夜に、ぬるさが残るようになったころだった。季節がはっきり変わったわけでも、生活が劇的に塗り替えられたわけでもない。ただ私の中で一つだけ静かに定まったものがある。
何度も「いい人かもしれない」と思っては引き返し「やっぱり違う」と、距離を取り直す、その往復を終えて——ようやく誰かと向き合う覚悟が私の側に整ったのだ。
だからその日の懇親会で私はそれを口にした。場所はいつも通り。馴染みの肩の力が抜ける店。最初は、仕事の話。最近のニュース、取り留めのない愚痴。グラスが行き来し会話が温度を帯びるよくある、夜の流れ。
「——で? 最近、どうなんです?」
何度かおかわりをしたころ、ふと視線が合う。ホークスが、いつもの軽さで話題を振ってきた。私は、ほんの少しだけ時間を置いてから応えた。言葉を選ぶというより、言葉の行き先を確かめるための間。
「……あのね、実は」
「はい」
「付き合うことになった」
言葉にした瞬間、自分の声が思っていたよりも落ち着いて聞こえて、少しだけ安心した。感情を煽らず、事実として差し出すように言えたことが今の私には大切だった。
しかしその瞬間、彼の動きが止まる。グラスを持つ指が空中で静止する。ほんの刹那。見逃そうと思えば、いくらでも見逃せる程度の変化。それでも私は、その微細な滞りを見てしまった。長い時間をかけて慣れてきた、彼の反応の癖だった。けれど、その間は、すぐに畳まれる。
「そうなんすね」
声は整っている。抑揚も、柔らかさも、いつも通りだ。驚きすぎず、喜びすぎず、踏み込みもしない。相手が望んでいそうな距離に、正確に立つための反応。
「おめでとうございます」
乾杯の仕草で、彼のグラスが持ち上がる。その動きに、ためらいはない。私は一瞬だけ遅れて、同じ高さまで、自分のグラスを上げた。
「ありがとう」
口にしたとき、胸の奥でなにかが小さく鳴った気がした。けれども、その音の正体を探るほどの勇気は、今は持てないままでいた。
「前に言ってた人ですか」
「……うん。あの、落ち着いてるって言ってた」
「なるほど」
彼は短く頷いてグラスに口をつける。氷が触れ合う音が思ったよりもはっきり響いた。飲み方はいつもと同じなのに視線の置きどころが少しだけ定まっていない。
「じゃあ、今回は」
そうして、言葉を選ぶような間が置かれる。
「ちゃんと、続きそうですね」
「……そうだといいなって、思ってる」
「いいと思います」
返事は、迷いなく落ちる。その迷いのなさが、かえって胸に残る。
「名前さんが選んだなら」
以前にも聞いた言葉だった。信頼を示すための定型文。けれど今はそれが、少しだけ別の重さを持って響いた。
「それが、正解だと思います」
私はグラスの縁を指でなぞりながら彼を見る。そこにあるのは変わらない姿勢と視線、声の調子と距離感といつの間にか変わってしまった立場。
「……聞かないの?」
「なにを」
「どんな人か、とか」
彼は少し考える素振りを見せてから、肩をすくめる。その仕草は軽いのに選択は、はっきりしていた。
「聞きません」
「どうして」
「聞いたら——」
そこで言葉を途中で止める。その沈黙がすでに続きを語っていた。
「余計な感情が、混ざりそうなんで」
冗談めかした調子。けれど、笑ってはいない。私はそれ以上、問いを重ねなかった。彼も、踏み込んでこない。言葉にしない選択が、今の私たちには、いちばん正確だった。
グラスの中で氷がゆっくりと形を変えていく。音を立てながら溶けるその様子を、私はぼんやり眺めていた。夜は特別なことなど何も起こらない顔をして、こうしていつも通りに、進んでいく。
「——でも。じゃあ、あれっすねー」
「なに」
「もうこうしてご飯とか、無理な感じで」
思っていたより、ずっと直球だった。胸の奥で言葉が一瞬、行き場を失う。けれども、取り繕う理由も、誤魔化す必要も、もう私の側には残っていなかった。
私はグラスを置きほんの少しだけ背筋を正してから答えようとする。自分の声の調子を確かめるように息を整えた、その直後だった。
「ああ、あれっすよ? 二人きりの話」
「……わかってるよ」
「懇親会とか、こーいうのは別に、ね?」
必要以上に、明るい口調だった。軽く流そうとしているのが、かえってはっきりわかる。私は、無意識に眉間へ力を寄せてしまい、すぐにそれに気づいて、何事もなかったように表情を戻した。感情を出すのは、簡単だ。でも、今はそれを選ばない。
「なんで?」
「……」
「別に、大丈夫だよ」
よかった。自分の声が、思っていたよりも落ち着いて聞こえた。
「そうなんですか?」
「変えなくていいよ、全然」
彼の視線が一瞬だけ揺れる。その沈黙を、私は待たなかった。
「今まで通り、気楽に行こうよ」
言い切ったあと胸の奥で何かがわずかに軋む。それでも言葉は引き戻さない。距離を変えないという選択は優しさでもあり、覚悟でもあるのだと自分に言い聞かせるように。決意というより確認に近い。ここで変えてしまうと、私たちの関係は名前を与えられてしまう気がしたから。
彼がどんな顔をしていたかは、正確にはわからない。あえて、見なかった。視線を合わせれば、こちらが揺らぐと、知っていた。それでも、言い返してこなかったところを見ると、彼なりに受け止めたのだろう。そう、勝手に思っておくことにする。
会話は自然に別の話題へ移る。店内のどこかで笑い声が弾みグラスが触れ合う音が混ざる。彼はいつも通り場を回し軽口を叩きヒーローとしての顔を崩さない。関係は、変わらない。そう思っていた。
