それは��何か大きな出来事�≠ェ起きたと呼べるほどの何かが最後まで姿を現さなかった夜の話。事件も決定的な言葉も、この関係の名前が変わるような瞬間もそこには存在しない。けれど同時にその夜はこれまでの時間のなかでいちばん多くのものが確実に積み重なっていた夜でもあった。
 彼が成人を迎えて、どれくらい経った頃だっただろう。正確な日付を思い出せないのは、特別な記念日ではなかったからだ。ただ、気づけば彼はもう未成年ではなく、私たちは理由を説明しなくても、一緒にいられる関係になっていた。



名前

お疲れさま


名前

ホークス
飲みに行こー





 仕事終わりに何気なく送ったそのメッセージはあいかわらず雑で、要件だけを放り投げるような文面だった。けれど、返事はすぐに返ってくる。



ホークス

いいすよ〜


ホークス

どこ集合にします?





 文面は淡々としていて、余計な絵文字も感情の装飾もない。その速さだけがやはり彼らしいなと思う。少なくともこの時点ではまだ何も特別ではなかった。少なくとも、表向きは——。
 選んだ居酒屋は駅前の喧騒から少しだけ外れた路地にある暖簾の色も控えめで店の中から漏れてくる声も騒がしさというより人の温度に近くて、肩肘張らずに座れて、時間を急かされない場所。私が無意識に長居できるような空間だった。
 カウンター席に並んで腰を下ろす。木の天板はところどころ削れていて誰かの肘やグラスの痕がそのまま残っている。肩が触れない程度の距離。近すぎないが遠くもない。無意識にその幅を測ってしまう自分に少しだけ苦笑する。焼き上がった串を一口かじりながら私は横目で彼を見る。ヒーロースーツではない少しラフな私服姿。肩の力が抜けているようで、でも目だけはいつも通りよく動く。
 串が焼き台に並び、パチと脂が弾く音がする。その音を合図みたいに私は、グラスを置いた。

「ねえ、今日の現場さ。ちょっと無茶しすぎじゃない?」

 言葉は軽く選んだつもりだったけれど、声の奥には、冷ましきれなかった心配の温度が混じっていたと思う。ホークスというヒーローは、それを決して見逃さない。その程度の偽装では足りないと静かに告げるように彼は眉をわずかに上げて、こちらを見る。

「あ、ニュース見たんすか」
「うん、バッチリね」
「録画まで?」
「そこまではしてないけど」

 迷わずそう言い返すと彼は目を細めて少しだけ口角を上げた。安心したのか揶揄われたと思ったのか、いや、きっとそのどちらもだろう。

「してほしかったなぁ〜。俺的ベスト回だったんで」
「はいはい」
「でもちゃんと帰ってきてるでしょ?ほら、こうして、名前さんのとこに」

 グラスを持ち上げて首を傾けるだけのごくありふれた仕草のはずなのに。慣れきったはずのその動きが今夜に限って妙に艶を含んで見えてしまい胸の奥が、きゅっと音を立てる。私だけがそれを拾ってしまったような気がして視線を逸らした。そういう顔をあまり無自覚に向けないでほしい。

「……それは、結果論でしょ」
「残念でしたァ。結果出すのが仕事なんで」

 軽口の応酬。心配と皮肉と冗談が、どれも同じ温度で混ざり合っている。こんなやり取りをこれまでに、何度繰り返してきただろう。彼がトップヒーローであることを差し引けば、周囲から見た私たちはきっと気の合う飲み仲間にしか見えない。実際、それ以上でもそれ以下でもない距離を私たちは長いあいだ、丁寧に保ってきた。

「ところで。ひとつ、質問なんすけど」

 二杯目のグラスを傾けながら、彼はまるで思いついた雑談の続きを差し出すみたいに唐突に切り出した。けれどその声はほんのわずかに低くなっていて私は無意識のうちに背筋を正してしまう。空気の温度が、言葉の選び方よりも先に少しだけ変わった気がした。

「名前さんってさァ」
「うん?」

 横を向いて返事をした瞬間、彼の視線が私に、きちんと合う。思いがけず、どきりとした。

「俺のこと、どう思ってるんです?」
「え」

 箸先が途中で止まった。音も立てずただそこで静止する。あまりにまっすぐであまりに不用意な問い。けれど同時にどこか計算された角度で放られたような言葉でもあった。これ以上踏み込まれたら困ると判断したときに彼が必ず選ぶ距離だ。

「こないだ、同じ質問されたんで仕返しです」
「……」
「ほら。理解者ポジションとして、ですよ?」

 そう言って彼は笑いを置いた。軽くさらりと。出会ってから約三年が経っても変わらない癖だ。本音の手前で必ず、冗談に身を隠す。その笑みを見ていると、責められているわけでも、試されているわけでもないのに、こちらだけが答えを迫られているような気分になる。
 理解者——彼は『親友』ではなく、その言葉を選んだ。その選択が、私の中で小さく波紋を広げる。少し考えるふりをして、私は視線を皿の上の焼き鳥へ落とした。焦げ目のついた皮から遅れて湯気が立ちのぼる。甘く、ほろ苦い匂いが鼻先に触れたのに、味を想像する余裕はなかった。
 彼の問いは答えを求めているようでいて同時に逃げ道も用意している。けれどその曖昧さこそが私たちの関係をここまで運んできた理由でもあって、だからこそ今夜は少しだけ胸の奥が落ち着かない。

