連絡をしなかったのは、ほんの出来心だった。仕事帰りに立ち寄ったコンビニで彼が好きそうな季節限定の、缶チューハイを見つけてしまって、ついでにナッツと適当に惣菜をカゴに放り込んだだけのこと。深い意図なんてない。少なくとも、その時点では。インターホンを押す前に、なんとなく扉に手をかけてみる。力を入れるまでもなくすんなりと開いて、私は一瞬だけ、足を止めた。胸の奥に嫌な記憶の影が差す。もしも彼が見知らぬ誰かと部屋の中で。そんな考えが脳裏を掠めてすぐに振り払う。仮に見てしまったとしても今更関係が壊れるほどの間柄じゃない。そう言い聞かせるのは少し遅れてやってくる動揺を抑えるためだった。
扉を開けると、部屋は思ったよりも暗くない。間接照明だけが点いていて、テレビの音は消えている。生活の気配が、必要最低限に切り取られたみたいな静けさ。その静寂がかえって耳に残る。誰もいないはずなのにまるで息を潜めているような空気に違和感がゆっくりと背筋を撫でた。
(……あれ。)
しかし、次に聞こえたのはソファの軋む音と、どこか落ち着きのない呼吸音だった。嫌な予感というよりも妙に的確な予感。私は足音を殺すでもなく、そのままリビングを覗いてみた。そして、視界に飛び込んできたものは——ソファに座った見慣れたヒーローの姿だった。彼は部屋着のまま背中を少し丸めて肘を太腿に乗せている。視線は伏せられ、こちらにはまったく、気づいていない様子。呼吸が一定じゃない。その間の取り方が、あまりにもわかりやすくて説明はいらなかった。それでも、まさかの場面に出会して、私は一瞬、どうしていいかわからなくなる。
「え」
「え」
と、互いの声が、なんとも綺麗に、重なった。次いで彼の肩が、びくっと跳ねる。勢いよく顔が上がり数秒分の沈黙が挟まってから時間が完全に停止した。空気が凍りつくという比喩を私はこの瞬間ほど実感したことがない。そして数秒遅れてようやく理解する。あ、これ、最悪のタイミングじゃん、と。どうやら彼の方も同じ結論に達したらしく、動きがぎこちなく固まり、空気だけが、やたらと静かになった。エアコンの微かな音と、どこか遠くのバイクの走行音だけが現実の継続を告げている。
言い訳の余地も状況説明の余白もない。完全に自慰している最中だったのだ。オブラートに包む間もなく、あの人気ヒーローがソファの上で気を抜き切ってロンTの裾を中途半端に捲り下半身に手を添えたまま私と視線が合う。しかもばっちり正面から。逃げ場なし。
「……あっっぶな!!!」
飛び上がったのは間違いなくホークスだった。ソファが軋み羽根が大きく揺れてまるで部屋そのものが彼の動揺に巻き込まれたみたいに震えた。彼はソファから跳ね起きながらウエストのゴムを引っ張って体勢を立て直し、ロンTの裾で必死に今ここにある事実を隠そうとする。その拍子に、また背中の羽根がばさばさと騒がしく爆ぜてその光景が室内で鳥が暴れているかのように見えた。
「なっ、な、なんでいるんですかっっ!!!」
「ご、ごめんっ!!!」
「いやいやいやちがう! いやいやいや!!!」
「いやいやいやっ、ほら、あの……え、っと、」
「てか!!なんで勝手に入ってきとーと!!?」
「ご、ごめっ、ほんとごめん!鍵、開いててっ!わたし、なにも見てな——」
「いや見たでしょ!?絶対見てましたよね!?」
「あ、え、えっと……」
「あっ、いや、ていうか……な、なんで連絡くれなかったんですか!?」
「あ」
「いやそれは置いといて!!ちがうんですよ!」
ヒーローホークスは、完全にパニックだった。言葉は渋滞し、動きは過剰。冷静さを取り戻せる要素など、どこにもない。ただ一つ彼の脳内には『人生最大級の事故現場』という赤い警告表示が点滅しているのだろうということだけが、やけに雄弁だった。
