あれから二週間が経った。個性事故は収束し、報告書も提出されて、警察や公安の監査も無事に終わった。表向きにはすべてが『いつも通り』に戻っていた。
ホークスからの連絡も途切れてはいない。朝の短い挨拶、仕事の合間に送られてくる、どうでもいい写真。夜の『今日もお疲れさまでした!』という律儀な一文。文面だけ見れば事故の前と何も変わらない。けれど、どこかが違っていた。飲み会の話題を出すと彼はうまく話を逸らす。『最近ちょっと忙しくて』『スケジュール確認します』などと言いながら具体的な日を出さない。私の方から改めて誘えば『ありがたいんですけど』と、前置きを置いてから、やんわりとかわす。
避けられている、とまでは言えない。けれど、��あの夜�≠フ出来事を境に彼の距離感は微妙に、しかし確実に、変わっていた。
そしてここ二日ほどホークスからの連絡は途絶えていた。彼にしては、珍しいと思う。心配するほどではないと分かっていながらも、画面を開くたびに通知の空白を確かめてしまう自分が、少しだけ、滑稽だった。
そして、今日の昼過ぎ——。受付カウンターの向こうに、見慣れた金色が現れた。
「お疲れさまです」
声はいつも通りの調子なのに視線だけが絶妙にこちらを避けている。カウンターの上に置かれたのは彼の端末。電源は落ちていて、画面の内側にうっすらと水滴の跡が残っている。
「……水没、です」
短く、申し訳なさそうに言う。その言い方が、端末に対してというよりも、私に対してのように聞こえた気がした。
「海にでも落としましたか?」
「まあ……、そんな感じ、っすね」
歯切れが悪い。私は端末を受け取りながら彼の顔を盗み見る。普段ならば修理受付に来たときは必ず視線を合わせて軽口を叩くのに今日はやけに視線が低い。受付カウンターの端や、手元、床。私の方を見ようともしない。私はふと思いついて顔を上げた。
「もしかして」
「……?」
「ここ数日、スマホ、使えなかったとか?」
その言葉に一瞬だけ、彼の指が止まった。それから、ゆっくりと小さく頷く。
「……まぁー、はい……」
間延びした返事。言い訳を探しているような、探すまでもなく諦めているような、そんな声。
「水没したの、二日前ですか?」
「……正確には、もうちょっと、前です」
「じゃあ、ずっと使えてなかったんだ」
「……はい」
それだけで説明は終わりだった。けれど、その「はい」の奥には、別の沈黙が重なっているのが分かる。連絡がなかった理由は端末だけじゃないと。そう、なんとなく伝わってくる。
「……連絡、返せなくて、すみませんでした」
彼はようやくこちらを見た。けれどその視線はすぐにまた逸れる。
「別に……謝ることじゃないよ。仕事もあるし」
「でも……」
言いかけて、口を閉じる。何かを言おうとして言わない選択をした、あの夜以来、よく見る癖。私は端末を作業台に置いて代替機を準備しながら淡々と答えた。
「修理、今日中に見積もり出せると思います」
「……」
「基板まで行ってたら、少し時間かかるけど」
「すみません……」
「請求書はまた、事務所宛でよろしいですか」
「いえ……、公安の、方で……」
「承知いたしました」
「……お願いします」
形式的なやり取りのはずなのにどこかよそよそしい。カウンター越しの距離が、いつもより遠く感じられた。そんな中ふと彼の手元に目がいく。端末を海に落としたであろう手は、いつもよりも少し荒れている。よく見ると、背中の羽根の付け根あたりも、少しだけ疲れた色をしていた。私は何も言わずに受付票を差し出す。彼はそれを受け取ってサインをしながら、また、視線を落とす。まるで私と目を合わせること自体がどこか難しくなってしまったみたいに。
個性事故は解決したはずなのに……噛み合ったはずの何かは、まだ、完全には元に戻っていなかった。
端末の状態チェックを終えて、修理依頼書のフォーマットを開く。型番、シリアル、損傷箇所、想定原因。いつも通りの手順なのに指先がほんの少しだけ重たくなる。受付カウンターの向こうでホークスは立ったまま壁に貼られた『ながらスマホ禁止!』のポスターを、ぼうっと眺めている。内容など読んでいないはずなのにそこから視線を動かさない。そんな彼を、視界の端に追いやったまま、私はキーボードに指先を落とし何事もない調子を装って言った。
「……避けてるでしょ、私のこと」
