もう季節はすっかり夏だ。夜になっても気温は下がらず駅前に溜まる熱と湿気が服の内側にまとわりつく。昼の名残りなんて言葉では足りない。これはもう、逃げ場のない夏の空気だ。

 その夜は、たまたま残業を抜けて、いつもより遅い電車を降りただけ。近道でも寄り道でもなくただの帰り道だった。けれど、だからこそ余計に視界が開けてしまったのかもしれない。人の流れに逆らうようにして歩いていたとき、視界の端に見覚えのある背中が映り反射的に足が止まった。
 少し先——ネオンの光が滲む通りをホークスが歩いている。隣には女性の姿。背が高くて、脚が長くて、街灯の下でも分かるほど体の線が整っている。雑誌か何かで見たことのある顔だった。
モデル。多分、そういう界隈の人。二人の距離は肩が触れるか触れないか程度で歩く速度が揃っていて会話の合間に相手の女性が何かを言って笑いホークスがいつもの少し砕けた表情で首を傾けて返す。——ああ、と。そこでようやく、気づいてしまった。彼は私にだけ見せていると思っていた顔を今別の誰かにも向けているのだという事に。
 ホークスは、こちらに気づいていない。視線は前を向いたまま。だから私はあえて名前を呼ばなかった。ただ人の流れに紛れ、二人が通り過ぎていくのを見送った。別に胸が痛むというほどではない。ただ、呼吸の仕方を一瞬、忘れただけだ。それから数日後のこと。何事もなかったみたいにして彼、ホークスから、連絡が来た。



ホークス

今日、行けます?


名前

うん





 即答してしまった自分に、ほんの少し遅れて、違和感が追いつく。断る理由も、避ける理由も、私にはなかった。だから、この「うん」は嘘ではない。ただ何も考えないようにして選んだ結果の返事だった。
 選ばれたのはいつもの店。いつもの席。グラスが置かれ、注文が淡々と済み、乾杯までの流れがいつもよりもほんの少しだけ、ぎこちない。誰のせいでもない。季節のせいみたいな微妙な間が、テーブルの上に静かに溜まっていくだけ。

「……どうしました?」

 先に気づいたのは、ホークスだった。向かいの席から投げられた声は軽い調子を装っているのに私の指先の動きや、視線の落ち着きどころまでもちゃんと、拾っている声音だった。

「なんか今日はやけに静かっすね」
「……そう?」

 自分では、いつも通りに振る舞っているつもりだった。グラスを持つ手も相槌を打つ間も、取り立てて乱れてはいない。ただ、胸の奥に薄く張り付いた違和感だけが、私の動作を微妙に鈍らせている。

「はい。名前さん、今日は……」
「……」
「目が、あんまり合わない」

 言葉の途中で少しだけ間を置く。その沈黙に、意味を与えすぎてしまう自分がいる。私はそれがおかしくて口角を持ち上げて曖昧な笑いを作る。そのまま指先で、グラスの縁をなぞった。冷えたガラスの感触が、やけに鮮明だった。

「疲れてるだけ」
「最近、ずっとそれ言ってません?」

 責める響きではない。むしろ様子を測るみたいな、少し低くなった声。それが今夜は必要以上に胸に残った。

「……あのさ、」

 言葉にしかけた音は居酒屋のざわめきに溶けて形になる前に消える。あの夜の光景が、喉の奥に引っかかっている。ネオンの滲み、並んで歩く背中、知らないはずの距離感。言えば何かが変わってしまう気がして、でも、黙ったままでいれば、歪みは深くなる気もした。

「名前さん」
「……ん?」
「なにか、言いかけませんでした?」
「え?」
「さっき。『あのさ』って」

 一瞬だけ心臓の鼓動が速くなる。聞こえていないと都合よく思い込んでいたのはどうやら、私のほうだったらしい。

「あ、ううん……やっぱ、なんでもない」

 口をついて出た否定は思った以上に自然だったと思う。この夏、嘘をつくのが更に上手になってしまった。その事実が、自分でも少しだけ怖い。
 料理が運ばれてきても、味が輪郭を結ばない。ホークスの話に頷くタイミングが微妙にずれて、笑うべきところで一呼吸遅れる。自分でもわかるほどリズムが噛み合っていなかった。

