夏の名残が、まだ空気の底に沈んでいる午後。冷房の効いたフロアにいても、皮膚の内側にだけ湿り気が残っているような感覚が抜けない。遠くで蝉が鳴いている気がするのは、きっと錯覚だ。それでも耳の奥には、季節が終わりきらない音が続いている。完全には切り替わらない空気。その曖昧さが今の私たちの関係にどこか似ていると、ふと考えてしまう。そんな中、カウンター越しに見慣れた影が止まった。
「どもども〜」
顔を上げると、ホークスがいつものように軽い空気を纏って、立っている。肩の力が抜けた立ち姿。片手にぶら下げたスマートフォン。もはや、定期点検の顔で持ち込まれるそれは彼と私の間の都合のいい、口実でもある。壊れているのは端末なのか、それとも距離なのか。そんなことを一瞬だけ思う。
「ホークス……お疲れ様です」
「お疲れさまで〜す、名前さん」
「もしかして……また、ですか?」
「いやぁ〜。また、ですねぇ」
差し出された端末を受け取る。指先が触れないようほんのわずかだけ角度を変える。その小さな配慮が以前よりも意識的になっている事に自分で気づく。手にした端末の画面はうっすらと点滅を繰り返している。ヒビはなく落下の形跡もない。ただ、どこか機嫌を損ねたみたいな挙動。
「今回の症状は?」
「電源がたまに拗ねるんですよー。俺に似て」
「似なくていい」
淡々と返しながら私は端末を操作する。けれど声がほんの少しだけ柔らかいのを自分では誤魔化せない。ログを開き、バックグラウンドの動きを確認し、再起動をかける。指は迷わない。仕事の手順は、感情よりもずっと素直だ。
私が端末を操作している間もカウンター越しに彼の気配が静かに留まっている。以前なら、この沈黙はただの業務のあいだだった。けれど、今は違う。触れてしまった唇の記憶が、どこかでまだ温度を保っているせいで、何も起きていない顔をしている時間の方が、かえって落ち着かない。
気まずいと言えば簡単だ。でも、その言葉だけでは足りない気もする。曖昧に揺れているものにぴったりの名前を私はまだ持っていなかった。
「最近、湿度やばくないです?」
不意に彼が言う。私の思考を、軽く横から掬い上げるみたいにして。
「まあ、夏の終わりだし。残暑厳しいなんとやらってね」
「終わる気配、まったくないですけどねぇ〜」
その声には特別な意味も色もない。ただどこか入口を探しているような響きが残る。会話を続けるための扉を、いくつか並べてくれている感じ。
「……そういえば」
私は画面から目を離さないまま続ける。何か、どんなことでもいいから話を繋いでいないと今のこの沈黙を流せるほど、今の私は賢くも器用でもなかった。
「今週末、花火大会ありますね」
ほんの思いつき。本当にそれだけ。けれど口にした瞬間、彼の呼吸のリズムがわずかに変わった気がした。ほんの小さな揺れだ。それでも近くにいればわかる程度の変化である。
「……あぁ〜! ありますねぇ」
「行くの?」
返答までのわずかな間が私の内側をくすぐる。私の問いかけは軽い。世間話として流せるくらいの温度で。でも胸の奥では自分でも理由のわからない期待のようなものが、薄く揺れている。
「行かないと思います」
返答は早く、あまりにも自然で、いつも通りの迷いのない声だった。
「……思います、って。警備とかしないの?」
「たぶん別件入るんで。ああいうの、俺みたいなヒーロー向きじゃないですしね」
淡々としている。拒否でもなく残念でもなく、ただ事実を並べる口調で。その平坦さが逆に胸のどこかを静かに撫でる。
私は画面をタップして再起動の完了表示が出るのを確認しながら、小さく「そう」とだけ言う。
声は落ち着いている。けれど、胸の奥で何かが小さく沈む感じがした。花火の話題なんて、何の意味もない、深い意味はないはずなのに。彼は、その一言を拾わない。代わりに少しだけ身を乗り出して私の手の中にある端末の画面を覗き込む。
「直りそうです?」
「様子見かな。ひどくなったら基板交換が必要になるかもしれませんけど」
「うわ、物騒〜」
軽く、笑うような声。わざと、肩の力を抜いた響き。それでもどこか、探るような視線がほんの一瞬だけ私に触れて、すぐに離れた。その短さがかえって長く感じられた。
花火の話題はそこで終わるはずだった。季節と同じように私たちの会話も完全には踏み込まないまま今日も曖昧な位置で揺れている。夏の名残を残した湿った空気の中、未だ冷房の効いた室内にいても肌の内側には湿り気が残っていて、呼吸がわずかに浅くなる。
「名前さんは?」
「え?」
「行くんですか?」
私は、自分の鼓動がほんの少しだけ速くなっていることを悟られないように、呼吸を整えた。
まさか、同じ問いが返ってくるとは思っていなかった。喉の奥がひくりと鳴る。その音が彼にも聞こえていないことを祈りながら、軽く咳払いをしてから答える。