自分でも驚くほど平坦な声だった。問い詰めるでもなく責めるでもなく、ただ事実を読み上げるみたいな言い方。カウンターの向こう側で、彼の呼吸が、わずかに変わるのが分かった。私のキーボードを打つ音も不意に止まる。返事はすぐには返って来ない。私は視線を上げずに入力欄を埋め続ける。水没日、状況詳細欄には「不注意により落水」と、淡々と打ち込む。
「飲み会も最近、ずっと濁してたし」
モニターに映る文字列の方が、彼の曖昧な返答よりもよほど正直だった。数字とエラーコードは少なくとも、誤魔化しをしない。人間よりも誠実だと、皮肉にも思えてしまう。
「誘っても忙しいって言うし。日程出さないし」
声は淡々としているのに、喉の奥だけがいやにひりつく。それでも私は、キーボードを打つ手を止めなかった。止めてしまえば、感情の方が先に表に出てしまいそうで、仕事という薄い膜に縋るように指先を動かし続ける。
「連絡はくれるけど、会う話になるとすっと距離取るでしょ」
最後の項目を入力しながら、ここでようやく、ほんのすこしだけ、指を止めた。��H�≠フキーに触れたままの指先が、どこか宙に浮いたみたいに頼りなく言葉の余韻を測りかねている。
「……今日も、目、合わせないし」
やっと顔を上げる。彼は、こちらを見ていなかった。けれど逃げるみたいに視線を落としているわけでもない。ただ、どこに置けばいいか分からなくなっている人の目。
沈黙が落ちる。修理受付の奥で別のスタッフが電話対応をしている声が、かすかに響く。日常の音の中で、ここだけが切り取られたみたいに静かだった。
「……そう、見えました?」
やっと出てきた声はいつもより少し低く、喉の奥で擦れたように乾いていた。言葉が声帯を通るまでに、どこかで躊躇した痕跡が残っている。
「見えた」
即答する。躊躇う時間さえ与えないように事実を事実として置くための声で。
「何年見てると思ってるの」
「……」
「分かるよ」
作成したデータを印刷に回す。プリンターが低い駆動音を立て始めるのを見つめたままで私は続けた。吐き出される紙の白さに視線を預けることで彼の表情を直視しない言い訳を自分に与える。
「事故のあとから、ちょっとずつ」
「……」
「……噛まれたの、そんなに嫌でした?」
あえての、敬語で。冗談めかした言い方にしたつもりだった。けれど、その言葉の奥に自分でも整理しきれない感情が混じっているのが分かる。
ホークスは、しばらく黙っていた。プリンターが紙を吐き出す音だけが、妙に大きく、その場を埋める。
「……嫌じゃ、ないです」
ようやく出た答えは即答でも否定でもなく言葉を慎重に選び直した末の、不器用な肯定だった。
「むしろ、逆で……」
言葉を探すみたいに、一度ゆっくり息を吐く。胸郭が上下するのが黒いアンダースーツ越しにも分かるほどに、大きな呼吸だった。吐き出された空気が、どこか、決意に似た重さを帯びている。
「……だから、です」
その一言だけで、彼の「避けている理由」が、輪郭を持ち始める。私はそれ以上、追及しなかった。プリンターから出てきた紙を取り、目の前の��顧客�≠ノ差し出す。彼は、それを受け取るときようやくこちらを見た。視線がぶつかる。今度は逸らさない。
「避けてる自覚、あったんだ」
「……はい」
短い返事。誤魔化さない声音。私は、軽く息を吐いてから、いつも通りの仕事の笑顔に戻した。
「修理——二、三日で終わるかと思います」
「……」
「代替機、すぐに用意できますよ」
「……」
「出しますか?」
「……お願いします」
仕事の会話に戻る。彼もそれに合わせる。それでも、さっきの一言は、どちらの中でも消えてはいなかった。個性事故の余波は、まだ、彼と私のあいだに、静かに横たわっている。
代替機の初期設定を終え、動作確認を済ませてカウンター越しに差し出す。彼はそれを受け取ると、手の中で端末をひっくり返し、何度か画面を確かめる。その指の動きがいつもよりも少しだけぎこちない。
「……助かりました」
そう言ってようやく軽く笑った。けれど視線は私の顔ではなく、カウンターの縁に落ちている。
私は受付票を片づけながら、次の業務の準備をする。このまま、何事もなかったように終わるのだと、そう思っていた。しかし次の瞬間、彼が、妙な咳払いをした。
「あ、あの……」
声が、少しだけ低くて、突っかかるような調子だった。あきらかに、仕事モードではない声。
「今日、よければ……」
「……」
「その……夜、食事でも……」
言い終えたあと彼は一瞬だけ私を見る。しかしすぐにまた逸らす。まるで誘い慣れていない人の仕草だ。私は手を止めず、淡々と答えた。
「埋め合わせなら結構です」
