「いい肉、もらったんですよ」

 そう言ってホークスは冷蔵庫の中からビニール袋を取り出して掲げて見せた。ほかの食材よりも一段奥に収まっていたのかひやりと冷気が漂う。袋の口がわずかに開いた瞬間、私は、その冷気と一緒に中を覗き込んだ。ひと目でわかるくらい、明らかに��いい肉�≠セ。赤は深く白い霜は細かく均一で、いつもの買い物袋に入っているものとは最初から、住んでいる世界が違う。冷蔵庫の中で冷やされていたせいか、袋の内側には、まだ低い温度がこもっていて、その冷たさが部屋の空気を一段だけ引き締めた気がした。
 彼のリビングの無駄がない床を見てふと先日、自分の部屋でこたつを片づけた日のことを思い出した。布団を畳み名残みたいに残っていた半纏も一緒にクローゼットへ押し込み少しだけ広くなった床に立ったときのあの感触。冬を仕舞ったあとの部屋は驚くほどあっさりしていて足裏に伝わるフローリングの温度ももう冷たさを主張してこなかった。ここも同じだ。窓の外から入り込む夜の空気はやわらかく暖房の存在を思い出させない。気づかない内に季節はちゃんと次の段階へ移っていたのだと、遅れて実感する。

「……なに、それ」
「ですよね。俺もびっくりしました」

 自分の反応をなぞるみたいに肩をすくめる彼の仕草が、どこか可笑しい。特別な日でも、記念日でもない。ただ仕事終わりに連絡を取り合って、行きつけの居酒屋が、思いのほか混み合っていたから、じゃあ今日は家で軽く、というそれだけの流れだった。だからこそ、その袋の重みが、驚き半分と、理由のない嬉しさ半分で、胸に落ちる。

「すき焼き、いっちゃいます?」
「いける。むしろ、いきたい!」

 考える間もなく返すと、彼は満足そうに小さく頷いた。その頷きが、計画というより承認に近いところが、今の距離感らしい。
 キッチンに並んで立つ。割り下を用意するのは彼で野菜を切るのは私、という役割分担も、もう言葉にしなくても決まっている。包丁がまな板に触れる乾いた音と、換気扇の低い唸りが重なって部屋に穏やかなリズムをつくる。火を入れる前の静けさが、なんだか逆に落ち着く。
 湯気もまだ立たない鍋を前にして、ふと、あの日のことが脳裏をかすめる。私が寝たふりをしていた背中に指でなぞるように書いた、あの文字の感触。思い出そうとすればいくらでも思い出せてしまう。でも、今はそこに立ち止まらない。春は思い出を掘り返すにはまだ早い季節だと、自分に言い聞かせる。
 包丁を置いて手を洗い息を整える。湯を注げばきっと鍋はすぐに賑やかになる。その前の、何も始まっていないこの時間が、妙に愛おしい。
 季節が一つ進んだだけで、こうして並んで立つことの意味も、少しだけ形を変える。私は余計な感情を頭の端に追いやりながら切り終えた野菜を静かに鍋の脇へと寄せた。

「火、弱めでいいですよね」
「うん、最初はね」
「了解でーす」

 そう返事をして、ホークスはコンロのつまみを少し戻す。鍋の底から立ち上がる湯気はまだ控えめで割り下の甘い匂いだけが、じわじわと部屋に広がっていく。火が安定するまでの間、私たちは特に意味のない話を続けていた。最近見た、どうでもいい番組のこととか、仕事で起きた、小さな失敗とか、彼の端末がまた水没しかけた話とか。

「ほんと、学習しないよね」
「してますよ。一応、ギリギリで」

 笑い合いながら彼は肉を一枚ずつ、箸で丁寧に鍋へ落としていく。良い肉特有の、あの音。脂が触れる瞬間の短いざわめきと、すぐに立ちのぼる匂いが今日も『きちんとした夜』に変えていく。