「んー......やっぱなんか今日、変ばい」

 不意に彼がぽつりと言う。声を荒げるでもなくただ、事実だけを置くみたいにして。

「俺、なんかしました?」
「してない」
「じゃあ、なんで?」

 それ以上は踏み込まない。けれど引き下がりもしない。私はようやく顔を上げた。琥珀色の目と視線が重なる。いつもならその色に触れるだけで呼吸が整うはずなのに今夜は胸の奥がざわついたままだった。演技みたいに頬を膨らまして返答を律儀に待っているヒーローに観念して私は小さく息を吐いた。

「実は……この前、さ」

 思っていたよりも低い声が自分の喉から落ちてきて、私自身がいちばん驚いた。居酒屋の喧騒の中でその音だけが不自然に輪郭を持ってしまう。

「……飲屋街で、ホークス見かけた」
「……へっ?」

 ほんの一瞬だった。箸を持つ彼の手が止まり、視線が泳ぐ。その小さな揺れが、彼本人の内側で何かが急に切り替わったことをはっきりと伝えてきた。

「俺……?」
「……うん」

 持った箸で自分を指して聞き返すヒーローと、事実を事実として返す私。言葉と次の言葉の間に重さのある沈黙が落ちる。私は無意識にグラスを握っていた指をほどき、逃げ道を塞がないようにそっとテーブルの上に手を戻して続けた。

「……モデルっぽい人と、歩いてた」
「……」

 否定も、説明も、すぐには出てこない。考えている沈黙なのか、言葉を選んでいる沈黙なのか、その区別がつかないまま時間だけが伸びていく。その静けさが、まるで答えみたいに胸に沈んだ。

「気づいて、なかったでしょ」
「……」
「わたしが、そばにいたこと」
「……すみません」

 きっと今のは謝るところじゃない。そう頭では分かっているのに、彼の口から零れたその一言が妙に胸に引っかかった。まるで、私が彼を責めているみたいな構図になってしまうのが嫌だった。

「雑誌の。仕事関係で」
「そう」

 だからそれ以上は掘り下げなかった。聞きたいのは、誰だったのかじゃない。仕事かどうかでもない。本当に触れたい部分は、言葉にした瞬間、元に戻れなくなる気がして、私はそこから、一歩引いた。ホークスは、私を見ている。視線は外さない。でも私はどこを見ればいいのか分からなくなって、グラスの中の氷に視線を落とした。

「……ごめんなさい」

 箸を置いた彼がまた謝罪を述べる。さっきよりも少しだけ声が低く慎重で、距離を測るみたいな響きで。

「俺……距離、ちゃんと取るべきでしたよね」
「違う。なんで、謝る必要ないじゃん」
「……」
「ホークスが、悪いわけじゃない」

 考えるよりも先に、言葉が出ていた。それは、取り繕いではなく本音だった。だからこそ、胸の奥がじわりと痛む。責められない相手を前にしてどう折り合いをつければいいのか分からない。
 その夜、私たちは最後までいつも通りには戻れなかった。笑いはある。会話も途切れない。けれども二人のあいだに薄い膜みたいなものが張ったままで、そこには触れてはいけない場所が確かに残っていた。ただ見てしまっただけ。何も起きていない。それなのに、私のなかでは確かに何かが動いてしまった夜。
 ホークスは、まだ気づいていない。この距離の変化が、私から始まったことを——。

 店を出ると、昼の熱を残した空気の隙間を縫うように、夏の夜風がひんやりと肌を撫でた。アルコールで火照っていたはずの身体が外気に晒された途端、急に現実へ引き戻される。人通りはまだ多く週末特有のざわめきが途切れずに続いていてその音の層が私たちの間にある沈黙を引き伸ばすみたいだった。並んで歩く距離は、さっきよりもほんの少しだけ近い。でも完全に戻ったわけじゃない。その曖昧さが、逆に息苦しい。

「……名前さん」

 歩調を合わせたまま、ホークスが名前を呼ぶ。振り向かせるほど強くはなく、それでも確実に、意識をこちらへ引き戻す呼び方だった。

「今日、やっぱ、元気ないですよね」
「そう見える?」
「見えます」

 迷いのない即答。様子見でも、探りでもない、断定に近い声で、胸の奥に小さな棘が刺さる。

「無理して笑ってる感じ、するんで」
「ヒーローの観察力」
「個性の観察力です」

 軽く言っているけれど、視線は、逸らさない。街灯の下で、横顔がくっきりと浮かぶ。あの夜、モデルと歩いていたときと、同じ角度の顔。そう思ってしまった自分に、内心で舌打ちする。

