カーテン越しの光は柔らかく街全体がまだ完全には目を覚ましていないみたいな色をしている。
 出勤前のいつもの動作をなぞるように、私は、キッチンに立ち、湯を沸かし、マグカップを手に取った。その流れでテレビをつけたのは、完全に習慣だった。
 画面には、毎年の見慣れた光景が流れている。芸能人たちの晴れ着姿。そう——成人式である。振袖の色や帯の結び方が話題になり、どこのブランドだの誰が一番似合っているだの、そんなコメントが軽やかに重ねられていく。続いて、各地の成人式会場の映像。晴れやかな顔、少し緊張した笑顔、はしゃぎすぎてインタビューを受ける若者たち。……ああ、今年もこの季節か。
 そう思いながら私はカップに注いだコーヒーをひと口飲む。そのまま、ぼんやりと画面を眺めていた、そのときだった。

『そして今年は、少し異例の動きもあります』

 アナウンサーの声が、ほんのわずかにトーンを変える。画面のテロップが切り替わり私は自然と視線を上げた。

『これまでヒーローたちは晴れ着姿でメディアに登場する事はほとんどありませんでしたが——』

 ……嫌な予感、というほどではない。でも胸の奥で、こたつの電源が入る前みたいな、じわっとした熱が広がる。

『今年は、あの、ウィングヒーロー・ホークスが成人を迎えるということもあり——』

 そこで、私は完全に動きを止めた。画面が切り替わる。どこかの屋外。背景は落ち着いた和風の建物。そして——。

「…………は?」

 声が勝手に出た。そこに映っていたのは見慣れすぎているはずのヒーローだった。けれど一つ、見慣れていない部分もあった。黄土色に近い落ち着いた黄色を基調にした、羽織。派手に主張する色ではないのに、光を受けるとわずかに、金味を帯びて彼のあのヒーローコスチュームを思わせる色合い。羽織の縁には、羽根を連想させるような細い金糸が控えめに織り込まれ、近づいて、ようやく気づく程度の装飾が施されている。
 中に合わせた着物は淡い生成りよりも少しだけ温度のある象牙色で、全体の黄色味をやわらかく受け止めていた。袴は深い茶に近い黄褐色。縦のラインがすっと通り、彼の体格をより際立たせていた。
 そして、その落ち着いた色の重なりの奥で背中から生えた剛翼の羽だけが、はっきりとした赤を帯びている。くすんだ黄と金の静かな配色の中でその赤は、不思議なほど浮かず、むしろ、彼がヒーローであるという事実を無言のまま思い出させる印のようだった。
 晴れ着の品の良さと剛翼の鮮烈さ。その対比が彼という存在を、いっそう際立たせている。足元には草履。——派手すぎる。でも、どう考えても似合いすぎている。

『皆さん! 晴れ着姿のホークスでーす!!』

 アナウンサーの声が少しだけ浮き立っている。カメラが寄る。彼はあの『仕事用』の笑顔よりも少しだけ柔らかい表情で「イエ〜イ☆」とピースサインを向けている。私は完全に目が点になっていた。
 インタビューが続く。彼はもう、余計なことは言わない。でも、逃げもしないその、出で立ち。

『今日はヒーローとしてではなく、一人の成人として——』

 ……興味なさそうだったじゃん。成人式とか、どうでもいいみたいにって言ってたじゃん。そもそも、こういうの、嫌いなタイプじゃなかった?
 頭の中で、次々にツッコミが浮かぶのに、口は開いたままだった。

「……なんで」

 誰に向けた言葉でもない独り言が、部屋に落ちる。昨日まで私のこたつでみかんを剥いて、足を踏んで揉め合っていた男が——。勝手にこたつを買ってきて、勝手には踏み込まないあの距離感を少しズラして来ていた男が。今、全国ネットで、晴れ着姿で、笑っている。

