私もずいぶんと、図太い女だなと思う。あんなふうに言葉を投げておいてその数日後には何事もなかったみたいな顔で、ホークスとご飯を食べに行っているのだから。自分で振り返ってみても、その平然とした振る舞いには少しだけ呆れる。
 約束の取り方も、店の選び方も、メッセージのやり取りも当日の会話の運び方も、驚くほど普段通りだった。その、『普段通り』が逆に胸の奥に引っかかるような夜だった。わざとそうしていることを、私自身が一番よく分かっているからだ。
 こういう流れになるように仕向けているのは、ひとえにこの関係を壊したくないからだと思う。
 あの日の言葉を何かの始まりにしてしまうのが怖かった。だから私は、何事もなかった形に戻すことを選んだのだ。

「今日は、このお店なんだ」

 居酒屋の暖簾をくぐりながら私が言うと、彼は肩越しにこちらを振り返る。

「空いてたんで。待ち時間ナシ」
「うん、いいね」

 そう答えて私たちは、カウンター席に並んだ。この店は、照明が少し落ち着いていて、隣同士に座ると、自然と会話の距離が決まる。肩が触れるほど近くはないけれど、互いの声がよく聞こえる程度の距離。隣に並んで軽口を交わしながら仕事の話を少しして、笑うところではちゃんと笑う。誰が見ても仲のいい二人に見えたと思う。店内はいつもよりも静かだった。厨房の奥から油の弾ける音が時折聞こえてカウンター越しに湯気がゆっくり上がっている。
 私は隣に座った彼を横目で見た。本来ならこの距離は、自然に落ち着くはずなのに、彼はやけにメニューを見る時間が長い。ページをめくる指の動きがどこか慎重だ。決められないというより、決めるまでの時間を少し引き延ばしているように見える。私はそれを待つふりをしてグラスの水を一口飲んだ。冷たい水が喉を通ると胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけ落ち着く気がした。私が「今日は、軽めにしとく?」と声をかけると彼はようやく顔を上げた。

「ですね。揚げ物少なめで」
「うん」
「あ、でも、これ美味しそうじゃないです?」

 彼が指したのは結局、大好物の唐揚げだった。それに気づいて私は思わず小さく笑ってしまう。

「結局、揚げ物頼むんだ」
「サーセン。学習能力、低めなんで」

 言葉の形はきれいに整っている。いつもの軽いやり取り。けれど、そのあとに残る空気がほんの少しだけ長く続くのを私は気付かぬふりをした。注文を終えて料理が来るまでのあいだ取り留めのない話をする。仕事の愚痴や、端末の仕様変更。最近増えた問い合わせの話。私は淡々と話し彼は相槌を打つ。タイミングも内容も、きちんと噛み合っている。まるで練習してきた会話みたいに、すべてが自然に流れていく。

「——そう言えば。最近また、忙しそうすね」

 彼がそう言う。その言葉のタイミングに合わせたみたいにして、注文した料理が運ばれてきた。湯気が立ち上り、揚げ物の香りが広がる。店員が皿を置く間、彼の視線は私の手元に落ちていた。グラスの傾け方や、テーブルに置いた手の位置をなんとなく確認しているみたいだった。私は軽く肩をすくめて言葉を返す。

「まあねー。季節柄?」
「なんそれ。季節がら?」
「そ。この時期はみんなヒーロースーツを冬仕様に着替えるでしょ」
「あー、ね?」
「だからポケットとかに入れて落としたり、無くしたりね」

 言いながら割り箸を二本掴んでその一本を彼の手前に置く。唐揚げの衣がきつね色に光っている。

「なるほど。夏はみんな、どうしてんすか?」
「どうなんだろ。そこまでは聞いたことない」
「そっか」
「ホークスのほうこそ。任務、立て込んでるんでしょ」
「んー......」

