その知らせは——あまりに、不意打ちだった。
週明けの定例ミーティング中、同僚のひとりがぽろりと漏らした言葉。
「ねーねー、ホークス、風邪らしいよー?」
と——その瞬間、胸の奥に置いたはずの小さな火種がふっと風に煽られるように再燃していた。
「え? まじで?あの人、風邪引くんだー」
「うん、寝込んでるってSNS更新してたー」
同僚ふたりの会話を聞き捨てて、私はそっと、カップに入ったコーヒーを啜った。……やっぱり移ってしまったんだ。あの日、私の熱が下がって彼が静かにソファで隣に座っていて私が寝ぼけて彼の肩にもたれてしまったとき、あの微かな咳。あれが前兆だったのだと、今さら思い知る。
その日の夕方、私は、連休の申請用紙にそっと印を押した。そして誰にも告げず小さなバッグに必要最低限のものを詰めて、飛行機のチケットを手にした。
福岡行きの機内、ゆっくりと、雲を抜けていく窓の外の景色を眺めながら私の胸は静かに跳ねていた。
会いたい——ただそれだけの理由で乗り込んだこの小さな旅は、どこかで彼の言葉『次は元気なあなたに会いたい』を、逆手に取るようでもあって。でもそれでも。きっと彼ならこういう��仕返し�≠�、笑って喜んでくれるはずだと思った。
福岡空港の出口を抜ける。小さな花束と、のど飴と熱を下げるための冷えピタ。それから彼の好きだった栄養ドリンクを片手に私はタクシーに乗り込んだ。
彼のマンション。あのセクシー女優との騒動のときに山のように積まれた贈り物の宛先に記されていた住所。その前に立ったとき、胸の奥で鼓動が妙なリズムを刻み始めていた。私はそっと、インターホンのモニターを指先で伏せるように閉じて深く息を吸い込む。そうしてから静かにボタンに触れた。
「……お届けものです。」
返ってきたのは、少しかすれた声。「はい」というたったひとことで目の前の自動ドアが静かに開く。エレベーターを昇り彼の部屋の前に立って呼び鈴を鳴らした。一拍、二拍──。そのあとで現れたのは乱れた髪とほんのり赤みを帯びた頬をした、ヒーローだった。
「……うっそ、マジで? え、これ……夢?」
目の奥に滲むような光。体調が悪いのは一目でわかるのに、それでも彼はどこかしあわせそうに笑っていた。私は小さな花束をそっと差し出して微笑む。
「——はい。ヒーロー緊急支援センターより特別派遣の看病オペレーターで対応にあがりました」
彼は一瞬、言葉を失ったようにパチパチと瞬きをして、それから低く息を漏らすように言った。
「……こんなん、ずるい。惚れ直すに決まってるじゃないすか……」
彼は額に手を当てて困ったように笑った。その笑顔にようやく、私の胸のなかの不安もふわりとほどけていく。
「入っても、いい?」
「もちろんです。ていうか……、はやく入って。俺、たぶん……今、人生でいちばん嬉しいです」
「��イチバン�≠ェ多い人生ですこと。」
ややあたたかい部屋の空気が私の頬に触れた。そしてその空気の奥にふらふらと歩いていく彼へ私はそっと歩み寄っていった。今度は私がそばにいる番だ。
彼の部屋は思ったよりも整っていた。生活感はあるけれど乱れてはいない。ベッドの傍ら、飲みかけのスポーツドリンク、読みかけの書類、使いかけの体温計。どれも彼が一人で頑張っていた痕跡のようで、胸がちくりと痛んだ。
「えっと……氷枕、冷凍庫のどこかにあったはずなんすけど……」
彼はまたベッドに戻り、枕元で、かすれた声のままそう言った。私は頷いて、冷蔵庫を開ける。生活用品が最小限に揃っていてそこにあるはずのものがちゃんとあって、なぜだろう、少しだけ安心した。
「はい、冷えてたよ。これ、首の後ろにあてて」
彼がごそごそと身を起こしかけたのを手で制して、私はそっと、氷枕を彼の首筋にあてがった。すると、びくりと小さく震えた肩。
「──っ、冷たい、」
「そりゃあ、冷やすものだから」
私は笑ったけれど、その笑いはどこか涙の味がした。彼がこうして熱を出して、苦しそうに眉を寄せて頼りなく寝転んでいる。そんな姿を見たくなかったはずなのに。今はここにいられることがたまらなく嬉しくて。おでこに手を伸ばすとじんわりと熱が伝わってきた。その熱が指先から心臓の奥まで届いてくる。
「……なんで、来たんですか。ほんとは、寝てなきゃいけないの、あなたの方だったのに」
「お互い様でしょ。それにもう、私は治ったよ。誰かさんに移したお陰で」
「……それ、俺?」
「うん。あと、トップヒーローが体調崩したの、私のせいだし」
そう言うと彼は片目だけで私を見た。まつ毛のあたりが、少し赤い。
「じゃあ、責任取って……ずっとそばにいてくださいね」
「それ、看病してる人に言う?」
「……言う。」
その言い方が、あまりにも弱っていて、だけど、あまりにも甘えた声で、私は黙って頷くことしかできなかった。