「んー......面倒な男?いや、面倒なヒーロー?」
「ははっ。ひどかー」
「でも、信用はしてるよ」

 そう口にした瞬間今度は彼の動きが止まった。グラスを持つ手が、わずかに宙で留まる。注いだ視線が、遅れて私のほうへ滑ってくる。そのわずかな時間差が言葉の届き方を物語っているようで私は息を詰めたまま待ってしまう。

「それ、いちばん刺さるやつ」

 小さく吐き出された息は笑いにも本音にも寄りきらない場所で揺れていた。彼はいつもそうだ。軽く受け流すことも曖昧に濁すことも上手なのに肝心なところだけは決して言い切らない。けれど『信用』という言葉だけは、どうしても軽くならないのを、私は知っている。そして、私がそれを分かっていることを、彼もたぶん察している。

「信用って、逃げ場ないですもんね」
「なにそれ」
「一応、褒め言葉です」

 そう言って笑う彼の横顔を私は必要以上に長く見つめてしまった。店の照明に照らされて睫毛の影が頬に落ちる。グラスを持つ指先は思っていたよりも細く、串を一本、時間をかけて食べ終える仕草がやけに丁寧になる。口の中に残る塩気が、なかなか消えてくれない。胸の奥にも同じように名付けそこねた余韻が残る。
 彼をどう思っているのかなんて、今さら言葉にしようとするほうが難しい。ただ隣に座って同じ速度で飲める。怒っても笑っても最終的には同じ場所に戻ってこられる。その感覚がいつの間にか私の中に定着してしまっている。気づけばグラスは空で追加を頼むかどうか迷う短い間が落ちる。二次会という言葉は誰の口からも出ていないのに空気だけが、その先の流れを知っている。
 結局、私は串をもう少し追加で頼み話題はまた他愛のない方向へと滑っていく。任務中の小話や最近観た映画、取るに足らない愚痴。笑うたびに胸の奥で張っていた何かが少しずつ緩んでいくのが分かる。そしてこの流れの先を私はもう知っている。

 二次会は、決まってどちらかの家。基本的には一次会の店から近いほう。ただそれだけの理由で自然に決まってきた。今日は、私のマンションが近い。それだけのはずなのにその事実が喉の奥に小さく引っかかる。不意に彼と目が合う。言葉にはしない。でも互いに同じことを考えているのが分かる。「いつも通りでいい」という了解と「それだけじゃ足りないかもしれない」という予感が同時に胸を掠める。その沈黙が、嫌じゃないのが問題なのだ。いつも通り。それ以上でもそれ以下でもないはずの夜。けれど胸のどこかではほんのわずかな揺れが、まだ収まらずにいる。

「あ、コンビニ寄っていい?」
「どうぞ〜」

 アイスとアルコールとつまみになりそうなものを適当に籠に放り込み、並んで会計を済ませる。肩を並べて歩き、鍵を開けて部屋に入るなり二人揃ってソファに転がり込む。テレビはつけるけれど、どちらも真剣に見る気はない。会話が弾むわけでもない。それぞれがスマホを触ったり沈黙の中で缶を傾けたり、思い出したように言葉を投げ合ったりするだけ。その途中でふと赤い羽根が、視界を横切った。

「ねぇー」
「なんすかぁ?」
「羽根が、邪魔なんですけど?」
「すみませんねぇ、仕様なんで」
「畳みなさい」
「はいはい」

 そう言って、彼はきちんと羽根を寄せる。面倒くさがる素振りをしながらもこちらの動線を気にしてくれるその律儀さ。こうして長い時間を一緒に過ごしてきた理由は、きっとそういうところにあるのだと思う。大げさな優しさでも言葉にする誠実さでもなく、ただ同じ空間にいる相手を煩わせないという、人として、ごく当たり前の配慮。何も起きない。けれど、何も起きないまま夜は、いつもこうして静かに更けていくのだ。
 この関係に名前は要らない。そう心から思える程度には私たちはもう、十分に近い距離にいた。
 いつの間にか、私はソファに横になっていて、背中にクッションの柔らかさを感じながら天井の輪郭が、ゆっくりと滲んでいくのを眺めていた。彼はというと、いつものようにソファから降り、床に座ったまま背を預けている。距離は近いのに触れない。その配置があまりにも自然で何の疑う余地もなかった。

「あれ? そういえば」
「ん?」
「ホークスってさぁ、今いくつだっけ」
「イクツて……それ何回目すかー?もう、覚える気ないでしょ」
「あるよー。あるある」
「ニジューイチになりました」
「ふーん……」

 私はほんの少しだけ、間を置く。数字そのものよりも、その向こうに流れてきた時間の長さを、遅れて噛みしめるようにして。

「ふふ、そっか。もう、そんなになるんだねぇ」
「っすね」
「若いねぇ……」

 軽く言ったつもりだった。実際、声の調子も、言葉の選び方もいつもと変わらないはずだった。それなのに、その数字が耳に残り胸の奥で静かに反響する。彼は何も言わない。笑いも相槌もなくただこちらに意識を向けている気配だけがある。

「……若いって言われるの、嫌?」

 問いは軽く、けれど、夜の空気に置かれると、重さだけが先に相手に届いてしまう気がした。

「嫌っていうかぁ……」
「……」
「名前さんに言われると、なんか変な感じです」
「変?」
「年下だって、改めて突きつけられるんで」

 冗談の衣をまとっているのに、言葉の芯はずいぶん真面目だった。照れと、拗ねと、諦めに似た自覚が、同時に滲む。私は天井から視線を外し、彼の方を見ないまま答える。見てしまえば余計なものまで拾ってしまいそうだったから。

