バレンタイン当日の昼下がり。部屋は静かで、時計の針の音だけが、いつもよりも輪郭を持って聞こえていた。窓の外は穏やかで、特別な日だという実感だけが、どこか置き去りにされている。どうして、こんな日に限って仕事が休みなのか。考え始めると、また余計なところまで沈みそうで私はその思考を途中で放棄した。理由を掘り下げても、答えが出る気はしなかったからだ。
 何となくテレビをつけ意味もなくチャンネルを回す。指先が止まった先で聞き覚えのある名前があまりにも自然に、流れ込んできた。

『今年のバレンタインも、ホークスは、大盛況のようで——』

 画面の中で、彼は笑っている。人の波に囲まれながらカメラに向かって軽く手を振り相変わらず軽い調子で、何かを返している。慣れた距離感。慣れた役割。そこにいる彼は私の知っている彼と同じはずなのに、画面越しだと、どうしても遠く見えた。

『雛どりちゃんたち〜! いつもありがとっ☆』

 その声を聞き流しながら、私はリビングのテーブルに置いてあった、小さな箱へ視線を落とす。
 昨夜の気まずさを引きずったまま、包み直したチョコレート。何度も触って何度も置き直して、それでも結論は出ていない。渡す意味は、なんだろう。謝りたいのか繋ぎ止めたいのか、それともただ、今年も同じ時間を共有したいだけなのか。考えれば考えるほど、理由は増えるのに、どれも決め手にはならなかった。
 私はリモコンを置き、テレビを消した。画面が暗くなると同時に、部屋には私の呼吸の音だけが戻ってくる。その静けさが思っていたよりも深く胸に落ちてきて、私はまたチョコを手に取った。掌に残るその重みと、包装紙の感触が、逃げ場のない現実みたいに指先に残る。

(——今さら、かな)

 浮かんでは消えるその言葉を、心の奥で何度もなぞる。答えを出せないまま出さない理由ばかりが増えていく。そのあいだにも昼の光は変わらず部屋を照らし、私の迷いだけを置き去りにして、時間は静かに流れていった。
 夜になって部屋の灯りを一段だけ落とした頃。カーテンの向こうはすっかり暗く、室内にはやわらかい影だけが残っている。その静けさの中で、不意に、インターホンが鳴った。短く迷いのない音。まるで、ここに来ることを最初から、決めていたみたいな鳴り方だった。相手が、誰かを確認するより先に私は、無意識の内にテーブルの上に置いてあった箱を手に取っていた。考えるよりも早く、体が動いてしまう。そのことに少し遅れて気づく。
 ドアを開けると、ホークスが立っていた。ヒーローコスチュームのまま両手には紙袋がいくつも重なっている。持ち替えるのも億劫そうなほど、塞がった逞しい腕。その光景に昼間テレビで見た映像が時間差で現実と重なった。画面の中にいた人が今は、私の家の玄関先にいる。それだけで、胸の奥が、わずかにざわつく。

「なに」
「少しだけいいですか」

 今までも何度も聞いてきた台詞。そのたびに、深く考えずに受け入れてきた言葉。けれど今日はそれを、素直に通す気になれなかった。

「今日は、だめ」
「……そっか」

 短いやり取りのあと沈黙が落ちる。かといって彼は立ち去ろうとしないし、私も、ドアを閉める気にはなれない。開いたままの隙間に言葉にできないものだけが溜まっていく。

「……忙しそうだね」
「まあ……例年通りです」

 軽く笑う。その声は昼間よりも少し低い。私はその変化に気づいてしまって一瞬だけ視線を逸らした。気づかれないように手元の箱を背中にそっと回す。今さら渡していいのか。そもそも、渡す資格があるのか。そんなことを考え始めたら急に足元が不安定になる。