「いや、ちょっと、名前さん!?そんな顔しないでください!?」
「え、えっ……!? どんな、顔……」
「俺が……その、たまたま……いやっ、たまたまじゃないんですけど、あああー!!!」
「お、お……おちついて、ホークス……」
「無理ですって!もうこの状況、二度と目合わせられないやつですってぇ!!」
私は思わず口元を手で押さえた。堪えきれない笑いが、喉の奥でぶつかり合っている。
「なに笑ってるんですかぁ!?俺、めちゃくちゃ真剣だったんですよ!?」
「し、しん……けん……」
「いや、ちがうくて!その今夜が山だって思って頑張ってたんですよ!?」
「今夜が山!? 頑張るってなに!?」
「あ……。てっ、ていうか!よりによってこんなタイミングで入ってくるなんて!」
「ご、ごめんて……もう、ほんとごめん……!」
もうだめだ。私はついに、吹き出してしまう。ホークスは顔を真っ赤にして背中の羽根を中央にぎゅっと畳み、行き場のない恥ずかしさを全身で引き受けたまま立ち尽くしている。その必死さがあまりにも人間らしくて、可笑しくて、少しだけ愛おしくもあった。
「……お願いやけん、この話……無かったことにしてください……」
「……じゃあ、さっきの顔芸だけは脳内保存していい?」
「やめてくださいほんとに!!!」
「ふふっ」
「〜〜っ、」
声にならない声が喉で詰まったまま彼は俯く。薄暗い照明の下でもはっきりわかるほど、耳まで一気に、赤くなっていく。その変化が早すぎて、感情がまだ追いついていないみたいだった。
「……な、なんで」
「来たのかって?」
私は、手に持っていたコンビニ袋を、軽く持ち上げる。その弾みで中身が、かさりと鳴った。
「ホークスの好きそうなの、見つけちゃって」
「連絡……もらって、ないですけど……」
「そうだね、ごめん。」
「いや、しなきゃダメとかじゃなくて……っ」
言い訳が途中でほどけて行き場を失う。完全に混乱状態らしい。いつもの軽口も誤魔化しも今はどこにも見当たらない。私は一瞬だけ考えてからあえて、明るい調子を選んだ。
「あのぉ……」
「……はい?」
「手伝おうか?」
言った瞬間、自分でも、可笑しくなる。完全に冗談のつもりだった。空気を軽くするための逃げ道みたいな一言。——なのに。
「っ、な、!?」
ホークスは言葉を失ったまま、こちらを見る。目が泳ぎ、呼吸が一段階増えて、あきらかに状況が悪化している。冗談が、冗談として受け取られていないそのズレだけが、やけにくっきりと浮かび上がっていた。
「冗談です!」
私は慌てて、手を振った。勢いがつきすぎて、言葉より先に動いてしまった感じだ。
「もう……っ、びっくりするじゃないですかぁ」
ホークスは顔を覆ったまま深く息を吐く。吸って吐いて、ようやく現実に戻ってきたみたいに。
「心臓に、悪いっていうか……色々……」
「ごめんごめん」
私はコンビニ袋を、テーブルに置いた。中身が軽く触れ合って、場の空気を少しだけ現実に引き戻す音がする。
「一緒に飲もうと思ってさ。ね、飲もうよ?」
その言葉に、彼はようやくこちらを見た。まだ気まずさは残っているけれど、逃げ場を見つけた人みたいな、ほっとした顔だった。
「……飲む前に、片付けます」
「何を?」
「いろいろですっ! 聞かんでっ!」
「ははっ、曖昧すぎる」
私が笑うとホークスは観念したように肩を落として「……あの、ですね」と声が突然、少しだけ真面目になった。
「今のは、その……」
「はいはい?」
「……あなたを、使わないためのやつなんで」
「うん」
私は笑って、素直に頷いた。余計なからかいは挟まない。「知ってるよ」と言った、私の一言を聞いた瞬間ホークスの目がわずかに見開かれる。