 曖昧な笑みを浮かべながら彼は、グラスを持ち上げた。ビールを一口飲んでから少しだけ考えるような顔になる。

「立て込んでる、というより、考えることが多い感じですかね」

 その言葉が落ちたところで、また、違う料理が運ばれてきた。会話は自然に中断される。皿から立ち上る湯気がカウンターの上で広がり私たちは無言のまま食べ始める。彼の食べ方はいつもより少しゆっくりだった。口に運ぶ速度も噛む回数もどこか慎重だ。私は横目でその様子を見ながら、唐揚げを一つ口に入れる。熱い油の香りが広がりカウンターの向こうでは、店員が別の皿を並べている。店内のざわめきは穏やかで私たちの会話はその中に静かに紛れていく。
 普段と同じ夜。普段と同じ距離。それなのに、どこかで、私たちはまだ、あの日の続きを抱えたまま座っている気がしていた。

「……味、どうです?」

 彼がそう尋ねたとき、私は箸を止めた。湯気の向こうから届いた声はいつも通り軽くて、ただ、料理の感想を聞いているだけの調子に聞こえる。けれどその声の奥にどこか様子を確かめるような気配が混ざっている気がして私はほんの少しだけ息を整えてから答えた。

「うん、美味しい」
「よかった。今日は当たりだぁ」

 その言葉の「今日は」に特別な意味が含まれていないふりをする。私も、彼も。それ以上、何も言わずしばらくのあいだ箸を動かした。唐揚げの衣が箸先でわずかに音を立てて割れ、油の香りがふわりと広がる。カウンターの向こうでは店員が鍋を揺らしていて、油の弾ける音が一定の間隔で続いている。そんな空気の中、彼がぽつりと問う。

「最近さ……他の誰かと、飲んでます?」

 唐突な質問だった。けれど声の調子はあくまで雑談の顔をしている。私は箸を持ったまま、少し考える。質問の意図を探ろうとしてしまう自分に気づいて、内心で小さく苦笑した。

「んー、たまに。誘われれば、って感じかな」
「そ、すか」

 私が答えると、彼は短くそう言って、軽く頷くだけに留めた。それ以上は踏み込む様子はない。代わりに彼は、皿を一つ、こちらのほうへ静かに寄せる。

「これ、食べます? うまいすよ」

 差し出される皿の距離が、やけに丁寧だった。触れるわけでもなく、押しつけるわけでもない。こちらが、受け取りやすい位置で止める、慎重な動き。

「うん。ありがとう」

 私はそれを受け取りながら、ふと気づく。彼は聞かなかったことを、増やしている。気になっているはずのことをそのままにしておく。踏み込める場面でも、わざと止まる。それが優しさなのかそれとも距離の取り方なのか、私にはまだ分からない。

「……ホークスさ」

 今度は私から切り出すと「はぁい」と、間延びした調子ですぐに返事が返ってきた。声の速さがいつもより少しだけ早い気がした。

「最近、前よりさらに、距離感うまいよね」

 私は軽い調子で言った。冗談の形を借りないとうまく、口にできない言葉だったから。彼は一瞬だけ片眉を歪めるようにして、首を傾げる。

「褒めてます?」
「たぶん?」
「たぶんかあ」

 彼は笑った。口元は、いつものように柔らかく上がっている。けれど、その瞳の奥はまだ静かなままだった。

「名前さんが嫌なこと、なるべく増やしたくないだけですよ」

 また、さらりと言う。深い意味など、どこにもないような言い方で。

「そのほうが、楽じゃないですか」
「……楽、ねぇ」

 ——楽。その言葉が妙に胸の奥に引っかかって舌の上に油の味とは違う、もう少し重たい感触が残る。私はそっと、グラスを持ち上げる。水滴が落ちて、冷たいアルコールが喉を通ると少しだけ気持ちが落ち着く。

「ホークスは、それでいいの?」

 私がそう聞くと、彼は、少しだけ考えるように小さく唸った。まつ毛が伏せられて、視線が皿の上に落ちる。そのわずかな時間のなかで、何かを選んでいるようにも見えた。

「今はね。それが、正解だと思ってます」

 また、そういう言葉を選ぶのだ、いつだって、このヒーローは。曖昧で、逃げ道があって、でもどこか現実的な響きを。
 私はそれ以上、何も言わなかった。彼も、追わない。会話は自然と別の話題へ流れていく。そうして食事の時間は、静かに終わっていくのだ。