「どうだろ」
曖昧な返事。別に誰からも誘われてもいないし約束もない。行く理由も行かない理由もどちらも同じくらい頼りない。ただ、その日。花火大会の日は、仕事が休みであるという事実だけがある。
「お祭りは、浴衣とか着る派です?」
からかうような声音。その口調とは裏腹に冗談だけではない温度が、混じっている。探るというほど露骨ではないが、どこか期待を含んだ響き。
「着ないよ。たぶん」
そう言いながら自分の答えに確信が持てない。自分の声が、ほんの少しだけ弱いのを自覚する。『たぶん』という言葉がやけに大きな余白を連れてくる。断言しない自分の曖昧さが、胸の内側で小さく揺れた。端末の再起動が完了する。画面の光が私たちのあいだに薄く差し込む。私はそれを彼に向ける。
「とりあえず今日はこれで。また症状が出たら、持ってきてください」
「了解でーす」
受け取る指先は、いつも通り距離を守る。触れない。触れないまま、きちんと近い。その均衡が今の私たちを象徴しているみたいで少しだけ苦しくなる。それでもホークスは、受け取った端末をポケットにしまいながら何気ない顔で続ける。
「花火、生で見たい派です?それとも映像派?」
唐突なようで流れの延長線上にある問い。私はほんのわずかに目を伏せてから答えた。
「ん……どっちでもいいかな」
本音だ。大勢の中で騒ぐのは得意な方じゃないけれど、夜空に上がる一瞬の光を見るのは、嫌いじゃない。
「俺は遠くからちょっと見えるくらいがちょうどいいですねー」
軽く伸ばされた語尾。その緩さとは裏腹に私は思わず目を上げていた。予想通り、彼は、笑っていなかった。唇の端にいつもの柔らかい線はあるけれど目の奥はどこか静かで人混みの中心に立つ人のそれではなく少し離れた高い場所から全体を眺める人の視線だった。——遠くから。ちょっと見えるくらい。それは本当に、花火の話だけなのだろうか。胸の奥では、小さな疑問が生まれた。けれど私はそれを言葉にはしない。カウンターの向こうで彼は、いつもの距離を保ったまま立っている。
手を伸ばせば届くのに、決して触れない高さ。近くて、遠い。遠くて、近い。
夏の終わりの湿った空気が、フロアの隅にたまっている。冷房の風に揺られながら私たちの間に浮かんだ言葉は、まだ輪郭を持たないまま静かに漂っていた。
——空はね、いいですよ。
——物事を俯瞰して見られるから。
ふいに記憶が蘇る。屋上で。初めて唇を重ねたあの夜。風に押されるようにして聞いた彼の声。あのときの高さと、今ここにある距離が、奇妙に重なる。
「……俯瞰して、見られるから?」
無意識に、口がその続きをなぞっていた。私の言葉を受け取ったであろう彼が、わずかに瞬きをする。
「え? ああ。まあ……そう、すね?」
何気なく、相槌のように返す声。けれど、その一瞬の間に彼が私のどこを見ていたのかを考えてしまう自分がいる。
「……そっか」
けれど、それ以上は踏み込まない。踏み込めばきっと何かが決まってしまう気がしたから。彼もまた何も足さない。説明も言い訳も補足もない。今日もただ、淡く笑うだけ。
フロアの床に夕方の光が細く差し込んでいる。埃がゆっくりと舞いその粒が季節が確実に動いていることを知らせる。それなのに私たちの関係はまだ名前を持たないまま、曖昧な高さで止まっているのだ。
「当日はたぶん、福岡だと思うんで」
さらりと告げられる予定に、私は、パソコンの画面を切り替える指を、ほんのわずかに止める。
「なんで、夜は……静かにしてます」
彼が、半分冗談のように言う。けれど、どこか本心が混じっている。彼はこう見えて、騒がしいのを好まないから。騒ぎの中心にはいないという宣言にも聞こえた気がした。
「……うん。静かにね」
そう答えながら、なぜか胸の奥がざわついた。本当に、静かにしていられるのだろうか。花火は遠くからでも音だけは届く。視界に入らなくても空を震わせる衝撃は隠せない。
彼の言う��遠くから�≠ェ、優しさなのか、逃げなのか、それとも、私を守るための高さなのか。私はまだ判断できないまま湿り気を含んだ空気をゆっくりと吸い込んだ。
*
湿度は相変わらず高いのに空の色だけが僅かに薄くなっていた。夏が終わりきらないまま、どこかで、秋の気配が混じりはじめている。
季節の境目というのはいつもはっきりしない。残暑と涼風が同じ空気の中でせめぎ合い、どちらにも決めきれない曖昧さを抱え込んでいる。その不確かさが今の私の心境とどこか似ているようで私は無意識のうちに窓の外を見ていた。
修理担当への端末の受け渡しの処理を終えて、二番のカウンターに戻ろうとしたとき、不意に、背後から声がかかる。
「名字さん、今週末って休みでしたっけ?」
