マンションに戻ると、現実がすっと輪郭を取り戻す。靴を脱ぐ時の音、コートをハンガーに掛けるときのわずかな摩擦音が、静かな室内に思いのほか、はっきり響いた。さっきまで口にしていた甘酒の温度や、屋台の油の匂い、お守りを渡した瞬間の間、それから帰り道に耳に残った懐かしいメロディが、まだ身体のどこかに沈殿している。淡い照明と暖房の低い唸り。外界から切り離されたこの空間には境内の賑わいはもう届かない。
「今日は、ありがとうございました」
振り返ると彼は玄関で立ち止まったまま、靴もダウンも脱がずに、いつもの距離を保った位置でそう言った。それはまるで、踏み込まないことを身体ごと守っているみたいな立ち方だった。
「……うん、こちらこそ」
私の言葉を待って彼がドアノブに手をかける。その背中を見た瞬間、考えるより先に声が出た。
「ごめん……触る!」
自分でも驚くほどの勢いで、私は、彼の手首を背後から掴んでいた。逃げ道を塞ぐようでいて、力は決して、強くない。「触る」という言葉に、特別な許可や制度を、設けた覚えはなかったはずなのに、いつの間にか彼がよく口にしていたせいで、反射みたいに出てしまったのだと思う。
ホークスが、はっとして振り向く。目が合う。その一瞬の表情に警戒と驚きと状況を測る冷静さが同時に、浮かんでいる。
「え……どう、しました」
「……あ、あの」
「は、はい……」
「……泊まって、いけば」
言い終えたあとで自分の呼吸が少し乱れていることに気づいた。でも言葉は取り消さなかった。今度は、逃げ道を用意しなかった。彼はすぐには答えない。ただ、掴まれたままの手首に一度だけ視線を落とし、それからゆっくりと私を見る。
「……それは」
彼はすぐに続けずほんのわずかに言葉を探す。その沈黙は迷いというより、線を確かめるためのものだった。
「……今、この流れで言ってるって認識で、いいです?」
問いかけは柔らかいけれど、逃げ道を残さない確認だった。
「……うん」
短く返した私の声を受けて、彼はそれ以上踏み込まず、ただ小さく息を吐いた。理解したという合図のように。その仕草が、場の温度を少しだけ落ち着かせる。
「……確認、していいですか」
「なに……を」
「触れる前提で、ですよね……」
私は彼をじっと見返す。それから、ゆっくりと頷いた。掴んでいた手は離さないまま、代わりに力だけを少し緩める。
「……わかりました」
その声は、軽くもなければ冗談でもなかった。選択として、受け取った音だった。
「じゃあ、泊まります。ただし——」
「うん」
「無理は、しない」
「……」
「お互いに」
それは条件であり約束だった。彼がドアノブから手を離す。鍵を掛ける音が今度は、違う意味を帯びて室内に落ちた。
夜はまだ長い。でも急ぐ理由は、どこにもなかった。境界線は、まだそこにある。ただ今夜は、その線を挟んだ同じ側に、私たちは立っていた。
ソファに並んで、腰を下ろす。肩が触れそうで触れない距離が、今夜はほんのわずかに狭まっている。意識しなければ保てない程度の近さなのに意識してしまうと余計に遠く感じる、その曖昧な位置。テレビは消したままで、部屋は驚くほどに静かだった。ふと、ホークスが、前を向いたまま言う。
「さっきの初詣」
「うん」
「楽しかったですね」
「……うん。楽しかった」
それ以上、言葉は増えない。さきほど玄関先で生まれた、これまで存在し得なかった空気にまだ心臓の鼓動が追いついていないのだ。
静かな部屋の中で自分の呼吸のほうがうるさく感じられる。隣で落ち着きなく体勢を変えている私に気づいたのか彼がふと鼻で小さく笑う気配がした。でも、視線は合わせない。そういう距離の取り方を、彼はよく知っている。
やがて彼が何でもないふうを装ってリモコンに手を伸ばし、テレビをつける。画面に光が戻り、音が流れ込む。その瞬間、部屋の空気が少しだけ緩んだ。こういうところは本当に気が利く。いや気が利くというより察しがいい。あるいは、逃げ道の作り方が上手いと言った方が正しいかもしれない。
「……助かった」
私は思わず、ぽつりと零す。自分でも驚くほど素直な声だった。
