きらきらと光る舗道の先に潮の匂いが混じっていた。
東京よりもすこし空が近い気がした。目に入るもの、耳に届くもの、肌に触れる空気すべてが、どこかやわらかくて、心地よかった。
ホークスが私たちに手を差しのべるようにして街の案内を始める。先頭を歩くその背中に何度も目を奪われそうになりながらも私は視線を逸らす術を覚えていった。
「このへんは観光客より地元の人が多いんすよ。お昼どきとか、けっこう行列になる店もあるんで覚えとくと便利っすね〜」
彼のガイドは思いのほか実用的で、そしてなんというか──生活の香りがした。ヒーローとしての彼ではなく、一人の人間としてのホークスが、そこにいる気がした。
「なんか……あの人って、福岡にいると、ほんと普通の愛想の良い若いお兄ちゃんって感じよね」
と、私の隣を歩いていた女性室長が笑った。
「確かに。都会のヒーローっていうより、地方のヒーロー向いてますよね。親しみやすい感じが」
「わかる〜、なんか嫌味なく距離近いもんねー」
続けてそんな会話があちらこちらで飛び交う。私はただ曖昧な笑みを浮かべて、相槌を打つことしかできなかった。本当はその彼の近さにずっと戸惑っているのは、私のほうだ。
風が通り抜けたとき、ホークスがふとこちらを振り返った。目が合った気がして、私は一拍だけ遅れて視線を逸らした。それは、ほんの一瞬だった。けれどその一瞬が、たまらなく苦しかった。
私はきっと、まだうまく笑えていない。関係を壊さないために必要以上に他人に見せないようにしているのだと、彼もわかっているのだろう。
そのあとの数時間は予定された視察内容に沿って、市役所関係者との会談やモデルケースの施設見学が続いた。業務上の質疑応答や、実地確認。誰もが真剣で、私もその一員としての役割を意識しながら、いつもよりほんの少しだけ丁寧な受け答えをしていたと思う。
そんななか、ほんの短い空白が生まれたのは、午後のスケジュールの最後。他の職員がトイレに立ち、室長が電話に出ているあいだ、たまたま、ふたりきりになった、エレベーターホール。
「こっちの仕事も、大変そうっすね」
と、彼がぽつりとつぶやいた。私は周りの目を気にしつつ、あえて仕事中のように敬語で返す。
「……どこも、そんなに変わりませんよ」
私も彼と同じくらいの温度で答える。それだけだった。でも、どうしてだろう。それがとても、大切な会話に思えた。
気づけば彼の指が私の肩越しにふわりと伸びて後ろにあった自販機の選択ボタンを押した。警戒して肩を揺らした私を意に介さず彼は飄々と言う。
「——これ、美味しかったんで。」
と、差し出された缶コーヒー。開けずにそれを手のひらに受け取ると熱が掌を伝ってきた。彼の体温のような、それとも気持ちそのもののような──けれど何も言わずに私はただ頷いた。誰にも知られないように、そっと缶を両手で包みこむ。
この街の光の粒を、いくつ持ち帰れるだろう。目に見えるものだけじゃない、こうして受け取った静かな気配を私は胸の内側にひとつずつ大切にしまい込んでいった。
「ホークス……」
「はーい?」
「……今夜は、どこに泊まるんですか?」
窓の外には、じわじわと夕暮れが滲みはじめ、ビルの輪郭には長い陰が差し込んでいた。ふと、私は問いかける。周囲にはまだ、他の職員の姿はない。遠くで、エレベーターが閉まる音がひとつだけ静かに響いた。
「駅前のビジホっすよー?こういう特別な予定があるときは、毎回同じとこです、落ち着くんで」
ホークスはそう言ってポケットから何かを取り出しかけて——また、しまった。癖のある仕草。何かを渡したかったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