振り返ると同じ受付担当の男性が書類を片手に立っていた。何度も顔を合わせている相手だが、親しい、というほどでもない。業務のやりとりが中心で雑談はあっても深い話はしない。ちょうどいい距離の人。踏み込みすぎず、引きすぎない——そんな位置にいる人物の一人だ。
「ええ、はい。休みですね」
そう答えると、彼は「あ、やっぱり」と小さく頷いた。その安堵のような表情がほんの少しだけ柔らかい。
「今度の花火大会、職場の連中、何人かで行くんですよ。よかったら名字さんも」
唐突といえば唐突だった。けれど、夏の終わりにはよくある流れでもある。特別な意味を持たせるにはあまりに軽く、重くならない類のお誘い。
「男だけだとむさ苦しいよなって話になってて」
続けて冗談のような、はたまた照れ隠しみたいな笑い方で、彼はそう言った。私は思わず口元を緩める。
「その理由は、わかりやすい」
「いやほんとに。同期と後輩と、あと、もう一人くらい来るかもしれませんが」
その数字の曖昧さが、かえって、気楽だった。いい意味で適当で完璧に整っていない予定。私はほんの一瞬だけ、先日のあるヒーローとの会話を思い出す。胸の奥で、何かが小さく揺れる。痛みではない。ただ少し不思議な感覚。彼は来ない。そう言った。いや、彼が来ても来なくても、私はどこへ行ってもいいはずだ。
「もしも、予定がなければの話ですので……」
付け足されるその言い方は、押しつけがましくない。断られても平気でいられる距離をきちんと保っている。その距離感に私はどこか安心する。休みだとしても、どうせ予定なんてないしなぁ。心の中でそう小さく呟いて、私は肩をすくめた。
「いきます」
口に出した瞬間、自分の声が思ったよりも軽かったことに少しだけ驚いた。寂しさを埋めるためでも、誰かを試すためでもない。理由を探せば、いくらでも言い訳は並べられるけれど、本当に、単純でただ予定が空いているから。たぶん、それだけだ。
「ほんとですか?じゃあ時間あとで送りますね」
彼は嬉しそうに頷き、足早に去っていく。その背中は特別な期待も重さも背負っていない。私はその背を見送ってから、ゆっくりとした足取りでカウンターに戻る。パソコンの画面を開く。キーボードに指を置く。けれどなぜか数秒だけ、動けなかった。
——花火大会。人混み。夜。あのヒーローは、行かないと言っていた。
『 静かにしてます。』
あの言い方が、なぜか今になって胸の奥に引っかかる。『静かに』というのは、誰に向けた言葉だったのだろう。
私は小さく首を振る。何を期待しているのか、自分でもわからない。期待していると認めるほどまだ踏み込んではいないはずなのに——。
その日、仕事終わりのロッカー室で、鏡の中の自分は少しだけ、疲れた顔をしていた。そこまで化粧は崩れていない。けれど目の奥に、薄い影がある。
「名字さん、お疲れ様でした」
後ろから声がする。私は振り返らず、鏡越しに軽く笑った。
「お疲れ様でした」
その声はいつも通りだ。それでも胸の奥にあるざわつきだけが、まだ正体を持たないまま残っている。
ロッカーを閉める音が、やけに大きく響いた。外に出ると、空は少しだけ高くなっている。夏の名残を抱えたまま、それでも確実に季節は移ろうとしている。
花火が上がる夜。私は彼が来ないはずの場所へ向かおうとしていた。それが、偶然になるのか、必然になるのか。まだ今は、誰も知らない。
*
花火大会当日の夕方。窓の外はまだ明るいのに空の色だけがどこか薄い。夏の終わり特有の光と影のあわいに立たされているみたいな時間。
私はクローゼットの前で腕を組んだまま、しばらく、立ち尽くしていた。ハンガーに掛けられたままの浴衣。数年前に一度だけ袖を通して、それきりになっているもの。着ようと思えば、簡単に着られる。帯もある。下駄も、どこにしまったか覚えている。箱の位置までしっかりと。
でも。ただの��会社の人と行く花火大会�≠ノ、わざわざ浴衣を着ていく必要はあるのだろうか。浮かないか。気合いが入りすぎていないか。期待しているみたいに見えないか——期待って何に。
私は鏡の前に立つ。Tシャツとデニムのままの自分はいつも通りで無難で輪郭も表情もどこにも特別な線はない。浴衣は、少しだけ特別な自分になる。背筋が伸びて歩幅も視線の集まり方も変わる。布に包まれると自分の身体の位置がはっきりする。その変化が、怖いのかもしれない。
誰に見せたいんだろう。胸の奥で、言葉にならない問いが、ゆらゆらと揺れる。彼は行かないと言っていた。たぶん、別件が入ると。だから関係ない。関係ないはずなのに、どうして私はこんなふうに迷っているのだろうか。
浴衣を手に取る。布の感触が、思っていたより柔らかく少しひんやりしていて、掌の熱を静かに吸い込む。そのとき、スマートフォンが震えた。小さな振動なのに心臓のほうが大げさに反応する自分が可笑しい。画面を見ると、『ホークス』の文字。それだけで残念ながら口元がわずかに緩む自分がいるのだ。

