その日は、目覚ましより少し早く目が覚めた。まだ完全に起ききらない身体のまま、カーテンの隙間から差し込む光をぼんやりと追う。朝の光は夜よりも容赦がなくて思考をゆっくり引き上げていく。今日の出勤は、何時からだったか。昼からだったはずだ、と、頭の中で予定をなぞりかけたそのとき枕元のスマートフォンが小さく震えた。画面に浮かんだ名前を見ただけで口元がほどけてしまう自分が悔しい。まだ声も出していないのに胸の奥が先に反応する。自覚するより早く指先がその画面をなぞっていた。

ホークス
おはようございます
お仕事すか?
その語尾の軽さに、眠気の残る思考が少しだけ整う。福岡と言っていたはずなのに、もう戻ってきているのだろうかと一瞬だけ頭の中で計算してみたりする。
ベッドの上で半身を起こし、まだ温もりの残るシーツを指で寄せながら返信を打つ。

名前
おはよ〜
今日は昼からだよ
送信した直後、間を置かずに既読の印がつく。相変わらず早い。まるで、その通知を待っていたみたいな速度に胸のどこかがくすぐったくなる。
画面を見つめたまま、ほんの数秒。次の震えがすぐに届いた。

名前
おはよ〜
今日は昼からだよ

ホークス
今さっき福岡からこっち来て

ホークス
朝飯、一緒に食べません?
��朝飯��——その単語が、やけに生活の匂いを伴って、胸に落ちた。夜ではなく昼でもなく朝。酔いも余韻もない時間帯に当たり前みたいに隣にいる提案。私は一瞬だけ。天井を見上げる。カーテン越しの光が白く広がっている。あの日の夜、泣いていた自分と、今この静かな朝にいる自分が同じ身体の中にいる事が少しだけ不思議だった。そして、考えるより先に、素直な返事が浮かぶ。

名前
いいよ。出ようか?

ホークス
いえ。
おれ、行きますよ
来るのか……と思わず声に出そうになって飲み込む。短いその一文に迷いはない。迎えに来るというよりも自然にそこへ向かうという響き。私は反射的に部屋を見回した。
脱ぎっぱなしの部屋着や昨夜の読みかけの本、畳まれていないブランケット。致命的ではない、たぶん。誰に対しての言いわけなのか分からないまま私は「まあいいか」と自分に言い聞かせる。
ベッドから足を下ろすと、床の冷たさが足裏に伝わってきた。朝の空気はまだ薄く余白が多い。そこへ、彼が入り込んでくる。あの日の夜をなかったことにするでもなく引きずるでもなくただ、朝食を一緒に食べるために来る。それだけなのに胸の奥が静かに温まっていった。
急いで洗面所に向かい顔を洗って髪を手ぐしで整える。鏡の中の私はきちんとした顔というより完全に油断している顔だった。でもそれが今さら取り繕える関係でもないことを思い出して、肩の力を抜く。
キッチンに戻って、きっと買ってくるだろうと想定しながらもコーヒーを淹れる準備をしつつ、もう一度、スマートフォンを手に取る。

名前
了解

名前
あ!

ホークス
ん?

