夏の名残がまだ街の隅に貼りついているのに、夜風だけが先に季節を裏切る。
 肌をなぞる空気が昼間の熱をそっと引き剥がし乾いた匂いを連れてくる。秋が音もなく入り口に立っているのがわかる夜だった。葉の色は、まだ変わらないけれど息を吸った時の胸の奥の涼しさだけが、もう夏のそれとは違う。



名前

ちょっと


名前

いま


名前

だめかも





 短い三行は揺れる画面の向こうで途切れがちに光っていた。時刻は、日付が変わる少し前。ホークスはきっとスマホを見た瞬間に、羽織を掴んでいたと思う。返事は、返ってこない。位置情報を確認して理由を組み立てるより先に身体が動く。考える時間を挟めば、ためらいが混じると知っているからだと、私はもう知っている。
 彼が私を見つけたとき、私は店先の段差に座り込んでいた。上着の前はきちんと留めているのに背骨だけが折れたみたいに、姿勢が崩れている。街灯の白い光が足元の影を薄く広げていた。

「……こんばんはぁ〜」

 顔を上げると勝手に口角が持ち上がる。笑っているつもりの、その感じ。

「こんばんはぁ、じゃないです」
「ホークスぅ〜」
「動けます?」
「うーん……」

 と、考えるふりをしてから、首を振る。

「世界が、横」
「でしょうね」

 彼はしゃがみ込み視線を合わせる。目の高さが揃った瞬間、酔いの底でほどけかけていた輪郭が少しだけ戻ってきた。

「立てそうなら、ゆっくり」
「……ホークスぅ?」
「はい」
「きょうねぇ?」

 言葉の合間に冷えた空気が一度だけ、肺を通り抜ける。

「い〜っぱい、飲んだァ」

 知っている。言われなくても。だから、来た。言葉にしなくても彼の沈黙がそれを示していた。

「自覚あるなら、合格です」
「やったぁ〜」

 ガッツポーズを作ろうとしてバランスを崩す。視界がふらつくより早く彼の手が伸びた。けれど抱き寄せるほどは踏み込まず、肩に触れるだけで止める。触れているのに、境界は保たれたまま。

「危ないです」
「……やさしい」
「介抱です」

 それ以上でも、それ以下でもない声音。距離の温度を一定に保つ、彼の癖。でも今夜はそれだけでは、足りない気がしてしまった。
 タクシーに乗るまでの道は、ゆっくりだった。私は彼の腕を掴んでいる。掴むというより支えている。歩幅を合わせるたび足元の影が重なっては離れる。夜風が互いの上着の裾を揺らし、さっきよりも涼しい。秋は、もうそこまで来ている。

「ねえ、今日さぁ……」

 声を出した自分の舌が少し重たい。アルコールの余韻が、言葉の輪郭を丸くしている。胸の奥で転がしていた感情を拾い上げるまでにほんの少し時間を要した。

「……ちょっと、さみしかった」

 ホークスは一切歩調を変えない。夜道の石畳を踏む靴音が、一定のリズムを刻んでいく。

「それ、酔ってるせいです」
「ひどい」
「事実なんで」

 突き放すようでいて声は柔らかい。その距離感に少しだけ救われる。タクシーに乗り込み、どれくらいの時間が経過したのか不明だが、気づけば目的地に到着していた。タクシーを降りて夜道を少しだけ歩く。そこで私は不意に街灯の下で足を止めた。すると彼も自然と足を止めて振り返る。夜風が上着の隙間を通り抜け、火照りを一枚ずつ剥がしていく。

「ねえ、ホークス」
「はい」
「……ね」

 顔を上げる。思ったよりも近くてわずかに息を呑んだ。彼の吐く息が頬を掠める。アルコールと彼の体温の混じった甘い匂いが、まだやわらかく残っている。その瞬間、私の中の隠された強欲が顔を覗かせた。

「キス、しよっか」

 彼ならば間髪入れずに「なに言ってんすか」と慌てるか「酔っ払い」と笑って交わすか、その、どちらかだと思っていた。けれど、ホークスは、すぐには答えなかった。代わりに一歩だけ距離を詰める。そして、私の額にそっと、手を当てた。触れるけれど引き寄せない。拒むでもない。まるで熱を測るみたいな、あるいは、境界線の位置を確かめるような、ひどく慎重な触れ方だった。

