年が明けて数日。三箇日も過ぎ世間がようやく日常の顔を取り戻し始めた頃だった。仕事納めの名残りに浸る余裕もないまま、人々がそれぞれの仕事へと引き戻されていく、そんな空気の中で、ホークスは珍しく、少しだけ困った顔で現れた。
「……お疲れ様です」
「お疲れ様です、ホークス」
「すみません、スマホの調子が悪くて」
端末を差し出す声はいつもよりほんのわずかに低い。緊急性はないけれど、放っておくには落ち着かない、そういうトラブルのときの、彼特有の声音だった。
「どんな感じですか?」
「着信音が、鳴らないんです」
「え、通知は?」
「来てます」
「バイブは?」
「動いてます」
「音量は?」
「最大です」
確認を重ねながら私は端末を受け取った。設定画面を開きスピーカーのテストをかけ、ミュート設定や各種音量項目を順に一つずつ辿っていく。しかし、どこをどう触っても、引っかかるような異常は見当たらない。
「……ほんとに、鳴らない?」
「俺もそう思って、何人かに頼んで何度もかけてもらったんすけど」
端末は、ひどく無実そうな顔をしている。本来ならこちらからも試験発信をしたいところだが、あいにく業務端末はどれも、他のスタッフが使用中で今は空きがない。今日は時間帯も悪かった。年明けで、対応が全体的に増えている。
「どうしましょうねぇ……」
「俺、もう一回再起動してみます?」
「うーん……」
少し考えてから、私はふと、思いついた。思いついてしまったという言い方のほうが正しいかもしれないけれど。
「……私から、かけてみますよ?」
「え」
「私の個人スマホなら、空いてるし」
一瞬、彼の眉がわずかに動いた。断る理由も、断る立場でもない——そんな、曖昧な表情。
「……お願いします」
私は自分の端末を取り出し彼の連絡先を探す。その操作は慣れたもののはずなのに、指先だけが微妙に落ち着かない。理由は、その間、なぜだかホークスの口が止まらなかったから。
「いや〜、それにしても、今日も寒いっすねぇ」
「……ですね?」
「あっ、でも今日も、いい感じっすよ」
「え?」
「その首元のスカーフ。ばり、似合ってます!」
「……あ、ありがとうございます」
「ここの制服、かわいいですよね。プロデュース誰なんす?有名どころ?」
私は自分の端末の画面から、一瞬だけ、視線を上げる。
「そのスカーフ、結び方とかあるんですかぁ?」
「……」
「自由?それとも公安規定の何か決まった——」
「ホークス」
「はい!」
「今日も……ペラペラペラペラ、よく喋るね」
「ははっ!褒め言葉ってことでいいです?それ」
彼の勢いに少しだけ飲まれつつ、ようやく発信ボタンを押し、すぐにスピーカーに切り替える。本来ならここで聞こえるはずだったのは無機質な呼び出し音だった。——けれど。
『♪ことしっの、春はぁ、どこ行こうかぁ〜♪』
軽快でやけに聞き覚えのあるイントロがフロア全体に、響き渡った。遅れて、思考が追いつく。視界の端で、ホークスも完全に固まっているのがわかる。
「あ……名前、さん」
「……」
『♪春の桜もォ夏の海もォ〜あなたとッ見たいッあなたとッいたぁ〜いッ♪』
「あの、名前さん……」
『♪秋の紅葉もォ冬の雪もォ〜あなたと見たいッあなたとッいたぁ〜いッ♪』
「なに」
「……っ!」
「これ。」
私の端末からは容赦なく続く——『春夏秋冬』私はそのまま無言で通話を切った。するとフロアの空気が一瞬だけ、妙に澄む。
「ホークス」
「はい……」
「……説明を」
「……っ、」
淡々と告げると彼は俯き加減で、目に見えて、耳まで赤くしていた。
「……あの、その」
「はい」
「設定、した、覚えは……あります」
「あるんだ……」
「でも」
「でも?」
「名前さんからの着信に、設定した、記憶は……ない、です」
私は端末を見る。次に彼の顔を見る。それからもう一度、端末を見る。片方は赤くなってはいるものの、どちらも、何も悪くなさそうな顔をしているのが、逆に腹立たしかった。
「……あのねぇ」