それだけ。余計な言葉は足さない。ホークスは苦笑いのような顔をしながら後頭部をぽりぽりと掻いた。困ったときの癖。言葉を失ったときの、子どもみたいな仕草。
「……いや、そういうつもりじゃなくて、」
途中で言葉を切る。言い訳に聞こえるのが自分でも分かって、止めたのだろう。
「……すみません。変な、誘い方でしたね」
「……」
「……じゃ、任務、戻ります」
代替機をポケットに入れ、受付カウンターから一歩、離れる。いつもの軽やかな背中ではなく、どこかとぼとぼした歩き方で。冗談めいた敬礼も軽口もない短い報告。出口へと向かう金色の後ろ姿が、妙に小さく見えた。そして自動ドアが開きかけた、そのとき。
「ホークス」
呼び止めると、彼は足を止めて振り返る。期待してはいけないと分かっている人の目で。私は、書類を束ねたまま、事務的な声で言った。
「夜。場所、連絡して」
それだけ。許しでも和解でもない。けれど拒絶ではない。一瞬だけ、彼の目が見開かれる。それから、ゆっくりと、安堵に近い息を吐いた。
「……はい」
今度はちゃんとこちらを見てそう答えた。自動ドアが閉まる。外の光が遮断され、受付フロアの蛍光灯がいつもの色に戻る。私はようやく指先の力を抜いた。淡々とした声で告げた一言の裏で、胸の奥だけが静かに、ほどけていくのを感じた。
場所は駅から少し外れた静かな居酒屋だった。ホークスから送られてきた店名は以前にも二人で来たことのある、落ち着いた暖色照明の店。偶然ではない。彼はちゃんと『私が落ち着く場所』を選んでいる。
暖簾をくぐると奥のカウンター席に彼がいた。昼間とは違う服装。ヒーロースーツではなく私服姿。黒い帽子を深くかぶり周囲に溶け込むように座っている。
「あ、お疲れさまでーす」
私に気づくと立ち上がりもしないで、軽く手を挙げる。その仕草がいつもの調子に戻ろうとしているのが、ありありと分かる。
「お疲れさま」
私は彼の隣に腰を下ろす。彼が注文を済ませると、しばらくはお互いに黙ったまま、氷の溶ける音だけが間に落ちた。
「あの……昼は、すみませんでした」
先に口を開いたのは、彼だった。カウンターの照明に照らされた横顔は昼間よりも幾分やわらいで見えたが、声の奥にはまだ緊張の余韻が残っている。
「誘い方、下手すぎましたよね」
「いや……下手っていうか、」
私は届いたグラスを手に取って、指先に伝わる冷たさで、自分の体温を確かめる。アルコールの匂いが立ちのぼり、昼の職場とは別の時間が流れ始めたのを実感する。
「逃げ腰だった」
彼は苦笑して、視線を落とす。まつ毛の影が頬に落ちるのが見えた。
「否定は、できないです」
料理が運ばれてくる。湯気が立ちのぼり、油と出汁の匂いが空気に混ざる。その香りが張りつめていた空気を少しだけ解きほぐす。
「二日間、連絡しなかったのも」
彼は箸を持ったまま、ぽつりと続ける。箸先で皿の縁を軽く叩く癖が、わずかに出ていた。
「スマホが壊れたのも、事実なんですけど……」
「……」
「でも……」
「……」
「……それだけじゃ、ないです」
その言葉に、私はグラスを口に運ぶ手を止めたまま、黙って待つ。言葉の続きを促さない沈黙。
「知ってる」
「……ですよね」
少しだけ困ったように笑う。その笑みは照れというより自分の弱さを認めた人間のものだった。
「あのあと」
彼のその言葉で自然と私の箸先が止まる。皿の上の料理が急に、遠くなったように感じられた。
「俺、なんか、変なスイッチ入っとって……」
「……」
「距離、分からんくなって……」
言葉の切れ目ごとに喉が動くのが見える。普段なら軽く流してしまうような話題を今は逃げずに口にしている。
「……で、避けてた?」
「はい」
言葉に迷いはなかった。言いわけにしない声。けれどその声色はどこか乾いていて、そこに後悔の影が滲んでいた。
「絆されたら……仕事も判断も、全部狂うって」
「……」
「ずっと、叩き込まれてきたんで……」
公安仕込みの理屈。でもその声は教本の文章をなぞるような無機質さとは、違っていた。言葉の裏側に彼自身の恐れと、諦めきれない執着が入り混じっているのが分かる。
「だから、ちょっと……引こうと」
「成功した?」
「失敗しました」
きっぱり言い切る。自嘲でも強がりでもなく、事実を報告するみたいな声だった。それだけで、私は少しだけ、息を抜いた自分に気づく。
「名前さんの顔見たら、あ、無理やなって」
「単純」
「単純すね」
グラスを傾けて一息つく。氷がカランと鳴り、透明な液体が、喉を滑り落ちる。その音が、彼の言葉の余韻を受け止めるみたいに響いた。
「でも、避けてるでしょって言われて……」