『ホークス、成人を迎えての抱負はっ?』

 そう聞かれて、彼は、少しだけ考える素振りを見せたあと、静かに答えた。

『……できることを、ちゃんとやる、ですかね』

 あまりにも彼らしい。肩肘張らないのに、逃げない言葉。

『——ヒーローが暇を持て余す世の中にしたいんです』

 私は、ふっと息を吐いた。なんだか可笑しくてそして少しだけ、誇らしくて。

「……ほんと、ずるい男。」

 そう呟きながらテレビを消す。画面が暗くなり部屋には朝の静けさが戻る。
 ——成人式。彼は、ちゃんとそこに立つことを選んだのだ。誰かに見られる場所で、逃げずに。あんなに、興味なさそうな顔をしていたくせに。あんなに、こたつの中ではだらけていたくせに。
 私はコートを手に取りながら思う。今日きっと彼は何事もなかったみたいに、いつもの調子で、現れるのだろうと。
 そのときは。袴の色、似合ってたねと。何でもない顔で、ちゃんと言ってやろう。それくらいの意地は、持っていてもいい気がした。

 その日の午後、自動ドアが開いた瞬間艶やかな緋色が空気をひとつ、塗り替えた。思わず視線を上げかけて、ふと窓の外を見る。まだ日は高い。嫌な予感というよりも、やっぱり来たな、という確信に近い感覚を胸の奥に抱えたまま私は一旦、視線を目の前の書類へと戻した。

「お疲れ様でーす」

 ようやく顔を上げると、そこに立っていたのは見慣れた、ウィングヒーロー・ホークスだった。いつものヒーローコスチューム。いつもの、軽い立ち姿。背中の剛翼も、見慣れた角度で行儀よく畳まれている。
 ……ただし、ひとつだけ違うこと。彼は端末をやけに丁寧に、両手で抱えるように持っていた。

「お疲れ様です、どうしました」
「報告です」

 返ってきた声は、いつもよりもわずかに硬い。軽口を挟む余地を自分から潰したような、妙に、改まった調子だった。

「待ちうた、ちゃんと解除しましたよ」
「そうですか」

 私は、端末から視線を上げず、淡々と、それだけ返して端末を受け取る。事実確認としてはそれで十分だ。けれど、その一言だけをわざわざ持ってくるあたりに、彼の落ち着かなさが透けて見える気がして、内心では少しだけ可笑しくなる。

「貸してください」
「あ、はい!」

 目を合わせないまま端末を受け取り設定画面を開いて確認する。確かに彼の端末は通常の設定に戻っていた。

「問題ないですね」
「はい」

 彼もそれ以上、何も言わない。私は端末を返し彼はそれを受け取る。言葉のやり取りは、そこで途切れた。
 ——沈黙。しばらくして、彼が、妙に大げさな抑揚をつけて、ひとつ咳払いをする。

「いやぁ」
「……?」
「今日、テレビとか、見ました?」

 ——来た。

「見ましたけど」
「へえ」
「仕事前に」

 それ以上は言わない。私は書類を揃え直し次の束を、手に取る。紙の端を指で揃える音だけが、やけに大きく感じられた。

「どんな番組でした?」
「いつもの」
「いつもの?」
「お正月明けの映像とか、成人式の映像とか」

 淡々と答えながら、視線は書類から離さない。あえて話題を広げない。その態度は自分でも少し意地が悪いと思うけれど、今日はまだ、譲る気になれなかった。

「ふーん」

 と、彼の声が、ほんのわずかに上ずる。

「今年も出てました?芸能人とか」
「出てましたね」
「へえ〜」
「皆さん、相変わらず派手でした」

 完全に他人事の言い方だった。私は一度、彼に背を向けて書類を指定の場所へと戻す。すると、背後で剛翼が小さく揺れる気配がした。羽が擦れる微かな音に、言葉にしきれない落ち着かなさが混じっているのがわかる。

「今年は他にも注目されてたことあったじゃないですかぁー」
「そうでした?」
「あ、はい」
「……」
「その、なんていうか」

 彼は言葉を探すたびに、視線を宙に泳がせる。未だに忙しなく剛翼がわずかに揺れているのは、無意識なのだろう。

「普段はこの時期に出てこない職業の人たちも、というか」
「はい」
「いろいろ、注目、されてた人とか、も……」

 あまりにも回りくどい言い方に、ようやく私は顔を上げる。彼は、期待と警戒が半々に混ざったような目でこちらを見ていて、まるで自分からは絶対に言わないと決めているみたいな様子だ。

「なに」
「え」
「まどろっこしいですね」
「いやぁ、別に……」

 彼は視線を逸らす。私はそれを追わず、そっと視線を書類へ戻してから一言だけ、ぽつりと声を落とした。

「……嘘つきなんですもん」

 以前、彼から言われた言葉だ。我ながら、根に持っているな、と思う。
 直接見ていなくても、彼がはっと息を詰めて、こちらを見た気配が伝わってくる。それでも私は顔を上げない。ペン先を止めたまま、少しだけ、声音を強め、無表情のまま続けた。