「別に、無理してないよ」
「じゃあ」

 言葉を継ぐ前にわずかな間が落ちる。足は止めないまま、それでも、流れを変えようとする予感だけが漂う。

「気分転換、します?」

 強引でもなく、遠慮しすぎてもいない。提案として、ちょうどいい位置に置かれた言葉だった。

「……気分転換?」
「はい」

 ホークスは一呼吸置いてから、声の調子を少しだけ変える。

「今日、二次会しません?」

 胸の奥が、微かに揺れる。その揺れを、気づかなかったふりをする余裕は、もうあまり、残っていなかった。

「俺ん家、寄っていきません?」

 へらりと笑う。押しつけがましさはない。誘いというより、選択肢を差し出す言い方。断られる可能性を、最初から織り込んだ声だ。

「無理なら、全然いいです」

 私はすぐ答えられなかった。疲れているから。今日は気分じゃないから。明日も、仕事だから。理由はいくつも浮かぶ。でも、どれも決定打にはならない。本当の理由は、もっと単純で、もっと扱いにくかった。今のまま、彼の空間に足を踏み入れてしまったら。この揺れている距離が良くも悪くも、はっきりしてしまう気がした。

「ごめん」
「……」
「……今日は、いいかな」

 口に出た声は、思っていたより静かで、感情を余計に載せない調子だった。ホークスは、すぐに返事をしない。歩きながら視線を落とし、言葉を選んでいるのが分かる。言葉の前に、短い沈黙が落ちた。

「無理させるつもりは、ないです。ただ——」
「うん」
「名前さん一人で帰すの、今日はちょっと心配で」
「……子ども扱い」
「違います」

 被せるように、即座に否定する。その速さに、彼なりの線引きが滲む。

「大人だからこそ、です」

 その言い方がずるいなと思った。責任も感情もどちらか一方に寄せず全部まとめて抱え込もうとする強さ。

「……ホークスは」
「はい」
「私が元気ないと、すぐそうやって……」

 言葉が途中で途切れる。続きを探そうとするとどれも、一歩だけ踏み込みすぎる気がして、舌の先で躊躇した。それをこの男は、見逃さない。

「どうやって?」
「……距離、詰めてくるでしょ」

 冗談めかしたつもりだった。でも、声の奥には隠しきれない本音が混じっている。ホークスは、一瞬だけ視線を落とし、困ったように苦笑する。

「詰めてるつもりは、ないですけど」
「じゃあ……なんなんだろうね」
「……逃げ道、作ってるだけで」

 その言葉が、胸の奥で静かに、引っかかった。距離を詰めるでも突き放すでもない。逃げるための場所を先に用意するという選び方。その優しさが、息をする余地を与える一方で、どうしようもなく切ない。

「うち来たら何もしなくていいし、話さなくてもいいし」
「……」
「ジェンガ、やっても……ソファで寝ちゃってもいいし」
「……」
「一杯だけコーヒー飲んで、帰ってもいい」

 彼は選択肢を一つずつ丁寧にテーブルに並べるみたいに言う。どれも正解で、どれも、強制じゃない。だからこそ私の胸の奥で判断が重くなる。

「それでも……」
「……」
「今よりは、楽かなって」

 私は立ち止まって、夜空を見上げた。ネオンに押されて星は、ほとんど見えない。それでも空は広く急かす気配はなかった。答えを出さなくても責められない夜だった。

「……また、今度にしていい?」
「もちろん」

 迷いのない返事。その速さが、かえって、彼の本心をはっきりさせる。

「急かすつもり、ないんで」
「……ありがと」

 結局、その夜は駅の手前の分岐で別れた。彼は最後まで「気をつけて」とだけ言って、深追いはしなかった。それが一番ホークスらしい気遣いでそして、一番残酷だった。一人になった帰り道。胸の奥に残ったのは断った安心よりも、誘われたままの余白だった。元気がないことを見抜かれ、手を差し伸べられそれでも踏み込まれなかった。その事実だけが夜の底で重さを持つ。駅が見えてきたところで私は、足を止めた。分岐点はいつも思っているより、あっさり現れる。右に行けば、いつもの帰り道。左に行けば彼のセーフハウスへ向かう通り。どちらも、もう、見慣れてしまっている。そして気づけば私は、駅を背に走り出していた。
 私に背を向けた瞬間、彼は翼を広げて夜の空へ消えていったのだと、勝手に、思い込んでいた。だから、少し先に歩く彼の背中を見つけたとき、考えるより先に、声が出ていた。

「ホークス……!」

 彼のヒーロー名が夜気を切る。気配で察知したのか、背中越しに呼ばれるよりも早く、彼は足を止めて振り返った。

「……はい」
「ごめん……」

 息が少し上がっている。走ってきたせいもあるけれど、それだけじゃない。胸の奥が追いついていない感じがそのまま呼吸に出てしまっている。言葉が喉で引っかかる。一度飲み込んで続けた。

