先日友人に誘われて、とある展覧会を訪れた。壁に並ぶのはどれも短く、説明を拒むような言葉ばかりで足を止めるたび、意味は完成しないまま胸に落ち、しばらく体温のように残った。
 不思議な事に私の視線は恋愛に付随した文言にばかりに吸い寄せられていた。

『この惑星には、愛されるという勝ち方もある』
『「別に用はないけど」の「けど」が好き』
『キミのせいで元気が出たり、涙が出たり』
『おなじは嫌いだけど、いっしょは好き』
『相合い傘、濡れてる方が惚れている』
『世界一愛してくれる人が、世界に一人いれば、幸せです』

 理由はわからない。けれどそのどれもが文字を超えて、誰かの輪郭を呼び起こした。顔や声ではなく間の取り方や、黙り方、ふいに差し出される気遣いの形——そういうものが曖昧な像となって立ち上がる。展示室を一巡するまでの間、私は、言葉の前で立ち止まっては歩き出し歩き出してはまた立ち止まる、ということを繰り返していた。
 その途中で、自分が何を探しているのかを考え始めてしまいそうになるたびに、わざと、視線を外した。
 そして、最後に目に留まった、ある一文。他の言葉よりもずっと静かで、ずっと普通で、だからこそ、頭から離れなかった一句。


 ——星の数ほどの人がいて、今夜、あなたと、飲んでいる。


 読み終えた瞬間、胸の奥で何かが、小さく音を立てた。勝ち負けも、理由も、因果もない。ただ事実だけが、きれいに並んでいる。その夜、誰とどこで、何を飲んでいるか。たった、それだけのことで世界の重心が、そっとずれることがあるのだと、その一文が教えていた気がした。
 会場を出たあとも、その言葉は離れなかった。だからだろうか。その日の夜、私は自然な流れでいつもの店に、足を向けていた。グラスの氷が、控えめな音を立てる。向かいには、見慣れた赤い翼のヒーロー、ホークスがいる。ヒーローとしての顔でも任務の延長でもなく、ただ飲み会の席に座る一人の人間として。何を話すわけでもなく、彼はメニューを眺めながら時折、こちらに視線を投げてくる。

「……ん? 今日は、静かですね」

 そう言われて私はようやく笑った。静かなのはきっと、私の内側だ。昼間に拾ってしまった言葉たちが、まだ、胸の底で沈殿している。

「ちょっと、言葉に酔ってて」
「えー? なんすか、それ。強そう」

 彼は、そう言って、グラスを持ち上げる。星の数ほどの人がいて——。
 私は、目の前の現実をそっと確かめるように、同じ高さまで、グラスを上げた。

「名前さん」

 名前を呼ぶだけで言葉の続きを急がない。そのわずかな沈黙まで含めて、いつもの彼の、呼び方だった。

「今夜もお付き合い、よろしくお願いしまーす」
「……うん、よろしく。」

 グラスの縁が、かすかに触れ合う。澄んだ音が今日もひとつ、夜の空気に溶けていく。

「カンパイ」
「……乾杯」

 今夜、あなたと飲んでいる。ただ、それだけの事実が、展示で見たどんな言葉よりも、静かで、美しくて、胸の奥に、ゆっくりと沈んでいった。

 互いにいくつかグラスを空けた頃、会話はすっかり場に馴染み、テーブルの上も笑い声の温度もようやく落ち着いてきていた。向かい合う距離も自然で膝や肘が触れそうで触れないその曖昧さのまま、今日もちゃんと、保たれている。
 そんなときふと、数日前の光景が頭をよぎる。こたつ。半纏。あのほんの些細なはずだったやり取り。半纏事件。(と呼ぶほど大袈裟なものではないけれど)
 結局のところ��半纏�≠ヘやはり面倒な火種でもあるらしい。そんな結論めいたものを、私は今になって思い出していた。思い返すと、あのときの彼の反応が、どうにも可笑しかった。言葉を探す間や露骨に隠そうとした不機嫌さや、理屈で整えきれなかった感情の揺れ。今こうして、まったく別の場所で、別の酒を飲みながら思い出しているのに、その表情だけはやけに鮮明だ。
 夜はまだ長い。そう気づいた瞬間、私はひとつ良くないことを思いついてしまう。会話の流れも今の距離感も、そして、あのときの記憶も全部が揃っているなら少しくらい、意地悪をしてもいいのではないか。酔いのせいにするには、ちょうどいい程度の、悪戯心だった。

