──また(・・)、やられた。そう思った。

「名字、ちょっと。」

 昼休憩を終えたタイミングで、男性室長が声をかけてきた。ファイル片手にどこか意味ありげな顔をしている。ああ、嫌な予感しかしない……。

「ほら、九州のセンターの試験運用、始まるって話、聞いてたか?」
「あー……はい、なんとなく」
「でな向こうの責任者から実務支援のできるオペレーターを一名、少しのあいだ常駐で置いて新人スタッフを育ててほしいって依頼があってな」
「え。ま……まさか」
「おぅ。指名、入ってたぞ。おまえの名前」

 ──きた。きました。いや、出ました。ああ、やっぱり、ね……。

「あの人、また……」
「現場連携が取りやすい人物を——って、書いてあったが。あの人って、なにか心当たりでも?」
「あ……いや!まあ、過去によく応対したことはありますけど……」
「だれと?」
「え? あ、その……ほっ、ホークスと……。」

 と、言葉を濁しているとなぜか室長がニヤニヤしながら、さらに追い打ちをかけてくる。

「ま、がんばれよ。育成期間は、三週間だとよ。短期出張、楽しんでこい」

 誰が行くか、バカ。と、思わず室長に向かって言いそうになった口を慌てて噤んだ。それでも、ため息が止まらなかった。
 案の定、その日の夕方、センターの業務回線に繋がった名前を見て、嫌な予感が現実になる。

「……ヒーロー緊急支援センター、名字が承ります」
『あっ!おつかれさまでぇーす。えっと、名前さん……ですか? 俺です、ホークスです』

 わかっとるわ、名前を見た瞬間に。でももはやツッコむ気力すら湧かず私は淡々と努めて冷静に応じる。

「ああ、ホークスですか。お疲れ様です」
『え、他人行儀……泣きますよ、俺』
「……」
『あ、あのですね。いや、あのっ!誤解しないでくださいよ?その……これはあくまで、業務的な必要性であって──』
「はいはい、実務連携ですね。了解しました」
『冷たい〜、名前さん。俺の声、仕事中に聞けて、ちょっとくらい嬉しかったりしません?』
「あのねぇ!……公私混同しすぎ。わかってる?あなた、トップヒーローなんだよ?」

 思わず大きな声を出してしまいハッとして少しだけ声を抑えながらも、はっきりと釘を刺す。けれど当の本人はどこ吹く風、と言った様子で、相変わらずの調子で平然とヘラヘラ笑っていた。

『あー、やっぱバレてました?』
「バレてますよ。バレバレ。だいたい……、育成対象のスタッフって、何人いるんですか?」
『えーっと、正式採用が一名とぉ〜、あとは学生さんのバイトが二人でぇ〜──』
「……それ、私じゃなくてもよかったですよね」
『でも、あなたじゃないと育たないかもっていうか……ほら、地方の人材って限られてまして』
「……言い訳、長いです」
『すんません♪』

 くすっと、小さな笑いが、受話器の向こうから漏れた。──まったく、もう。こっちが真面目に仕事をしているのに軽口ひとつで空気を和らげてしまう。ほんとうに、ずるい人だなと思う。でもそれが彼らしくて少しだけ気が緩んだ。

「……今回はあくまで、スタッフ育成の一環ですよね?」
『うん。ほんとに。それだけ。でも……あなたが来てくれたら、嬉しいです』

 ……ほら、これだ。最後のその一言だけ、妙に素直でずるい。いや——あざとい。いや、これはもう完全に��あざとヒーロー�≠セ。うん、勝手にそう命名しよう。
 なんだかんだ言いつつ、結局私は最終的には、その声に、また心を傾けてしまっている、というオチである。


 *


 どうして私はいま、ここにいるんだろう……。そう何度も自分に問いながら、それでも飛行機は着陸してしまった。
 目の前に流れる『福岡空港』の文字。それが、現実の重みを持って胃のあたりにじんわりと沈んでいく。実は……なんとか辞退できないかとそれなりに、抵抗はしてみた。「急な出張は体調に」とか「応対に追われ残務が……」などと控えめに打診してみたものの室長は、にべもなかった。

「お前、評価、気にしないタイプだったか?」
「い、いえ……そんなことは……」
「人員育成って言われて断ったって記録、査定に響くぞ?」
「あ……あの……それってもしかして、ボーナス査定、にも?」
「まあ、言わずもがな、だな」