「そんな顔、してました」
からかうみたいな口調なのに声は静かだった。
テレビでは、深夜帯の正月特番が流れていて、芸人たちの声と効果音が少し、大きすぎるくらいだった。けれど無音よりはずっといい。静けさに押し潰されそうになる前に場を均してくれる雑音が今は、必要だったから。しばらくして彼が思い出したように言う。
「——あ、さっきの」
「……ん?」
「飲兵衛たちが歌ってた曲、なんでしたっけ」
そう言いながら、後ろのポケットからスマホを取り出す。その動きがもうすっかり、この部屋に馴染んでいる。
「え? あ、えっと……春夏、秋冬?」
「あー、それです、それ」
彼は、画面を覗き込み、検索欄に文字を打つ。指先が迷いなく動くのに、どこか、探り探りでもある。
「……ん、ちょっと」
「なに?」
「歌ってもらってもいいです?」
「は?」
「サビだけでもいいんで」
急に何を言い出すのかと思えば……けれど彼の視線はずっとスマホに向いたままで、余った手を顎に添え、考える人みたいな姿勢になっている。親指は慣れたように、画面を上下にスライドしていた。
「やだよ」
「えー?」
「やだ」
「だって、なんかいっぱいあるんすもん」
「一番上に出てくるよ、有名な曲だから」
言いながら私は、彼のスマホを覗き込むことはしない。代わりに、さっきテーブルに彼が置いたリモコンを手に取り、適当にチャンネルを回す。画面が切り替わる音と同時に隣から小さく、曲のメロディが流れてきた。思わず、くすっと笑ってしまう。
「その春夏秋冬は、知らない」
「えー? じゃあ、これ?」
今度はまた違う曲。私はリモコンをテーブルに戻し、テレビに視線を向けたまま、ソファの背に身体を預ける。
「その春夏秋冬も知らない、ごめん」
「まじですか……」
そんなやりとりが、何度か続く。曲が変わり、また変わり、彼の「あ、これ?」という声が少しずつ間延びしていくのを聞きながら私は耐えきれなくなって、ようやく身を乗り出した。
「……これだってば」
彼のスマホを覗き込み、画面のいちばん上を、指で示す。
「ああ! こっちね」
「わざとやってたでしょ」
「そんな〜、人聞きの悪い」
「もう……いちばん上にあるって教えたのに」
「いやぁ……あえて、外してみたんですって」
その言い訳が、どうしようもなく彼らしくて、私は小さく息を吐いた。テレビの音とスマホから流れるかすかなメロディと、並んだままの体温が部屋の中で重なっていく。何でもない会話なのに時間だけが、ゆっくり進んでいた。
するとふと彼の指先の動きが止まる。そうしてスマホの画面をじっと見つめたまま視線を外さず「へえ」と、小さく声を零した。
「結構、前の曲なんですね」
「うん。でも、よく歌われてたと思う」
「ふうん……」
彼のスマホからは控えめな音量で、まだ曲が、流れ続けている。私は、反射的に肩をすくめる。
「そのまま流すんだ」
「ちょっとだけです」
「ちょっとだけ、ね」
彼は音量をさらに下げてから、また画面を凝視する。その集中の仕方が、さっきまでの軽さとは少しだけ、違って見えた。
「名前さん」
「ん?」
「この歌詞、ちゃんと見たこと、あります?」
唐突な問いに一瞬、私は言葉を探す。しかし、それでさっきからあんなふうに、画面を見つめていたのかと、ようやく、合点がいった。
「あんまり意識して、歌詞とかは見ないかも」
「そーなんすね」
「うん。ていうか、どうして?」
「え? あ、いや……」
彼はそれ以上は続けず、スマホをソファの肘に置く。画面を伏せるでもなく、そのままにして、私と同じように、テレビのほうへ視線を向けた。
「すごいですよ」
「なにが?」
「いい歌詞です」
「……そう? どのへんが?」
短い沈黙。そのあいだ、テレビの音だけが一瞬この間を埋める。
「……鮮やかな色、四季おりおりの、景色求めて二人で——」
「……」
「すべての季節、お前とずっと居たいよ」
「……」
「春の桜も夏の海も、あなたと見たい。あなたといたい——」
そこまで言って、彼がそっと、こちらを見る。視線が重なる。私はやや口を開けたまま、言葉を失っていた。胸の奥で何かが静かに引っかかる。そしてようやく、声を出す。