けれど、報告を終えたあと、彼が、私を名前で呼ぶ声がほんの少しだけ遠く感じられた。距離が広がったわけじゃない。ただ、声の届き方が変わった。微細で言葉にしづらい差異。それでも彼は最後まで何事もなかったように振る舞う。それが彼なりの選択であり、誠実さなのだと、わかってしまうのが、今は切ない。
「名字さん、ホークスから別途料金もらった方がいいよ〜?」
「ほんとほんと!指名料も兼ねてね!」
「え〜、そんなみんなで俺のこといじめんでくださいよ〜」
グラスの中で、氷が小さく音を立てる。溶けていく速度は、いつもと同じだ。私たちは同じ席に座りながら、確かに、別の道を歩き始めていた。
それでも関係は終わらない。断ち切る言葉も、距離を置こうという提案も、どちらからも出ないまま、日常だけが淡々と続いていくのだ。
*
付き合い始めたことを伝えたあともホークスは以前と変わらない頻度で連絡をくれ、同じ温度で食事に誘ってきた。だからその日も特別な違和感はなかった。少なくともそう思おうとしていた。
変わらないという選択がいちばん難しいこともある。その事実だけが、静かに、胸の奥に残っていた。
暖簾をくぐった瞬間に、外の湿った夜気が切り離され油と出汁の匂いが一気に鼻先に広がった。ホークスと並んで奥の席へ向かい椅子を引く音が重なった、その流れの中でだった。
「すみません、またやりました」
席に着くなり彼はそう言って、テーブルの上に端末をそっと置いた。投げるでもなく、隠すでもなく差し出すでもない、その中間みたいな動作。画面は真っ暗で、内部に水が入ったとき特有の、拭いても消えない曇りが薄く残っている。
「……水没?」
「はい」
「はい、じゃない」
私は端末を手に取り、裏返し、側面を確かめ、電源ボタンに指をかける。反射的にやってしまう一連の動作は、もう身体に染みついていた。ため息は、作業の合図みたいなものだ。
「今回はどこ」
「川です」
「川?」
「パトロール中に、ちょっと」
「ちょっと?」
「ぽちゃっと」
「ちょっとで川に、ぽちゃっと落とす?」
「風が強くて」
「風、万能だね」
言いながらも頭の中ではもう切り替えている。彼の言いわけが本当かどうかより、端末の状態を把握するほうが先だ。私は、画面の縁に溜まった微細な水跡を確認し、角度を変えて光にかざす。
「すぐ、電源入れた?」
「……はい」
ほんの一瞬の間。視線が、わずかに逸れた。
「もぅ。ダメでしょ」
「……反省してます」
「何回目」
「数えない方向で」
いつもの応酬。声の調子も間の取り方も、前と変わらない。彼の端末を挟んで交わされる、このやりとりに、余計な感情は、混ざらない。彼氏ができたとか関係が変わったとか、そういう話題はここには入り込む余地がない。私はスマホをテーブルに戻し、ゆっくり頷く。
「とりあえず、乾燥処理だね」
「はーい」
「次、川に落としたら」
「はい」
「風のせいにしても、減点」
「うわー、厳しかねー」
軽口を叩く彼の声はいつも通りだ。私もそれに応じる。それだけで、この場は成立する。変わらないという選択がこうして静かに続いている事を私は何も言わずに受け取る。
「今回は、完全復旧は厳しいかもよ」
「ですよね」
「明日の朝イチ、代替機、手配する」
「助かります」
彼は端末を手にして素直に頷いた後テーブルの端に置かれていたグラスを手に取って、水を一口含んだ。喉が動くのを私は端末越しに、ぼんやり眺める。その横顔は以前よりも少し、落ち着いた印象を帯びている。それでも私の前では相変わらず、どこか肩の力が抜けていた。仕事中の顔とも完全なオフとも違う、あの中間の表情。すると、不意に彼が口を開いた。
「……こういうの」
「ん?」
「変わらないですね」
「なにが?」
「俺が壊して、名前さんが直す流れ」
言い方は軽い。冗談めかしているようで、でも笑ってはいない。
「壊す前提、やめて」
「でも、事実ですし」
私は自分のスマホを取り出し鞄のファスナーを閉める。その音が思ったよりもはっきり響いた。ちらりと顔を上げると、彼はまだテーブルの上をぼんやり見ている。
「変わらないのが、不思議?」
「少し」
即座に返ってきた、正直な、飾りのない答え。「でも——」と、ほんのわずかな間を挟んで彼は続けた。
「変えなくていいところも、あると思ってます」
その言葉が胸の奥に静かに沈む。水面に落ちた小石みたいに派手な音はしないのに、確かに波紋だけが残る。彼は、相変わらずこちらを見ない。視線はテーブルの木目をなぞるように落ちたままだ。だから私は、あえて仕事中の声を選んだ。
「落とした経緯と、あと——」
「はい」
「再発防止のための改善案も含めて」
「……」
「食べながら、詳しい状況聞きます」
「……はい」
メニューを開きながら、私は心の中で息を整える。私たちはもう、同じ未来を見ているわけじゃない。それは、ちゃんとわかっている。それでもこうして同じテーブルにつき同じ時間を共有する選択を、どちらもまだ、手放していない。
*
それからの私たちも、特別な転機を迎えることなく相変わらずの関係を続けている。何かを約束したわけでも、明確な線を引いたわけでもない。ただ切らずにいるという選択だけが積み重なっている。
そして最近は私の方から彼を誘う事が増えた。理由は特にない。仕事が思ったより早く終わったとか、冷蔵庫の中身が中途半端で、一人分を作るのが、面倒だったとか、そういう、些細な事情の延長にある連絡だ。今日送った文面も、我ながら拍子抜けするほど簡単だった。

今日、時間あったら
ご飯行かない?