「……」
「ついに逃げ場、なくなりました」
「……追い詰めちゃった?」
「はい」
「即答じゃん。ごめんね?」
「いや、でも。ありがたかったです」
そう言うとホークスはようやくこちらを見る。今までは視線を落としたり、グラスや皿に逃がしたりしていたのに今は逃げない。店の暖色の照明が、彼の琥珀の瞳の奥に小さな光を宿している。
「逃げる口実、なくなったんで」
私は返事をせずに、唐揚げをひとつ口に運ぶ。衣の油が唇に触れ香ばしい匂いが鼻腔を満たす。舌に広がる熱と塩気が胸の奥で渦巻いていた言葉を、いったん、現実の重さへと引き戻した。
「埋め合わせなら結構です、って言われたとき」
言葉を続けた彼がわずかに眉を寄せる。照明に縁取られた表情の陰影がその一瞬の感情の動きを強調していた。
「結構、効きました」
「ほんとに効いたの?」
「はい。めちゃくちゃ」
照れも隠さず、笑いも交えず。冗談めかさない声が言葉の重みをそのまま置いていく。
「でも——」
「……」
「場所……連絡して、って言われたの」
「……」
「めちゃくちゃ、嬉しかったです」
ホークスはそのまま箸でつついた枝豆を一粒、口に、放り込んだ。咀嚼の音をごまかすみたいな照れ隠しの動作。彼の喉仏が小さく動くのを私は目の端で見ていた。
「……私も」
小さく呟く。声にすると、思っていたより素直だった。
「避けられてるの、嫌だった」
彼の目が、わずかに見開かれる。瞳の奥の色が照明を受けて少しだけ、濃くなった気がした。
「でも、言うのも嫌だった」
「……」
「だから、昼は意地悪した」
正直に言うと、彼は小さく笑った。その笑みは責めるでもなく、赦すでもなく、ただ受け止めるみたいな形をしていた。
「名前さん、意地悪ですよね」
「今さら」
「でも、ちゃんと戻ってきてくれる意地悪は——嫌いじゃないです」
カウンター席の背後、人の声や食器の触れ合う音が遠い。店内の騒めきの向こう側でここだけが静かに、隔離されているみたいだ。
「……今日、誘ってよかった」
「うん」
「また、飲みに行きません?」
「今まで通り?」
「今までどーり」
「また、逃げる?」
「もう逃げません」
言い切る声は冗談の延長線上にあるはずなのに不思議と、冗談の温度ではなかった。
「逃げたら、追いかけますか」
「追いかけない」
「……」
「捕まえに行ってやる」
言い放ったあと、彼は吹き出しそうになって、それでも堪えるように小さく咳払いをした。肩がわずかに上下して、気恥ずかしさをやり過ごしているのがわかる。
「それ、ヒーローっぽい」
「でしょ?」
夜はゆっくりと更けていく。逃げたり避けたり確かめたり。その往復の先に、こうして、向かい合って言葉を交わせている今がある。それだけで今日は十分だと、私は、グラスの底に残った氷を見つめながら思った。
*
店を出ると夜気が肌に触れた。昼間の熱をようやく手放したばかりの空気が少しだけ涼しくまだ夏の気配を抱えたまま頬を撫で、酔いをやさしくほどいていく。駅前の喧騒から少し離れた通りで街灯の橙色が歩道を淡く照らしていた。
「送っていきますよ」
ホークスは自然な調子でそう言った。いつものように確認ではなく、すでに、決定事項のような口調で。
「ううん。大丈夫だよ、ここから一人で帰れる」
「大丈夫かどうかは、俺が決めます」
「え、何それ」
「ヒーロー権限です」
軽口の裏に妙な切実さが滲んでいる。昼間までの距離感とは違う。ほんのわずか踏み込んできている気配があった。
二人、並んで歩く。肩と肩が触れそうで、触れない距離。その数センチの空白が今日の彼が選んだ距離なのだと歩調の重なり方が教えてくれた。
「……昼間、結構ショックだったんですよぉ?」
「埋め合わせなら結構です、の話?」
「はい」
「えー? しつこいね」
「根に持つタイプなんで」
足音が重なる。舗道のタイルを踏むたびに靴底と地面が乾いた音を立てる。彼の歩幅は意識しているのか無意識なのか私に合わせてわずかに短くなっていた。その調整の仕方が、妙に彼らしい。
「でもこれは埋め合わせじゃないって、ちゃんと自分でも分かってます」
「じゃあ、なんで誘ったの?」
「二人きりで会いたかったからです」
即答。ためらいのない声で。不意に周囲の風の音が止んだ気がした。言葉だけが夜の空気の中にまっすぐ置かれる。
「……ヒーロー業、忙しいんじゃないの?」
「忙しいですね」
「じゃあ、私なんかのこと構ってないで——」
「構ってたいんで」
「……」
「構ってたいんすよ、あなたのことを。」
