その日の夕方、フロアの奥が一瞬だけざわついた。羽根の音が聞こえるというほど、大仰なものではない。それでもあのヒーローが来ると空気の密度が微妙に変わるのを、私はもう身体で覚えてしまっている。人々の視線が一瞬だけ揃う、その揺れ方まで含めて。
「お疲れさまでーす」
カウンター越しに顔を上げると、ホークスが、端末を手に立っていた。いつも通りの軽い調子。朝の混乱も涙も、裂けた葉書の残像も、ここには持ち込まれていない。
声は自然に出る。手の角度も背筋の伸ばし方も完全に仕事用の私だ。
「お疲れ様です。今回は?」
「ああ、画面割れちゃって。操作自体は問題ないです」
語尾が、ほんの少しだけ弱い。それが嘘かどうかを判断するほどの時間はかからないけれど私は追及しないまま慣れた手つきで端末を受け取る。
「確認しますね」
画面を傾け、光の反射でヒビの走り方を見る。タップの反応から、発熱の有無、ログなど。指は迷わない。今朝、床に座って泣いていた人間と、同一人物だと気づく者はたぶんここにはいない。
いや......一人だけいる。端末越しに彼が小さく肩を揺らしているのが視界の端に入った。
「……なに」
「いえ? 切り替え、早いなぁって」
私は顔を上げて言葉を返す代わりに視線だけを投げ、無言で睨む。彼はすぐに目を逸らし、軽く咳払いをした。
「業務中なので」
「はいはい。失礼しやしたァ」
悪意はあっても、素直すぎるその返事が、逆に怪しい。私は気づかれない程度に溜め息を吐いてから説明を返す。
「画面割れは、この位置ですね。操作は問題ないですけど、耐久は落ちてます」
「交換?」
「代替機、出しますよ。今日はそれで」
「助かります」
必要な手続きを淡々と進め代替機を取り出す。書類にサインをもらい、注意事項を読み上げる。その合間にも彼の視線がときどきこちらに戻ってくるのがわかるけれど私は拾わない。拾えば朝の続きが、ここに滲んでしまうから。
「……はい。こちらです」
代替機を差し出すと、彼は両手で受け取って、ほんの一瞬だけ真面目な顔をした。それでもその表情は、すぐにいつもの仮面に切り替わる。
「いやいや。ありがとうございまぁーす。今日も命拾いしました」
「端末の命ね」
「それも、俺の命です」
私は肩だけで笑う。冗談は軽い。けれど、その奥にある本音を私はやはり拾わないふりをする。それで用件は終わりのはずだった。ホークスは、端末をポケットにしまい、踵を返す。その直前で不意に立ち止まった。
「……あ。」
嫌な予感がした。胸の奥がわずかに反応する。振り返った彼の口元は、今朝、紙袋を掲げていたときと同じ角度で、驚くほどよく似ていた。
「今日の夜——激励会、しましょっか」
軽い声。軽すぎる提案。私は一瞬完全に動きを止めてしまった。そして、反射的に睨むと、彼はその表情を変えないまま続ける。
「朝から、色々ありましたしね」
「……業務中です」
「もう、終業時間ですよ?」
言われて思わず視線を時計に向ける。確かに、嘘はついていない。それがなんとも悔しい。
「あっ。無理なら、全然」
「……」
その一言の置き方が、ずるい。選ばせるふりをして、逃げ道は塞がない。私はそっと視線を逸らした。胸の奥にまだ収まりきらない何かが残っているのを自覚する。けれど、それを一人で抱えて帰るほどもう意地を張りたいわけでもなかった。
「……行く」
小さく、短く告げると、ホークスは勝ったとも負けたとも言わずに、ただ、満足そうに一度だけ頷いた。
「了解です。じゃ、後で」
そう言い置くと今度こそ背を向けて、その場を去って行った。夕方の光が、カウンター内に長く伸びる。私は深く息を吐き切りパソコンの画面をそっと閉じた。
朝の涙も、あの紙切れも全部が消えたわけではない。けれどそれを抱えたまま夜へ向かう選択をしている。今日という日はまだ終わっていない。そして私は、続きを選んだ。夕方のフロアに残る光が、ゆっくりと色を変えていく。