「……もう、行けそうですね」
「うん。テーブルに持ってこっか」

 彼は両手で鍋を持ち、私は、その前を歩いて、リビングのローテーブルの上を片づける。鍋敷きを置き、取り皿を並べ、箸を揃える。その動作のひとつひとつが、もう説明を必要としない。鍋がテーブルの中央に置かれた瞬間、空間の重心が、そこに定まる。

「なんか、ちゃんとしてますね」
「なにが?」
「いや……夕飯、って感じが」

 彼のその言い方が可笑しくて、私は小さく笑った。確かに、そうだった。特別な日でもないのに二人分の湯気と匂いが立ち上るだけで、夜はちゃんと、形を持ち始めるのだ。
 床に腰を下ろし取り皿に肉を取る。湯気越しに見る彼の横顔は、ヒーローでも稽古相手でもなくただ一緒に鍋を囲む人のものだった。音も匂いも温度も、いかにも、ちゃんとした夜だ。

「……これ、ほんとに美味しい」

 箸を止めて思わずそう零すと鍋の向こうで彼が小さく息を吐いた。

「ね。俺、正直、緊張してます」
「え、なんで」
「失敗したら怒られそうで」

 そんな会話をしながら二人で同じ鍋をつつく。自然と距離を詰めたまま黙ったり、また少し話したりしながら、箸を進める。近いのに触れない。触れなくても落ち着いていられる、その、微妙な間合いが、今の私たちには、ちょうどよかった。
 食事が終わるころには、胃の内側だけでなく、肩の奥や背中まで、じんわりと、緩んでいるのがわかる。満腹というより安心に近い感覚だった。

「今日は、このまま泊まります?」

 彼が、いつもの調子でそう聞く。その声は軽いけれど、投げやりではない。確認というよりも、すでに共有されている流れをなぞるみたいな響きだった。

「うん。帰る気ない」
「即答っすね」

 小さく笑い合う。すき焼きの鍋はすっかり空になり、火を止めたあとも、私たちはしばらくその場を、動かなかった。テレビはついているのに、画面の内容は頭に入ってこない。湯気の名残と、食後の重たい静けさが、鍋を中心に、ゆっくりと広がっていく。

「……食べすぎましたね」

 彼がそう言って無意識みたいにお腹をさする。その仕草が、妙に人間くさくて、少しだけ笑ってしまう。

「いい肉だったから」
「それ、免罪符として強すぎません?」

 そんなやり取りを挟んでから、ようやく、立ち上がる。彼が鍋や皿を手に取ってキッチンへ向かい、私はテーブルの上を片づける。声を掛け合わなくても役割は自然に分かれていた。そのことに今さら驚きはない。水の音が一定のリズムで続く中、私は彼の背中をぼんやりと眺める。肩は落ち着いていて、動きには余計な力が入っていない。さっきまでのヒーローの気配は、すっかり生活の奥にしまわれている。

「お皿、そこ置いといてもらえれば」
「はーい」

 洗い終えた食器を乾燥機に収めて、キッチンの灯りを落とす。リビングに戻ると食事の名残と、夜の静けさが混ざり合って、少しだけ甘い空気になっていた。満たされているのに、何かを求める余地も残っている、そんな、曖昧な温度が、部屋全体に漂っていた。

「お茶、飲みます?」
「飲む」

 短いやり取りのあと、彼は迷いなく急須を取り出し、私はソファに腰を下ろす。テレビは、このタイミングで消した。理由を探すほどのことでもない。ただ、今は画面の光が、この部屋の温度にそぐわなかっただけ。
 湯のみを二つ、ローテーブルに並べて彼は少し距離を取った位置に座る。近づこうと思えば近づけるし離れようと思えば離れられる、その中間。意識しなくても、保たれてしまう距離感が、今の関係を、そのまま形にしている気がした。