言葉がぶつかるたびに、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形を変えていく。駅前の明かりが背後に遠ざかり住宅街の静けさに包まれていく。遠くで車が通り過ぎる音がするだけで人の気配はほとんどない。コンビニの前で立ち止まり、彼が自販機の前に立つ。硬貨を入れる音とコーヒーのボタンを押す音、缶が落ちる鈍い衝撃音が、夜に響く。
「まだ、飲みます?」
「ホークスは?」
「俺は、ちょっとだけ」
缶を差し出され私はそれを受け取った。冷たい金属が指先に染みて昼間の体温がようやく抜けていくのを実感する。
「じゃあ……もう一軒、行きます?」
歩き出しながら、彼が、ぽつりとそう言った。街灯の下で、個性の羽根の影が、足元に揺れる。
「……居酒屋? それとも、バー?」
「いえ」
一瞬、空気が静止する。その「いえ」のあとに続く言葉を、彼が口の中で転がしているのが分かる。足取りが、ほんのわずかに遅くなったから。
「……俺の、うちで」
何気ない調子を装っているけれども、声の端がわずかに硬い。冗談に逃がす事も、軽く流す事もせず、拒絶される可能性をきちんと想定したまま差し出された言葉だった。
「帰りたいなら全然、断ってもらっていいです」
「急に丁寧」
「断られ慣れてますんで」
笑っているけれど、視線はまっすぐ前を向いたまま。その視線の行き場が、私の反応を直視する勇気がないのか、それともただ見ないふりをしているだけなのか、分からない。
「……グラス、二つありますよ」
冗談めかして言う。けれど、その語尾には冗談だけでは済ませきれない温度が、わずかに滲んでいた。夜の静けさの中でその小さな含みがやけに際立つ。
「お酒も、コーヒーもあるし」
「……」
「さっき名前さんが言ってた、映画も見れるし」
「……」
「別に、何もしなくていいです」
言葉の合間に、遠くを走る車の音が、かすかに挟まる。彼は私の方を見ないまま、まるで、独り言みたいに条件だけを並べていく。その控えめな提案の仕方が逆に誠実に見えてしまうのがあまりに無防備で、少しだけ困った。
「何もしなくていいって言う人ほど何かしそう」
「偏見です」
「経験則」
私がそう言うと彼は少しだけ困ったように笑った。笑みの端が引きつるほどではないが、図星を突かれた人間の顔だった。
「じゃあ、ソファで座るだけでもいいですけど」
「ホークスの家のソファ、もう、親友用の定位置でしょ」
「ですね」
「……親友、用の。」
わざわざ言い直す。どうして言い直したのかは自分でもわからない。ただ、その言葉を口の中で転がしてみたかっただけだ。
「はい」
歩きながら足先で小石を蹴る。コツンと乾いた音が夜に落ちる。その仕草が妙に、若く見えて、普段のヒーローとしての姿よりもずっと年相応の青年に見える瞬間だった。
「……今日、楽しかったんで」
彼が不意にそう言った。声は軽いのに、言葉の選び方だけが、やけに慎重だ。
「だから、もう少しだけ……延長戦したいです」
夜風が、彼の個性をかすめる。街灯の光が赤い羽根の縁を縁取って、静かな光の輪郭をつくる。その背中を見ていると彼がどれほど控えめに踏み込もうとしているのかが手に取るように分かる。
「どうします?」
ようやくこちらを見る。誘っているのに、強要しない。逃げ道を残しながら、ちゃんと、待っている。この人は、いつもそうだ。押さない。触れない。でも、離れない。私は、缶コーヒーの口を開けて、一口飲んだ。舌に広がる苦味が、迷いを少しだけ現実に引き戻す。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
そう言うと彼の目がわずかに見開かれ、すぐにやわらぐ。夜の光を受けて瞳の奥が少しだけ明るくなる。
「ちょっと、ですね」
「うん」
「ありがとうございます」
そう言って彼は歩き出した。歩幅がほんの少しだけ軽くなっている。その変化を私は黙って見ていた。その背中を追いながら自分がどこまで踏み込んでしまうのか分からないまま夜の空気に身を委ねて歩いた。
*
よくよく考えてみれば『二次会』という言葉はずいぶんと便利だと思う。そこには、深い意味も覚悟も要らない。ただ、一次会の余韻をそのまま延ばすための都合のいい合言葉みたいなもので、なんとなく続いているだけ、という顔ができる。
終電の時間を確認して、どちらからともなく、「もう一軒どう?」と口にする。新しい店を探すほどの元気はもうなくて、かといってここで解散するには、夜がまだ若すぎる。だから行き先は、最初から決まっていたみたいに、自然にひとつに収束する。