「今は、ダメです」
「えー......」
「酔ってる」
「……うん」
「判断力、落ちてる」

 一つひとつ、確認するみたいに、言葉を置く。それは責めるでも諭すでもない。ただ、境界線の位置を丁寧になぞるような、なんとも彼らしい、言い方だった。「それに」と、彼の声が少しだけ低くなる。冗談めかした軽さが完全に抜け落ち、仕事のときにだけ見せる静かな真剣さが混じる。

「今、それやったら」
「……」
「名前さん、明日、後悔します」

 胸の奥がきゅっと縮む。図星だからじゃない。ちゃんと、私の��明日�≠�見ている言い方だったからだ。私はしばらく黙って、それから、ふっと笑った。

「ヒーローだねぇ」
「ヒーローですよ」

 私の頬からようやく彼の手が離れる。距離が、元に戻る。踏み込まなかったという事実だけが、去る夏の空気に輪郭を与えて残る。

「キスは、また、ちゃんとしたときに」
「……」
「今したら、ヒーローじゃなくなるんで」

 酔いで輪郭の曖昧な思考の底から、それでも、納得が浮かび上がってくる。私は小さく頷いた。

「……じゃあ」
「はい」
「今日は、帰ろ」

 ホークスは、その私の言葉にわずかに肩の力を抜いた。何か張り詰めていたものがほどけたのか吐息がゆっくりと落ちるのが分かる。

「それが正解です」

 また歩き出す。私はもう一度、彼の腕を掴む。でも、さっきより力は弱い。預けるというより、確かめるみたいな触れ方。勢いに任せて、「キスしよっか」と言ってしまったこと。そして「今はダメ」と止められたこと。その両方が同じ方向へほんの少しだけ私を進めていた。
 酔いが醒めた朝、私はきっと、思い出す——。触れなかったことのほうが、ずっと近かったこの夜のことを。夢よりも、確かな記憶として。


 *


 翌朝、目が覚めたとき、天井の白さにわずかな違和感があった。見慣れているはずの色なのに、質感が、違う。瞬きを二、三度繰り返してから、首だけをそっと巡らせる。視界に入るカーテンの折り目、几帳面に揃えられた棚、余白の多い壁。どれも私の部屋にはない整いすぎた配置だった。

「……あ」

 喉からこぼれた声が妙に乾いている。ここは、ホークスのセーフハウスだと気づいた瞬間、昨夜の記憶を探るように、頭の内側を指でなぞった。
 ——飲んでいた。外にいた。誰かに迎えに来てもらった。そこから先が、すとんと、抜け落ちている。きれいに、なんとも都合よく。

「やば……」

 起き上がって、自分の身体を確かめる。服は、きちんと着たまま布団も乱れてはいない。何かが起きた痕跡は、どこにもない。それなのに、胸の奥だけがざわついて落ち着かない。何もなかったからこそ、不安になる種類の静けさだ。
 リビングへ向かうと、キッチンに、ホークスの背中があった。湯気の立つカップに、お湯を注ぐその一連の動作はいつもと変わらないはずなのに空気だけが、あきらかに硬い。昨日までの余韻が一晩で凍りついたみたいに距離の温度が変わっているのが分かる。

「……おはよう」

 声をかける。が、返事はない。気のせいだろうと思って、もう一度、少しだけ声を張って「ホークス?」と名前を呼ぶ。言葉が背中に触れるのを確かめるみたいにして。それでも彼は、こちらを振り向かない。ただ、何かを置く音だけがやけに乾いて響く。

「……怒って、る?」

 問いかけは空気に吸い込まれて返事にならないまま落ちていく。沈黙は、拒絶というほど強くはないのに、触れれば、壊れてしまいそうな硬さを帯びていて、私はその場に立ったまま次の言葉を選ぶ余裕を失っていた。

