それがどうしてこうなったのか。今となってはもう、自分でも正確な順序を取り戻せない。
 五月の夜は、油断するとすぐに薄着を後悔するくせに、外に出ると案外やさしくて、歩いているあいだだけは、季節の境目を忘れさせる。
 特別な出来事が起きたわけじゃない。いつもの店でいつもの席に座ってホークスと並んでグラスを傾けただけだ。会話の内容も帰り道の風の匂いもこれまでと何一つ変わらなかったはずなのに。
 ただ、その日もまた終電の少し手前で店を出て彼の歩幅に合わせて歩き自然な流れで彼のセーフハウスの鍵が開いただけだった。順序立てて振り返ろうとするとどこかが必ず抜け落ちてしまう。最初はただ缶ビールが一本、二本と空いていき、冷蔵庫の奥に眠っていたワインを、私が引っ張り出して「これ、いつの?」なんて言いながらそのラベルを見ていただけだった。

「何かのときに貰ったやつじゃないです?」
「何かのときって、雑〜。で、いつの?」
「えーっと……覚えてないくらい、前の?」
「じゃあ、今日だね」

 そう言って私が迷いなく栓を抜いたとき、彼は止めるべきだったのだと思う。しかし彼は、止めなかった。正確には、止めるタイミングを完全に見失っていた。
 グラスに注がれた赤は部屋の間接照明を受けてやけに綺麗に見えた。深い色。ゆっくりと揺れる液面。アルコール度数が、高い。舌に残る渋みと熱が、喉を通るたびに、身体の輪郭を曖昧にしていく。私はそれが気に入って、思ったよりも速いペースで飲んでしまった。

「……顔、赤くないです?」
「ワインのせいだもーん」
「それ、だいぶ危ない言い訳ですよ」
「大丈夫、大丈夫」

 軽く言いながら私はソファの上で胡坐をかく。背もたれに体重を預けると、視界が少しだけふわふわした。それが楽しくて、楽しいから、後先を考えないような提案が、口から滑り出た。

「ねえねえ」
「はいはい」
「野球拳しよ?」

 ホークスは一瞬、完全に固まっていた。思考が止まったというより言葉を選ぶ前に時間が切れたみたいな顔だった。

「……はい?」
「野・球・拳」

 私は、声のトーンを上げながら、やけに丁寧に区切って言う。

「なんで、急に」
「暇だから?」
「暇の使い方、間違ってます」
「いいじゃん、イイ大人なんだし」
「イイ大人がやるやつじゃないです」

 そう言って彼は意地でも立ち上がらなかった。それが、すべての始まりだった。私が手を叩いた瞬間には、もう止まらなかった。

「アウトー!セーフ!」
「ちょ、待っ——」
「よよいの、よいっ!」

 彼が、ちゃんと出してしまうことを、私はもう知っていたからだ。律儀さは、こういう場面でも抜けない。
 こうして勢いだけで始まった勝負は、意外にもまあまあ拮抗した。あいこ。勝ち。負け——そのたびに私は声を上げて笑い、彼は小さくため息をつく。

「……なんで、普通に勝負成立してるんすか」
「才能?」
「嫌な才能すね」

 軽口の応酬は、いつもの延長だった。笑って、受け流して、深刻にならないようにするための、距離感。そのままの流れで私が負けたので靴下を脱ぐ。片足、もう片足。床の感触が、思ったよりもひんやりしている。しかしそこでようやく何かが引っかかった。ジャンケンの際に彼の手がほんのわずか、遅れていることに。

「ちょっと」
「はい?」
「今、わざと負けたでしょ」
「そんなことないですけど」

 否定の言葉より先に視線が泳いだ。トップヒーローとは思えないほど正直な反応だった。わかりやすすぎる。こんなに単純で、このヒーローは、本当に大丈夫なんだろうか……と、どうでもいい心配が頭をよぎる。

「はあ?」

 と、私は眦を吊り上げて立ち上がった。酔いの勢いがさも正義感みたいな顔をして背中を押してくる。そこに理屈はもう、追いついてこない。

「なにそれ、手抜きー?」
「違います」
「じゃあ本気でやってよ」
「それはそれで問題です」
「なにが!」

 問い返した勢いのまま、私は自分の上着に手をかけていた。考えてから、動いたわけじゃない。体が先に決めて頭が置き去りになるあの感じだ。

「ほらっ、脱ぐよ!」
「あー!待って!!」

 ホークスが弾かれたみたいに立ち上がる。その動きだけが、今夜いちばん理性的だった。迷いがなくて、速くて、無駄がない。さすが、速すぎる男——。

「それはダメです!」
「負けたんだから!」
「俺が! わざと! 負けてるんです!」
「ほらァ! だからでしょ!」

 言葉が重なり、意味だけが追い越されていく。私の声は無駄に高く彼の声は切羽詰まっている。
 次の瞬間、私がもう一歩踏み出した、その拍子だった。彼の手が、反射的に伸びる。考えるより先に、身体が動いたのが、はっきりとわかった。——がしっ。

「あ!」

 腕を掴まれた感触に思わず声が漏れる。強くはない。でも、確実に、止めるための力だった。

「触った!」
「これは、救助活動ですっ!!」

 必死な声だった。ヒーローが現場で人を止めるときのそれ。判断が遅れたら危険になると、体が知っている人の声。言い訳でも、冗談でもない。

「危険行為なので!」
「なにが危険なの!」
「全部です!」

 言い切りが、あまりにも雑で、逆に真剣なのが伝わってくる。彼は私の手首を掴んだまま必死に距離を取ろうとする。個性を使っているわけではないのに後ずさりだけがやたらと上手い。床との距離、ソファの位置、私の重心。全部を同時に、しっかり計算している動きだった。