「……はい」
「個人設定は、自分で切り替えなくちゃいけないんです」
「……え。」
「ただ設定しただけだと、もれなく、全員に流れます」
「あー」
「あなたに電話をかけてきた、すべての人に」
言葉の意味が少し遅れて現実味を帯びる。彼は先ほど『何人かに頼んで何度もかけてもらった』と言った。すなわち相手は何人ものヒーローたちである。その全員に呼び出し中、『春夏秋冬』が流れていたということになる。
「……誰からも、指摘されなかったの?」
「されませんでした……」
「大方……またホークスが変なことやってるな、って、思われてたんでしょうね」
「言い方ぁ〜」
「事実でしょ」
「……あ、でも」
そこで彼は、何かを思い出したように、ほんの一瞬だけ視線を上に泳がせてから続けた。
「目良さんからは『今年も能天気ですね』って、言われたかもしれません」
「……目良さんって、公安の?」
「はい!」
やけに元気な返事だった。私は軽く額を押さえ深呼吸する。怒るほどの話でもない。けれども、放っておくには問題が多すぎる。彼は相変わらず致命的なところで危機感が薄い。
「……ホークス」
「はい!」
背筋を伸ばす音が聞こえてきそうな返事だ。
「あなた、これ、いつ設定したの」
「え、っと……年、明けてから」
「理由は」
「……」
「ホークス」
「あ、いや……その、待ちうたの話……したじゃないですか」
途端に記憶が呼び起こされる。ホットミルクの匂い。ソファの沈み込み。触れそうで、けれども最後まで触れなかった、あの曖昧な距離。元旦の深夜——ほんの一瞬だけ手と手が重なった、あのときの空気を。
「……だから?」
「だから」
彼はまた私から視線を逸らし、それから、観念したように言った。
「一番、どうでもよくない曲を、選びました」
——どうでもよくない。
その言い回しが、あまりにも彼らしくて、私は一瞬、怒るべきか笑うべきか、本気で迷う。
「仮にも、ヒーローの業務端末だよ?これ。」
「はい」
「相手だって、公共の場でかけるやつだよ?」
「はい……」
「しかも」
私は、なるべく感情を平らにして続ける。
「着信音じゃなくて、待ちうた」
「……はい」
そこで会話が止まる。彼は何も言わず、ただ、気まずそうに口を結んだ。フロアの空気がほんの一瞬だけ張りつめて、それから、静かに緩んだ。私は端末をカウンターの上に置く。年は明けてもこのヒーローは相変わらずだ。でもその「どうでもよくない」を業務端末にまで持ち込むあたりがどうしようもなく、ホークスで。私は、ため息をつく代わりに小さく肩を落とした。怒りきれないのが一番の問題なのかもしれないと、自分で思いながら。
「公安の本部で、意地悪されたんじゃないの?」
「……っ!」
「遠隔操作か、何かで」
「……」
「ホークスだけの着信音が、鳴らないように」
彼は、ゆっくりと私を見る。その目に浮かんだのは驚きというより、思い当たる節を探しているときの顔だった。
「……え。そんなことって、あるんですか?」
「さあ。今まで、聞いたことはないけど」
「えー......」
「目良さんあたりが、締まりがないですねぇってわざと、鳴らないようにしたとかさ」
「ふは!それ声真似ね?いっちょん似とらーん」
「……」
「あ、すんません……」
そのやり取りに私は小さく息を吐いた。冗談に逃げようとする癖も軽口で場を和ませようとするところもいかにも彼らしい。けれど今回ばかりは笑って済ませられる話ではない。
「え、あの……」
「はい」
「本気で、そんなことできるんです?公安側で」
「……まあ、一応ね」
私は肩をすくめる。断定はしないけれど否定もしない距離感で。
「実際にやられたヒーローは、記録にないけど」
数秒の沈黙。彼の中で、冗談だった可能性が、少しずつ現実味を帯びていくのがわかる。やがて額を押さえ、ゆっくりと息を吐いた。
「今日……公安に、顔、だしてきます」
「ですね。」
私は即座に頷いた。判断に迷う余地はない。
「こっちでも端末、一度預かって、技術チームに確認してみるから」