「……え、うそ。なに……」
「……」
「ねえ、なに。ちょっと待って」

 私は一気に、距離を詰めた。足音を立てて床を踏み、背中側に回り込み、その横顔を覗き込む。目線の高さまで身体を寄せ彼の視界の端に自分を無理やり押し込む。

「昨日……なにか、やらかした?」

 そこでようやくホークスが大きく息を吐いた。疲れでも、諦めでもない、我慢を続けてきた人の呼吸だった。

「覚えて、ないんすか」
「……え、うん」

 正直に言うと、彼は、ゆっくりこちらを見た。その視線は座っていて鋭いけれど感情をぶつけるためのものではないとわかる。

「本当に?」
「ほんとに。記憶、ない」

 言葉が尽きたあと短い沈黙が落ちた。その数秒のあいだに、彼がどこまで本気なのかを測ろうとしている自分に気づいて胸の奥がきゅっと縮む。

「……最悪ですね」

 返ってきた低い声。完全に怒っている。そして声を荒げないのが余計に怖い。その抑制が、かえって胸に刺さる。

「……ねえ、」
「……」
「なに……なにやらかした、私」
「色々です」
「色々ってなに」
「言わせます?」

 私は反射的に頷いてしまう。考えるよりも先に身体が反応していた。頷いたあとで逃げ道を自分から塞いだことに気づく。でも、もう引き返せなかった。

「……まず」

 ホークスは、わずかに間を置いてから指を一本立てる。その動きがやけに落ち着いていてこれが衝動的な怒りではないことを、はっきりと伝えてくる。

「夜中に酔っ払って、ベロベロになって、救助を求めてきました」
「あー......」
「福岡戻る予定やったけん」
「あー、それは……」
「次」

 二本目の指が立てられる。出た、平和の象徴。綺麗なピースサインだ。今の私のこの状況はどう見ても��平和�≠ネんかには程遠いけれども……。

「帰り道でふらついて、立てなくなりました」
「それはぁ……仰る通り、最悪ですね……」
「次」

 三本目の指が立てられたとき、少しだけ言葉を選ぶような間があった。

「人通りのある場所で、俺に——」

 そこで一瞬だけホークスは言葉を切る。私からそっと視線が逸れる。なんだか嫌な予感がする。

「……キス、」
「!」
「しよっか、って……言いました」
「は、いっ!?」

 声がひっくり返った。思っていたよりも大きな声が出て自分でも驚いた。否定したいのに、否定できる材料が何ひとつ思い当たらず喉の奥だけが乾いていく。

「えっ!?」
「えっ、じゃないです」
「え、まって……ほんと?」
「ほんとです」

 仁王立ちで腕を組んで私を見下ろす姿は、ヒーローというよりも、保護者みたいだ、と思った。もちろん今の空気と状況で、そんな冗談を言えるはずもないけれど。

「しかも、相当、無防備でした」
「……」
「警戒心、低すぎなんすよ」
「……」

 何も言えずにいる私を見て彼は声を荒げることなく畳み掛けるように淡々と続ける。その静けさが、かえって逃げ場を、どんどん奪っていく。

「自分がどれだけ危ない状態だったか……」
「……」
「相手が俺じゃなかったらどうするつもりだったんすか」
「……」
「誰が相手でもおんなじこと言いよったと?」

 怒っている。完全に。魔王みたいに。けれど、その芯にあるのは叱責じゃない。はっきりとした心配だ。責めるための怒りじゃなくて危険な目に遭うかもしれなかった現実に対する後悔と恐怖が言葉の裏でうずいているのが分かる。

「……ごめん」

 絞り出すように言うと彼はまた少しだけ視線を逸らした。唇の端がわずかに歪み怒りを噛み殺すみたいに奥歯をきしませる。その横顔は、叱っているというよりも、何度も頭の中で「もしも」をなぞってしまう人のそれだった。

「……謝るの、遅いんすよ」
「だって、覚えてないんだもん」
「それが問題です」

 ぴしゃりと線を引く声。感情を切り捨てるような冷たさではなく守るために引かれた線だった。それが分かるからこそ、余計に胸に沈む。

「俺だから止めましたけど」
「……」
「でも、俺じゃなかったら……」

 彼は一度だけ言葉を止め、短く息を吸う。そのわずかな間に続きを言うかどうかを慎重に選んでいるのが分かった。

「名前さん、後悔じゃ済まなかったでしょ」

 その言葉が胸の奥に静かに、しかし確かな重さを伴って落ちてきて私はしばらく、呼吸の仕方を思い出せずにいた。

「……怒ってる?」
「怒ってます」
「……どのくらい」
「しばらく。かなりです」

 間を置かない返事だった。その速さが感情ではなく、決意で答えていることを示していて、私は視線を逸らすしかなかった。

「でも」
「……」
「ちゃんと起きて話そうとしてるのは評価しますけど」

 完全に許されたわけじゃない。けれど拒まれてもいない。その中間に立たされている感じが今の関係をそのまま映している。私は小さく息を吐いた。まだ、立ち位置は定まらない。でも逃げずに向き合う朝が、ここにあるだけで——。