おつかれさまです

今日は暑さ
マシな方じゃないすか?
何でもない、いつもの調子。私は肩の力を抜き浴衣を片手に持ったまま返信する。送った途端に表示される��既読�≠フ印は相変わらず早い。物理的な距離があっても反応だけはいつだって近い。

おつかれさま

うん、ちょっと風あるね

ですよね

こういう日
飛びやすいんですよ
——飛びやすい。
その単語に、あの日の屋上の夜が一瞬で蘇る。重力が裏切った感覚。風に溶けた声。私は指先をほんの一瞬だけ止めて、画面を軽くなぞった。

仕事?

まあ、そんなとこです

今日は休みでしたっけ?

うん、休みだよ
送信してから、スマートフォンの画面を見つめた。胸の奥がほんのわずかに収縮する。彼からの問いは、軽いはずなのに、その意味だけが重いと感じるのは気のせいだろうか。数秒の空白。その短い沈黙がやけに長く感じられた。

いいですねぇ

ゆっくりしてくださいね

そっちも無理しないでね

はいはい

ちゃんと俯瞰してまーす
またその言葉。冗談めかしているのにどこかで強調しているようにも聞こえる。
花火大会の話題は出ない。だから私も持ち出さない。私は、浴衣を持ったままスマホを伏せた。
彼は今、福岡にいる。花火大会には行かないと言っていたし私も誘っていない。それなのに胸の奥にほんの小さな空洞ができる。浴衣をもう一度鏡の前で身体に当ててみる。似合うかどうかではなく、覚悟の問題みたいだと、ふと思う。
今日はただの花火大会。数名でわいわい屋台に並んで騒いで花火を見上げて帰るだけ。それでも私は浴衣にゆっくりと袖を通した。布が腕を滑り背中に沿う。帯を締めると呼吸が少し浅くなる。その緊張が、嫌いではないと気づく。
これは、誰かに見せるためじゃない。たぶん。ただ夏の終わりにきちんと区切りをつけるため。自分で選んで、踏み出すため。そう言い聞かせながら私は鏡の中の自分をまっすぐ見返した。空はまだ明るい。けれど夜はもう、すぐそこまで来ている。
駅を出た瞬間に空気の密度が少しだけ変わった気がした。昼間の熱をまだ抱え込んだままのアスファルトが、足裏からじんわりと伝わり、遠くの提灯の赤い光が視界をやわらかく染める。どこか焦げたような匂い。油と砂糖と炭の混じった甘い煙が喉の奥に薄く絡みつく感覚。夏が最後の力を振り絞っているみたいな、湿り気を帯びた夕暮れだった。
「名字さん、こっちです!」
人混みの向こうで同僚が手を振る。浴衣の袖が視界の端で揺れて、ああ、と気づく。自分の心も同じように揺れているから。歩幅に合わせて布が擦れ、足首に風が触れる。慣れない下駄の感触が現実を確かにする。
同僚たちと合流して「すごい人だね」と言うとまた別の同僚が笑った。
「毎年こんなもんですよ。むしろ今年は、マシなほうかも」
視線を巡らせる。屋台の列は蛇のようにうねり色とりどりの浴衣が、夜の入り口に滲んでいる。
焼きそば、たこ焼き、かき氷。甘い匂いと油の匂いが交じり合い、遠くで鳴る試し打ちの小さな音が、これから始まる夜を予告している。
「とりあえず、何か買いましょうか」
「そうですね。並びます?」
そんな同僚の会話を聞き流しつつ自然な流れで私たちは、屋台の列に加わる。前後に並ぶ同僚の浴衣の柄が目に入った。数名と聞いていたけれど集まった中には、浴衣姿が思ったより多い。女性だけでなく、男性もちらほらと。その事実に安堵する自分を、どこかで、冷静に見つめている私がいる。金魚、朝顔、縞模様——。
あ、よかった。自分だけが気合いを入れすぎているわけではないと胸の奥が少しだけ軽くなる。
「あ! 名字さんも浴衣なんですね」
「う、うん……せっかくだし」
……なんて。なんとも、便利な言葉だと思う。本当の理由を曖昧に包んでくれるから。
「似合ってますよ」
何気ない褒め言葉。照れくさくて、私は視線を屋台の鉄板へと逃がした。焼きそばを焼く音が、じゅう、と低く響く。油が弾け、鉄板の上で麺が踊る。その熱気が頬を撫で汗がうなじにじわりと滲んだ。浴衣の襟元に入り込む夜風が、わずかに涼しいな、なんて考えていると同僚が不意に私の方を向いて口を開いた。
「花火、ちゃんと見るの久しぶりなんですよ」
「え? ああ……そうなんだ」
「彼女ができてからは、逆に避けてたので」
「どうして?」