私は静かにカウンターに背を向ける。今夜は、ちゃんと続きがある。
*
彼が選んだ店は、駅前の喧騒を一本だけ外れた細い路地にあった。大きな看板もなく暖簾の色も控えめで扉を開ける前から今夜は声を張らなくていい夜だと分かるような場所だった。ホークスが選ぶ店はだいたいこういう空間だ。無理に気分を持ち上げなくていい。笑いが続かなくても不自然にならない。会話が沈んでも沈黙を置いておける余白がある。慰めるでもなく忘れさせるでもなくただ、静かに居られる場所。
カウンターの席に並んで腰を下ろす。隣り合う距離は近く、肘が触れてもおかしくはない位置。それなのに触れない。その加減がもう説明なしに成立してしまっていることに少し可笑しさを覚え同時に、どこか怖くもなる。私たちは、いつからこんなふうに距離を測らなくても、並べるようになったのだろう。
「激励会、って言いましたけど」
メニューを眺めながら、ホークスが言う。声は軽い。けれど、こちらの様子を伺う温度がそこにわずかに含まれている。
「なにを激励するんでしたっけ」
「……意地悪だね、言わせんの」
「まあ、確認しとかないとって」
「……今朝の、私?」
「でしょうね」
「引っ叩くよ」
反射的にそう言い返すと、彼は楽しそうにヘラヘラと笑った。その笑いは、からかい半分、安心半分といったところだろうか。
「いやぁ、なかなかレアでしたよ」
「忘れて」
「無理です」
「ヒーロー失格」
「記憶力がいいのは美徳です」
いつもの調子で軽口は続く。私はため息を吐きながら、グラスを持ち上げる。手にわずかに力が入っているのを自覚する。氷が、からんと鳴る。その音が、私の内側の緊張を代弁しているみたいだった。
「……そんなに、面白かった?」
「……」
「ばかにしたいだけでしょ」
自分でも、言葉が少し尖っているのがわかる。今朝、床に座って泣いていた姿を彼は見ている。あの無防備な時間を、共有してしまった。
「いや。面白い、というより」
彼は言葉を選ぶように、視線を前に向けたまま言葉を選ぶ。
「人間味、って感じでした」
「褒めてない」
「褒めてますって」
「アリガト」
口ではそう言いながらも、私はほんの少しだけ不機嫌になる。その変化をこのヒーローは見逃さない。すぐに軌道修正するのだ。
「すみません。揶揄いすぎました」
「……ほんとにね」
「今日は、ちゃんと激励します」
その��ちゃんと�≠ノ、わずかに真面目な響きが混ざる。気づけば料理が運ばれて来て話題は一度食べ物のほうへ逃げる。皿の上の湯気、焼き目の香り、油の艶。視覚と嗅覚が先に満たされると、心は少しだけ、静かになった。
「これ、うまいっすね」
「うん、ちょうどいい味付け」
味の話をする。量がどうだとか塩加減がどうだとか、そんな些細な会話を挟んでいくうちに肩に入っていた力が緩やかに抜けていくのが分かる。
隣を見ると、彼は、普段と変わらない顔で箸を動かしていた。今朝、葉書を飲み込んだ人と同一人物とは思えない落ち着きだ。
「……ねえ」
「はーい?」
私は少しだけ視線を落とし、箸を止めたまま、ぽつりと言う。
「さっきの、人間味ってやつ」
「はい」
「そんなに、人間味に溢れてた?」
彼はすぐには答えない。グラスを置き、ほんのわずかに息を整えてから、こちらを見た。
「んー。俺の前であそこまで崩れること、今までなかったんで。たぶん」
胸の奥が静かに動く。責められているわけでも誇られているわけでもない。ただ事実として受け取られている。
「……悪かったね」
「全然? むしろ、ちょっと安心しました」
「安心?」
「そ。ちゃんと、人間だなぁって」