「……知ってて、言いました?」
「なにを?」
「そ、その……手伝おうか、なんて……」
「ちょっとだけ、ね?」
正直に言うと彼は苦笑して、そのままその場にしゃがみ込んでしまった。そして溜め息まじりに呟いた。
「悪い人だなあ……」
「そう?」
「はい、かなり」
けれど、その声に、責める色はない。彼は立ち上がり、少し距離を取ってから照れ隠しみたいに言った。
「……飲みますか」
「うん」
「まずは——」
「うん?」
「……手、洗ってきます」
「うん、絶対にそうして?」
今は、そのやり取りだけで、十分だった。越えなかった線も、笑ってやり過ごした空気も、全部まとめてテーブルの上に置いて私たちはこれからまた、同じ夜を飲む。特別じゃないけれど確かに選び取った時間として。
缶を開ける音が、やけに大きく響いた。炭酸が弾け、アルコールの匂いが部屋に広がるとさっきまで張りつめていた空気がようやく日常の輪郭を取り戻していく。
「ねえねえ、ホークス?」
「はいはい」
「今日は、なにをおかずにしたの?」
言った瞬間、自分でも最低だと思った。けれど我慢できなかった。あんなタイミングでばっちり目が合ってあんな反応をされて、そのうえ本人は「無かったことにしてください」なんて、無理なお願いをしてくるのだから。
案の定、ソファに座っていたホークスは、飲みかけの缶チューハイを噴き出しそうになりながら盛大に咳き込んだ。
「っは、え、は!?……なに言ってるんですか!名前さぁ〜ん!」
また一気に顔が赤くなる。耳の先まで、わかりやすく。でも思ったより怒ってはいないようだ。むしろ、こちらを見ないように、視線を泳がせる仕草が妙に人間くさくて、可笑しかった。
「いやだって、せっかくここまで来たんだし?」
「なんなんすか、せっかくここまでって……」
「あの場を黙って見逃すだけじゃ、もったいないな〜って」
「見逃してくださいよ! ていうか、忘れて!」
「え〜? 忘れられるかなぁ〜」
「いや、もう。最低ですよ?ほんと。え、それ、蒸し返す方向のやつすか?」
私が肯定も否定もせずにニヤニヤ笑っていると彼は、慌ててそばにあったブランケットを頭から羽織り直しながら頬を押さえて小さくうめいた。
「……もう、いよいよ引っ越しも検討っすね」
「え? どうして?」
「セーフじゃないですもん、もはや……」
「セーフハウスのセーフって、そう言う意味?」
「いや、知らんですけど……」
「ふふ……でもさ、ちょっと、嬉しかったんじゃないの?」
「は……? なにが、です?」
「私に、見・ら・れ・て♡」
これ以上、踏み込む気はないくせに、ぎりぎり相手の心臓に悪いところだけを突きにいく性格の悪い遊び。自覚はある。それでも、口にせずにはいられなかった。
「はっ!?嬉しいわけないじゃないですかぁー!そげんやばか癖、持っとらん!」
「はははっ!」
「俺いま、羞恥心の海に溺れてますからね!?」
「見てればわかるよ」
「むしろバレたせいで今後なにしててもその顔でアレしてたんだ……って見られる恐怖で!」
「あ〜、たしかに。見ちゃうかもなぁ〜」
「すでに二割くらいは、寿命減ってますよ!どーしてくれるんすか!!」
「じゃあ、次からは、ちゃんと声かけてから入るようにするね?」
いたずらっぽく笑うとホークスは俯いたまま、口元を手で隠して、ぼそりと何かを呟いた。声は小さくて、聞き取れない。
「……いっそ、ずっと来ないでくれたほうがマシだったかもしれない」
「待って? それは、ひどくない?」
「だって俺……恥ずかしさのあまり、名前さんのこと、ちょっと避けちゃいそうですし」
