連絡が来たのは、夜もだいぶ、深くなってからだった。画面に表示された名前を見た瞬間よりもその文面を読み取ったときのほうが、胸の奥が、ざわついた。時計に目をやると、ちょうど十時を少し回ったところで、あのヒーローからすると、遅すぎるわけでも、早すぎるわけでもないだろうけれど落ち着いた連絡にしては妙な時間だった。



ホークス

すこ





 ——え、なに……? すこ??
 意味を考えるより先に首の後ろあたりがじわりと熱くなる。誤送信にしてはあまりにも彼らしくない。冗談にしても、前後がなさすぎる。すると続いて、ぽんぽんと、通知音が鳴った。



ホークス

少しだけお時間ありますか






 ——お時間……。その言い回しがどうにも引っかかった。ホークスにしては珍しく、やけに他人行儀だ。しかも改行もしていないところを見ると慌てて文字を打ったのか、それとも余計な言葉を削ぎ落とした結果なのか……。どちらにしても、いつもの彼の雰囲気とは、違っていた。
 その一行に理由は書かれていない。軽口も言い訳もない。普段ならばここに必ず、余白を埋める一文が添えられる。『ちょっと寄っちゃっていいですか〜?』とか『羽根のメンテで』とか『近く通ったんで』とか。相手に考えさせないための、あの緩衝材みたいな言葉が、今日はなかった。
 なんとなく嫌な予感がした。そこまで大袈裟なものではないけれど、ただ胸の内側で、鈍く引っかかる感覚が消えない。
 私は、返事を打つ前に、そのまま通話ボタンを押していた。考えるより身体のほうが先に動いてしまったのだ。

「ホークス?」

 呼びかけると少しだけ遅れて声が返ってくる。

『……はい』

 出るのは早かった。さすが速すぎる男である。スマホを手にしたままだったのだろう。けれど、その声が異様に低い。眠そうでも疲れているとも違う。ただ、呼吸が浅くて、言葉の手前で何かを堪えているような音が混じっていた。

「どうしたの」
『大丈夫です』

 言葉だけはきっぱりしているのに、声が、追いついていない。普段なら、安心させるために機能するはずの返事が、今日は逆に浮いて聞こえる。会話の手応えが、どこかで噛み合っていない。

「……大丈夫じゃ、なさそうだけど」
『いや、その——』

 一瞬、向こうで何かが擦れる音がする。歩いているのか立ち止まっているのか、それすら判断がつかない。

「声、変だよ?」
『そうですか』
「そうです」
『……そうですか』

 返事の間が、微妙にずれる。こちらの問いに、答えているようで、答えていない。

『いま、あの……外、なんで』
「外の、どこ?」
『……言うほどの場所じゃ、ないです』

 逃げるような言い方だった。いつもなら場所を濁すときでも、もう少し冗談めかすはずなのに、その余裕が、今は感じられない。

「ねえ」
『はい』
「用件、なに」
『よーけん』
「うん。ラインくれたでしょ」

 少し強めに言うと電話の向こうで短く息を吐く音がした。

『……確認、したくて』
「確認?」
『名前さん、今——』

 そこで、言葉が切れる。通信の問題じゃない。言い切るのを、彼自身が避けた沈黙だった。

「なに?」
『……どこ、ですか』
「え?」
『いま……ど、こ……』

 胸の奥で違和感がはっきりと形を持つ。ただの聞き間違いじゃない。言い淀み方がいつもの彼と明らかに違う。場所を知りたいというより、確認しなければならない何かに、追い立てられているような声だった。自分がどこにいるのかを、私の言葉で確かめようとしているみたいで、その依存とも混乱ともつかない響きが静かに不安を煽る。

「私は、家だけど……」
『ひとり……』
「うん。一人」
『そう……ですか……』
「ホークス」
『……はい』
「今、どこ? ほんとは、どこにいるの?」
『えっと…………セーフ……ハウス、です』

 私はその答えに、なぜか、安心できなかった。嘘をついている感じではない。けれど真実を把握できていない人の返答特有の、曖昧な、手触りが残る。言葉だけが先に出て、状況が、追いついていない。その齟齬が、胸の内側で小さく、警鐘を鳴らしていた。