「……ありがとう」
「それ、言う順番も遅いです」
「厳しい」
「本気で怒ってたんで」

 ホークスは、インスタントのお味噌汁を一杯、私の前に置いた。そして、湯気が立ち上がるのを確かめるみたいに、少しだけ視線を落としてから言った。

「飲んでください」
「……アサリ?」
「二日酔い対策です」
「介抱、続いてる?」
「仕方なかけんねぇ」

 言葉は淡々としているのに、動作は一切乱れていない。怒っている。でも突き放してはいない。その矛盾した距離感が、かえって胸の奥を静かにさせた。覚えていない夜の代わりに、私は覚えている。こうして怒られるほど、ちゃんと守られていた朝のことを——。
 私は受け取った味噌汁を一口飲んでから、少しだけ間を取った。湯気が、二人のあいだを曖昧にする。

「ねえ、ホークス」
「はい」
「ホークスは、さ……」
「……はい」

 返事はある。でもまだこちらを見てはくれないけれど。彼の視線は、自分の持ったマグカップの縁に落ちたままだ。言葉を選ぶあいだ私は呼吸を整える。喉の奥に残った不安を、無理に飲み下さないように。

「……キスを迫ったことに、怒ってるの?」
「……」
「それとも」

 一拍、ほんの短い沈黙を挟んでもう一度呼吸を整える。

「私が、他の人とキスするかもしれないことに、怒ってるの……?」

 責める気はなかった。ただ、確かめたかった。ホークスはすぐには答えない。マグカップを持つ手が止まり今度はキッチンの縁のあたりをじっと見つめる。その沈黙自体が、すでに、答えの一部みたいに思えた。

「……前者だけなら」

 ようやく口を開く。声は低く乾いていてどこか喉の奥で押し殺したものを含んでいる。

「正直、ここまで怒ってないです」
「……」
「酔ってたし、判断力も落ちてたでしょうし」

 淡々と感情を削ぎ落とした声。そこに、責めはなく、事実だけを並べるみたいな、静かな調子がある。

「でも——後者が混ざると、話が変わります」

 そこで初めて彼は顔を上げた。視線がまっすぐこちらに向く。逃げも照れも混じらない、覚悟を帯びたような琥珀色の瞳。視線は逸れずこちらの逃げ道を、最初から想定していないみたいな真っ直ぐさだった。

「……それは、えっと……」
「名前さんが、誰とどうこうするとか、したとかじゃなくて」

 言葉を探すようにほんの少し間を置く。そこで呼吸がひとつ落ちる。

「自分を大事にしない選択を……簡単に、しそうだったんで」

 胸の奥がひり、と鳴る。指先が無意識に味噌汁のカップを強く握っていた。熱さよりも、自分の体温の方が今は、はっきり分かる。

「それに……俺が迎えに行かなかったら」
「……」
「誰が止めてたか、分からなかった」

 低い声で言ったそれは怒りというより、未然に後悔を断ち切ろうとする人の声。さっきと同様に想像の中で何度も「もしも」を辿った人間の声音だった。

「だから……キス、そのものより」
「……」
「その状況を、平気で作る名前さんに、腹が立ちました」

 私は、言葉を失う。反論は浮かばず、ただ自分の軽さが言葉の形を持って突きつけられたみたいで喉の奥が詰まった。

「わたし……」
「はい」
「軽、かった……?」
「無防備でした」

 迷いなく返ってきた言葉。けれどその声には、突き放す鋭さはない。事実を、そのまま差し出すみたいな、逃げも飾りもない言い方で、私を裁くためじゃなく、現実を共有しようとしているのが分かってしまう。

「それが、嫌だった」
「……」
「名前さんが、そういう扱われ方をしてもいい人みたいに見えるのが」

 その言葉は責める形をしていないのに胸の奥に深く沈んだ。怒られたというより、見透かされた感覚に近い。自分でも気づかないふりをしていた危うさを静かに指でなぞられたみたいで息の置き場が一瞬、わからなくなる。

「じゃあ、結局……怒ってるのって」
「はい」
「私の、こと?」

 問いを投げたあと短い沈黙が落ちる。その間に彼がどう答えるかを考えるより先に、答えはもう分かっていた。ホークスは、ほんの少しだけ間を置いてから、短く頷いた。

「そうですね」

 それだけだった。声を荒げる事も、説教めいた言葉を足す事もない。ただ目を逸らさず逃げずに立っている。その態度そのものが、いちばん強い返事だった。

「……ごめんなさい」

 今度は、ちゃんとした謝罪だった。言葉を選ぶ余裕も、言い訳を挟む余地もなくただそのままを差し出す。ホークスは、それを受け取ってから、小さく息を吐く。

「謝れるなら、次は」
「……」
「同じこと、しないでください」

 言葉とは裏腹に、命令口調ではない。怒鳴りもしない。線を引くための言葉でもなくてこれから先も一緒に立つための��約束�≠�求める言い方。

「……うん」
「それと……俺は」

 ほんの一瞬、言い淀む。その迷いは言葉の重さを分かっている人のものだった。

「名前さんが、誰とキスするか以前に」
「……」
「そんな状態になるまで独りで放り出されるのが嫌です」

 それが、この怒りの正体だった。独占でも嫉妬でもなく守れなかったかもしれない未来を失っていたかもしれない未来を想像してしまった人間のいや、ヒーローの遅れてやってきた恐怖と後悔。