私は思わず笑ってしまう。ヒーローに言われる台詞ではない。それでも、悪くないと思う。皿の上の料理が少しずつ減っていく。店の照明は柔らかく、声を張らなくても会話が届く距離。今朝の涙も裂けた葉書も完全に消えたわけじゃなくてもそれらは今、騒がずに胸の奥へ落ち着いている。
隣にいるこの人が、過去を消そうともしないし笑い飛ばしもしない。ただ、同じ速度で箸を動かしている。それだけで、十分だった。
グラスの中の氷がゆっくり溶ける。夜は騒がず私たちも騒がない。激励会と呼ぶには静かすぎる夜。それでも、確かに私は、少しだけ前を向いていた。
「私さ……ああいうの、まだ引きずるんだなって思って」
グラスの縁を指でなぞりながら視線は琥珀色の液体に落としたまま言う。自分の声が思っていたよりも静かで、少しだけ乾いているのがわかる。
「初恋の人、ですか」
「うん」
詳しくは掘り起こさない。それで十分に通じるから。通じてしまう距離に私は少しだけ安心して少しだけ怯える。
「もう、とっくに過去の人だと思ってたのに」
それでも口にした途端に、胸の奥に置いていた箱の蓋が、まだ、完全には閉まっていなかったのだと気づかされてしまう。
「思い出って、そういうもんじゃないんすか?」
ホークスはこちらを見ない。正面の壁に視線を向けたまま、ただ声だけを寄越す。その向け方が続きを促している。だから私は、素直に言えたのかもしれない。
「悔しいとか、未練とかじゃなくて」
喉の奥で言葉を選びながらゆっくりと続ける。きっと彼なら何時間でも待っていてくれるから。
「ただ、なんていうか。ああ、ちゃんと終わってなかったんだな、って」
自分の声が、少し低くなる。泣き崩れた今朝の名残が、まだどこかに残っているのだ。
「おめでとうって心から思えない自分が嫌でさ」
「嫌いになりました?」
「……なり、かけた。」
正直な答えだった。一瞬だけ、過去の自分ごと切り捨てたくなった。言葉にするとその��嫌�≠ヘ想像していたよりも幼く、むき出しだった。彼は一度グラスに口をつけ喉を通る音が小さく響いてから、穏やかに言う。
「でも、ちゃんと泣いたじゃないですか」
「……」
「それって、逃げてないと思いますけど」
「……」
「偉かったですよ? ちゃんと」
その言葉が、思ったより深く届いた。彼の声は淡々としている。慰めようとする圧も、正しさを押しつける強さもない。ただ事実を置くように。
「泣いたあと、仕事もして」
「仕事は関係ないよ」
「ありますって」
反射的に返されてしまった。泣いた事と仕事を結びつけられたくなかったのに、短く迷いのない返答をされると、言葉に詰まってしまう。
「切り替えられる人ほどちゃんと傷ついてること多いんで」
その言葉に、胸の奥がかすかに鳴る。自分でも気づかないところを、指先でなぞられたみたいにして——。
「……ホークスってさ」
「はい」
「そういうこと、誰にでも言ってる?」
問いながら、私は彼の横顔を見る。そこには、ヒーローの顔ではない、ただの一人の男の横顔があった。そんな彼は、口角だけをわずかに上げて言った。
「……さあ。どうでしょうねぇ」
「ずるい答え」
「悟られたらいけんけん。職業病です」
少しだけ笑う。その笑いが、さっきより自然になっていることに私は気づく。軽い。けれど逃げきらない。その曖昧さが、かえって誠実に思えてしまうのが厄介だ。
「ねえ」
「はい」
「私、面倒くさい?」
口に出した瞬間、少しだけ、後悔した。こんな確認をする自分が、いちばん面倒くさいと思う。ホークスは一度、視線を落とし、箸を置いた。
「今日も、ですか?」
「今日は、ですけど」
「んー......面倒くさい日もありますね」
「やだー、正直ィ〜」
「でも……。話してて、嫌な面倒くささじゃないですよ」
その言い方は慰めでも口説きでもない。ただの事実みたいに、余計な装飾のない声で置かれる。