「年下とか、あんまり考えてなかった」
「うわ〜、嘘つきィ」
「や、ほんとほんと」

 彼は小さく息を吐いた。その音が、思っていたよりも近い。距離は変わらないのに、空気だけがわずかに詰まる。触れていないのに触れたみたいな感触が、胸の内側に残る。

「……あんま、変わらんでしょ」

 過去に何度も聞いたその一言が夜の底に静かに沈む。私はそっと目を閉じる。アルコールの余韻ソファの温度、傍にいるという事実がゆっくりと混ざり合っていく。
 境目が曖昧になる感覚は、安心と不安を同時に連れてくる。

「……………ホークス、眠い」

 その一言は、考えてから出てきた言葉ではなかった。身体の奥に溜まっていた重さが、声という形で零れ落ちただけ。強がる理由も取り繕う必要もない場所で安心に甘えるみたいに、するりと。自分でも驚くほど素直な声だった。酔いのせいか夜のせいか、それともこの距離が長く続いたせいか。理由を探す前に言葉はもう空気のなかでほどけて、引き戻せなくなっていた。

「でしょうね。顔に出てる」
「ちょっとだけ……目、閉じる」
「ははっ。もう閉じてるでしょ」
「うん」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」

 それはいつもの流れだった。ほんの少しのつもりが気づけば意識は遠のき世界はゆっくりと暗転する。無防備な寝顔を晒していることも髪が少し乱れていることもそのときの私にはどうでもよかった。
 ホークスはしばらくそのまま、動かなかった。起こすでもなく視線を逸らすでもなくただ時間が落ち着くのを待つように、呼吸を合わせている。やがて、羽根がかすかに擦れる音がした。極力、それを抑えながら剛翼を寄せて毛布をそっと私にかけてくれる。その動作には迷いも、ためらいもない。慣れた配慮が、静かな優しさとして残る。

「……ほんと、無防備すぎて困るっちゃんなぁ」

 誰に聞かせるでもない、ほとんど息に近い声。その言葉を私は夢の底で聞いたことにした。朝になればきっと私は何事もなかったように目を覚まして「おはよー」と言い、それぞれがそれぞれの生活に向かう。昨日と同じように今日も何もなかったみたいにして。そんな夜を私たちは数えきれないほど重ねてきた。そして、そのたびに、同じ考えが胸の奥に沈んでいく。この位置なら、失わない。この距離なら、壊れない。それはいちばん好きな人に対して、私が選んだ、いちばん臆病な場所。だからこそ、あの日——。私が泣いてしまった夜がすべてを静かに、けれど決定的に何かを変えてしまったのだろう。
 この夜の延長線にはもう戻れない。そんな予感だけが、まだ言葉になる前の形で胸の奥に薄く、確実に残っていた。


 *


 その日は言葉にするなら、朝から細かな歯車が噛み合わない感覚が続いていた——そんな表現がいちばん近い一日だった。大きな失敗ではない。けれど端末の受け渡し手順の一行を読み飛ばしてしまったり確認したはずの設定が一箇所だけ抜け落ちていたり本来なら起きないはずの小さな綻びがまるで申し合わせたように重なっていく。そのたびに私は「申し訳ありません、急いで対応いたします」と声を整える。カウンターの上に置いた自分の手。剥がれかけたネイルの淡い色だけを、一瞬見つめてから、また画面に向き直る。弱音は吐かない。吐かない、というより吐く場所を選べないまま、ここまで来てしまっただけだ。
 午後も半ばを過ぎたころ、カウンター越しに、見慣れた影が現れた。羽根の気配を伴わないぶん今日は完全に��業務外�≠フ彼だ。片手には何度目か分からないスマートフォンが握られている。

「すみませーん、緊急事態で〜す」
「……ホークス」
「ども。また、落としちゃいましたーん」

 と、一応は、申し訳なさそうに軽く笑って差し出されたその端末を受け取ると、画面は確かに、不機嫌そうに点滅していた。

「……調子、悪いですか?」

 いつも通りのつもりでそう尋ねた声に彼は一瞬だけ、私の顔を見る角度を変える。

「悪いですねぇ。端末も、ですけど」

 冗談めいた言い方だったが、目は冗談を言っていなかった。きっと「端末も、あなたも」とでも言いたかったのだろう。私は思わず目を伏せる。

「今日、夜……予定あいてます?」

 問いかけはあくまで軽く、選択肢が、複数ある前提の響きで。私は一瞬答えを探すふりをした。正直に言えば、お酒を飲みたい気持ちは喉の奥でずっと疼いている。けれど人がいる場所に行って誰かの声や視線を受け止める余裕は、今日はどうしても残っていなかった。

「別に……用事は、ないんだけど……」

 そう言い淀んだところで彼は「ああ」と小さく息を吐く。そして間を置かずに続いた声は、妙に明るかった。

「じゃあ外じゃなくて、スタートからうちでどうです?」
「え……?」
「名前さんの好きなもの頼んで、飲みたい分だけ飲んで」
「……」
「俺たち以外に誰も、いないですし」