「ちなみにさ」
「はい」
「半纏の、話なんだけど」

 新しく届いたグラスを手に取り私はごく自然な仕草で口をつけた。氷が触れ合う小さな音に紛らせるみたいに、なるべく、何でもない話題を振るふりをする。数杯重ねたあとのアルコールは舌を少しだけ、正直にさせる。だからかもしれない。思い出してしまったのだ。あの夜の彼の反応を。あれが、どう考えても面白すぎたことを。

「ほんとに、男友達が着たら、どうするの」

 言い終えた瞬間、テーブルの上の空気が、目に見えないところで、止まった気がした。グラスを置く音も周囲の笑い声もほんの一瞬だけ遠のく。

「……はい?」

 ホークスの声がほんの少しだけ高くなる。自覚していないふりをしているけれど、それは反射で出た音だ。私は、それを聞き逃さず内心で小さく笑う。

「だから」

 声の調子は変えずに私は淡々と続ける。酔っているふりをするには、ちょうどいい温度だ。

「もし、だよ?幼なじみとか、大学の同期とか、普通に、男友達が遊びに来たら」

 彼はグラスから視線を上げ、ゆっくりとこちらを見る。その視線がさっきまでよりもずっと真剣で、私は思わず背筋を伸ばしそうになる。冗談として流す気は、どうやらないらしい。

「どうする、の定義を、確認していいですか」
「なにそれ」
「俺がどう振る舞うか、って意味です?」
「そうそう」

 ホークスは一度、息を整えるように腕を組み、背筋をわずかに正した。出た、と心の中で思う。考えるときの癖だ。彼は、こういう話になると、急に真面目になるから。

「……まず」

 やけに丁寧な前置き。その時点で、私はすでに笑いそうになる。

「俺がいる、状況ですか?」
「いる場合」
「いない場合は?」
「今日は、いる場合」

 条件を限定した途端、彼の眉がほんのわずかに寄る。不服そうだ。そして少しだけ考えてから、ホークスは答えた。

「……普通にします」
「普通ってなに」
「失礼のない距離で」
「えー、曖昧すぎ」

 私は、笑いを堪えながら突っ込む。けれど彼は笑わない。どうやら、本気のようだ。

「半纏は?」
「貸しません」
「即答じゃん」
「それは、線を越えてます」

 ずいぶんと強めの即断。基準が、独特すぎる。

「じゃあ、こたつは?」
「……状況によります」
「なに、その含み」
「足が触れない位置なら」
「細かい! 寛げないじゃん!」

 思わず声を上げると、彼は少しだけ困った顔をして、それでも視線を逸らさない。その真剣さがさっきまでの悪戯心を、別の感情に変えてしまいそうで、私は慌ててグラスを持ち上げた。

「逆に、聞きますけど」

 今度は、彼のほうから言葉が落ちてくる。その声音に、さっきまでの冗談めいた空気が、静かに切り替わったのを感じながら私は続きを待った。

「なんでわざわざ、俺がいる日に、男友達なんて呼ぶんです?」

 予想していたよりも、ずっと真剣な声だった。冗談に逃がす余地を残さない言い方で、私は一瞬だけ、言葉を選ぶ。

「だから、仮定の話だってば」
「仮定でも嫌です」

 ——出た。またそれだ。ここ最近、彼の口から何度も聞かされている単語。理由を求めると決まって返ってくる答えでもある。

「このあいだから、嫌ですしか言ってないけど」
「嫌なものは嫌なので」
「理屈は?」
「感情です」

 あまりに潔くて拍子抜けする。理屈で詰めれば崩れるはずの話を、最初から感情だと明言されてしまうと、こちらも、構えを変えざるを得ない。雑なのか正直なのかその境界が曖昧で私は思わず息を吐いた。