カウンターの下で私たちの膝はほんの少しだけ近い。触れてはいない。でも、離れてもいない。その微妙な距離が、今夜の私にはちょうどいいと思い込むことにしておく。
「ありがとう」
「なにがです?」
「激励会」
「それなら、成功ですね」
ホークスはそう言って、グラスを軽く掲げた。私も同じように軽く掲げる。氷が触れ合う音が、かすかに響く。
「ちゃんと、立ってますよ」
「……まだ、ちょっとぐらついてる」
「ははっ。ええ、それでいいと思います」
その言葉に、私は小さく息を吐く。彼はすぐに否定はしないから。揺れたままでいいと言われた気がした。店の照明は相変わらず柔らかく、外の喧騒は遠い。私はグラスを持ったまま自分の足の裏が、ちゃんと床に触れていることを確かめる。
完全に立ち直ったわけではない。初恋が消えたわけでも、痛みがなくなったわけでもない。それでも今はここに座っている。隣には、逃げも押しつけもしないヒーローがいる。ぐらついたまま、立っている。それでもいいと、言われた夜。
氷はゆっくり溶け、言葉も、少しずつ柔らいでいく。静かな店の奥で、私の中の何かが、ほんの少しだけ新しい場所へ移動していた気がした。
店を出て二人で肩を並べて歩く。さっきまでの灯りと声が嘘みたいに通りは静かで、車の気配も薄れていた。夜気は少し冷たく、吸い込むたびに肺の奥が澄んでいく。私は自動販売機の前で足を止め、缶を買って、歩きながら飲む。炭酸が舌の上で弾けて喉を通ると、ようやく、現実に戻ってきた感じがした。
遠くに寄り添って歩くカップルが見える。肩と肩が自然に触れて歩幅まで揃っている。羨ましいとか、そういう単純な感情ではなかった。ただ、ああいう距離の取り方があるのだと、ぼんやりと思っただけだ。私は、ひと口飲んで、ホークスにその缶を差し出した。
「ん」
彼は何も言わずに受け取り、当たり前みたいに口をつける。その仕草が、やけに馴染んでいて、少しだけ胸の奥が緩んだ。飲み終えた彼に、私は軽く声をかける。
「今日は、帰ろっか」
「……ですね」
今日は、二次会をやる気分にはなれなかった。それを察したみたいにして彼は大きく息を吐き、空き缶を、ゴミ箱に向かって放る。金属音が短く鳴り、きれいに収まったのを確認してから、また歩き出す。
並んで進む私たちの横を空車のタクシーが一台すっと通り過ぎる。少し間を置いて、もう一台。どちらも拾わないまま、夜に溶けていった。
「……ちょっと、行きたいとこあるんすけど」
「どこ?」
「いいから」
迷いのない言い方に私は反射的に頷いていた。連れて行かれるというより私の足が自分で選んで彼の後ろを追っている、そんな感覚だった。
辿り着いたのは、とあるビルの屋上。扉を押し開けた瞬間、遮るもののない夜がひらける。
フェンスはない。視界を区切る柵も安心させる境界線もなく足元からそのまま街へと落ちていく空間が広がっている。コンクリートの縁が、夜に溶けるように細く見える。街の灯りが広がり粒のような光が、遠くで瞬いている。夜景と呼ぶには少し控えめでだからこそ呼吸がしやすい。過剰に飾られた絶景ではなく、ただ、そこに在る灯り。音は削ぎ落とされ、下界の喧騒は、ここまで届かない。代わりに、夜風だけが、正直に吹きつけてくる。それが、ここが高所なのだと、身体に思い出させる。足裏に伝わる高さ。背中に触れる空気の冷たさ。
ホークスは、慣れた足取りで縁のぎりぎりまで歩いていく。ためらいも、誇示もない。そこが、自分の領域であるみたいな自然さ。そして、振り返る。夜を背に、右手を差し出す。その手は強引でも急かすでもない。ただ、選択肢としてそこにある。落ちる場所ではなく飛ぶ場所だとでも言うみたいに。
「手を、こっちに」
「え……」
「こっち、来てください」
「……高いから、怖いよ」
「大丈夫です、俺を信じて」
その言い方が命令でも励ましでもなく、ただの事実みたいだったから、私はまた黙って頷くしかなかった。私はゆっくりと足を進めて、恐る恐る手を伸ばす。