「溶けちゃいません?」
「……なにが」
「その、後ろに隠したやつ」

 ——目ざとい。こういうときに限ってこの男は距離を測らない。相手の迷いを見逃さずに必要なところだけ、ためらいなく踏み込んでくる。

「……今さら、かなって」
「今さらとか、ないです」

 間を置かずに返されてしまい、言葉が喉の奥で止まった。そのまま彼は、私の反応を待つこともなくためらいのない一歩を踏み出す。玄関の内側に足を踏み入れた瞬間、空気の質が、はっきりと変わった。外の冷えた夜気と、彼がまとってきた体温の残り香が混じり合いすれ違うように鼻先を掠める。その匂いに触れた事でさっきまで保っていた距離が、もう戻らない位置まで縮んだのだと身体のほうが先に理解してしまった。
 逃げ場がなくなったわけじゃない。でも、もう戻れないところまで来てしまったような気がして私はその場に、立ち尽くしていた。

「——それ、」

 彼はそう言って、顎で私の手元を示した。声は低く、指摘というより確認に近い調子だったのにその仕草だけで、隠していたものをすべて見抜かれた気がして、胸の奥に、かすかな熱が残る。

「俺が欲しくて、来たやつなんで」

 理由を並べない言い方。迷いも、言い訳も挟まない断定に私は一瞬、言葉を失った。それでも、ためらいが消えるわけじゃない。私は箱を持ったままほんの短い時間、立ち尽くす。渡すべきか、今夜はやめておくべきか。そんな迷いが手の中の重みとなって残る。けれど、彼は待つ。急かさず視線も逸らさず、その選択ごと引き受けるみたいにして。
 私は観念したように、そっと箱を差し出した。彼は紙袋を抱えたまま、器用に、それだけを受け取る。その動作には、無駄がない。

「……いただきます」

 小さく、けれどはっきりした声。軽くもなく、重くもない。ただ、受け取るという事実だけを、丁寧に言葉にした響きだった。しかし次の瞬間、彼は腕に抱えていた袋を、まとめてこちらに差し出した。私は反射的にそれを受け取ってしまう。思ったよりも、ずっしりとした量だった。

「それは……処理、お願いします」
「……処理、って?」
「持って帰るの、しんどいんで」

 冗談めいた口調なのにその目は笑っていない。かといって、深刻でもない。その中途半端さが、かえって、彼らしい。

「俺はもう、これ一個で、お腹いっぱいなんで」

 そう言って、手に持っている一つの箱に、軽く視線を落とす。その仕草は、まるで言葉の通り、それだけで十分だと、言っているみたいだった。袋の重みが腕にずしりと伝わる。その感覚が妙に現実的で胸の奥が静かに緩んでいくのを感じた。
 君のが一番だ、なんて言葉はない。比べる事もしない。ただ選ばれた行動だけがそこにあった。それが今夜の彼なりの答えなのだと、私は遅れて理解する。

「……入る?」
「え」
「飲み物くらいなら、出せるけど」
「……じゃあ、少しだけ」

 前にも同じ言葉を交わしたことがある。けれど今夜は、その「少しだけ」が、どこか違う重みを帯びていた。それ以上を求めない、でも——拒まない。互いに踏み込みすぎないためのぎりぎりの選択。
 ドアが閉まる音は、思ったよりも静かだった。その音に、外と内の境界がきちんと引かれた気がして、胸の奥に、細い緊張が走る。
 彼が靴を脱ぎ部屋に上がる。いつもよりも少しだけ慎重な足取り。勝手知ったる場所のはずなのに今日はどこか初めて訪れた家みたいな顔をしている。その違和感が、今夜の距離を正確に映していた。

「……お邪魔します」
「どうぞ」

 それだけのやり取り。なのに今日はその「どうぞ」が喉の奥に残った。迎え入れる覚悟を言葉にしてしまったみたいで。
 彼はリビングに入ると、まずテーブルの上に、私が渡した箱をそっと置いた。扱いが丁寧すぎて見ているこちらのほうが落ち着かなくなる。私もその隣に、さきほど受け取ったいくつもの紙袋を置く。昼間テレビで見た光景と玄関先で腕に伝わった重みが、ようやくここで、ひとつに繋がった気がした。