「やっぱ……行っても、いい?」

 一瞬、彼は目を見開いた。ほんの刹那。けれど確かに驚いた顔だった。しかしすぐに表情を整えて、目尻を下げ、いつもの穏やかな声音に戻る。

「もちろんです」
「迷惑じゃ……ない?」
「なるわけないでしょ」

 即答だった。その速さが嬉しいのか、怖いのか自分でも分からない。ただ、そのあとに浮かんだ少し困ったような笑みを、きっと私は見たかったのだ。セーフハウスに着くまで、ほとんど会話はなかった。並んで歩いているのに触れない距離。彼の腕と私の肩が何度か近づいては離れて、そのたびに心臓が小さく音を立てる。静かな道なのに身体の内側だけが騒がしい。そんな中で、不意に彼が言った。

「……今日、さ。無理、させてないですよね」
「……してないよ」
「なら、よかった」

 それだけ。言葉を足さない。理由も聞かない。踏み込まない。だからこそ私の中で、言葉にならない何かが膨らんでいく。
 彼のセーフハウスは、相変わらず静かだった。玄関の灯り、きちんと揃えられた靴、無駄のない空間。ここに来るたび私は彼の生活そのものではなく、輪郭だけをそっと借りている気がする。

「適当に座っててください」
「うん」

 アクセサリーを外す、微かな音。グラスを用意する、氷の触れ合う音。生活音が、今夜はやけに近い。私はソファに腰を下ろして、無意識に手を膝の上で組んだ。落ち着かない。でも立ち上がる理由も帰る理由も、もう見つからなかった。

「アイスコーヒーでよかったです?」
「……うん」

 差し出されたグラスを受け取るとき指先が一瞬だけ触れた。ほんの偶然。けれど、そのわずかな接触が、今夜は妙に長く残る。冷たさより先に、触れた感触のほうが、指に居座っていた。

「あの件——」

 彼はソファの隣に腰を下ろし、少しだけ距離を測るようにしてから口を開く。声は低く、慎重で逃げ道を残した響きだった。

「気にしてます?」

 あの件——。聞き返す必要も言い換える必要もない。今の私には何を指しているのかが、あまりにも容易に、分かりすぎていた。

「……してない、って言ったら、嘘かな」
「そっか」

 苦笑でも、諦めでもない。ただ受け止めるためだけの声。

「説明するほどの話でもない、と思ってて」
「うん」
「名前さんが見てたなら、なおさら」

 その言い方に、胸の奥がわずかに締まる。私を気遣っているのか、それとも距離を保とうとしているのか、その境界が曖昧で、だからこそ、息が詰まる。

「……何も、なかったですよ」
「分かってるよ」
「ほんとに?」
「うん」
「分かっとーと?」
「……うん。だから今、ここにいるんでしょ」

 それ以上の言葉は、見つからなかった。私は、グラスに口をつけ一口だけ飲む。氷が、カランと小さく鳴った。その音が、沈黙の輪郭をなぞる。

「ねえ、ホークス」
「はい」
「私、最近……」

 言いかけてやめる。言葉にしてしまえば、もう元の位置には戻れない気がして舌の上で止めた。

「……元気、なかったですね」

 けれど彼に、代わりに言われてしまった。確認でも責めでもない、ただの、事実みたいな声音。

「自覚は、あるかも」
「じゃあ」
「……」
「今日はここで、少し休んでいってください」
「……うん」

 それ以上の提案も条件もない。ただ、居場所としてこの場所を静かに差し出される。私はソファの背にもたれ、深く息を吐いた。肩の力が抜ける感覚と同時に胸の奥に別の緊張が残る。
 踏み込んだのは私自身だ。でも越えない距離を守っているのは彼だ。その微妙な均衡が、今夜はいちばん危うく、そして、いちばん優しかった。それでも。やっぱり、来てしまった。後悔よりも先にそんな実感だけが胸の奥で静かにゆっくりと広がっていた。

「なんかやりますー?」

 沈黙が長くなりすぎる前に先に口を開いたのはホークスだった。キッチンの棚を開けながら振り返らずに言う。その背中は空気の重さを察して、さりげなく逃げ道を作ろうとしているみたいだった。