「触りますね」
一言添えてから、彼は私の手を取った。強くも弱くもない体重を預けられるだけの重み。とん、と隣に立った瞬間、視界がわずかに揺れて足元が遠のく。反射的に息を詰める。
「……動かないで」
声が、とてつもなく近い。夜風よりも彼の声のほうが先に肌に触れる。
「もう一回、触ります」
掴んでいないほうの手がそっと私の腰に添えられる。囲うというより位置を確かめるような所作だった。引き寄せられもしなければ突き放されもしない。それなのに、距離だけが一気に縮まる。背中越しに伝わる体温が、夜の冷えを静かに打ち消していく。
「……見える?」
「うん……でも、やっぱりちょっと怖い」
正直にそう言うと、彼は小さく笑った。けれどそれは、からかうような響きではなくて、怯えをごまかさない私に対する、どこか柔らかい笑みのようだった。夜風が思ったよりも冷たくて、足先からじわじわと高さの実感が上ってくる。私は、指先に無意識のうちに、力を込めていた。
「怖いけど、あれみたい」
「あれって?」
「ほら……タイタニック」
怖さを薄めるための安易なたとえ。けれど彼は笑わなかった。私を見る視線が、わずかに、深くなる。冗談として受け流さずに、その言葉の先をきちんと拾おうとする琥珀色の双眸。
夜景の光が彼の瞳に映り込んで、揺れている。私の不安も、その中に一緒に映っているみたいで妙に落ち着かなくなる。
「……じゃあ、もう少し、似せましょうか」
そう言ったときの声は、軽さを装いながらも、ほんの少しだけ低かった。ふざけているのか本気なのか、境界線を、曖昧にしたまま差し出される提案。その曖昧さが、怖さとは別の意味で、胸を静かに揺らした。
ホークスは私の身体をゆっくりと正面に向け、夜の縁に立つ私を背後から包むように位置を整える。腰に回された両の手は、落ちないための円を描く。抱き寄せるでも抱きしめるでもない。重心だけを共有するための静かな輪郭。私の背中に、彼の胸の、鼓動の気配が重なる。
「目、閉じて」
言われるままに瞼を下ろす。すると、背後から伸びてきた彼の手が私の両手をそっと掴み、指先まで導く。腕が広がり、胸がひらく。支えは確かなのに拘束はない。風が指のあいだを抜け身体の輪郭がほどけていく。思わず、声が漏れた。
「すごい……」
「……」
「ホークス……私、空を……飛んでるみたい」
夜風が吹き抜け街の音が遠くで滲む。彼の手は私の手と重なり合い、同じ方向を向いている。
この触れ方を私はずっと前から知っていた気がする。近すぎず、奪わず、けれど確かに隣に在る距離。もしかしたら本当の私はこういう並び方を望んでいたのかもしれない。私は目を閉じたまま街の光の粒を想像して呼吸を整える。これ以上、何も起きない。そう、思っていたのに——。
「空——ほんとに飛びたいって、思いません?」
耳元で落とされたその声は、夜風よりも近く、私の鼓膜に直接触れるようだった。言葉の意味を頭で解釈するよりも先に足裏から支えが消える。世界が、ほんのわずかに傾く。重力が裏切ったのではない。私が、彼を信じて身体の力を抜いたのだと、遅れて理解する。
「……え?」
短い声が、風にほどける。足裏にあったはずの確かな感触がふっと消える。地面が遠のくというより、私のほうが、世界から切り離されたみたいだった。次の瞬間、視界が滑らかに持ち上がり、夜の街がゆっくりと下へ流れていく。抱えられていると気づいたのは、少し遅れてからだ。背中と腰を迷いのない身体と腕が支えている。
不思議だ。落ちないという確信が言葉より先に身体に伝わってくる。
「……っ、ホークス……!」
「大丈夫ですって」