冗談めかしてはいるけれど、その声にはほんの少しだけ本音が滲んでいた。笑って流そうとしているのに、どこか本気で照れているのがわかる。その不器用さが、今の彼らしいなぁと思ったりもする。
「じゃあさぁ〜? 次に、見るときは——」
「��次�≠ネんて絶対起こらんようにしますんで」
「えー? わかんないじゃん」
「……で? なんすか」
「次は��一緒にシて�≠�・げ・る・ね♡」
「〜〜っ、ばかぁ……」
そう言って、彼は両手で顔を覆った。指の隙間から見える耳までしっかり赤い。逃げ場を失った人間の反応でそれがまた可笑しい。でもそのまま笑い続けることはしなかった。私は缶に口をつけゆっくりと一口だけ飲む。炭酸が喉を抜けていく感覚にようやく呼吸が整っていく。ホークスも、少し遅れて顔を上げ何も言わずに同じように缶を傾けた。会話が途切れても気まずさはない。ただ夜が静かに進んでいるだけだ。笑いの残り香と、アルコールの温度とさっきまでの騒がしさが少しずつ丸くなっていく。こうして一緒に飲む時間がちゃんと続いていくことを、互いに言葉にしないまま、知っている。次の一口までの間が、やけに長く、そして、心地よかった。
「あの……改めて、思うんですけど」
ホークスは相変わらず距離を取った位置で少しだけ声のトーンを落として言った。それは照れと真面目さの、境目みたいな音だった。
「本当に、連絡はしてください」
「ごめんって」
私は軽く返しながら立ち上がってソファに腰を下ろす。クッションが沈み、部屋の空気がまた一段落ち着く。
「……でもさ、やっぱ気になる」
一口飲んでからわざと何でもないふうを装って続ける。
「一人でしてたんでしょ。何見てたのかなって」
数秒間。完全な沈黙が落ちる。テレビもつけていない室内で缶の中の炭酸が小さく音を立てた。
「……酔ってます?」
「まだ、一本目」
「余計タチ悪い」
彼は再び顔を覆い、深く息を吐く。その動作がもう、防御反応に近い。
「そういうの、聞かれる想定で生きてないです」
「でも、気になるもんでしょ?」
私は、悪びれもせずに言った。からかっている自覚はあるけれど、止める気はない。
「どんなタイプが好きなのかなとか」
「……」
「人気ヒーローのそういう好みとか」
「......一般論として、言いますけど」
ホークスは指の隙間からこちらをちらりと見て慎重に言葉を選ぶ。
「聞かれて答えるもんじゃないです」
「じゃあ、質問変えるね」
私は一度、缶をテーブルに置き、少しだけ身を乗り出した。距離を詰めるというより、逃げ道を塞ぐための動きだ。今夜はまだ、終わらせる気がなかった。
「どんなセクシー女優?」
その一言で、彼は完全に動きを止めた。思考が追いつく前に身体だけが反応したのか、反射的にこちらから、距離を取ろうとする。けれど、すぐ背中にソファの端が当たって、それ以上は下がれなくなる。
「……名前、出ると思いました?」
「出るかもって」
「出ません」
「即答だね」
「即答します」
ふいっと顔を背けた彼の横顔は、照明の下でもはっきりわかるほど赤い。頬だけじゃない。耳の先まで隠しようもなく染まっている。あまりにもわかりやすくて、からかう気持ちより先に笑いが込み上げてしまいそうになる。
「……あの、ですね」
ホークスは正面を向いたまま、少しだけ、声の調子を変えた。ふざけた流れからほんのわずかに距離を取り直すときの、彼特有の真面目さだ。
「そういうのは、あんまり固定してないです」
「へえ〜。……てか、教えてくれるんだ」
「諦めんでしょ、どうせ」
「ご名答。私のことわかってるねぇ〜?」
言葉の応酬に、彼は小さく息を吐く。逃げ場を探しているくせに、完全には閉じない。その曖昧さが、逆に、正直だった。
「……気分とか、その……雰囲気、とか」