「……本当に?」

 問い返すと数秒の沈黙が続いた。その静けさのあいだ私はスマホを握りしめたまま画面を見ても意味がないとわかっていながら視線を落として、ただ、通話口から漏れてくる相手の呼吸音だけを数えていた。浅く一定しない。そのリズムが夜の静けさの中で、やけに大きく聞こえる。

『……たぶん』

 ようやく返ってきた声は輪郭が曖昧で、言葉の終わりが、少しだけ、溶けている。

「たぶん?」

 思わず声の調子が上がる。責めるつもりはないのに、確認せずにはいられなかった。

『……さっきまで、外、だった気は、します』
「��気はする�≠チて、なに」
『……記憶が、ふわっと、してて……』

 ふわっと、という言葉の選び方が妙に現実感を欠いていた。状況を説明しているつもりなのか、それとも自分自身を納得させようとしているのかその境目が見えない。

「ホークス、座ってるの?」
『えっと……』
「立ってる?」
『……半分、くらい』

 返答を聞いた瞬間、眉間に自然と、力が入る。半分とは……? まったく、意味がわからない。

「半分って?」
『……ソファと、仲良くしてます』

 冗談のつもりなのか、それとも、本当に状態を伝えているだけなのか判別がつかなかった。ただ一つ、はっきりしているのは、いつもの軽さとは明らかに違う、ということだった。

「……ちゃんと、スマホ、持ててる?」
『はい』
「じゃあ、画面見て」
『見てます』
「今、何色?」
『……赤』
「重症だねぇ、それ」

 思わず出そうになった苦笑いを、喉の奥で押しとどめる。どうやら笑って流せる段階じゃない。

「ホークス」
『はい』
「ちゃんと、呼吸して」
『してます』
「ほんとに?」
『たぶん……定期的に……』

 「定期的」という言い回しに、私は思わず額を押さえた。冗談めいているのにどうしても冗談として受け取れない。

「今日、ちゃんとご飯食べた?」
『……昼は、食べました、たぶん……』
「夜は」
『夜は……羽根が、忙しくて……』
「どういうことなの……」
『俺も、ちょっと、わかってないです……』

 自覚はあるらしい。それが余計に心配だった。状況を把握できていないのにそれを理解しているような、していないような、危うい返し方。

「……ねえ。体、熱くない?」
『熱……ですか』
「熱……まあ、そう」
『今、確認します……』

 少しの物音がして、布が擦れる気配が伝わってくる。そのあいだ、私は息を潜めて待った。

『……あったかい、ですね』
「あったかいって」
『熱、存在してます』
「そりゃ、生きてるからねぇ」

 もう、だめだ。もはや、哲学の話になりかけている。会話が現実から少しずつずれていくのを、はっきりと感じる。

「……ホークス」
『はぁい』
「今、私に連絡してきた理由、覚えてる?」
『えっと……』
「ライン、送った理由だよ」
『あー......』

 また言葉が途切れる。返事を待つあいだの静けさが、先ほどよりも長く感じられて、その分だけ胸の内側に溜まる不安がはっきりと濃度を増していく。

『——声、聞いたら』
「聞いたら?」
『安心、するかなって……』

 その答えは、あまりにも真っ直ぐで、胸の奥が一瞬だけ詰まった。でもそこに浸っている余裕はない。これは、甘い理由じゃない。助けを求める前段階の、無意識の選択だ。
 私はスマホを持つ手に、少しだけ力を込めた。ようやく、はっきりと、理解し始めていた。この電話は、雑談でも確認でもない。彼は今、自分の状態を正しく把握できていない。

「……ねえ、」

 呼びかける声に、自分でも驚くほど落ち着きがあった。さっきまで胸の内を占めていたざわつきが、いつの間にか別のものに置き換わっている。

『はい』
「それ、安心する前に倒れるやつだから」
『そうですか』
「そうです」
『じゃあ、ちょっと……横に、なりますか』

 言葉と同時に、どさ、と鈍い音がした。耳が、先に理解してしまう。

「ちょっと!?」
『あ……ちょっとです』
「今の音、絶対、ちょっとじゃない!」
『大丈夫です、たぶん、柔らかい方です……』

 私はもう笑えなかった。一度、深く息を吸う。感情を整えるためというよりも、声を揺らさないために。

「ホークス」
『はい』
「今から、誰か呼ぼう」
『……えー』

 心底、嫌そうで、面倒そうな声。人間が弱っているとき特有の、判断を先延ばしにする調子の、それだ。

「えー、じゃない」
『でも、迷惑じゃないですかぁ、こんな……』
「今のあなたが一番迷惑をかける状態だから」

 言い切ると電話の向こうで短い沈黙が落ちる。

『……なるほど』

 妙に納得したような声だった。その素直さに、逆に力が抜けてしまう。
 通話越しのヒーローは相変わらず輪郭が曖昧でけれど確実にひとりで何かを判断できる状態ではなかった。