声は近く、風の中でも、ぶれなかった。ビルの屋上が、いつの間にか箱庭みたいに小さくなっている。車のライトは細い線になり信号は呼吸するみたいに色を変え街は一枚の絵のように静まっていく。さっきまで私を囲んでいた現実が遠景へと押しやられ代わりに胸の奥が不思議なほど澄んでいくのを感じた。
「……ほんとに、飛んでる……」
自然と呟くと彼は小さく笑った。怖さは確かにあった。でもそれは崖の縁に立つときのそれとは違う。もっと軽くて、もっと、柔らかい。未知に触れる直前の、心細さに近い。
「飛ぶの、初めてですかぁー?」
抑揚のついた癖のある声が耳を掠めて風が髪をさらい、視界の端で雲が流れる。高度は高すぎず低すぎず街の輪郭がまだ、人の営みとして見える位置だった。誰かの帰り道、誰かの部屋の灯り。誰かの今日が、静かに重なっている。
「空はね、いいですよ」
「……え?」
「物事を俯瞰して見られるから」
その言葉は、夜風よりも静かに、けれど確かに私の内側へ落ちてきた。
高い場所から見る街は今朝まで私の中で騒いでいた感情さえ小さな灯りのひとつに変えていく。泣いたことも未練も揺らいだ心もすべてが遠景の中に溶けていくような錯覚。
このヒーローの声は何かを教えるというより、ただ事実を置くだけでその響きは不思議と温度を持っていて胸の奥のざわめきをやわらかく包んでしまう。私はその瞬間、風に吹かれながら思う。きっと、この夜の高さもこの言葉の重さも、この隣に立つ体温も私は一生、忘れないのだろうと。
「地上にいると、どうしても目の前のことだけでいっぱいになりますけど」
「……うん」
「上から見ると、意外と、全部ちゃんと流れてるって分かるんです」
彼は前を見たまま淡々と言った。その横顔は、いつもと同じはずなのにどこか遠い。ヒーローとしての顔でも��親友�≠ニしての顔でもない。ただ純粋に、空に慣れている人の横顔だった。
「……私さ」
「はい」
「いま、ちょっとだけ……楽だよ」
正直に言うと彼は何も返さなかった。ただ私を抱える腕に、ほんのわずか力が宿る。その変化は言葉よりも雄弁で、返事の代わりとしては、十分すぎた。私は彼の胸元の鼓動に耳を傾け風の層を一枚ずつ抜けていく感触に、身を委ねる。羽音は聞こえない。代わりに空気が裂ける前兆のような低い気配だけが、耳の奥に残っている。
街はさっきまでの場所ではなく、模様になっていた。交差点は光の結び目、川は暗い帯、屋根の輪郭は静かな筆致。高さが増すほど感情は薄まるのではなく整っていく。胸の内に散らばっていた思考が、自然と一列に並び替えられていくみたいだった。
「ねえ……ちょっと、速くない?」
私が言うと彼はほんの少しだけ角度を変える。身体が、ふわりと揺れて、速度が和らぐ。
「速かったです?」
「ちょっとね。速すぎる男のスピードだった」
「ははっ。怖かったら、言ってくださいねー」
「今は……大丈夫。なんか、楽しい」
そう答えると、彼の喉の奥で小さく息が抜ける音がした。笑いの手前、という感じ。
「空って、不思議ですよねー」
「……え?」
「高いのに、近い。遠くが、近くなる」
私は彼の言葉を反芻しながら遠ざかるビル群を見下ろす。人々の営みが、個々の物語としてではなく、ひとつの呼吸みたいに、連なって見える。さきほどまで胸を占めていた小さな棘が、いつの間にか角を失っていた。
「ねえ、」
「はい?」
「落ちないよね」
「落としません」
即座の返事。過不足のない断言。私はそれ以上確かめない。彼の腕の内側で、空気が安定する。飛ぶという行為が移動ではなく、対話に変わっていく瞬間だった。
しばらくして彼はまた速度を落とした。上昇は止まり、滑空に近い穏やかな線を描く。夜の縁が見えてくる。今度は、別のビルの端。街の灯りを正面から見下ろせる場所。風は弱まり音は戻る。車の遠い走行音、どこかの換気扇、誰かの、笑い声の欠片。
「そろそろ、降りますね」
「……うん」
「間もなく、着きます」
「うん」