名前
ついでに郵便ポスト
見てきてほしい

ホークス
了解しましたー!
自分でもずいぶん馴れ馴れしいなと思いつつも自然にこんなことまで頼むようになったなぁと、つくづく思う。語尾の伸びた返事に思わず小さく笑った。画面越しの軽さが、まだ寝起きの身体にゆっくり馴染んでいく。
それからの数分は、落ち着かない時間だった。湯を沸かしながら棚の奥からどのカップを出そうか迷う。彼は苦いのを飲まない。けれど、確認をしないまま出すのもなんとなく味気ない気がして結局、いつもより少し大きめのマグを選ぶ。皿を出し、ふと時計を見る。早すぎる気もする。でも彼なら、もう着いていてもおかしくない。部屋の空気が、誰かを迎える前特有の張りつめたものに変わっていく。静かで、少しだけ期待を含んだ、落ち着かない朝。
そのとき、玄関側から、カチャンと小さな音がした。郵便受けの蓋が閉まる音だ。ああ、本当に来たんだとようやく実感が追いつく。次の瞬間、インターホンが鳴った。短くて、迷いのない音。
「おはよ」
ドアを開けるとヒーロースーツ姿のままの彼が立っていた。朝の光を背に受けて、いつもの少し眩しい笑顔で、紙袋に入ったモーニングセットを軽く持ち上げる。
「おはよーございます」
その声は朝にちょうどいい温度だった。眠気を乱暴に追い払うでもなく現実へゆっくり引き戻す響き。
私たちは、そのまま並んでリビングへ向かう。彼は慣れた足取りで部屋の中に入り「あ、はい。これ」と言って、郵便物を差し出そうとした——その瞬間だった。彼の動きがぴたりと止まった。ほんのわずかな変化。けれど、呼吸の揺れが背中越しに伝わってきた。私は一歩だけ遅れて、足を止める。
「ん……? どしたの?」
振り返った先、ホークスが、あきらかに何かを背中側へと隠したのが見えた。視線が泳ぐ。その不自然な仕草だけで私はもう察してしまう。胸の奥で、嫌な予感が鋭く立ち上がる。
「……今、なに隠したの?」
「い、いやいや……」
「その手」
「へ……? なんも? 俺に来た、お便り?」
「なんで私の家なのに、あなた宛に届くわけ?」
沈黙が落ちる。その短い空白がほとんど答えのようなものだった。
「見せなさいよ」
「いやぁ〜、やめた方が……」
「いいから、見せなさいってば!」
語尾が荒くなる。自分でも分かっているのに、抑えられない。彼は、頑なに背中を向けたまま、絶対に見せようとしない。その態度が私の確信を逆に強めていく。
一歩踏み込む。彼の後ろへ回り込む。腕を伸ばせば彼はするりと身体をひねって逃げた。普段は冗談ばかりのくせに、身体の使い方だけは、隙がない。ヒーローという肩書きにこういうところでいつも実感する。
「ちょ、名前さん!」
「いいから!」
衝動のまま、背後から彼を羽交い締めにした。思ったよりも温かい背中。ヒーロースーツ越しの体温が、指先にまで伝わる。そして、その指先に紙のような感触が触れて瞬時に葉書だと思った。それを私が掴んだその瞬間——彼も、同時に力を込めた。離さない。譲らない。そしてビリッ、と乾いた音が、朝の空気を裂く。
「あっ……」
「あ、……」
葉書は呆気なく無惨に二つに分かれて裂けた。しかし次の瞬間、彼は信じられない行動に出る。自分が持っていた半分をためらいもなく口の中へ放り込んだのだ。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
「ああ〜! なにすんのっ!」
「ちょ……
「食べたの!? はっ?出して! 出してよ!」
私は必死で彼の口元に手を伸ばす。けれど彼はわざとらしくゴクンと喉を鳴らして、空になった口を「あぁー」と言って見せてきた。
「——いま、飲み込みました。ケホ、」
あまりにも、真顔で言うものだから、怒るべきなのか心配すべきなのか、感情の置き場を失う。
「なっ……なに、考えてんのっ!?」
その混乱の隙に私が握っていたはずのもう半分の葉書の欠片を落としてしまったらしいことに、このとき気が付く。
「あれ……どこ、飛んでった……」