「今日は、このまま寝ます?」

 いつもの確認。押しつけも探りも期待もない。ただ同じ夜をどう終えるかを並べるだけの問い。私はその声音を聞いた瞬間、胸の奥が静かに落ち着くのを感じた。

「うん」

 私も、迷わず答える。考えるふりをする必要もなく、言葉が自然に出る。迷いがないことを彼に悟らせるでもなく、自分自身に確認するように。
 シャワーは順番に。先に使わせてもらい、髪を乾かしているあいだ、リビングのほうから小さな物音が届く。ソファで身体を伸ばしているのか、それとも無意味に部屋を歩いているのか。どちらでもいい。ただそこに彼がいると想像するだけで心拍が余計な方向へ逸れずに済んだ。
 パジャマ代わりとして用意してくれていた彼の部屋着に袖を通しバスルームを出ると入れ替わるように彼が中へ入っていく。その隙にテーブルの上には、マグカップが置かれていた。

「カフェインレスでーす」
「えー、気が利くぅ」
「学習してますからー」

 バスルームの方から返ってきたその軽口の裏にちゃんとした配慮がある。そのことを、わざわざ言葉にしなくても伝わるのが、今はありがたい。
 床に座ってスマホを眺めていると、彼が戻ってきた。声を掛け合うでもなく、自然と、ソファに並んで座る。肩は触れないけれど、体温の輪郭はわかる距離。互いの存在を確かめ合うにはそれで十分だった。

「眠くなったら、ベッド行きましょう」
「え?」
「はい?」
「やだぁ、わたし、誘われてる?」
「なん言いよーとね」
「はは」

 笑いが一度だけ弾んで、すぐに、静かになる。それ以上、特別な話はしない。今日のすき焼きが美味しかったことと、次は何鍋がいいか。そんな他愛のない話題をいくつか並べて、会話は自然と減っていく。

「眠そうですね」
「うーん……すき焼きの、せい」

 先に立ち上がったのは彼だった。その背中に、特別な意味を読み取る必要はないとわかっているのに、私はなんとなく、同じタイミングで、腰を上げる。

「どうぞ」

 寝室の灯りをつけ道を譲る仕草。広いベッドのいつもの位置に身体を預けると、彼はすぐに背を向けて部屋を出ようとする。その腕を、反射的に掴んでいた。彼は首を少し傾け小さく息を吐いただけで、振り返りはしない。

「入ってよ」
「いやです」
「なんで」
「なんでも」

 結局、軽い応酬の末、やはり折れたのは、彼のほうだった。端と端。背を向け合い、そのあいだには、きちんと、余白が残されている。

「おやすみ」
「おやすみです」

 彼の剛翼がスイッチを探しパチンと音を立てて灯りが消える。暗闇が降りてくる。何も起きないし、起こさない。ただ同じ空間で同じ夜を終わらせる。
 布団の中で彼の呼吸がゆっくりと一定になっていくのを感じながら、私は今日一日の出来事を、順番に手放していった。こういう夜があるから、この関係は、まだ安心して続けられるのだと思いながら——。

 目が覚めたのは、目覚ましよりも少し早い時間だった。部屋の中はまだ静かで、カーテン越しの光も柔らかい。夜が完全に終わりきらない、その曖昧な境目。
 寝返りを打つと背中越しにもうひとつの呼吸が聞こえた。規則正しくて、深い。起こすつもりはなかったから私はそのまま動かず天井を見つめる。昨夜と同じ距離。触れていないし触れられてもいない。それでも同じ空気を吸って一晩を越えたという事実だけが静かに残っている。すると、しばらくして、隣の呼吸が少しだけ変わった。

「……おはよう、ございます」

 目を閉じたままの声。完全に起ききっていないとき特有の、低い音だ。

「おはよ」

 私も小さく返す。朝だから声を張る必要はない。彼はゆっくり身体を起こしこちらを振り返らずにベッドを降りる。いつも通りの動きだ。変に気を遣わないところが、朝にはありがたい。