「ちょっと、離してっ」
「離したら脱ぐでしょ!」
「脱がない!」
「信用がない!」

 即座に返ってくる断定。その必死さが可笑しくて、私は余計に力を入れてしまう。押して引いて言葉が絡まったまま、二人で体勢を崩す。
 次の瞬間、視界が傾き、そのままソファに倒れ込んだ。クッションが沈み、空気が抜ける音がする。ワインのグラスが、テーブルの端で揺れて、ぎりぎりのところで踏みとどまった。私は仰向けのまま天井を見上げる。目の前には、ヒーロー。その先、照明の輪郭が少し滲んでいてその光景が急に可笑しくなってしまった。笑いが込み上げる前に彼が慌てて距離を取り直す気配がある。それでも腕はまだ掴まれたままだ。

「……ほらぁ、だから危険なんですってぇ」
「グラスの話?」
「全部の話です」
「全部って」
「頭打ったら、どげんすると」

 真面目な声。そのくせ、まだ少し呼吸が乱れているのが、背中越しにもわかる。
 夜は、完全に制御不能になりきる一歩手前で、まだ、踏みとどまっていた。それが可笑しくて、私は結局、声を抑えきれずに笑ってしまった。
 掴む力は強くない。けれど、逃げ道を残さない位置取りだけは、やけに正確だ。私は一瞬、その真剣さに言葉を失い、またすぐに笑ってしまう。

「なんだろ、これ……」
「今のは、ほんとにダメな流れだったので」

 彼はそう言いながら掴んだままではいけないとここで気づいたのか、すぐに手を離した。離れるのも早い。残ったのは腕にわずかな温度と部屋に落ちた静けさだけ。ヒーローは、酔っ払いにも、全力で対応するらしい。その事実がおかしくて、私はもう一度、小さく息を漏らした。

「ねえ……ほんと、この展開……なにィ?」
「俺が聞きたいです」
「……ヒーローって、大変だね」
「ほんとですよ」

 そう言って、深く息を吐く彼を横目で見やる。真面目な顔のまま困っているのが、なんだか可笑しい。私はそのまま勢いよく、身体を起こした。クッションが戻る反動で、ソファが小さく鳴る。それに気づいた彼が、はっとして身を引いた。

「よしっ!仕切り直し!」
「やんないですって」
「お願い、もっかいだけ」
「無理です、もうアウトです」
「アウトー!セーフ!」

 宣言した瞬間、彼の手が出ている。たぶん条件反射だ。考えるより先に、身体が律儀に反応してしまう。その癖を、私はもう知っている。
 彼は口では文句を言いながらもルールに従し、丁寧に脱がれていた衣類は、気付けばやや乱暴に扱われていて、無造作に放り投げる仕草が酔っているせいなのか、それとも別の要因か、なんだか無防備だった。そして私の番になれば彼は視線を逸らす。

「……ちゃんと、見ないんだね」
「見ると、いろいろ終わるんで」

 冗談みたいな言い方。けれどその声は少しだけ低かった。
 そして勝負は、思ったよりも、淡々と進んだ。最初の数回は、お互いに変な細工をせず真面目に出す。勝ったり負けたり。あいこになったり……私は笑って、彼は困ったように眉を下げて、ため息をつく。流れはさっきとほとんど同じだ。負けても靴下から始まり、ネックレス、指輪、時計。身体的な意味を持たない物ばかりが続いていく。境界線は、ちゃんとそこに、残っている。

「はいっ、私の勝ちー!」
「……はぁ。もう、脱げばいんでしょ」

 観念したように言ってホークスは立ち上がる。上着のファスナーに指をかけゆっくりと下ろす。その仕草が、ヒーローのそれじゃないのが、妙におかしい。現場でも、取材でも見せない、ただの私生活の姿。それが今夜はやけに普通で、だからこそ余計に、笑ってしまいそうになる。
 私はグラスを持ったままその様子を眺めながら思う。この夜は、どこかでちゃんと、制御されている。ふざけているようで、越えない線だけは、お互いに手放していない。だからきっと、まだ、大丈夫だ。少なくともこの勝負が終わるまでは。

「ちょっと! 脱ぐの早くなーい?」
「ルールなんで」
「そんなとこまで速すぎる男」
「実際、速すぎる男なんすよ」

 言い切って上着をソファに放り彼は座り直す。迷いのない所作が逆に真面目すぎて笑いを誘う。布が落ちる音だけが、部屋に小さく残った。

「次、いきますよ」
「おー?やる気満々じゃん」
「はい、アウト、セーフ」

 よよいの、よい——!あいこだ。ならば、もう一回。指の形が重なり、外れて、また、重なる。結果は、ホークスの負け。

「……また、俺ぇ?」
「運ないねえ」
「運じゃない気がしてきました」

 自分でも、不思議そうに呟きながら、今度は、Tシャツに手をかける。その動きが、どこまでも実務的で妙に落ち着いている。私はワインを一口含み、その様子を眺める。赤がグラスの中で揺れ喉を通る熱が今の空気を少しだけ柔らかくする。ふざけているのに、どこか整然としている。
 この勝負は、偶然みたいな顔をして、ちゃんと彼の律儀さに支えられていた。

「そんな律儀に脱がなくても」
「中途半端が一番危険なので」
「なにが?」
「全部です」

 言い切る声があまりに真面目で、私は思わず、笑ってしまう。Tシャツは手早く畳まれソファの端にきちんと置かれる。その動作が、妙に几帳面だった。

「丁寧すぎるでしょ、A型?」
「Bです。あと、職業病です」

 返事も即座で、無駄がない。その様子がおかしくて、私はグラスを持つ手を、一瞬だけ止める。

「じゃ、次ね」
「はい」

 よよいのよい——彼の負け。笑いながら、私はまた、ふと気づく。彼の出す手がほんのわずか、遅れている事に。意識しなければ見逃してしまう程度の差。でも、さっきから何度も続いている。

「……あれ?」
「なんです?」
「今のも、ちょっと遅くなかった?」
「気のせいじゃないですか」

 そう言いながら彼は視線を逸らす。その反応が答えみたいだった。わざと、だ。勝敗を調整するための小さな遅れ。私は何も言わずに、ワインを一口飲む。勝負は続いている。でも、その中身はさっきまでとは、少しだけ変わっていた。遊びの顔をしたこの時間の下で彼はずっと線を越えないための計算を続けている。それに気づいてしまったことが急に可笑しくもあり、少しだけ嬉しくもあった。

