それはもう数えきれないほど繰り返された光景だった。昼の光はゆっくりと傾いて、空気は澄み切り、季節だけが音もなく先へ進んでいく。街路樹の色はいつの間にか深くなり、風の匂いまで、どこか、遠くなった気がした。
昼下がりの職場。ガラス越しに差し込む光が、カウンターの上の端末を淡く照らしている。私は作業ログを確認しながら次の対応を頭の中で組み立てていた。静かで整った時間。そこに、羽根に絡みついた乾いた風の匂いが混じった。秋をそのまま連れてきたみたいな、あのヒーローの匂い。あまりにも見慣れた気配が、いつものように割り込んでくる。
「すみませぇ〜ん」
聞き慣れすぎた声。顔を上げなくても、誰だか分かってしまう。その事実に今さら抗う気も起きなくて、私はもう、笑うしかなかった。
「あ〜、なんで笑ったんすかぁ〜?」
「ううん……お疲れさまです」
「はい、おつかれさまです!」
律儀な返事と同時に、彼は端末を差し出した。私は無言で受け取る。黒い画面。だが水没特有の曇りも、衝撃によるヒビもない。代わりに、妙にぬるい感触がある。
「……今回は、どうしましたか」
「熱です」
「熱……」
「はい。熱暴走」
手のひらに残る温度は、指先にじっとりと張り付くほどに異様だった。端末というより生き物の体温みたいだなと思う。それにしても、熱暴走?こんな季節に? どういう使い方をしたら、ここまで熱を持ってしまうのか。
「使い方は」
「普通です」
「普通の人は、ここまで熱を持たせません」
「羽根が多いんで」
「関係ないですね」
即座に返ってくるこのやり取りも今となってはもう定型文みたいなものだった。皮肉もため息もほんの少しの笑いも、すべて決まりきった手順の中に収まっている。けれどその��慣れ�≠ェいつの間にか心地よくなってしまっている事にはあまり触れないように心掛けている。
「電源、落としました?」
「......一応、途中で」
「一応途中で、って」
「任務中だったんで」
「はい、減点」
「えぇ〜?」
「——と、言いたいところだけど。任務中なら、仕方ないですね」
私は端末を専用トレイに置き、手袋をはめる。その一連の動作を彼は少しだけ申し訳なさそうに見ている。以前よりもその見方が落ち着いたものに変わっているのを、私は気づいていた。
「何度目だと思ってます?」
「数えない方向で」
「前回も同じこと言ってた」
「成長しないタイプです」
「自覚あるのが一番たち悪い」
ため息混じりに言いながら私は内部温度ログを呼び出す。予想通り、限界値を軽く超えている。
「……これ」
「はい」
「スマホじゃなくて、もはやヒーター」
「冬に優しいですね」
「夏には最悪ですけどね」
彼は小さく笑った。場違いでもないけれど油断もしていないような笑い方。ヒーローのみが行き交う私の職場ではあまりにも馴染みすぎている。
「すぐに完全復旧は無理です」
「ですよねぇ」
「代替機、手配しますね」
「助かります」
彼と交わし合うこの言葉がもう��顧客�≠ニしてのものじゃないことも、私たちは互いにわかっている。ただ、あえて言葉にしないだけ。
「ねえ」
「はい?」
「壊れる前に来るって選択肢、覚えない?」
「……努力目標で」
「努力目標は、努力しない人の言葉」
「耳が痛いです」
そう言いながらも彼は一歩引いて、邪魔にならない位置に立つ。その立ち位置も今ではすっかり自然体で見慣れたものになっていた。距離を詰めすぎず遠ざかりすぎず、仕事と私の間に線を引くような立ち方。そのときふと、彼と視線が合う。
「……慣れました?」
「なにが」
「俺が、ここに持ってくるの」
「え、今さら?」
「はい、今さら聞いてみてます」
軽い調子なのにどこか探るみたいな声だった。私は少しだけ視線を落とす。答えはすぐに浮かぶのに口に出す前に一度言葉の形を整えたくなる。慣れたと言ってしまえば簡単すぎる気もするし、慣れていないと言うには、あまりにも回数を重ねすぎている。