「明日、ちょっとだけ時間あります。案内できるかどうか微妙ですけど、どこか、行きたいとこあります?」
「……観光、というより、歩くだけでもいいかもしれませんね」
「へえ、歩くだけ?」
「ええ。知らない土地って、それだけでなんだかちゃんとした人間になれそうな気がするので」
そう言うと彼は少しだけ目を細めた。いつかの夜のことを、思い出したのだろうか。もしくは、もっとずっと前の、誰かの記憶か——。
「じゃあ、歩きましょ。明日も、ちょっとだけ」
それは小さな約束だった。すぐにほどけてしまうような。だけど大事にしまっておきたいようなそんな、二人だけの約束。
そのまま私たちは集合場所へ戻る。市の関係者と笑顔で挨拶を交わし何枚かの名刺が手渡されていく。それから、すこし離れた駐車場まで歩いていたときのこと。ある親子連れがホークスの姿を見つけて声を上げた。
「あっ、ホークスだぁ!!」
次の瞬間には数人の子どもとその親らしき人々が周囲に集まってきていた。東京でしばらく活動していたのにも関わらずその名は彼の地元、福岡では、まったく色褪せていないらしい。
「わ、すご。ホンモノ?福岡、戻ってきたと?」
「ホ〜クス〜! サインちょーだい!」
「昨日のニュース見たぁ〜!すごかったばい!」
ホークスはそのひとりひとりにちゃんと視線を合わせ、屈んで笑い、冗談を交えて応えていた。ある子にはサインを、ある子には写真を、そしてまた別の子には、自分の剛翼のミニチュアを背負った姿を見て「おっ、君も翼あんの?」と、肩をぽん、と軽く叩いてみせた。
見ているだけで胸の奥がざわついた。彼はそういう人なのだ。誰に対しても平等で、明るくて、優しくて。その姿があまりにも眩しくて手を伸ばしても届かない距離に感じる瞬間が、どうしてもある。
そんな中ふと彼がこちらを見た。視線がほんの一瞬だけかち合う。だけど私はその一瞬を、目をそらさずに見つめ返した。まるで『わかってる』と伝えるように。『ここにいるよ』と答えるようにして——。彼は子どもに囲まれたまま少しだけ笑った。でもその笑みにだけほんの少し私だけが知っているかのような、違う色が混じっていた。
宿までの道は、まだ少しだけ遠かったけれど、背中で感じるその距離が、すこしだけ、あたたかかった。
*
ホテルの回転扉を抜けた瞬間、外の喧騒がガラス越しにいっきに遠のいた。ロビーは思っていたよりも落ち着いた雰囲気で、どこか、昔の映画に出てきそうなシャンデリアが、少しだけ寂しげに光っていた。
あの眩しい太陽の下の熱気も、人だかりのざわめきも、もうここには届かない。まるで、異国の空気が重く静かに空間を包んでいた。
他のメンバーたちはフロントでキーを受け取りながら、それぞれの話をしていた。
「明日、あのエリアの視察、もう一度あるんですかねー」
「地元の防災指令系統、意外としっかりしてましたね」
そんなやり取りを背中に受けながら私はひとりひと足先に部屋へと向かった。カードキーを差し込み、やや古めかしい扉を開いた。小さな照明をつけると、ベージュのベッドカバーと観葉植物の影が淡く滲んだ。ああ、やっと今日が終わった。靴を脱いでカーディガンを椅子の背にかけ鞄からペットボトルの水を取り出してそのままベッドの端に腰を下ろす。身体の奥に、微細な重力がかかっていた。知らない街での緊張。気づかないふりをしていた感情……。肩に積もっていたそれらが、ようやく、剥がれていく。
しばらく何も考えずに、ただ窓の外を眺めた。街の灯が遠くでまたたき車のライトが川のように流れている。ふと、思い出す。あの人が市民に囲まれて笑っていた姿を。そして、あの一瞬——私だけに向けた視線。ほんの刹那のそれがまるでこの部屋にまで届いているかのようで、心が妙に落ち着かない。