そこまで言ってから、自分で何を口にしているのかに気づいたらしい。言葉の勢いが急に鈍り、視線が宙を泳ぐ。墓穴を掘ったという自覚がそのまま沈黙に変わっていく。私は何も言わず、ただ缶を持ち上げて一口傾けた。炭酸の弾ける音が二人の間に落ちる。追い詰めるのは簡単だけれど今夜はこの曖昧さを、ゆっくり味わうほうが楽しい気がしていた。
「……今の話、忘れてください」
「無理」
「……ですよね」
諦め半分の返事に、私は思わず笑ってしまう。軽く缶を持ち上げて乾杯ともつかない仕草で彼のほうへ向けた。今夜は、こういう距離でいい。
「でもさ」
「……ん?」
「私のことを、考えてたってわけじゃ、ないんでしょ?」
「……」
「ほら、個性事故のこともあったし」
その問いを投げた途端ホークスは一瞬だけ黙り込む。さっきまでの空気がほんのわずかに沈む。重くなるほどではないけれど冗談だけで済ませていい話でもない、そんな間。
「……それは」
言葉を選ぶ時間。逃げずに考えているのが声に出さなくてもわかる。
「考えないように、してました」
なんとも正直すぎる答えだった。誤魔化しも、飾りもない。私はそれ以上、踏み込まない。その代わり、わざと軽い調子を選ぶ。
「じゃあ、安心した」
「どこが」
「私で処理されてたら、さすがに複雑」
「たしかに……」
彼は困ったように笑った。その笑いには、否定でも肯定でもない、微妙な距離感が滲んでいる。
「複雑にさせたくない相手、ですしね……」
その一言が胸の奥に静かに残る。私は缶の中身を飲み干してから、背もたれに身を預けた。アルコールの温度が、さっきよりもゆっくりと身体に広がっていく。
言葉にしなかったもののほうが、今夜は多い。それでもこの距離で一緒に飲んでいること自体がもう、答えみたいな気もしていた。
缶が二本目に差しかかった頃、ホークスはしばらく黙り込んでいた。さっきまでの照れと混乱が一段落したあと逆に何かを考え込むような沈黙。私はテレビをつけるでもなくただグラス代わりの缶を指先で転がしている。この部屋の静けさは、彼が言葉を探しているとき特有のものだった。
「……あ、あの。」
と、ようやく彼が口を開いた。けれど、そこにいつもの軽やかさはない。言葉を探すように一拍置きながらこちらの反応を確かめるような慎重に抑えた声音だけが、静かな空気に落ちた。
「今日……その。俺ばっかり、追い詰められてた気がするんですけど」
「そう?」
「はい。かなり……」
その言い切りが可笑しくて、私は思わず笑ってしまう。
「じゃあ、逆転する?」
「え?」
「フェアじゃないとね?」
冗談めかして言ったつもりだった。軽く流されると、思っていた。けれど、彼は一瞬だけ言葉に詰まり、それから、意を決したように続ける。
「……して、いいんですか」
「ん?」
「ほんとに……」
「うん。何を逆転したいの?」
「じゃあ、質問を、いくつか」
その言い方が、妙に慎重で可笑しい。まるで、地雷原に足を踏み入れる前の確認みたいだ。
「いいよ?」
私がそう答えた瞬間、彼の肩がほんの少しだけ強張る。それは、逃げ道を確保したままそれでも踏み込む覚悟を決めた人の姿勢だった。
「……じゃあ」
ホークスは私の方は見ずに缶に視線を落としたまま。
「……引かないん、すか?」
「えっ? ひとりで、してたこと?」
「……はい」
「引かないよ〜、生理現象だもん」
「気持ち悪く、ないです……?」
「全然? まあ、嫌いな人のを見たら嫌だけど」
言いながら私は自分でも少し不思議な気持ちになる。揶揄っていた側からいつの間にか測られる側に回っている。それでも嫌じゃない。むしろ、このくらいの距離で踏み込まれるのならば逆に、受け止めてみたいと思ってしまう自分がいた。