水分を摂らせて、濡らしたタオルを額にのせて何度か熱を測って着替えを探して──気がつけばすっかり日が傾いていた。夕暮れの光がカーテンの隙間から差し込んで彼の寝顔にうっすらと影を落としていた。呼吸は落ち着いていて、額の汗も少し引いている。私は小さく息をついてその傍らに腰を下ろした。
「……」
「……」
あなたが私の知らない場所でどんな風に過ごしているか、どんな人たちと笑い、どんな疲れを、背負っているのか全部はわからないけれど。でもこうして、あなたの手にタオルを握らせることはできる。あなたの髪に指を滑らせて静かに「大丈夫だよ」と囁くこともできる。それだけで今夜はいいと思えた。
彼の部屋には、柔らかな陽だまりのような熱があった。いや、違う。正しく言えばそれは彼自身から、滲み出ていたものだった。熱に浮かされたような頬、緩んだ目元、寝癖のついた髪──そのどれもが普段の彼からは想像できない無防備さで私はいちいち、動揺させられていた。
「ねぇ……」
ごろり、と寝返りを打った彼が毛布の隙間から私を見上げる。
「……ん?」
「裸で……くっつきません?身体、温め合えば、治るかも……?」
言いながら上目遣いで、にこ、と笑う。なんてあざとい男なんだ。その顔がほんのり赤いのは、熱のせいなのか、それとも、確信犯なのか。私は間髪入れずに答えた。
「くっつきません」
「えぇ〜……即答ぉ……」
ベッドに沈んだまま彼は明らかに拗ねたように唇を尖らせ首だけこちらに向けた。ほんの数日前までは「次来るときは元気なあなたに会いたい」と、かっこよく言っていたのに、風邪ひとつで、この甘えん坊モードに移行するの、ずるくない?
「でもねぇ、あっため合ったほうがぁ……」
「お湯沸かして白湯にして持ってくるから」
「いやいや、そうじゃなくてぇ……なんかこう、癒しっていうか……」
「じゃあ、音楽でもかけましょうか?」
「も〜……けっこー冷たいんですね、名前さんって。俺、病人なんに……」
彼はごろごろと寝返って、今度は反対側の頬を枕に押しつけた。その背中が、なぜだか子どものように丸まっていて、私はつい、くすりと笑ってしまった。
でも、そうやって甘えてくる姿の中に、ほんの少しだけ甘えられることへの嬉しさのようなものが滲んで見えた。今まで、どこで風邪をひいてもきっとひとりで寝て、ひとりで治して、ひとりで笑っていた人なのだ。その寂しさが今ようやく、私の手の届く場所にある。
「……ほら、水分、ちゃんと摂って。」
私は、ストローを差したペットボトルをそっと差し出す。彼はおとなしくそれを受け取った。口元に吸い付く様子がちょっとだけ、すねた子どもみたいで──。
「んぐ……ぷはぁ……。ありがと……」
「でも、裸でくっつきたい発言、帳消しにはなりませんからねー」
「ちぇー。でもさ俺、ヒーローじゃないときは、ほんとは、こんななんですよ?」
「その��ほんとは�≠ェ、一番信用できませーん」
「なんと……!」
大げさに崩れ落ちるようにベッドに沈んだ彼がくすぐったそうに笑う。その声を聞いて私もようやく、ほっと安堵した。
「でも……来てくれて、嬉しかったですマジで」
枕に顔を埋めながら言ったその声は小さくて、でもきっと彼の本音が混ざっていた。私はベッドの隅に腰を下ろし、そっと、彼の髪に触れる。
「名前さん」
「ん、なぁに?」
「治ったら、お礼に裸でくっついてくれます?」
「治っても、くっつきません」
「ちぇ〜〜〜……」
「そもそも、お礼でくっつくってなんなの」
「いいじゃないですかぁ、細かいことはー」
こうして、くったりとした、あざとくて可愛いトップヒーロー、ホークスの看病と、私の静かなツッコミが交錯する夜が、ただゆっくりと更けていったのだった。
湯たんぽのようにあたたかい、彼の背中——。その隣に布団を並べたわけではないけれど、彼のベッドの横、畳んだ毛布の上に腰を下ろしているだけなのに、部屋の空気がやわらいで感じられるのは、きっと彼がようやく、呼吸のペースを取り戻し始めているからだ。
「ねぇ……名前さん」
「ん?」
「……俺、治ったら、やりたいこといくつかあるんですよ」
「ふふ、たとえば?」
まだ少し鼻にかかった声。寝かしかけの子どもみたいな口調で、彼は、ゆっくりと語り始める。
「まず……あの、商店街の唐揚げ。前に話してたとこ覚えてます?あそこの熱々のやつ、あなたと並んで食べたいなってずっと思ってたんですよ」
「うん。……あそこ、ほんと美味しいよね」
「まだ潰れてないです?」
「うん。バリバリ営業中」
「それから……動物カフェ。えっと、トカゲとかもいるやつ」
「あー、そっち系かぁ」
「なんか、ふたりで、変な顔しながら『かわいくない〜』とか言って写真撮って……そんでたぶん俺、めちゃくちゃ笑ってる」
