その日のホークスとの約束は取り立てて特別なものではなかった。仕事を終え、駅で落ち合って飲む。それだけの、よくある夜。
私は改札を抜け人の流れに身を預けながら待ち合わせの店の名前を頭の中でなぞっていた。彼が選ぶ店はだいたい外れがない。肩肘張らずに話せて、帰り道に余計な余韻を残さない。そんな場所ばかりだ。
駅前の空気は少し湿っていた。人の声、電車の音、店先から漏れる油の匂い。夜が始まる直前の落ち着ききらない雑踏。その中で異変は前触れもなく起きた。叫び声。次いで空気が一段ざらつく気配。人の流れが歪み、視線が一斉に同じ方向へ向く。遠くで何かが砕ける音がして、私は思わず足を止めた。理屈より先に身体が警戒する。胸の奥が、薄く冷える。
「えっ……ヴィラン?」
誰かの声がひび割れた空気をなぞる。次の瞬間視界の端で人の動きとは思えない跳躍が走った。関節の向きも重力の扱いも、明らかにおかしい。歪んだ力の使われ方だ。理性を欠いた暴走——。駅前の広場に、異質な熱がにじみ出る。
逃げなきゃ——そう思ったはずなのに足は前に出なかった。正確には、出なかったのではない。別の感覚が、先に前に出てきたのだ。誰かと肩が触れる。その接触の瞬間に、皮膚の奥で、何かが弾けた気がした。電気とも痛みとも違う、もっと生々しい衝動に近いもの。喉の奥がきゅっと締まり、歯の裏側が妙に意識される。
私は一度、息を吸う。吸ったはずなのに空気が足りない。身体の内側がざわざわと騒ぎ始める。熱が下からせり上がってくる感じ。理由の見当たらない昂り。抑えどころを失った感覚。頭では、危険だとわかっている。それでも身体はすでに、別の答えを出しかけていた。
そのとき、ポケットの中で、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥が、わずかに静まる。
「……ホークス」
こぼれた独り言は人の声に紛れて消える。私は人混みから外れ、壁際に身を寄せて通話に出た。
「もしもし……」
『あっ、もしもし! 名前さん!?』
「うん……」
『今、近くでヴィランが暴走してます!無事ですか!?』
受話口から聞こえる声はいつもより少し高い。現場に入っているときの仕事の声だ。その調子を耳にしただけで、私は反射的に答えていた。
「うん……大丈夫、だよ」
『本当ですか? 怪我は』
「ない、よ。ない。ちょっと騒がしかったけど」
思わず嘘が混じった。けれど今の自分の状態をそのまま説明できる言葉を、私は持っていなかった。電話を握る手がじんわりと熱を帯び、指先に余計な力が入る。胸の奥とは別の場所で、噛みたい——という衝動が小さくうずき、理性がそれを押さえ込むのに一瞬だけ遅れる。
『今、俺が対応してます!もうすぐ包囲できると思うんで」
「……そっか」
『処理が終わったら、すぐ店、向かいますね!』
「いや、無理しないで? 今日は中止でも——」
『大丈夫ですって!待っててください。ねっ?』
いつもの展開。いつもの流れ。彼は彼の役割を果たしていて、言葉も態度も、何ひとつ変わっていない。変わっているとすれば、私の方だけだ。身体の内側で説明のつかない違和感が燻っていてそれが会話のテンポから、ほんのわずかに私を、ずらしている。
「……じゃあ、先に行ってるね」
『はい!気をつけてくださいね』
一瞬、言葉が喉の奥で引っかかりそうになる。��気をつけて�≠ニいう、いつもならば何でもないはずの一言が、今の私にはやけに鋭く刺さった。まるで、すでに何かが起きていることを、見透かされているみたいで。
「……うん」
『適当に、飲み食いしちゃっててくださーい!』
いつも通りの軽く、柔らかい言い方だ。けれどそれが、今は少しだけ、遠く感じた。
「わかった」
『あとで合流します』
通話が切れる。耳元から彼の声が消えた途端、周囲の音が一気に戻ってくる。
私は深く息を吐き、壁に手をついた。歯の裏がまだ疼いている。身体の奥で抑えきれない何かが確かに目を覚ましてしまっていた。これはただの体調不良じゃない。そう直感しながら、私は人の少ない道を選び、店の方角へ歩き出す。彼が来るまでの時間をどうやってやり過ごすか。そのことだけを、考えないようにしながら。
店に着くまでの道が、やけに長く感じられた。足は前に出ているのに、意識だけが一歩、遅れてついてくる。人の少ない裏道を選んだのは、正解だったと思う。今誰かと接触したら——そう想像しただけで喉の奥がひりついた。私は歩きながら何度も自分の身体を確認する。呼吸。脈。指先の温度。歯の裏側に残る、妙な感覚。
——噛みたい。心の中で、呟いた瞬間、ぞっとする。欲望というより、反射に近い。興奮というより制御が抜け落ちた感じだ。私は唇を強く噛み顎に力を入れて、その衝動を内側に押し戻した。
ダメだ。これは、私のものじゃない。店の前で一度、立ち止まる。ガラスに映る自分はいつもと変わらない顔をしている。変わらない、はずだ。私は深呼吸を繰り返して、体内の熱を押し下げるように背中を壁につけた。……大丈夫。大丈夫。呪文みたいに繰り返して、ようやく、店に入る。
カウンターの端に座り、店員にビールを頼む。冷えたグラスを両手で包むと、少しだけ気持ちが落ち着いた。冷たさが、今の私には必要だった。喉を通る苦味が衝動を鈍らせてくれる。それでも完全には消えない。人の気配が近づくたび首元のあたりがざわつく。肌の内側が、微かに疼く。
(個性事故……?)