「ねえ」
「はい」
「また、わざと負けてるでしょ?」
「負けてません」
「目、泳いでる」
「それは……照明のせいで」
「言い訳が雑」

 まるで、そこに、逃げ場があると信じたような声だった。光のせい。空気のせい。酔いのせい。きっとこの夜に起こるすべてのことがそうやって理由の外側に置かれていくのだろう。私たちが、それを望んでいるから。
 それでも勝負は、続く。本気とも冗談ともつかないやりとりが言葉を交わすたびに少しずつ熱を帯び、じんわりと空間を湿らせていく。
 私もちゃんと負けた。羽織りを脱いでソファの端に掛ける。さっき履き直したばかりの靴下を、もう一度脱ぐ。その布、一枚ごとに空気の密度が変わり、少しずつ体温が感情に追いついてくる。キャミソール一枚になった頃には、床に、小さな布の影がいくつもできていた。まるで、この夜の名残をひとつずつ形にして並べているみたいに。

「意外と接戦だねー」

 私が笑いながらそう言うと、彼はソファの端で眉尻を下げ、なんとも言えない表情で、肩をすくめた。

「本来は、こういう勝負じゃないんです」
「じゃあ、なに?」
「今は……人生です」

 その言い方に思わず笑ってしまいそうになる。ほんの一瞬胸の奥に沁みてしまいそうな真実味。けれど、あえて飲み込む。そういう時間なのだと思ったから。——そして、また、彼の負け。

「……ズボン、いっちゃう?」

 私が小さく問い返すと、彼は肩を竦めるようにうなずいた。

「はい」

 その返事に続く一拍が、妙に長かった。沈黙の重みを、彼自身も、持て余しているのがわかる。言葉にするのがためらわれるような雰囲気が漂う中で、ようやく、彼はゆっくりと口を開いた。

「しか、残ってないすもんね……」

 その声はどこか観念の滲む響きを帯びていた。ひと息つくように彼は小さく天井を仰ぎ、吐息を吐く。その仕草が酔いの熱を鎮めるようでもあり自分に言い聞かせるようでもあった。

「じゃあ——」

 そう言いかけた彼が、スウェットに手をかけたまさに、その瞬間。

「ちょ、ちょっと待って!」

 反射的に私は声を上げていた。慌てて身を起こし、咄嗟に彼の動きを止めた自分に自分でも少し驚いた。声の調子も、腕の動きも、完全に本能的だったと思う。心のどこかで��その先�≠�望んでいながらも、まだそこへは踏み込む覚悟は整っていなかったのだ。
 彼は動きを止めたまま、わずかに眉を下げて、少し困ったように私を見る。

「ルールは、ルールなので」

 きっぱりとした言い方。それは、冗談のふりをした誠実さであり無邪気なふりをした慎重さでもある。私は思わず、口を尖らせて返す。

「いや、さっきから守りすぎ!」
「守らないと、取り返しつかないんで!」
「どういうことよっ!」
「これはっ、俺の役目ですっ!!」

 そう言ったときの彼の声は、ほんの少しだけ、強かった。言葉の表面をなぞれば、ふざけているようにも聞こえるのに内側には不思議な真剣さが滲んでいる。大事なものを、冗談でごまかして、守ろうとする彼のいつものやり方だ。彼は律儀にズボンを脱ぐ。焦らず乱さずきちんと畳んで傍らに置く習慣のような所作。彼が、そういう人なのだとまた一つ知らされる。その背筋と太腿にかけての線が妙に現実味を帯びていてこちらの酔いが少しだけ覚める。
 結果、ボクサーパンツ一枚になった、ウィングヒーロー。まるで何かの罰ゲームのような状況に私は我慢しきれずに手を叩いて笑った。笑ってはいけないのかもしれない。でも笑うことで、これ以上進まない何かを軽くしておきたかった。彼の頬が、ほんのり赤い。照明のせいじゃない。それだけは酔っていても、わかる。

「やっぱり、わざとじゃん」

 思わず口に出した声は、驚き半分、呆れ半分。そして少しだけ、どこかで期待していた確信。

「なんが!」

 彼が抗議するように叫ぶ。その目が泳いでいて余計におかしい。

「その姿になるまでわざと負け続けたんでしょ」
「違いますっ!」
「今のこの流れで、それ言う?」
「……途中から、はい」

 正直に認めた。耳まで赤く染めながら、口元をきゅっと結んで、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。黙っていれば誤魔化せたかもしれないのに、彼はちゃんと正面から、そう言った。

「だって」

 言い訳のような、でもどこか苦し紛れではない響きが、そこにあった。

「これ以上、あなたが脱ぐの、無理です……」
「は?」

 わかりきっていたはずなのに改めて言われて、声が少しだけ裏返ってしまった。

「無理です!」

 彼はもう一度、必死に断言する。まるで自分の限界を真正面から言い渡しているみたいにして。

「だから、自分が脱いだの?」
「そうです!」

 その真面目すぎる返答が可笑しくて、私はまた笑い出してしまう。ソファに手をつき、肩を震わせて、声も洩れる。

「なにそれ、優しさの方向おかしくなーい?」
「最適解です!」

 そう言い切る彼の声が妙に晴れやかで、それがまた、面白い。自分の中で何かが崩れたように、私は勢いよく立ち上がった。

「じゃあ、私も——」
「わ、わっ! ダメですって!!」

 その瞬間、彼はまるで風を纏ったかのように、私とソファの間にすっと滑り込み、両手を広げて立ちはだかった。個性の羽根こそ使ってはいなかったけれど、空を裂いて飛んでいる男の機敏さがそこには、確かにあった。今にも飛び立ちそうな背筋の張り。その目は真剣そのもので彼の仕事柄からくる、職業的な本能が露骨に滲んでいた。