 会計のとき彼は当然のように立ち上がり、先にレジへ向かった。私はそれを止めるでもなく彼の後ろからついていくだけ。この流れも今では普段通りの選択である。
 店の外に出ると夜の空気が頬に触れた。店内の熱と油の匂いから解放されて、肺の奥まで冷たい空気が入ってくる。その空気が私たちのあいだに静かに滑り込みさっきまで張りつめていたものをほんの少しだけ、緩めた気がした。
 店を出てしばらく私たちは並んで歩いていた。先まで店の中に満ちていた油の匂いや、人の声はもう背後に遠のいて、夜の空気だけが静かに頬に触れている。街灯の光が舗道を淡く照らし、その下を私たちの影が細長く伸びている。
 肩が触れることはない距離。でも、離れているわけでもない距離。この歩幅、この並び方、この沈黙の長さ。どれも、私たちにとってはもうすっかり馴染んだものになっている。それでも、胸のどこかに残っている違和感が、完全には、消えていなかった。さっき店の中で交わした言葉の端や互いに触れずに残した問いがまだどこかに引っかかっている。私は少しだけ視線を前に向けたまま口を開いた。

「このあと——」

 言葉を続けるつもりだった。たとえばもう少し歩くかとか、どこかのコンビニでも入って温かいコーヒーを買うかとか、そんな当たり障りのない提案を。けれど、その続きを口にするより先に、彼の声が重なる。まるで、練習したかのように。

「うち、寄ります?」

 あまりにも自然なタイミングだった。こちらの言葉の続きを知っていたみたいに、迷いなく重なった一言。私は一瞬だけ、彼を見た。ホークスは前を向いたまま歩いている。表情も声の調子も、特別なものは何もない。ただいつもの流れの中でいつもの提案をしただけ、という顔をしている。だからこそ、断る理由が見つからなかった。この流れはもう何度も繰り返してきたものだ。食事をして、少し歩いて、それから彼のセーフハウスに寄る。ベランダで話をして、夜風を吸い込んで、取り留めのない会話をしてから、それぞれの帰る場所へと戻る。
 特別なことは何も起こらない。それが私たちのいつもの形。だから私は小さく頷く。そう、練習したみたいにして——。

「……うん」

 それだけで十分だった。彼もそれ以上は、何も言わない。私たちはそのまま歩き続ける。会話もなく足音だけが舗道に静かに落ちる。こうして、いつもの流れに乗ってしまう。考える隙もなく、疑う間もなく、気づけば同じ方向へ歩いている。
 そのときの私は、まだ知らなかった。この夜があとになって、こんなふうに胸に残るものになるなんて。私も彼も、本気でそんなことを思ってはいなかったはず。飲み足りない、というほどでもないのに、流れで彼のセーフハウスへ向かう——そんな夜の習慣は、もう、説明の要らないものになっていた。最初はきっとどちらかが提案して、もう一方が少しだけ迷って、それから歩き出していたはずなのにいつのまにかその迷いの部分だけが静かに省略されて今では自然に同じ方向へ足が向く。
 エレベーターの中でも、私は余計なことを考えないようにしていた。階数表示の数字が、ひとつずつ変わっていくのを見つめながら、頭の中で、『何も深読みしない』『考えない』と繰り返す。それはこの関係を保つための小さな作法みたいなものだった。
 廊下に出て、彼が鍵を取り出す。扉の前で立ち止まり、鍵を差し込む背中を私は、少し後ろから眺めていた。肩の線、羽根の影、ドアノブを回す手の動き。そのどれもがもう見慣れたものなのにこうして無言で見ているとどこか距離の測り方を確かめているような気分になる。部屋に入ると、ホークスが先に靴を脱いだ。ジャケットを壁際のフックに掛け、何事もない顔で冷蔵庫を開ける。その間に私はソファへ腰を下ろした。クッションが静かに沈む。この部屋に来るたびに感じる少しだけ柔らかい沈み込み。何度も座っている場所なのに今日はやけに感触がはっきりしていた。

