いつもシャワーを使う順番は、特に決めていなかった。今日は彼が先で、次が私。浴室に残ったわずかな湯気と、石鹸の匂いが、時間差で二人の存在を重ねている。さっきまで彼がいた痕跡が、湿った空気としてまだ残っていてそれが不思議と落ち着かなかった。
 ドライヤーの音を切りリビングに戻ると、ホークスはもうソファに腰を下ろしていた。髪はまだ少し湿っていてラフな部屋着のまま、背もたれに深く寄りかかっている。その姿勢は、くつろいでいるというより、すでに覚悟を決めているように見えた。

「おかえりなさーい」
「……ん、ただいま」
「俺、今日はここで寝まーす」

 こちらを見ずに放たれたその声は、相談というよりもすでに結論を置いていくみたいな調子で、いつの間にか定着してしまったこの夜の流れを、彼自身がいちばんよくわかっているのだと感じさせた。

「またそれ……今日��も�≠ナしょ」

 私はタオルを畳みながら言い返す。視線を合わせないまま手だけを動かしているのは顔を上げてしまったら余計な感情まで拾ってしまいそうだったからだ。布の感触に意識を逃がしながら言葉を選ぶ。

「ソファ、狭いでしょ」
「大丈夫です」
「前も言ってた」
「前も大丈夫でした」
「説得力なーい」

 小さな応酬のあいだ、リビングにはエアコンの低い稼働音だけが流れている。沈黙を埋める、というほどでもなく、ただ間を繋ぐためだけの音。その中で彼は小さく息を吐き、ようやくこちらを見たかと思うと、今度は、逃げるみたいに視線を逸らして呟いた。

「ベッドはぁ……」
「わかってる」

 私はほとんど被せるように言った。先回りするように。説明される前から、そこに並ぶ言葉も、条件も、もう、何度も共有してきたものだ。確認する必要すらないことが、逆に少し可笑しい。

「越えない、でしょ?」
「……はい」

 律儀すぎるほどきちんとした返事。その真面目さが今夜の空気には少しだけ不釣り合いで思わず口元が緩んでしまう。

「だったら、ベッドでいいじゃん」
「だったら、て」
「私たちは、絶対に越えないよ」
「いや、それは……」
「あ。また床論争する?」
「床は、今回は言ってません」
「じゃあ、ソファ論争?」
「……論争、すね」

 彼は困ったように眉を下げる。その表情には、駆け引きや抵抗の色はなくてただどう折り合いをつけるかを真面目に考えている人の顔だった。

「名前さんが、嫌じゃないなら——」

 そこで言葉が一度止まる。途中で組み立て直すみたいに、ほんの短い沈黙が挟まる。その間に、彼がどれだけ、慎重に線を確認しているのかが、はっきり伝わってきた。

「俺は、ここで」
「私が嫌」

 考える間も与えずに即答すると、彼は目を瞬かせた。予想していなかった返事だったのか驚きがそのまま顔に出ている。

「え」
「トップヒーローがソファで丸まってるの、落ち着かない」
「それは……」

 反論を探すように、視線が彷徨って、それから彼は何も言えなくなる。その沈黙は、言い負かされたというより、もう納得してしまった人のものだった。

「前と同じでいいからさ」

 私は何気ないふりで寝室の方を指さす。仕切り直すというより、ただ選択肢を示すだけの動作。

「ベッドで。背を向けて。触らない」
「……」
「同じ条件で、どう?」

 静けさがゆっくりと落ちる。ホークスは、しばらく考え、それから観念したように頷いた。その動きに、どこか安堵の色が混じっている。

「……わかりました」

 渋々なのに、声は柔らかい。やっぱり優しい。そう思った自分を今夜は否定しないことにした。意味を足さなければ、それでいい。

「……じゃあ」
「うん」
「背、向けます」
「うん」
「途中で、寝相悪くなったら——」

 そこまで言って彼は言葉を探すように一瞬だけ視線を泳がせる。条件を追加すべきか、それとも信じるべきか、その迷いが短い間に滲んだ。

「そのときは、そのときね。」

 私がそう付け足すと、彼は目を見開いてから、力の抜けた苦笑を浮かべた。

「雑っすね」
「信頼してるって意味」

 軽く返したつもりだった。でも、その言葉は、思ったよりもまっすぐに届いたらしい。その証拠に、彼の表情が、ほんの一瞬だけ柔らぐ。

「……ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」

 礼を言われるようなことでもないのに、彼は、本当に律儀な人だ。気だるげに立ち上がった彼の背中を確認してから、私が先にリビングの電気を落とす。かすかなスイッチの音が夜を切り替える合図みたいに響いた。ふたり並んで寝室に入る。足音は自然と揃い、言葉はもう、必要なかった。ベッドに横になると、彼は宣言どおりすぐに体の向きを変える。背中を向ける動作に迷いはない。背中越しに感じる体温は近いのに、線の内側に、きちんと収まっている。触れない距離。けれど、存在だけは確かにわかる位置。