「ホークス、いい?」
『はい』
「今から、私が言うこと、ちゃんと聞いて」
『……はい』

 返事は小さく細くて弱い。でも今はとりあえず返答さえあれば、それで十分だった。

「今から行くから」
『え、だれが』
「私が」
『え、あ……いえ、そこまでは——』
「行く」

 重ねるように言ってこちらから通話を切った。躊躇はなかった。迷いもなかった。ただ、ここで切らなければならないと体が先に理解していた。
 スマホの画面が暗くなる。折り返しもこない。夜の静けさがようやく戻ってくる。依存でも衝動でもない。これは判断だ。
 私は玄関に向かいながら鍵の位置を確かめる。彼の声が、まだ耳の奥に残っている。でもそれに引きずられはしなかった。今は考えるより先に、動くべきときだったから。
 その夜はもう穏やかな顔をしたままではいられなかった。けれど、越えてしまえば戻れなくなる線だけは、夜気の底で、確かに光を帯びて見えていた。

 夜風に押されるようにして歩きながら、私は、一度だけ足を止めた。セーフハウスへ向かう最短ルートの途中に、一際明るく存在感を示すように光を灯ったドラッグストアがある。白い蛍光灯の灯りが、さっきまでの夜を現実の平面に引き戻すみたいで、迷う余地もなく自動ドアをくぐった。冷えピタ。スポーツドリンク。それから風邪薬。目的は単純なはずなのに、棚の前に立った途端、頭の中が、やけに忙しくなる。総合感冒薬、解熱鎮痛、喉、鼻。眠くなるタイプに、眠くならないタイプ。どれも「今すぐ治す」顔をして、並んでいる。

(……常用薬とか、あるのかな)

 ふと、あのヒーローの顔が脳裏をよぎる。いや顔というよりも、あの調子で「あるわけないじゃないすか〜」と即答しそうな声の方だ。きっと、ないだろう。私は確かめもしないまま、その想像だけで答えを用意し、一人で納得してしまった。

(そういえば、セーフハウスにプロテイン置いてあったっけ……)

 筋トレ用なのか、栄養補助なのか、彼の生活はいつも必要最低限のくせに、そういうところだけ妙に、きちんとしている。

(風邪薬とプロテインって、一緒に飲んでいいのかな?)
(そもそも、飲むタイミングってどうなんだろ)
(アレルギーは?薬の。)
(あるって、言ってたっけ……?)

 考え始めると止まらない。思い出そうとしても彼の「大丈夫です」はいつだって信用ならない。大丈夫じゃないときほど彼は決まって、そう言う人だから。
 結局、私は棚の前で完全に立ち往生していた。端から見たら真剣に風邪薬と向き合っている変な客だろう。内心は、ヒーローの体調管理について一人会議を開いているだけなのに。

「——あ、あの……すみませんっ!」

 気づけば私は白衣に近い装いの店員さんを呼び止めていた。声をかけてから、自分でも驚くほど言葉が前のめりになっている事に気づく。考えるより先に誰かに判断を委ねたくなっていたのだと思う。

「はい、どうされました?」

 落ち着いた声だった。過剰に心配もせず、突き放しもしないその均衡が今の私にはとてもありがたい。少しだけ、呼吸が整う。

「えっと……熱が出てて、意識がちょっと朦朧としてる、成人男性がいて」
「はい」
「たぶん、体力はあります」
「はい……」
「あっ、あと! 鳥類でもあります、一応」
「はい……?」
「プロテインは、常飲してるみたいでした」
「……はい」
「薬のアレルギーは……たぶん、ないです」
「たぶん?」