 ——はい、詰んだ。
 そんなわけで私は、実務支援育成担当(仮)として、しぶしぶ福岡の地に降り立った。いや、ちゃんと業務はする。するけれど、これは仕事、完全に、仕事。それを忘れてはいけない。
 最初の数日は他のスタッフも同行予定だ。その同僚の女性上司ともう一人のオペレーターと共にターミナルを歩いていくと案の定、視界の端に、艶やかな赤い羽根が揺れた。

「……やっぱ、出たぁ。」

 思わず呟いた声は、聞こえなかったことにしてもらおう。その赤い羽根の正体──ホークスは、カジュアルな装いで空港ロビーの真ん中に堂々と立っていた。きょろきょろと、何かを探しているかと思いきやその標的を見つけたのか「あっ」と言って大きく手を振りながら、こちらに向かって走ってきた。
 ふーん。こういうときは飛ばないんだなぁ……って、そんなことはどうでもよくて!てか、標的って、もしかして、私……? じゃない、よね?
 どう見ても目立っているし、どう見ても周囲の人々の視線を一身に集めている彼、ホークス。

「あ、あれって……!」
「えっ!? ホークス!?」

 案の定、同僚たちがテンションを上げて、騒ぎ始める。私は小さく深呼吸をして、まるで、彼に気づいていないふりをしながら、わざと、視線を逸らして歩を進めた。

「名前さん!おつかれさまです!お久しぶりっすねぇ〜!」

 ��気づかないふり作戦�≠ヘ、三秒で破綻した。彼は勢いよく私たちのグループに近づいてきて、周囲の「キャー!」という声をものともせずまるで��数十年ぶりに再会した恋人に空港で会いました�≠ュらいのテンションで話しかけてきた。

「機内、揺れませんでした?耳とか、痛くなってないです?あと寒くないですか?あっ、そうだ!あったかいお茶とか、すぐ買ってきますけど」

 ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ。あの顔で、あの声で、よう、しゃべるしゃべる。

「『空港にお迎えに伺います』って確かにメールで届いてたけど。え、ホークス直々に……!?」
「すごーい。っていうか、あれ?名字さん、知り合いだったの?」

 同僚たちは目を丸くして私を見る。私は、ひとまず真顔のまま「以前、業務上の連携で少し」とだけ答え笑顔の仮面を貼りつけた。ホークスはというと、私が無視を決め込んでいるのを、まるで察していないかのように、ひたすら無邪気に笑いながら、普通に話し続けている。

「福岡、いいとこですよ〜。海も山も近いしラーメンもうまいし、あと博多駅のイルミネーションなんかも超キレイでぇ──」
「……あの。ホークス」
「はいっ!」
「先に、資料の確認をさせていただけますか」
「あっ……はいっ、もちろんです!」

 ようやく黙ってくれたようで、ささっと私に、資料の入ったファイルを手渡してくる。それでも口元はにやけていて、なんなら口笛なんか吹いている始末だ。まるで、無言の会話を楽しんでいるみたいにして。
 なにがそんなに楽しいのかまったくわからないけれど。私は荷物のキャリーを引きながらそっと彼から視線を外した。この三週間、無事に終わるといいのだけれど……どうなることやら、今からすでに心配だ。


 *


 初めて訪れた福岡のヒーロー緊急支援センターは、前回立ち寄った仮スペースとは異なる場所に新設された拠点で想像していたよりもずっと整然としていて、空気もどこか、静まり返っていた。東京と比べてまだ人員も設備も過渡期という印象はあったけれど、そのぶん、一人一人の動きには誠実さがあって、それだけで私は少し、安心していた。
 職員控え室には机と椅子。パソコンの起動音が静かな室内に響き、持参したメモ帳の角をそっと撫でるとふと視線の気配がした。いや、気のせいだろう。そう思った数分後に——ピンポーンと、軽快に控え室の内線が鳴った。

「失礼しまぁーす! 本部長代理のホークスで〜すっ!」

 ……あ、やっぱり来た。扉の向こうから現れたのは、相変わらずラフな服装のホークスだった。肩には、非常に作為的な資料バインダーを提げていて「ちょっと事務書類の確認がありまして」と実に堂々とした嘘を口にする。

「東京仕込みのオペレーター様、福岡で、お困りごとは?なんでも屋ホークス、待機中ですよー」
「……」
「空調とか椅子の高さとか、そういう細かいとこも、全部、言ってもらって大丈夫ですからね⭐︎」