遅れてその言葉に辿り着いた。さっきの接触。あの一瞬。あれが引き金だったのだと、ようやく理解する。興奮を噛むことで抑えるなんてそんな作用、聞いたこともない。けれど、身体の感覚がそれを否定しなかった。
ホークスに、言うべきか。いや、今は無理だ。私はグラスを空にし、次を頼むか迷ってやめた。アルコールは判断を鈍らせる。今日は鈍らせたくない。そのとき、入口のほうがわずかに騒がしくなる。——来た。気配だけでわかる。空気が切り替わる、あの感じ。視線を上げる前に身体が反応してしまうのが、いちばん怖かった。
「名前さん」
ホークスの声だ。思っていたより、近い。
「遅れてすみません」
「……ううん。大丈夫」
そう答えた声がちゃんと平坦だったかのか自分ではわからない。彼は私の隣に座りジャケットを脱ぐ。その動作一つ一つが、やけに目に入る。
「大変でした?」
「え……なに、が」
「騒がしかったでしょ。着くまで」
「あ、ああ。まあ……そんなには」
曖昧に返す。彼が笑ってメニューを見る。その横顔がいつもより近くて、落ち着かない。首元。顎のライン。脈が打っているであろう場所が、はっきり想像できてしまう。——近づいちゃだめ。心の中で、警告を鳴らす。同時に、身体の奥が、逆の指示を出しているのがわかる。私はグラスを持つ手に力を込めて視線を逸らした。
「……名前さん?」
「……ん?」
「なんか、緊張してません?」
鋭い。目敏い。私は少しだけ笑って誤魔化す。
「……駅前、ちょっと物々しかったから」
「ああ……ですよね」
彼は納得したように頷く。その距離感がありがたいのにつらい。噛みたい衝動が、じわりと強くなる。抑えなきゃ。絶対に抑えなきゃいけない。私は新しく届いたグラスを口に運びながら、心の中で繰り返す。
これは、事故だ。一時的な異常だ。ホークスに触れちゃいけない。でも。彼がこちらを向いて、何か言おうとする。その瞬間、私は、息を止めてしまった。再会は、こんなにも危うい。それでも今はまだ、踏みとどまれている。そのことだけが私を座らせたまま、ここに留めていた。
お酒のペースもいつもと変わらず私が三杯目のグラスに手を伸ばしたころだった。
「——で、現場はどうだったの?」
できるだけ、いつもの調子で聞いた。グラスを置く音も、視線の高さも、変わらないように意識する。
「んー、駅前にしては被害少なめで済みました」
「そっか。よかった」
「名前さんが無事だったのが、一番ですけど」
さらりと言われて、胸の奥が、きゅっと縮む。私は笑って誤魔化しつつ、つまみを一口齧った。味は、ちゃんとわかる。けれども、熱が舌に残るような感覚だけが、消えない。内側のほうから、じわじわと。
「——それにしても、」
「……ん?」
「ヴィラン騒ぎとは関係なく、今日、人多かったですねー」
「……あー、金曜だしね」
当たり障りのない会話。彼はメニューを閉じ、ビールを一口飲む。喉が鳴る音が、妙にはっきり聞こえた。私は意識がそちらに引っ張られそうになるのを、指先でテーブルを押して止める。
「名前さん」
呼ばれて、顔を上げる。
「……なに?」
「ちょっと、近く寄って、いいです?」
動揺して、目が泳いでしまった。しかし彼は、返事を待たずに少しだけこちら側に身を寄せた。触れない距離。けれど、危ないくらいに、近い。
「顔」
「え」
「赤いです」
指摘されて、初めて気づく。確かに頬が熱い。自覚は多少あったけれど外から見てもわかるほどだったらしい。
「……ペース、早かったかな」
「それにしても、です」
ホークスは不満そうに眉を寄せて、視線を私の目元から、額へと移す。確認するみたいな目。
「熱っぽくないですか」
「……ちょっと、暑いかもね」
嘘ではない。けれど、それ以上を言う勇気は、まだ、今の私にはない。
「さっきの騒ぎで、気が張ってたんじゃ……」
「そう、かもね」
遮るように言ってしまった私を一瞥して、彼は納得しきれていないような顔のまま、持っていたグラスを、カウンターに置いた。
「お水、頼みましょうか」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない人ほど、そう言います」
軽い口調。けれど、その目は真剣だ。この場で強がっても何の意味もないと私は観念して小さく息を吐き、頷いた。
「じゃあ、頼んでもらおっかな」
「はい」
ホークスが店員を呼び、水を頼む。その間も、私から、目を離さない。見張るというより、気にかけてくれている視線。
「無理してませんよね」
「してない……つもり」
「��つもり�≠ヘ、だいたい怪しいです」
苦笑まじりに言われて、私は肩をすくめる。
「心配性」
「職業病です」
水が届いて、私はグラスを手に取る。冷たさが指先から徐々に伝わってくる。すると少しだけ、気が楽になった。
「……ありがとう」
「いえ」
短い返事。でも距離は戻らない。こちらを心配そうに伺う、その視線も。
「今日は」
「……」
「早めに切り上げてもいいですし」
提案の形。強制ではなく選択肢として差し出されるそのやり方が、なんとも彼らしいと思う。
「……様子見て、決めよ」
「はい」
私はそう言って、グラスに口をつける。まだ、抑えられている。彼がここにいる限り少なくとも今は——。
ホークスは何事もなかったように、また日常の話題に戻す。その一方で私の変化をきちんと視界に入れたままで。その気配がありがたくて今は少しだけ、苦しかった。
店を出ると夜の空気が思ったより冷たかった。さっきまで身体の内側に溜まっていた熱が外気に触れて一度だけ引く。引いた、はずだった。歩き出すとまた別のところからじわじわと戻ってくるのを、私は気づかないふりでやり過ごす。並んで歩く距離はいつもと同じ。肩は触れない、けれど離れすぎない。街灯の下を通るたび、影が一瞬、重なって、すぐにほどける。
彼がポケットから、スマホを取り出したのは、駅前の喧騒を抜けたあたりだった。歩きながら、画面を確認して、短く息を吐く。
「……あー、なるほど?」
独り言みたいな声が、横からこぼれる。
「なに?」
「塚内さんからです」
足取りは変えないまま、画面を見つめている。
「やっぱ、個性ばら撒いてたみたいっすね」
「……そうなんだ」
「色々まだ、調査中だそうで」
彼は一瞬、言葉を選ぶ間を置いてから、淡々と続けた。
「��他人を噛むことで感情を抑制させる�≠チて、作用が確認されてるらしいです」
「……噛む?」
思わず声が裏返りそうになるのを抑える。彼は気づかない。あるいは——気づかないふりをしてくれている……?
「ええ。解除条件は未確定。時間経過か、接触の反復か……その辺も、まだ」
「……物騒だね」
「ですね。だから、初動で押さえられてよかったです」
彼は、スマホをポケットにしまって、いつもの調子に戻る。話題としては、そこで終わり。私は頷きながら歩き続ける。ただ、足元だけを見て。
噛むことで、感情を抑制。その言葉が頭の中で反響する。喉の奥が途端にひりつく。歯の裏側にさっきよりもはっきりした存在感が戻ってくる。私は無意識に唇を結んで、呼吸を浅くする。
「……名前さん」
不意に名前を呼ばれて、そっと、顔を上げた。
「……なに?」
「ちょっと、歩くペース落とします?」
——気づかれていた。私は気づかれないようにしていたつもりだったのに。
「別に……大丈夫だよ」
「……」
「ありがとね」
「息、上がってます」
彼は足を止めないまま、横目でこちらを見る。私は「えっ?」と、間の抜けた返事を返したが、この空気は、たぶん良くないやつだ。やめて……お願い。それ以上、言わないで——!