「え、見たいです?ヒーローの晴れ着姿なんて」「え……」
「日頃から、派手なコスチューム着とーとに?」
「……」
「——って、言ってたくせに。」

 一拍。返事を待つでもなく、責めるでもなく、ただ事実だけを置いたつもりだった。その沈黙が思った以上に長く伸びる。

「あ、それ……俺、です?」
「嘘つき」

 短く切った言葉が静かな空間に落ちる。しん、と沈黙が流れた。彼は何か言いかけて結局それを飲み込み、困ったように口を閉じる。

「——で。他には、なにか?」

 私はようやく顔を上げ、事務的に問いかける。

「あ、いえ……特に、用はないんですけど……」

 そんなはずがない。
 用はあった。あったはずだ。絶対に——。

「じゃあ、報告が終わったなら」
「え」
「ヒーロー活動、戻るんでしょ」
「あ……まあ、」

 彼はあからさまに間が悪そうな顔をする。言いたいことはある。聞いてほしいことも、たぶん、山ほど。それでも口に出せずタイミングを逃したまま立ち尽くしている。あんなに目立つ晴れ着で堂々と立っていたヒーローとは思えないほどに。
 私はそれ以上、何も言わなかった。言わない、と決めたのは、私のほうだったから。

「……あの」
「なに」
「今日の俺」
「今日のあなたがどうしたの」
「えっと」
「なに」

 数秒分の沈黙が落ちる。そのあいだ彼は言葉を選んでいるようで、けれど最初から答えは決まっていたらしい。やがて諦めたように小さく、息を吐いた。

「……ほんとに、何も言ってくれないんすね」
「なにを」
「なんで、俺があげん、わざわざ……」
「なにが」
「いや、もういいです」

 肩をすくめて彼は背を向ける。剛翼がわずかに逆立つのが見えた。ブーツの踵が床を打ち、そのまま、自動ドアのほうへ向かう。足取りは珍しく早く、苛立ちを、隠そうともしない。その背中を見送って、私はようやく、口を開いた。

「ホークス」
「はい?」

 振り返る動きは鋭かった。風を切るように羽音が鳴り、少しだけ不機嫌そうで、それでもどこか期待を捨てきれない琥珀色の瞳がこちらを向く。

「似合ってたね」
「……え」
「かっこよかったです」

 今朝から胸の内にしまっていた言葉を口にして私はほんの一瞬だけ、間を与えた。

「ウィングヒーロー・ホークスの、晴れ着姿」

 そう言い置いた次の瞬間、彼の口元が驚くほど無防備に、ふっと緩む。

「……それ、もっと早く言ってくれてもよかったんですけど」
「言わないって決めてたから」
「意地悪ですねぇ」
「今さらでしょ」

 彼は小さく笑って満足そうに一度だけ頷いた。その仕草が、今日という日をきちんと自分の中に仕舞った合図みたいに見える。

「じゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」

 自動ドアが静かに閉まり羽音と足音がゆっくり遠ざかっていく。受付カウンターには、先までの気配だけが、薄く残っていた。私はそばに置いてあったカップを持ち上げて、冷めかけた温度を、掌に感じ取る。
 ——ほんとうに、ずるいヒーローだ。
 そう思いながら、否定する理由はどこにも見つからなくて、口元だけがほんのわずかに緩んだ。
 派手に祝われることはなくても、確かに今日、彼は、大人になったのだと、あとから静かに実感する。その背中を見送ったこの場所もこの時間もきっと、彼の��成人式�≠フ、一部なのだろう。

 彼が晴れ着姿で成人の日を迎えたとて、何かが劇的に変わったわけではない。翌日もその翌日も世界は変わらず回り続け、私の生活も彼の生活も驚くほど、同じリズムのまま続いている。ただ、同じなのに、どこか少しだけ、空気の密度が違うような気がしてならなかった。
 その日の夜も私は一人でこたつに入っていた。鍋をするほどでもなくかといって完全に手抜きというわけでもない、いつもの曖昧な夕食を済ませ湯気の立たないマグを両手で包みながらテレビの音を低く流している。こたつ布団の内側に溜まる温もりが、今日一日の疲れをゆっくりと溶かしていく。インターホンが鳴ったのは、そんな時間帯だった。

