかった。
「……迷惑じゃ、ない?」
「今さらですよ」
ため息混じりではあったものの、即答だった。余計な説明は添えない。「じゃあ……」と言葉を濁す私に、彼が先に線を引く。
「越えないです」
「……」
「今日は、完全に介抱案件なので」
その言い方が可笑しくて、そして頼もしくて、胸の奥が静かにほどける。私は、短く頷いた。
「……じゃあ、後者でお願いします」
「はい、了解しました」
彼は私の手を離さず歩幅を合わせてゆっくりと歩き出す。電話は、いつの間にか切れていた。
支離滅裂で情けなくて、どうしようもない夜。それでも彼はちゃんと現実に現れて私を立たせてくれた。午前中の私と夜の私。その間を、今度は彼の背中が、黙って繋いでいた。
彼の背中は思っていたよりも近かった。夜風にさらされながら歩くあいだ、私は半歩遅れて彼の腕に軽く掴まっていた。掴んでいる、というよりそこに触れていないと重心が定まらない、というほうが正しい。アスファルトの感触が靴底から、じわじわと伝わってきて世界がまだ回転をやめていないことを、否応なく思い出させる。
ホークスは私に、歩幅を合わせてくれていた。意識しなければできない微妙な速度で。私がふらつくたびに個性の羽根ではなく肩で、ほんの少しだけ距離を詰める。その動きがあまりにも自然でそれは、ヒーローの仕事というよりも彼の長年の癖みたいに見えた。
「……重くない?」
酔いで、舌が思うように動かないのを意識して整えながら聞いた。言葉そのものよりもその奥に含めてしまった不安のほうが先に零れ落ちそうになる。迷惑になっていないかという問いと、重荷だと思われたくないという願いが無意識のうちに混ざっていた。
「大丈夫です」
返事は、早かった。考えてから出した言葉じゃない。即座に、判断済みの結論だけを落とす声。軽くもなく、押しつけがましくもない。
「重いかどうかで判断する場面じゃないので」
「なにそれ」
「今は、連れて帰るかどうか、です」
淡々とした言い切りだった。感情論を挟まずに役割を自分に引き受ける時の口調。その線引きの仕方が、あまりにも彼らしくて、私はそれ以上、言葉を足せなくなる。だから代わりに小さく息を漏らした。笑ったつもりだったのに音にならなかった。
タクシーの後部座席に収まると車内の静けさが急に現実味を帯びてくる。エンジン音と、ウインカーの規則的な点滅。ホークスは私の隣に座り、シートベルトを締めてくれる手際まで落ち着いている。彼は行き先だけを短く告げると、それ以上運転手と会話はしなかった。私は窓の外に流れる街灯を眺めながら、頭の中で言葉を探していた。振られたこと、惨めな電話、支離滅裂な独白——どれも今さら言い直すには遅すぎて、かといって言わなくていい理由も、逆に見つからない。
「……さっき」
沈黙が長く続きすぎて耐えきれなくなった私のほうが先に口を開いた。言葉を選んだというより間に何か挟まなければ息が詰まりそうだった。
「電話、ひどかったでしょ」
ホークスは、すぐには返さず、ほんの少しだけ視線を落としてから考えるように黙った。記憶をなぞるというより、どう受け取ったかを確かめるための沈黙だったと思う。
「はい」
あまりにも率直な答えに、思わず苦笑いが漏れる。誤魔化してくれた方が楽だったのに、と一瞬だけ思ってしまうくらいには。
「でも」
言葉の続きを探すようにして彼は一度、呼吸を整えた。感情のままではなく、ちゃんと、意味のある形にしてから口にしようとする癖。
「必要だったと思います」
「……なにが」
「吐き出すのが」
彼は、こちらを見ない。視線は前方、フロントガラスの向こうに固定されたままだ。
「午前中の名前さんは、ちゃんと立ってました」
「……」
「だから、夜に座り込む分まで、昼に無理してたんじゃないですか」
その優しい言い方があまりにも的確で胸の奥がきゅっと縮む。見透かされている、というより、ちゃんと見ていた、という感じがして。
彼のセーフハウスに着く頃には酔いが少しだけ引いていた。引いたぶん、情けなさがはっきりと形を持って現れる。