「……うそ……、気のせい」
「さっきから、そればっか言ってますよ」
責める声じゃない。ただ、確認する声。それが今は少しだけ、逃げ場を塞ぐ。
私は一度だけ立ち止まって、深呼吸を試みる。うまくいかない。胸の内側で、熱が跳ね返る。
「……ちょっと、暑いだけ」
「上着、脱ぎます?」
「いや」
即座に否定してから、自分でもおかしくなる。彼は何も言わずに私の横に立ち視線を私の額から目元、口元へと静かに移す。
「……名前さん」
「……」
「本当に、大丈夫です?」
問いは短い。けれど、その背後に、さっき彼が口にした事故の話が、確かに伏流していることを私は知っていた。夜風が通りを抜け頬に触れる。涼しいはずの空気なのに身体の奥に溜まった熱は少しも、引いてくれない。むしろ、外気に触れるたび、内側との落差がはっきりして、余計に意識させられる。口の奥で熱がうねる。舌の裏がじわじわと痺れて、歯の根元に、押し返すような圧がかかる。
噛みたいという衝動が理由もなく立ち上がってくる。理屈では抑えられるはずのそれが、今日はどうしても、言うことを聞かない。胸の奥から、あの感覚がまた再びせり上がってきた瞬間、私は考えるより先に、指先を伸ばしていた。彼の服の端を、無意識に掴む。
頼るつもりはなかった。けれど今は触れずにはいられなかった。自分の声は思った以上に掠れていた。
「……だめ。もう、どうにもならない……」
言葉にした途端、現実になってしまう気がして怖かった。それでも、止められなかった。彼が、はっと目を見開くのがわかる。
「どうしよう、ホークス……」
「……」
「助けて——っ」
縋るような声だった。自分でも驚くほど、切羽詰まっていた。今にも泣き出しそうな視線で彼を見上げると、琥珀色の瞳と真正面からぶつかる。
ホークスの喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。その小さな動きにさえ胸がざわつく。彼は、すぐには口を開かなかった。言葉を急がず誤らず私の呼吸の速さごと、受け止めようとする沈黙。ヒーローとしてではなく、ひとりの人間として、踏み込みすぎない距離を測っている時間。やがて声を落として、慎重に問いかけてくる。
「……なにか、されました?」
私は答えなかった。ただ、否定もしなかった。その沈黙を彼は責めない。そして少しだけ視線を逸らし続ける。
「ヴィランと——接触したんですね?」
確認するようにもう一度投げかけられた問い。答えが辛いことをちゃんと分かった上での問い。私は、ようやく今度こそ小さくひとつ頷く。喉がひどく乾いていた。
「……うん」
彼が短く息を吐く。責めるでもなく、驚くでもない。ただ状況を飲み込むための呼吸。その音が妙に優しかった。私は掴んでいた袖から、そっと指を離す。自分の手が熱を持っているのが、はっきりとわかったから。
「なんではじめから言ってくれなかったんすか」
言葉とは裏腹に咎める調子ではなかった。逆にそれが、余計につらい。
「ごめん……」
それ以上、言えなかった。彼は少しだけ距離を詰めて、私の顔を覗き込む。視線が合う。
「しんどかったでしょ?」
「……、」
「今は?」
それは心配している人の顔だった。ヒーローの顔でも、表面上見せている、彼の仮面でもない。私個人を案じるその表情に、胸の奥が、きゅっと締まる。
「……、」
「名前さん?」
名前を呼ばれて、ようやく、抑えていたものが決壊した。
「——たい」
「え?」
自分の声が、震えているのがわかる。それでも言い直すことはできなかった。
「噛みたい、ホークス……」
言ってしまった瞬間、夜の音が、遠のいた気がした。通りを抜ける風が、二人のあいだを静かに吹き抜ける。まだ触れていないのに、距離だけが確かに、縮まっていた。
*
「だから! どうするっていうんですかっ!」
「大丈夫だってば! なんとかするって!」
声が思ったよりも大きくなった。夜の歓楽街に私たちの荒い足音と言い合いだけが浮いている。ホークスは足を止めないまま困ったように、はたまた、怒ったように眉を寄せる。
「なんとかって、どうやってです!?」
「……、」
「まだ解除条件も判明してないのに!」
街の明かりが、アスファルトに淡く滲む。その下を並んで歩きながら、私たちはまるで噛み合わない会話を延々と続けていた。
説明しよう——。今、どうして夜道で彼と言い合いをしながら歩いているのかと言えばすべては先ほど私が小さく零した一言から始まっている。
『自分で……なんとかするから、気にしないで』
ただ、それだけだった。彼にだけは迷惑をかけたくなかった。それ以上でもそれ以下でもない。けれど、その言葉はヒーローである彼にとっては到底、聞き流せるものではなかったらしい。
「お金払って、そういうお店に、行くとか——」
「はぁ!?!?」
ホークスがそこで完全に足を止めた。勢いよく振り返る。その表情に冗談の余地は一つもない。
「……と、とにかくっ!大丈夫、心配しないで」
「そんな爆弾発言されて、心配しないわけないでしょうが!」
夜気を切るみたいな声だった。私は思わず唇を噤む。彼の声に怒気が混じっているのは珍しい。それだけで、胸の奥がちくりと痛む。
「それ、本気で言ってます?」
「……応急処置としては、合理的でしょ」
「合理的とか、そういう話じゃないです!」
彼は言い切った後こめかみに指を当て短く息を吐いた。羽根が、いつもの調子で全開であれば、きっと逆立っていたと思う。先ほどヴィラン退治に使用したからか今日はいつもよりも少なめだ。
「第一、あなたがそんな状態で、知らない人間のとこ行くなんて」
「でも」
「でも、じゃないです」
その声は低く、怒りを全く抑えきれていない。
「……噛むことで抑制される可能性があるって話なんですよ?」
「……うん」
「だったら、なおさらです」
彼はもう一歩私の前に出る。道を塞ぐほどじゃない。でも確実に逃げ道をなくす距離ではある。
「危険です。あなたにとっても相手にとっても」
「ホークス……」
「それに」
一瞬、言葉を選ぶ沈黙が落ちた。街の明かりが彼の横顔に影を落とす。
「俺が知ってて、行かせるわけないでしょう」
その言い方が、あまりにも真っ直ぐで私は返す言葉を失った。身体の奥で、あの熱がまだ燻っているのを感じながら、それでも、さっきより少しだけ、息が落ち着いていることにも気づく。
「……迷惑、かけたくなかっただけ」