 そこでようやく店員さんの表情が、ほんの一瞬だけ揺れる。情報を整理し直すような、職業的な沈黙。私の説明が、少し散らかっていることを、今さらながら自覚する。

「成人男性ですもんね……」
「あ、ええ。」
「ご本人では、ないんですね」
「あ、はい。私じゃないです」
「なるほど……」

 納得されたようでいて、完全には飲み込まれていない、そんな間が落ちる。それでも話を止めず次へ進んでくれるあたりがいかにも慣れている。

「ではまず。解熱目的でしたら、こちらの総合感冒薬が——」
「それ、眠くなりますか」
「多少は」
「眠るのはいいんです」
「はい」
「でも、意識が飛びかけてる感じで……」
「……それは、少し心配ですね」

 空気が、ここではっきりと変わる。雑談の延長みたいだったやり取りが一気に医療の文脈へ引き寄せられて、背筋が自然と伸びる。

「プロテインとの併用は、基本的には問題ありませんが」
「基本的、には……」
「胃が荒れている場合は少し時間を空けた方が」
「なるほど……」
「あと、水分は必ず多めに」
「スポーツドリンク、山ほど買います!」
「賢明ですね」

 その一言が、思いのほか胸に残る。正解をもらったというより判断を肯定してもらえた気がして少しだけ、肩の力が抜けた。

「あの、冷えピタは……」
「直接的な治療効果はありませんが……」
「はい、わかってます」
「気分的に、ですね?」
「はい。絶対、貼ったほうがいいタイプです」

 そう言うと店員さんは、ほんのわずかに口元を緩めた。職業人としての線はきっちり守ったままそれでも「わかりますよ」と、言ってくれているみたいな、控えめな笑い方だった。

「では、このあたりを」
「ありがとうございます」

 私は何度も店員さんにペコペコ頭を下げながら途中で陳列棚に肩をぶつけ、軽く会釈をし直してレジへと向かった。落ち着いたつもりでいても、身体のほうが先に急いでいるのがわかる。
 会計を待つ間、無意識にカゴの中を確認する。冷えピタ。スポーツドリンク。市販の風邪薬——たったそれだけなのに、揃っているのを見ると、少しだけ、気持ちが落ち着いた。あとは、セーフハウスにあるもので十分だ。下の棚に米はあったはずだし、卵は、彼が切らすことのない食材だ。お粥にするには、それで足りる。
 守るわけじゃない。私が、治すわけでもない。ただ、今できる判断を、ひとつずつ、積み重ねているだけだ。

 レジで商品を確認されて、袋に詰めてもらう。おそらく私の顔を見て、事情を察したのだろう。「ありがとうございました」のあとに「お大事にしてください」と添えられた。その言葉に、また反射的に頭を下げてしまう。
 店を出ると、夜の空気がさっきよりも少しだけ冷たかった。私は袋を持ち直して、自然と歩調を早める。行き先は、もう決まっている。寝込んでいるヒーローが待つ、あの、セーフハウスだ。

(……プロテインは、あとで聞こっと)

 そんな取り留めのない考えを、胸の奥にしまいながら私は、夜の中を、迷わず歩き出した。


 *


 目的地に到着して、インターホンを押しても、すぐに返事はなかった。ほんの数秒遅れて、電子錠の解錠音が控えめに鳴る。ドアを開けた瞬間、空気が違うのがわかる。室内の温度というより、滞っている感じ。
 本人は、玄関先にいない。おそらく剛翼で鍵を開けたのだろうと頭の片隅で理解しながら、私は靴を脱いだ。部屋は暗くカーテンも閉め切られている。目が慣れるまでの短いあいだ、輪郭だけが浮かび、やがて、ソファに人影が見えた。座っているらしいホークスは、ヒーロースーツのジャケットも脱がないまま背中を丸めている。その姿勢だけで、いつもと違うと、すぐに察してしまう。

「……来ちゃい、ました?」
「来るに決まってるでしょ」

 私はすぐに、電気をつけた。近づくにつれて、違和感は確信に変わる。顔色が、明らかに悪い。いつも、艶を保っているはずの唇は乾いていて、額にはうっすら汗が滲んでいる。視線は合うのに焦点が安定していない。