「……え。すごいね、記憶力」
「……」
「今の一瞬で、覚えたの?」
「……まあ、」
彼は視線を逸らし、少しだけ肩をすくめた。
「職業柄、すね」
その言い方が、照れ隠しなのか、本心なのかはわからない。たださっきまでただの懐メロだったはずの曲がいつの間にか別の重さを帯びて部屋の中に残っていた気がした。
「——アンサーソングって、これです?」
気づけば彼はまたスマホを手にしていて画面をこちらに向けて、指先で示しながら聞いてくる。さっきまでは肘に置かれていたはずなのに、思いついた瞬間にはもう手の中にある。その切り替えの早さが、なんとも彼らしい。
「……え? あ、そう。それ」
「へえ〜」
興味深そうではあるけれど、深入りしすぎない顔だ。彼はそのまま操作して今度はそのアンサーソングを流す。音量は控えめで、部屋の空気を邪魔しない程度。
しばらくは言葉もなく、ただ曲だけが続いた。するとサビに差しかかるころ、彼がふと呟く。
「こういうの」
「うん?」
「聴くんですか?」
問いの向きが少し、ずれている気がして、私は返しに迷った。別に、深く考えなくてもいいはずなのに、なぜか答えを探してしまう。音楽の好みというよりも、この場にふさわしい返答を——。その沈黙を、彼は、待たなかった。
「あ、そうだ!」
急に声のトーンを上げる。その様子はまるで、最高のアイディアが降ってきたと言わんばかりで私は一瞬、身構える。
「この歌詞に書いてること、ぜ〜んぶ、ふたりで制覇しません?」
「……はい?」
なんとも間の抜けた声が出る。その瞬間、彼のスマホから流れている曲が、『私より私をわかってるのはあなたしかいない』と、歌い始めた。
タイミングがあまりにも悪い。目が合う。私はなんだかいたたまれなくなって、そっと、視線を外した。それでも彼は、まったく気にしていない様子で、むしろ楽しそうにペラペラと続ける。
「えっ、え、たとえばですよ?」
こちらに身を乗り出す彼から、いつもの香水の残り香が、ふっと届く。その距離に軽くめまいを起こしそうになる。
「まず手始めに、スマホとガイドブック眺めて、話し合うとこから」
私は思わず勢いよく彼を見る。彼は「へ?」と心底、不思議そうな顔をしている。
「それ、だいぶ冒頭じゃない?」
「いや、順を追った方が良くないです?」
「そういう意味じゃなくてさ……」
言葉を選んでいる間にも彼は考えを膨らませている模様。
「えー、じゃあ仕方ないすね」
あっさり、引いたかと思うと、まさかの言葉が降ってくることを私はこのあと、数秒後に知る。
「一緒に選んだ水着で遊ぶ夏でもいいですけど」
「だから! それもだいぶ最初のほう!」
「え」
「ぜんぶ本気でやってったら、日、暮れるわ!」
思わず声が裏返る。彼は、一瞬だけ状況を掴み損ねた顔をして、それからようやく、理解が追いついたのか、肩を揺らして笑った。堪えきれず、というより、可笑しさが遅れてきたみたいな笑い方だった。
「もー、冗談ですってぇ」
「冗談に聞こえないのが、問題なの……」
「え〜?」
スマホから流れる曲はまだ続いている。歌詞の内容と彼の提案と今の距離感が、妙に噛み合ってしまっていることが、さらに可笑しくて困る。
私はため息をつきつつソファの背に深く体重を預けた。
「……その話、もうちょっと後にして」
「後って、いつです?」
「とりあえず、今夜じゃない」
彼は少し考えてから、素直に頷いて、軽い声で言った。
「了解です」
「ほんとにわかってるのかなぁ……」
「じゃあ、今夜は計画倒れってことで」
その言い方に私は思わず笑ってしまった。曲はいつの間にか、次の知らない曲へと移っている。何気ない冗談の応酬なのに、さっきよりも確かに距離は、縮まっていた。
しばらく二人で何をするでもなく、まったりと過ごした。テレビはつけたままだけれど、内容が頭に入ってくることはほとんどない。ホットミルクの甘い匂いと、暖房のぬくもりとソファに沈む身体の重さだけが、時間をゆっくり引き延ばしていく。
「そういえば」