ふわりと。落ちる感覚はなかった。ただ地面が迎えに来る感覚。足先が触れ、次に踵、そして、体重が戻ってきて靴底が確かな硬さを取り戻す。地に足が触れた瞬間、彼はすぐに距離を保った。抱える腕は解かれ、余韻だけがまだ身体に残っている。
私は今、自分の足で立っている。夜景は変わらないのに見え方だけが違っていた。私は深く息を吸い、吐く。ちゃんと、呼吸ができている。彼は隣で同じ方向を見ている。空から戻ってきたことよりも、戻ってきてもなお、心が軽いままでいることが、少しだけ不思議だった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼は軽く言って、フェンス越しの景色に、目を向ける。私は、胸の奥に残った浮遊感を確かめるように、もう一度だけ深く息を吸った。空はまだ頭上にある。でも今は地に足がついている。そのことが、少しだけ誇らしかった。
二人は自然と縁のほんの少し手前に並んで腰を下ろした。背後にあるのは、もう、役目を終えたみたいに静かな屋上のコンクリの床。眼前には、光を溜め込んだ夜の街。さっきまで身体を包んでいた浮遊感が、ゆっくりと骨の内側に落ち着いていくのを感じながら、私はまた、息を吸った。
空気がやけに澄んでいる。肺の奥まできちんと届く感じがした。うまく息ができている、そんな当たり前の感覚が、今は少しだけ、ありがたい。夜風が髪をさらって、その感触が心地よくて私は半分無意識のまま、声に出していた。
「もう、夜の空気が秋だねぇ」
独り言みたいな言葉だった。でも隣にいる彼に向けて投げたのも確かだった。
ホークスは返事をしない。ただ黙ってあぐらを掻き膝に肘をついて遠くを見ている。街のどこかあるいは、もっと先。視線の行き先が分からないところが、彼らしかった。沈黙が重くならない。だから私は、思いついたままに言葉を続ける。
「温泉でも、行きたいなあ」
夜景の光をぼんやりと眺めたまま独り言みたいにこぼした。高い場所にいるせいか現実から半歩だけ浮いている感覚があって行き先のない未来の話をするには、ちょうどいい高さだった。
「いいすねぇ」
短い返事。すぐに返ってきたのに急かす感じも投げやりな感じもしない。否定も具体化もせず、ただ、そのまま受け止める温度。
「ホークスは、人がいいね」
夜風が頬を撫でる。私は夜の街から視線を外さないまま言った。今、横を見れば何かが変わってしまいそうで。
「……そうです?」
少し遅れて返ってくる声にはわずかな戸惑いが混じっている。褒め言葉の受け取り方を、探しているみたいな間。
「空は広いし街は綺麗だし、ホークスは……人がいい」
並べただけの言葉だ。意味を、深く考えずに、今見えているものを、そのまま並べたみたいな、ゆるい連なり。
「えー。何すか、それ? 俳句?」
笑おうとしているのが、声音だけで分かった。目の端で、彼の肩がほんの少しだけ揺れる気配。
「うん?なんか、そういう感じがするってこと。未来永劫、人がいい」
��未来永劫�≠ネんて少し大げさな単語を選んだ自分に内心で苦笑する。けれど、そう言いたかった。彼は何があっても誰に対しても根のところで優しいままなのだろうと。
「んん? 褒められてると思えないんすけど?」
彼が肩をすくめる気配が伝わってくる。視線は合わせないまま、私はその横顔を想像する。少し困ったような、でも、嫌ではなさそうな顔を。
夜風が、二人の間を通り抜ける。私の言葉は、たぶん、半分くらいは本気で、半分くらいは照れ隠しだ。本当に言いたいことは、別にある。それでも今は、こうして並んで立っているこの時間がどこか温泉の湯気みたいに柔らかくて、静かで、少しだけあたたかい。
「ホークスみたいな人と、ずっと一緒にいたら、それはそれで、しあわせなんだろうなぁ……」
「それ、て。なんすか、それ」
「……何だろ」