「先、洗面所、使ってください」
「いいの?」
「はい。俺、後でいいんで」

 私は頷いてベッドを抜け、洗面所へと向かう。鏡に映った自分の顔は思ったより穏やかだった。眠そうではあるけれど嫌な疲れは残っていない。
 顔を洗っているあいだ、背後で、物音がする。キッチンの方からだ。冷蔵庫が開く音、棚を探る気配。生活音が朝の輪郭をはっきりさせていく。
 顔を洗い終わって戻ると、キッチンには、彼が立っていた。部屋着のまま、袖をまくっている。

「コーヒー、飲みます?」
「飲む」
「了解でーす」

 その返事の軽さが昨夜までの空気を、少しずつ日常へと戻していく。マグカップを受け取って、リビングの床に腰を下ろす。テレビはついていない。窓の外から、朝の音が控えめに入ってくる。

「……で。」

 ホークスがコーヒーを一口含んでからカップをテーブルに戻して何でもない調子で言った。その動作はあまりにも普段通りで、昨夜ここで一緒に眠ったという事実が、少しだけ現実味を失う。

「すき焼き、どうします?」
「あ」

 その問いかけに私は一瞬、言葉を探した。短く返しながら忘れていたわけじゃないと、心の中で言い訳をする。ただ朝の光の中で出てくる話題としては、やけに生活感が強すぎただけだ。

「……残ってる?」
「結構」
「朝から、すき焼き?」
「俺は、全然いけます」

 その声に迷いがない。冗談でも、勢いでもなく本気で言っているのが伝わってきて、私は思わず彼の横顔を見る。寝起きのままの表情で、当たり前のことのように言うところが、この人らしい。

「うそでしょ。重くない?」
「昨日が良すぎたんで今日は許されるかなって」

 理屈としてはずいぶんと雑なのに、なぜか納得できてしまう。そのこと自体が少し悔しくて私は肩をすくめた。

「……じゃあ」
「はい」
「お昼に、回す?」
「それが無難ですね」

 彼が、おもむろに立ち上がって冷蔵庫を開け、鍋を少しだけ引き出し、中を確かめる仕草。朝の光がその横顔に当たって、昨夜よりも輪郭が柔らいで見える。眠りと覚醒のあいだにいる顔だ。

「卵、まだありますし」
「完璧じゃん」
「俺ん家ですから」

 ほんの少しだけ混じる得意げさ。その程度が、ちょうどよくて、私は笑う。
 結局、朝食は、トーストと簡単なサラダに落ち着いた。昨夜の名残をあえて食卓に引きずらない選択だった。軽い皿が並ぶだけで、身体の内側が自然と前を向く。朝はそうやって区切られていくものだ。

「今日、仕事です?」
「午後からね」
「じゃあ、昼にすき焼きですね」
「決定事項みたいに言う」

 彼は笑って、否定しない。その曖昧さが、今の距離に合っている。
 食器を片付けながら私は思う。特別なことは、何も起きていない。いつも通り、泊まっただけ。食べて寝て起きて、残り物の話をしているだけ。それなのにこの朝はちゃんと記憶に残るだろうという、確信がある。

「ホークスは?」
「ん?」
「お仕事」
「俺は、まあ……どうにでもなるんで」
「ヒーロー業って、そんな楽なの?」
「さあー? ご想像にお任せします」

 軽く流す口調。その裏にあるものを、今は掘り下げない。今日は気持ちの良い朝だから、それでいい。
 昨日の夜と今日の朝のあいだにあるのは劇的な変化じゃない。ただ、同じ場所で、同じ時間を、重ねたという事実だけだ。まるですき焼きの残りみたいにすぐには片づけられないものが冷蔵庫の中に、静かにしまわれている。それをいつ、どう食べるかは、まだ決めなくていい。今はただこのなんでもない朝をきちんと朝として終わらせればそれでいい。


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