スマートフォンを手に取って、画面を見てまた伏せる。通知はなかった。けれど通知が来ていたらどう返せばいいのか、まだわからない。今日はたくさんのことが胸の中で波打っていて、それをうまく言葉にできる自信がなかった。だから代わりに私はテーブルの上のペンを取って、メモ帳にこう書いた。
『明日もホークスと目が合いますように。』
誰に見せるわけでもない、誰にも読まれることのない言葉。けれど、こうして綴ることでほんの少しだけ、自分を整えることができた気がした。
シャワーの音がやがて湯気とともに部屋に満ち夜はすこしずつ、静かに深くなっていった。
窓辺に置いたマグカップからは、まだ微かに、ハーブティーの湯気が立っていた。福岡の夜は、思っていたより涼しくて、足元には、ふわふわの部屋用のスリッパ。テレビは点けていなかった。ただ静けさの中に耳を澄ましていた。──いや、違う。私は、あの音を待っていたのだ。そのくせ画面が鳴った瞬間、心臓が跳ねるように驚いた。
——着信:ホークス
その名前は変わらずそこにあった。過去には、登録名を変えようとしたことも思い切って消そうとしたこともあった。でも、結局のところ私は、それをできずにいた。
ワン、ツー、スリー……。四回目の呼び出し音が鳴る直前に、私は通話ボタンを押した。
「……はい」
『ああ……やっと、話せた』
耳に届いたのは少しだけ掠れがかった、けれどいつもの愛おしい、彼の声だった。
「今日も、お疲れさまでした」
自分でも驚くほど、平静な声が出た。たぶん、少しよそよそしかったと思う。でも彼は特に咎めなかった。その代わりに、やや照れたような声でこう続けた。
『さっきホテルの前から空、見てたんですけど。星、思ったより見えません?こっちって』
「え、見えた? 私の部屋さ、ちょうど大通りに面してて、あんまり……」
『そっか。今度、いいとこ案内します。星が落ちそうなくらい見えるとこ』
��今度�>氛氓サの言葉を聞いた瞬間、胸の奥にそっと、熱が灯るような感覚があった。
『そんなことより、名前さん』
「ん?」
『今日、やたらと他人行儀でしたねー』
「……まあ、仕事中だからね」
『俺とのこと、周りには言ってないんですね』
「言えないでしょ。トップヒーローが彼氏だなんて……」
『……そっか。うん、ですよね』
その声はほんの一拍遅れて、少しだけトーンが落ちて聞こえた。電話越しの距離がそのまま彼の寂しさを滲ませているようでもあった。けれど、それでも私は譲れなかった。彼のことが、好き。あの優しさも、ぶっきらぼうな素直さも、全部。でも、それとこれとは別の話で私は彼の隣に立つことで得るものよりも、失うものの方が今はまだずっと怖かった。世間が放っておいてくれるとは限らない。人気ヒーロー・ホークス──彼はそれほどに見られる存在だ。特に女性ファンの熱は、時に鋭い槍となる。自分を差し置いて誰かが彼の特別であることを、世間はそう簡単には許さないだろう。だから、私はこの関係を大切にするためにも、いまはまだ、この静けさを手放せない。
その沈黙の中でスマートフォンから彼の小さな息の音が聞こえた気がした。だけど次の瞬間にはまた、いつもの調子が戻ってきたように感じた。
「……今日、ホークスもけっこう頑張ってたね、ファンサ」
『あ、見てました?』
「うん。たくさん名前呼ばれててびっくりした」
『嬉しかったんすよー。なんか久々に、俺が役に立ててるって感じがして』
「──今さら、なに言ってんの。ずっとそういうヒーローじゃん、ホークスは」
思わず出てしまった本音に、自分でも驚いた。彼は、一拍置いてから、笑った。くぐもった声。けれど、あたたかくて、とっても落ち着く声。
『名前さんが近くにいるから、俺、やっぱ頑張れるんだと思いますよ?』