「ねえ……?」
「……はい」
「……近くない?」

 決まり文句みたいにくすくす笑いながら言うと彼が、深く息を吐いた。

「これ以上離れると、端です」

 やや不機嫌そうな声色に乗せて返ってきたその真面目すぎる返答に私はまた思わず息を漏らす。

「……おやすみ、ホークス」
「おやすみなさい、名前さん」

 照明を落とした部屋は静かで、暗闇が二人を、同じ大きさで包んでいる。少し遅れて規則正しい呼吸が重なっていくのがわかった。先に落ち着くのは、いつも彼のほうだ。
 変わらないやり取り。変わらない、選択。踏み込まないことを選び続けるその姿勢が今の私たちには、いちばん、ちょうどよかった。
 そう思いながら、私は目を閉じる。背中越しの温度を、ただ、そこにあるものとして、受け取りながら。
 だが、しかし——。これも、お決まりである。夜中にまた、目が覚めてしまった。理由は前回と同じだったと思う。眠りが浅くなっただけ。隣の気配が近すぎたわけでも、夢に引き戻されたわけでもない。ただ、意識だけが先に、水面へ浮かび上がってしまった。
 ホークスは、今日もきちんと背を向けて眠っている。呼吸は静かで一定のリズムを保っている。羽根も動かない。律儀さだけが、暗闇に残されているみたいだった。私は、少しだけ迷ってから、そっと体を寄せる。前回と同じ距離、同じ角度。前と、同じのはず。確認するように息を整える。指先を伸ばす。羽と羽の間、あの場所へ——。

 ……ご
 ……う
 ……よ
 ……く

 特に意味を持たない文字。読む前提じゃない、線に近い形。反応はない。呼吸も、変わらない。だから、今日も私は、調子に乗る。

 ……ま
 ……だ
 ……お
 ……き
 ……て
 ……る
 ……?

 ほんの少し文字数を増やしてみる。書き終えたその、瞬間だった。相手の背中が、わずかに上下する気配。

「……起きてないです」

 低く、寝起きの声。声だけが闇の中に転がってくる。

「嘘つき」
「半分です」

 前と同じようなやり取りに思わず口元が緩む。私は、少しだけ声を抑えて言う。

「今日も律儀だね」
「職業病ですね」

 そう返されて私は小さく息を吐く。指先を引っ込めると、羽根は、何事もなかったみたいに元の位置に戻った。

「……眠れない?」
「さっきまでは、眠ってました」

 線引きの上手な答え。私はそれ以上触れない。代わりに、距離だけを、少し整える。

「起こして、ごめんね」
「いえ。また書いてるなー、って思って」

 寝返りを打つほどでもない、小さな声。暗闇の中で、彼は、相変わらず背を向けたままだ。

「読まないって言ったのに」
「言いましたっけ」
「言った」

 短いやり取りのあと、小さく、息を吐く気配がする。眠りの底に戻る前の、半分だけ起きている音。

「……今回は、なん?」
「内緒」
「こすかねぇ」
「ホークスが読まなきゃいいよ」
「読んじゃいますよ」
「どうして?」
「職業病」

 その言い訳も、もう聞き慣れてしまった。私は少しだけ考えてから今度は短く、はっきりと指を動かす。迷わせない形で。

 ……お
 ……な
 ……じ

「……『同じ』」

 一拍。ほんのわずかな間が生まれる。低く読み上げられて私は、くすっと笑った。声は出さず、息だけで。

「また当てた」
「当てにいかせてますよね」
「半分はね」

 沈黙が落ちる。でも、気まずさはない。何度も繰り返してきた、夜の延長線にある、落ち着いた静けさ。同じ時間をなぞっている、という安心感みたいなものが、そこにある。

「……前と同じで、いいんですか」

 彼が、ぽつりと言った。独り言に近い声音で。

「なにが」
「この、距離?」

 問いは短いのに含むものは多い。私はすぐには答えなかった。言葉にすると形が決まってしまいそうだったから。代わりにもう一文字だけ指先で書き足す。意味はまだ未完成のまま。でも今夜はそれで十分だと思えた。
 背中越しの体温は変わらず、呼吸も同じ調子で続いている。距離はそのまま。選び直さず動かさず、ただ置いてある。前と同じ。それを、今夜も選んだだけ。