「なんかって、たとえば?」
「うん。ほら」

 振り返った彼がキッチンに立ったまま指差した先には見慣れた箱。そう、ジェンガだ。

「またそれ?」
「無難なんで」
「無難かなあ」
「無難です。手、動かすし」

 感情を扱わずに身体だけを動かす。その選択がいかにも彼らしくて私は思わず小さく笑ってしまった。ホークスが戻ってきて、床に座りローテーブルを挟んで向かい合う。箱を開けて木片を組み上げていく音がやけに部屋に響き生活音とは違う乾いた規則的な音が室内の空気を少しだけ整えていく。

「ルール、覚えてます?」
「机、揺らしたら負け」
「指は?」
「片手」
「罰ゲームは」
「なしっ」
「即答〜」

 彼は肩をすくめる。その仕草が今日は少しだけ柔らかい。

「今日は、平和路線でいきましょう」
「賛成」

 最初の数手は、何事もなく進む。指先で木片を押し、引き、様子を見る。ジェンガ特有のざらりとした木の感触。向かいでは、ホークスが視線を落として、塔だけを見つめている。さっきまでの会話が嘘みたいに、その顔つきは真剣だった。

「……集中すると、ほんと静かになるよね」
「音、聞いてるんで」
「音?」
「抜ける音と、嫌な音」

 そう言いながら、彼は一本、するりと抜いた。塔は、ほとんど揺れず、木片だけが指先に移る。

「ほら」
「うわ、すごい」
「今のは、いい音でした」

 得意げでもなく誇るでもなく、ただ事実として言う。その落ち着きが、妙に格好よく見える。
 次は、私の番だ。中段に、ほんの少しだけ動きそうな木片を見つけて、指を伸ばしかけてから、私はいったん、手を引っ込める。

「……ちょっと、そっち行っていい?」
「ん?」

 答えを待つより先に、私は立ち上がってテーブルを回り、ホークスの横に腰を下ろした。向かい合っていたときより塔が近い。彼の腕と私の肩がぎりぎり触れない距離で並ぶ。視線を同じ高さに落として、改めて木片を見る。指で触れた瞬間、塔が、わずかに震えた。

「……ほら、ここ」
「うわ、攻めますね」

 息を詰めるのが、向かい合っているときよりもはっきり分かる。私は身体を少しだけ前に傾け、力を抜いて、揺れが収まるのを待つ。

「……っ」
「無理しないで」
「いや、いける」

 自分に言い聞かせるように力を抑えて、揺れが落ち着いた頃を見計らい、そっと指を伸ばした。
 ——抜けた。木片が指先に移った瞬間、思わず溜めていた息を吐く。その動きのまま、私は元の位置には戻らず、彼の隣に座り続けていた。

「……このまま、そこで?」
「うん。こっちのほうが、見やすい」

 言い訳みたいな言葉だったけれど、ホークスは何も言わずに、小さく笑って頷く。並んで座ったまま二人で塔を見下ろす。その距離がさっきより少しだけ近いまま、ホークスが、ほんの少しだけ口元を緩める。

「ちゃんと、できてるじゃないすか」
「なにそれ」
「前に言ったでしょ」
「……ああ」

 少し前に彼から教わった焦らない抜き方——。力を入れすぎず塔が自分から許すのを待つというやつ。

「成長しましたね」
「ジェンガで成長、測られるとはねぇ」
「大事ですよ、こういうの」

 次の彼の手は、さっきよりも少し大胆だった。木片を抜いた瞬間、塔が大きく揺れる。音が一段低く鳴って、二人同時に息を止めた。

「あ」

 倒れる、と判断するより早く、ホークスが前に出た。ジェンガの塔を支えようと伸びた腕が勢いのまま私の身体に触れる。その衝撃にバランスを崩し、私は反射的に後ろへ両手をついた。遅れてそれに気づいた彼が私を支えようと体をひねったせいで結果として距離はさらに詰まった。視界が一気に暗くなる。覆いかぶさるような影。直後、彼の背中の向こうで木片が崩れ落ちる乾いた音がした。ジェンガの塔が床に散らばる。——近い。思考よりも先に、そう感じてしまうほどに。

「あ……っ、すみませ……っ、」
「いや、ごめ——」

 言葉がどちらも途中で途切れた。彼は床に両手をついたまま、私のすぐ横に腕を伸ばしている。肩の横、数センチ先に彼の腕。顔を上げればすぐそこにある距離。トクン、トクン、と心臓の拍動と呼吸の音がはっきりとわかる。彼の息が私の頬のあたりを掠めていく。一瞬、世界が止まったみたいだった。でも私は彼が前に教えてくれた通りに動いた。視線を逸らし、肩を少し引いて体を横へずらす。焦らない。力を入れすぎない。するりと、彼の腕の下を抜けて距離を取る。立ち上がるでもなく、ただ向きを変えて、そしてすぐに彼に背を向けた。