「……覚えとく」
「覚えなくていいです」
「え?」
「どうせ酔うたら忘れるっちゃけん」
「……ですね、はい……」
「覚えてなくても、守ってください」

 ホークスはそこで、ようやく自分のコーヒーを一口だけ飲む。その仕草で少しだけ彼の肩の力が抜けたのが分かった。怒られている。でもそれは距離を遠ざけるためじゃない。境界を一緒に保つための怒りだったのだ。 私は、ほんの少しだけ口元を緩めて切り出した。でも視線は彼ではなく手元のカップの縁に落としたまま。

「ホークスってさ」
「はい?」

 返事はすぐに返ってくる。でも、その声を受け取る余裕が私の中にはまだ整っていない。言葉は出るのに気持ちの置き場が定まらず喉のあたりで小さく、引っかかる感覚だけが残っている。それでも軽い話題みたいに始めておかないと胸の奥に溜まっているものが、そのまま零れてしまいそうだったから。

「やっぱ、ヒーローだよね」
「……急に、なんすか」
「だって」

 自分で投げた言葉を拾い直すみたいに短く息を整える。勢いで言ってしまうと、たぶん、本当のところが見えてしまう気がした。

「大切だから、とか」
「……」
「好きだから、とかじゃなくて」

 言葉を選んでいるふりをしながら、実際は何も選べていない。ただ思いついた順に口にしているだけで、結果、それがいちばん正直だと分かってしまっている。

「人としてどうか、っていう倫理観だけで怒ってるんだもん」

 言い終えた瞬間、自分でもはっきり分かるくらい、声が少しだけ低く落ちた。冗談めかすことも笑って誤魔化すこともできなかった。

「それって、すごく正しいし、ありがたいし」

 そこまでは本心だ。彼に対しても、ヒーローに対しても、感謝も尊敬も確かにある。——でも。

「……ちょっと、寂しいなって思って」

 そう言った途端に、胸の奥がきゅっと縮んだ。言ってはいけないことを言ってしまったわけじゃないのに、触れてはいけない場所に、そっと指を置いてしまったような感覚があった。��正しさ�≠フ外側に感情がこぼれてしまった瞬間。ようやく顔を上げると、ホークスは黙って私を見ていた。驚いた顔でも否定する顔でもない。ただどう返すべきかを真剣に考えている人の顔だった。

「名前さん……」

 彼は、すぐには否定しなかった。その沈黙は、考え込んでいるというより言葉を選ぶ前に一度、感情を落ち着かせているようにも見えた。

「確かに……最初に引っかかったのは、倫理観です」
「……」
「ヒーローとしてじゃなくて、人として見過ごせなかった」

 そこまで言ってから、彼は一度だけ視線を逸らした。テーブルの端でも床でもなくどこにも焦点を合わせないまま、ほんのわずかな時間を置く。言葉を探しているというよりも、次に出す一言の重さを測っているように。それでも、正直すぎる答えだった。そこには取り繕う気配も、和らげる工夫もない。
 ホークスは「でも」と、そこで短く息を吸う。その微かな音が、その場に落ちた。

「それだけだったら……迎えに行ってません」

 胸の奥で、静かに何かが鳴った。大きな音じゃない。ただ、確かに聞こえる程度の微かな震え。

「見た目ほど俺、自由でも暇でもないんで」
「……」
「一応、電話かけて安否確認して、さっさと電話切って」
「……」
「『気をつけてくださいね』って、文章で送って終わらせてます」