言葉にした途端に、輪郭がぼやけてしまった。答えを探すのをやめて私はまた夜景に目を戻す。無数の光が、呼吸するみたいに瞬いている。人の数だけ生活があって感情があって、今日がある。その上を、さっきまで私たちは飛んでいた。風がまた一段強くなる。冷たさの中に、確かに季節の移ろいが混じっている。
ふたりで並んで、ただ光を眺めているうちに、胸の奥に溜まっていた何かが、知らないうちに、緩んでいた。だからだと思う。私は、考える前にぽつりと零してしまった。
「飛べる人は、飛ぶべきだよね」
「……え?」
彼の声が、わずかに低くなる。言ってから少しだけ、後悔した。重たい意味を持たせるつもりはなかったのに、いつだって言葉は勝手に遠くまで行ってしまう。
「地面に縛り付けられる必要なんて、ないもん」
沈黙が落ちる。けれどそれは、気まずさのそれじゃない。風の音と街のざわめきに溶けて、ゆっくりと広がっていく沈黙だった。彼は、何も言わない。私も続きを探さない。ただ、並んで座ったまま、夜の底に広がる光を見つめていた。
「ホークス」
真っ直ぐに彼の名を呼ぶ。風にさらわれるかと思った自分の声は、思いのほか素直に、夜の中へ溶けていった。
「……はい?」
その返事は、いつもの軽さよりもわずかに低く耳の奥に静かに落ちる。私は横を向かない。街の灯りを見たまま、何でもないことのように言う。自分の鼓動をごまかすために。
きっとこれは、吊り橋効果だ。高いところを、初めて飛んだあとの足元がまだ完全に現実へ戻りきっていない感覚。その延長線上に連なる何か。
「キス、しよっか」
「……ん?」
「キス」
「……」
視線は前だけを見据えている。けれど耳の後ろあたりに、彼の呼吸が近づくのを感じる。
短い沈黙。迷いというより言葉を整えるための静かな時間。拒絶でも、戸惑いでもない。
「……いいすよ」
肩の力が抜けたような声音だった。その響きに私の中の緊張も、すっと形を変えた。合図もなくどちらからともなく自然と距離を詰める。足音も衣擦れもない。ただ、呼吸だけが近づいていく。
私は目を閉じた。触れる前に触れることを許すため、そして、受け入れるために——。
軽いキスだった。確かめ合うというよりそこに在ることを受け取るための、静かな接触。熱も、勢いもない。ただ、唇が触れたという事実だけが胸の奥に、ゆっくりと沈んでいく。
——彼と。ホークスとの初めてのキス。離れたあと空気が少しだけ冷たく感じた。私は目を開けないまま自分の呼吸が乱れていないかを確かめる。彼はすぐに何かを言わない。ほんのわずかに息を整えてからそっと距離を保ったまま私の首筋へと顔を寄せた。夜と彼の香水の残り香がした。
「しばらく……こうしてても?」
「……いいよ」
その答えは許可というより、受容だった。彼の額が私のうなじのあたりに触れる。温度がじわりと伝わる。けれど腕は回らない。抱きしめるでもなく抱き返すでもない。私も彼の背に手を伸ばさない。触れようと思えば触れられる距離なのに、私たちは触れないことを選んでいた。その不在が妙に、豊かだった。
「ねえ……くすぐったい、よ」
「我慢、してください……よ」
風が吹き抜けて、街の光が瞬く。誰かの一日が終わり誰かの明日が始まる、その境目で私たちはただ、呼吸を、共有している。彼の肩越しに見る夜景はさっきよりも少し遠く少し優しく見えた。抱きしめない事で壊さずにいられるものがある。踏み込まない事で、長く保てる温度がある。今はそれでよかった。これ以上は、何も起こらなくていいと思えた。
彼の呼吸が落ち着くのに合わせて、私の心拍もゆっくりと整っていく。空は相変わらず広くて、街の灯りは相変わらず綺麗で、そして、ウィングヒーロー・ホークスは、変わらず、ここにいる。
夜はまだ続いていく。でも、急ぐ必要はない。そのことを彼との初めてのキスが何よりも静かに教えてくれていた。