「あー、もう……驚いたぁ〜」

 自分でもわかるほど声が軽すぎる上にこれまたずいぶんと上擦っている。

「まったく。反応速度、爆速で困っちゃうよー、あはは」

 心臓の音が背中越しに伝わってしまいそうで、ペラペラと言葉が止まらない。いつもより明らかに早口だったと思う。すると背後から「ほら」と少しだけ息の弾んだ声が届いた。私はそこでようやく、ゆっくりと、後ろを振り返った。

「ちゃんと、交わせる」

 ホークスはまだ床に両手をついたまま、視線を伏せていた。一瞬だけ、その姿勢で呼吸を整え、それからふっと肩の力を抜く。倒れたジェンガの木片が、二人のあいだに散らばったまま転がっている。さっきまでの距離はもうない。けれど触れていないという事実だけが妙にはっきりと残っていた。

「あ、ほんとだ……」

 ……と、私は、少し照れたみたいに笑う。

「ちゃんと、できてるじゃないすか」
「だから、それ……さっきも言われた」
「今回は、別の意味で」

 彼は何事もなかったみたいにゆっくりと身体を起こして姿勢を正す。必要以上に近づかない位置で私と距離を保ったまま、ホークスは淡々と床に散らばったジェンガの木片を、拾い集めていく。一本ずつ揃えて積み上げていく手つきは、丁寧で無駄がない。やがて元の形に戻った塔がローテーブルの上に立った。すこし歪んだまま、けれど、崩れずに。

「……続けます?」
「うん」

 何事もなかったみたいにまた順番が回る。遊びに逃げた夜。でも、その逃げ道が用意されていること自体がもう特別だった。ジェンガの塔はまだ倒れない。私たちも、きっと、まだ——。
 木片を抜く音が、やけに大きく聞こえる。ローテーブルの上で積み上がった塔は中段がすっかり薄くなっていて、どこに触れても揺れそうな顔をしている。それでもぎりぎりの均衡を保ったまま夜の真ん中に立ち続けていた。

「……ねえ」

 私がそう声をかけると、ホークスはジェンガの塔から視線を外さないまま「はい」と短く返事をした。床に座ったまま彼は塔の中段をじっと見つめている。木片の重なり具合を測っているみたいな、その横顔が今夜はやけに落ち着いて見えた。

「私ね」

 指先で無難そうな一本を探り当てながら言葉を続ける。

「彼氏できた、とか……別れた、とか」
「はい」
「勝手に、ホークスに報告会してるでしょ」
「してますね」

 即答だった。笑いも含まずに、事実を確認するみたいな調子で。私は、その返事を聞きながら、木片にそっと力をかける。抵抗は少なくするりと抜けた。塔はまた、ぎりぎりで耐えている。

「……なのにさ」

 私はようやく抜いた木片を塔のてっぺんに乗せながら、視線を落としたまま続ける。

「この前、ホークスが——」
「……」
「女の人と、肩並べて歩いてるの、見ちゃって」

 その瞬間、彼の動きが止まった。抜きかけていた木片から指が離れる。何も言わない。ただジェンガの塔を、見つめている。さっきまで聞こえていた木片の擦れる音が急に遠くなった気がした。自分でも、言い訳みたいだと思いながら、言葉を重ねる。

「……別にさ、彼女では、ないだろうし」
「……」
「ほんと。仕事関係かなって、私も思ったし」

 ホークスは、ようやく木片に触れる。けれど、抜こうとはしない。指先だけが、わずかに位置を確かめるように動いている。胸の奥に沈んでいたものを、静かに引き上げる。

「なのに……ちょっと、モヤッとした」

 軽く言ったつもりだった。けれど、口に出した途端その言葉が思ったより重たいことに気づく。言ってしまった、という感覚が遅れて胸の内側に広がった。しばらく沈黙が続きやがてホークスが先に、低い声で口を開いた。