 押しつけがましさはない。逃げ道も、ちゃんと残してある提案だった。私は返事をする前に彼の視線が一度だけ私の手元、剥がれかけたネイルに落ちて、すぐに戻るのを見てしまった。見透かされたというより、見逃されなかったという感覚が胸の奥に静かに残る。

「……それ、助かるかも」

 そう答えた声は思っていたより少しだけ素直で私自身がいちばん驚いた。この昼の終わり方を、私はきっと忘れない。噛み合わなかった歯車が、無理に直されたわけじゃない。ただ誰かの手——たった一人のヒーローの手でそっと受け止められただけ。それだけで夜へ向かう準備が、ようやく整った気がした。

 仕事が終わったあとの空気は昼間の緊張を薄く引き伸ばしたみたいに、街全体にだらりと残っていた。私はその中を一人で歩きながら今日はまっすぐ彼の家に向かうつもりだと、頭の中で何度もなぞっていた。決意というほど強いものじゃない。ただ、寄り道をする余力がないというだけの選択だ。
 職場の建物を離れて少し行ったところで人影に気づく。街灯の下、壁にもたれかかるように立っていた彼は、背中の個性を畳んだぶんだけ周囲に溶け込んでいて、それでも、私の視界には妙に、はっきりと入ってきた。

「あ、お疲れさまでーす」

 私が声をかけるより早く、彼のほうが一歩だけ前に出る。

「ちゃんと出てきましたねー。いや、来ない可能性もあるかなって思ってたんで」

 軽口の形をしているけれど、視線はどこか確認するようだった。私はそれを受け止めながら肩の力を少しだけ抜く。

「さすがに、ドタキャンはしないよ」

 そう答えた声が思ったより柔らかかったことに自分で気づく。

「それは信用してますよ?ただ今日の名前さん、あんまり余裕なさそうだったじゃないですか」

 言い切らない言葉の置き方が彼らしい。私は、軽く頷いて歩き出す。すると何の相談もなく彼が自然に隣へ並ぶ。夜の街は思ったより騒がしくてそれでもこのヒーローは人の流れから半歩ずれた場所を選ぶ。その歩幅に私のほうが無意識に合わせてしまう。会話が途切れても沈黙は気まずさを連れてこない。ただ、互いの速度を整えるための時間として、静かに流れていくだけ。そんな中、唐突に、彼が言う。

「途中、スーパーとか寄ります?」
「お酒、家にある?」
「無いすねー。正確には飲める気分のとき用のがない」

 そんな言い方をして、彼は小さく笑った。ホークスの家の近くのスーパーは、夜になると照明が少し白く感じられて昼間とは別の顔をして見える。籠を手に取ると、彼は迷うことなく酒のコーナーへ向かった。そこで振り返りながらこちらを見やる。

「今日は、何がいいです? どんな気分?」

 問いかけは選択を迫るというより、状態を受け取りに来る感じで。

「……弱すぎないやつ。考えなくていいやつ」
「ははっ。了解でぇ〜す。じゃあ、炭酸弱めで」

 即座に棚から一本を取る動きに、迷いはない。それからまたこちらを見て、軽い調子で言う。

「これ、前に美味しいって言ってましたよね」

 ��覚えている�≠ニいう事実を、あえて軽く扱うような声音で——。

「……言った、かも」

 私は曖昧に返しながら、つまみの棚を眺める。指先で袋を持ち上げては戻し結局、無難なものを一つだけ籠に入れた。その様子を、彼が少し身を乗り出して覗き込んでくる。

「それだけで足ります?」
「今日は、これくらいで」
「じゃあ、俺は非常食枠で」

 そう言って、彼はナッツと、なぜかアイスまで籠に放り込んだ。
 レジに向かう途中ガラス越しに映る二人の姿が一瞬だけ視界に入る。並んで歩いて買い物をしているだけ。それだけなのにこの時間が『ちゃんとしていない自分』を、そっと仮置きできる場所のように感じられて胸の奥が少しだけ静かになる。

「無理なことしなくていいですからね、今日は」

 会計を待つあいだ彼が小さな声で言った。私は頷くだけで、言葉を返さなかった。その沈黙を、彼は何も言わずに受け取ってくれていた。今夜は無理に整えなくていい。そう思えること自体が、もう十分に救いだった。
 ホークスの部屋に足を踏み入れた瞬間、外気に張りついていた緊張が音も立てずに剥がれ落ちた気がした。玄関の灯りは、いつもより少し落とされていて、白すぎないその明るさが、夜の延長としてちょうどよく、目も心も急がせない。

「どうぞ〜。あ、靴、揃えんでいいですから」

 そう言いながら彼は私より先に屈みスリッパを揃え直している。その動きがあまりにも自然で、迎え入れる側と、来訪者という線引きが、曖昧になる。境界を示さないのに侵してもこない。その距離の取り方に、胸の奥が静かに緩む。

「上着、掛けます?」

 返事を待つ間もなくハンガーが差し出される。だから私は一瞬だけ、言葉の置き場を失った。

「……ありがと」

 遅れてそう言うと彼は「どういたしまして」と軽く返し、すでにキッチンへ向かっていた。振り返らない筋肉質で逞しい背中が、こちらに選択を残してくれている。
 部屋のなかは相変わらず余計なものが少ない。整えすぎてもいないのに不思議と落ち着く。その中でソファの端に置かれたクッションだけが最初から、私の居場所を示しているみたいに見えた。