「人混み嫌がるんですよ、あいつ」
笑いが起きる。恋人、という単語がどこか遠いものみたいに聞こえた。私は列を少し進みながらまだ完全に暗くなりきっていない空を見上げる。群青色の上に薄く雲が流れている。
——あのヒーローは今、どこにいるんだろう。
考えないようにしていたはずの問いが、ふいに浮かんだ。行かないと言っていた。静かにしていると。屋台の灯りが揺れて人の笑い声が重なる。その賑わいのなかで胸の奥だけが、妙に静かだ。
「名字さん、何食べます?たこ焼きもありますし焼きそばも出来立てですね!」
「んー......焼きそば、かな」
「いいですね、俺もそれにしよっと」
自然な会話。その瞬間、現実に引き戻される。何も特別なことはない。それなのに帯のあたりがきゅっと締まる感じがした。きつすぎず緩すぎずちょうどいいはずなのに胸の内側だけが妙に落ち着かない。
今日は、ただ楽しめばいい。ここにいるのは、ただの同僚たち。笑って食べて花火を見て帰る。ただ、それだけ——。
遠くで、ひとつ大きな音が鳴った。試し打ちの光が夜の端を白く裂き、人混みが、わずかにざわめく。そのざわめきと同じ波が私の内側にも広がった。焼きそばの入った容器を受け取ると湯気が顔をかすめた。熱い。確かに私は今ここにいる。けれど、胸の奥に残る空白は、まだ埋まらない。空は、ゆっくりと、濃くなっていく。光が上がる前の、ほんの短い静けさ。私は焼きそばの入った透明のパックを持ったまま群青の空を見上げる。この夜がどこへ向かうのかまだ誰も知らないまま最後の試し打ちの音が遅れて、空を震わせた。
屋台で買った物を片手に、私たちは人の流れに押されるようにして、花火会場の中心へ向かっていた。提灯の明かりが途切れ、視界がひらける。川沿いの土手は場所取りのシートで埋まり空気は期待とざわめきで満ちていた。花火はまだ始まっていないのに、その空気感はすでに最高潮の手前まで来ているようだった。
「この辺で、どうですかね?」
誰かが言い足を止めかけたそのとき。少し先で空気の質が淀んでいる気配に気づく。笑い声とは違う、鋭い音。言葉がぶつかる、乾いたテンポ。互いを押し返す、乱暴な身体の動き。人だかりが小さな円を作っている。
「なんか、揉めてますね」
同僚の一人が背伸びをする。遠巻きに、全員で足を止める。私もつられるように視線を向けた。数名の男性が、互いの胸ぐらを掴み合って揉めているようだ。衣服が乱れ誰かの片方の靴が脱げて転がっている。赤らめた顔。荒い息。酔っているのか、お酒の匂いがここまで届く気がする。
「うわぁ……」
私たちと同じように振り返った誰かが、小さく声を漏らす。止めに入ろうとする人もいるけれど勢いは収まらない。押し合い、怒号、ざわめき。その中心にふっと滑り込む影があった。最初は、気づかなかった。黒っぽいシルエットが騒がしさの中で妙に静かだったから。次の瞬間、その場の空気が一瞬にして変わった。
「はいはーい、そこまででお願いしますよー」
落ち着いた声。よく通るのに怒鳴っている様子はない。掴み合っていた腕が、自然とほどける。その声の主が一人の男性の片方の肩を軽く押さえもう一方の人物を、視線だけで制する。
「怪我しても、今日は誰も得しないでしょ」
その横顔が、提灯の明かりに照らされる。ヒーロースーツ姿のホークスだ。心臓が、はっきりと鳴った。もう剛翼の翼は広げていない。それでも背中の存在感は隠しきれない。彼は冷静だった。怒りも焦りも見せず言葉だけで場を収めていく。
「ほら見て?他のヒーローたちの警備も入りますんで今日は楽しくいきましょう、お兄さんたち」
軽い言い方。それでもその声の奥には、揺るがない芯がある。喧嘩をしていた男性たちは次第に視線を落とし、ぶつぶつと言いながらも、距離を取る。周囲の人だかりも、少しずつ解けていく。
「ホークスだ」
「さすがだな……」
近くで、同僚ではない他の一般人が呟く。私は何も言えなかった。行かないと言っていた人が、ここにいる。俺みたいな、ヒーロー向きじゃないからと言っていた人が、まさに、人混みの中心に立っている。
——静かにしてます。
あの言葉が、胸の奥でひっくり返る。彼はまだこちらに気づいていない。騒ぎが完全に収まったことを確認し通信機に何かを告げるその横顔は、つい数時間前まで画面越しに他愛もないやりとりをしていた人とは、まるで、別人のようだった。けれど。ふと、視線が動く。ほんの一瞬、こちら側へ向いた気がした。