「何か観てもいい?」

 そう言いながら、私は、リモコンを手に取る。テレビをつけると、画面の光が部屋の空気を一段明るくした。ニュースに、バラエティ。深夜帯のドラマ。チャンネルを変えるたびに、映像が入れ替わり、画面の色が落ち着きなく移り変わる。
 どれもしっくりこない。結局サブスクを開く。それでも決めきれないまま指先だけが同じ動きを繰り返す。スクロールして止めてまた動かして。リズムだけが残っているみたいに手が勝手にその動きを続けている。と、その時だった。グラスがふたつ、こつりとテーブルの上に置かれる。氷が軽く触れ合い小さな音を立てる。同時にソファがきし、と控えめな音を鳴らした。
 私は顔を上げる。さっきまで少し離れた場所に立っていたはずのホークスが、いつのまにか隣に腰を下ろしていた。距離は肩が触れないぎりぎりを保っている。近いと感じるほどではない。でも意識すれば、すぐ触れてしまうような距離感。

「……さっきから、ずっと変えてますよね」
「……」
「観たいの、決まらん?」

 声は低めで抑えられている。怒っているというほどではないけれど、機嫌がいいとも言えない、その中間。私はリモコンを握ったまま、少しだけ首を傾ける。ん?どうして機嫌が悪いんだろう。私、何かしたっけ……。

「うん……なんか、これってのがなくて」

 そう答えると彼は画面を一度だけ見た。けれどその視線はすぐに、違う位置へと戻る。

「ホークスは? 何か観たいものないの?」
「別に、何でもいいですけど」

 そう言いながら、ソファの肘掛けに腕を乗せて体重を預ける。首を鳴らす仕草に、なぜか緊張が走る。

「迷ってるときほど、適当でいいと思いますよ」

 言葉自体は穏やかだった。それなのに胸の奥が落ち着かない。理由はよく分からない。ただ何かが少しずれている気がする。私はそれを考えないふりをして、リモコンを膝の上に置いた。沈黙が落ちる。室内にはテレビの音だけが続いている。新作のナレーションが部屋の空気を満たしているのに隣に座る彼の存在の方が、ずっと強く意識に残っていた。
 そっと彼の横顔を盗み見る。ホークスは画面を見ていなかった。視線はテレビの先、前方の一点に固定されたまま眉がほんのわずか寄っている。

「……どうかした?」

 私がそう聞くと「いえ、別に」と返事は早かった。否定は迷いなく出てくるのに、その理由は、何ひとつ提示されない。その不一致が彼らしいと思う。だから私はそれ以上は追わずに背もたれに身体をそっと預けた。
 選ばない。踏み込まない。聞かない。この数年で覚えた正しい距離。けれど隣に座る彼の気配は妙に硬かった。それが不機嫌なのだと気づくのに少しだけ時間がかかる。怒っているというよりも言わないことを選んでいる顔だったから。

 とりあえずこれでいいか。そんな軽い気持ちで私は再生ボタンを押した。深く考えて選んだわけではない。最近配信に追加されたばかりの洋画というだけでほとんど反射的に決めたものだった。けれど、画面が進むにつれて、胸の奥に、違和感が溜まっていく。
 映画の導入は夜の街。ネオンの光、濡れたアスファルト、酔った足取りの女性。彼女は、誰かと電話をしているのか、笑いながら千鳥足で歩いている。画面の中の世界は、最初はどこにでもありそうな夜の風景だった。それが少しずつ変わっていく。瞬間、笑い声の後ろに別の足音が重なる。距離が、いつのまにか詰まっている。彼女はまだ気づいていない。そして、気づいたときにはもう遅い。ギャングの男たちに、腕を掴まれていた。
 まずい。その場面を見た瞬間、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。無意識に近い感覚だったけれど、この流れは絶対に今の私たちにもよくない展開が待っている。そう思った、次の瞬間だった。

「……俺が今、機嫌悪い理由、わかってます?」

 ホークスの声が映画の台詞よりも低くはっきりと耳に届いた。不意打ちに近い問いだった。

「……ん? 反抗期?」

 私は反射的に隣を見て、軽い調子で返す。これ以上、気まずくなるのが嫌だったから。けれど、ホークスは笑わなかった。画面を見ているようで見ていない。テレビの光が横顔を照らしているのに、視線はまっすぐ前、どこか一点に固定されたままだった。そして、淡々とした声で続ける。