電話の向こう。福岡の同じ夜を彼も見ている。同じ街の違う場所から。けれどそれだけで今夜はぐっすりと眠れそうな気がした。
「……明日も視察続くから、頑張るね」
『ですね。気をつけて、無理しすぎないように』
「うん」
『じゃあ、また明日の夜、電話していいですか』
「……うん、おやすみ。」
『はい。おやすみなさい……名前さん。』
電話が切れる直前に小さく呼ばれた名前。その声だけが部屋の空気に静かに溶けていった。
再び画面が暗くなっても、耳の奥にはまだ彼の言葉の余韻が残っていて、私はそっと枕元のマグカップに指を添えた。あたたかかった。まだあたたかさは、消えてはいなかった。
*
視察最終日の午後は、打ち合わせと報告整理で終始会議室に詰めていた。
福岡の空は今日も高く澄み、梅雨のはずの季節なのに、雨の気配は微塵もない。外の光が斜めに会議室のブラインドから差し込んで、資料の端に長く影を落としていた。
そんななか、視察のまとめ資料を提出し終えた直後のことだった。
「……名前さん、少しだけ、お時間もらえません?」
声の主は、会議室の扉の近くで待っていたホークスだった。周囲には他の職員や同僚たちもいたけれどその一言に場の空気が一瞬、静かになった気がした。誰かが冗談めかして、笑った声も聞こえたけれど、それに彼は特に反応を見せることもなく、ただまっすぐに、私を見ていた。私は席を立ち視線を合わせないまま軽く頷く。それだけで彼は満足したように背を向けて、窓際の別室へと向かっていった。その場所は支援センターの応接ラウンジだった。グラスに注がれた常温の水と、開かれたままの、街の地図。視察の中で見てきた場所に、付箋がいくつも貼られている。それは、誰かが真剣に手を動かした痕跡だった。
「……今日の夜には、帰っちゃうんですね」
彼の言葉に、私は「うん」と、小さく返した。
「ごめんなさい、あんまり……ちゃんと話す機会なかったですね」
「いや……話さないままでよかったのかもとも、思ってたけどね……」
それは本音でもあり、言い訳でもあった。でも彼は、なにも咎めなかった。ただテーブル越しに指先で、地図の端をすっとなぞりながら言った。
「昨日からずっと、あなたが、他の人と笑ってるのを見てて思いました」
彼の声は静かだった。でもその奥に何か、溶け残った感情がまだ、熱を保っていた。
「やっぱり、俺はちゃんと話したい。あなたと」
「……」
「——また、一からでも。」
「……」
「余裕を持った関係性とか心の距離を置くとか、ほんとにそんなの、俺たちに、必要です?」
私は言葉を失って、ただ彼の横顔を見ていた。窓の外では飛行機の音が小さく響いていた。今夜にはこの空の下を離れる。その事実がこんなにも胸を締めつけるのは彼の存在がまだ心のどこかに深く、刻まれている証だった。
*
夜——空港へ向かうタクシーの窓越しに流れていく街の灯りはどこまでもやわらかく滲んでいてそれでいて少しだけ名残惜しげに私の心をなぞるようだった。
他のメンバーはもう少し早い便で東京へ戻っていった人もいたけれど、私は「せっかく福岡まで来たのだから」と言い訳めいた理由を並べて帰りの便を最終にした。けれど本当は、この空気を、彼のいるこの空をもう少しだけ感じていたかっただけなのだと、自分でも気づいていた。
助手席に座る彼は振り返ることもなく、前方の夜道を静かに見据えていた。時折、運転手と軽く言葉を交わすその声もどこか穏やかで、まるで、なにかを壊さないようにと注意深く置かれているかのようだった。
私は後部座席で、静かに窓の外を眺めていた。夜景の光が反射してガラスにぼんやり映る自分の顔を横目で捉えながらふと、彼の背中へと視線を滑らせた。言葉にはならない想いが胸の奥にじんわりと灯って、静かに、けれど確かに私のなかに広がっていく。