「じゃあ、ってなんすか! じゃあ、って!」

 抗議めいた声。けれど、どこか拗ねたようでもあって、その語尾に、幼さの欠片が滲む。

「ヒーローが一人でパンツ姿になって、なんか、かわいそうかなって思っただけだよ?」

 私がニヤニヤして言うと彼は両手を振りながら身を固くする。

「あー、んもぅ! これ以上は、危険域です!」

 冗談のやりとりの中にひときわ真剣な声が混ざっていた。私は相変わらず笑いながらも、どこかその真っ直ぐな響きに、心を撫でられる。

「危険なのは、どっちなの」

 肩を竦めて少しだけ困ったような顔をすると、彼は、わずかに目線を外しながら、即答する。

「俺の理性です!」

 あまりにも真面目で、そしてあまりにも正直な声だった。だから私は彼を指差しながらまた笑った。すると彼はその指をペシッと小さく叩いた。

「あっ! また 触った!」
「やけん! これは救助活動ですってば!」
「出たァ、救助活動〜」
「負傷者が自ら危険行為に及ぼうとしてます!」

 その瞬間、彼の声色が変わる。職務中のそれだった。現場での指示の声。何度も人を引き留め、止血し、誰かの命を守ってきた、ヒーローの声。なぜこんな場面でそれを聞くことになるのか分からない。でも妙に可笑しくて、もうどうしようもなかった。

「誰が負傷者だよ!」
「今のあなたです!」

 意味の通らない会話。でも、そこにこそ、彼の本質がある。どうしようもないテンポで、全てが転がっていく。
 最終的に彼は私の肩を軽く押し半ば抱くようにしてソファに座らせた。強引じゃないのに逆らえない。そういうプロとしての癖が染みついている人。私は笑い疲れた頬を緩めながらソファの脇に置かれたグラスに手を伸ばす。瞬間、赤い液体がくたりと揺れた。それが部屋の光に透けてやけに綺麗に見えた。

「……ヒーローって、大変だねぇ?」
「それ、二回目」
「ご愁傷さま♡」
「本当に」

 パンツ一枚のままホークスは、深く息を吐く。その吐息には、呆れと、安堵と、ほんのすこしの自己反省が混ざっている。それは、英雄的な活躍とは無縁の��人生�≠フための呼吸だった。

「……今日はもう、野球拳禁止です」
「えー」
「強制終了」
「勝負、途中なのにー」
「命の危険を感じました」

 その言い方が大袈裟で、でも、どこか本気で、二人して笑ってしまう。床には、脱ぎ捨てられた衣類。テーブルには空いたグラス。触れた。でもそれ以上は進まなかった。進まないことを選んで彼は深く息を吐き、私はその様子を見ている。

「てか、もう……」
「ん?」
「これから一生、野球拳、禁止で」
「えー!?」
「永久禁止で!」

 語気だけは強いけれど、声はどこか、照れ隠しみたいで、私はまた小さく笑う。
 結局、野球拳は強制終了になり床に散らばった衣類だけが、先までの騒動の名残として残った。笑い疲れた私はソファの背もたれに体を預ける。彼は少し離れたところで、どうしていいかわからない顔をして、立ち尽くしている。パンツ一枚のまま、視線が宙を彷徨っているのが可笑しくて、でも、からかう気にはならなかった。
 ここまで来てしまったのにやっぱり越えない。その事実が、今になって、じわりと胸に沁みる。ふざけて、笑って、触れて、それでも止まった。それは失敗じゃなくて、たぶん、私たちが選んだ正解だったのだと思う。私はグラスを置き呼吸を整える。この夜は、もう十分に騒がしかった。

「……あの、」

 彼がおずおずと口を開く。さっきまでの勢いが嘘みたいに、声が小さい。

「着替えても、いいですか」
「いいに決まってるでしょ」
「ですよね」

 そう言いながらも彼はすぐには動かない。床に落ちているTシャツをちら見して次にスウェットズボンを見て、それから、私を見る。その視線の往復が妙に初々しい。決断より先に確認が必要な顔だった。

「なによ?」
「……手、足りない感じで」
「なにが?」
「えっと、その……」

 言い淀む。言葉を選ぶというより順番を探しているような沈黙。

「酔ってて……順番、間違えそうです」

 一瞬きょとんとしてから、私はくすっと笑う。その笑い声は短く、部屋には残らない。

「なにそれー。甘えん坊じゃん」
「笑わないでください」
「笑うよ、さすがに」
「頑張ったけん、ご褒美ください」
「……。——じゃあ」

 私は立ち上がって、彼のところへ行く。距離を詰めるのは数分ぶりで、床の衣類を踏まないよう足元に気を配る。

「手伝いましょうか?」

 私のその一言に、彼が、思い切り目を見開く。さっきまでの軽口が嘘みたいだ。

「……触れちゃい、ません?」

 自分で要求したわりには、声がやけに小さい。私は拾い上げたTシャツを軽く振って見せる。

「手が、足りないんでしょ?」
「……」
「順番、間違えそうなんでしょ?」
「……っ」
「触れないよ?」

 軽く振り回していたその布が、空気を含んで、やわらかく音を立てる。

「布だもん」
「……」

 少し迷ってから彼は観念したように両手を胸の高さまで上げた。その仕草がまるで子どもみたいで、胸の奥がふっと緩む。緊張がほどけるというより、居場所が定まる感じ。

「はい、バンザイして?」
「はい、バンザイします」

 私はTシャツを広げ、袖に彼の腕を通す。肌には触れないように、きちんと布越しに。指先は布をなぞるだけで、重さも温度も拾わない。それでも距離が近いせいか彼の呼吸がわずかに揺れるのがわかる。
 何も起こらない。起こさない、という選択が、私たちのやり方。布が肩を越え、形が整う。私は一歩引いて、彼の前に空間を戻した。その小さな間が、静けさをきれいに置き直してくれる。