「名前さんは……」
ホークスは一度喉を鳴らす。唾を飲み込む音がやけに静かな部屋に残る。
「一人でいるときって、どうしてるんですか」
その問いは直接的なのにどこか遠回しだった。私は思わず瞬きをする。からかわれる前提で投げられる質問よりも、こうして慎重に差し出される問いのほうが、ずっと心臓に近いところに触れてくるのだと遅れて気づく。笑いで誤魔化す準備をしながら、それでもどう答えるべきかを少しだけ考えてしまった。
「どう、って?」
「だから……その……」
彼は缶を持ったまま、わずかに視線を彷徨わせる。耳の先まで赤くなっているのが照明の下でもはっきりわかった。ただ言葉を探しているというより、踏み込みすぎないための距離を測っているようにも見えなくもない。
「……考え事、してるのか、とか」
逃げた。けれど、逃げ切れてはいない。欲しい答えの輪郭だけはきちんとこちらに向いている。
「真面目だね」
そう言うと彼は小さく呻いた。苦笑とも違う、ヒーローらしくない、少しだけ情けない音。
「今、真面目に聞いてます」
「ごめんごめん。うーん……」
私は一度、背もたれに体重を預ける。缶の冷たさが指先に戻ってきて、さっきまでのからかいの熱が、ゆっくり落ち着いていくのを感じながら。
「別に?特別なことはしないよ。音楽聴いたり、本読んだり」
「……それだけ?」
「それだけ……じゃない、ときもある」
わざと曖昧に残す。言い切らなかった分だけ、空気に余白が生まれる。その余白を、彼は逃さなかった。
「……そっか。」
逃さない証明として、私の目を真っ直ぐに見て言った。なぜか納得したように深く頷きながら。その仕草が思ったより素直で思わず小さく笑ってしまう。「で」と、私は間を置いてから続ける。声の調子をほんの少しだけ落として。
「それ聞いて、どうするつもりだったの」
「……どう、っていうか」
彼は、困ったように笑う。自分で自分の首元を引っ掻く癖が、無意識に出ている。
「俺だけじゃないんだな、って」
「うん、それで?」
「……確認したかった、感じで」
「何の」
「……欲、とか」
言ってしまった瞬間ホークスの動きが止まる。しまった、という後悔が数秒遅れで顔に出るのがわかる。
「……今の、撤回できます?」
「できないね」
「ですよね……」
私たちは顔を見合わせて、同時に吹き出した。さっきまでの気まずさが嘘みたいに笑いが部屋に広がる。缶の中身が揺れて、炭酸の音が、小さく鳴った。しばらくして笑いが落ち着くと彼は少しだけ声を落として「すみません」と、謝罪した。ふざけきれないところに、彼の誠実さが滲む。
からかい合いの延長線にいるはずなのにどこか大事な確認だけは、ちゃんと済ませてしまう夜。それ以上踏み込まなくても、もう十分だと互いにわかっている。
「でも」
「うん」
「名前さんが、どういうふうに一人で過ごしてるのか」
言葉を選ぶような間のあとようやく彼の視線がこちらに向く。逃げも、隠しもしていないのに、どこか恐る恐るで、その目つきに、触れないまま距離だけを測ろうとする不器用さが滲んでいた。
「知っておきたい、とは思いました」
欲情でも独占でもない。ただ、知らないままにしておくのが怖い、という種類の告白。私は缶に視線を落とし込んで、背もたれに身体を預ける。アルコールが少しだけ回っていて考えが柔らかくなる。
「それ、質問としてずるくない?」
「え、どのへんが」
「踏み込んでるのに、触らない前提でしょ」
少し誇張したふうに言い当てると、彼は小さく苦笑した。否定しないあたりがもう答えみたいなものだ。
「……慣れとーでしょ、俺がそげな奴だって」
「まあね」