「……じゃあさ」

 グラスを置いて、少し身を乗り出す。ここまで来たら、もう、引く気はなかった。

「相手が、私のこと、何とも思ってない人だったら?」

 彼はすぐには答えない。今度は視線を落とし、ほんの短いあいだ考えてから、静かに言った。

「それはそれで問題です」
「どうして」
「俺だけが、その相手を意識してるみたいになるじゃないですか」

 まったく、意味がわからない。あまりにも彼の内側だけで完結している理屈に、私は思わず眉をひそめる。

「それ、私に関係ある?」
「あります」
「どのへんが?」
「……俺の、メンタル的に」

 思い切りがよすぎて逆に言葉を失う。ここまで正直に言われると、もう、笑うしかなくなる。

「じゃあ、相手が既婚者だったら?」
「年齢は」
「同い年くらい」
「どっちと」
「わたしと」
「仲良し?」
「んー、普通」
「……嫌ですね」
「全部嫌じゃん!」

 思わず大きな声が出てしまった。ホークスは、ようやく少し気まずそうに、視線を逸らす。その仕草が妙に人間くさくて、さっきまでの歯痒さが少しだけ形を変える。

「……だって」

 彼はグラスの縁を指でなぞりながら言葉を探すみたいに続ける。

「あの部屋、俺の中では」

 そこでいったん言葉が止まる。まただと思う。大事なところで、必ず一度、躊躇する、彼の癖。

「……安心する、聖地みたいな、場所なので」
「……」
「他ん人に、穢されとう、なかばい……」

 完全に反則だ。そんな言葉をそんな声の落とし方で出されてしまったらこちらがどれだけ構えていようと意味がない。理屈も距離も全部まとめて胸の奥から崩される。きっと彼は、自分の言葉がどれほど無防備で、どれほど強いかを知らない。ただ正直に、いちばん触れられたくないところを差し出しているだけだ。その無自覚さが、余計に厄介だった。

「安心する場所に私の友達呼んじゃダメなの?」
「ダメとは言ってません」
「でも、嫌なんでしょ?」
「……はい」

 短い肯定。その素直さに私はしばらく彼の顔を見つめてから、ため息をひとつついた。

「独占欲、強いね」
「自覚はあります」

 否定もしない。誤魔化しもしない。その、やり取りの最中、テーブルの下で彼の足がほんの少しだけ動いた。さっきより確実に近い位置へ。触れそうで、触れない距離。その曖昧さが、今の関係そのものみたいで、私は何も言えなくなる。
 境界線は、まだある。でも、その線のまわりでこんなふうに言い合って確かめ合ってしまう夜がいつの間にか増えていることだけは、否定できなかった。

「ちなみに」

 今度は彼が、ほんの少しだけ、声量を落として言う。その前置きが、内容よりも先に、こちらの意識を引き寄せた。視線はテーブルの縁に落ちたままで、まるで独り言の延長のようだ。

「俺がいない日に来るのは」
「来るのは?」
「……知らないほうが、いいです」

 今までの彼の発言を思い返すと、それはそれで余計に面倒な事態を招きそうだ、と即座に思ってしまう。知らなければいいという選択肢が、彼の中ではいちばん穏当な回避策なのだろうけれど、想像力の豊かさを考えると果たして本当に平穏でいられるのかは疑わしかった。

「もし、聞いたら?」
「聞いたら、想像するので」
「聞かなくても想像してるじゃん」
「それは……そう、すね」

 あまりに正直な返答に、私は堪えきれず小さく笑ってしまう。彼も観念したように短く息を吐きその音がグラスの氷に触れて微かな音を立てた。

「結論として」

 ホークスは仕切り直すように言う。語尾に力はないが、妙に、断定的だ。

「半纏は、俺が管理します」
「そこ?」
「そこです」

 どうやらこの話題は彼の中で、ここが、落としどころらしい。理屈でも勝ち負けでもなく、感情の置き場として彼が選んだ最終地点。私たちは、ほぼ同時に、グラスを口へ運ぶ。意味のある結論など、何ひとつ出ていないのに、言い合いの余韻だけが、まだテーブルの上に、薄く漂っていた。境界線の周りをぐるぐるとなぞるようにもしもの話をして拗ねられて、主張されて、結局は笑っている。男友達が来るかどうかよりもこのヒーローと当たり前の顔でここにいる頻度のほうがすでに問題なのではないか、そんな考えが頭をよぎる。
 結論が出ないまま、空いたグラスだけが増えていく。話題は終わったはずなのに、彼の纏う空気だけが、どうにも落ち着かない。黙る、食べる、黙る、グラスを持つ。そうして、また黙る。その繰り返しが、あまりにも、分かりやすい。