「慣れた、っていうか……」
「……って、言うか?」
「想定内」
考え抜いた結果、そう短く返すと、彼の表情がわずかに揺れた。嫌な意味じゃなくて、どこか、嬉しさを隠しきれない揺れ方だった。
「それ、褒めてます?」
「半分、呆れてる」
「もう半分は?」
「……仕事」
そう言い切りながらなぜか少しだけ、胸の奥に小さな余白が残った。言葉を置いた瞬間、空気がほんの少しだけ、緩むのを感じた。彼はこちらをじっと見てから目を細める。試すようでもあり、確かめるようでもある視線。それでもそこに警戒や、不満の色はなかった。
「それで、十分です」
「なにそれ……偉そぉー」
「実際、偉いかもしんないっすよ?」
「はいはい……」
軽く言うけれど、その声には無理のない安堵が混じっている。
端末は壊れている。何度も、何度も。それでも彼は毎回ここに来る。直してもらえる場所としてじゃなく、戻ってくる場所として。私は、画面を閉じて、事務的に告げた。
「夕方までには連絡しますね」
「はい」
「それまで代替機、熱持たせる行動、禁止」
「努力しまぁす」
「禁止っ!」
「……はぁい」
そのやり取りを最後に、彼はヘラヘラと笑って踵を返す。赤い翼の背中を見送りながら私はふと思う。端末は、また壊れるだろう。けれど、このヒーローがここに来る理由は、もう故障だけじゃない。そう気づいてしまった時点で私の仕事は、少しだけ、仕事ではなくなっていた。
その日の夕方。空調の音が少しだけ低くなって昼のざわめきが引いていく時間帯。私は受付カウンター越しに、別のヒーローの端末を受け取っていた。
「……ここ、ログが飛んでますね」
「え、マジですか?」
「はい。たぶん、衝撃のあとで再起動してます」
「うわぁ……」
若いヒーローだった。声にまだ余裕がなくて、必死にこちらの説明を聞こうとしているその様子に私は自然と少しだけ声のトーンを和らげ言葉を選んで話していた。いつもの仕事内容。いつもの対応。何も特別じゃない——はずだった。視界の端で影が動く気配を感じるまでは。ガラス越しに見えた赤い色で反射的に分かってしまう。
あ……来た。ホークスだ、と。しかし私は顔を上げない。上げないまま、目の前のヒーローに、説明を続ける。空気が変わったのははっきり分かった。書類を出すためカウンターに背中を向けたときに感じた視線。見られているというよりも、待たれている感覚。
「えっと、じゃあ……」
「はい!」
「端末は、明日以降の引き渡しになります」
「はいっ、承知しました!」
「修理が終わりましたらショートメールをお送りしますので」
「わかりましたっ!お願いします!」
若いヒーローが代替機を受け取って、頭を下げながら去っていく。その足音が通路の奥に溶けて遠ざかった瞬間ようやく肺の奥まで息が落ちた。少し張りつめていた肩の力が、ふっと抜ける。
「お疲れさまでーす」
視線を落としたままでいると、声が聞こえた。いつもの少し丁寧で軽いのにどこか、距離を測るみたいな声。私はここでようやくゆっくりと顔を上げた。
「……お疲れさまです、ホークス」
受付カウンターの向こう側に立つ彼は、いつも通りだ。ヒーロースーツのジャケットを脱いで、それを肩にかけて、仕事終わりの気配をまとっている。見慣れた姿のはずなのにどうしてだろう。胸の奥に、さっきまでなかったはずの小さなざらつきが生まれているのに気づく。
「お待たせしました」
「いえ?全然。待ってません」
そう言いながら、彼はさっきの若いヒーローが出ていった入口の方を、ほんの一瞬だけ、視線で追った。その短い仕草がなぜだか妙に引っかかった。その言葉にできない違和感だけが薄く残る。
「対応中でした?」
「うん、別件でね」
それだけを答える。本当にそれだけのはずだった。業務の延長、いつもの作業、その一部。声に出した瞬間自分でもわかるほど言葉が必要以上に整っていた気はした。