「……ちゃんと、布だけでしたね」
「でしょ?」

 Tシャツの裾が捻れていたので私は軽く払って整える。触れているのは、あくまで布だけ。彼の身体はそこにある事実として認識するに留める。

「今さら直接触る必要ないし」
「今さら、て」
「だって、今さらだもん。」

 彼は苦笑して、それ以上は、言わない。抵抗もない。ただ、私の動きに合わせて、呼吸を整えているのが、近さゆえにわかる。

「はい、次。足ね。」
「介護みたいになってません?」
「救助活動の続き」
「それ、万能ですね」
「自分が言い出したんでしょうが」

 軽口を交わしながらも動作は淡々としている。ズボンを引き上げるのもあくまで布越し。距離を測り余計な近さを作らないよう、位置を少しずつ調整する。彼は言われるがままに立ち体重を移すタイミングだけを私に預けている。
 布が腰に収まり形が整う。私は一歩引き空間を戻す。それで十分だった。騒ぎの後始末としてはちょうどいい静けさ。彼は深く息を吐き私はその音を聞いて、作業の終わりを確認する。触れないまま、きちんと片づくこともある。今日は、そういう夜。

「……なんか」

 彼がぽつりと言う。独り言の延長みたいな声で誰かに聞かれる前提のない調子。

「不思議な感じです」
「なにが?」
「さっきまで、あんなに騒がしかったのに」
「ふふっ。今は?」
「……落ち着きます」

 その言葉が、空気の底に静かに沈む。私は床に残っていた上着を拾い、彼の肩にそっと掛ける。布が収まる位置を確かめてから一歩距離を戻す。

「——はい、完成。」
「はい」
「かっこいいよ、ウィングヒーロー・ホークス」

 冗談めかした呼び方。でも、からかいの成分はもう薄い。彼は一度、自分の格好を見下ろして、それから、私を見る。視線が合うまでに、ほんの短い間があった。

「……ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」

 照れも気まずさも、わざわざ拾い上げる必要がない。ただ、温度が一定のまま、保たれている。そんな空気。彼は、ほんの少しだけ距離を詰めて声を落とした。

「……さっきの」
「うん?」
「全部、冗談として処理していいやつですよね」

 確認というより、整理。線を、引き直すための言葉。

「もちろん」

 私は迷いなく笑う。冗談は冗談のまま片づけて夜は、ちゃんと終わる。それでいい。そういう、終わり方を二人とも、きちんと選べているから。

「——でも、」

 私は言葉を急がずに、少しだけ間を取ってから続けた。さっきまでの笑いの余韻が、まだ空気の中に残っている。その中でこれは冗談じゃないと自分にだけわかる速度で。

「必死に止めてくれたのは、本当でしょ」

 彼は、すぐには、返事をしなかった。否定する理由を探すでもなく言い訳を用意するでもなく、ただ一度、息を整えるみたいに、胸が上下する。それから、素直に頷いた。

「はい」

 それだけ。余計な説明も照れ隠しもない。その短い返事が、さっきまでの騒がしさを、きれいに切り離してくれる。
 今日も触れなかった。越えなかった。それでも服を着せるという行為の中には、なぜか、確かな落ち着きがあった。欲しいものを奪う手つきじゃなく、乱れたものを整えるための距離。その在り方が今の私たちにはちょうどよかった。何も起きなかったという事実を、少しも物足りないと思わないくらいには、二人の距離は、ちゃんと近い。
 服を整え終えたあと、私たちは並んでソファに腰を下ろした。さっきまで床を転がっていた笑い声が嘘のように、部屋の空気は角を失い、丸く、低い位置で落ち着いている。
 ワインの残り香が微かに漂い、夜の静けさが、それを包む。その中に、彼の匂いがふっと混じった。洗い立ての布と外気の名残と、どこか安心を連れてくる温度。

「……ホークス、ほんといい匂いするよね」

 口にしてから少し遅れて自覚する。軽い感想のつもりだったのに部屋の静けさがそれを必要以上に響かせた。彼は一瞬だけ目を瞬かせ、それから照れ隠しのように口角を上げる。

「名前さんには負けますよ?」
「そーゆうのいいから」

 私は思わず肩で笑う。ここまで言ってしまったのだから今さら褒め合いに逃げる気はなかった。

「真面目な話」

 その一言で、彼の表情がわずかに切り替わる。考える癖のある人が、考える前に間を置く、その時間。そうして彼は、天井を見て、わざとらしく咳払いをしてから、ぽつりと呟いた。

「……フェロモン、ですね」
「違うくて」

 否定は思ったより即座に出た。冗談に乗る気分じゃなかったから。

「ずっと、聞きたかったんだけどさ?」

 言いながら、ほんの少しだけ身を寄せる。触れない距離のまま、空気だけが近づく。彼の匂いがさっきよりはっきりわかる。この距離なら言葉もちゃんと届く気がした。

「香水、なに使ってるの?」

 問いかけると、彼はすぐには、答えなかった。ほんのわずかな間を置いてから、いつもの軽さをまとった声で言う。

「機密です」
「またそれ」

 私は小さく笑い冗談半分に指を立てる。責める気も、踏み込む気もない。ただ、このやり取りがなんだか楽しかった。

「じゃあさ。当てたら教えてくれる?」
「……当てられると思います?」
「やってみなきゃわかんないでしょ」

 彼は眉をわずかに上げて、面白そうにこちらを見る。その視線に、警戒よりも遊び心が混じっているのがわかる。

「どーぞ?」

 やけに素直な返事が返ってきた。そのことが、少しだけ今は、救いだった。

「えーとねぇ……」

 私はわざと大げさに考えるふりをする。鼻先に残る匂いを、言葉に変換する作業。甘すぎない。冷たくもない。主張は控えめなのに近くにいると確かにわかる存在感。

「定番ってほど安心しきった匂いじゃなくてぇ」
「ほぅ?」
「かといって、尖ってもないしぃ」
「それで?」
「なんか、ちゃんと��人�≠フ匂いがする」
「……。」

 途中で自分でも少し照れてしまう。説明としては曖昧なのに嘘は混じっていない気がした。彼は何も言わない。ただ、遮らずに聞いている。それ以上は口を挟まないその沈黙が、評価や採点じゃなく、受け取るためのものだとわかるから言葉が途切れずに続く。