距離はある。人も多い。それでも彼の目が私を捉えたとわかった。浴衣姿の私とヒーローとしての彼。夏の終わりの夜、花火が上がる前の、まだ少し明るい空の下で、私たちは遠くから、確かに目を合わせていた。その一瞬が、妙に長い。
騒ぎが収まったあとも、会場のざわめきはすぐには元に戻らなかった。けれど人は順応が早い。数分もすれば、何事もなかったように、笑い声が重なり、屋台の灯りが揺れ、遠くのステージから軽い音楽が流れてくる。
私たちは、川沿いの空いた場所に立ち、屋台のパックを片付け、なんとなく空を見上げる。その合間、私はふいにスマートフォンを取り出した。通知はない。画面は静かで既読もメッセージも、名前もない。当たり前だと自分に言い聞かせる。彼は仕事中で警備中。連絡が来る方がおかしい。それでもどこかで期待していたのだろうか。私は小さく息を吐く。肩が、わずかに落ちる。
「すごかったですね、さっきの」
「生粋のヒーローだよ、ホークスは。ねっ、名字さん」
同僚たちが興奮気味に言う。私は視線を逸らし曖昧に笑って頷く。胸の奥だけが、まだ静まっていない。花火が始まるまで、あと少し——。
そのとき。風向きが変わった気がした。夜風に混じってほんの一瞬甘さを帯びた香りが掠める。馴染みのある匂い。近すぎて記憶と直結している匂い。心臓がまた強く鳴る。反射的に振り返る。少し離れた屋台の前に、小さな人だかりができている。その中心に黄色いヒーロースーツの背中。ホークスだ。囲まれている。子どもや若い女性に酔った男性に、次々と声をかけられている。その中心で彼はひときわ目立つわけでもなく、けれど自然と、視線を集めているのだ。
「ねえ〜。ホークス、ホークス!写真撮ろ〜!」
「はいはい。イエーイ」
「あの。私も写真いいですか?」
「いいすよ〜」
「ホークス!さっきの、かっこよかった〜!」
「はーい。どうもありがとっ」
彼はいつも通り軽やかに応じている。子供相手には少しだけ屈んで目線を合わせ肩にそっと手を置き、冗談を挟みながら笑顔を向ける。写真には慣れた角度で収まる。その動作ひとつひとつが、あまりにも自然だ。あまりにもいつも通り。
さっき私に向けられた視線とは違う。これは、万人に向けるプロヒーローの顔。胸の奥がきゅと小さく縮む。帯のあたりが、ほんの少し苦しい。私は自分がただの観客の一人に戻るのを感じる。群衆の中のひとつの影。浴衣の柄も、笑い声も、すべてが同じ高さに溶けていく。
『 遠くからちょっと見えるくらいが—— 』
彼の言葉が、遅れて胸に落ちる。その瞬間——彼の視線がふと動く。人の肩越しに提灯の灯りの向こうから、まっすぐこちらへ向いた。
距離はある。人も多い。それでも目が合ったとわかった。数秒。それだけ。彼の表情は、変わらない。笑みを保ったまま。写真に応じ、軽く手を振っている。けれど瞳の奥の光がほんのわずかに揺れた気がした。それだけは錯覚ではなかったと思う。
浴衣姿の私と、ヒーローの彼。間にあるのは、何百人ものざわめきと提灯の赤い光と川の匂い。音楽が止まり会場の照明が少し落ちる。花火開始のアナウンスが流れ、最初の一発が夜空を裂く。腹の底に響く衝撃。白い光が弾けて、群青の空を一瞬で染める。その閃光が私たちのあいだを白く照らし出す。その瞬間も彼はこちらを見ていた。
周囲の歓声が遠のく。音はあるのに届かない。胸の奥だけがやけに鮮明だ。光が消え夜が戻る。それでも視線の余韻だけが、しばらく私の内側に残り続けていた。
*
一発目の大輪が夜を割いたあと、会場の空気はすっかり花火に奪われていた。光が咲き、遅れて腹の底に響く音が届く。その衝撃のたびに歓声が上がり人々の身体が同じ方向へと傾く。
私は輪のいちばん後ろでほんの少しだけ距離を取って立っていた。前へ出ようと思えば出られるけれど、ここがいちばん、浴衣の裾と人の背中とそして自分の鼓動がちょうどいい位置だと告げている気がした。
下駄が、少し痛む。慣れない鼻緒が親指の付け根に当たり、じわじわと熱を持つ。さっきから、無意識に体重を左右へ移しているのを、自分でも感じていた。帯は、きつくない。苦しいわけでもない。ただ、気になって落ち着かないだけ。