「それは……俺に、言うやつですか」
「言うつもり、なかった」
「でも、言いましたね」
「うん」

 塔がかすかに揺れた。彼はようやく一本を抜き始める。慎重というよりも様子を見極めるような手つきで。そして木片を半分ほど引き出しながらぽつりと。

「名前さんは、正直者ですね」
「今さら」
「いや、今のは」
「……」
「ちゃんと、感情の話だったんで」

 一拍、少しだけ間を置いてから、そう言った。木片が途中で止まる。嫌な揺れが伝わってくる。ホークスの指先がそこでまた動きを止めた。私はそっと顔を上げて、彼を見やる。

「……ホークスはさ」
「はい」
「私がそういうの見て、何も思わないって思ってた?」

 責めるつもりも、詰める気もなかった。ただ、確かめたかっただけだ。ホークスは、答えない。その代わり、指に少しだけ力を込めた。塔がまた微かに揺れる。崩れはしない。でも確実に均衡は薄くなっていた。

「ちょ、そこ危な——」

 言い切るより早く、ガラと乾いた音が落ちた。ジェンガの塔は耐えきれず崩れ、木片がローテーブルの上へと散らばる。軽いはずの音なのに妙に大きく響いて部屋の空気を一度、切り分けた。
 沈黙。ホークスは、崩れた塔を見下ろしたまま深く息を吐いた。その呼吸には悔しさとも違う、諦めとも違う、何かを一度、胸の奥へ戻すような重さが混じっていた。しばらくしてようやく顔を上げる。

「俺の負けです」

 はっきりした声だった。でも、その目はさっきまでよりも少しだけ、遠くを見ている。視線が、ジェンガではなく別の場所に置かれているように見えた。

「罰ゲームなし、だっけ」
「はい」

 小さく返しながら、木片を集め始める。けれどその手つきはどこか曖昧で指先が迷いを引きずったまま動いているのがわかった。その中で不意に言葉が落ちた。

「……聞きたい、ですか」
「……なにを」
「俺が、何も思わないかどうか……」

 木片を集めかけていた彼の手が止まる。顔は、上げないまま。視線だけが、床に散らばる木片をなぞっている。

「今は……ジェンガ、崩しちゃったんで」
「……」
「罰ゲーム、ってことで」

 なしって言ったのに——と、喉まで出かかった言葉を私は飲み込む。その言い方が逃げに見えてでも逃げじゃないことも分かってしまったから。
 もし、あのまま塔が立っていたら。もし、彼の手が最後まで木片を抜いていたら。たぶんここに落ちてきたのは木片じゃなくて、もっと戻せない何かだった。

「……続ける?」
「どうします?」

 彼がこちらを見る。探るようでもなく、委ねるようでもない、ただ判断を預ける目。私は、散らばった木片を一つ拾い上げて指先で転がしながら答えた。

「今日は、ここまでにしよ」
「……了解です」

 ジェンガは崩れたまま。会話も、途中のまま。でも、崩したのが彼だったことだけが妙に身体の奥に漂っていた。
 結局ジェンガは片づけられなかった。ローテーブルの上に散らばった木片はさっきまで積み上がっていた会話の残骸みたいで、どれも中途半端な位置に転がっている。ホークスも、いくつか拾い上げてから結局、手を引っ込めた。

「なんか、飲みます?」

 そう言って、彼が立ち上がる。

「うん」
「なにがご希望で?」
「お水」

 短く答える。それ以上、言葉を足す気になれなかった。グラスに水が注がれる音が静かな部屋に落ちる。さっきまでの軽さはもうない。代わりに空気だけが妙に澄んでいて、余計なことを言うと割れてしまいそうだった。

「はい、どーぞ」

 差し出されたグラスを受け取ると指先がほんの一瞬、近づく。触れはしない。でも距離は確かに短い。その微妙さに、心臓が遅れて反応する。

「……さっきの話」

 彼は背を向けたまま言った。キッチンとリビングの境目に立ち、視線をこちらに向けないまま、わざと距離を保つような姿勢で。逃げているわけじゃない。ただ言葉を投げる角度を慎重に選んでいるのが伝わってきた。