「……外の空気と、洗い立ての服と」
「……」
「それが、混ざった感じ」

 言い切ったあと、私は少しだけ息を吐く。彼はまだ黙っている。でもその無言が、なぜだか優しい。正解かどうかよりも、この時間そのものを、楽しんでいるみたいで。

「……たぶん」

 私は言葉の重さを確かめるみたいに、一度だけ息を整えてから、結論を出す。

「ライム系。あと、ほんのちょっとだけ甘い」

 彼の口元がゆっくりと緩む。勝ち負けの表情というより見抜かれた事を楽しんでいる顔だった。

「……惜しいですね」
「惜しいの?」
「ライムは合ってます」
「やった」
「甘いのも、まあ」
「じゃあ正解でいいじゃん」
「ダメです」

 首を振る動きは小さくでもはっきりしている。声の調子も、少しだけ落ちる。

「当てきれてないんで」
「えー」
「ブランドまで当てたら、まぁ」
「厳しいなあ」
「機密なんで」

 そう言って、彼は不意に、こちらを見る。その瞬間に気づいた。さっきよりもほんの少しだけ、距離が詰まっていることに。
 触れるほどではない。でも、匂いがより、はっきりと、輪郭を持つ距離。彼が目を細める。光を確かめるみたいな仕草で。私は思わず息を呑む。言葉より先に、感覚が反応してしまった。

「もっと、嗅いでみます?」

 軽い提案の形をしているのに、声は穏やかで、押しつけがましさがない。

「え?」
「もっと——近くで」

 冗談の延長線上。そう言い切れる余白を、彼はちゃんと残している。私は、何も答えないまま、ただ、その距離の意味を測る。今なら、引き返すことも、進むことも、どちらも選べる。そのこと自体が、少しだけ、胸を静かにする。
 私は答えを出さないまま、息だけを浅くした。彼の提案は選択肢として差し出されている。拒むことも進むこともできるその余白が逆に逃げ道を狭くする。

「……どうします?」

 彼はこちらに身を寄せない。距離を詰める代わりに声を落とす。ソファの背に腕を預けて、私の横顔だけを視界に入れる角度。その配慮がなぜか挑発みたいに感じられる。

「……近づかないんだ」
「近づく必要、あります?」

 穏やかな言い方。問いかけの形をしているのに答えを急かさない。

「嗅ぐって、顔を埋めることじゃないですよ」
「……」
「この距離で、もう十分わかってるはずです」

 彼は、自分の襟元に、指を添える。布をつまむだけ。引き寄せない。外さない。あくまでも布の存在を強調する仕草。

「ここ、です」
「……そこ?」
「はい。空気が、溜まるところ」

 私は視線を逸らす。匂いは確かに届いている。ライムの輪郭が近づくほどに鋭くなる。その奥に甘さが遅れて現れる。彼は、それを知っている。

「さっきの説明」
「……」
「��人の匂いがする�≠チて」

 彼はそこで止めて、小さく笑った。その笑みは軽いのに、どこか、確信を含んでいる。

「それ、褒め言葉ですよね」
「……たぶん?」
「たぶん、じゃなくて」

 言い切りを求めるでもなくただ言い直す余地を残す。その沈黙は待つというより、こちらの内側が整うのを見極めているみたいだった。

「正解に近づくほど、言葉は短くなります」
「……意地悪」
「焦らしてるだけです」

 否定しない。その一言が、余計に胸をざわつかせる。私は無意識に息を吸って吐く。そのリズムを自分で把握できていないことに遅れて気づく。

「ほら」
「……なに」
「今、名前さん」
「……」
「息」

 彼は指先で、私の前の空気を、なぞるみたいに示した。触れない。けれど、視線は外さない。

「浅くなりました」
「……気の、せい」
「気のせいなら、続けますよ?」

 姿勢も、距離も、さっきから変わっていない。それなのに、声だけが私の輪郭に沿って近づいてくる。逃げ場はある。立ち上がることも、話題を変えることもできる。でも、どれも選ばないまま私はそこに座っている。すると彼は少しだけ声を落とした。

「当てようとしなくていいです」
「……」
「感じてるなら、それで」

 その言い方が責めているのに許しているみたいで——。私は何も返さない。返せない。代わりに息を整えようとして、うまくいかない自分を自覚する。触れられていない。それなのにすでに追い込まれている気がした。

「ライムのあと」
「……」
「もう一段、ありますよね」

 私は何も言わない。否定もしない。その沈黙を彼は��許可�≠ニして扱わない。代わりに、言葉を重ねる。

「言わなくていいです」
「……」
「今は、当てなくていい」

 それは、逃がす言い方だった。けれど同時に、先延ばしにする宣言でもある。今夜はここまで、と線を引きながら、その先があることだけは否定しない。

「次に当てたら、教えます」
「……次?……なに、を?」
「香水の、ブランド名です」

 彼がようやくこちらを見る。視線が合う。近いのに、触れない距離。互いの呼吸の重さだけが、静かに交換される。

「その代わり」
「……」
「今日は、答えだけ、持ち帰ってください」

 その終わり方があまりに理性的で、私は思わず笑ってしまう。逃げ道を用意したまま期待だけを残す、そのやり方が彼らしい。

「ずるい」
「よく言われます」

 肩をすくめる仕草は軽いのに、目は真面目だ。

「次、嗅ぐときは」
「……」
「ちゃんと、当てに来てくださいね」

 その言い方が約束みたいで。触れていないのに責められた感じだけが、静かに残る。胸の奥で、答えにならない答えが、ゆっくり温まっていく。私が煮え切らない顔をしているのに気づいたのか彼はふっと笑って、観念したように続けた。