「迷惑じゃないです」
「でも——」
「心配なんです、それだけ」
私の言葉に被せるように即座に言い切ると彼は視線を逸らした。怒っているのに冷静でいようとしている。その不器用さが胸に残る。
「……だから、考えましょう」
「なに、を……」
「安全な方法を。ちゃんと」
ホークスはまた、歩き出す。さっきよりもほんの少しだけゆっくりと。私をひとり、置き去りにしないような速さで。
「一人で抱え込むのは、禁止です」
「……はい」
「俺が、ついてるんですから」
夜道に、再び足音が重なる。衝動はまだ消えていない。けれど今は暴走していない。彼の背中を見ながら、私は思う。——このヒーローが、受け止めてくれている。それだけで少しだけ、世界がまともに見えた。
歩幅を合わせているつもりなのに、身体の内側だけが少しずつ先へ行ってしまう。夜気は冷たいはずなのに、首筋から背中にかけてじわりと熱が溜まっていくのが、わかる。呼吸を深くしようとするほど、胸の奥に重たい空気が残る。
——おかしい。さっきよりも、確実に、強い。噛みしめていた奥歯が、無意識に触れ合う。歯の裏側、舌の付け根。そこに集まる感覚が、やけに鮮明で、思考より先に身体が反応し始めている。私は拳を握り、爪が掌に食い込むのを確かめた。
大丈夫。まだ、抑えられる。そう言い聞かせた矢先、すぐ隣でホークスが息を吸った。その音がやけに近く感じられる。空気を切るみたいな彼の呼吸の輪郭。わずかな体温の差。歩調が、ほんの一瞬、揃っただけなのに。
——だめ。喉の奥が、きゅっと締まる。視界がわずかに狭まる。街灯の光がにじんで世界が輪郭だけになる。
「……名前さん?」
呼ばれて、はっと、顔を上げる。声に、揺れが混じっていなかったか確かめる余裕もなく、私は横に首を振った。
「平気」
「……ほんとに?」
彼は歩きながら、ちらりとこちらを見る。その視線が今は少しだけ重い。心配と警戒が混じったヒーローのときの目。
「顔、赤いです」
「……歩いたから」
「それだけ?」
問いが短く私は答えず視線を前に戻す。言葉にしたら今の均衡が秒で崩れてしまいそうだった。熱は引かない。むしろ芯を作って、そこから広がっていく。
噛みたい、という感覚は、もう単なる衝動ではなかった。輪郭を持ちはじめ焦点を結び無意識のうちに対象を探している。内側からせり上がってくるそれに私は思わず首を振る。違う。違う——私は、歩く速度を意図的に落とした。距離を取るためのごく小さな抵抗。それでもその変化にあの彼が、気づかないはずがなかった。
ホークスが足を止める。私も、つられるように立ち止まる。途端に夜の音が戻ってきた。遠くを流れる車の音。自販機の低く、くぐもった唸り。さっきまで、意識の外に押しやっていた現実が、しっかりと輪郭を取り戻す。
「いま、息、」
「……」
「上がってますよね」
指摘されて初めて気づいた。胸が小刻みに上下している。呼吸が浅く、早い。喉がひりつくほど乾いて唾を飲み込む。その動作だけで、舌の裏がじんと痛んだ。
「……大丈夫、だから」
「その��大丈夫�≠ヘ、信用できないやつです」
冗談めかした言い方をしようとして途中で引っ込めたのがわかる。声の温度が少しだけ下がる。
「自分で、なにかやってみました?」
「……」
「名前さん」
「……腕を、」
「腕を?」
「噛んでみたけど……効果、なかった」
その瞬間、彼のまなじりが、わずかに上がる。そして断りもなく私の腕を取り、袖を肘の上までたくし上げた。
「……はぁ。痕、残っちゃってるじゃないすか」
「はい……」
「これ、いつやったんです?」
問い詰める調子ではない。ただ、確認する声。やがて、そっと腕が離される。私は力なく、その腕を下に垂らした。
「さっき……居酒屋の、トイレで……」
「……自傷行為に、走ったわけですか」
「はい……」
ホークスは何度目かわからないため息をついて後頭部を、ぽりぽりと掻いた。
「……ちょっと」
「え?」
「イーって、やってみてください」
「……イー?」
言われるまま歯を見せると彼が私の口元を覗き込んだまま、ぴたりと動きを止め目を見開いた。
「……牙、生えとー」
「え!?」
思わず声が裏返り、私は、慌てて鞄を漁った。小ぶりの鏡を取り出し自分の口元を映す。さっきトイレで確認したときにはなかったはずの変化がそこにはあった。ドラキュラ、というほど大仰なものではない。けれど確かに上の歯の端、犬歯に近い位置に少しだけ尖った歯が二つ。無理に想像すれば獣の名残のようにも見える。鏡越しに見た自分の顔がほんの少しだけ、知らないものに見えた。
「また……来てます?」
「……」
投げかけられた問いに、答えられない沈黙が、肯定になる。私は視線を落とし、アスファルトの細かなひび割れを見つめて、そこに集中しようとする。でも意識はどうしても、目の前に立つ人の存在へと引き戻される。——距離。匂い。呼吸。近い。身体が、勝手に一歩、前へ出そうになる。私はそれを、必死で止める。自分の手首を掴み、震えを抑える。
「……ホークス」
「……」
「……ちょっと、強くなってきてる、かも……」
声が思ったより震えて掠れていた。告白というより報告だった。彼は何も言わずただ一度、深く息を吐いた。
「……わかりました」
短い返事。けれどその中に覚悟みたいなものが滲んでいる気がして私は顔を上げてしまう。その瞬間、目が合った。近すぎる。触れていないのに触れているみたいな距離。衝動が、確かに、跳ね上がる。——まだ、だめ。そう思ったはずなのに喉の奥で、熱が鳴った。
これは前兆だ。逃げ場のないところまで、もう来ている。私は、息を整えながら、必死に立っていた。彼の前で、壊れないために。
「……もう、限界近いですね」
前を向いたまま、彼が言った。断定ではなく、確認でもない。現状報告。ヒーローが現場で口にする種類の声だった。
衝動が前に出ようとするたび私は足元に意識を落とした。ここで崩れたら取り返しがつかない。自分の身体が、もう自分だけの管理下にないと、はっきり自覚してしまったから。
ホークスは何も言わずに歩き出した。引っ張るでもなく急かすでもない。ただ、迷いなく方向を変える。その背中に判断の速度がある。人通りの多い通りを外れ裏道に入る。ネオンが減り街灯の間隔が広がる。夜の音が少しずつ薄まっていく。私は、彼の歩調に合わせながら、呼吸を数えた。三つ吸って四つ吐く。それでも熱は収まらない。
