その夜の空気は最初から少しだけ緩んでいた。仕事終わりの飲み屋街は、いつもより人が多く、声も笑いも、アルコールに溶けて、輪郭を失っている。ネオンは、いつもなら過剰なほど鮮やかなはずなのに目に映る色はどこか滲んでいて輪郭が曖昧だった。たぶん、私自身が少し、飲みすぎていたせいだと思う。
最初は「じゃあ一杯だけ」と本当に軽い調子で口にした。それが二杯になり、三杯になり、気づけば私は、グラスの底に残る氷を見つめながら、普段よりも、ずっとよく喋っていた。言葉が先に出て考えがあとから追いつく感じ。嫌いじゃないけれど、好きとも言い切れない、あの感覚。
今日は、ホークスと待ち合わせをしていたわけじゃない。正確に言えば「偶然彼が近くにいた」だけだ。互いに仕事を終えて、それぞれの時間が少しだけ重なった。それだけの距離感。約束ではなく、選択でもなく、ただの、��偶然�≠フ接触。
笑っていたと思う。楽しかったのだと、思う。店を出て夜風が頬に触れた瞬間、視界がわずかに揺れた。足取りはちゃんとしているつもりだったし、実際、まっすぐ歩けていないわけでもない。ただ、意識のどこかで自分がいつもより無防備な位置に立っていることだけは、はっきり分かっていた。それでも私はその感覚から目を逸らした。飲み屋街という場所が持つ『人がいる』『誰かが見ている』という雑多な安心感に、無意識のまま体重を預けてしまっていた。
「ねえ、おね〜さん♪ 今からどこ行くの?」
声をかけてきたのは、見知らぬ男だった。振り向くと二人組で、年齢は私とそう変わらないか、少し上くらいに見える。相手も酔っているのは、一目で分かった。
そして距離がやけに近い。これが、自意識過剰だと言い聞かせる余地が、残らないくらいには、はっきりと近すぎる距離だった。
「俺たちさぁ〜、友達待ってて」
もう一人がこちらの反応を待つでもなく言葉を重ねる。私はあえてその場から動かず笑顔だけを残した。
「それなら、ちゃんと待ってた方がいいですね」
「そうなんだけどさ。おねーさん、可愛いから」
「ね。少しくらい、いいじゃん」
その「少し」というのが、どれくらいの時間でどこまでを含むのか。考える前に、男の手が私の進路を塞ぐように伸びてきて簡単に触れてきた。逃げ道を塞ぐ、遠慮のない詰め方で。
あ、これは——。頭の奥で小さく警鐘が鳴る。けれど身体がすぐに反応してくれない。声を強く出せばいい。はっきり拒めばいい。分かっているのにそれができない。まずい。飲みすぎたか……判断がどうしても鈍くなる。周囲には人がいる。助けを求めれば、誰かが気づくはずだ。しかし、その「はず」に、私は完全に甘えていたのだ。
「ねえ、ねえ。迷惑って顔してない?」
「ほら、そんな怖そうじゃないでしょ?俺たち」
相変わらず、軽い調子で投げられる言葉。軽いからこそ、こちらの拒絶をすり抜けて、喉の奥に引っかかったまま消えてしまいそうになる。
それも無理はない、と、どこか他人事みたいに思った。何せ私は今、頭が少し回らなくなる程度には、ちゃんと酔っていた。言葉を選ぶより先に場の空気に合わせてしまうくらいには。
「いえいえ……迷惑、っていうほどじゃ——」
「じゃあ、平気なんだ?」
「うん、大丈夫だよね?」
「え、ええ……大丈夫、です」
条件反射みたいに口から出た言葉に、胸の奥がひやりとした。大丈夫じゃない。全然、大丈夫なわけがない。そんなこと、絶対にない。
「ほら、やっぱり」
「なんだよ、最初からそう言えばいいのに」
笑い声が近い。私はここでようやく一歩後ろに下がった。けれど掴まれた腕は簡単には離れず、むしろ、力が込められて引き寄せられる。思わず「うおっ!」と、品のない声を発してしまった。
「おねーさん、ナンパくらいで怯えるタイプじゃなさそうだしねー」
「それとも、もっと痛くて、酷い方が好み?」
耳元に落とされる、生々しい声。きゅ、と目を瞑った、その瞬間——背中に、はっきりと大きな影が差した。空気の流れが変わる。夜風の質が、一段階だけ冷たくなった。
「——それ、迷惑そうに見えてないなら。相当、目が悪いですねぇ」