「……でも」

 そう言って私を見る。距離はそのまま。けれど視線だけが一段、近い。

「今の反応」
「……なに」
「当てに来る人の顔、でした」

 指先は動かない。声も、荒れない。ただ、言葉だけが、的確に落ちてくる。

「だから」
「……」
「今日は、それで正解にしておきます」

 彼はそこでわざと視線を外した。逃がすための所作。私は小さく息を吐く。触れないまま、越えないまま、確かに近づいた感触だけが残る。

「……今度、ちゃんと教えますよ」
「今度? 次に私が当てたらでしょ?」
「いえ。改めて、名前さんにだけは」
「……」
「特別に、教えちゃおっかなって」

 言い切りではなく先に置いておくみたいな言い方だった。今日の続きは、今日じゃない場所に、しまっておくという、そんな調子で。

「意地悪して、ごめんなさい?」
「……ほんとだよ。心臓に悪い」
「ちゃんと、教えますんで」
「ん。楽しみにしとく」
「どうぞ、しててください」

 軽く交わされる言葉の端々にもう緊張はない。二人で笑い合う。その笑いは、熱を帯びる手前でちゃんと落ち着いている。
 触れないまま近すぎない距離で。匂いの話だけで、こんなふうに夜が甘くなることがあるのだとそのとき初めて知った。何かを確かめ合ったわけでも約束を結んだわけでもない。ただ同じ空気を共有しただけ——。
 ワインボトルは半分ほど残ったままテーブルの端で静かに眠っている。テレビもつけず、音楽も流さず、部屋にあるのは夜の気配と二人分の呼吸だけだった。酔いが回ったせいか、会話は自然と途切れ、沈黙がぎこちなさを失って居心地のいい形に変わっていく。
 気づけば私は、ソファの背もたれに身を預けていた。彼はその隣に座っていて、距離は近いのに触れてはいない。肩が触れそうで触れない。その曖昧さが、なぜだか安心する。今夜はこのままでいい。そう思える静けさが部屋の奥にゆっくりと満ちていた。すると不意にホークスが小さな声で聞く。

「……眠い?」
「うーん。ちょっとだけね」
「じゃあ……このままで?」

 それは提案というより確認だった。私は返事の代わりに、ゆっくり目を閉じる。意識が沈みはじめる直前、彼がそばにあったブランケットを少しだけ掛けてくれた気配がした。重くはない。温度だけが、そっと伝わる。

「……ヒーローも、こういう日、あるんだね」

 半分夢の中で呟くと、すぐ近くで、微かに笑う気配がした。

「ありますよ。人間なんで」

 その声を聞いたところで、意識がふっと途切れる。酔いと、笑いと、ぎりぎりの理性。触れた。でも、それ以上は越えなかった。その夜のことをきっと私は、翌日、断片的にしか覚えていない。ただ一つ、はっきり覚えているのは——彼が最後まで、本気で私を止めていたことだけだった。
 どれくらい眠ったのかはわからない。目を覚ましたとき、部屋はまだ暗くて、時間は深夜と朝の境目みたいな顔をしていた。
 隣を見ると、ホークスもすでに、眠っている。ソファの背もたれに頭を預けたまま少しだけ首が傾いていて、呼吸は穏やかだ。起きているときの軽さが嘘みたいに、無防備な寝顔だった。私は、起こさないように身じろぎもせずそのまま並んで座る。ソファで横になるでもなく抱き寄せるでもなく、ただ同じ場所で眠ってしまっただけ。それだけなのに、不思議と満たされている。
 同じ夜を、同じソファで、同じ温度のまま過ごした。その事実が、静かに胸に残る。ヒーローの部屋でヒーローじゃない彼と何もしないまま眠る夜。それはたぶん、あとから思い返したときに、いちばん優しい記憶として残るのだろう。私は、目を閉じ直して彼の呼吸のリズムにそっと意識を預けた。

 次にまた目が覚めたとき、最初に気づいたのは体温だった。夜の間に、どういう経路を辿ったのかは覚えていない。ただ、ソファの上で私たちはいつの間にか寄り添う形になっていて、彼の腕が無意識に私の背に沿っている。

 ——まずい。

 そう思った瞬間に、眠気は一気に引いた。ホークスの呼吸はまだ規則正しく深い眠りの底にいる音を立てている。
 起こしてはいけない。起こされてもいけない。私はそっと、彼の胸元から視線を逸らし、慎重に距離を測る。彼は眠っているときまでヒーローとしての凛とした姿勢を貫くみたいに静かだった。それでも、眉間の力が抜けて、口元が、わずかに緩んでいる。起きているときの軽口も、警戒心も全部、置き去りにしたような顔。

 ——近すぎる。

 そう思うのに、不思議と嫌じゃない。むしろ、この距離が自然にできてしまったことのほうが、胸に引っかかるくらいだ。
 私は息を殺して少しずつ身体を引く。彼の腕が名残惜しそうにずれる。その動きに、心臓が跳ねそうになるけれど、彼は目を覚まさない。
 よかった……。ソファの端まで辿り着いてからようやく一息つく。立ち上がると床に落ちていたブランケットが視界に入った。昨夜、彼が掛けてくれたものだ。私はそれを拾い上げ、今度はちゃんと、彼の肩に掛け直す。

『……おやすみ、ヒーロー。』

 声には出さず口の中だけで言う。彼は寝返りも打たずに眠り続けている。その様子を、もう一度だけ確かめてから私はそっと身支度を整え、靴を履いた。玄関のドアを閉める前に、最後に、振り返る。ソファで眠る彼は昨日よりもずっと静かでやわらかい。夜のあいだにできてしまった距離の近さが、朝の光の中で、少しだけ現実味を帯びて胸に残る。
 私はその感覚を持ったまま、部屋を後にした。ホークスが、目を覚ましたとき、隣に私がいない理由を、まだ考えなくていいように。


 *


 それは、その日の夕方の出来事だった。仕事の休憩中、雑音の多い休憩室で、ポケットに入れたままのスマホが震え、反射的に画面を伏せたまま数秒だけ放置してから覚悟を決めて持ち上げる。表示された名前を見た瞬間、胸の奥に小さな重りが落ちる。嫌な予感というほど大げさじゃない。ただ、こういうときの直感はだいたい外れない。