「ねえ」

 私は自分の服の袖に指を引っかけ、布の感触を確かめるようにしながら、声をかけた。そして、少しだけ、間を置いてから。

「まだ、ご機嫌ナナメなの?」

 その瞬間、彼の肩がぴくっと動いた。それは、意識していなかった反応を体が先にしてしまったみたいな動きだった。

「別に」

 返事は、早すぎるほど早い。さすが、速すぎる男である。

「機嫌、悪くないです」
「その言い方が、もう機嫌悪い」
「気のせいじゃないですか」

 私は吹き出しそうになるのを必死で堪えながら横顔を盗み見る。眉間には、さっきから消えない薄いシワ。ヒーローが、市民を守るときの顔ではない。完全に、拗ねている男の子の、それだ。

「じゃあさ」

 私はテーブルの下で軽く足を揺らす。アルコールの熱が残るせいか動かしたつま先が自分の感情を代弁しているみたいで少し可笑しかった。

「今日は、特別なチケット使っていいよ」
「……なんすか、特別なチケットって」
「愚痴っちゃいなよ」

 そう言うと彼は一瞬、言葉の意味を測るような顔でこちらを見る。眉がわずかに寄り、いつもの軽さが影を潜めた視線だった。

「……何をです?」
「んー。私に対してでも、世界に対してでも」
「……」
「ほら。半纏の管理権も主張したことだしさ?」

 冗談めかして付け足したつもりだったけれど、その言葉が効いたらしい。彼は短い沈黙のあと、観念したように、息を吐いた。その吐息が、場の空気を、ほんの少しだけ揺らす。

「……ずるいですよね」
「なにが?」
「名前さんが」

 思わず笑いがこぼれそうになるのを私はグラスに口をつけることで誤魔化す。その間も彼の視線がわずかにこちらを探っているのがわかった。

「せっかく、二人きりで楽しく飲みよったとに」

 彼は感情を整えるみたいに淡々と続ける。その平坦さが、逆に、本音だと伝えてくる。

「季節の新作メニュー、味おうとったとに」
「うん」
「知らん男の仮定の話されて」
「うん」
「俺だけ、動揺して」

 ちゃんと自覚はあるらしい。そのことが、少しだけ救いでもあり、余計に可笑しくもあった。

「それで、何もなかった顔されるの」
「何もなかったけどね」
「そういうとこです!」

 珍しく感情が前に出た声。テーブルの下で彼の足が落ち着かなく動く。羽も、たぶん、無意識に揺れている。私はその様子を横目で追いながら、またグラスを口に運び、適当な相槌を打った。

「ほかには?」
「……言っても、いいんですか」
「どーぞ?」
「……俺、」

 彼は、声量を落とし、言葉を慎重に選ぶように続ける。その低さが、急に場の温度を変えた気がした。

「立場的に嫉妬しても、口出ししても、正当性がないじゃないですか」

 あまりに真面目な調子で言われて、持っていた箸を落としそうになる。軽口の延長で聞くつもりだった私は思わず、姿勢を正した。

「選ばれてない、側ですし」
「越えないって決めたの、ホークスが先でしょ」
「決めました」
「じゃあ——」
「でも、感情が消えるわけじゃないんで」

 それは愚痴というより、事実の申告に近い響きだった。自分を責めるでも、こちらを責めるでもなく、ただ、現状を置いてみせるような声音。

「だから」

 彼は私のグラスの縁を見つめたまま言う。その視線が、私自身ではなく、今この場にある距離を見つめているように思えて、胸の奥が静かに締めつけられた。

「……嫌だなって思う自分に、いちいちブレーキかけるの」
「……」
「結構……疲れるんですよ」

 その言葉が落ちたあと、私はしばらく黙った。からかうつもりで振った話題が、思っていたよりずっと、深いところまで潜ってしまって、軽口の帰り道を見失った感じがした。グラスの中の氷が溶けてかすかな音を立てる。その音だけが、今の沈黙に許された、唯一の動きだった。