「……少しだけ、いいですか」

 モニターからは聞き慣れた声。理由も用件も、特別な前置きもない、相変わらず礼儀正しくて、相変わらず信用ならない言い回し。私は溜め息とも笑いともつかない息をひとつ吐いてから玄関に向かった。
 ドアを開けると、彼は、そこにいた。いつものように軽く手を上げて、いつものように肩の力を抜いた立ち姿で。成人式のときの晴れやかな姿がつい、昨日のことのように脳裏をよぎるけれど、今、目の前にいる彼は、そんな非日常をすっかり脱ぎ捨てた顔をしているただのヒーローだった。

「こんばんは」
「こんばんは」

 それだけのやりとりで彼はもう部屋の中に足を踏み入れていた。ブーツを揃えて、上着を脱ぎ、まるで、最初からここに、来るつもりだったかのような自然さで、こたつの存在を視界に入れる。その一連の動作があまりにも滑らかで生活の一部みたいに馴染んでいてだからこそ逆に腹が立つ。

「……あっ、空いてます?」
「どうぞ」

 そう言い終わるより先に、彼はごく当たり前の仕草でこたつ布団をめくり、そのままそれを肩を引き寄せた。ためらいも、確認もない一連の動作だった。拒む間も理由を探す余地もなく気づけばもう説明を挟む必要のない距離まで来てしまっている。その事実を、私は少し遅れて理解する。
 可笑しい、と思った。あれほど言葉を選び線を測ってきたのに、今はただ、この距離に収まっている。そのことが胸の奥で小さく弛み、私は声に出さずに、ほんのわずか笑った。
 彼が、ふうと息をつく。その音を合図にしたみたいに部屋の空気がほんの少しだけ落ち着いた。成人式の話も将来の事もあの夜に交わした言葉の余韻も今はここにはない。あるのは、同じ温度の中で同じ夜をやり過ごすために彼がここに来た、という事実だけだった。——たぶん、それが一番厄介なのだ。何も変わっていない顔をして何かが確実に積み重なっていく。そんな日常の入口に、私たちは今日も、何の合図もなく、並んで座っている。
 こたつは完全に我が物顔だった。正確に言えばここは私の部屋で、このこたつも今はもう、私のもののはずなのに、気づけばそこに収まっているのは、だいたい彼——ホークスだった。

「ねえ」
「はい?」

 今日も今日とて、向かいでみかんを剥いていた彼が特に疑問も持たない顔で視線を上げる。その動作があまりにも自然で、ここが自分の家であることを、彼自身がもう意識していないのではないかと思ってしまうくらいだった。

「このこたつ、誰のだっけ」
「名前さんのですね」
「だよね」
「はい」

 返事は早く、よどみがない。澄んだ目で当然の事実を述べるだけ。腹立たしいほど論理としては隙がなく、こちらの感情など最初から議題に含まれていない顔をしている。

「なのにさ」
「はい」
「なんで、あなたの定位置みたいになってるの」
「え」

 彼は一度、きょとんとした表情を浮かべると、こたつ布団をそっと持ち上げて、自分の足の位置を確かめるように、一瞬だけ、視線を落とした。その仕草が無意識すぎて、思わずこちらのほうが見入ってしまう。

「……俺、邪魔です?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、いいじゃないですか」

 理屈が強い。私はみかんの房をひとつ口に入れもぐもぐと咀嚼しながら考える。こういうとき、真正面から文句を言っても意味がない。彼は悪気なく正論で、返してくる。その潔さが今日は少しだけ悔しかった。だからほんの少しだけ意地悪をしたくなった。意地悪というより確かめたかったのかもしれない。彼がどこまでを『自分の場所』だと思っているのかを。

「実は……このあいだ、さ?」
「はい」
「このこたつ、他の人にも貸したんだけど」
「へ?」
「貸したっていうか、入らせた、っていうか」
「……」
「あったか〜い、って、好評でした」

 その言葉に、彼の声の温度が、ほんのわずかに下がる。

「……へえ」
「うん」
「誰に」
「ん?」
「誰に、言われたんすか」

 みかんの白い筋を取っていた彼の指が、途中で止まっているのが目に入る。無意識なのに、正直すぎる反応だった。

「知り合い」
「男ですか」

 感情のほうが先に出たような声音。考える間も躊躇いもない。言葉が即座に形になってしまった感じ。

「なんで、そうなるの」
「いや……だって」
「女だよ」
「……あ、」

 短い声。それだけで、こたつの中に張りつめていたものが、すっと沈んでいく。数秒前までの緊張が嘘みたいに空気がゆるみ、布団の中の温度が戻った。私はその様子を見ながら、みかんをもうひとつ、口に放り込む。確かめたかった答えは、思ったよりもずっと素直な形で、ここに転がっていた。