「あっ、クッション新調したんで使ってみて」

 こちらを見ずに言う声。私は促されるまま腰を下ろす。クッションは柔らかすぎず、沈み込みも浅い。身体を預けきらずにいられるその感触が、逃げ場としてちょうどいい。

「喉、乾いてませーん?」

 冷蔵庫を開ける音に続いて、「すぐ飲むなら、先に水も出しますけど」と声が重なる。選択肢を並べる言い方は相手を甘やかすためというより、負担を減らすためのものだと分かる。

「……じゃあ、お水も」
「了解でーす」

 ほとんど間を置かずに返ってきてグラスが二つと、水の入ったペットボトルが静かにテーブルに置かれる。私の前のものだけほんの少しだけ近い位置で。

「無理に話さなくていいですからね」

 その言葉のあと、彼はようやくこちらを向き、ソファの向かい側、テーブルを挟んだ床に、腰を下ろした。同じ高さにはならない。その選び方が意図的で、優しい。

「飲んで食べてぼーっとして。今日はそれで十分です」

 断言でも命令でもなく許可に近い言葉だった。私はペットボトルを手に取り、先に水を一口だけ飲む。冷たさが喉を通り抜けるあいだ彼は視線を逸らし、こちらを見すぎない距離を保っている。
 見守っているのに覗き込まれない。その感覚が思っていた以上に、心を休ませてくれた。

「やっぱ……慣れてるね、こういうの」

 思わず漏れたそのひと言に、彼はわずかに目を見開き、少しだけ考える素振りをしてから、口を開いた。

「慣れてる、というか……放っておかないほうがいいタイミングって、あるじゃないすか」

 あまりにもそれらしくて、思わず息が抜ける。まるでヒーローみたいな台詞だと心の中で呟くと彼はそれを聞いたわけでもないのに小さく笑って肩をすくめた。
 酒を開ける音も、つまみの袋を開く手つきも、どれひとつ急がない。私の呼吸の速さを測るみたいに動作の間が置かれている。そのうちグラスはいつの間にか空になっては満たされ、テーブルの上には、私が選んだものばかりが並んでいた。

「これ、強すぎでしたかねぇ? 度数」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、無理そうになったら言ってください。途中で変えてもいいですし」

 尽くしている、という言葉では足りない。かといって突き放しているわけでもない。ただ淡々と今の私にとって負担にならない選択肢を差し出してくる。その姿勢が逆に胸の奥を静かに揺らす。
 私はソファにもたれながら、何もしなくていい時間を、久しぶりに許されている気がしていた。彼はそれを誇ることも特別なこととして扱うこともない。ただ傍に座って同じ速度で夜を過ごしている。それだけなのに、今日はそれがひどく救いだった。

「ホークスってさ、疲れないの?」

 グラスを置いたまま私はぽつりとそう言った。問いかけというより思考がそのまま口から落ちたみたいな声音だったと思う。彼は一瞬だけこちらを見る。それから、すぐに視線をテーブルの上へ戻した。

「疲れない、って言ったら嘘になりますけど」

 そう前置きしてから、少しだけ言葉を探す。

「でも、今は平気ですね。名前さんがここにいるだけで、何か減る感じはしないですし」

 軽く言っているようで、言葉を選んだ跡が残る言い方だった。私はその答えを、どう受け取ればいいのかわからず、グラスの縁を指先でなぞる。剥げかけたネイルがガラスに触れる音が、やけに静かに響いた。

「……私ばっかり、お世話されてる」
「そう見えてるなら、それでいいですよ」
「……」
「でも俺が勝手にやってるだけですから。疲れるとか、見返りとか、そういう話じゃないですし」

 最後は少しだけ柔らかく、それでいてきちんと線を引くように。
 それ以上、私は、何も言えなかった。疲れるかどうかではなく彼が「ここにいること」を選んでいるのだと、否応なく、伝わってしまったから。それを重たくしないように、私はただ息を整えてグラスをもう一口だけ傾けた。中身が少し減ったころホークスは何かを思い出したみたいに小さく息を吐いた。

「……そういえば、さ? 今日、俺もやらかしてますからねぇー」

 前触れもなくそう言って、どこか自嘲気味に、口角を上げる。その表情が今夜はじめて少しだけ無防備に見えた。

「任務帰りに屋上から降りるルートを間違えて。いや、正確には、ちょっと考え事してて」

 言い訳とも報告ともつかない調子で言いながら彼は自分のグラスに、視線を落とす。その目線の下げ方が失敗を隠すためというより、誇らなさを避けるためのものに見えた。

「着地自体は問題なかったんですけどポケットの中身まで気が回ってなくて」
「……」
「気づいたらスマホ、見事にアウトでしたぁ」

 そう言ってあの「またです」という顔をあえて大げさに作る。私は思わず息だけで笑った。声にならないその反応を彼はちゃんと拾って肩の力を少しだけ抜く。

「ほら、こういうのです」
「……」
「俺のほうが、結構ありますから」

 ひとつ話して終わり、ではない口ぶりだった。まるで続きがある前提で、言葉が運ばれていく。

「前に言いましたっけ? 任務の報告用のメモ、ぜ〜んぶ削除しちゃったこと」
「ううん……聞いてない」
「ですよね。さすがに恥ずかしくて言えんね」

 そう言いながらも声色は軽い。自分を下げすぎない、ちょうどいいところで留めている。

「あとこれは完全に俺が悪いんですけど。連絡を急ぐあまり違うヒーローに動線の話を三回連続で送ってさぁ」
「……」
「しかも全員、別のヒーローでしたっ」

 そう付け足すように言って、ホークスは小さく笑った。私も今度こそちゃんと笑ってしまった。本当に、口の上手いヒーローだと思う。彼はその反応を確かめるみたいにほんの一瞬だけこちらを見る。