「……大変、だね」

 考えた末に選んだ言葉は驚くほど簡単でだからこそ、嘘がなかった。慰めというより事実をそのまま置いただけの響き。

「ほんとですよ」

 返ってきた声は少しだけ拗ねている。怒りでも不満でもなくどこか子どもっぽい疲れが混じっていて、その温度に胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「でも」

 私は一度、グラスを置いてから続ける。ここで逃げたら、さっきの言葉が宙ぶらりんになる気がしたから。

「それ、私に言っていいんだ」
「……言わないほうが、よかったです?」
「いや?」

 否定は思ったよりすぐに出た。むしろ——と、続きそうになるのを私は、喉の奥で止める。
 嬉しかった、なんてことはわざわざ言わない。言わなくても、たぶん、彼になら伝わっている。

「じゃあ、次」

 私は話題を切り替えるみたいに指を一本折る。深くなりすぎた空気を、少しだけ現実側に戻したかった。

「他の愚痴もどうぞ」
「まだやるんですか」
「まだ、ありそうな顔してる」

 彼は小さく笑ってから目を伏せ観念したように肩をすくめた。伏せたまつ毛が照明を受けて揺れその一瞬の無防備さに、私は咄嗟に視線を外す。

「……半纏も」
「また半纏?」
「はい」
「……なに」
「俺が選んだのに、あなたの部屋の、備品扱いになってるの、地味に悔しいです」
「備品だよ」
「違います」
「じゃあ、何?」
「……共有財産」

 言い切った。冗談めかした語尾もなく、妙に、真剣で、私は思わず、吹き出してしまう。

「重くない?」
「事実なんで」

 私は笑いながら椅子の上で少し姿勢を変える。その拍子に彼の足に軽く触れてしまった。わざとじゃない。けれど、触れたまま離すのも、今さら妙で、ほんの一瞬だけ、そのままにする。

「今日の結論」

 少し前に彼が見せたあの仕切り直しの間合いを思い出して、私はわざと同じ呼吸で、その言葉を置いた。

「あなたは面倒で、独占欲が強くて、」
「……」
「でも、たくさん我慢してるヒーロー」
「……最悪じゃないですか」
「でも、当たってるでしょ」

 彼の眉間にあった皺がようやく緩む。その変化を見逃さないくらいには、私は彼の顔を見ていたらしい。

「……それ、褒めてます?」
「半分はね」
「残りは?」
「聞かないほうがいいよ」

 空気が少しだけやわらいだ。完全に彼の機嫌が直ったわけじゃない。それでも、さっきまで刺々しかった棘が、丸みを帯びた感触に変わっているのがわかる。境界線はまだある。でも、その線の周りで、こうして言い合って、愚痴をこぼして、笑っている時間があること自体が、今夜の答えのひとつなのかもしれない。

「……聞いてくれて、ありがとうございます」

 彼がそう言ったとき、声量はほとんどなくて、礼を言うというよりも、胸の内をそっと置いたという感じに近かった。愚痴を吐き出した直後特有の肩の力が抜けた気配が言葉の端に残っている。

「どう、いたしまして?」

 私は即座に返すでも気取るでもなく、グラスを持ったまま答えた。受け取ったものを、そのまま返しただけの声音。そういう距離で今はちょうどいい。

「愚痴の続きは、みかん一個につき一個までね」
「条件付きなんですね」
「うん。管理が必要だから」
「お揃いの半纏みたいに?」

 その一言に私は思わず吹き出した。さっきまで張りつめていた真面目さが急に日常の温度へ引き戻される。その流れのまま、実際のみかんは今、この場にないので代わりに私の飲んでいた生搾りみかんサワーのグラスを彼のほうへと差し出す。機嫌の悪いヒーローを揶揄いながら、私は今日、彼の愚痴をちゃんと正面から聞いてあげたのだと今さらながら実感していた。

「え、これ……」
「ん? なに?」
「間接キスに、なっちゃいません……?」
「えー? 今さら気にするの、そんなこと」
「や、だって……」
「じゃあ、あーげないっ」
「あっ、待って待って。飲みますって!」

 私が一度、自分のほうへ引き戻したグラスに、彼の手が重なる。その指先が意図せず触れたわけでもないのにやけに意識を引き寄せる。私はそのまま何事もなかった顔で彼に渡した。彼は両手でグラスを持ち上げて、ほんの一瞬だけ、こちらを盗み見る。