「はい……」
それで話は終わるはずだった。けれど彼はそのまま立ち去らず、ほんの一瞬だけ言葉を探すように視線を落として苦笑した。
「……いや、なんか」
「……ん?」
「相手を待たせてる時間、無駄にしたくなくて」
その言い方が、あまりにも彼らしくて、責めるために用意していたはずの言葉が胸の奥で静かに崩れる。叱るべき場面なのにどうしても声が強くならない。私はそっと、彼を見る。
「——もし、直ったら」
「はい」
「……設定、戻しておきますか?」
「あ、はい。着信音だけ、元に戻してくれれば」
「待ちうたは?」
「……その、ままで」
私は端末を見下ろしたまま、内心で小さくため息をつく。
年が明けても、このヒーローは相変わらずだ。でも、その「無駄にしたくない」という感覚が、業務端末にまで染み出してしまうところが、どうしようもなく、ホークスなのだとも思う。私は、書類を一枚取り出し視線を上げないままで言う。
「……私、もう、かけないよ」
「え」
「毎回これが流れるの正直ちょっと鬱陶しいし」
空気が、すとんと落ちた。言葉の余韻がカウンターの上で止まり、フロアの雑音だけが、遠くに残る。
「えぇ〜? やァーですぅ……」
情けない声を出しながら、彼は肩をすくめる。ほんの少し身体を左右に揺らすその仕草が、反省しているのかしていないのか判別に困る。粗方、していないのだろう。
「じゃあ、待ちうた、解除してください?」
「えー......」
彼は、視線を泳がせ、考えるふりをしてから、ぼそっと続ける。
「思い出ん曲なんにぃ……」
「誰と」
「名前さんと」
「……」
「俺、初めてなんすよー?思い出の曲できたの」
一瞬、言葉に詰まった。わざとらしく、駄々をこねていたくせに、そこだけ妙に素直だ。そして彼はまた身体を揺らして、子どもみたいに不満を示したかと思えば次の瞬間には空気を読むように動きを止める。ほんの短い逡巡。そのあと、観念したように息を吐いた。
「……わかりました。」
彼は一度、視線を落としてからゆっくりと息を整えるように言った。軽口を挟む余裕も冗談めかす調子も、もうない。ようやく状況を受け止めたあとの、静かな声音。
「じゃあ、すぐ出ますんで。ね?」
条件付きの譲歩。それでもそれが彼なりの誠意なのだと、私はもう、わかってしまっていた。
「……私から、かかってきたらってこと?」
「すぐです」
「どんな、ときでも……?」
「出ます」
「即?」
「即です、秒。」
「……」
「速すぎる男、舐めんでくださいよ?」
冗談めかした言い方なのに、語尾だけがやけに真面目だった。
私はため息をひとつ吐いて、書類にチェックを入れる。ペン先の音が、やけに大きく聞こえた。
「じゃあ……成人式、終わるまでだからね」
「はいっ」
「そのあと変えなかったら」
「変えなかったら?」
「そのときは——」
私はそこで少しだけ間を置く。彼が続きを待つのを、わざと見ない。
「銀座の高級フレンチの他に、スペインのスブリモーション、追加で」
「うわっ……世界になった。ほんとに春夏秋冬、制覇じゃないすか〜」
私は顔を上げて無言で睨む。彼は一瞬で察して「あ、すんません」と、素直に頭を下げた。私はまた視線をそっと書類に戻し、淡々と告げる。
「一人、1,740ドル」
「え、えっと……せん、なな、ひゃく……?」
両手で指を折りながら本気で計算し始めるそのヒーローの横顔を横目に私は追い打ちをかける。
「日本円で、約25万円以上」
「えっ」
「ちなみに、旅費は別ですので」
「えっ、それ……二人で行ったら最終、いくらになるんす?」
「あ〜あ!もうホークスに、電話できないなー」
「ちょ、ちょっと待ってくださいってっ!」
「待ちうた流れるしなー」
「それはもう解除します!ちゃんと!」
「……ほんとに?」
「……はい。だからもう、いじめんで……」
観念した声だった。端末はきっと無事に直る。だから業務上の問題は解決したはずなのに、彼の��待ちうた�≠ヘ相変わらず今も春から夏へ、秋を越えて、冬まで、巡り続けている。