 ……い
 ……ま
 ……は

「……『今は』」

 また、低く読み上げられて、私は目を伏せた。本当は『いい』と続けたが、彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ、背中越しに伝わる呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。

「……もう」

 そして、小さく、諦めたみたいな声が落ちる。

「今日は、ここまでにしましょう」
「はーい」
「ほんなこつ、もう読まんけんね」
「はいはい」

 そのやり取りが、いつもの締めみたいで、私は指先を引っ込めた。体の向きを元に戻し、暗闇に視線を預ける。

「……おやすみ」
「おやすみなさい、名前さん」

 呼び方は単調だ。それでも、さっきよりは少しだけ声が近かった。また同じ夜が静かに終わる。同じ距離、同じ約束、同じ背中。そして、たぶん同じ続きを、待っている。
 ——だから。そのまま終わらせるには少しだけ惜しかった。私は体の向きを戻すふりをしてもう一度、指先を伸ばす。さっきよりほんのわずかにゆっくりと。文字を書くというより、問いかけのような速度で。


 ……ね
 ……え


 背中が、わずかに緊張するのがわかる。羽根が動いたわけじゃない。ただ、空気が変わった。

「……なん」

 返事はすぐだった。眠りに落ちきる前の、取り繕わない声。

「読まないって言ったのに」
「呼ばれた気がしたので」
「背中で?」
「背中で」

 私は声を立てずに笑う。今度は短い線を羽根の付け根に沿って引いた。文字にならない、ただの合図。

 ……つ
 ……づ
 ……き
 ……?

 数秒の沈黙。彼は何も言わない。でも、呼吸がほんの少しだけ、浅くなる。起きている証拠だ。そして、呆れたように。でも、責めない声で。

「……引っ張りますね」
「眠くないの?」
「眠いですよ」
「じゃあ、やめましょう」
「……やめる気、ないですよね」

 図星だ。私は最後に、ほんの一言だけ、丁寧に書く。今度は、試すためじゃない。暗闇の中で、二人分の呼吸が、少し時間差で落ち着いていく。

 ……あ
 ……し
 ……た

「……『明日』」

 律儀に読み上げた声は、さっきよりも少しだけ低かった。眠りの縁に差しかかっているのがはっきりわかる。

「……それ、ずるいです」
「なにが」
「期待、残すので」

 責める調子ではない。ただ困ったみたいに落とされた言葉。私は答えなかった。言葉を返せば、意味が確定してしまう気がしたからだ。
 ようやく指先を引っ込め布団の中で体の向きを戻す。見上げた天井は暗く、輪郭も曖昧で視線の置き場には困らない。

「……おやすみ、ホークス」

 しばらく何も返ってこない。呼吸だけが静かに続いている。そして、少し間があってから——

「おやすみなさい、名前さん」

 声は確かに眠りに近かった。起きていることを主張しない、ほどよく緩んだ音。引っ張ったまま答えは出さない。それでも同じ夜の続きを、ちゃんと共有している感覚だけが残る。
 暗闇の中、背中越しの距離はそのままに言葉はもう、増えない。眠りだけが静かに、二人を追い越していく。明日、という余白を、残したまま。


 *


 朝方、夢の縁に引っかかったような浅い眠りの中で、私は違和感に気づいた。
 背中が、くすぐったい。——触れられている。はっきりとした圧ではない。布の上から、指先が迷いながら探るように動く気配。すぐ後ろにある呼吸の律動と羽根の気配が、距離の近さを静かに告げている。私は目を閉じたまま、眠りのふりを続けた。心臓の音が、やけに大きい。胸の奥で、どく、どく、と鳴る。このままでは起きていると伝わってしまいそうで、私は意識的に、息を浅くした。


 ……す


 背中に、確かに文字が書かれていく。私がしていたのと同じ場所。彼でいうところの、羽と羽の間の、逃げ場のないところ。その一文字が背中に落ちただけで、胸の奥が先に反応してしまった。続きの予測が、勝手に一本の線を引く。
 読むな。反応するな。そう決めて、私はさらに力を抜く。まぶたの裏で朝の光が滲んでいるのを感じながら、ただ、心臓の音だけをやり過ごす。