「そう、なんですね……」
「なに、その安心した顔」
「してません」
「してたよ」
「……気のせいです」

 そう言いながらも彼はこたつの中で足の位置を微妙に動かした。私の足からほんの数センチだけ距離を取る。その控えめな後退がかえって正直でわかりやすい。
 ——まったく。勝手に入り込んでくるくせに、踏み込みきれない。距離を詰めすぎず離れすぎずその調整だけは相変わらず妙に器用だ。触れそうで触れない線を本人は無意識に選び取っているのだろうけれど、受け止めるこちらは毎回少しだけ振り回される。

「でも」

 間を置いて、彼が続ける。

「でも?」
「他の人が、このこたつ使ってたって思うと」
「うん」
「……なんか、落ち着かないですね」

 声は小さく、語尾も曖昧だった。文句でも抗議でもない。ただ感情がぽろりと零れただけの言い方。だから余計に、耳に残る。

「自分で、買ってきたくせに?」
「それはそれです」
「勝手だなぁ」
「……っすね」

 否定もしない。その素直さが逆にずるい。私は笑いそうになるのをこらえて、わざと大げさに、息を吐いた。

「じゃあ、今度から使用許可制にしようかな」
「え」
「このこたつ、入っていい人」
「……条件は?」
「私の気分」
「難易度、高くないですか」
「そうでもないよ」

 少し間を置いて、視線だけを彼に向ける。彼は私の反応を伺うように、やや上目遣いで問う。

「今、は?」
「今は……許可。」

 彼は一瞬だけ言葉を探すみたいに口を開けて、それから、小さく笑った。安心と照れが、同時に混ざったような顔だ。

「それ……俺だけトクベツって、やつです?」
「……さあ」
「じゃあ、俺が座ってて正解ってことで」
「調子乗らない」

 そう言いながら私は足を伸ばす。こたつの中で彼の足に当たる。偶然を装うには少しだけ大胆な距離。でも私は、わざと離さない。彼は何も言わない。ただ、逃げもしない。

「……あの」
「なぁに」
「このこたつ」
「うん」
「他の人より俺のほうが長く入ってる自信はあります」

 淡々と真面目な顔で言うものだから、余計に、可笑しくて笑った。

「競うところじゃないでしょ」
「大事なとこなんで」

 こたつは今日も境界線の上にある。誰のものかどこまで許されるのか、はっきり決まっていない場所。それでも少なくとも彼はそこに入りたいと思っていて私はそれを追い出すほど嫌でもない。
 みかんの房をもうひとつ口に運びながら、足が触れ合うこたつの中で、今日も私はそんなことを考えていた。


 *


 それから数日後の夜のこと。仕事を終えてからこたつに足を突っ込んだまま、私はファッションサイトを眺めていた。探しているのは部屋着用の上着だ。外に出るためのものでも、誰かに見せる予定でもない。だから、流行も評価も写真映えも必要ない。ただ部屋の温度と、自分の機嫌のためだけに、羽織るものだ。できれば、もこもこした生地で、あたたかくて淡い色合いで。丈は、少し長めがよくて、立っても座っても落ち着くもの。
 画面を指でスクロールしながらいくつか候補を並べては戻り、また並べる。最終的に選んだのは似たような色味のものばかりだった。正直、自分ひとりで決めてもよかった。でも——。
 なぜかその夜は、彼に、聞いてみたくなった。私は選んだ写真をまとめて送り最後に短い言葉を添える。



名前

どれがいいと思う?





 送信してからほんの数秒——。通知音が鳴る。思ったよりもずっと早かった。しかも返ってきたのは文章ではなく、一枚の写真のみ。



ホークス





 スマホの画面に映っていたのは見慣れた模様とどう見ても分厚そうな生地。全体的に四角くて、どっしりしていて、現代的なおしゃれとは真逆の存在感。そう、半纏である。しかも、いかにも、昔ながらのやつだ。

「……は、へ?」

 思わず気の抜けた声が漏れてしまった。脳内でいくつかの言葉が渋滞した末に、最初に出てきたのが、それだった。——なんで、半纏?どうしてその選択肢?今、私が見ていたのは可愛いルームウェアのページであって、昭和の冬支度特集ではない。スマートフォンを手にしたまま返事を打てずにいると、少し間を置いてから、追撃が来る。



ホークス

こたつにはこれでしょ


ホークス

赤と青で
お揃いにしちゃいます?