年は明けても私たちはまだ途中にいる。関係が劇的に変わったわけではない。ただ呼び出し音の向こうで待つ時間を誰かの時間として想像できる人がこうして隣にいる。それだけで今のところは十分だと思えた。
*
それから数日後の午後、休日の部屋にインターホンが鳴った。
予定はなかった。宅配の心当たりもない。嫌な予感とまではいかないが、胸の奥に小さな引っかかりを覚えながらドアを開けると、そこに立っていたのは、ずいぶんと見慣れたヒーローだった。片手にはやけに大きな段ボール。もう片方の手は空いているのに、なぜか姿勢が落ち着かず、申し訳なさと確信が、半々に混ざったような顔をしている。
「こんにちはー」
「……なに、それ」
「こたつです」
なんとも、きれいすぎる即答だった。そこに、悪びれた様子は一切なく、言い訳のための助走もない。最初から引き返す気のない声だ。
「買いましょうよ、って言いましたよね」
「言ってたけど、今すぐとは言ってなかった」
「検討する、って言ってましたし」
「検討は同意じゃないです」
きっぱり言い切ると彼はほんの少しだけムッとして眉を下げる。反論を探すというより、言葉の落としどころを測るみたいな顔。
「じゃあ……」
と、短い沈黙のあと思いついたように続ける。
「提案が具体化しただけ、ってことで」
「勝手に具体化しないでよ」
それでも、玄関の敷居は絶対に越えない。その所作に思わず、さすがだなと思ってしまう。
彼は、玄関先で立ったまま段ボールを抱えて、楽しそうに待っている。私はため息をひとつ落としてから、ドアを大きく開けた。
「……入って」
「お邪魔しま〜す」
箱は思ったよりも重く、結局、ふたりで持ってリビングへ運ぶことになった。途中、その個性の剛翼で運べばいいのに、と思いはしたが、彼が、あえてそうしない理由もなんとなくわかっていたから、あえてそこは、口には出さなかった。
「腰、やらないでよ?」
「だいじょぶですって!まだ若いんで」
「信用ならない返事だね」
「じゃあ、万一やったら無償マッサージで」
「私がやるのかい!」
掛け合いのまま段ボールを抱えて歩く。角度を変えながら慎重に進むうち、ようやくリビングの中央に置くことに成功した。ほとんど同時に手を離して、ふう、と息が重なる。
「サイズ、測ったの?」
「はい。あなたがいない時間に」
「怖いこと言わないで」
「ちゃんと外からですよ」
言い訳めいた補足に、思わず視線をやる。彼は悪びれずすでに箱を開けて説明書を広げていた。付属の工具も揃え作業は淡々と進んでいく。彼はこういうところが妙に手慣れていると思う。迷いがない。途中で「こんな感じすかね?」と確認はするけれど、最終判断は必ず、私に委ねる。
「ごめんね、話しかけていい?」
「いーすよ」
「あのさ?」
「はい?」
「完成品、買えばよかったんじゃないの」
工具を持つ手が一瞬だけ止まり、彼は信じられない、という顔で、こちらを見やる。その表情が大げさすぎて、少しだけ笑いそうになった。
「わかってないですねぇ」
「わかりたくもないけどね」
「重い思いをしてですよ? 一緒に組み立てて」
「私、いっさい手伝ってないけどね」
「そして、あーでもない、こーでもないって笑いながら言い合うのが、醍醐味じゃないすかー」
「笑えないし、あーもこーも言ってないけど」
ああ言えばこう言う、の応酬を挟む私に、彼は小さく笑う。言い返す代わりに、視線をこたつへ戻し、また黙々と手を動かしはじめた。その切り替えの早さが、なんとも彼らしいと思う。
「高さ、これでどうです?」
「……もう一段、下でもいいかも」
「了解です、これくらい?」
「……うん、たぶん」
「じゃあ、固定しますね〜」
最後のネジが締まる音がして、彼が一歩引く。完成したこたつは、部屋にすっと馴染んでいた。まるで最初からそこにあったみたいに、違和感がない。しかし、そこで私は「で」と、腕を組む。