「……ね?」

 問いかけは短く、でも、そこに含まれた意味は多かった。彼の失敗談はどれも致命的ではなく、英雄譚から意図的に外れたものばかりだ。大げさに盛りすぎないし過度に自分を落としもしない。ただ『完璧ではない』という事実だけを、生活の雑音みたいに並べていく。

「俺、ヒーローなんて肩書き背負ってますけど、割と抜けてますよ?外から見るほどちゃんとしてないです」

 そう言い切る声は、不思議と、誇らしげですらあった。私はグラスを持ったままその言葉を胸の中で転がす。「ちゃんとしていない」という表現が、今日は責めではなく、許可のように響いた。そうしてホークスはそこで少しだけ声を落とす。

「だから、名前さんが今日うまくいかなくても。まあ、そういう日もありますよね、って話です」

 慰めではない。比較でもない。ただ同じ高さに立つための静かな共有だった。私は何も言わずに頷いてグラスを置いた。彼の失敗談が続くあいだ部屋の空気はゆっくりと緩み、私は久しぶりに、「ちゃんとできていない自分」を誰にも隠さずにいられていた。

「……あの、さ」
「はいはい?」
「私……うまくいってないなんて、言ってない」

 思ったよりもはっきりした声が、自分の喉から出てきてしまって私はその事実に一瞬だけ遅れて気づく。責めるつもりでも、訂正したいわけでもなかったはずなのに、言葉は戻らず部屋の中央に落ちたまま動かない。

「あ、」

 彼は短く声を漏らして、それ以上を続けなかった。沈黙がゆっくりと形を持つ。気まずさというより互いの踏み込みすぎた一歩を確認するための調整の時間みたいな静けさ。私も何も言えずに、グラスの縁から指を離す。彼もまた視線を逸らしたまま、次の言葉を探しているのがわかる。

「あの……ごめんなさい、俺……」

 ようやく出てきた声は低くて、慎重で、言葉を選び直す過程がそのまま声音に滲んでいた。

「ううん、大丈夫」

 反射みたいに返してから、私は少しだけ遅れて続ける。

「ごめんね、私こそ」

 謝罪と謝罪が、どちらにも行き先を見つけられないまま、テーブルの上で静かに並ぶ。これ以上何かを言えば、きっとどちらかが、余計なところまで踏み込んでしまう。そういう予感だけがはっきりしていた。ホークスは一度、小さく息を吐いてからそっと立ち上がる。「ちょっとだけ」とも「すぐ戻ります」とも言わずそのままリビングを出ていく背中を、私は止めなかった。
 時計を見る気にもなれず、時間の感覚が曖昧になった頃、廊下の向こうから足音が戻ってくる。その歩き方で、もう誰だかわかる。重さも速さも余計な迷いがない。彼の手の中には、白いバスタオルが一枚、きちんと畳まれていた。きょとんとしたまま見上げる私にホークスはいつもの、少しだけ柔らかい笑顔を向ける。

「お風呂、あったかいお湯ためたんで」
「……」
「ゆっくりしてきてください」

 それだけだった。声の調子も、距離も、さっきまでと変わらない。理由も説明もない。ただ選択肢として差し出された言葉。喉の奥が、きゅっと詰まるのを感じながら泣きそうになるのを必死で堪える。ここで感情を零したら、きっと彼は抱きしめない代わりに、もっと慎重に、もっと深く、私を守ってしまう。それが、分かっていたから。

「……ありがとう」

 小さくそう言ってバスタオルを受け取る。指先が触れない距離を、彼はきちんと保ったままだった。私は何も言わずに立ち上がり、バスルームへ向かう。背中に視線を感じながらも振り返らず、ドアを閉める直前でようやく息を吐いた。湯気の向こうで今日一日溜め込んできたものがほどけてしまいそうになるのを、まだ必死に抑えている。
 湯船に身を沈めると肩まで包み込む熱が遅れて私の呼吸を緩めていく。思っていたよりも、深く息を吐いていて、自分でも驚いた。ため息というには長すぎて吐息というには重たいそれは一日の終わりにようやく許された呼吸だった。
 水面に揺れる白い泡と立ち上る湯気。その向こうから、香りが鼻腔に届く。そこで初めて、私は気づいた。これ。以前、何気なく口にしただけの言葉。

 『この香り、すき』

 ただそれだけだったはずなのに、今、湯の中に溶けているのはまぎれもなくその入浴剤だった。胸の奥で何かが静かに音を立てる。思い返せば、今日だけじゃない。迎えに来てくれたことも無理をしない選択肢を差し出されたことも、失敗談を並べてくれたことも、そして今、このお湯の温度さえも——。
 私は本物のヒーローに助けられている。大仰な救出劇じゃない。空を飛ぶわけでも敵を倒すわけでもない。ただ、ちゃんと人として今日を越える手助けをされている。そう思った瞬間、視界が、一気に滲んだ。慌てて瞬きをして、湯の中に顔を埋める。声を出さないように、肩をすくめる。
 大丈夫。まだ、泣かない。そう自分に言い聞かせた、そのときだった。かすかな物音。振り返らなくても、わかってしまう。足音の重さ。距離。動かし方。曇りガラスの向こうであのヒーローがバスルームのドアの前に腰を下ろして、こちらに背を向けて座った、その気配。