『……俺の、うちで』
ホークスがそう言ったとき、私は一瞬も迷わなかった。彼のセーフハウスはもう、特別な場所というより、機能的で、都合のいい中継点に近い。危険はなく、騒がしさもない。だからといって、必ず泊まるわけでもない。ただ腰を落ち着けて、少し軽い話をして、その時間をやり過ごすための場所。そんな顔ができる距離に、いつの間にか、なっていた。
鍵が回りドアが閉まる音がする。外気が遮断された瞬間、街のざわめきが嘘みたいに遠のいた。靴を脱いで荷物を置き明かりを点ける。その一連の動作が、もう何度目かわからないほど馴染んでいることに、今さら気づいてしまう。
「飲み直します?」
いつもと同じように彼は一応、そう確認する。その問いかけに今日はほんの少しだけ間を置いてみた。一次会で十分だったはずなのにここで断るほど、潔くもなかった。私は彼の背中を見ながら短く息を吐いてから、小さく頷く。
「ん、ちょっとだけ」
その返事を待っていたみたいに、すぐ冷蔵庫を開ける音がして、続いて缶がぶつかる乾いた金属音が、部屋に落ちる。さっきまでいた店よりも、ずっと静かでずっと近い距離。誰かの視線を気にする必要も、声のトーンを整える必要もない。
ローテーブルに並ぶのは、帰り際に寄ったコンビニで買った簡単なつまみと、缶のフタを開けただけのアルコール。それ以上の準備は何もない。その雑さが、かえって、気持ちを落ち着かせた。
「……ジェンガ、ありますけど」
棚を指してホークスが言う。あまりにも唐突で私は思わず、くすくすと、笑ってしまった。
「やっちゃう?」
「暇つぶしになりますしね」
「ヒーローの暇つぶしがジェンガなの、平和すぎない?」
そう言いながら、結局は箱を開ける。ルールは今日も相変わらず曖昧で勝敗も適当。倒れそうになったら「あ、今のなし」とか「それは、反則でしょ」とか、そんな緩いやり取りが続く。負けたほうが飲むという単純な罰ゲームもいつの間にか形骸化して、途中からどちらが負けているのか、誰も覚えていない。
笑って飲んで、少し黙る。その繰り返しの中で時間だけが、ゆっくりと溶けていった。
「ソファ、使っていいすよ?」
ジェンガの塔が完全に崩れたところで彼がそう言った。私が無意識に目を擦ったのを、見逃さなかったのだろう。相変わらず目ざといな、と思いながらも、私は素直に頷いて床から立ち上がる。彼のソファは私の部屋のものより少しだけ広い。でも、わざわざ、間を空けるほどでもない距離感だった。自然な流れで並んで腰を下ろすと上質なクッションが沈み込み、さっきまでよりもさらに一段、身体が近づく。私はスマホを取り出して、無意識のまま、SNSをスクロールし始める。ホークスも同じようにスマホを手にしているけれど、画面を見ているのか考え事をしているのか判別のつかない表情をしていた。
酔いは回りきっていない。ただ、判断を一段階だけ緩めてしまう程度には、ちょうどいい。その曖昧な心地よさに背中を押されるみたいにして、私は何も考えず身体を少しずらした。そしてそのまま彼の膝に頭を預けてしまう。自分でもやってから気づく。あ、今のはちょっと大胆だったかもと。でも、もう遅い。彼の太腿の熱がクッション越しではなく、はっきりと伝わってきて私は逆にその体勢のまま、動けなくなった。
「あっ、——ちょっと」
声は上がったけれど、そこに本気の拒絶はなかった。私だって自分の行動に驚きはしたし相手もきっと同じくらい、面食らっていることだろう。それでも、身体を起こして距離を取り直すほどの切実さは、今の私の中には見当たらなかった。
「もー。重かっちゃけどぉー」
「知ってるー」
「知っててやるんすね」
「今さらでしょ」
軽口の応酬の裏で、彼は小さく息を吐く。それ以上の言葉は足さない。文句を続けるでも、抱き寄せるでもない。その、選択のなさが、かえって距離を意識させた。
筋の張った太腿の温度が、じわりと、時間差で伝わってくる。確実に触れているのに、実際には触れ合ってはいない。支えられているのに、囲われてはいない。天井を見上げたまま、私は、その曖昧さを、カラダで、受け止めていた。手にしたスマホを少し持ち上げる。角度は、彼にも画面が見える位置。このまま冗談に転ぶのか、それとも空気が一段変わるのか。まだ、その境目にいる。そう思ったまま、私は前触れもなく口を開いた。
「ねえ」
返事はない。けれど、視線だけが、私のほうへ落ちてくる。その動きが、今の彼の全てみたいに思えるほど、静かな動作だった。