彼はマグカップの縁に口をつけ一口含んでから言った。熱さを確かめるみたいにほんの少しだけ間を置いて。
「待ちうた、って、いいですね」
「え?」
「なんか、ネーミングセンスが」
唐突すぎる角度だった。私は一瞬、返す言葉を探して、視線を宙に泳がせる。
「……そう?」
「はい」
それ以上は続かずに、会話は一旦、途切れる。けれど不自然な沈黙ではなかった。ホットミルクを飲む小さな音が、思ったより近くに聞こえる。暖房の低い唸りと混じって、部屋の時間だけが、ゆっくり進んでいく。
やがてホークスが、独り言みたいな調子で口を開いた。
「……電話をくれた相手に聞かせるためだけの、呼び出し音を作ろうって考えた人たちの中にさ」
「うん?」
「その『待ちうた』って名前を考えた人も、いるわけじゃないですか」
「まあ……そう、だね」
「きっと——」
そこで、言葉を継ぐ前に少しだけ間が落ちる。
「相手が出るまで、待ち遠しかった経験とか」
「……」
「そういうの、あったんじゃないかなって」
そう言って、彼はまたマグカップを手に取る。背中を少し丸めて、猫背気味の姿勢のまま、まだ熱そうなホットミルクをゆっくり啜った。
伏せられたその長いまつ毛が立ちのぼる湯気の向こうでかすかに揺れている。その様子を私は、特に理由もなく見つめていた。
「……珍しく、素敵な発想だね」
思ったよりも素直な声が自分の口から落ちる。
「でしょ?」
彼は珍しく、照れもせず、茶化しもせず、それでいて、否定もしなかった。
「出れるかどうかわからないのにさ、待つ前提で鳴ってる音って」
「うん」
「それでも、切らずに待つ人が反対側にはいる、ってことですし」
私は膝の上で指を組み直し、その言葉の続きを胸の中で転がす。
待つことを前提にした音。待たせている時間を誰かの時間として、想像できること。それを語る彼の横顔を見ながら私は静かに、その考えを受け取った。
「……待たせる側の気持ちは、あんまり、考えてなかったかも」
「それも、あると思います」
「でも」
「はい」
「待ってる側の時間って、意外と、長いよね」
言い終えてから、私は自分の言葉を反芻する。長い、というより、伸びる、という感覚に近いのかもしれない。彼は、マグカップをそっと置き、ほんの少しだけこちらを見る。真正面ではなく、視線の端で確かめるように。
「……長いです」
短く、でも即座に。それは考えてから出た答えではなく、経験が先に口を動かしたみたいな声音だった。
「……経験談?」
「まあ」
彼は、曖昧に笑う。笑ったというより、表情の角度を少しだけ変えた、という程度の動き。
「出なくても、切られても、」
「うん」
「結局は、どっちでもいいんです」
「……」
「——せめて、繋がってたい、みたいな」
その言い方があまりにも静かで私は返す言葉を失う。否定も肯定も、挟み込む余地がなかった。しかしホークスは、間を詰めずに続ける。
「待ちうた、って」
「……」
「音楽が流れてるあいだ」
「うん」
「電話を受けた相手は、かけてきた相手の時間を借りてる感じもして」
「……うん」
「だから、ちゃんとした音じゃないと、嫌だった人も、いるんじゃないですかね」
私はテレビの方へ視線を移す。音量を落とした画面では、内容の入ってこない映像が流れ続けていて色と光だけが部屋の壁に淡く反射している。
「……待ってる時間を、雑に扱われたくなかったとか?」
「それです」
ホークスはようやく少しだけ笑った。納得してもらえたときの、控えめな表情。
「……そう考えると、ただの機能なのに、妙に、人間くさいね」
「……っすね」
それ以上、会話は続かなかった。ホットミルクの温度も部屋の空気も少しずつ落ち着いていく。時計の音だけが、正確に時間を刻んでいる。
——待ちうた。出るかどうかわからない相手を想定して、それでも鳴り続ける音。
私はそれが今夜の私たちにやけに似ている気がして、何も言えずにただ、彼の隣に座っていた。待つことも待たせることも、まだ途中のままで。