床に視線を落として辺りを見渡しはじめた私を彼は慌てて制止した。
「ちょ、探さなくていいですって! ケホッ、」
「なんでよ! てか、詰まってるじゃんそれ!」
軽い押し合いになり私は半ば意地でも探し出さねばと床を見渡す。けれど、残念。私のほうが、早かった。葉書の半分を先に見つけたのは、目の前で咳き込んでいるヒーローではなく私だった。
「あった!」
床に落ちていた切れ端を拾い上げてそこに印刷されていた文字を見た瞬間、世界の音がひとつ、遠のいた。
——マリッジカードだ。文字は途中で、裂けてしまっていて『結婚しま』のところで、途切れている。視線を少しだけ上の方へとずらす。写っている男性はタキシード姿で背筋を伸ばし凛とした表情をしていた。
間違えるはずがない。以前ホークスに何気なく話したことがある初恋の相手だと。花嫁の姿は、裂けたせいでウェディングドレスの端しか残っていない。胸の奥で、何かが静かに沈む。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ、時間の経過という事実が、ゆっくりと輪郭を持つ。背後で彼が息を整えている。食べた半分と、隠そうとした視線。止めようとした手。守ろうとしたのはきっと私の顔だったのだと遅れて理解する。それでも——。
「……なんで、食べるの」
声は、思ったより静かだった。朝の光が裂けた葉書の端を白く照らしている。その光の中で私は初恋の終わりと、いま、目の前にいるヒーローの不器用さを、同時に見つめていた。
「……う、そ」
喉の奥が、ひくりと鳴った。自分の声なのに、他人のものみたいに遠い。
「結婚、したの……?」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが一気に押し上げられた。理解はしているはずなのに、感情が追いつかない。時間差で遅れて、重く落ちてくる。気づけば私は、半分に裂けた葉書へ向かってほとんど叫ぶみたいに声を上げていた。
「うわぁ〜ん!」
あまりにも直線的な泣き方で、自分でも驚く。朝の光の中、いい大人が裂けた紙切れに向かって声を張り上げているのだから。
「結婚しま——せんでした。じゃ、ないです?」
隣でホークスが必死に苦しいフォローを入れてくる。その言葉の組み立て方が、あまりにも無理やりで、縫い合わせたみたいな理屈が逆に事実をくっきり浮かび上がらせる。私は反射のように、彼の額をぺち、と叩いた。
「……イテ。」
「……んなわけないでしょ」
大袈裟に額を押さえる彼を横目に、もう一度、破れた葉書へと、視線を落とす。紙の断面が白くささくれていて、そこだけが、妙に生々しい。
その瞬間、胸の内側で張り詰めていたものが、音を立てて決壊した。
「……っ、う、あぁ……!」
堪えきれずわあっと声を上げてまた泣き出す。理屈も時間差も全部追いつかない。ただ、初恋が完全に終わったという事実だけが遅れて重く胸に落ちてくるだけ。ずっと昔の話だ。もう、何年も前にきれいに整理したはずの思い出。それでも、��結婚�≠ニいう、二文字は、過去を強制的に完結させる。朝の光は容赦がない。白いカーテン越しの明るさの中で私は子どもみたいに泣いている。鼻の奥が、つんと痛い。視界が滲んでタキシード姿の彼の輪郭が揺れる。好きだった時間も、告白できなかったことも曖昧なまま終わった気持ちも全部まとめて今、決着をつけられた気がした。
ホークスはどうしていいか分からない顔で立ち尽くしている。ヒーロースーツのまま朝日を背に受けて、ひどく場違いな格好だ。
「……そんな、泣くほどっすかァ?」
小さく困ったような、呆れたような声。私は、涙でぐしゃぐしゃのまま、目の前で後頭部を掻く我が国のトップヒーローを睨む。
「泣くよ……!」
「……いや、俺、食った意味……」
ぼそりと漏らしたその一言に、また少しだけ、可笑しさが混ざる。守ろうとしたのだ。きっと、私の顔を。私の反応を。衝撃を半分でも減らそうとして。けれど紙を飲み込んだところで、事実は消えない。私は涙を拭うことも忘れたまま裂けた葉書を握りしめる。過去は過去だと、何度も言い聞かせてきた。それでも終わったという知らせは思ったよりも重たい。