 いや、私は新入社員じゃないんですけど……。自分で言うのもなんだけれど、今ではそこそこ、��ベテラン�≠フ立ち位置である。オフィスチェアの高さくらい、自分で合わせられますが。

「大丈夫です。特に不便はありません」

 なるべく素っ気なく返したつもりだったけれど彼はまったく気にする様子もなく「そっか〜」と笑って、私の机の上を覗き込んでくる。

「あ、ていうかまだWi-Fi繋いでなかったっすね?これ設定用紙、向こうに置いておきまーす」

 ……それ、さっき、別の職員さんがやってくれましたよね?
 明らかに��用事のための用事�≠セった。しかし彼はそんなことをおくびにも出さずファイルを机に置いて、またぺちゃぺちゃと喋り倒す。

「ここの職員さん、ちょっと硬い人多いから何かあったら俺に言ってもらって。遠慮なしで。あ、夜でも、全然いいんで!」

 いやそれ完全に個人連絡前提じゃないですか。さすがに同僚の職員がちらりと視線を送ってくるのが見えて、私はわざと咳払いをひとつして立ち上がる。

「ホークス」
「はーい」
「本部長代理という立場でいらっしゃるのなら、業務時間中の私的会話は、お控えくださいね。」
「……え、それ俺、怒られてます?」

 わかってるくせに、そうやって、真顔で返してくる。だけどそのあと彼は小さく笑って言った。

「でも、名前さんがここにいてくれるの、ほんとに心強いんすよ?」
「……」
「……ちょっとだけ、それ、言いに来ました」

 私の耳元に顔を近づけて来たかと思えばこれである。小声だったけれど、私の胸には、はっきり届いた。ああ、こういうところが彼のずるさ——いや、��あざとさ�≠ネのだと、つくづく思う。
 ただの人員育成の受け入れのはずなのに、どうしてこんなにも個人的な感情をくすぐってくるのだろう。無意識なのか意識的なのか、もう、ここまでくれば、私にはわからぬ。

「──ではでは、失礼します」

 最後はそう短く告げた彼が、背を向ける。私は再びパソコンに向き直った。しばらくして、彼の気配がようやく遠ざかった。けれど、パソコンの反射で見えたその背中は出口までの数歩を何度も振り返っていた。
 まったくもう……。やれやれと心のなかで呟きながら私はマウスを握り直す。ああ、これは、長い出張になりそうだ。先が、思いやられるよ。

 午後の日差しが、窓際のブラインドの隙間からゆるやかに、床へと筋を描いていた。
 東京での喧騒が今では嘘のように遠く感じる。ここにはあの忙しさもせわしない呼吸のリズムもなかった。代わりにあるのは、まだ緩やかで整備されきっていないシステムと、それを、根気よく動かそうとする、人々の手の温度だった。
 ホークスの席──いや、正しくは��現地本部長代理�≠フ仮設オフィスは私が間借りしている業務端末の三つ奥にある。その距離は、数字にすれば五メートルもないのに、会話の頻度は思いのほか少なかった。
 彼はこちらの視線を意識していないふうを装いながら、ほんの時折、私の方に目をやる。けれどそれは他の誰にも気づかれないような極めて控えめな動きで、まるで、無言の文通のようだった。
私はというと出来るだけ平静を保っていた。他の職員との、初対面の挨拶。システムログの確認。今後の予備運用に向けた課題整理。どれもやろうと思えばできる。けれどやっぱりどこか心はざわついていた。だって彼が、隣にいる。ほんの数ヶ月前まではヘッドセット越しに交わしていたやり取りが、今や、目と目を見てできる距離にある。なのにどこかぎこちないのはきっと互いの��今�≠ノ、まだ心が追いついていないからだろう。


「名前さん、少し、いいですか」

 唐突に声がかかったのは午後三時を少し回ったころ。資料棚のファイルを整理していた私は反射的に振り向いた。するとそこには、ホークスが、片手に端末を持ったまま私の後ろに立っていた。仕事用の声色。けれどその奥に、ほんのわずかな��二人だけの特別なトーン�≠ェ混じっているのを私は聞き逃さなかった。

「さっきの通信ログの件なんですけど」
「ええ」
「同時多発の警戒エリアがこっちの分署と、連携不十分で」
「あ、はい、すみません。今、確認します」

 私は端末を開きながら彼の隣に立つ。肩と肩が触れるか触れないかの距離。息遣いが、少しだけ近い。

「ほら、ここの記録……同じ時間帯に二回指示が重なってるでしょう?」
「あ……本当ですね。これ、優先順位の設定が、一部抜けてます」
「さすが……。やっぱり、頼りになるなあ〜名前さんは」