即座に返すと彼の肩がほんのわずかに落ちる。安心したときにだけ見せる、あの息の吐き方。
「だから」
「……」
「今日は、これくらいでいいです」
踏み込んだのに引き返す。その癖は相変わらずで、でも今日は逃げというよりもちゃんと自分で線を引いた感じがした。
「じゃあ、次回は?」
「……また、勇気出たら、聞くかもです」
「遠いなあ」
「二十一歳、手前なんで」
「えー? あと何ヶ月先の話してるの」
「もう、二十一になったも同然ですよ」
「理由になってなーい」
そんなやり取りを挟みながら、また新しい缶を開ける。触れない。越えない。でも、質問を一つ返しただけでこの夜は確実に深くなってしまった気がした。ちらりと横を見ると、缶を置いた彼が少しだけ、肩の力を抜く。張りつめていたものが炭酸の抜ける音と一緒に、ゆっくりほどけていくのがわかる。
「でもさ……」
不意に声を出すと、なぜかホークスは反射的に身構えた。私は構わず淡々と続ける。
「ヒーローも、するんだね」
ほんの一瞬空気が止まる。それから彼は呆れたように、でも、笑いを堪えきれない顔で深く息を吐いた。
「ヒーローなんだと思ってんすか。人間すよ」
「羽根、生えてるけど?」
「それ、関係あります?」
「ちょっとは」
私が肩をすくめると彼は諦めたようにもう一度深く息を吐き切って、ソファに背を預けた。背もたれに沈むその動きが、戦闘後のそれと同じで、無意識に力を抜いた姿勢なのだと気づく。
「期待されすぎなんですよ。強いとか、余裕あるとか、常に完璧とか」
「違うの?」
「違います」
食い気味の否定。その速さが妙に人間くさくてさすが速すぎる男だと思う反面、やっぱりなぜか可笑しくて、つい笑ってしまう。
「普通に、疲れるし」
「うん」
「考えるし」
「うん」
「……どうしようもない日も、あります」
一拍置いてから、彼はちらりとこちらを見る。探るというより、確認するみたいな視線で。
「……今みたいに」
私は思わず目を逸らして笑ってから、缶を軽く持ち上げた。乾いた音が、部屋の空気を少しだけ緩める。
「安心した」
「何が」
「ちゃんと、人間で」
「ほんと、失礼だなあ」
ホークスはそう言って眉を顰めながらも口元は緩んでいて、さっきまでの気恥ずかしさとは違う種類の照れが滲んでいる。
「でも」
「うん?」
「名前さんの前で、こういう話ができるのは……助かってます」
「へえ」
「変に、持ち上げられないんで」
「下げてもないよ?」
「それが、ちょうどいい感じなんすよ」
言い切ると彼はまた視線を逸らした。照れ隠しなのかそれとも言い過ぎたと思ったのか。どちらにしてもそこに残った沈黙の居心地は悪くない。
ヒーローと、ただの人間。その境目が、今夜はほんの少し曖昧で、その曖昧さを、私は嫌いじゃなかった。
「……さっきの質問も、そうですけど」
「うん」
「人間扱いされてる感じ、嫌いじゃないです」
その言葉が思ったよりもまっすぐで、胸の奥に小さな熱を残した。ヒーローという肩書きを外したところで触れられることに彼自身がほっとしているのが伝わってくる。
「じゃあ——」
と、私は、少しだけ悪戯心を混ぜて言う。
「次は、何にする?ヒーローの弱点でも聞く?」
「それは機密です」
「即答だ」
「命に関わるんで」
二人で笑う。笑い声が重なって、触れ合ってはいないのに、距離だけが気づかないうちに縮んでいる。
「……ただ、」
彼が、ふっと表情を変えた。冗談を仕舞って、ほんの少しだけ真面目な目になる。
「こうして話してるときくらいは」
「……」
「ヒーローじゃなくていいかな、って思います」
「……。じゃあ、今日は」
私は缶を軽く彼の缶にぶつける。乾いた音が、境界線みたいに鳴った。
「ただの、二十一歳手前の男の子ってことで」