ずいぶんと低い声だった。街のざわめきに埋もれない、妙に、輪郭のはっきりした音。続けて、落ち着いた調子で言葉が重なる。
「かわいいおねーさん、困ってますけど」
肩口にふわりと羽根の感触が触れた。その存在を意識した途端に胸の奥がすっと静まる。理由を考えるよりも先に、身体がもう安心を思い出してしまう。理屈じゃない。ただ、これこそ条件反射みたいな、どうしようもない安堵だった。
「なんだよ、おまえ……」
心底不満げな声が上がる。男たちの視線はもう私には向いていなくて背後に立つ彼を値踏みするように見上げていた。さっきまで私に向けられていた無遠慮な近さが、嘘みたいに引いている。
「うそぉ?俺が誰かもわからんくらい酔う払うとーと?おにーさんたち」
「……はぁ?」
「うわ、ほんとに分からん感じです?その状態で絡むの、だいぶ危ないと思いますけど」
「……」
「まあ、一応。通りすがりのヒーローなんで」
軽い調子だった。でも笑っていない。声の奥に含まれた温度の低さが、はっきり伝わってくる。人を刺すほど鋭い、あの鷹のような視線。
「これ以上、距離詰めるなら、職質コースになるんで。おすすめしませんけど」
冗談みたいな言い方なのに空気が一変したのが分かった。街のざわめきは変わらないのに、この小さな範囲だけ、力関係が書き換えられる。
男たちは顔を見合わせ、舌打ちをひとつ残してそそくさと、人混みに紛れていった。その背中が完全に見えなくなるまで、彼は動かなかった。
「……なにしてんですか」
少し間を置いてこちらに向けられる声。さっきまで張りつめていた気配が、すっと緩んでいる。
「大丈夫ですか」
問いかけられた瞬間、緊張がほどけたせいか、足元が、わずかに揺れた。自分でも気づく前に、身体が傾く。
「う、うん……」
そう答えた、次の瞬間、肩を引き寄せられた。支え方は、必要最低限だった。触れているのに、触れていないみたいな距離。それでも、絶対に、離さないという意思は、痛いほど伝わってきた。
「ほら、立てます?」
赤い羽根が、視界の半分を覆う。ネオンの光が羽毛を透かして、柔らかく滲んだ。
「何杯飲んだんですか」
「……覚えて、ない」
「はあ……。これは、一人で歩ける状態じゃないですね」
独り言みたいに呟きながら彼は私を守る位置に立つ。ほんの半歩、前。あまりにも自然で、気づいたときには私はもう、その影の内側に収まっていた。
「送ります」
「でも……」
「拒否権、今はないです」
淡々とした声だった。命令ではなく判断。歩き出すと、彼は常に私と人混みのあいだに立った。誰かが近づきすぎれば、背中の剛翼がさりげなく壁になる。視線を向けるだけで、空気が変わる。その背中を見ながら、私はようやく実感し始めていた。自分が、どれだけ無防備だったかを。助けられたというより、守られている、という感覚。それが少しだけ怖かった。彼の羽根の下はあまりにも安全で、あまりにも、現実的だったから。
このヒーローがいなければどうなっていたのか想像が追いついた途端に、背筋が冷たくなった。だから私は、何も言えなくなった。歩きながら、ただ、彼の隣にいることしかできなかった。
『正義』という言葉の意味を、私はこのとき、まだ、ちゃんとは分かっていなかった。
しばらくのあいだ私たちは何も言わずに歩いていた。ネオンの光が、舗道の上をゆっくり流れていき、看板の色が変わるたびに、足元の影が淡く形を変える。
人の声は、相変わらず周囲に満ちているのに、私たちのあいだだけは言葉が落ちる場所を失ったまま、ただ歩くという動作だけが、静かに続いていた。隣を歩いているはずなのに落ち着かない。私はどこか、これから叱られる順番を待っているような気分で胸の奥に行き場のない呼吸を抱えていた。言葉を探しているわけではないのに身体のどこかがずっと身構えている。肩の力を抜こうとしても、うまくいかない。その沈黙を破ったのは彼の方だった。ホークスは前を向いたまま視線を動かさずに口を開く。声は低めで街のざわめきの下に沈むような響きで。
「……なんで、あんな無防備なんすかねぇ」
問いかけというより、独り言に近い。それでも向けられている先が私であることは、疑いようがなかった。