「ほんと、すごい量だね」
「ですよね」
「これで、全部?」
「いや、あっちの事務所にも、いくつか」

 ��いくつか�≠ニいうその、あいまいな言い方。それが現実的すぎて、私は思わず、小さく笑ってしまった。彼は肩をすくめてから今日はこたつではなくソファの端に腰を下ろす。いつもならもっと遠慮がなくなるはずなのに今日はきちんと距離を測るみたいに、端を選んでいる。その選び方が昨日の夜の続きみたいで胸の奥が静かに揺れた。
 私はキッチンに戻り、湯を沸かす。背中越しに彼の視線を感じる。でも振り返らない。その方が今は、落ち着ける気がしたから。

「コーヒーでいい?」
「助かります」

 カップを二つ並べる音が、部屋に小さく響く。何を話せばいいかわからないわけじゃない。ただどの言葉も、今の空気には少しだけ合わない気がして選びきれずにいる。テーブルにマグカップを置くと、彼は「いただきます」と言い添えてから一口飲んだ。そのあと、呼吸を整えるみたいに、ゆっくりカップを戻す。私はそれを見届けてから自分のカップを持ったまま、少し距離を取って、ソファに腰を下ろした。

「手作りですか」

 不意に、低く短い声が横から届く。一瞬、何のことかわからず、私は少しだけ間を置いてから、ああ、と気づく。

「ううん」
「そっか」
「海外から取り寄せた」
「はは。ばり、価値高そう」
「うそ。一応、手作りだよ」

 その「一応」という言い方に、隣から小さく、笑った気配がした。私も、釣られるように笑いが漏れて、それを誤魔化すようにマグカップに口をつける。コーヒーを啜る微かな音がやけに大きく部屋に残った。
 彼が「それは——」と、少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。

「もっと、価値が上がりましたね」

 その言葉に、私はそっと、目を伏せる。否定も肯定もできないまま、ただ胸の奥に静かな温度が残っていた。

「……さっきの」
「うん」
「無理させてたら、すみません」

 それは、謝罪というより確認に近い声だった。責めるでもなく許しを請うでもない。ただ、踏み込みすぎていなかったかを静かに確かめる響き。私は、小さく首を横に振る。

「無理は、してない」
「でも?」
「……でも、ただ……考えすぎただけ」

 それ以上は説明しなかった。言葉にしてしまえば、余計な形を、与えてしまいそうだったから。彼もそれ以上は追及しない。その距離感が今は、ありがたかった。
 沈黙が落ちる。でも、それは居心地の悪いものじゃない。さっきまで外で張りつめていた何かが少しずつ別の形に変わっていくのを感じていた。静かに、そして、確実に。

「初めてですか」

 しかし、その一言で、ついに思わず彼のほうを見てしまった。彼はこちらが視線を向けたことに気づいているはずなのにあえて目を合わせない。前を向いたまま、少し猫背になり、わざとらしく音を立てて、コーヒーを啜ってみせる。私はその横顔を一瞬だけ眺めてから、視線を正面に戻して聞き返した。

「何が?」
「手作り」

 言葉に詰まる。ほんの一瞬どう答えるか迷ってから、可笑しくなって、つい、笑ってしまった。そして、もう一度、彼のほうを見て私は言う。

「……ホークスってさぁ」
「はい?」
「もしかして……」
「はい」
「独占欲、強い系男子?」

 今度は、彼のほうが、反応した。「は?」と、カップに口をつけたまま、こちらを見る。そこでようやく視線が合う。彼は少しだけ気まずそうに目を逸らし、カップの縁に軽く歯を当てるようにしながら、目を細めた。