「途中で止めて、すみません」
「……ううん」

 私は反射的に首を振った。その動きは自分でも驚くほど早くて否定というよりこれ以上、空気を張りつめさせないための癖みたいなものだった。

「ジェンガ、片付けなきゃだったし」
「ですね」

 彼が短く返す。乾いた笑いが一度だけ落ちる。でもそれはすぐに消えて、代わりに、言葉を選び直す沈黙が残った。

「名前さん」

 今度はちゃんとこちらを向いて。その呼び方は軽くもなく重すぎもしなくて、ただ今から本音を言います、という合図みたいに思えた。

「俺が」

 ほんの一瞬、言葉が途切れる。視線が、私ではなく、その少し手前に落ちる。胸の内側で何かを一度、噛み砕いてからでないと、外に出せない、そんな間だった。

「……何も思わないわけ、ないじゃないですか」

 淡々とした声。感情を盛らない代わりに、嘘もない声。胸の奥が、静かに波打つ。

「じゃなきゃ、ここまで気まずくならんでしょ」
「……」
「そんな器用な人間じゃないですよ、俺」

 視線は合わないままグラスを傾ける仕草だけが時間を進めていく。

「でも……それを、言っていい立場かどうかは、分からないままです」

 水を飲む。冷たさが、喉を通る。言葉にされなかった感情がそこで一度、身体の奥に沈んでいくみたいだった。

「私も」

 少し遅れて言葉を出す。さっき彼が置いた本音の余韻がまだ空気の底に残っていて、それを踏まないように、でも、避けないように声の高さを探しながら。

「ホークスが、誰と歩いてても」
「……」
「口出す権利、ないって思ってる」

 それは理屈としてはずっと前から分かっていたことだ。分かっているからこそ胸の内側で勝手に動いた感情の行き場がなくなる。
 正しさと気持ちはいつも同じ方向を向かない。言葉を続ける前にほんの短い間が落ちる。それは躊躇というより、覚悟に近い間だった。

「でも、見ちゃった以上……なかったことには、できなかった」

 ホークスが小さく息を吐く。その音は溜め息というほど重くはなく、かといって、軽くもない。受け取った、という合図みたいだった。

「……正直者ですね」
「お互い様でしょ」

 彼は少しだけ口元を緩める。照れでも苦笑でもない、話を折らずに受け止めるための、最小限の表情。

「あの人、仕事関係で」

 そこには、焦りも、取り繕いもない。言い訳に聞こえなかったのは、たぶん、必要以上の言葉を足さなかったからだ。

「さっきも聞いたよ」
「��抱かれたい男特集�≠ニかってやつで」
「わー、絶対に買わない」
「え、待って」
「なに?」
「そこは『わ〜、絶対に買うね♡』って来るとこじゃないです?」

 私は思わず鼻で笑って、肩をすくめる。空気を少しだけ軽くしたかったのもあるしここで深刻になりすぎるのが怖かったのもある。

「来ないよ。誰が見たいの、親友の裸なんて」

 ホークスが言葉の選びどころに困ったみたいに一瞬だけ視線を泳がせる。その反応が、逆に人間くさくて、場の緊張を和らげた。

「いや……裸までは、なっとらんし」
「でも、出したんでしょ?」
「言い方……まあ、ちょろっと?」
「買いません」

 短い応酬のあいだにグラスの中で氷がぶつかる音が重なる。笑いと本音の境目を互いに踏み外さないようにしているのが、妙に伝わってくる。

「……で。打ち上げ帰り、送ってっただけです」
「うん」

 それ以上、説明は続かなかった。私も掘り下げなかった。しばらく言葉の代わりに、氷が溶ける音だけが部屋に残る。沈黙は気まずさじゃなく、ちゃんと��了解した�≠�との、静けさだった。

「ねえ、ホークス。私さ……」

 言葉を選ぶ時間がそのまま呼吸になっていた。軽く言えば嘘になるし、重く言えば逃げ場がなくなる。だから、ちょうど中間の場所を探す。

「自分がどこに立ちたいのか、まだ、決めきれてないんだと思う」

 彼はただ小さく、うなずくだけだった。肯定も否定もせず続きを促すでもなく、こちらの迷いをそのまま置いておく仕草。私は少し、間を取る。決意というより、線引きに近いような間。

「……だから今日は、これ以上、聞かない」
「……助かります」

 その言葉は丁寧だったけれど、どこか喉に引っかかる音を含んでいた。助かった、というより、守られた、に近い響き。私は、視線を落として、散らばったジェンガの木片を一つ拾い上げ指先で転がす。木の角が、皮膚に小さく触れる。

「ね」
「はい?」
「次、やるときはさ」
「うん」
「ちゃんと、最後までやろうね」

 ゲームの話みたいに口にした。でも、彼も私もそれがゲームだけの意味じゃないことは分かっている。ホークスは私の指先で回る木片を、静かに見ていた。

「片付け、込みです?」
「うん。今日、片付け途中で投げ出したから」
「崩さない自信、ないですけど」
「それでもいい」
「……了解です」

 今度は、ちゃんと目が合った。逃げない視線。探らない視線。そこにあったのは納得というより受け取ったという感じだった。その夜はそれ以上何も起きなかった。触れもしなかったし、答えも出なかった。けれど、床に散らばったジェンガの代わりに確かに残ったものがある。次は誤魔化さない。途中で目を逸らさないという約束みたいな何かが——。


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