 ……き


 そこまで書いて、指先が止まった。短い沈黙。相手が、呼吸を整える気配が伝わる。そうして、ためらいを含んだまま、続きを書く。

 ……や
 ……き

 ずるい……。私は、答えない。反応もしない。
 好き——そう書かれたのだと一瞬だけ思った。あまりに自然に、あまりに簡単に。わざと止めたあたりが、指先が触れた場所の温度が、言葉に、変換されてしまう速度のほうが、怖い。
 たぶん私は、ずっとその可能性を待っていたのだと思う。待っていないふりをしながら。だから次の文字が来るまでの間が、やけに長く感じた。呼吸を眠っている人のそれに寄せながら私は心の中だけで早まっていく。言われてもいないのに、受け取ってしまう。

 ……つ
 ……ぎ

 『次』——と。
 思わず心の中で、読み上げてしまう。寝返りは打たない。呼吸だけを眠っている人のそれに合わせる。自分の身体が嘘をつくのに慣れてしまっているのがわかる。

 ……な
 ……に

 心臓の音が耳の内側まで上がってくる。ばれてしまう、と思うほどに、逆に、息を整え直す。数を数えるように、吸って、吐く。

 ……た
 ……べ
 ……た
 ……い
 ……?

 問いかけの形。ほんとうに、ずるい男だ。
 やや間があって、指先が離れた。布がわずかに擦れる音。羽根が、ほんの少しだけ揺れる気配。ここで終わりだろうか、と考えた瞬間——また、触れられる。今度は文字じゃない。点を、二つ。

 ……とん
 ……とん

 合図みたいで、確かめるみたいな触れ方。私は相変わらず、眠っているふりを続ける。胸の奥がきゅっと縮む。
 しばらくして、彼は完全に手を引いた。呼吸がゆっくりと深くなっていく。眠りに戻ろうとしているのが、背中越しにもわかる。書き返さない。起きない。それが、私の選択だった。朝の光は、もうすぐそこまで来ている。文字は、読まれなくても確かに残る。背中に残った余韻を抱えたまま私は最後まで、眠りを装い続けた。
 けれど眠りの底には戻りきれない。目を閉じたまま背中の感覚だけに意識を集めていると、また来る、と思った。指先がさっきよりもためらいを含んで触れてきた。触れていいのか、やめるべきか。その迷いごと、皮膚越しに伝わってくる。

 ……お
 ……き
 ……て
 ……る
 ……?

 一文字ずつ、区切るように。確かめるみたいに間を置いて。私は、何も返さない。呼吸だけを、眠っている人の速度に寄せる。
 指が止まる。——読まれない、と。その結論に至ったのか今度は文字の速度が変わった。ほんの少し早くなる。線が、ためらいを越えて、確信を帯びる。

 ……き
 ……の
 ……う

 背中が、ぞくりとする。
 昨夜、という言葉が、朝に近い時間で呼び起こされるのが妙に生々しい。まだ冷えきらない夜の名残が光の手前で、いまも確かに息をしている。

 ……あ
 ……り
 ……が
 ……と
 ……う

 ゆっくり丁寧に。線は迷わず、けれども、急がない。私は、歯を噛みしめそうになるのを必死でこらえた。胸の奥で心臓が大きく鳴る。掻き消せと、自分に言い聞かせる。音を小さく息を浅く。背中に置かれた言葉がこちらの準備など待たないから。
 間が落ちる。彼が呼吸を整えているのが、背中越しにもわかる。羽根が、ほんのわずかに擦れる音。それから、次の言葉。

 ……た
 ……の
 ……し
 ……か
 ……っ
 ……た

 語尾の小さな促音まで、きちんと書くところがあまりにも彼らしい。私はまぶたの裏で朝の光が揺れるのを見つめながら、眠りのふりを続ける。ここで動けば、意味が決まってしまう。
 指先が離れる——そう思った矢先、また戻ってくる。今度は、短い。


 ……い
 ……ま


 一拍。少しだけ、ためらうような気配。


 ……も


 ——今も。
 その二文字に、喉の奥がきゅっと詰まる。私は体を動かさない。答えない。背中に残る余韻だけを、受け取る。そして最後に彼は小さく点を二つ打った。

 ……・
 ……・

 句読点みたいな、締めの合図。それですべてが終わる。指先は離れ、羽根が静かに収まる。彼の呼吸が少しずつ深くなっていく。もう一度眠ろうとしているのが、はっきりわかった。
 私は相変わらず目を閉じたまま、心臓の数を、静かに追う。書かれた文字は、消えない。読まれなくても確かにそこにある。朝は、もうすぐだ。起きてしまえばきっといつも通りの距離に戻る。それでもこの背中には言葉にならなかった会話が確かに、刻まれていた。