「……
ふいに彼が言った。外を向いたままの横顔は、ネオンの色に、淡く染まっていて、その声色は、不思議なほど穏やかだった。
「最初は、東京遠征の延長線みたいな感じで……でもやっぱり人が違うと空気も変わるんですね」
彼の声は柔らかく、どこか遠くを見つめるようだった。
「会話の間とか視線の温度とか、そういうのが。おもしろいですよ」
少し笑っているようにも聞こえた。でもそれはどこか、寂しさや、懐かしさが滲んだような響きだった。
「まあ、元は福岡が拠点だったけん。元のサヤに戻ったっていうだけん話っちゃけど」
淡々とした言葉の中に、ほんのわずかに感情の起伏が混じる。それが、私の胸を静かに波立たせた。私は、返す言葉を探しながらも、ただ小さく頷く事しかできなかった。言葉はあった。けれど口に出すにはまだ気持ちの形が整っていなかったのだ。
空港に、数台のタクシーが滑り込んでくると、ホークスは当然のようにキャリーケースを引いていた私たちから荷物をひょいと剛翼で受け取り、軽々と運んでくれた。他のメンバーは、さっさと建物の中へと進み、最後の売店に立ち寄ったり、各々に散っていく。気づけば私は彼と二人きりになっていた。
「ここまででいいよ。……ほら、中までは来ないって、自分で決めたじゃない、わたし。」
静かな、ターミナルの入り口。夜風に押されるように言葉がこぼれた。私がそう告げると、彼はほんの少しだけ首をかしげてみせたが、それ以上無理に踏み込んではこなかった。
「今度は……あなたに置いて行かれる番ですね」
そう言って彼は、くしゃっと前髪をかき上げながら冗談めかして笑った。けれどその瞳の奥にはどうしようもなく、真剣な色が宿っていて、私はそれに、胸の奥がきゅうと疼くのを感じた。
「こっちでもちゃんとヒーローやってる姿、見せられてよかったです」
「……うん。……じゃあ、また——」
「名前さん。」
名を呼ぶ声がふいに私の足を止めた。穏やかでどこかやさしいその響きに振り返ると、彼はまっすぐに、こちらを見つめていた。
「また、会いに来てくれます?今度はちゃんと、仕事の用件のない日に……俺にだけ会いに。」
それは少し照れたような、けれど確かな願いを含んだ声だった。私は思わず笑みを漏らし、軽く頷いてみせた。
「じゃあ……そのときは、『ホテルじゃなくて、うちに泊まったら?』って、言ってくれる?」
言ったあと自分の言葉に戸惑った。唐突だったかもしれない……不意打ちすぎたかもしれない。そんな逡巡が胸を駆け抜ける。でも彼は驚くでも茶化すでもなく、ただ少しだけ目を見開いたあとまた、真っ直ぐに私を見つめ返して言った。
「……あたり前じゃないですか。ホテルなんて、絶対、取らせませんよ。」
ふっと肩の力が抜けるように、彼が息をこぼす。その口元に、やわらかな微笑が浮かんでいた。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
「名前さん……約束ですよ?」
私はその言葉少なにうなずく。それからほんの少し間を置いて「頑張ってね」と、短く告げた。そのとき彼が、伸ばしかけた手をそっと拳に戻すのが見えた。触れられなかった距離——けれど、ふたりのあいだには確かに、呼吸があった。
急がずともゆっくりと。焦がれるほどに、また近づいていけると、そう思えた。
館内放送が低く響く。搭乗の案内だ。私はキャリーの取っ手を握り直し、くるりと背を向ける。
別れの言葉を口にすればきっと泣きそうだったから。背後で彼が低く「気をつけて」と、呟く。立ち止まりそうになる足をぐっと前に出して私はまた静かに歩き出した。だが彼のその声は、いつまでも、私の耳の奥に残っていたのだった。