「……ばか」
誰に向けたのか自分でも分からない言葉が零れる。初恋は、たぶん、ずっと前に終わっていた。でも今日ようやく、形になった。
その隣で、ホークスが、ぎこちなく息を吐く。助けるべき相手は敵でも怪我人でもなく朝っぱらから泣いている私だという現実に戸惑っている。ヒーローなのに、どうしていいか分からない顔。それが少しだけ、救いだった。
*
ひとまず嵐みたいな感情の波が引いたあと私はリビングのテーブルの前に、呆然と座っていた。床に座っているというより置かれている、という方が正解だったかもしれない。目の前には半分に裂けたままの、マリッジカード。その紙切れを、まるで、異物でも見るように見つめながら、私は瞬きの仕方さえ忘れていた。
さっきまであんなふうに声を上げて泣いていたのが嘘みたいだ。涙は引いたのに、頭の中はまだ追いついてこない。葉書の切り口を、目でなぞるたびに、時間差で何かが胸に落ちてくる。それを受け止めきれなくて思考はずっと空回りしていてまた激しく泣き出す始末。その様子をキッチンの方からホークスが窺っていたらしい。食器の触れ合う音が止まり少し間を置いてから困惑した声が飛んでくる。
「もう、泣きすぎでしょ……」
間の抜けた言い方だった。どうやら朝食の準備をしてくれていたらしい。準備と言っても、出来合いのものを、皿に移しているだけなのは想像がつく。それでも、その生活感が、今の私には妙に遠く感じられる。
私はまた、ひっく、ひっくと喉を鳴らしながら子どもみたいに泣き続けていた。理由はもう今となっては曖昧だ。初恋の終わりなのか時間の経過なのか、それとも自分だけが立ち止まっているという事実なのか。涙は勝手に溢れてきて止めようとする気力もなかった。人前でこんなふうに取り繕わず泣くのは、本当に久しぶりだった。
しばらくして、ふと視線を上げる。涙で滲んだ向こう側、キッチンに立つホークスの姿が、目に入った。彼はグラスの水を一口含み、何か小さな錠剤らしき物を、飲み込んでいるところだった。
「……何、やってんの……?」
鼻にかかった声でそう聞くと、彼は少し気まずそうに肩をすくめて答える。
「いえ、あの……。さすがに、紙なんて食べたの生まれて初めてだったんで」
「……」
「一応、漢方の胃腸薬を……」
真剣な顔でそんなことを言うものだから、拍子抜けしてしまう。私がさっきまであれだけ泣いていたことも、たぶん、彼の中ではちゃんと大事な出来事のはずなのに、それと同列に『紙を食べた体調管理』が並んでいる。
……なんなの、このヒーローは。そんなことを思っていたその瞬間。さっきまで止まらなかった涙が、すっと引いた。感情が冷えたというより、呆れと可笑しさが、悲しみの上に薄く膜を張った感じだった。気づけば私はもう泣き止んでいて、代わりに、重たい息だけが胸に残っていた。
テーブルを挟んで彼も床に座る。何も言わずに同じ高さに腰を下ろしてくれるその自然さが今はなんだか胸に沁みてくる。
買ってきてくれた紙袋からまだ少し温度の残るコーヒーを取り出し彼が皿に乗せてくれた朝食が並べられていく。——パンの包み、コーヒーと、スープのカップ、果物の入った、小さな容器。
どれも、主張しすぎないのに、ちゃんと��朝�≠フ役目を果たしている。
「……ありがと」
遅れてそう言うとホークスは一瞬だけこちらを見てから、いつも通りの軽さで頷いた。
「ささ、食べましょ。冷めるとせっかくのやつが可哀想なんで」
可哀想、という言い回しがなんとも彼らしい。私はスープの蓋を開け、湯気を吸い込む。さっきまで胸に詰まっていたものが少しずつ緩んでいく感じがした。泣いたあとの身体は、妙に正直だ。
しばらくは音だけがあった。パンをちぎる音、スプーンが器に当たる、小さな響き。テーブルの上には、あの、半分に裂けたマリッジカードも、まだ片隅に置かれている。視界に入らないふりをしていたけれど私は一度ちらりとそれを見てから何でもないように顔を上げて口を開いた。