「見て。これ今、海外で流行ってるやつ」
画面をタップすると、短い動画が、自動で再生される。明るい音楽、手軽な編集。肩を寄せ合う若い男女が、笑って、踊って、カメラに近づく。画面下にはハッシュタグ付きで『Best friend』の文字。私は深く考えずに、ただその動画を眺めていた。膝枕の体勢なので彼の視界にも同じ映像が流れているはずだった。
すると、ほんの一瞬。確認するみたいな、軽い唇の接触。周囲の歓声と、本人たちの照れた笑い声が重なって動画はすぐ次へ切り替わる。なのに私の指は止まったままだ。次の映像が流れているのに、スクロールできない。空気が、さっきより静かになった気がする。膝の下で、彼の身体が、ほんのわずかに硬くなったのが、遅れて伝わってきた。
「はは……」
先に笑ったのは私の方だった。軽く流すためのいつもの癖。
「ノリ、軽すぎない?」
「……っすね」
返事は、返ってきた。でも、いつもの軽さではない。温度が違う。画面を見ているはずなのに、途中から、彼の視線がそこにないことがわかる。私は少しだけスマホを傾けて、もう一度、最初の動画に戻した。
何気ない動作のつもりだったけれどその瞬間、彼の呼吸が一段、浅くなるのを感じてしまって、胸の奥が小さく波打った。
「��kiss my best friend challenge�=v
「……」
「……って、言うらしいよ?」
私が不意に、そう言うと、ホークスは小さく、「へえ」とだけ、相槌を打った。その声と同時に彼の視線がふっと逸れる。天井でも壁でもない、どこにも焦点を結ばない、中空を眺めるような目だった。彼が考え事をするときの癖だ。見ない、というより、見られない、に近い気配が、そこに滲んでいる。
「親友同士なんだってさぁー」
「……親友、の距離じゃなくないすか」
低くぼそりと落とされた声。冗談めかしているようで、その実、笑いの余地を、残していない。軽く流せば済む話題のはずなのに、彼はちゃんと引っかかっている。
「そう?」
「だって」
彼は一度、言葉を切る。呼吸を整えるみたいなごく短い間。それから、慎重に続けた。
「やる側、絶対ドキドキしてますよね」
「え、そこ?」
「はい」
「……え、やる側って、どっち?」
「……された、ほう?」
思わず笑ってしまった私とは対照的に彼は少しも表情を崩さない。視線もまだスマホの画面には戻らない。
「カメラ回っとーし、周りに人も、おるわけで」
「うん」
「それでも、やるって……決めてるわけじゃないすか」
その言い方が妙に真剣で胸の奥が静かに鳴った。……なるほど。彼が見ているのは、キスそのものじゃない。その直前と直後の踏み出すときの覚悟と、引き返せなくなる感覚の方だ。
「ベストフレンドって、どこまでなんだろうね」
「……どこまで、ですか」
問いを投げると、ホークスは少しだけ眉を寄せる。適当に流さない。ちゃんと考えようとする。その姿勢が彼らしくてどうしようもなく優しい。
「これ、親友同士なんやっけ?」
「そうらしい」
「なら」
今度は、視線がこちら側に落ちてきた。膝枕の体勢だから世界が上下逆さまの角度で目が合う。
「もし、親友だったら……」
「うん?」
「こういうのも、アリなんですか」
問いかけの形をしているのに答えを急かさない声音。それは、自分の中に生まれた違和感を確認しているだけの響きだった。私は少し考えてから肩をすくめる。
「……どうだろ。人によるんじゃない?」
「人による……」
「だってさ?」
言葉を選びながら私は彼を追い越した先にある白い天井を見上げる。
「こういう動画、成功してる人たちって、元々、友達以上恋人未満の関係が多いと思うんだよね」
「はい」
「受け止めてもらえるって、どこかでわかってるから、こーいうことができるんだと思う」
言いながらこれは説明というより自分自身への言い聞かせに近いな、と気づく。それでも口は、自然と開いてしまう。
「チャンスさえあれば、男女の一線を越えちゃうって、ことなわけだし」
「……なるほど。」
その言葉に合わせるように彼はまた視線を逸らした。今度は、はっきりと。逃げるようでも拒むようでもなく、考えを胸の内に引き戻す仕草。
「見ないの?」
「いや……今は、いいです」
ほとんど即答に近い言い方だった。でも、その中に、強がりは感じられない。
「どうして?」
「えっ?どうして?」
「うん、どーして?」
「……いま、見たら」
短い間が空く。その沈黙がやけに正直だった。
「……余計なこと、考えるんで」