エレベーターの鏡に映った自分は目元が赤くて口元に、力が入っていない。感情だけが前に出たような顔でとにかくひどい顔面だ。部屋に入るとホークスは、迷いなく照明を少しだけ落としカーテンを閉め切って、ソファに私を座らせた。水を用意し私の鞄を丁寧に扱う動作も過不足がない。
「……慣れてるね」
「介抱、ですか」
「……うん」
「まあ……」
彼はそう言って曖昧に笑った。その笑みは場を和ませるためのもので、肯定も否定も選ばない、逃げ道を含んだ表情だった。深掘りされることを想定しながらそれでも話題を切り捨てないためのぎりぎりの位置に置かれたような笑い。
「職業柄、というより」
言葉を継ぐ前に彼はほんの少しだけ間を取る。軽口の延長で終わらせることもできたはずなのに今はそうしなかった。その沈黙には、冗談にしてしまうには収まりの悪い何かがきちんと含まれている。
「これに関しては、人として、です」
その言葉が、静かに胸に落ちる。私はソファの背に頭を預け天井を見上げた。ここは、安全だ。少なくとも今夜、私は一人じゃない。そう思った途端、張り詰めていた何かが、ようやく緩む。
「……ねえ」
「はい」
「私、振られたんだよ」
「……聞きました」
「理由、よくわかんなくて」
「わからないまま終わることもありますって」
「あるよね」
短いやり取りのあいだに、呼吸が整っていく。心臓の音も、さっきほど騒がしくない。
ホークスは、少し距離を取った位置に座り直した。触れない、踏み込まない。その線を、今夜もきちんと守る姿勢。
「今日は」
「うん」
「ちゃんと休みましょう」
「……帰らなくていい?」
「今は、ここでいいです」
��今は��——。その限定が、ありがたかった。私は目を閉じる。意識が沈んでいく手前で、彼の声が、もう一度だけ届いた。
「名前さん」
「……なに」
「明日、起きたら」
「……」
「午前中の自分に、戻ってなくていいです」
それは慰めでも、約束でもなくて、ただの許可だった。私は何も返さないままソファに沈み込みしばらく天井を見ていた。照明を落とした室内は夜の輪郭だけを残して静まり返っている。遠くで冷蔵庫のモーターが小さく唸り時間が進んでいることをかろうじて教えてくれる。その沈黙をまた彼が破った。
「……起きてます?」
「……うん」
「……あの。一個だけ、いいですか?」
声は低くいつもの丁寧さを保ったままだけれど少しだけ、慎重でもあった。私はゆっくりと目を閉じたまま、小さく返す。
「なに」
ホークスは一拍、言葉を探す。私の方を見ている気配が目を瞑っていても皮膚越しにわかる。
「……なんで、そんなに」
そこで、もう一度、ホークスが息を吸う。
「恋愛、したいんですか」
質問は、思っていたよりも、真っ直ぐだった。責めるでもなく諭すでもなく純粋に��知ろう�≠ニする形をしている。私はそれに、すぐには答えられなかった。恋愛がしたい。その言葉は便利で、雑で、でも否定しきれない。欲しい、というより必要だと、信じたかったのかもしれない。独りで立っている時間が長すぎると、誰かと並んで歩く理由を、過剰に探してしまうものだから。
「……寂しいから、って言ったら」
沈黙の底に溜まっていたものが、ようやく喉のあたりまで浮かび上がってきて、私はそこで目を開けて一度だけ躊躇してから口を開いた。言ってしまえば戻れないとわかっている言葉ほど、どうしても、最後まで手元に置いてしまう。
「正直すぎる?」
ホークスは、答える前に、ほんのわずか視線を動かし、それから、静かに首を横に振った。否定でも、肯定でもなく、受け止める側に立つための仕草。
「いえ」
「じゃあ」
私はソファの肘に指を引っかけて、革の感触を確かめる。身体のどこかを固定していないと言葉まで一緒に揺れてしまいそうだった。選ばなければならないのはきれいな言い方じゃない。自分に嘘をつかない順番だ。
「寂しいのと、怖いのと、あと……」
言葉がそこで一度、詰まる。続きは頭の中でははっきりしているのに、声にするには少しだけ、勇気が要った。黙ってしまえば、また元の位置に戻れる。その誘惑を、息と一緒に押し下げる。
「このまま、何も変わらないまま歳を取るのが、ちょっと……嫌だった」