「……ははっ。お願いしまーす」
そう言って彼は小さく笑った。楽しくて、少しだけ心拍が早くて、それでもまだ、越えない夜。
「ほんとさ?」
「はい」
「今度、いつでも呼んでよ、手伝うから」
軽い調子で言ったつもりだった。言葉にも声にも特別な含意を与えた覚えはない。それでも彼の反応は、こちらの予測を静かに裏切って、言葉が届いてしまったという事実だけがこの二人だけの室内に長く残った。
「はいっ!?」
素っ頓狂な声が返ってくる。思考が一瞬完全に置き去りにされた顔。そのわかりやすさが可笑しくて、思わず吹き出してしまう。
「そんなに驚く?」
「驚きますって!」
彼は、缶を持ったまま動きを止めていて、その手が宙で行き場を失っている。
「それ、どういう意味で言いました?」
「どういう意味だと思った?」
からかうように返すと彼は一度、息を詰めた。言葉を探すより先に、呼吸を整えようとしているのが丸わかりで、その不器用さがまた可笑しい。
「いや……今の流れで、それ言います?」
「言う」
「たしかに……言いましたね……」
彼は天井を仰ぎ、短く息を吐いた。困っているはずなのに、その仕草の端々にどこか楽しそうな色が滲んでいる。
「ねえ。今それ、どういう状況?」
「冗談として受け取っていいやつなのか真面目に処理するやつなのか、判断に困ってる状況です」
「じゃあ、両方で」
「一番困るやつ!」
声を上げたあと、彼は肩の力を抜いて笑った。その笑い方が、ヒーローのそれではなく、ただの年相応の青年のものに見えて胸の奥が自然と少しだけ緩む。
「……手伝うって」
ホークスの声が、わずかに低くなった。
「それ、冗談ですよね」
「半分は」
「もう半分は?」
「生理現象だって言ってたでしょ」
私が淡々とそう言うと、ホークスは黙り込み、視線を床へと落とした。またもや耳まで赤く染めあげている事態。なんて可愛らしいプロヒーローなんだろうか。触れなくても越えなくても、その沈黙だけが、さきほどよりも確実に私たちの間の距離を縮めていく。
「……名前さん。」
「はぁい?」
「時々そういうとこ無自覚に、危険です」
「ひどーい」
「事実なんで」
「今は?」
「かなり」
拒む色はない。ただ踏み込まないために踏みとどまっている声だった。距離を取ろうとしている理由が恐れではなく自制だと嫌でも伝わってくる言い方。私はそれ以上言わず、缶を軽く掲げる。
「ホークスはさ、特別なんだよ」
「はっ?」
「ホークスなら……いつでもいいよ、って話」
「……その��いつでも�≠ェ、一番強い」
「弱点だね」
「もはや機密ですね」
また、笑いが重なる。触れないまま言葉だけが先に踏み込んで限界の手前で引き返す。その繰り返しが妙に自然体になり始めている。
「……呼ぶかも、しれんですよ」
唐突に独り言みたいに彼が言った。私は思わず彼を見やる。ホークスはちらりと視線を一度だけこちらに向けてから、また正面に顔を戻し、そのまま続ける。
「本気で。」
「……」
「そのときは?」
返事をする間も無く、真っ直ぐ向けられたその問いかけに、私はそっと目を伏せて返した。
「……その、ときは」
「……」
「ちゃんと……連絡してから、来る」
「ははっ……いや、助かりまぁーす」
楽しくて、少し胸が騒がしくて、それでもまだ線のこちら側。二人で缶を開ける乾いた音が夜に溶ける。ついさきほどまで張りつめていたはずの空気が、嘘みたいに緩んでいく。
今日も直接は、触れなかった。越えなかった。それでもこうして笑って、一緒に飲めてしまう。この関係の危うさを私たちはまだ、軽口と冗談に包んでいられる。それが、あとになって一番深く静かに効いてくることを、まだ、知らないふりをしたまま——。