私は横目で彼を見た。歩幅は変わらない。肩の高さも視線の向きも、普段と同じに見える。それなのに、言葉の輪郭だけが少しだけ硬い。
「酔ってるのも分かってるし話してただけなのも見てましたけど」
淡々と続く声。彼の足音は一定のまま、歩調も変わらず、夜の舗道を踏んでいる。
「それでもああいう距離感は普通に危ないです」
責め立てる調子ではない。けれど言葉の流れが止まらないあたり、軽く流すつもりもないのだろうと分かる。私は視線を前に戻した。街灯の白い光が道路に落ちてそこを人の影が横切っていく。その中に、自分の影も混ざっているはずなのに、うまく実感が追いつかない。
「名前さん、自分がどう見えるか、あんまり深く考えないタイプですよね」
そう言われたとき胸の奥が小さく揺れた。私はすぐには答えられない。自覚がないわけではないけれど、言葉にすると違う形になってしまう気がして、口を開くことができない。
「それ、たまに
その続きが落ちてきた瞬間、胸の奥がもう一度だけ動く。
ヒーロー。言葉の意味は広いはずなのに、私の中では、ひとりの人物の姿しか浮かばなかった。何かを言い返そうと試みる。でもやっぱり言葉が見つからない。言い訳も、説明も、どれも正しい形には思えなかったから。
「助ける側がいるから大丈夫じゃないんですよ」
彼は少しだけ矢継ぎ早に続ける。怒っているというより、考える前に、言葉が先に出てしまっているような速度だった。
「助けられなくなる状況も普通にある」
それでも声は抑えられている。怒鳴るわけでもなく、足を止めるわけでもない。ただ言葉だけが確実にこちらへ届く。
「今日みたいな状況で俺がいなかったらどうするつもりだったのか」
そこまで言って、語尾が、ほんの少しだけ強くなった。私は前を向いたまま唇を噛んだ。
反論は思いつく。酔っていたから仕方ないとか私だってちゃんと交わしていたつもりだったとかそんな説明ならいくらでもできる。でも、それを今言うのは違う気がした。だから結局、出てきた言葉は、同じだった。
「……ごめん」
情けないくらい同じ言葉しか出てこない。謝ることしか、私にはできない。案の定、彼は小さく息を吐いた。ため息というほど、露骨ではない。言葉を一度、喉の奥に戻すためのような呼吸。
「謝られると、なかったことみたいになるんで」
そう言ってから短い沈黙のあと、ホークスは、また少しだけトーンを落とす。
「次からはほんと、気をつけてくださいね。それだけでいいんで」
それ以上は言わなかった。私たちは、触れない距離を保ったまま、歩幅だけを揃えて、夜の街を抜けていく。肩の高さも腕の位置も互いの輪郭を侵さない、ぎりぎりの場所で並んでいる。
叱られているはずなのに、不思議なことにその言葉の中にあるのは管理でも支配でもなかった。もっと単純で、もっと現実的なもの。ただ無事でいてほしいという、ひどく現実的な願いだった。
私は黙ったまま、彼の隣を歩き続ける。足元の舗道を確かめるように、一歩ずつ、踏みながら。さっきよりも、ほんの少しだけ慎重に。
「ホークス、ごめんね」
呼びかけた声が、思ったより頼りなく聞こえて自分でも少し驚く。胸の奥に溜まっていた空気をゆっくり吐き出して、乱れた呼吸を整えてから、私は続けた。言葉を出すまでに、ほんの少しだけ間が必要だったのは言い訳めいた内容になる事を自分でも分かっていたからだと思う。
「あのへんさ、結構ヒーローたちも多いから……油断してたっていうか、安心してたっていうか」
言い終えた瞬間、胸のどこかが、静かに沈む。自分でも苦しい言い訳だと分かってしまう。安心していた、という言葉の奥には、きっと、誰かがどうにかしてくれるだろうという甘えが混じっている。その程度のことを、彼が見抜けないはずがない。
ホークスは足を止めなかった。夜の舗道を変わらない歩幅で進みながら、前を向いたままほんの少し顎を下げ、短く息を吐く。その仕草が、怒りの表れなのか、それとも、ただ言葉を選ぶための間なのか、私には判別できなかった。
「……それが、一番危ない考え方なんですって」