「……ごめん」
「謝らなくていいです」
即座に返る。その早さが今はありがたかった。余計な感情を挟まないための選び抜かれた応答。角を曲がった先で彼は一度立ち止まった。視線を走らせる。通行人の数、監視カメラの位置、明かりの具合。私はその横顔をただ見ていた。迷っていない顔だ。優先順位が、はっきりしている。
「……人目、完全に切りたいです」
そう言ってから、彼は少しだけ言葉を選ぶ間を置いた。
「選択肢、限られますけど……」
「……うん」
否定も、確認も要らなかった。私の返事は短かったけれど、それで十分だったのだと思う。
彼がふと視線を上げる。そこに、派手な看板があった。光は控えめで、通りから一歩、奥に引っ込んだ場所。見慣れた種類の建物なのに、今まで深く、意識したことはなかった。
「——ここなら、」
彼が、こちらを見る。判断を押しつけない目。選ぶ余地を、ちゃんと残している視線。
ラブホテルだ。一瞬だけ胸が強く鳴った。別の意味での緊張が、重なってくる。
「休憩、です」
「……」
「誰にも、見られません」
その言い方が、あまりに現実的で、私は逆に、笑ってしまいそうになった。いや……笑えない。今の私は、笑ったら崩れてしまう。
「……わかった」
声が思ったよりも低く出た。頷くと彼はほんのわずかに肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「……なんで、ホークスが、礼言うの」
そう言いながら私は足を進めた。人目を避けるようにして辿り着いた場所は、あまりに静かで、ネオンの色も、看板の文字も、夜の中に溶け込みすぎていて、ここがどんな用途の場所なのかを、あらためて意識させる必要すらなかった。入口に近づくにつれて身体の内側の熱がまた、一段強くなる。場所の意味が否応なく意識に触れてくる。けれど今はそれどころじゃない。ここは、隠れるための場所で、抑えるための時間を、稼ぐための選択。ホークスは受付に向かいながら、私の方を一度も見なかった。それが彼なりの配慮なのだとわかってしまうのが、少しだけ苦しい夜。
ここまで来た。衝動はまだ、消えてはいない。むしろ次の段階を待って、息を潜めている。それでも——。人目のない場所に辿り着いたという、事実だけが、かろうじて、私を繋ぎ止めていた。これ以上、誰かを傷つけないために。そして彼の前で、自分を見失わないために。
部屋の扉が開き、内側の空気が流れ出す。外とは切り離された静かな空間。私は先に一歩足を踏み入れた。そしてホークスは扉を閉める前に静かに言った。
「……ここからは、俺が管理します」
その言葉が、合図だった。逃げ場のない夜が、ようやく形を持ち始める。扉が閉まる音がやけに大きく響いた気がした。部屋の空気は、外よりも少しだけ重い。換気されたはずの匂いの奥に消えきらない何かが、残っている。そのせいか、私の身体の奥の熱がまた一段強くなった。背中に汗がにじみ、喉が渇く。歯の根元が、じん、と疼く。
「……座って。」
ホークスの声は低く短かった。命令ではない。ただ、状況を整理するための言葉。私は言われるままベッドの端に腰を下ろす。シーツがわずかに沈む感覚が妙に現実的で逆に現実感を失わせる。
「名前さん」
呼ばれて、顔を上げる。彼は、私からきちんと距離を取った位置に、立っていた。近づかない。触れない。けれど、逃げもしない。その姿勢が、今はひどく、残酷に思えた。
「今、どんな感じですか」
問いは淡々としている。でも目は逸らさない。
「……熱い」
「どこが」
「全部……」
「……」
「とくに、口の中……」
正直に言った瞬間、恥ずかしさよりも、安堵が先に来た。隠さなくていい。その事実が少しだけ私を楽にする。ホークスは一度、ゆっくりと息を吐いた。肩がわずかに上下する。
「衝動は」
「……ある」
「強い?」
「……強い」
言葉にするたび身体がそれを肯定するみたいに内側から熱を返してくる。噛みたいという感覚がもはや思考ではなく、反射に近づいているのが、自分でもわかった。
「……俺、近づきません」
「……」
「でも、ここにはいます」
「……」
「一人にもしない」
それは、救いでもあり、試練でもあった。私は唇を噛みしめる。歯が触れ合う感覚だけで背筋に小さな震えが走る。
「ホークス……」
「はい」
すぐに返ってくる声。距離は変わらないのに、確かに、私の方へ向けられている音。
「お願い……」
「……何を」
わかっているくせに、彼は、あえて言わせる。その優しさが、今は意地悪にすら感じる。
「……噛みたい」
「……」
一瞬、彼の呼吸が止まったように見えた。ほんのわずかな変化だ。それでも、私には、わかってしまう。
「俺を、ですか」
「……うん」
答えた途端、胸の奥がきゅっと縮む。怖さと、期待と、罪悪感が、同時に押し寄せてくる。ホークスは、ゆっくりと首を振った。
「それは、ダメです」
「……っ」
明らかに拒絶の言葉なのに声音は、柔らかい。突き放すためじゃない。線を引くための言葉だ。
「今、俺がそれを許したら」
「……」
「名前さんはきっと、自分を責める」
図星だった。胸の奥に否定の言葉が浮かぶ前に結論だけが落ちてくる。そうなる自分の姿がありありと想像できてしまって、もはや反論の余地がなかった。
「それに」
「……」
「俺も、たぶん……止まれなくなる」
正直すぎる告白に、胸が強く脈を打つ。怖さと同時に、彼が自分を制御しようとしていることが伝わってくる。彼は視線を逸らさない。その目は感情を誤魔化すためではなく、境界を守るために私を見ていた。
「だから、噛ませない」
「……」
「ここで、止めます」
私は、膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、じわりとした痛みが生まれる。その痛みを頼りに、衝動を押し戻そうとする。自分の身体を自分でここに、留めるために。
「……苦しい」
「わかってます」
即座に返ってくる言葉。慰めでも同情でもない状態を正確に捉えた応答。
「でも、今、耐えられてます」
「……」
「ちゃんと、選べてる」
彼の言葉は評価ではなく事実として置かれた。逃げていないことも暴走していないことも、彼はもう見抜いている。私は噛まないという選択を、今この瞬間も続けている。その事実がほんの少しだけ誇らしくて、同時に、胸の奥をひどく、締めつけた。