「......一応、鳥類なんで」
「え? なにそれ」
「縄張り意識は、強いほうかと」

 そう言って、また一口、音を立ててコーヒーを啜る。逃げているようで逃げ切れていないような言い方。

「じゃあ……」
「はい」
「求愛行動とか、そういうのもわりと一生懸命なタイプ?」
「あー......」
「繁殖行動とかも?」
「まあ……鳥類なんで」

 その繰り返しが、逆に本音を隠しきれていない気がして、胸の奥がすこしだけ緩む。彼はそっとカップを置き。テーブルの上の小さな箱へ視線を落とした。さっきまで何気なく置かれていたはずのそれが、急に意味を帯びる。

「これ」
「うん」
「ちゃんと、俺のですよね」

 念を押すみたいな言い方。冗談に逃げられない距離での確認に私は一瞬だけ迷ってから頷いた。

「……ちゃんと、ホークスのだよ」

 それで十分だったらしい。彼はそれ以上、何も言わず、箱をそっと自分のほうへ、引き寄せる。その仕草は独占的というより、確認を終えた人の動きに近かった。私はそれを見つめながら、ようやく、胸の奥に残っていた引っかかりが、静かに落ち着いていくのを感じていた。

「大事にします」
「大事にしなくていいから」
「……」
「すぐ、食べて?」
「それは無理です」

 返事は早かった。でも、声の調子は柔らかい。冗談めいているのにそこに嘘は混じっていない。その温度が、かえって胸に残った。
 ふと時計に目をやると思っていたよりも時間が経っている。話し込んだというほどでもないのに気づけば、夜が深くなっていた。彼もそれに気づいたのだろう。「よいしょ」と、軽い声を出して立ち上がる。その動作は迷いというよりちゃんと線を引くための準備に見えた。

「そろそろ」
「……うん」

 引き止めたい気持ちがないわけじゃない。けれど今夜はここで留めるべきじゃないという感覚のほうが少しだけ勝っていた。言葉にしてしまえば関係を急かしてしまいそうだったから。
 玄関まで送る。彼はブーツを履きながら、ちらりとこちらを見る。その視線に、意味を探す前に私は目を伏せた。

「今日は……来てよかったです」
「……それは、よかった」

 言葉を選びすぎない会話。でも、どちらの声にも、無理はなかった。ドアを開ける前、彼は一度だけ立ち止まる。振り返らずに、ほんの少しだけ間を置いた。

「連絡、しますね」

 そのとき、口元がわずかに緩むのが見えた気がした。約束というほど大げさじゃないのに確かな余韻を残すような、そんな、笑い方だった。

「……じゃあ。」
「うん、気をつけて」

 彼が帰ったあと、部屋には、不思議な静けさが残った。音が消えたというよりも、二人分あった気配がゆっくり一人分に戻っていく感じに近い。テーブルの上には、残された紙袋の痕跡。それはさっきまで確かに彼の手の中にあったもの。そのぬくもりだけが取り残されたみたいにまだそこにある気がした。私は、すぐに片づける気になれずそのままソファに、腰を下ろした。
 外では、どこかの部屋のドアが閉まる音がしてそれを合図にするみたいに、夜が少しずつ、元の形に戻っていく。今日が、バレンタインだったということだけが、遅れて現実味を帯びてくる。
 この関係に、まだ名前はない。けれど確かに、この夜は、ただの、バレンタインじゃなかった。その事実だけが胸の奥に、静かに残っていた。

 ひと息ついて、ようやく袋の中身を覗くと色も形もばらばらのチョコレートが隙間なく詰まっていた。包装紙に書かれた名前やメッセージには、あえて目を通さない。ただ、その数の多さだけが昼間テレビで見た光景を、静かに思い出させる。

(——これ一個で、お腹いっぱい、か)

 彼の言葉を、心の中でなぞって、私は少しだけ笑った。あれは強がりでも冗談でもなく、たぶん本音だったのだろう。
 紙袋を持って、キッチンへ運ぶ。冷蔵庫の扉を開けると昼間買ってきた牛乳と、何気なく入れた果物が並んでいる。その隙間に、彼が受け取ったチョコの山を、そっと置いた。収まりきらず少しだけ不格好になる。そのとき、スマートフォンが短く震えた。