声は低いけれど、怒鳴るわけでも、責め立てるわけでもない。ただ、事実を順序立てて説明するような落ち着いた調子。
「ヒーローが多いイコール、安全じゃないです」
彼は歩調を変えないまま続ける。街のざわめきの中でもアルコールが入っていたとしても、その声だけは、はっきりと耳に届く。
「多いってことは、それだけ人も集まってるし、酔ってる人も、空気読まない人も増える」
一瞬、言葉を探すように間が空く。彼が、次の言い方を慎重に考えているのが分かる。そして、「それに……」と、少しだけ声の勢いが落ちた。
「名前さんが安心してる顔してるときほど周りは油断しないんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は視線を落とした。アスファルトの表面にネオンの色が滲んでいて、その中を私たちの影が細長く伸びている。自分の表情が、どんなふうに見えていたのか、想像するだけで落ち着かない。彼は、静かに続ける。
「ヒーローがいるから大丈夫、じゃなくて」
「……」
「自分で自分を守る前提があって、その上でヒーローがいるんです」
その言葉は理屈として正しい。正しすぎるほど正しいからこそ、反論する余地がない。しばらくしてから、彼はようやくこちらをちらりと見た。視線はまっすぐで、でも責める色はない。何かを確認するような、落ち着いた眼差し。
「俺が近くにいたから、結果的に、何もなかっただけで……」
そこで、言葉を止める。最後まで言い切らない余白が、かえってその意味を、はっきりさせる。
「それを『平気だった』にしちゃうのはちょっと違う」
そのあと、短い沈黙が落ちた。夜風が、二人のあいだを通り抜けていく。
飲み屋街の匂いと、どこか遠くから流れてくる音楽が混ざって、空気がゆるく揺れている。
「……常に警戒心を持って、とは言わないです」
「……」
「でも、その無防備なの、ちょっとだけ控えめでお願いします。俺がいないときは、特に」
それは命令ではなかった。ヒーローとしての、諭しでもない。どちらかといえば個人的な願いに近い響きだった。
私は歩きながらその言葉の重さをゆっくり噛みしめていた。そんなふうに言われる資格が自分にあるのか分からない。けれど軽く受け流すこともできない。
「ひとつ——重要なこと、伝えておきますね」
「……」
「名前さんが無事でいることが、俺にとっては、何よりも一番、大事なことなんで」
彼はそう言い切ると、それ以上何も付け足さなかった。余計な説明も冗談も挟まないまま、再び視線を前に戻す。
歩く速度は変わらない。肩が触れない距離も、そのまま。それなのに胸の奥がじんと熱くなる。先まで残っていた居心地の悪さとは違う、もっと静かな感情が、ゆっくり広がっていく。私は何も言わないまま、歩幅をほんの少しだけ調整した。さっきよりほんのわずかに近い距離でヒーローの隣を歩く。
しばらく黙って歩いていると、ふいに彼が口を開いた。足取りは変わらない。視線も前を向いたまま、まるで夜道の延長に言葉を落とすみたいな調子で。
「そもそも……」
その前置きのあと、少しだけ間があった。私は隣を歩きながら、無意識に呼吸を浅くする。何か続くのだろうと思いながら言葉の行き先を待ってしまう。そして彼は、静かに続けた。
「誰でも助けてくれれば、それでいいんですか」
一瞬、意味を取り損ねてしまい「え?」と間の抜けた声が出る。問いの形は単純なのに、言葉の奥にあるものがすぐに掴めない。
歩きながら私は、横目で彼を見た。ホークスは相変わらず前を向いたまま、視線を少しも動かさない。
「ヒーローなら、誰でもいいのかって聞いてるんです」
語尾は軽い。けれど、その奥にだけ妙に澄んだ緊張がある。軽く聞いているようでいて、実は、どこにも逃げ場がない質問。私はすぐに答えられなくなった。問いかけではあるのに、これは確認ではない。踏み込みすぎないぎりぎりのところで差し出された、本音の縁みたいなものだった。
「そんな……」
否定しようとして言葉が途中で止まる。誰でもいいわけがない。けれどその理由をうまく言葉にできない。