 淡々とした口調なのに、その想像だけがやけに具体的で、現実味を帯びていた。彼なら、本当にそうしただろうと思えてしまう。

「俺が、腹立ったのは」
「……」
「名前さんが、軽く扱われる側に、自分を置きに行ったことです」

 視線が、私に戻る。まっすぐで、逃げ道を用意しない鷹のような目。

「それを、倫理でしか止められなかった自分にも腹立ってました」

 その一言で言葉を失ったのは私のほうだった。彼が怒っていたのは、私だけじゃない。自分自身にも、だった。

「……じゃあ」
「はい」
「人として、だけじゃない?」
「……はい」

 短い肯定。けれども、そこに、曖昧さはない。

「人として、は前提です」
「……」
「その上で……困ってる人は、見過ごせない主義なんで」

 彼は少しだけ間を置いてから、はっきりと言い切った。しかし、それ以上は、続かない。補足もしない。その線の引き方が、彼らしかった。逃げないけれど踏み込みすぎない。境界を守りながら確かにこちら側に立っているそんな言葉だった。

「……ずるい」

 思わず零れてしまった。考えてから出した言葉じゃない。胸の奥に溜まっていたものが隙間からこぼれ落ちただけだった。

「どこまでが、ヒーローで」
「……」
「どこからが、ホークスなのか、分かんない」

 言ってしまってから、自分でも少し、困った。答えが欲しいわけじゃない。ただ、混乱していることをそのまま渡してしまった感じだった。彼はほんの少しだけ口元を緩める。笑う、というほど明るくはない。困った人が、どう返すべきか考えながら浮かべる表情。

「俺も、よく、分かってないんで」
「……」
「だから、線を守るしかないんです」

 その言葉は、正論だった。逃げでも、誤魔化しでもない。でもどこか切り分けすぎない優しさがあった。私は、胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくり吐く。正しさで怒られたのだと思っていた。でも実際は、正しさの奥に、個人的な感情をちゃんと置いたままそれを前に出さない人に怒られていたのだと、ようやく理解が追いついた。
 寂しさは、消えない。けれど、それは拒絶じゃなかった。むしろ、近づきすぎないための、ぎりぎりの距離感だった。

「じゃあ、次からは……」
「はい」
「ちゃんと、自分のこと、大事にする」

 自分に言い聞かせるような口調になったのは、きっとまだ半分ほどしか自分の言葉を信じきれていなかったからだ。けれど、その曖昧な肯定でも相手には十分だったらしく、彼はようやく身体の内側に溜め込んでいた緊張をほどくように、肩の力を抜いた。

「それで、十分です」

 まるで、ヒーローみたいな答えだった。でも、その声は演技でも使命感でもなくちゃんと一人の人間のものだった。私は笑おうとした。場を軽くするために。けれど、口角は思ったほど上がらなかった。

「ほんと……ごめんね、ごめん」
「いや……もういいっすよ」
「でもね、ホークス」

 明るく言うつもりだった声が、喉の奥で引っかかった。自分でも分かるくらいに調子がずれた。でも、今さら直せない。

「ホークスが、そこまで怒ってくれるほど」
「……」
「私なんてそんな価値のある人間じゃないよ?」

 言葉にした瞬間、その音が胸の内側に落ちる。乾いた音。自分で言ったはずなのに、なんだか、他人の声みたいに重く響いた。

「ホークスがいるからって、甘えてるだけ」
「……」
「私なんて、そんなもんだよ」

 言い切りの形を取ったのは、防御だった。これ以上、掘り下げられたくなかった。価値がないという言葉の方が期待するよりずっと安全だった。ホークスはすぐには何も言わない。怒鳴らない。遮らない。ただ、短く息を吐いてから静かに私のほうを見る。

「……それ、本気で言ってます?」

 責める声じゃない。否定するためでも正すためでもない。ただ、逃げ道を残さないための確認の声だった。

「本気、っていうか……事実、じゃない?」

 そう言いながら私は自分でも驚くほど軽く肩をすくめてみせた。その仕草が無意識の逃げであることをたぶん彼は、見抜いている。笑ったつもりだった。でも、口元だけで、目は笑えていない。自分を評価する言葉がいつの間にか裁定文みたいになっているのが、口にしてから分かった。

「私って、判断ミスも多いし」
「……」
「酔うと、面倒だし?」

 一つ言うたびに、胸の奥が少しずつ軽くなる。代わりに別の場所が重くなる。自分を下げる事でこれ以上期待されない位置に無理やり座り直している感覚。

「昨日だって……ほら、」
「……」
「キス……しよっか、なんて」

 そこで言葉が急に力を失う。さっきまで勢いで並べていたはずなのに、その一言だけが喉の奥に引っかかって抜けない。

「ちゃんとしてない」

 言い切った瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ張りつめた気がした。ホークスは、すぐには反応しない。その沈黙が、否定よりもずっと怖い。
 やがて彼は短く息を吐いてから、ようやく口を開いた。