 ——まずい。
 画面を見つめたまま、私は静かに、理解する。この人、本気だ……と。
 ��こたつ�≠フ前科がある。「検討する」という言葉を「了承」と読み替え「提案」という名目で話をまとめ気づけば完成形を玄関先に置いていた男だ。迷う過程を楽しむという概念を持たずに、合意形成という段階を軽やかに飛び越えて、最短距離で「完成」に辿り着く。
 ——ああ、これはもう……��半纏�≠ェ、来る。私はこたつの中で足を組み直しながら、深く息を吐いた。どうしてこんなところだけ行動力がヒーロー級なのだろう。画面の向こうで、きっと彼は満足そうにしている。こたつと半纏とお揃い、という響きに何の疑問も持たずに。私はまだ返事を打っていない。けれどすでに負け筋が見えている気がしてならなかった。
 私は、ほとんど反射的に指を動かした。考えるより先に感情が前に出る。こういうときは言葉を選ぶより、勢いを優先したほうがいい。



名前

却下


名前

絶対に却下


名前

それはさすがに違う





 文字に、はっきりとした、圧を込める。余計な語尾も、言い訳もつけない。ここは断言一択だ。送信してから、画面を伏せることもできず、そのまま見つめていると思ったより早く返事が来た。まず表示されたのは少しだけ肩を落としたようななんとも、残念そうなスタンプ。そのあとに短い文章が続く。



ホークス

残念


ホークス

了解です


ホークス

今回は見送ります





 ……今回は。その一語が、妙に引っかかった。あたかも選択肢が未来に持ち越されたかのような含みのある言い回し。彼のことだ。見送ると言いつつ、どこかで「保留」に変換している可能性は高い。けれど、私はあえて、深く考えないことにした。ここで突っ込めば余計な火種を増やすだけだ。半纏が今日届かない。それだけで十分勝利である。
 スマホを伏せ、こたつの中で足の位置をすこしだけ変える。画面の向こう側の彼が、どんな顔で「了解です」と打ったのかは想像しない。しないと決めた。その夜はそれで終わった。少なくとも私は、そう思っていた……。


 *



ホークス

9,800円





 ——翌朝。出勤前の慌ただしい時間帯に唐突に届いたのはあまりにも端的な数字だけのメッセージだった。説明も、前触れもない。ただの金額。私は画面を見つめたまま、数秒、思考を止める。
 ……なんの、金額?問いを打ち込む前に、追いかけるように、次の通知が連続で震えた。



ホークス

すんません


ホークス

メモです


ホークス

間違った





 思わず小さく息を吐く。ため息というより呆れと可笑しさが混ざった、半分笑いの呼吸だった。ベッドの縁に腰掛けたまま、私はゆっくりと指を動かす。朝の指は、まだ少しだけ重たい。



名前

おはよ


名前

人をメモアプリに
使わないで





 ——送信。
 すると、ほとんど間を置かずに返事が来る。



ホークス

おはようございます


ホークス

何をするにも


ホークス

速すぎる男でして





 ……まったく。画面の向こうで彼がどんな顔をしているのかが手に取るようにわかってしまう。きっと少しだけ申し訳なさそうで、それでも口元は緩んでいて、どこか楽しそうで。朝の光の中でスマホを片手に、相変わらず落ち着きのない姿勢で。そんな光景を想像して私はまた息を整える。
 忙しないやり取りのはずなのに、不思議と心は急かされなかった。言葉は短く、内容は他愛なくそれでも確かに、互いの日常が重なっている感覚だけが残る。

 今日も彼はどこかで飛び回っているのだろう。私は私でいつもの場所へ向かう。それぞれの朝がそれぞれの速度で始まっていく。
 けれど、こうしてふと交わる一瞬があるだけで世界は少しだけやわらかくなる。そのことを思いながら私はスマホを伏せて、身支度を再開した。静かな朝の空気の中に、まだ微かに彼の気配が、残っている気がした。


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