「誰でも、ってわけじゃ……」
「じゃあ、どういう人ならいいんです?」
間を置かずに重ねられる問い。歩幅も、視線も変わらないまま、彼の声だけが続く。胸の奥が、ゆっくり締まっていく。まるで決められた正解を選ばなければならないみたいに考えてしまう自分がいる。その時点で、もう遅いのだと、どこかで分かっているのに。
私は少しだけ、視線を落とした。ネオンの色がアスファルトににじみ、その上を人影が横切っていく。
「……ちゃんと、見てくれる人、とか」
「……」
「助ける前に、状況を見てくれる人、とか……」
自分で言いながら、その条件がどこか、抽象的すぎる気がして落ち着かない。けれど今の私にはそれ以上の言葉が出てこなかった。彼は短く息を吐いた。
「なるほど」
それだけを言って、数歩ぶんの沈黙が落ちる。靴底が舗道を踏む音だけが、静かに続いていく。
きゅっと胸のどこかが静かに締めつけられる。自分でも分かるくらい、言い訳の輪郭が甘かったのは自覚している。安心していた、という言葉の中に、誰に対しての、どんな期待が混じっていたのかを、掘り下げる勇気がなかったからだ。
「でもほんと、実際に他にもヒーローが見えて」
「……」
ホークスはすぐには返事をしなかった。歩調も視線も変えないままで、ほんの数歩ぶんの沈黙が落ちる。その間に、ネオンの色がまたひとつ切り替わり、舗道の影が別の形になる。
「……そっか」
ようやく返ってきた声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「安心できる場所だと思ってたんですね」
否定も肯定もない。ただ事実を受け取るみたいな言い方で、胸の奥が、また小さく揺れる。
「でもね」
「……」
「ヒーローが多い場所ほど目も多いし隙も増える感じなんですよね、実際のところ」
軽口に寄せた言い回しなのに視線は前を向いたまま、逃げ道を作らない声音だった。私は思わず小さく息を吸う。
「俺が言いたいのは信じるなって話じゃなくて」
「……」
「自分の身は最後まで、自分で守れる位置に……置いといてほしいってだけです」
言葉を選ぶように彼は言い切った。それは命令でも独占でもなくて、ただの純粋なお願いに近かった。その事実が、胸にじわりと染みる。
「……うん」
短く返した声は、今度は、さっきより少しだけ安定していた。肩に入っていた力がようやく抜け始める。それ以上、会話は続かなかった。けれどさっきまで胸の奥に溜まっていた、行き場のない呼吸はいつの間にか形を変えて静かに流れ始めている。
触れない距離のまま並んで歩く。その間隔が、さっきよりもわずかに楽だったのは、きっと気のせいじゃない。私は足元を確かめるように、一歩ずつ、さっきより少しだけ慎重に踏みしめながら彼の隣を歩き続けた。
「じゃあさ。さっきの俺は、セーフです?」
「……?」
「あなたの求める、
言い方は軽い。空気を、変えようとしてくれているのだ。けれど、なぜか笑う気にはなれない。私は足を止めそうになり慌てて歩調を合わせる。胸の奥がまだ落ち着かない。私は前を向いたまま「うん」と、小さく答える。
「ホークスは、ちゃんと見てたよね」
それ以上の説明はできなかった。でも、それで十分だと思った。彼は何も言わない。ただ、歩く速度をほんの少しだけ緩める。それからしばらくして彼が、ぽつりと言った。
「それなら、いいです」
それ以上の言葉は続かなかった。さっきの問いが何を意味していたのか、私も、彼も、はっきりした形では、口にしないまま。けれど、夜の街を並んで歩きながら誰でもいいわけではないということだけは、互いに分かってしまっていた。その事実が、なぜだか胸の奥に残る。私もしばらく、何も言えなくなっていた。そのまま特別な会話は生まれないまま、歩き続ける。街の明かりが少しずつ疎らになり、駅前の喧騒も背後へ遠ざかっていく。並んでいるのにどこか別々の思考を抱えたまま、同じ方向へ進んでいる。そんな感覚だけが静かに残っていた。
「ここまでで大丈夫そうですね」
目的地の少し手前で、彼が足を止めた。それは夜道の途中で線を引くみたいにきちんと区切りをつける声だった。