『なんで勝手に帰ったんです?』

 通話をつないだ途端、開口一番そう言われた。前置きもなく、逃げ場もなく、けれど怒鳴るわけでもない、妙に角の取れた硬さ。いつもの軽口がきれいに削ぎ落とされていて声そのものが感情を抑え込んでいるのがわかる。

「……起こしたら、悪いと思って」

 そう答えながら、自分でも、言葉が少し足りていない気がしていた。説明しようと思えばもっと言える。でも、それを選ばなかった自分がいる。

『送って行ったのに』
「え?」
『ちゃんと、家まで』

 一瞬、頭が追いつかず、私は視線を宙に彷徨わせる。なるほど、と、ようやく腑に落ちる。私が真夜中に抜け出したと思っているのだろう。そう思うと、彼の声の硬さにも合点がいった。

「あ、違うくて……朝だよ、出て行ったの」
『時間とか、関係ないです』

 すぐに言葉が被さってきて、それ以上何も言えなくなる。論点がそこじゃないという意思表示がはっきりしていた。

『朝とかじゃなくて、』
「……はい」
『危ないんで、ちゃんと、送っていきたかった。やけん——』

 彼はそこで一度息を吸う。その小さな間が言葉よりも、雄弁だった。感情を整理してから話そうとする癖。ヒーロー活動の現場でも私の前でも、そこは変わらない。

『……起きたらいないの、普通に焦ります』

 その一言で胸の奥がきゅっと縮む。怒りというより、拗ねた感情が形を変えて表に出てしまったような声だった。それを自分でどう扱っていいかわからないまま口にしてしまった、そんな響き。

「ごめん」

 短く言うと、彼はすぐには返事をしなかった。沈黙が、責める代わりに、場を満たしていく。

『起こしてくれて、よかったとに……』
「寝てたし」
『寝てましたけど』

 拗ねながら不機嫌になりながらも素直にそこで言い切るところが、この人らしいなと思う。

『でも、起こされて嫌な相手だったら、そもそも泊めてないです』

 その言葉は思っていた以上に重く、静かに胸の奥へ沈んでいった。好意を盾にしない言い方だからこそ、逃げ場がない。

「……怒ってる?」
『怒ってます』

 珍しく、迷いのない返答。

「そんなに?」
『はい。結構』

 私は思わず息を吐き、乾いた笑いがこぼれる。責められているのに、不思議と突き放されている感じがしなかった。

「じゃあ、どうすれば正解だったの」
『......一言』
「一言?」
『帰るって言ってくれれば……それで、よかったです』

 声は落ち着いているのに、きちんと、刺さる。責任を押しつけるわけでも感情を爆発させるわけでもなく、ただ「それだけが足りなかった」と、示されるのが、いちばん堪える。

「……無意識に、逃げたのかも」

 そう口にした瞬間、自分でも驚くほど、素直な言葉だったと思った。もっと言い訳めいた言葉が出ると思っていたのに喉を通り抜けたのは飾り気のない事実だけだった。逃げた、という自覚は、ずっと胸の底で鈍く重なっていたのだとそのとき初めて知る。
 受話器の向こうで、彼は、すぐには答えない。短い沈黙。けれど不思議と怖くはなかった。さきほどまで張りつめていた空気が、氷の縁から少しずつ溶け出すように、ゆっくりと緩んでいくのがわかる。怒りが完全に消えたわけではない。ただその輪郭が、鋭さを失っていく。

『……そういうとこ』

 案の定、彼の声が、ほんの少しだけ柔らいだ。責める調子ではあるのに、そこには、感情を抑え直そうとする息遣いが混じっている。

『自分だけで完結させるの、ずるいです』

 胸の奥に軽く針を刺されたような感覚が走る。正しい。だからこそ、痛い。

「ごめんって」

 謝罪が、言い訳を伴わずに出ていく。今はそれ以上の言葉を足す勇気がなかった。

『……意地悪、したからですか?』

 思いがけず低い声で返され、私は一瞬、言葉に詰まる。

「……なにが?」
『だから、仕返ししたと?』

 彼の問いは静かだがこちらの奥底を正確に掬い上げてくる。

「はは。違うよ、本当に起こしたくなかったの」

 笑ってみせたものの喉の奥は少し乾いていた。起こしたくなかったという言葉の裏に、触れられたくなかった自分が透けて見える気がして。
 また短い沈黙が落ちる。さっきとは違い、この沈黙は考えるためのものだとなぜか直感できた。

『……次からは』
「次?」
『起きてるかどうか、確認してください』

 それは叱責でもなければ、制止でもなかった。命令口調ではない。そして、要求でもない。

「それ、ヒーロー命令?」

 冗談めかして返すと彼は小さく息を吐く気配をさせる

『いえ』
「……」
『ただの、お願いです』

 いつもと同じ言葉なのに今日は、意味が違って聞こえた。守るために引いた線ではなく、二人で引き直すための線。遠ざける境界ではなく、並び立つための距離。

「……わかった」
『ほんとに?』
「うん。約束する」

 そう言うと、ようやく彼が、息を吐いたのが、通話越しにもわかった。

『……じゃあ、許します』
「早いなぁ」
『速すぎる男なんで』
「はいはい」
『本当は、もう半分くらい許してました』

 なんだか、落ち込んだように言うその言い方が可笑しくて私は、くすくすと、笑ってしまう。

「次は、ちゃんと起こすね」
『はい』

 それから少しの間のあって、最後にぽつりと、彼が言った。

『……起きたとき、いないの、寂しかったんで』

 それ以上は何も言わず通話は、そこで切れた。私はスマホを伏せ、不意に天井を見上げる。怒られたはずなのに胸の奥には、じんわりとした温度だけが残っていた。
 昨夜越えなかった線はそのままだ。でも一緒に目を覚ますかどうかという別の線が、気づかないうちに引き直されていた気がする。
 触れなかった事で守られた距離と触れなくても残ってしまった感情。そのどちらも抱えたまま、初夏の気配を含んだ夕暮れは、静かに次の夜へと滲んでいくのだった。


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