時間だけがゆっくりと流れていく。秒針の音が聞こえそうなくらいに、この部屋は静かだった。
やがて、身体の奥の熱がわずかに形を変える。暴れる衝動からじりじりとした余韻へ。完全には消えない。でも、支配されるほどでもない。
「……落ち着いてきました?」
それにちゃんと気づいてくれたらしいホークスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「……少し」
「よかった」
彼はそれ以上近づかなかった。触れなかった。差し出しもしなかった。それなのに噛まなかったことがこんなにも強く、胸に残ってしまうなんて思わなかった。選ばなかった行為の重さと、守られた境界線。その両方を抱えたまま私は深く息を吐く。
それでも再発は、前触れなくやってきた。あの感覚が突然小さく火を点ける。確実に同じ方向を向いている熱。口の奥がじんと疼く。歯の裏側に意識が集まる。
(——来る)
私は一度、深く息を吸う。数を、数える。足の裏の感覚に意識を戻す。それでも熱は、完全には引かない。むしろ、抑え込むほどに、輪郭を持ちはじめる。
「……名前さん?」
「……、」
「大丈夫そう、じゃないですね」
彼は一目で見抜く。私の呼吸の浅さを、視線の定まらなさを、言葉にしきれないまま表に滲んでしまっている変化を——隠そうとした気配ごと、すべて、まとめて。
「……少しだけ」
「少し、で済む顔じゃない」
「……」
「確認します」
声が、少し低くなる。一歩、また一歩と距離を詰めて、彼は静かに、私の前にしゃがみ込んだ。視線が合う。逃げ場のない近さなのに、圧迫感はない。ただ、誤魔化しがきかなくなるだけだ。
「今、衝動は」
「……ある」
「噛みたい、って方向ですか」
「……」
答えない沈黙が、そのまま答えだった。彼は、一瞬だけ目を伏せ、それから、確かめるように、ゆっくりと私を見あげる。判断を急がないけれど見逃さない目だった。
「同じ選択も、できます」
「……同じ、選択?」
「……噛まない。距離を取る。時間経過で、やり過ごす」
それは正しい。安全で、後悔が残りにくくて、今、この瞬間まで何度も選んできた方法。理屈としては、何ひとつ間違っていない。けれど、胸の内側で、別の感覚がはっきりと首を振っていた。
「それだと……」
「……」
「もう、途中で崩れる気がする」
声に出した瞬間、自分でも驚くほどに、言葉は迷わず落ちた。予感ではなく、実感に近い。耐え続けるための余力が、もう残っていないことを、私は自分自身でわかっていた。ホークスは、その言葉を遮らない。否定もしない。ただ受け止めるように、小さく頷いた。
「ホークス、ごめん……」
言ってから喉の奥がひりついた。謝罪なのか、別れの前触れなのか、自分でも判別がつかない。彼は、何も言わない。ただ、こちらを見ている。その視線が、逃げ道を塞ぐ。
「一緒にいてくれて、ありがと」
感謝の言葉はどこか他人行儀で今の距離を象るみたいだった。だからこそ、続く言葉が、ひどく残酷になると、わかっていた。
「でも——わたし、もう……」
言い切れなかった。言い切ったら引き返せなくなる気がしたから。このままでは本当に苦しい。衝動は形を変え鋭さを増して、私の中で居場所を探している。誰でもいい、迷惑のかからない人。金銭で解決する手段だってこの街にはいくらでもある。理性がそう囁く。安全で説明がつく選択肢だと。
私は立ち上がった。彼とは視線を合わせない。合わせたらきっと、戻れなくなる。扉へ向かう。呼び止める声は、かからない。一度も振り返らず取っ手に手を伸ばすと冷たい金属の感触が現実を引き戻す——はずだった。
「……じゃあ」
背後から、声が落ちてくる。距離は詰めない。足音もない。それなのに、その一言だけで私は、動きを止めてしまった。
「もっと、危ない方法があります」
振り返る。目が合う。ぞくりと背筋を、何かが走った。拒絶とは違う。恐怖とも、すこし違う。選択肢が増えたことへの、純粋な緊張。
「……なに」
自分の声が、思ったより低く室内に響く。
「今、名前さん」
彼の声は静かで淡々としている。現場で事実を確認するときの、あの調子だ。
「誰か、他の人で解消しようとしてますよね」
図星だ。否定する言葉が、見つからない。彼の言葉は冷静で、残酷で、そして——正しかった。
私は半ば諦めたように短く息を吐く。胸の奥で何かがきしむ音がした。
「……このままだと、苦しい」
「はい」
即座の返答。慰めも、引き留めもない。ただ、現状の共有。逃げ道はない。強制もない。だからこそ、これは��選択�≠ノなる。彼は私に、一歩も近づかないまま、続けた。
「俺で、いいですか」
「……え?」
聞き返した声が少しだけ遅れた。言葉の意味を身体が先に、理解してしまったせいだ。
「俺がその、相手になっても——」
胸の奥で、何かが大きく鳴った。選ばなかったはずの可能性が今、目の前に差し出されている。まだ、触れていない。それでも、この夜はもう、後戻りできないところまで来てしまっていた。
私はベッドに浅く腰を下ろしている彼の前まで歩み寄った。足音を忍ばせるつもりはなかったのに室内は不思議なほど静かでわずかな衣擦れさえ耳に残る。彼の目の前、その場に立ったまま視線を落とすと、ホークスは、ゆっくりと顔を上げ、私を見つめ返してきた。互いに、言葉を持たないまま視線だけが行き交う。逃げ場を塞ぐためでも追い詰めるためでもない。ただここにいるという事実だけを確かめ合うための沈黙だった。
「……いい、の?」
問いは弱く、けれどもちゃんと、逃げ道だけは含ませたつもりだ。
「はい」
「ほんと……に?」
彼は言葉を重ねなかった。ただ黙って頷いた。声を出す代わりに小さく息を吸って、顎を引き、視線を外す。そのまま右の肩を差し出す。まるでこの衝動が引くのをただ待つのではなく、今すぐ「食らってもいい」と、言わんばかりに。
「ごめんね」
「はい」
「ありがと……」
「——はい」
それが、合図だった。私は彼を軽く押し倒し、同時に自分の体重を預ける。シーツが静かに軋み彼の背中が沈む。距離が一瞬で消える。
口の奥がおかしくてどうしようもない。喉の奥から熱が這い上がってきて、歯の根元がじん、と疼く。噛みたいというより、噛まなければ壊れてしまう、そんな、焦燥に近い感覚だった。
「……ホークス」
自分の声が、驚くほど掠れている。呼びかけるだけで胸が上下して、息がうまく整わない。彼は何も言わなかった。ただ見ない、耐える、という意思表示だけを残して。