言い切った途端に、胸の奥がひりついた。吐き出した言葉は、戻らない。ホークスは、すぐには反応しなかった。沈黙は長くないけれど、軽くもない。言葉を急がずに、ちゃんと考えてから話す人だということを、私はよく知っている。
「……変わらない、って」
「うん」
「今の生活が、ですか」
「生活、っていうか……」
私は、それまで天井に預けていた視線を、ゆっくりと彼のほうへ移した。考えを整理するために上を向いていたはずなのに言葉にする段階になって、どうしても、彼の顔を見ておきたくなった。
「自分の、立ち位置。」
仕事はある。責任も、信頼も、積み上げてきたものも。けれど、夜になると、ふとした拍子に、自分が誰かの��選択肢�≠ニしては、どこにも置かれていないような感覚に襲われることがあった。それは、欠落というほど大げさなものじゃない。ただ、確かに存在する空白のようなもの。
「誰かに選ばれたい、って、思うのはさ」
言葉を続けながら、私は自分の声の調子を確かめていた。感情に流されていないか、同情を誘う響きになっていないか。
「……弱い、かな?」
ホークスはすぐには答えなかった。その代わり背中を預けていた姿勢を、少しだけ改める。肘の位置を直して、視線をこちらに向ける。それが、話を受け取る準備が整った、という合図みたいに見えた。
「……人として、普通だと思います」
「ヒーロー的には?」
少し冗談めかして投げると、彼は、小さく苦笑する。軽く受け止めつつ、逃げない笑い方で。
「ヒーローでも、人なんで」
「……」
「ただ」
そう言ってから声のトーンを少しだけ落とす。ヒーローの肩書きではなく個人として話すときのそれ。言葉を継ぐ前に短い沈黙が挟まり、余計な部分を削って、必要なところだけを残そうとしている時間が置かれる。
「選ばれるために、無理するなら」
そこで、彼の視線が、まっすぐに私を捉えた。逸らさず、測らず、確認するような眼差し。
「それは、名前さんじゃなくなる気がして」
その言葉は静かに胸の奥へと沈んだ。叱られているわけでも止められているわけでもない。ただ私という輪郭を、彼がちゃんと把握していることだけが、確かに伝わってくる。
「……私さ」
私は目を伏せて少しだけ口元を緩めて言った。深刻になりすぎないようにするための癖みたいな笑い方で。
「自分が、無理してるのかどうか……わからなくなるときがある」
「ありますよね」
「ホークスも?」
「はい」
声音は穏やかでも、迷いのない、返事だった。自分を良く見せようとしない、正直な即断。
「だから」
そこで一度、彼は、言葉を区切る。経験として積み上げてきたものを整理するための間だったのかもしれない。
「たまに、立ち止まります」
声は落ち着いていて、余計な装飾がない。そうすることで生き延びてきた人の、実感のこもった響き。
「相手が欲しい、って気持ち自体は」
彼は続ける。言葉を足すというより、補足するように。
「悪いことじゃないです」
「……でも?」
「でも……」
次の一文を選ぶための沈黙。軽くも、長すぎもしない。私は言葉の続きを待つ。
「その理由が、名前さんを削るものなら」
「……」
「俺は、心配します」
そこで彼は、はっきりと言った。��俺は�≠ニ。主語がきちんと、自分だった。曖昧さを残さずに責任の所在を自分に引き寄せるように——。私はしばらく黙ってから、深く息を吐く。
「……ありがとう」
「謝らないでください」
「ねえ。謝ってないし」
「え、そうでした?」
「感謝申し上げたの」
「じゃあ、いいです」
その応酬が少しだけ可笑しくて、私はまた目を閉じた。相手が欲しい理由は、ひとつじゃない。寂しさも焦りも期待も、全部が、混ざっている。それをこんなふうに問われる日が来るとは思っていなかった。でも問われたことで少しだけ自分の輪郭が、戻ってきた気がした。
「……今日は」
「……」
「答え、出さなくていいと思います」
「……うん」
「今は、休みましょう」
私は頷く。この夜は、解決のためにあるんじゃない。ただ、立ち止まるためにある。
ソファの向こうで彼の気配が少しだけ遠のく。それでも同じ空間にいるという事実だけで、今は十分だった。