「……いっ」
小さく息が漏れる。花火の轟音に紛れて誰にも届かない。だが、そのとき——。
「あら〜! オネーサン、怪我してますね!」
背後から場違いなくらい軽い声が落ちてきた。心臓が強く跳ねて、振り返るより先に腕を掴まれた。困惑する私を置き去りに「手当しないと」と冗談のように言われて、その掴む手には、迷いがない。
「ちょ、」
言い終わる前に視界が傾いた。横抱きにされて浴衣の袖が大きく揺れ、足元の地面が遠ざかる。同僚たちは前方の花火に夢中で気づきもしない。けれど周囲の何人かが、ざわ、と声を上げた。
「え、ホークス?」
「誰あれー? 怪我人?」
光に照らされた彼の横顔は、完璧にヒーローのそれだった。次の瞬間に、彼は空いたほうの手の人差し指を自分の鼻先にそっと当てる。
——内緒。そう言わんばかりに片目を細める。周囲のざわめきは一瞬にして「キャー!」という黄色い声に変わる。それだけで、ヒーローの……いや��ホークス�≠フ気まぐれとして、処理されるのだ。
「捕獲成功、ってことで」
耳元で囁かれる。そのまま翼が広がる。空気が一気に動く。地面が離れる。花火の光が真横から視界をかすめる。
人の歓声が遠ざかり下駄の痛みも帯のきつさも一瞬でどうでもよくなる。私は反射的に彼の首に腕を回した。
「ホークス……!」
「はいはい。暴れないでくださいよー、落ちますんで」
笑っている声。けれど、腕の力は強い。夜風が浴衣の裾を大きく揺らし、花火が私たちより低い位置で開く。地上の喧騒が、小さな光の群れへと変わっていく。やがて、光の中心から少し離れた暗がりへ降りていく。辿り着いたのは、どこかの山の高台。街を見下ろす位置。花火が、真正面に上がる場所。そっと地面に下ろされる。足がまだ震えている。鼓動が速いのは飛んだせいか、それとも——。
「……なに、してるの」
まだ速い呼吸のまま問いかけると、彼は広げていた羽根をゆっくりと畳んだ。その動作は、驚くほど静かで、さきほどまで人混みの中で軽やかに笑っていたヒーローとは別人のように落ち着いている。夜風が羽根の先を撫でていく。花火の光がその輪郭を一瞬だけ白く縁取った。
「怪我人、搬送しました」
このヒーローは真顔でそんなことをあっさりと言うのだ。冗談の形をしているのに声音はどこか本気で私はうまく笑えない。彼は上体をゆっくりと屈めて、その視線がすっと私の足元へ落ちる。
「ほら。赤くなってる」
鼻緒の跡を、触れない距離で、示す指先。その僅かな隙間が、やけに意識に残る。花火が夜空を染めて、その光が彼の横顔を白く照らす。高台の空気は地上より少しだけ冷たく、火薬の匂いが、遅れて届く。私は乱れた息を整えながら言った。
「……行かないって、言ってたよね」
口にした瞬間、自分の声が思ったより低いことに気づく。責めたいわけじゃない。ただ、確かめたいだけなのに。
「……静かに、してるって」
「……」
「今日だって、福岡にいるって……」
彼が上体を起こし視線がひとつ、ぶつかった。夜空がまた裂ける。音が少し遅れて山肌に響き、その振動が足裏を通して身体の奥へ伝わる。彼は視線を逸らさない。真っ直ぐに、こちらを見る。
「言いましたねぇ」
「……」
「でも。行かない、とは言いましたけど。いないとは、言ってないですよ」
「……ずるいじゃん」
彼の口調は相変わらず軽い。けれど、その目は決して軽くない。私は思わず息を呑んで、拗ねたみたいな言い方になってしまう。彼はそんな私に眉を少し下げて、困ったように微笑んだ。
「お互い様じゃないです?」
今度は私が眉を寄せる番だった。彼の微笑みは崩れない。それでもどこか、控えめだ。
「私だって……行かないとは、言ってないもん」
「休みって言ってましたね」
ほとんど間を置かず返ってくる。その速さに、胸の奥が小さく揺れてちゃんと覚えていたのだと知る。彼はほんの一瞬だけ視線を外し、それから続けた。
「浴衣、着ないって言いましたよね」
「……たぶん、って言った」
「ええ。でも、迷ってる間がありましたよね」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。花火の光が帯の結び目を照らす。どうしてそんなことがわかるのと言いかけて飲み込む。