言葉にしなくても、そろそろ眠る時間だろう、という空気が部屋の中にゆっくりと満ちていく。会話が自然と減り音の少ない時間が戻ってくる。私は立ち上がって、リモコンを手に取り、つけっぱなしだったテレビを消した。画面が暗転すると同時に、部屋の輪郭が少しだけはっきりする。
ソファで寝ると言い張った彼は結局その主張を曲げることなく、ブランケットを引き寄せて横になった。身体をやや丸め、無意識に温もりを探すような姿勢になる。
「名前さんは」
「ん?」
不意に呼ばれて私は足を止め、彼の横になっているソファの方を振り返る。
「待ちうた、俺専用にするなら、どんな曲選ぶんです?」
不意打ちみたいな質問だった。もうこの話題は終わったと思っていたところに、静かな声で投げ込まれたせいで、少し反応が遅れる。
「え……わかんないよ、急に言われても」
「えー、ノリわるかねぇ」
「悪くて結構。難しい質問しないで」
私は歩み寄って、軽く額をぺしっと叩く。彼は「いて」と小さく声を出し、そのまま目をやわらかく閉じた。その反応が思っていたよりも素直で私は一瞬、拍子抜けする。かわいいなぁ。そんな感想が、遅れて浮かぶ。
「じゃあさ」
私は、そのまま引き下がるのも癪で、少しだけ仕返しをすることにした。
「そういう、ホークスは?」
「はい?」
「私専用。何にするの」
「え」
と、声を漏らして彼は横になったまま腕を組み目を閉じる。本気で考えているらしく眉間にうっすら皺が寄る。その様子を横目に見ながら、私はテーブルの隅に置いてあったハンドクリームを、手に取った。
「……パワー、ホール?」
その言葉に、思わず手が止まる。勢いよく振り返ると彼はもう目を開けていて、ついでに上体も起こし、なぜか、プロレスの構えをしていた。
「誰がプロレスラーだよっ」
今度は、手に持っていたハンドクリームの先で彼の額をコツンと叩いてやった。
「ちょ、それは痛いですって!」
両手で額を押さえて、眉間をぎゅっと寄せる。けれどすぐに、へらっと笑って彼が言う。
「俺にも、貸してく〜ださいっ」
「なにを?」
「ハンドクリーム」
仕方なく、「はい」と、手のひらに少し出してやる。彼は、慣れた手つきで両手を擦り合わせ、指先まで塗り広げてから、くんくん、と、匂いを嗅いだ。
「わー、これ、いい匂いっすねー」
「お気に入りのやつ」
「ベタつかないのも、いい」
「よかったら使いかけだけどあげるよ。ストックあるから」
「やった」
その一言と同時に、さっきまで半分眠りかけていたはずの彼が、嘘みたいに即座に顔を上げる。もう目ははっきりと覚めていて反応の速さだけが妙に正直だった。
「じゃあそれ、あのダウンのポケット入れといてくださいね」
「自分で動いてよ、もう」
口ではそう言いながらも、私の足はすでに進み出していた。そして、ハンガーに掛けてある彼のダウンのポケットに言われた通りきちんと入れてやる。たぶん私は彼の保護者枠なのだろう。そう思いながらも不思議と、嫌ではなかった。
「俺さー」
見ると彼は頭の後ろに両手を添え天井を仰いだまま、またソファに、横になっていた。彼専用になりつつあるブランケットの端が、胸元までずり落ち、呼吸に合わせてわずかに上下している。
「待ちうたの原理、ちょっとわかる気がして」
「んー?」
私は彼に背を向けたまま、無意識にハンガーにかかったそのダウンの裾を指先でなぞりながら、そう聞き返す。布は冷えているはずなのに彼がすぐそばにいる感覚だけが、妙に近かった。
「待ってるあいだ相手のこと考えてる余裕なんてなかったんですけど、今までは」
「……」
「3コールくらいで切ってメッセージ入れとこー、みたいなさ?」
「……」
「まあ、基本、電話相手はヒーローたちなんで」
「……」
「でも……」
そこで彼の声がほんの少しだけ途切れる。冗談めいた軽さが抜け落ちて、声の奥に、別の温度が混じったのがわかった。
「……経験したんす。ちょっと前に」
「……え」
そこでようやく私は彼のダウンから手を離し、身体ごと振り返る。彼はまだ天井を見ていて私の視線には気づいていない。
「月が——見えた、気がして」
「……」
「名前さんの声、聞きとうなったと」
その言い回しに胸の奥が強く打たれた。どくんどくん、と、自分の心臓の音が急に近くなる気がした。