その一言で胸の奥が小さく揺れた。私はそれを悟られないように、冗談に逃げるみたいに、軽く笑う。けれど笑い声の裏で確かに何かが境界線のすぐ内側まで来てしまっているのを、私は、はっきりと、感じていた。
「なにそれ。真面目すぎ」
「真面目じゃないです」
「じゃあ、何」
「……慎重なだけです」
その言葉で、会話が一旦、途切れる。意図して閉じたというより、互いに続きを選べなくなった沈黙だった。
動画はまだ再生されたままで同じ軽快な音楽と同じ笑顔の二人が、何度も同じ場面を繰り返している。現実と無関係なはずのそのリズムが、今はやけに耳についた。私は、画面を止めることも、音量を下げることもせずにただ、そのままにしてしまう。
「海外だと、普通なのかな」
「……」
「こういう……軽いノリ?」
「……俺は、無理ですね」
それは即答に近い言い切りだった。理由を付け足さないところが、逆に、彼の本音だとわかる。
「……じゃあ、私とだったら?」
言ってから少しだけ後悔する。問いというより勢いで放ってしまった言葉だったからだ。
ホークスは、すぐには答えない。呼吸がひとつ深くなるのが、膝越しにはっきり伝わってくる。
「……それ、」
と。短く区切ってから、ホークスは続けた。
「親友じゃなくなります」
その一言で空気の質が変わる。さっきまで曖昧だった境界線が、急に輪郭を持って立ち上がったような感覚。どういう意味か、頭では考えようとするのに、酔いが残る私の思考は肝心なところで追いつかない。ただ、言葉の重さだけが、遅れて胸に沈んでくる。だからこそ、気まずさに耐えきれず私は、無意識に口を開いていた。
「ねえ」
「はい」
「これ、撮ってみる?」
酔いが残っているとはいえ完全に冗談のつもりだった。勢いで軽く流すための一言。けれどその瞬間、空気がはっきりと切り替わる。さっきまで緩んでいた夜が、別の顔を見せた。
「……は?」
「怖い、顔」
「いや……は?」
「冗談だってば」
「冗談でも、そげんこつ軽く言わんで」
声が低い。目も、やや座っている。抑えているぶんだけ、感情が滲む。怒っているというより、踏み込まないために必死に線を引いているような音だった。
「やる側、ドキドキするって言ったでしょ」
「……」
「それ、こっちも同じなんで」
私はようやくスマホを伏せる。画面が暗くなり動画の音も消える。残ったのは、静かな部屋と、触れているのに、触れていない距離だけだった。膝の下で感じる彼の太腿の温度が、さっきよりもはっきりしているのに彼の手はどこにも来ない。その事実が、逆に意識を集めてしまう。
「ホークス」
「……」
「ごめんって。悪ノリしすぎた」
「……」
「冗談、です……」
そう言うと、ホークスは小さく、息を吐いた。緊張を逃がすような、でも、完全にはほどけきらない呼吸。彼は何も言わない。ただ、その沈黙の中に、越えないと決めた意思だけが静かに残っていた。
「……わかっとーと」
「なら、そんなに拒否しなくても」
「拒否やなか」
「……」
「わかってても、心臓には悪いです」
言葉だけ並べると、冗談めかした言い方だったはずなのにその一言だけがやけに正直に響いた。彼の膝の下で感じている体温が急に意識の前面に浮かび上がる。触れてはいない。けれど、触れていないからこそ、逃げ場のない熱として、残っている。
私は何も返せなかった。言葉にすれば、きっと何かが崩れる。笑いに変えればきっと嘘になる。だからどちらも選べず、ただ沈黙を受け取るしかなかった。境界線はまだそこにある。でも今夜はその線のすぐ内側で互いに同じ映像を見て、同じ想像に触れてしまった。その事実だけが静かに、しかし、確かに残っている。
「……今日は、もう寝ましょ」
ホークスは低い声でそう言って、話を切った。拒否でも肯定でもない、これ以上、踏み込まないための幕引き。その声色には、いつもの軽さも、冗談めいた逃げもなかった。ただ、ここで終わらせるという決断だけが、淡々と滲んでいる。
星の数ほどの人がいて、その中で今夜こうして同じソファにいて、同じ動画を見て、同じ沈黙を抱えている。その偶然の重なりが、急に現実味を帯びて、胸の奥に沈んでいく。
私はスマホを胸元に置いたまま、そっと、目を閉じた。ホークスは、最後まで、何もしてこなかった。触れなかった手も、越えなかった距離も、言わなかった言葉も、その全部が、ひとつの選択だったのだとわかってしまう。それがいちばん、意識させるやり方だということを、きっと、このヒーローは、知らない。あるいは、知ったうえで選んでいるのかもしれない。