「あーなる可能性があるって言ってたんすよ」
「……」
「さっき、ふと思い出しちゃったんすよねー」
「……」
「今、あの日の話をしてます」

 その言葉が落ちた瞬間、記憶が静かに繋がる。飲み屋街。しゃがみ込んでいた私。あの男たちの距離。そしてそのあとに続いた彼の叱責。思わず小さく息が漏れた。それでもホークスは続ける。

「この女の人、何も悪いことしてないですよね」
「……」
「酔ってただけ。無防備さらけ出して楽しんでただけ。たまたま運が悪かった」

 そこで言葉を止める。ほんの短い沈黙だった。私は何も言わない。いや、言えなかった。

「でも、そういう��たまたま�≠ナ人生変わる人、俺、何人も見てきてるんでね」

 それはヒーローの声だった。理屈でも推測でもない。悲惨な現場を知っている人間の言葉。私はリモコンに視線を落とした。再生を止めると映像が一瞬だけ暗くなって、はじめのメニューの画面に切り替わる。部屋に静けさが戻る。そこで私はようやく、口を開いた。

「……あの日、怒ってたわけじゃなかったんだ」
「怒ってましたよ」

 彼は迷わず答えた。それから、声の調子が少しだけ落ちる。

「ただ、言い方と対応を間違えると、あなたには伝わらないって分かってただけです」
「……」
「名前さんが無事でいるかどうかってことが俺にとっては——」

 そこで言葉が止まった。最後までは言わない。ソファの上で肩が触れない距離のまま空気だけが詰まっていく。

「これは、任務とか正義とか……そういう話じゃないんですよ」

 私は何も言えずテレビの画面を見つめていた。あの夜、彼が機嫌を悪くしていた理由。それは、独占欲でも、支配欲でもない。起こり得た未来を現実として知っている人の、恐れだったのだ。
 空気が重さを持って沈んでいく。私は、それに耐えきれなくなっていつもの調子で笑って言葉を軽く投げた。

「やだなあ。急に説教はじめないでよー。大丈夫だってば、そんな心配しなくたって」
「……」
「……もう。ホークスはほんと、心配性だなあ」

 そう言いながら、テーブルの上のグラスへ手を伸ばした、そのときだった。指先が触れるよりも早く手首を掴まれる。強くはない。けれど迷いがない。視界が揺れる。次の瞬間、私は、ソファに押し倒されていた。背中にはクッションの感触。身体の向きが変わる。逃げ場のない角度。心臓が激しく打つ。胸の内側を叩く音が、自分でもはっきりと聞こえる気がした。
 背中に滑り込んだリモコンが先の映像の続きを再生する。テレビのスピーカーから女性の悲鳴が流れてくる。ギャングに囲まれた彼女の叫び声が彼のセーフハウス内の空気を震わせる。

「ほら——抵抗しないと、同じ目に遭いますよ」
「……」
「こうされて、逃げられるんですか?」
「……」
「——咄嗟に稽古の成果、発揮できます?」

 ホークスの声は、低くて重たかった。鋭い瞳で射抜かれて視線がかち合う。冗談に逃げる余地はどこにもない。私は息を詰めながら、言葉を絞り出す。

「ね、ねえ……触ってるよ。ルール違反」
「これは、ヒーロー活動の一環です」

 彼は目を逸らさなかった。組み敷かれているという事実よりも、その言葉の方が胸を強く打つ。

「怖い思いを、わざとさせてます」

 声は冷静だった。感情をぶつけるためではなく理解させるための声音。私は、喉の奥が鳴るのを抑えながら、手首に絡まった指の重さを感じる。決して強引ではない。力で押さえつけているわけでもない。逃げようと思えば、理屈の上では逃げられると思う。でもそれが、余計に怖い。
 テレビの中で女の人が必死に泣き叫んでいた。その声がなぜか、現実と重なって、耳の奥に残り続ける。ただの演技としてスピーカーから流れているだけの音のはずなのにどこかで生々しく反響して部屋の空気を震わせていた。それでも、このヒーローは続けるのだ。ヒーロー活動の、一環として——。