「熱、測った?」
「……さっき」
「何度だった?」
「……」

 言葉が返ってこない。私は買い物袋を床に置き彼の前にしゃがみ込む。虚ろな目で、それでも、私を見ようとしているのはわかる。

「失礼します」

 一言だけ断ってから、様子を確かめるつもりで私は右手をそっと、彼の額へと伸ばした。

「わー......冷とうて、きもちい」
「ごめんね、冷え性なの」
「……手ェ冷たか人は、心がぬくかっちゃん」

 ぽやぽやと何かを言っているようだが聞き取れないためとりあえず今は適当に相槌だけを返す。
 ……だめだ。自分の手が冷たすぎて判断材料にならない。私は躊躇せず、膝立ちになって彼との距離を詰める。判断力が落ちているのか彼は身を引かない。

「いい?」
「……なんが」
「おでこ」
「おでこ……」

 相手が言い切る前に私は彼の前髪を軽く上げ、自分の額を彼の額に当てる。長いまつ毛が微かに触れ、彼の息が近い。熱はちゃんと高い。呼吸は浅く、吐息が肌を掠める。でも今は状況が違う。照れている場合ではない。私は淡々と体温だけに意識を向け数秒で結論を出す。そして「うん」と小さく言って、離れようとした、その瞬間——。

「……!?」

 ホークスの腕が、私の腰に、そっと回された。いや、そっとじゃない。思ったよりもしっかり。判断を挟む隙もなく、ぐっと距離が詰まる。額はくっついたままなのに、世界が一段階、近い。
 彼は、はー、はー、と、短い呼吸を繰り返していて、その息が私の唇のすぐ近くを、遠慮もなく通過していく。近い。とにかく近い。近すぎる。

(……待って、)

 頭が処理を始める前に、身体のほうが固まる。いや、これは違う。今はそういう場面じゃない。病人。高熱。介抱中。冷静になれ、私……!
 しかし、その沈黙をさらに悪化させるように、彼が無言のまま、額を付け合った状態で少しだけ首を傾けた。

(——あ、これ。)

 知ってる。知ってる動きだ。何度も見たことがあるし、映画でもドラマでも、だいたいこのあとメロい音楽が入るやつ。

(キスする前の、角度調整!!)

 ……まずい。これは、さすがにダメなやつだ。倫理とか、関係性とか以前に、今やったら全部が台無しになるやつ。私は慌てて彼の胸元に両手を添えて、押し返そうとする。ちがうチガウ違う、今じゃない、今は、測温タイム!!——と、その瞬間。

「……三十八、後半」

 熱に浮かされたみたいに、ぼそりと零れた声。その内容が頭に届くより先に私は反射的に病人のトップヒーローを押しのけて距離を取っていた。さっきまで近すぎた体温が、急に、現実の重さを帯びて突きつけられる。

「後半!?」

 思わず張り上げた声が自分でも驚くほど、うわずってしまい、静かな室内に響いた。冗談だと、思いたかったのに、彼の顔色と息遣いが、それを許さない。

「それで大丈夫は、無理あるでしょ!」
「……名前さんが、来るほどじゃ」
「……黙って。もう、来てるし」

 強めに言って立ち上がる。そのまま床に置いた買い物袋を鷲掴み、キッチンのほうへと向かう。足音が多少、荒くなったのは、気にしないことにした。今は感情より、順番だ。背中越しに感じる彼の気配は弱い。それでも目を離すつもりはなかったことだけは背中でしっかりと、感じ取った。
 一息ついてから、冷蔵庫を開ける。中身を確かめる手つきが思っていた以上に迷わないことに、ふと可笑しさが込み上げてくる。ここは私の部屋じゃないのに必要な物の位置が頭に入っている。その事実が、今は少しだけ、居心地が悪かった。
 米と水を鍋にかけて、弱火に落とす。蓋をする音が、静かな室内に、やけに大きく響いた。火を見届けてからリビングに戻るとジャケットだけは脱ぎ捨てたらしいホークスが、目を伏せたまま、ぽつりと言った。

「……ごめんなさい」

 ずいぶんとかすれた声。普段なら冗談めかして流すはずの謝罪が、今日は、重く聞こえる。

「なにが」
「心配、かけて……」
「ああ……そっちね」
「え? どっち……」
「それ言う元気あるなら、まだ大丈夫だね」

 口ではそう返しながら胸の奥が落ち着かない。彼が本気で体調を崩しているところを見るのは、多分、これが初めてだった。いつもヘラヘラと、余裕をまとっている人が、こんなふうに、静かに座っているだけで、空気の密度が変わる。
 解熱剤を無理やり飲ませ、冷えピタを用意し、ブランケットを広げる。そのひとつひとつを確かめるように進めるあいだ、ホークスは、ほとんど動かなかった。抵抗もしないし、遠慮もしない。その無防備さが、少しだけ怖い。