「名前さん」
「……」
「価値があるかどうかって」
「……」
「怒られた人が、決めることじゃないです」

 低く落ち着いた声。感情をぶつけるための音量じゃない。でも逃げ道を許さない種類の静けさ。胸の奥が、きゅっと縮む。淡々としていても正論だと頭では分かる。けれど、それ以上に、そこを突くのかという感覚が先に来た。

「怒られるってことは」
「……」
「それだけ、ちゃんと見られてるってことです」

 視線が外れない。評価でも同情でもない。ただ事実として置かれる言葉。

「人間は神様じゃないんで。時には泣き言だって言うもんすよ」
「……」
「俺は、それを否定しない。受け止めます」

 最後の一言だけほんの少しだけ角が丸くなる。叱るためでも、持ち上げるためでもない。ただ、私を一人の人間として扱う声。
 私は思わず、目を伏せた。自分を下げれば、安全だと思っていた場所がゆっくり崩れていく感じがした。価値がない、という言葉の裏に隠していたのは、許されたい気持ちだったのかもしれないとようやく気づいてしまったから。

「名前さん、さっき、甘えてるって言いましたよね」

 自分から切り出しておいて声がわずかに揺れたあの瞬間。先程の自分の言葉を反芻する。あれは逃げの言葉だったのか、それとも本音だったのか私自身にも判然としない。しかしホークスはその部分だけを、きちんと拾ったのだ。

「俺はね?甘えられてるとは思ってませんよ?」

 はっきりとした否定だった。迷いも、和らげる前置きもない。だからこそ胸の奥が小さく痛む。甘えていると自分で決めてしまえば、責任を軽くできると思っていたのかもしれない。

「名前さん、あなたは……誰かがいるから、雑になる人じゃないでしょ」

 言われた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。それは否定じゃなく、見抜かれた感覚だった。

「むしろ、自分を軽く扱う方向に一人で行こうとする」

 視線が逃げ場を与えずに、まっすぐ来る。言い返したいのに、言葉が見つからない。そう見えていたのかという驚きとそうだったのかもしれないという、認めたくない納得が同時に押し寄せる。

「それを止められる人が、たまたま俺だっただけです」

 特別扱いでも優越感でもない。淡々とした事実の提示なのに私の中では大きな音を立てて何かが崩れていく。まるで、ジェンガの塔みたいに。

「価値がない人なら俺……こげん怒らん。放っておきます」

 短く静かな断言。その言葉の重さが遅れて理解できてしまう。喉の奥が締め付けられる。それは拒絶じゃない。関わる価値があるかどうかという現実を真正面から、突きつけられた感覚だった。

「怒るってことは……面倒でも、関わるって選択です」

 逃げずに、手間を引き受けるという意味での、怒り。それが彼の言葉であることがやけに重い。

「名前さんが自分を安く見積もるのは、俺の担当外じゃないってことです」

 そして彼は少しだけ困ったように笑う。冗談にするほど軽くもなく突き放すほど冷たくもない、その中間。

「少なくとも、今は——」

 それでも最後はやっぱり、ヒーローらしい線の引き方だと思った。けれどその線の内側に私は、確かに入ってしまっている。胸の奥底で、何かが確実にほどける音がした。

「ほんと、ずるい……」
「ね。よく言われます」

 即答。軽く返されたのに、そこに逃げはない。価値があると言われたわけじゃない。それでも、価値がないという自己評価を正面から否定された。それだけで長い間胸に貼りついていた言葉が少しだけ剥がれ落ちた気がした。私は、深く息を吸って、ようやく次の言葉を探す。

「……じゃあさ」
「はい」
「もう少しだけ」
「はい」
「ちゃんとしてみる」

 自分で言っておきながら、その言葉がどこまで本気なのかまだ測りきれていない。それでも口に出した瞬間に、胸の奥で小さく覚悟が固まるのを感じた。

「神様には、なれないけどね」

 言い訳みたいな付け足し。完璧じゃないことを先に許しておきたかった。ホークスは言葉を挟まず、静かに頷いた。急かさないし評価もしない。ただ、受け取るだけ。

「それで、十分です」

 そして最後には、また同じ言葉。でも今度は、それが突き放す正しさではなくすぐ隣に置かれた基準だとはっきり分かった。私はほんの少しだけ口元を緩めて、続ける。

「ホークスってさ」
「はい」
「こうやって、色んな人に諭してあげてるの?」

 冗談めかした口調のつもりだったけれど語尾がわずかに揺れていたのは自分でも分かる。それは質問というより、確認に近かった。

「若いのにほんとすごいよね。ちゃんと人のこと見てて、言葉選んで」

 褒め言葉を重ねるほど距離ができていく感覚がある。私は、それに気づきながらも止められず、視線を落としたまま、ぽつりと付け足した。

「ほんと、ヒーローなんだなァって……いつも、思う」

 ちゃんとした尊敬だった。でも同時に、それはヒーローである彼を、こちら側から遠ざける言葉でもあった。ホークスは、少しだけ眉を寄せる。反射じゃない。考えたうえでの反応だろう。