「……大丈夫です」
そう言いながらも声は普段より低く抑えられていて、感情を沈める意志が滲んでいた。
「今のうちに、しちゃってください」
差し出されたのは、肩だった。服の上からでも分かる張りつめた筋肉。逃げない、という覚悟が触れる前から伝わってくる。
「腕は、ダメだったんでしょ」
「え……」
「なら、消去法で、いきましょう」
私は躊躇った。本当に、この人にしていいのか分からなかった。でも、歯を食いしばって耐えるよりも、誰かを傷つけるよりも、このヒーローを選んでしまう自分がいた。
「じゃあ……失礼、します」
「……はい」
布越しの感触に迷いが生まれたのはほんの短い間だった。数秒後には、足りない、という感覚が先に、結論を出してしまったから。
彼の黒いアンダースーツを寄せて、直に、肌を咬んだとき肩甲骨の上あたりで皮膚が薄く張っていて、少しだけ滑る汗に唇が引っかかった。唇に残るのは、汗の塩気ではなく、躊躇の名残。行為そのものよりも、そこに至るまでの緊張が、強く身体を支配していた。噛むという行為にこれほどまでの熱が宿るとは自分でも思っていなかった。
彼の身体が、びくりとわずかに揺れる。左手が空中で彷徨い、やがて、肘を折って、自分の顔を覆い隠す。歯を食いしばる気配だけが確かに伝わってくる。目元は見えない。けれども、口の端から零れ落ちた声は、苦しげなかすれた息だった。
「……っ!、痛、って……!」
「あ、ごめ……ん、」
「……だい、じょうぶ……です」
なおもかすれた息が、言葉の代わりに零れる。その音に、胸の奥がきゅっと縮む。もっと欲してしまったのだ。
私は歯を、浅く立てる。肉を貫くのではなく、ただ留まりたいという願いのように。彼は片腕で額を押さえたままフー、フーと短く呼吸を刻む。その様子がなぜだか可笑しくて、思わず、小さく笑ってしまった。すると腕の隙間から向けられる視線。やや赤くなった顔で、咎めるように、でも本気ではない睨み。
「……笑わないで、くださいっ、」
「だって……」
言いかけて言葉を飲み込む。今は余計なものを足さないほうがいい。
噛んだ。深くはない。それでも、選んだという事実だけが、確かに残る。衝動は、まだ完全には引いていない。けれど、制御の輪郭は戻ってきていた。二人の触れ合いの境界線は踏み越えられていない。そのぎりぎりの場所に、私たちはまだ、立っている。
「い、痛かったら、手——あげてね……」
「お医者さん、スカ……」
語尾が途中でほどけた冗談に私はようやく息をついた。まだ、言葉が出る。まだ、笑える。その事実が、ささやかな安心になる。
それから私は、彼の肩、首、腕、指へと、噛みやすい場所を選んで移動していった。順番は気まぐれで、動作は控えめ。歯を立てすぎないよう、無意識に、力を調整している自分に気づく。痕が残るのはまずい。その判断だけは最後まで失っていなかった。とはいえ、赤みはどうしても出る。彼の体温が高いせいか、肌全体がうっすらと色づいて見えて、私のしたことが、すぐに溶け込んでいくのが、どこか可笑しい。そして不意に胸元へ顔を寄せた、その瞬間——。
「あ、無理です」
静かな室内に、淡々とした声が落ちた。迷いも間もない。
「え?」
「今、乳首に行こうとしてましたよね」
「あ、うん」
「ダメです、そこは。絶対だめ」
私に組み敷かれたまま、彼は、ぶんぶんと首を振る。必死さが、隠しきれていない。
「でも……同じとこばっかだと、痕が残っちゃうかな、って」
「〜〜っ、なんでそんなとこで気遣ってんすか!真面目かっ!」
「だ、だって……」
「とにかく!絶対ダメ! そこは、だめ!!」
あまりの剣幕に、つい悪戯心が勝ってしまう。揶揄うつもりで、もう一度だけ距離を詰めようとした、そのとき。
「ハイ、ハイハイハイ!!!!」
横になったまま彼の右手がぴん、と天井へ突き上がる。あまりにもきれいな挙手に、私は思わず、きょとんとした。
「え、そんなに……?」
「だめ!ダメダメダメダメ!!ブー!アウト!」
今度は、両手。全力の抗議。その顔は、見事に真っ赤だ。私は彼に跨ったまま、こらえきれず、くすくすと笑ってしまう。すると今度は彼が一瞬きょとんとして、それから、長くて深いため息を吐き出した。肩が大きく上下する。
「あのさぁ……」
「ん?」
「今の俺の状況、考えてくれてます?」
「考えてないね」
「ですよね……」
返事は乾いているのに、声の奥に、力が抜けているのがわかる。その温度差が、なおさら可笑しかった。緊張は、ほどよく崩れていた。境界線はしっかり守られたまま。笑いが混じる夜は危うささえ、少しだけ軽くしてくれるらしい。
とりあえず、衝動がまた頭をもたげる前に私はためらいがちに、彼を見上げた。じっとりとした視線が返ってきて、見透かされているのは明らかだったけれども、やがて、彼が小さく息を吐いて「どうぞ」と許可が落ちる。そうして私たちは、何事もなかったふりをしながら、また元の流れを再開することになった。
「……ん、ホー、……クス、」
「……」
「あ……、ん……っ、」
「——っ、ね、ねぇ……!」
「ん?」
「それ、必要です……?」
「なにが?」
「そ、その……妙な、声……って、いうか」
自分でも自覚はあった。完全に、いらない演出だったらしい。衝動をやり過ごすための動作に、なぜか変なテンションが混ざり結果として、声が漏れてしまっただけだ。今は色気も必然性もないただの、事故処理。しかも、目の前には、理性の塊みたいな男がいる。
「あ、ごめ……。なんか、ノリ、で……さ?」
「あの、もう……」
「はい」
「それ以上、喋んないでもらっていいすか……」
呆れと困惑が半々の声に、私は笑いを抑えつつ素直に口を閉じた。静かになった途端さっきより状況が真面目に戻ってしまって、それはそれで、少し、恥ずかしい。
しばらく彼がいう『アウトライン』を避けて、再び彼の身体を噛みつつ唇をすこしずつ震わせて頬を肩に預けたときだった。布越しに伝わる熱が脚のあいだを這う。視線を下げると彼のズボンの前が、わずかに隆起しているのが見えた。まるで本人も気づかないうちに、立ち上がってしまったような、否応なく誠実な反応だった。私の中で、羞恥と熱と、どうしようもない罪悪感が、せめぎ合う。
「……っ、」
「生理現象です」
「ふふ……言わなくていいよ、わざわざ」
「笑いそうになってたんで」