「はい、横になって」
「……はい」

 素直すぎる返事に、思わず視線を落とす。横になった彼の隣に腰を下ろし、呼吸の様子を確かめる。息は浅く、羽根も力なく畳まれている。触れなくても、消耗しているのが伝わってくる。

「無理、しすぎだよ?」
「……してないつもり、だったんですけど」
「つもり、ね」

 ため息混じりに言うと、彼は、小さく笑った。その笑いも、今日はどこか、弱々しい。

「……名前さんに、言われると、刺さります」
「でしょうね」

 そこで、鍋のことを思い出す。私は立ち上がりかけてふいに足を止めた。弱い力で腕を掴まれたからだ。振り返ると彼の指が頼るように私の袖を掴んでいる。

「ん?」
「……どこ、行く、と」
「お粥」
「……」
「すぐ戻ってくるから、待ってて」

 そう言うと彼は、やや名残惜しげにゆっくりと袖を掴んでいた手を離した。

「……はい」

 短い返事。私は、もう一度キッチンへ向かう。背中に彼の気配を感じたまま——。守るつもりはない。ただ今は、離れすぎないようにする。それだけを意識して。
 お盆にお粥と茶碗、レンゲを乗せてリビングへ戻ると足音を察したのか、ホークスがゆっくりと身体を起こした。ソファの上で、あぐらをかき、ブランケットを肩から掛け直している様子を見てほんの少しだけ胸を撫で下ろす。さっきよりも、呼吸が落ち着いている気がした。
 私は先ほどと同じようにソファの前に膝立ちになり、お盆をその脇に置く。湯気を立てるお粥を茶碗によそいながら彼の顔色を改めて確かめる。熱はまだ高いだろうけれど、目の焦点は、さっきよりも、合っている。

「……食べさせて、くれるんですか」
「もう、今日はずっと甘えられそう」
「すんません」

 言葉は短く、やり取りも、少ない。それが今の距離にはちょうどよかった。私は、余計なことは言わず、レンゲでお粥をすくって、軽く息を吹きかけて冷ます。

「はい、あーん」

 彼は迷うことなく口を開け素直に受け取った。その様子が親鳥から差し出された餌を疑いもせず待つ雛鳥を連想させて、思わず視線が和らぐ。

「熱い?」
「ん、だいじょーぶ」

 虚ろな目のまま、また口を開ける。その仕草に促されるように私は、同じ動作を繰り返す。介抱というより呼吸を合わせている感覚に近い。
 そうやって何度か口に運んだあと、彼の視線がふと、斜め下へと落ちた。

「に、しても……」
「ん?」
「……すごい数の、薬箱すね」
「え? ああ、これね」
「俺、ヤク漬けにされるんす?」
「はは。冗談言える元気があって、よろしい」

 そう言いながら、またレンゲを差し出す。彼は小さく笑って、それをまた受け取った。

「街のお薬屋さんみたいで、懐かしくて」
「街の、お薬屋さん?」

 問い返すと、彼は一度だけ視線を伏せ、言葉を選ぶようにして続ける。

「配置薬販売、っていうんすかね」
「……」
「福岡ではよくあって。直接家に来るタイプの」
「ふうん」
「……子供の頃、よく声かけてくれたんすよ」
「へえ。街のお薬屋さんが?」
「飴とか、チョコとかくれて」

 彼の視線は、今ここにはない場所を見ている。過去を思い出しているというより、そこに置いてきた感覚を、そっと確かめているみたいだった。

「優しく、してくれたと」

 短い言葉のあと、沈黙が落ちる。私はその間を埋めるように、またお粥をすくって口元へ運ぶ。彼は黙って、それを受け入れる。

「ホークスの子供の頃、可愛かったんだろうね」
「……え?」
「やんちゃだったんだろうなって。なんとなく、想像つく」
「……どう、すかね」
「……」
「忘れちゃいました」

 声は穏やかだったけれど、それ以上、触れてはいけない場所があるのだと、直感的にわかった。だから私はそれ以上、踏み込まなかった。やがて彼が「ごちそーさまでした」と弱く手を合わせたので、頷いて私も茶碗をお盆に戻す。
 しばらくして、意識がまた遠のいてきたのか、彼はゆっくりと身体を横にした。そして何もない空間を見つめながら、ぽつりと声を落とした。