「なに?」
「このへん、です?」
「なにが」
「名前さんが口つけたとこ」

 私は曖昧に笑って、首を傾げ彼が、取り分けてくれた唐揚げをひとつ口に運ぶ。誤魔化すような仕草だったのは自覚している。するとホークスが妙に真剣な顔で、ごくりと喉を鳴らし「おじゃまします」と言ったので私は危うく、口いっぱいの唐揚げを吹き出すところだった。

「……ねえ。」
「はい?」
「おじゃまします、って、なんなの」
「だって、おじゃまします、でしょ」
「もう……早く飲んでよ。逆に恥ずかしいから」
「あ、はい」

 そう言って彼は目を細め、私と視線を合わせたまま、わざとらしく舌先を出して私が口をつけたあたりをなぞるように中身を飲む。仄かな酸味の匂いと彼の癖みたいな間の取り方が同時に鼻先を掠める。
 ——最悪だ。これは、完全に、わざとだ。そう思いながらも私は何も言えず、手にした箸で皿の端を、軽くつついたり、食べ終えた唐揚げの衣を転がしたりしながら、意味もなく、その場をやり過ごしていた。
 境界線はまだ越えていない。けれど、その線のすぐ内側で、こうして揺らされる夜が、嫌いじゃない自分に気づいてしまうのだった。

「ちょっと……!」

 思わず声が跳ねた。やや強めに箸を置いた手が宙で止まる。

「いつまで舐め回してんの!」
「へ?」

 心底きょとんとした顔で彼はグラスを口元から離す。わざとだと、わかっているくせに知らないふりをするのがこのヒーローはいちばん得意だ。

「汚い! やだ、汚いっ!」
「ひどかー。」

 ホークスは眉を八の字にして胸元を押さえる。まるで本気で傷ついたと言わんばかりで、被害者ヅラが妙に板についている。

「汚いは言い過ぎでしょ。しかも、二回も」
「回数の問題じゃないから! 質の問題!」

 私はテーブルを越えて身を乗り出し、グラスに手を伸ばす。

「もー! 返して、私の生搾りみかんサワー」
「はいはい。まあ、落ち着いてくださいって」

 そう言いながら、彼は、グラスを自分のほうへ引く。微妙に遠い。絶妙に、届かない。

「……なんで、引くのよ」
「いや、勢いが怖いんで」
「奪い返す勢いに決まってるでしょ」
「それもう略奪ですよ」

 私が眉を寄せるとほんの一瞬、意地の悪い間を置いてからようやく、私のほうへと彼がグラスを差し出す。

「ははっ。美味しかったです」
「どういう意味だよっ」
「文字通りの意味です」

 あまりに堂々と言うものだから、逆にこちらが言葉に詰まってしまった。

「……絶対、わざとでしょ」
「え? 感謝の気持ちですけど」
「どこが!」
「気持ち、込めて飲みました」

 私は思わずテーブルに両肘をついて、そのまま頭を抱えた。

「もうやだぁ、このヒーロー」
「照れてるってことで、いいです?」
「違う!」
「じゃあ、怒ってる?」
「ご名答。怒ってる!」
「可愛いっすね」

 軽く肩を竦め悪びれもせずに、にこ、と笑う。その顔が、やっぱりいちばん、腹立たしい。私はその横顔から視線を外し、もう一度だけため息に似た笑いを零した。
 ほんとうに、どうしようもない、ヒーローだ。けれど、このヒーローはきっと、拗ねたままでも意地を張ったままでも、距離を測り続けながらも最後にはちゃんと戻ってくる。そのことを、私はもう知っている。こたつの中で彼の足が私の足に触れそうで触れない位置に落ち着く、あの距離。じんわりと熱だけが伝わってきて、さっきまでの騒がしさが嘘のように、時間の流れがゆるやかにほどけていく、あの感覚。

 星の数ほど人がいて、それぞれに別の夜がありそれぞれに違う選択肢があったはずなのに。
 今夜、私はこのヒーローと同じ卓を囲み、同じ酒を分け合い、こんなにもくだらないやり取りをしている。その事実だけがやけに静かで、そしてあたたかい。まるで、こたつの熱みたいに、あとから、じわじわと胸の奥に残っていく夜だった。


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