「……マリッジカードってさ、古くない?」
思ったよりも素直な疑問が口から零れた。泣き腫らした目のまま、スープの湯気越しにそう言う自分が、なんだか少しだけ可笑しくもある。
「まあ、今はレトロ流行ってますからねー」
間髪入れずに返ってくる。その反応の速さに、思わず鼻で笑ってしまう。
「に、してもさ。昭和だよ、昭和」
「今日は毒舌スルーしときますね」
彼は淡々とそう言ってスープを一口飲む。私も同じように口をつけて、熱さに眉を寄せた。その何気ない動きが空気をほんの少しだけ軽くする。涙の塩気は、もう舌に残っていない。私はパンの端をちぎりながら「でも……」と続けた。
「ちゃんと紙で届くって、逆に覚悟ある感じするよね」
封筒でもなく、機械的なメッセージでもなく、物質として届く通知。手触りがあって、破れてもしっかりと残るもの。
「……っすね。逃げ場ない感じでね」
彼の言葉に、胸の奥が小さく鳴った。逃げ場がない。その響きがなぜか今の自分と重なった気がした。
「私……思ったんだけど、」
言いかけて、やめる。言葉を探す余裕が、まだない。しかしホークスは急かさなかった。ただ、果物の容器をこちら側に少しだけ寄せてくれた。
「食べながらで、いいですよ」
「……うん」
一口かじる。果物特有の甘さが、舌に広がる。さっきまで泣いていた身体が、ようやく、普通の速度に戻っていく。そこで私はぽつりと零した。
「初恋ってさ」
「はい」
「なんで、こんなに長持ちするんだろ……」
「保存状態が、良かったんじゃないですか」
問いというより、独り言に近い。それでも彼が真顔で返すから、思わず吹き出しそうになる。
「なに、それ」
「大事に仕舞いすぎた、的な?炎系なのに燃え滓にもならずに、しっかりとね」
妙に具体的で妙に理屈っぽくて少し皮肉めいた返しに私は苦笑しながら頷いた。でもたしかに、そうかもしれない。使わないまま、捨てないまま心の奥に置いておいたもの。それが突然、他人の人生の節目として形を持って戻ってきただけだ。私は視線を落としたまま問いかける。
「……ホークスはさ」
「はい」
「こういう知らせが来たら、どうするの」
「俺、ですか?」
少し考える間のようなものがあった。その間、パンを指で裂く音が、小さくその場に響く。
「たぶん、普通に祝いますね」
「泣かない?」
「泣かないです」
「……強い」
「他人に関心がないだけですって」
そう言いながらもう一つパンを手に取る。相変わらず迷いのない返事だ。それでも、私は知っている。彼が本当に無関心な人間ならこんなふうにわざわざ朝飯を持って、ここへは来ないと。
「ヒーローって、そういうもんすよ」
「……」
「感情の波に流されてたら、やってけません」
その言い方は飄々としていて軽いのに、どこか本音が滲んでいる。流されない代わりに流される人のそばに立つ。
私はそれ以上、踏み込まなかった。代わりに、もう一口だけスープを飲む。温かさが喉を通って身体の奥へと降りていく。そんな中、テーブルの向こうで、ホークスがこちらを見る。
「
「美味しい」
「よかった」
その「よかった」に今は救われる。床に座り、テーブルを挟んで朝食を食べる。特別なことは、何も起きていない。ただ、泣いたあとでも世界はちゃんと朝を続けている。光は変わらず差し込みスープは温かく、パンは柔らかい。そして、このヒーローは、その朝に、自然に付き合ってくれている。裂けた葉書は、テーブルの端に伏せられたまま。けれど今、私の視界にあるのはその紙切れよりも、向かいに座る彼のほうだった。
初恋は、今日——ようやく過去になった。その代わりに、いま隣にある時間が、少しだけ輪郭を持つ。窓の外では朝が完全に目を覚ます。私は、カップを両手で包み込みながら、静かに思う。
終わるものがあれば始まるものもある。そしてそれは、案外こんなふうに何気ない朝の食卓で、ひっそりと、入れ替わるのかもしれない。湯気の向こうで彼が笑う。私はもう泣いていなかった。朝は、ちゃんと続いていく。