「いま、なんしよーとかなぁー、とか」
「……」
「……やば。ばり、会いたかー、って……」
「……」
「待ってるあいだ、俺……幸せやったけん」
言葉が、やわらかく落ちてくる。それは冗談に逃げる余地のない調子だった。
「……覚えて、るの?」
一瞬、室内の空気が張りつめた気がした。暖房の音も、冷蔵庫の唸り声すらも遠くなったように感じる。彼は横になったままゆっくりとこちらを見る。視線が合う。その距離に、もうごまかしは効かなかった。今夜は、まだ終わらない。そう、確信してしまうほどには。
沈黙が流れているあいだ、私は視線を、足元に逃した。カーペットの毛並みを追うように意識を逸らさなければ、胸の内側がうるさくなりすぎる気がしたから。
ソファのきしむ音。彼が身体を起こしこちらへ近づいてくる気配が、空気の密度をまた変える。
「……年を越した感じ、しましたね。やっと」
言われて顔を上げるとすぐ目の前に彼がいた。いつものように目尻をわずかに下げ困ったようでいて、それでも逃げない、優しい顔をして。
「……覚えて、るんじゃん……」
「すみません」
「すみません、じゃ——ないよ……」
私は、視線を落とす。派手なカウントダウンも乾杯も、もうない。それでもこの瞬間に、確かに年は切り替わったのだと身体のどこかで理解していた。
「もう、あなたに嘘つき続けるの、しんどくて」
「……最低」
「ですね」
自嘲するみたいに落とされた声音だった。笑いにすらなりきらないその低さ。私は何も返さずにいる。その沈黙を埋めるみたいに、彼の指先が、そっと、私の手に触れた。探るように、確かめるように。逃げないかどうかを量るみたいな、慎重すぎるほどの触れ方で。
触れているのに掴まない。その距離感が、今の彼という輪郭、そのものだった。
「……触らないで」
「今日は触れる前提で、泊まったんですけど?」
「……っ、」
強がって言ったはずなのに、私はそのまま手を引かなかった。むしろ、重ねてしまう。指と指の隙間を埋めるみたいにして。そして彼は、それを受け入れる。絡み合った指先の温度に私は静かに確実に、異性を意識していた。
「ずっと言えなくて……ほんと、ごめんなさい」
「やだ、もう……」
「覚えてないふりしてたのは、あなたに、嫌われたく……なかったからで」
「……もう、いい。何も、聞きたくない……」
「ずるいですよね、俺って」
「……知ってる」
言葉はもう、十分だった。それ以上続けたら、何かが壊れてしまいそうで私たちは自然と黙る。彼の体温がすぐそばにある。近いのに急がない。その距離の保ち方が、今夜のすべてを、物語っていた。
「今さら、嫌わないよ、あんなことで……」
声は、小さかったけれど、曖昧に流すつもりはなかった。言葉を選びながら、それでも逃げずにちゃんと、彼に届くように置く。
「よかった」
彼はそう言って、ほんのすこしだけ息を吐く。張りつめていたものが、やっと、緩んだみたいな呼吸だった。
「……今度、銀座の高級フレンチ、連れてって」
「ははは。そんなんでいいなら、いつでも——」
それだけの約束。時間も、順番も、決めない。
その夜、私たちはもう、多くを語らなかった。触れることも触れないことも選ばなかったことも選びきれなかったことも、同じ空間でただ、同じ時間を過ごした。でも、途中であることを確かに共有できた夜だった。眠りに落ちる直前に、彼の体温が、すぐ近くにあることを、ただ受け入れるだけの夜。
年は変わった。関係が劇的に変わったわけではない。それでもあの玄関で手を伸ばしたことが、確かに一歩だったということ。そしてその一歩を彼が受け止めたということ。境界線はまだここにある。けれど今は同じ側に立ってそれを見つめている。
新しい年は派手な始まりではない。それでも、私は知っている。あの初詣の帰り道と同じようにすこしずつ前に進く、その歩幅を。私よりも私をわかっているのが誰で、そんな私の世界を静かに照らしているのが、どんなヒーローなのかを。
夜はもう、十分に深い。それでもこの一歩分のやり取りが今夜を確かに��一緒に過ごした夜�≠ノしてくれていた。