「そんな、大したこと……してませんよ、別に」

 珍しく即答ではなかった。ほんのわずか言葉を探す間があったように思う。

「若いとかすごいとか。ヒーローだから、とか」
「……」
「正直、関係ないっすね」

 一つひとつ区切るように並べてから、短く息を吐く。心なしか冷たく落ちたその声に私は思わずそこで、顔を上げた。

「……じゃあ、なに」

 彼は一度だけ視線を逸らす。逃げではなく整えるための間。それからもう一度、こちらを見る。その目は、ヒーローのものじゃなかった。役割を脱いだままここにいる、一人の人間の目だった。

「名前さんだからです」
「……え、」

 思ったよりも低い声が自分の喉から落ちていく。驚きよりも先に身体の内側がわずかに静まるのを感じた。

「誰にでも、こんな話しませんって……諭す、とかも」

 言い切るほど強くはない。けれどちゃんと逃げ道も残さない言い方。そして彼は肩を小さくすくめる。

「言ったでしょ?見た目ほど自由でも暇でもないって」
「……」
「そんな、器用じゃないって」

 その一言が妙に人間くさくて胸の奥がざわついた。ヒーローの顔じゃない。誰かを助ける役割の声でもない。ただ目の前の一人に向けて選ばれた言葉。

「じゃあ、私……」
「……」
「トップヒーローに、特別扱いされてる?」

 冗談の形を借りた、確認。笑いに逃がす準備をした問いだった。ホークスは、すぐには否定しない。その沈黙が、答えの半分みたいに重い。

「……特別、って言い方は、ちょっと、違うかもですけど」
「……」
「放っておけない、とは思ってます」

 言葉を探すように彼の視線が一瞬だけ揺れる。しかしそれは使命でも倫理でもない。ヒーローの判断じゃない。ただの個人的な感情だった。私は息を吸ってゆっくり吐く。胸の奥に溜まったものを、落ち着かせるみたいに。

「それってさ、ヒーローだから?」
「いえ。人として、です」

 彼は私の問いにはっきりと首を横に振って短くそう答えた。飾りのない、けれど逃げない、真っ直ぐな言葉。

「それ以上でも、それ以下でもない」

 その線引きは彼らしくて残酷で、同時にとても優しかった。期待させない代わりに軽くもしない。私は、少し困ったように笑ってしまう。

「じゃあさ?ヒーローじゃ、なかったら」
「……」
「こんな風に、怒ってくれなかった?」

 彼はきっと私が本当に欲している言葉を知っている。それでも決してそれを差し出さないことも私はもう分かってしまっている。そんな私の内側の計算など知らないまま、ホークスはほんの少し考え込み、慎重に言葉を選んで答えた。

「……どう、でしょうね。……でも」

 視線がまた、まっすぐに向けられる。誤魔化さない目。そんなふうに射抜かなくても、私の逃げ道は、とうに塞がれているというのに。

「ヒーローじゃなくても」
「……」
「俺は、名前さんのこと、雑には扱わないです」

 それは、約束でも、告白でもない。それでも、その言葉は私の中で何かを静かに確定させるには十分すぎた。

「……ほんと。ずるいヒーロー」

 小さくこぼすと、彼は少しだけ笑った。得意げでも照れでもないただの一人の人間の笑い方で。

「だから、ヒーロー向いてないって、割と言われるんす」
「え? 誰に?」
「……目良さん、とか。あと、ファットさん?」
「ファットさんって……BMIヒーロー?ファットガム?」
「はは。そうそう」

 意味もなく笑い合って、空気はほんの少しだけ軽くなる。表面上はいつもの距離に戻ったように見えた。
 けれど、私はもう、知ってしまった。彼が人を支えるとき、それは使命でも義務でもないということを。正義でも役割でもない。ただ、彼自身の選択なのだということを。そしてその選択の中に今の私が確かに、含まれていることを——。


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