ホークス

ありがとうございました





 宣言通り、ホークスからだった。それだけの、文面。スタンプも写真も、冗談もない。かえってその簡潔さが胸に残る。私は少し考えてから同じくらい短い言葉で、返信した。



ホークス

ありがとうございました


名前

こちらこそ





 送信してから、ほんのわずかな時間しか経っていないはずなのに画面の表示はすぐに変わった。考える間も、迷う余白も与えないみたいな速さで既読がつく。その反応の早さに彼がまだスマホを手放していないこと、そしてこのやり取りを終わらせる気がないことが、はっきり伝わってきた。



ホークス

あの





 その一言が表示されてから次の言葉が届くまでの間がやけに長く感じられる。ほんの一呼吸分の沈黙なのに、画面を見つめる視線だけが先に固まってこちらの心拍だけが少しだけ速くなる。続きを待っている自分が、もう隠せなくなっていた。



ホークス

あの


ホークス

3月14日って


名前

うん


ホークス

一応、空けといてもらえると
助かります





 『助かる』という言い方がいかにも彼らしい。約束でも宣言でもない。でも、逃げ道も作らない彼なりの踏み込み方。私は画面を見つめたまま、ほんの少しだけ迷ってから、指を動かす。



名前

仕事次第だけど


ホークス

了解です


名前

でも


ホークス

でも?





 ぽんぽんと、間髪入れずに返ってきた文字に、思わず自然と、肩の力が抜けた。



名前

でも


ホークス

でも?


名前

期待しすぎないでね


ホークス

それは


ホークス

無理かもしれないです






 短い返事の向こうで、彼がどんな顔をしているのかはわからない。それでも今日は、その一言で十分だった。私は冷蔵庫を閉めて、部屋の灯りを落とす。まだ名前のついていない関係は、そのまま変わらない。ただ、次の予定だけが静かにカレンダーへ差し込まれた。
 ホワイトデーまで、あとひと月。その時間が、少しだけ楽しみになっている自分に私は気づいてしまった。それは、今日がただの、バレンタインじゃなかった証拠みたいに胸の奥に静かに残っていた。


 *


 言葉にはできない違和感を少しだけ残すようなバレンタインデーをどうにかやり過ごして、気づけばまた、いつもと変わらない飲み会の帰り道を歩いていた。夜風が妙にやさしくて身体に残ったアルコールの熱を、ちょうどいい具合に冷ましてくれる。終電を一本見送って今日も自然な流れで二次会の開催が決まった。行き先は私の家。誰も大きな声で口にしたわけではないけれど、その、選択肢は、最初から、そこに置かれていたみたいだった。

「お邪魔しまーす」

 ホークスは相変わらず酔っているのか、いないのかわからない顔で靴を揃える。たぶんほとんど酔っていない。そういうところも含めて、もう、見慣れてしまった仕草だ。
 私は鍵を閉めながら、頭の中で冷蔵庫の中身を確認していた。飲み会帰りにもう一杯というほど立派なものは、残っていないはずだ。リビングに入り電気をつけて、こたつの電源を入れる。ここまではいつも通り。異変に気づいたのは彼の鋭い視線が、ある一点に留まった瞬間だった。

「……あれ?」

 低く、喉の奥で転がすような声。私はそのまま振り返る。半纏が、ない。正確には、なくなったわけではない。いつもこたつの横、クッションの上に、無造作に置いていた赤い半纏が、きちんと畳まれて、棚の上に移動している。

「……半纏。場所、変わってません?」

 ホークスが、ゆっくりとその言葉を口にする。確認するというより、事実を噛みしめるみたいな言い方で。酔っているときほど、彼は、こういうところが鋭い。とはいえ、彼は今もきっと酔ってなどいないのだろうけれど。私は一瞬だけ言葉を探してから正直に答えた。