「なんで、買ってきたの」
「寒かったんで」
「あなたが?」
「あなたが」
ずるい言い方だと思う。それでも、その一言で言い返せなくなるところがいかにも私らしいな、と、苦笑してしまう。そのときふと思い出した。私は何も言わずに彼に背を向け寝室へ姿を消す。そしてすぐに戻ると私の行方を追っていたらしい彼が、不思議そうに首を傾げていた。
「そういえばさ?」
「……なんですか」
「これ」
「ん?」
「いつもその剛翼、バサバサさせてるから」
「え」
「収納、できたらいいかなって……」
そう言って差し出した落ち着いた色合いの折りたたみ式収納ボックスを目にした瞬間、彼の表情が、ぱっと変わった。わかりやすく、目が輝く。そして次の瞬間。説明も確認も挟まらないまま、シュバババ、と、ものすごい勢いで剛翼の大半が箱の中へと消えていった。
さっきまで、たくましい彼の背に広がっていた羽が今はちょこんと、小鳥レベルに残っている。そのアンバランスさがどうにも可笑しくて、私は思わず、口元を押さえた。
「……どういう、こと?」
「すごくないですか」
「すごいけど……急すぎるし情報量が多すぎて」
「こういうの、即やりたくなるタイプなんで」
誇らしげなその背中を見送りながら私は内心で首を傾げる。ヒーローとしての迫力と生活面での見事なまでの方向音痴さはなぜこんなにも違和感なく同居できるのだろう、と。
そしてその答えを考える間もなく、彼はもう、こたつの電源を入れ、何事もなかったように中に入っていた。
「ほら、名前さんも」
当たり前のように促されて仕方なく私もそっと足を入れる。するとすぐにじんわりとした熱が、足元から広がってきた。
「はぁ〜……ぬくかぁ〜」
彼はこたつ布団を肩まで引き寄せ、完全にくつろぎモードだった。人の家だという自覚は、どうやら温度と一緒に、溶けたらしい。しばらくして彼が、ふとこちらを見て問う。
「……どうです?」
「……あったかい」
「ほらぁ」
最初はどこか落ち着かない様子だったが、その一言を聞いた途端、彼は満足そうに頷いてから、それでもなお、念のため、と言わんばかりの顔でもう一言、付け足そうとする。
「別に、居座る口実じゃないですよ?」
「信用していいの?」
「今のところは」
こたつの中で、彼の足が私の足に触れる。すぐには離れない。
私は、ここで少し身構える。というのも私とて一応��女子�≠ナある。こういう状況になれば頭の中では自然とありがちな、トレンディドラマ的な展開などを想像してしまうわけで。
『ねえ、足、触れてるんだけどぉ……♡』
『あっ、ご、ごめんなさい。つい……♡』
みたいな。距離が近づいて、ちょっと気まずくなってみたりして、それからそれから、お互いに視線を逸らして——みたいな、さ?
しかし、今ここにいるのは私とあのホークスである。当たり前だけれど、現実はそんな都合よく転ばない。
「ねえ」
「はい?」
「さっきからさ」
「はい」
「ずーっと、私の足、踏んでるんですけど?」
「え」
彼は一瞬、きょとんとしたあと、慌ててこたつ布団をばさっとめくって、足元を確認する。覗き込む動きがやけに大きくて、こちらのほうが驚くくらいだ。
「あ、すんませんねー」
「もうさ、五回くらいは踏みつけられてたから」
「えー、またまたぁ〜、大げさですってー」
言いながら、全然どいていない。むしろ若干、さっきよりも踏み込みが、深くなっているような気さえする。謝罪と行動が、噛み合っていない。
勝手に相談もなくこたつを買ってきたくせに、勝手には踏み込まない。——それが、これまでの彼、だったはずなのに。どうも最近、その均衡がほんの少しだけズレている。距離の詰め方が雑というか、気遣いの方向が生活寄りというか……。
弟、兄、双子——あるいは飼い犬。この際なんでもいいけれど、家族に彼みたいな人がいたら、たぶん、こんな感じなのかもしれない。
「……ねえ」
「はい?」
「これ、踏んでる自覚ある?」
「ありますよ」
「あるんだ」
「でも、あったかいんで」