「これでも大丈夫って、言い切れます?」

 その問いかけには責める響きはなかった。答えを急かす気配もない。ただ、ここにある状況を、私自身に見せているだけの声音。
 私は言葉を失った。呼吸だけが浅くなる。胸の奥で空気が小刻みに行き来しているのが自分でもはっきり分かる。軽く流したはずの「大丈夫」がこんなにも薄いものだったのだと、この距離で、突きつけられていた。
 彼はそれ以上、何もしない。手首を掴んだまま動かない。越えない線をこちらに示したままで。
 怖かったのは、彼に組み敷かれていることじゃなかった。あの夜に起こり得た現実を、今さらになって、理解してしまったことだった。

「こうやって、拘束されて」
「……」
「知らない男たちから、触られるんですよ?」

 低い声のまま彼は続ける。その言葉と同時に、彼の影がほんの少しだけ近づく。一歩ぶん距離が詰まり、覆い被さる影に、空気が重く沈む。
 あ、まずい。顔に熱が集まっていく。近すぎる距離。ホークスの体温。それから、ふっと鼻先を掠める爽やかで甘い匂い。思考が一瞬、止まる。もうこれ以上は、無理——!

「わー!わー!わー! タンマタンマタンマ!!わかった、わかったから!!」

 私は思わず足をばたつかせて叫んだ。その瞬間彼の動きが止まった。ほんの短い沈黙。それからホークスは、すっと体勢を解いた。私の手首から指が離れ、距離が戻る。彼は、ソファの端へ腰を戻し天井を見上げるようにして深く息を吐いた。

「……すみません」

 短い言葉だった。それ以上の言い訳はしない。私は身体を起こし、胸の奥で暴れている心臓を、どうにか落ち着かせながら顔に集まった熱をそのまま、上擦った声で、言葉にぶつけた。

「なっ、なにすんの!ばか!さいてい!すけべ!あんぽんたん!!」

 言い切ったあと勢いだけが部屋に残った。私はゼーゼーと息を荒げている。まるで女子高生だ。反して彼は、わかりやすく肩を落として、眉間を指で押さえながら、ぽつりと言った。

「……そこまで、言われるんす?」

 小さく漏れた声には苦笑が混じっていた。私は視線を逸らしテレビの音量を上げて呼吸を必死に整える。彼は、それ以上近づかない。触れない。追い打ちもしない。沈黙が静かに部屋を満たす。
しばらくしてからホークスは私から視線を逸らしたまま、言葉を選びながら言った。

「や、怖がらせるつもりは、なかったんすけど」
「怖いよ!殺されるかと思ったよ!見てよほら、今、涙目! 私はヴィランじゃありませんっ!」
「わかってますよ……ぃや、ちがうくてさぁ」
「……っ、」
「軽く流されたままなの正直、きつかったから」

 その一言で、怒鳴る勢いがすっと引いていく。私が怒った理由と彼が怒った理由が、同じ場所にあることに、ようやく気づく。テレビの画面の中では場面が変わっていた。さっきまでの騒がしいシーンは終わり今では静かな音楽が流れている。私はそこで小さく息を吐いた。

「……ご、ごめん」

 先に言ったのは私だった。彼は「はい」とだけ短く返す。それ以上は、続かなかった。私たちは今日も線を越えなかった。越えないことを、もう一度だけ、選び直しただけだった。
 ——このまま越えてくれればいいのに。そんな考えが胸の奥で小さく揺れる。けれどその言葉はまだ口には出せない。ソファの間に戻った距離は先よりも少し広い。互いの体温が届かない程度の落ち着いた距離。それでも心臓の騒がしさだけはしばらく収まりそうになかった。

「——お風呂、入って行きます?お湯、ためますけど……」
「……入っていく」
「じゃ、じゃあ……ためてきますね」
「……オネガイシマス」

 テレビの光が、部屋の中を淡く照らしている。夜は深く、窓の外の街は静かだった。私たちは、今日も触れないまま言葉にしないまま。それでもこの夜のどこかに、確かに何かが残っている気がしていた。
 それが何なのかは、まだ分からない。けれど、きっと。この距離のまま、しばらく消えないものなのだろうと思った。


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