 *


 朝は何事もなかったかのように始まった。私は今キッチンで勝手にコーヒーを淹れている。豆の香りが先に立ち上がる。湯気が細く伸びカップの縁でいったん留まってから消える。その規則正しさが夜をきれいに片づけてしまうみたいだった。
 背後で足音がして、彼が顔を出す。すっかり目が覚めた様子で髪も整えられている。さっきまでの名残はどこにも見当たらない。背中に残っていたはずの言葉も朝の光の中では形を持たない。

「おはようございます」

 いつも通りの声。私の名字も名前も呼ばない、ちょうどいい距離の、挨拶。

「おはよ」

 私は、振り返らずに返す。声が揺れていないかほんの少しだけ気にしながら。
 彼は冷蔵庫を開けて中を覗き込む。扉が閉まる音が、朝の区切りを作る。

「牛乳、あります?」
「あったよ。こっちに」
「じゃあ、よかった」

 カップを二つ出し彼は手際よく準備を始める。勝手を、知っている動き。ここで過ごす時間を、まるで昨夜までと地続きのものとして受け取っているみたいだった。
 朝方、私の背中に書かれた文字には触れない。私も、何も言わない。触れないこと自体が、選び取られた合意として、静かに保たれている。

「今日、午前から取材なんですよねー」

 コーヒーを注ぎながら彼が言う。湯気が二人分同じ高さまで上がる。

「大変だね」
「慣れました」

 軽く笑う。その笑顔はテレビで見るものと同じで、角度まで計算されているみたいだった。私は砂糖を入れるか迷って、入れないまま、カップを持つ。朝は余計な甘さを足さなくていい。昨夜の余白は、ここでは語られない。語られないまま、同じ距離で並ぶことが、今の正解だった。
 コーヒーの苦みが喉を通り過ぎる。夜は終わった。でも朝は続く。何も起きなかった顔をして、私たちは、ちゃんと、同じ朝に立っている。

「名前さんは? 今日は?」
「昼から仕事」
「じゃあ、あんまりゆっくりできないすね」
「うん、一回帰る」

 他愛もない会話。昨日までと何も変わらない。彼は、カップを持ってソファに腰を下ろし、一口飲んでから、満足そうに息を吐いた。コーヒーの湯気が、彼の横顔を一瞬だけぼかす。

「……うまかぁ〜」
「ん、よかったね」
「いつも、ありがとうございます」
「え? 自分で淹れたんでしょ?」
「それとこれとは、べつなんで」

 ��いつも��——。その言葉が、昨夜と今朝を、きれいに切り離す。私は、彼の横顔を盗み見る。そこには、迷いも、気まずさもない。計算の行き届いた、ちゃんとした大人の顔をしたヒーローがいるだけだ。
 何もなかった。そういう事にしておく。それが彼の選択であり、配慮であり、優しさなのだと、わかってしまうのが少しだけ苦しい。理解できてしまうぶん、抗えない。

「じゃあ」

 彼は立ち上がりヒーロースーツのジャケットを手に取る。革の擦れる音が、朝の空気に混ざる。

「鍵は、」
「オートロックでしょ」

 彼が言い終わる前に遮るように淡々と告げる。説明はいらない、というより、もう、共有されているという確認だった。
 彼は一瞬だけきょとんとしたあと人懐こい顔で笑って「はい」と、短く返す。その笑い方が朝の距離を余計に縮めない。

「先、出ますね」
「気をつけてね」
「名前さんも」

 玄関で靴を履きながらちらりとこちらを見る。視線は短く、余分な意味を残さない。

「名前さん」
「ん?」
「……昨日は、ありがとうございました」

 誕生日を祝ってあげたときと同じ言い方。それ以上でもそれ以下でもない。感謝の定型文としてきちんと、整えられた声。

「ううん。こちらこそだよ」
「じゃあ、お互い様ですかね」
「だね」

 言葉は軽く往復するだけで、深追いはしない。私の返しに彼は軽く手を振りドアを開けた。扉が閉まる音が朝の部屋に響く。その音が夜を完全に外へ押し出していく。
 残された静けさの中で、私はそっと背中に手を当てる。もちろん文字はもう残っていない。それでも確かにそこにあった夜の気配だけが、何事もなかった朝の裏側で、静かに息をしていた。
 触れないまま続いていくものも、きっとあるのだと、私は信じたい。


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