「ごめんって」
これは、個性事故なのに。これは、ただの事故処理なのに。彼は、その対応をしているだけだ。そう頭ではわかっているのに、胸の奥では、別の感情が、どうしても静まらなかった。
私はこのトップヒーローを��そういう意味�≠ナ傷つけているのではないか、という疑念が、じわじわと広がっていく。尊厳を削ってしまったら、どうしよう。彼が背負っているものの重さを私の衝動で歪めてしまったら。そもそもこんな役目を彼が望んでいるはずがない。そんな考えが遅れて痛みになって返ってくる。
「……ごめんね、ホークス」
不意にそう囁くと我が国のトップヒーローは、肘で目元をぬぐいながらゆっくりと息を吐いた。
「ほんとに……限界ギリギリなんす、名前さん」
顔はまだ隠したままなのに、声は冗談めいて、しかしどこか本音が混じっているのがわかった。その声が、今日いちばん、甘く感じた。
また唇が触れた瞬間、熱が弾ける。皮膚を裂くほどでもない。ただ、歯を立てて留まるように。逃げ場を失った衝動を、そこにだけ、押しつけるみたいにして。
「……っ!」
ホークスの身体がはっきりと強張る。息を吸う音が近くで乱れる。肘で覆った額の奥から短く、抑えた吐息が漏れた。私は、その反応に気づいてしまった。肩の下、腕の付け根。筋肉が、緊張でわずかに震えている。身体が完全に��戦闘�≠ニは違う反応をしているのが分かる。抑えきれない、生理的な熱。それが私のせいだという事実が胸に突き刺さる。
噛んだまま私は、呼吸を整えようとした。でも逆に、彼の体温が移ってきて、思考が鈍る。唇の内側が、彼の皮膚の温度を覚えてしまう。
「……ごめん、」
もう一度そう言うと、ホークスは、肘を額から離さないままで、かすかに首を振った。
「謝らんで、ください」
掠れ声の裏で、少し、笑っている気配がした。自分自身に、呆れたような、それでいてどこか、自嘲するような調子で。
「……それ以上に、俺が、」
「……」
「俺が……耐えきれてない、だけなんで……っ」
「……」
「訓練、不足です。ぜんぶ俺の、問題で……っ」
その言葉に胸が苦しくなる。これは個性事故。不可抗力なのに。それでも彼の理性を削っているのは、間違いなく、この私だった。
ゆっくりと歯を離すと、彼は深く息を吐いた。しばらく、どちらも動けなかった。触れたまま。でも、これ以上は越えない。その均衡が、ひどく危うくて、ひどく、甘かった。
*
ベッドの端で、私は、背を壁にあずけて座っていた。彼は立ったままこちらには寄ってこない。数歩、あえて、距離をとってそこにいる感じだ。
「……ちゃんと、お礼、言えてなかったよね」
私が言うと、彼はわずかに、視線を落とした。けれど否定も肯定もせず、ただ、低く息を吐いてから苦笑いに近い表情で言った。
「……もう一回起きたら、俺……たぶん」
「うん……」
「逃げます」
その言い切りに、私は思わず笑そうになって、咄嗟に息を呑んで目を伏せた。
「……逃げるって、どういう」
「そのまんまですよ」
「……」
「飲み会も二次会も、もうしません。任務口実に連絡も減らしますし、二人きりにもならない」
「……」
「ぜんぶ、距離、置くんで」
彼の声は決して怒っていたわけではなかった。ただ静かに苦しげに、それでも理性的であろうとする色をしていた。
「俺、ぶっちゃけ——限界突破してましたから」
「……」
「歯、当たって……そのまま名前さんが顔寄せてきたとき……」
「……、」
「妙な、声……出しはじめるし」
「……っ、」
「正直、ずっと……動けなくて」
彼の声がどんどん掠れていく。いつもふざけた語尾で流してくれる言葉たちが、今日はどれも、直線的に、私の胸を突いてくる。
「もしまた、もう一回こういうことが起きたら、次は、俺が何か壊します」
「……」
「たぶん、自分を、か……名前さん自身を」
「……」
「どっちにしろヒーローじゃなくなる気がする」
私はその真っ直ぐな一人のヒーローの告白に、何も言えなかった。いや、何も、言ってはいけなかった。
「だから、逃げますんで。守るために……かっこ悪か、ですけど。」
「……」
「俺……こと、あなたに関しては、逃げることでしか守れない人間なんで」
そのとき初めて、彼が少しだけ笑った。皮肉のような、泣きそうな顔で。
「ほんとは……ずっと怖いだけなんですけどね。失うのが——」
「……」
「この関係に��名前�≠ェついたら……終わる気がして」
「……」
「ヒーローしてる身としては、ほんと、情けない話ですけど」
その声が静かに夜に吸い込まれていく。私は、ただその背中を見ていた。彼が『逃げる』という言葉で、私を守ろうとする姿勢に、その不器用な愛情に、何も差し出せない自分の無力さに、喉の奥がきゅっとつまる。
この夜、私はただ黙って自分の指を握りしめていた。彼の��逃げ�≠ェ、本当は、どれだけ必死の��耐え�≠ネのかを、私だけが知っている気がしたから。
外に出ると、空気は思ったよりも冷えていた。私たちは自然と並びながらも少しだけ間を空けて歩き出す。肩が触れない距離。声を出せばすぐに届くのに、互いの体温だけは、重ならない距離。
街灯の光が足元を区切り影が伸びては切れる。その繰り返しが今の私たちの関係そのものみたいだと思った。
「私さぁ……ここを出てくる人たちってみんな、そーいう感じだと思ってた」
歩調を崩さないまま、私は、ぽつりとこぼす。
「……そーいう感じ、とは」
「ん?……ただ、えっちなことするとばっかり、思ってたってこと」
「……」
「けどさぁ、こんなパターンもあるんだねぇ」
冗談めかしたつもりの言葉は夜に吸われて軽くならなかった。沈黙が、二人のあいだに落ちる。足音だけが、一定のリズムで並ぶ。
「……そんな、平和なことばっかじゃないすよ」
ホークスが、低い声で言った。振り返らない。ただ、前だけを見ている。
「え?」
「人間なんてもんは、もっと残酷な生き物です」
その言葉は、誰かを、突き放すためではなく、現実を正確に置くための重さを持っていた。私はそれ以上何も返せなかった。街の灯りが遠ざかり夜の色が少し濃くなる。互いに距離を保ったまま歩く背中が、なぜかとても、近く感じられる。
触れてしまった夜。越えなかった線。それでも確かに共有してしまった何かが歩幅の間に残っている。私たちはそれを言葉にしないまま、ただ、同じ方向へ歩いた。説明のつかないこの切なさは音もなく、街の影に溶けていった。