「——なん、で……いるの……っ」

 声に出した瞬間、堪えていたものが一気に決壊した。喉の奥がひきつって息が乱れ熱い涙が止めどなく頬を伝ってお湯に落ちる。水音に紛れきらない嗚咽がバスルームいっぱいに広がっていく。肩を抱えることも顔を覆うこともできないまま、私はただ、湯の中で泣いていた。
 ちゃんとしていない自分。うまくいかない日々。誰にも言えなかった疲れ。全部が熱と一緒に溢れ出す。曇りガラスの向こうで彼は何も言わない。入ってこない。触れない。名前も呼ばない。ただ、そこにいる。その沈黙が何よりも真実で、私は泣きながら、初めて安心して崩れてしまっていた。

 しばらくのあいだ、私はただ泣き続けていた。声をかけられることも、説明を求められることもないまま湯の中で感情が静かにほどけていくのを時間をかけて待つしかなかった。そのあいだ曇りガラスの向こうにある気配は、少しも動かない。
 そこにいる。それだけが、途切れずに伝わってくる。やがて嗚咽が呼吸に戻り、涙が湯に落ちる音もまばらになる。肩の力が抜けていくのを感じて、ようやく、言葉を探す余裕が戻ってきた。

「……まだ、バスタイム中……なんですけど」

 声に出すと思ったより反響した。少しの沈黙。彼がすぐに返さないのはたいてい、言葉を選んでいるときだ。やがて「いやぁ……」と間を置いてから、続く。

「なんか、一人だと、寂しくて?」

 あまりにもわざとらしい。理由として成立していないことを本人がいちばんわかっている言い方だった。私は思わず、湯気の中で小さく笑ってしまう。泣いた直後の喉で出たその笑いは少しだけ掠れていた。

「……エッチ」

 短く突き放すみたいに言ったその言葉に向こう側で、小さく息を吐く気配がした。

「すんません」

 それだけ。弁解も冗談の上乗せもない。たぶん彼は私が泣いているあいだここに座っている理由を何度も言い換えていたのだと思う。守るため、見張るため、気配を残すため。それでも最終的に選んだのが「寂しくて」だったのがひどく彼らしかった。私はもう一度、湯に肩まで沈み直す。熱がようやく、身体の奥まで届いてくる。触れない。入ってこない。名前も呼ばない。それでも、曇りガラス一枚隔てた向こう側で、彼はきちんと背を向けて座っている。泣き声を聞いても感情を回収しようとしないままで。
 本当にずるい人だ。そう思いながら、私は目を閉じた。今夜はこの距離のままでいい。この人がヒーローである理由はきっと、こういうところにあるのだから。

 バスルームのドアを開けた瞬間、外の空気が、一つ温度を下げて肌に触れた。湯上がりの身体はまだ、熱を抱えたままで、その分だけ、現実に引き戻される感覚がはっきりする。
 髪から落ちる水滴が、床に小さな音を立てる。そのたびにさっきまでの出来事が、少しずつ遠のいていく。夢だったわけじゃない。ただ、現実の中にきちんと畳み直されていく。
 リビングに戻ると、ホークスはすでにソファに座っていた。曇りガラスの向こうにいたはずの人は何事もなかったように立ち上がり、キッチンへ向かう。

「お、ちょうどよかったぁ」

 背中だけをこちらに向けたままで。振り返りもしない、軽い声。

「お湯、熱すぎませんでした?」

 心配の形をした問いかけは、あくまで、日常の延長線上に置かれている。それに対して、私が、「……大丈夫」と返事が少し遅れたことにも彼は触れなかった。

「それなら、よかったです」

 そう言ってグラスに水を注ぐ音がする。ソファの脇には、私が使っていたものとは別の、乾いたタオルがもう一枚、用意されていた。位置も距離も過不足がない。泣いたことも、声が震えていたことも、ここには痕跡として残されていない。

「髪、濡れたままだと冷えますよー?」
「……」
「そこの新しいやつ、使ってください」

 ようやくこちらを見る。目は穏やかで探るような色を一切含んでいない。私はソファに腰を下ろしタオルで髪を拭きながら、彼のその徹底ぶりに気づいてしまう。話題を戻さない。視線を、引き止めない。��さっき�≠ニいう時間を最初から存在しなかったものとして扱う、その選択。

「飲みます?」

 差し出されたグラスには水が入っている。アルコールじゃないところが、いかにも彼らしい。

「……うん」
「はい、どうぞ」

 指先が触れない距離を、今日、何度目かわからないくらい、正確に保ったまま。彼は私の向かいではなく少し斜めの位置に腰を下ろす。真正面に座らないのも、たぶん意図的だ。視線が絡みすぎない角度。

「……で。」

 彼はグラスを持ったまま、あくまで普段通りの調子で続ける。

「さっき話してた、スマホの件なんですけど」
「……」
「あれ、明後日以降に取りに行って、大丈夫そうです?」

 私は一瞬息を呑んだ。仕事の話。安全な話題。��私たち�≠ナはなく��日常�≠フほうへ確実に舵を切る言葉。

「……うん。大丈夫だよ」
「すんません、明日から福岡でして」

 それだけで終わらせる。沈黙が落ちても、彼はそれを、埋めようとしない。テレビもつけない。音楽も流さない。必要以上の「和ませ」をしないのが、彼なりの何もなかったふりだった。
 私はグラスを持ったまま喉を潤しながら、胸の奥に残った揺れを確かめる。さっきの涙も気配も嘘みたいに静まっている。でも消えてはいない。ただ今は触れられずに、同じ空間に置かれているだけだ。