「ああ、それね。このあいだ、貸したから」

 その瞬間、部屋の空気がほんのわずかに沈む。温度が下がったというよりも、音が吸い込まれたような感覚だった。

「……貸した」

 彼は、その言葉をなぞるように復唱する。声は静かだけれどさっきまでとは明らかに違う重さがあった。

「うん。寒いって言われて」
「……誰に」

 詰め寄る、というほど距離を詰めてはいない。それでも、声と視線が確実にこちらを逃がさない位置にある。冗談として流す余地を、静かに塞がれている感じがした。

「この前、遊びに来た人」
「……遊びに」
「うん」
「ちょっと、待ってください」

 ホークスは片手で額を押さえ、短く息を吐く。その仕草が、考えを整理しようとしているのだとすぐにわかった。

「この部屋に、俺の知らない人が来て」
「うん」
「俺の半纏を」
「あなたのじゃない」
「俺が選んだ半纏を」

 訂正したくせに、引き下がる気はないらしい。その言い方に、私は思わず小さく息を吸った。
 半纏ひとつでこんなふうに空気が変わる。そのこと自体がどこか可笑しくて、でも同時に、胸の奥をくすぐる。冬が終わりに向かっているのに、まだ、あたたかさの取り扱い方だけは、二人とも上手くなれずにいるらしい。

「……貸した?」
「貸した」
「返って、きました?」
「返ってきたよ。だから、そこにあるんじゃん」
「なんか……匂いが違います」
「ああ。ファブリーズかけてたから」
「誰が」
「その人が」

 その瞬間、彼の眉間に、はっきりと線が刻まれた。怒っているというより、予想外の地点で引っかかってしまったという顔だ。半纏そのものよりそこに付随した��誰かの痕跡�≠ェ彼の中で想像を膨らませているのが、手に取るようにわかる。

「……ファブリーズ」

 低く噛みしめるような復唱。正直そこに反応が来るとは、思っていなかった。私のほうが一瞬、拍子抜けしてしまう。

「なに、その顔」
「いや……」

 彼は言葉を探すみたいに、ほんの少し、視線を泳がせる。いつもなら、即座に軽口が返ってくるところだ。

「……普通、ですか、それ」

 普通、とは何か。私は思わず腕を組みそのまま考え込む。部屋着を貸すこと。匂いを、気にすること。どこからが��踏み込みすぎ�≠ネのか。その境界は案外、人によって曖昧だ。

「で?」
「はい」
「なにが、言いたいの」
「だから……その……」

 ホークスにしては珍しく歯切れが悪い。言葉にしようとして、でも踏み込みきれずにいる感じが逆に新鮮だった。

「男の人に、部屋着を貸すのって」

 ああ、そういう方向ねと一瞬で腑に落ちてからなぜだか彼が少し気の毒に思えて、私はすぐに、小さく首を振った。

「あのさ」
「……はい」
「勘違いしてると思うけど」
「してないです」
「してる」
「してません」

 軽い言い合いの流れだ。けれどこれは、確実に喧嘩の入り口に、足を突っ込んでしまっている。冗談として笑い飛ばすには彼の目が少しだけ真剣すぎた。

「じゃあ、聞くけど」

 私は一歩だけ近づく。距離を詰めたというより逃げ場を作らない位置に立っただけ。

「何が、問題なの」
「問題、というか」

 彼は視線を逸らしこたつの中を軽く覗き込む。そこには何もないのに考えを逃がす場所を探しているみたいだった。

「……嫌です」

 あまりに率直で、思わず息が漏れそうになる。小学生か、と心の中で突っ込みつつその正直さがなぜか胸に残る。

「嫌って」
「嫌なものは嫌です」
「理由は」
「……俺の、いないところで」

 そこで言葉を切る。続きを言わないあたりに、自分でも説明がつかない感情だと、わかっているのが伝わってきた。
 私は小さくため息をついて、棚から半纏を取り広げて見せる。赤い。相変わらず何の変哲もないただの、防寒用の布切れだ。