送信してからほんの少しだけ画面を見つめる。深い意味を含ませたつもりはない。逆に、含ませないように選んだ言葉だった。しかし、返事は、思ったよりも早く届いた。

行きます

どこ集合にします?
絵文字も、余計な前置きもない。その簡潔さが今の彼との距離を正確に表している気がして私は小さく息を吐いた。
待ち合わせたのは駅から少し離れた小さな店。以前にも何度か足を運んだ事のある、照明が柔らかくて、声が必要以上に反響しない場所。
店に入ると、ホークスはすでに来ていて壁際の席でメニューを眺めていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
立ち上がるタイミングも、席を勧める仕草も、すっかり、板についている。テレビや取材で見る彼とは違う、私の前での��普通さ�≠ェ、ここではきちんと、保たれていた。
「今日は、急でしたよね」
「うん。たまたま予定が空いて」
「助かります」
助かる、という言葉が少しだけ引っかかった。でも、その理由を掘り下げるほどの重さは、今はいらない。
「忙しかった?」
「まあ、いつも通りです」
そう言って笑う顔は疲れを隠すのが上手になっている。成人を迎えてから、彼はそういう表情を身につけた。料理を注文し水のグラスが運ばれてくる。会話は自然と仕事の話へ流れ最近の現場、端末の不調、噂程度の、配置換えの話が続いた。私が聞き役に回る時間と彼が話す時間が無理なく入れ替わっていく。しばらくして、彼がふと私の名を呼ぶ。
「名前さん」
「なに」
「最近、誘ってくれますよね」
責めるでも探るでもない声だった。ただ事実を確かめるみたいな、静かで落ち着いた調子。
「嫌だった?」
「いえ。ただ、珍しいなって」
「そう?」
「はい」
私は少し考えてから、空気を壊さない程度に、正直に言った。
「変えなくていいって、言ってたでしょ」
「……あ」
思い当たったらしい。彼は、短く息を吐いて、グラスに視線を落とす。
「覚えてました?」
「覚えてるよ」
それ以上は言わない。言わなくても、十分だった。同じテーブルに向かい合いながら、私たちは今日も、変えない選択をひとつ重ねている。変えないことが今はまだ一番、穏やかな前進だった。
「それ、俺が言いましたっけ」
「どっちも」
不意にそう問われ考えるより先に返していた。彼は一瞬だけ瞬きをしてから照れたように視線を落とす。グラスの縁を指でなぞる仕草が、ほんの少しだけ遅れる。
「……ありがとうございます」
その言葉に特別な意味を込めたつもりはないのだろう。それでも以前より、確かに重さが増している。受け取る側の私にもそれは、はっきりと、伝わってきた。
料理が運ばれテーブルの上がにわかに賑やかになる。湯気と匂いが会話を押し流し、話題はまた細かく散っていく。誰かと付き合っていることも彼が誰とも付き合っていないことも、この席では触れられない。触れない、という選択が、暗黙の了解として機能している。ただ今ここにある時間だけを、丁寧に消費する。
箸を進めグラスを口に運び、間に小さな沈黙が落ちる。その沈黙は気まずさではなく、私たちの中ではもう、呼吸のようなものだった。
「今日も、楽しいです」
食事の途中で、彼が、ぽつりとこぼす。それは独り言に近い声だった。
「それは、よかった」
「はい」
それ以上、何も付け足さない。言葉を重ねれば壊れてしまいそうな微妙な均衡がそこにあった。
変わらない関係。少しだけ、変わってしまった立場。そのどちらも抱えたまま、私たちは今日も同じテーブルで、向かい合っている。誘ったのが私であっても、誘われたのが彼であっても、その事実だけが、静かに残る。理由も説明もいらないまま、今夜の時間は、確かにここにあった。