「……今日は」
「ん?」
「……帰らないんですか」

 その問い方が、あまりにも、力を欠いていて、弱々しくて胸の奥を不意に掴まれた。確認というより縋るに近い響きだった。熱と疲労に削られた声が、そのまま本音を零してしまったみたいで、私は一瞬、呼吸の仕方を忘れる。

「帰らないよ」

 考えるより先に言葉が口をついて出た。判断というよりも、反射に近い。それでも、その速さに自分で驚くことはなかった。

「熱が下がるまで、いる」

 そう告げた途端、彼の喉仏が、小さく動くのが見えた。飲み込む仕草。言葉なのか感情なのか、そのどちらかを、抑え込もうとするみたいに。

「……それ」
「……?」
「彼氏でもない俺に言わされて、大丈夫です?」

 心臓を、ぎゅっと掴まれたような感覚が走る。痛みというほど強くはないのに、逃げ場がない。彼のほうを見れば、視線は逸らされていて、あくまで、確認の形を装っているのが余計に苦しい。

「別に、言わされてなんか、ないよ……」
「……」
「……今は、ちゃんと、病人でしょ」
「……それでも」

 彼は目を閉じて、顔を背けるように右腕を額に乗せ、視界を遮った。浅く吐かれた息が、室内に静かに溶けていく。

「名前さんが、こうしてくれると——」

 言葉が途中で止まり、その先が、なかなか続かない。沈黙は短いのに熱を帯びていて、私の中でいくつもの可能性だけが、勝手に膨らんでいく。聞いてはいけない気もするし聞かずにいられない気もして、私はただ待つことしかできなかった。

「……勘違い、しそうになる」

 その正直さが胸に痛い。私は何も言えず、ただ彼の手元を見る。無意識だったのだと思う。額に添えていない方の手が——熱を帯びたその指が、私の手首を、きゅっと掴んだ。力は弱い。でも、離すつもりがないという意志だけは、はっきりと伝わってくる。私は、その感触を振り払えずに、そこに留まっているだけ。

「……ホークス」

 名前を呼ぶと、彼は、小さく眉を寄せたまま、かすれた声で答えた。

「……ごめんなさい」

 その直後、手首を掴む力がわずかに緩む。それでも、離れはしない。意識が半分ほど眠りに引きずられながら、それでもここに繋がっていようとするみたいな、曖昧で頼りない力だった。

「寝ぼけてます……」

 そう言い訳の形を取ってはいるけれど、声には逃げきれない本音が、滲んでいる。自分で境界を守ろうとする理性と、離したくないという感情が同時に、そこにはあった気がした。

「うん……」
「……」
「……いい」

 言葉の意味を整理するより先に私はそう返していた。振りほどくことも、諭すことも選ばずに、そのままを受け取る。正しいかどうかではなく、今、この場で必要なのは、線を引き直すことではないと、感じていた。

「……今は、いいよ」

 そう言って、彼の手の上に、そっと自分の指を重ねる。重ねた瞬間、彼の呼吸がほんのわずかに整った気がした。胸が、上下する動きが、さっきよりもゆっくりになる。それを確かめるように、私は、動かずにいる。
 やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。完全に眠りに落ちたのだとわかる、その変化を待つ間、私は、彼の横顔を見つめていた。無防備で、力を抜いた顔。いつも見せている余裕の仮面が今は、ここにはない。
 このヒーローは強いふりをするのがあまりにも上手すぎる。それを長く続けてきた人の身体は、崩れるとき、音を立てない。ただ静かに、誰にも気づかれない場所で、限界を越える。だからこそこんなふうに一度だけ崩れた夜が、こんなにも、決定的に、心に残ってしまうのだと思った。

 目を覚ましたとき、彼はきっと、いつものホークスに戻る。軽口を叩いて、ヘラヘラと笑って、距離を守って、優しくて、線を越えない人に——けれど私はもう知ってしまった。このヒーローが弱ったとき無意識に掴む手の温度と離したくないときに滲む、あまりにも、正直な力を。
 それを知ってしまったことが何を変えるのかはまだわからない。ただ今は、眠る彼の手が、私の手首に触れたままでいる、その事実だけを静かに受け止めていた。


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