「ちなみに……貸した相手、同性だけど」

 私は少しだけ、間を置いてから言った。数秒の沈黙。空気が止まったというより、方向を失った感じだった。すると「は?」と、完全に間抜けな声が返ってくる。私はもう一度、協調するように言った。

「オンナ」
「……え」
「大学時代の友達。終電逃して泊まったの」
「……」
「寒いって震えてたから貸した。それだけ」

 ホークスは、ゆっくりと理解が追いついていく顔をしていた。眉間の皺がほどけ代わりに気まずさと照れが混じった表情が浮かぶ。視線が定まらず行き場を探すみたいに彷徨う。その様子を見て私はようやく、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ、ほどけた気がした。
 冬が終わりかけているのにまだこんなところであたたかさの取り扱いを、間違えている。そんな二人でいることが、可笑しくもあり、少しだけ、愛おしくもあった。

「……早く、言ってくださいよ」
「聞かれなかったし」
「聞いたじゃないですか」
「誰に、って?」
「……そう、ですけど」

 そう言いながら、ホークスはこたつではなく、その場に座り込み、両手で頭を抱えた。その姿があまりにも無防備でついさっきまでの不機嫌さがどこか滑稽に見えてしまう。

「……俺、ほんと、何を一人で」
「勝手に想像して?」
「勝手に、余計なとこまで考えて……」
「勝手に、不機嫌になってたね」
「……です、ね。反論できないやつです」
「なんでそんなに面白いの?ホークスって」
「……いやぁ。見事に、一人相撲でした」

 言葉にするたびに、少しずつ声が小さくなる。自覚は、ちゃんとあるらしい。そのことが余計におかしかった。

「ごめんなさい」

 ぼそりと落ちるような小さな謝罪だった。求めてもいないのに彼は言い訳のような言葉を次々と並べて、最後に「酔ってたのもありますし」と、歯切れの悪い声で、付け足した。その瞬間、私はとうとう笑いを抑えきれなくなった。肩が震えて息がこぼれる。

「酔ってないでしょ、嘘つき」
「いや、それは……」
「ねえ。ほんとさぁ」
「……なん、すか」
「なにィ、その顔」
「いやぁ……」

 本当に可笑しくて仕方がない。そしてちょっとだけ、可愛い。こんなふうに、拗ねて、反省して言葉にしてしまう彼を見るのは、初めてかもしれなかった。また��初めて�≠ェ、更新されていく。

「半纏一枚で、そこまで拗ねると思わなかった」
「だって……」

 彼は言い訳を探すみたいに、視線を泳がせる。

「ここ、俺の中では——」

 言いかけて、ふっと言葉を切る。その間に何を言えばいいのか、自分で測っているのが伝わってきたので、あえて、口は挟まない。

「……大事な、場所なので」

 いや、それは違う。急に反則だ。軽口でも冗談でもなくただ、静かに置かれた本音。私は思わず手に持っていた半纏を、彼の胸に押し付ける。

「——はいっ、」
「え」
「正しい位置に、戻しました」
「……ありがとうございます」

 素直な礼。二人でこたつに入ると、半纏は元の場所に戻った。いつも通りの配置。それなのに、さっきまでとは部屋の空気がまるで違っている。
 するとホークスが、みかんに手を伸ばしながら「次からは」と、少しだけ間を置いて言った。

「誰に貸すか、教えてください」
「なんで」
「心の準備が必要なので」

 準備とは何なのか。私は呆れながらも結局また笑ってしまう。
 飲み会帰りの二次会は結局、半纏談義と誤解の解消に使われた。アルコールは、もう抜けかけていて、頭は不思議と冴えている。こたつの中で、彼の足が私の足に触れる。今日は少しだけ長く。その接触を、今夜は、どちらも避けなかった。

 境界線は、まだある。でも、その線の周りで、勘違いして、拗ねて、謝って、笑ってしまう夜も悪くない。冬が終わりに向かっているのに、まだこうして同じ熱に頼っている自分たちが少しだけ不憫で、そして、少しだけ、愛おしく思えた。


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