「はは……想像つくなぁ。」
笑ってしまいそうなのをなんとか堪える。けれど、その笑いは馬鹿にするものじゃなくて、彼の中にあるちゃんとした日常への願いが、あまりにもまっすぐで、くすぐったかったから。
「あとね……これ、笑わないでくださいよ?」
「うん、笑わない」
「あなたの家の近くにある、あの古い公園。何もないとこ。あそこをふたりで、ただ散歩するっていうのが、俺の、ひそかな夢です」
「……」
「なんかね、あなたと並んで歩いてるとき、俺、たぶん、一番普通になれてる気がするんすよね。ヒーローとかじゃなくて……」
それはたぶん、ほんとうに微熱のせいだけじゃなくて。彼がずっと抱えてきた日常への渇きが、ふと漏れ出した声だった。
私は、そっと指先で彼の前髪を撫でる。熱は、もう峠を越えたようだった。額の汗を拭ったあと彼のまぶたが、すこしずつ下がっていく。
「……だから、ちゃんと治さなきゃっですよね。全部、名前さんとしたいんで」
「うん。……そうだね」
「……また、すぐ、会えますか……」
その問いは夢と現のあいだ。私は答えずに彼の枕の端に手を添えた。それで十分伝わるだろうと思ったから。
カーテン越しの月が、眠りにつこうとしている彼の頬をうっすら照らしていた。その光のなかで私は、彼の寝息が深くなるのを確かめる。
──おやすみなさい、と声に出すのは、きっとまた、次の夜にしよう。
*
朝の光はやさしく、そして容赦なかった。すぐそばのカーテンの隙間からこぼれてくる陽の気配に目を細めて私はそっと身を起こす。隣のベッドでは彼が腕を額に乗せたまま仰向けに寝ていた。
いつものように目をぱちりと開けるのではなく、まだ夢の境界にいるような穏やかな顔。けれど、私が立ち上がって荷物のファスナーを締める音にぴくりと眉が動いた。
「……もう、帰っちゃうんですか」
かすれた声。けれど、それはどこか甘えているような響きだった。
「うん。明日は早くからシフトあるし。帰ったら洗濯もしなきゃだしねー」
そう言って振り返ると彼はまるで夢の続きでも見ていたような目つきで、私を見上げていた。
乱れた前髪の隙間から、まぶたの重たそうな目がこちらをとらえて離さない。
「……あと十五分。十分でもいい。五分でも」
「……」
「もうちょっとだけでいい。そばに、いてもらえません?」
その言葉に私は思わず笑ってしまう。熱が少し下がったからって調子に乗っているのだ。でも、それでも……。
「ダメ。風邪のぶり返しになるから」
「じゃあさ、見送るから、玄関まで一緒に行く。俺も、起きる」
「それもしなくていい。寝てなさい」
「え〜……じゃあ、じゃあ、せめてキスしてって言ったら、怒ります?」
思わずため息をひとつ落として私は枕元に腰を下ろした。そして、彼の額に掌を当てて、ぬるい体温を確かめながらほんの少しだけ言葉を探す。
「……治ったら、好きなだけわがまま言っていいから。」
そう言うと彼は目を閉じながら声にしない笑みを浮かべた。まるで、子どもがようやく安心して眠りにつくときのようなその顔に私は思わず胸があたたかくなる。
ほんの十五分。ほんの、もうすこしだけ。私は鞄を置いて、再び静かに毛布の端に身を沈めた。
東京に戻ってすぐの午後、空はどこか白く霞んでいた。洗濯機が回る音。湯を張った、ケトルのぬるい湯気。窓際に掛けたままのカーディガンの袖が、かすかに揺れている。
たった二日留守にしただけなのに部屋はしんと静まり返っていて、それがなぜだか妙に落ち着かなかった。スーツケースを床に置いたまま、私はソファに沈みこむ。そうしてほんの数秒だけ目を閉じる。あの額に触れたときの、体温。素直に「寂しい」と言えなかった、彼の背中。くしゃくしゃの髪の毛、少し伸びた前髪。それらすべてが視界の裏側にまだ残っていた。
スマートフォンに通知が灯ったのはそんなときだった。鞄のポケットから引き抜いて私は画面を開く。
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おつかれさまでした。
ほんとに、ありがとう。
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たったそれだけの短い文章にやや遅れて羽根のスタンプがひとつだけぽんと送られてきた。私は思わず口元を緩める。
彼にとってはこれが、最大限の��ありがとう�≠ネのだ。言葉にできない不器用な優しさが、そこには詰まっていた。
返信をしようか迷って、けれど今はまだ言葉にならなくて、ただその画面を見つめたまま、私はそっと、スマホを胸元に伏せた。洗濯機の回転が止まり、部屋に少しだけ、生活音が戻ってくる。ひとつ息を吐いて、私は立ち上がる。
──また、すぐ。どうせきっと、すぐに会うんだから。そう、思いながら。