送り届ける役目はここまで。その意味が言葉の調子の中に、静かに含まれている。私はその横で立ち止まり、彼の背中を見た。街灯の光が羽根の縁にかすかに触れていて、その輪郭が夜の空気の中に浮かび上がっている。ほんの数歩、先にいるだけなのに、そこから先へは踏み込めない距離がある。
「……うん。ありがとう」
そう答えると、彼は一度だけ、こちらを見た。短い視線だった。何かを確認するようでもあり、ただ挨拶を交わすためのものでもある。そのあと小さく頷く。
「……じゃあ。今日は、ほんとに」
「……」
「部屋に入るまで、気をつけてくださいよ?」
声は落ち着いていた。彼はそれだけ言うと私に背を向けた。羽根を広げる前の、ほんのわずかな間。飛び立つ準備をするための沈黙。その背中を私は見送るつもりだった。本当は、それでよかった。ここで、終わるはずの夜だったのに——。
「あの、さ……」
気づいたときには、声が出ていた。自分の声を聞いた瞬間、遅れて理解する。呼び止めてしまったことに。彼は振り向かない。ただその場で足を止める。羽根も広げないまま、動かない。
逃げ道はまだある。今なら「なんでもない」と言える。適当な一言で終わらせられる。でも——それでも。
「ホークス、だけ……」
喉の奥が少し詰まる。言葉は、ぎこちなく出てくる。それでも、どうしても止まらなかった。
「助けてもらうの、ホークスがいい」
「……」
「ホークスが、いいよ……」
言い終えた瞬間、街の音が遠のいた気がした。人の声も、車の音も、ネオンの光さえも、どこか後ろに退いてしまう。彼は、そのまま動かない。振り向かない。声も出さない。
——言ってしまった。胸の奥に後悔と静けさが同時に落ちる。取り消せない言葉が、自分の中でゆっくり形を持ちはじめる。
しかし、次の瞬間、彼が勢いよく振り返った。そしてそのままずかずかとこちらへ歩いてくる。距離が一気に詰まる。逃げ場がなくなるほど近くまで。目の前に、剛翼のヒーローが立っている。
視線が、真正面からぶつかった。鋭い。さっきまでの落ち着いた色が消えている。その眼差しの中にある感情を私はうまく読み取れない。思わず目を逸らす。その直後、ホークスが吐き捨てた。
「ほんっと……そーゆうとこすよっ!」
低く、強い声だった。叱責とも、苛立ちとも、焦りともつかない感情が、その短い言葉の中に、押し込められている。
「人の気も知らんで、そげなこと言うの——!」
続きかけた言葉を彼は途中で止めた。口の中で一度だけ何かを飲み込む。それから、声の向きを変えるように言った。ほとんど、怒鳴るように。
「……じゃあ、気をつけて帰ってください!」
「え……あ、の……」
「必ず着いたら連絡して! 絶対ですからね!」
言い切ると同時に、彼は一歩下がる。剛翼が、夜の空気を大きく払った。それ以上、何も言わせない速度で、彼は夜空へと飛び立つ。赤い羽根が街灯の光を一瞬だけ弾き、すぐに、夜の闇の中へ溶けていった。残された私は、その場に立ち尽くしていた。身体の奥に、まだ、熱が残っている。さっき口にした言葉が、胸の内側でゆっくり形を持ち続けている。
——ホークスだけ。ホークスがいい。
その言葉を、私はもう一度、心の中で繰り返す。誰に聞かせるわけでもなく、ただ、自分の中で。
彼を怒らせた理由。そしてきっと、彼が一番、聞きたくて、同時に聞くべきではなかった言葉。
夜風が、静かに通り過ぎる。さっきまで、彼が立っていた場所には、もう、何も残っていない。それでも、そこに確かに存在していた温度だけがまだ消えずに残っている気がした。私はゆっくり息を吐き空を見上げる。高いところで、どこかのビルの光が、小さく瞬いている。あのヒーローはもう、見えない場所まで行ってしまっただろう。それでも、夜の空はさっきと同じ広さで、静かに広がっている。その下で私は一人しばらく動けずに立っていた。
言葉というものはときどき、触れてはいけない場所に触れてしまう。けれど、それでも、言ってしまったことを私はきっと後悔しないのだろうと思った。夜は深く、街はまだ明るく、空だけが、ひどく、静かだった。