「……ねえ」

 思わず零れた声に、彼はすぐ反応する。速すぎない。でも、待たせない間で。

「はぁい?」

 即座に返ってくるのに、構えはない。私はその続きを言いかけて喉の奥で引き止めた。何を言っても彼はきっと受け止めてしまう。重さも揺れも私がまだ言葉にできない部分まで。だから今日はここまででいい。

「……なんでもない」
「あら、そーすか?」

 深追いしない。確認もしない。彼はただ、水を一口飲んでグラスを静かに置く。その音が会話の代わりになると知っているみたいにして。

「今日は、このままゆっくりしましょう」
「……」
「もう、十分いろいろありましたし」

 提案の形をした、許可——。私は小さく頷いてソファの背もたれに、身を預けた。何もなかったふりをされているのにその裏側で全てが守られていることが、はっきりとわかってしまう。
 ずるい。それでもこのヒーローのそばでは何もなかったふりをしていられる夜が、確かに今は、救いだった。

 彼がシャワーを使っているあいだ私はソファに座ったまま、髪を乾かしきれないままの湿り気と部屋に戻ってきた静けさに身を委ねていた。
 浴室の向こうから聞こえる水音は一定で、必要以上に長くも短くもなく彼がいつも通りの手順で身体を整えているのがわかる。その規則正しさがさっきまでの感情の揺れを、少しずつ現実に引き戻していった。
 やがて水音が止み、彼は、何事もなかった顔でリビングに戻ってくる。濡れた髪をタオルで雑に拭きながら「失礼しましたぁ」とでも言いそうな気配だけを残して私の隣ではなく少し間を空けた位置に腰を下ろした。テレビはついているけれど内容はほとんど頭に入ってこない。ニュースともバラエティともつかない映像が流れ音量も小さめで、会話を必要としない沈黙がそのまま保たれている。肩が触れない距離。それなのに彼の体温が空気を伝ってくる。
 しばらくして不意にホークスが「あ!」と声を上げた。そして思い出したように立ち上がる。

「さっき買ってきたアイス、食べたい人〜」

 言いながら片手を軽く挙げてそのままキッチンへ向かう。その仕草があまりにも普段通りで私は返事をするタイミングを失ったまま背中を見送るしかなかった。
 冷凍庫を開ける音。少し探るような間。そして彼はアイスを二つ手にして、くるりと、こちらを向く。そのときほんの一瞬だけ、作られていない笑顔が浮かんだ気がした。

「一緒に食べましょ」

 誘いというより、確認に近い声音。拒否される前提でも強く引き寄せるでもない、ちょうどいい距離の言葉。私は小さく頷いてソファの端を少しだけ詰める。彼はそれを見てから先と同じ速度で戻ってきて、私の隣に、腰を下ろした。アイスの冷たさが湯上がりの身体に心地よくてスプーンがカップに当たる音だけが、部屋に静かに響く。
 会話はない。でも、沈黙はもう重くなかった。テレビの光に照らされた横顔を私は見ないふりをする。彼もまた画面から視線を逸らさない。こうして並んで同じものを食べて同じ時間を消費しているだけなのに、胸の奥がゆっくりと落ち着いていく。
 アイスを半分ほど食べたところで私はスプーンを持つ手を止めた。テレビの音に紛れるように、ふと浮かんだ疑問が、そのまま口をついて出る。

「……ホークスはさ、落ち込むこと、ないの」

 呼びかけてから少しだけ間を置く。並んで座ったまま、視線は画面に向けたままの問いだった。彼の横顔は相変わらず穏やかで、すぐには答えが返ってこない。スプーンがカップの縁に当たる、小さな音。彼はひと口食べてから、ようやく息を吐く。

「ありますよ、普通に」

 それから、少しだけ考えるように眉を寄せる。

「ただ……落ち込んでる時間を、自分で決めてる感じですかね」

 言いながら言葉の形を整えるみたいに、視線を一度だけ落とす。

「ここまで、って線を引かないと。たぶん、俺、際限なく沈むんで」

 冗談めいた口調だけれど笑ってはいない。私はスプーンを持ったまま、その言葉を噛みしめる。彼の言う『線』が、今日一日、何度も私のために引かれていたことを思い出してしまう。

「だから、誰かといるときは、なるべく表に出さないようにしてます。相手に、背負わせたくないですしね」
「……」
「でも落ち込まないわけじゃないです。ちゃんとあります、そういう感情は」
「……」
「わかったでしょ? 名前さんは一人じゃない」

 そう言って、ようやくこちらをちらりと見る。確認するみたいな視線。私は何も返さずアイスをもう一口だけすくった。冷たさが舌に広がる間、胸の奥で、彼の言葉が静かに沈んでいく。
 落ち込まない人なんていない。ただ、落ち込み方を選んでいるだけなのだと。彼は再びテレビに視線を戻し、私は並んで座ったまま、その距離のままアイスを食べ続けた。この問いも、答えも、今夜の静けさにちょうどいい重さで溶けていけばいいと、願うように——。


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