理由にすらなっていない。私は、呆れたように息を吐きつつ、こたつの中で、足をずらす。彼はそれに合わせて無意識に位置を調整する。結果、また踏まれる。
「……もういい」
「え、なんで」
「期待した私が悪かった」
「なにをです?」
「ラブコメにしか転ばないって話」
「ラブコメ?なんすかー、それ?」
彼は意味がわからない、という顔をして、首を傾げる。その無自覚さが、ひどく彼らしい。
こたつの中で、足が触れ合っていたとしても、今日も私たちは、境界線の上にある。けれどその線はどうやら最近少しだけこちら側に踏み込まれがちだった。
「……みかん、買っておけばよかったなぁ」
「次来るとき、持ってきます」
「��次�≠ェ、ある前提なんだ」
「え、ダメでした?」
「……別に?」
このこたつはたぶん、境界線の象徴だ。温度は共有するけれど距離は自分で決めるための。
そんなことを思いながら、私はこたつの中で、足を思い切り伸ばしてやった。
*
結局、こたつは私の生活に定着するよりも早く彼の生活動線に組み込まれていった。
任務終わりに「少しだけいいですか」と現れ、気づけばこたつに入っているヒーローホークス。
「少しだけ、って言ったよね」
「体感では、少しです」
毎回、飽きもせず、そんな応酬が繰り返されてそれが週に一度になり二度になり、気づけばもう回数すら数えなくなっていた。まるで——端末を立て続けに壊しては、何事もなかった顔で持ってくるときと、同じ流れだ。
「……もう、住民票、移したら?」
彼が手土産に持ってきてくれたみかんを剥きながら、私はこたつの中で冗談めかしてそう言う。
「いやいや」
口では即座に否定するくせに、身体はまったく動かない。こたつの中から出る気配もなく、ぬくもりを手放す様子もなさそうだ。
「それはまた、別の話です」
「あ、そう。」
そこで一旦、会話は途切れた。彼がリモコンに手を伸ばしてテレビをつけ、部屋に、音が戻る。ニュースに適当なイチャモンをつけたり思い出したことなどを、ぽつぽつ拾い上げたりしながら、また、取り留めのないやり取りが続いていく。
気づけば湯のみから立っていた湯気が、ゆっくりと薄れていた。時間だけが静かに進んでいる。その様子を眺めながら私はふと思いついてほんの少しだけ、意地悪を言う。
「ねえ」
「はい」
「セーフハウスにも、買ったらいいじゃん」
「なにを?」
「こたつ」
その一言で空気が、ほんの少しだけ変わった。彼はみかんに伸ばしかけていた手を止めて、そのまま、視線を落とす。
「……それは」
すぐに続くはずだった言葉が来ない。代わりに考え込むような沈黙が挟まる。
「考えては、いるんですけど」
そう言った顔は「買えばいいじゃん」で片づけられる話ではない、と雄弁だった。その歯切れの悪さが意外で、私は少しだけ可笑しくなる。
「なに、その歯切れの悪さ」
「だって、置いたら……」
彼は困ったように笑う。いつもの軽さをまといきれないままで。
「独りぼっちに、なるじゃないですか」
私は思わず、手にしていたみかんを、ぽろっと、落としそうになる。
「……誰が?」
「俺が」
冗談の形をしているのに、核心を外していない言い方だった。私は何も言えず、代わりにみかんの房を口に入れる。
こたつの中で、彼の足がまた私の足に触れる。わざと離れない。でも、それ以上も近づかない。
「セーフハウスは、寝るだけの場所ですから」
「じゃあ、ここは?」
「ここは……なんていうか」
彼は言葉を探して、結局、曖昧に終わらせる。
「違うんですよね」
違う、という一言にいくつもの意味が含まれているのがわかる。だから私はそれ以上聞かない。
「じゃあ、当分ここで温まれば?」
「……お言葉に甘えます」
こたつは今日も相変わらず境界線の上にある。彼はそこに入り出ていく自由を保ったまま、私の時間に混ざる。煮え切らないのではなく——慎重なのだ。そう、理解してしまう自分がいる。
私はまた、みかんをひとつ手にとる。冬はまだしばらく、続きそうだ。