スマートフォンの、あの小さな画面越しのわずかな沈黙まで、透かされていたのかもしれない。また大きな光が弾ける。白と金の火花が夜を満たし私たちのあいだの空気を一瞬だけ透明にする。
「向いてないって、言ってたくせに」
「向いてないのは、その真ん中にいるほうです」
私は降参したみたいにして小さく息を吐いた。少しだけ距離が近づく。触れない距離が、ほんのわずかに縮まる。
「遠くからちょっと見えるくらいがちょうどいいって、俺、言ったでしょ」
「……仕事でしょ」
「ええ。仕事です」
真面目な声。それから、ほんのわずかに柔らぐ目元。黄色い髪が夏の終わりの風に揺れている。
あの日、屋上で聞いた言葉が蘇る。俯瞰する、という、あの響きが——。
「でも、怪我人見つけたら、放っておけないじゃないですか」
自分の足元が急に現実味を帯びる。鼻緒の跡がじんわりと熱を持つ。花火が大きく開く。色とりどりの光が彼の瞳に映り、そのなかで、私の姿もきっと小さく揺れている。
「行かないって言ってたから来てるの私だけだと思ってた」
ぽつりと落とす。相変わらず根に持つ体質だなと自分にうんざりする。それでも隠せなかった。胸の奥にあった、ほんの少しの寂しさを。
「来てますよ。ちゃんと、俯瞰してます」
その言い方に胸の奥が震える。ここは人混みの中心ではない。高台の暗がり。けれど花火は真正面に上がり、私たちを同じ高さに置いている。
彼は、来ないと言った。私は、期待していないふりをした。それでも今、同じ光を、同じ角度で見上げている現実が、ここにある。
「でも俺、嘘はついてないですよ?」
「……」
「ほら。今、会場には行ってないでしょ?」
「……」
「あなたと二人きりで、会場から離れたこの高い位置に立ってる」
確かに……。私は何も言い返せない。下からは歓声が届く。けれどここは、音が少し遅れて届く場所だ。自分のなかの時間が、わずかにずれる。
「ほんと……ずるいヒーロー」
ようやくそれだけ言うと、胸の奥に残っていた熱が少しだけ、外へ逃げていく気がした。彼は、ふっと息を吐き言葉を返す代わりに、ゆっくりと視線を動かす。浴衣の襟元、帯の結び目、そして足元へ。まるで、確認するように、静かに辿っていく。その視線に触れられているだけで、身体の輪郭が少しだけ、はっきりする。
「浴衣姿。俺には見せる気がないっていうなら」
「……」
「もう、連れ去るしかないでしょ」
次の花火が大きく咲いた。夜空が白く弾ける。強い光が一瞬だけ世界の色を奪い彼の横顔を浮かび上がらせる。その表情は冗談と本気のあわいにあった。私は何も言えなかった。言い返せないのは悔しいからではない。胸の奥で、確かに何かが選ばれてしまったからだ。自分でもまだ、名前をつけられない感情が静かに形を持ち始めている。
見つめ合って、数秒。その沈黙を、彼がふっと外す。花火の残火がゆっくり落ちていく空へ視線を向けて、何でもないように言った。
「花火、好きです?」
不意の問いだった。答えを探そうとして言葉がうまく、見つからない。私は、曖昧に笑うだけになる。彼はその様子を気にするでもなく、まるで独り言みたいに続けた。
「俺は別に、好きでも嫌いでもないです」
「……」
「ただ——」
夜空にまた光が走る。大輪がゆっくりと散り、火花が夜へ溶けていく。
「世界中の火薬が全部、花火になればいいのになとは、思ってます」
その横顔は生粋のヒーローだった。冗談めかすこともなく誇らしげでもなく、ただ静かに言う。その声の温度が胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
光の粒が、重力に従うみたいに落ちていくのを私たちは黙って見上げていた。そのとき、花火の轟音に紛れて彼が何かを言った気がした。けれど言葉はよく聞こえなかった。音にさらわれてしまったみたいに形を持たないまま夜へ溶けていく。
地上から歓声が、遅れて届く。ここは、遠い。けれど遠すぎない場所でもある。人混みから少しだけ離れた高さで、花火は真正面に開いている。
彼の隣で見る花火は、どこよりも近くて、どこよりも静かだった。夜空に咲く光が、ゆっくりと消えていく。その余韻の中で私は自分の胸の奥にあった結び目が少しずつほどけていくのを感じていた。夏の終わりが静かに通り過ぎていく。その境目に、私たちは確かに、並んで立っていた。