 その言葉に私は思わず画面から目を逸らした。それは��本部長代理�≠フ言葉ではなく、確実に、ホークスの声だったから——。
 わかっている。今、ここで過剰に反応すれば、誰かに気づかれる。そしてなによりも、隣にいるこの人が喜んでしまう。けれど胸の内側ではじんわりと、灯がともるようなぬくもりが、広がっていた。
 思えば彼と私が一緒に何かをするたびに、こうして、言葉以上の何かが、確かにそこにあった。それは任務中の緊迫したやりとりでも夜中のささやかな通話でも、今回の出張という名の、遠回りでも──。

「じゃ、また何かあったら、俺の席まで」
「……はい」

 短く答えて私は再び席に腰を落ち着ける。彼の気配が静かに離れていく。その背を見ないように指先だけを動かす。
 ——どうかこの日常が仕事の中にうまく紛れていてくれますように。私は祈るような気持ちで、画面にログを入力していった。


 *


 日が沈むのが東京よりわずかに遅い気がした。センターの窓からのぞく福岡の空は、茜から藍へゆっくりとグラデーションを描いていた。
 勤務記録の送信を終えた端末の画面が、ふっと暗転する。ぽつりぽつりとオペレーターのデスクにも人の気配がなくなり、気づけばフロアには、私と、もうひとりしか残っていなかった。
 ……彼だ。ホークスは私の斜めうしろ——少し奥まったミーティングスペースの片隅で簡易ボードに何かを走り書きしていた。ヒーロースーツの上着はすでに脱ぎ捨てられていて身体のラインが際立つ黒いインナー一枚の姿。その様子がまるで「今日の仕事はここで一区切り」と物語っているようだった。視線を少しだけ長く滑らせてしまった自分に気づいて、私は慌てて鞄を肩にかける。帰り際の、ほんのひとことだけでも。そう思って控えめに声をかけた。

「今日はおつかれさまでした。……じゃあ、私はそろそろ——」
「ん、名前さん。ちょっとだけ」

 呼び止められて足が止まる。彼はまだ背を向けたまま黒マジックを指先で回しながら、ぽつりと続けた。

「明日の午後、現地の警備演習に立ち会うの——名前さんが同行だって聞きましたけど……」
「……ええ、はい。」
「あんまり無理はしないでくださいねー?」
「……無理なんて、別にしてないよ」

 言ってすぐに我に返った。……しまった。油断した。口調が完全に��オフの私�≠セった、今。
 ホークスが、すっと振り返る。その目に、ゆるやかな笑みが宿っていた。

「……あれ? いま敬語、消えてましたよね?」
「……気のせいじゃない、ですか?」
「いやいや、ちゃんと耳に残ってます。証拠ありますから」

 ニヤリと口角を上げて彼は一歩、私に近づいてきた。私はやや後ずさる。

「ねえ、名前さん。」
「は、はい……」
「やっぱりそっちの話し方の方が、俺は落ち着くな」
「……慣れすぎてる、だけです、よ……」
「ううん。あなたの��素�≠�、ちゃんと覚えてるってだけ」

 ふと時間が止まったような気がした。この空気は静けさの中にだけ流れる特別な温度。いつかの深夜、受話器越しに交わした言葉たち。あるいは職場の裏道で肩を並べたあの日。あるいは手探りのように肌を重ねた夜……あるいは、遠く離れた夜更け、声だけで繋がったあの時間──。
 思い出すには少しだけ胸が疼きすぎる。けれど私は目を伏せずに、彼を見た。

「明日の現場行き……遅刻しないでくださいよ」
「ええ、ちゃんとあなたより早く来ますよ。凄腕オペレーターの前で遅刻なんてトップヒーローの名が泣くんで」

 そう言って彼は、心底楽しそうに笑った。私も小さく肩をすくめる。

「じゃあ、名前さん、また明日。」
「——はい、また明日。」

 あたたかな光だけが残るフロアで、短い言葉を交わしあい、私はその場を後にした。背中越しに彼の視線がそっとついてくる気がした。振り返らないと決めていたのにエレベーターホールに入る直前、つい小さく、手を振ってしまった。返事はなかったけれど、わかっている。あの人はきっとまた私の��間(ま)�≠�、やさしく受け止めてくれるということを——。


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