余計な意味を持たせるつもりはなかったのに、彼の前で口にすると、どうしても重さが生まれてしまう。
「丁寧でしたね」
「仕事ですから」
「ですよね」
即座に返ってくる相槌。なのに、彼はそのまま先を続けなかった。私は、彼の端末をトレイから取り上げて、状態を最終確認する。画面は正常。温度も安定している。問題ない。
「今回は、熱対策強化をしてありますので」
「ありがとうございまーす」
「このケースは当分外さないでくださいね」
「了解でーす」
「前回よりは、長持ちするはずです」
「ん? 前提が壊す側なの、どうなんです?」
「自覚あるでしょ」
「はは……っすね」
軽口。いつものテンポ。なのにどこか噛み合わない。笑っているのに胸の奥だけが微妙にずれている。理由はすぐに分かった。私は、ホークスが私ではない誰か。あの、若いヒーローを見ていたことに、想像以上に引っかかっている。仕事だ。ただの職務。それでも私はきっと期待している。彼があの若いヒーローに対して、嫉妬してくれている、その証拠に。
「……ん? どうかしました?」
彼が少しだけ声量を落として聞いてくる。特に周囲に人がいるわけでもないのに、わざわざ音を沈めるその仕草が先程までの軽い調子とは違って見えて、胸の奥に微かな違和感を落とした。
「……いえ、別に」
「今の、別には……」
「なに」
「だいぶ、別にじゃないやつです」
図星だ。私は端末を差し出しかけた手を途中で止めて、そのまま、視線を外す。画面を見つめるふりをしながら、ほんの少しだけ呼吸を整える。自分でも、今の返事に余計な感情が混じっていた自覚があったからだ。すると彼が独り言みたいな声量で、ぽつりと漏らした。
「さっきのヒーロー......」
「はい」
「若かったっすね」
「……ですね」
言葉のあとに短い間が落ちる。その沈黙は会話の切れ目というより、彼自身が続きを探している時間に見えた。軽口で済ませるか本音に寄せるかその境界で一度だけ足を止めているようなそんな空気。
「モテそう」
「あの、ヒーロー?」
「あなたが」
言ってからホークスは、ほんの少しだけ困ったような顔をした。冗談として放ったはずなのに、自分の口から出た言葉が思ったより真っ直ぐで、取り消しそびれたみたいな表情だった。
「……モテるかどうかは、分かんないですけど」
「モテるでしょ、じゅーぶん」
「ここ最近は、フラれてばっかりですけどねぇ」
「仕事してる名前さんは、誰にでもああですよ」
端末を受け取ろうとする指先が、私の指に触れないぎりぎりのところで止まる。近いのに、触れない。わざと空けられた数センチの距離が、かえって意識を呼び起こす。
「それが、仕事なんでしょ?」
「……うん」
正論だ。理屈としては何ひとつ誤っていない。それなのに、胸の奥に刺さった小さな棘だけが、私の側に残り続けている。それが彼の言葉のせいなのか自分の未練のせいなのか、まだ区別がつかなかった。
やや沈黙が落ちて「でも」と、彼は声をさらに低くした。それは、冗談の延長線上には置けない話題だと自分で線を引いたような声だった。
「俺が来たタイミングで、他のヒーローと話してると」
「……」
「ちょっと、落ち着かないですね」
胸の奥が静かに鳴った。派手な衝撃じゃない。ただ、水面に石を落としたみたいに、波紋だけがじわりと広がる感じ。
「……それ、言っちゃう?」
「言いました」
出た、即答。誤魔化さない声と冗談に逃げない視線。私はゆっくりと端末を彼に渡す。指先が触れそうで触れない距離のまま、そっと手放す。
「……おあいこだね」
「なにがですか」
「このあいだ、私もあなたと他の人が歩いてるの見て、ほら」
「……ああ」
「ね?」
「ですね」
短い相槌だったけれどその声にはさっきまでの軽さとは違う静けさが混じっていた。否定もしないし、笑いにも変えない。ただ、事実として受け取った、という響き。いつもの少し砕けた会話の形をしていながらその底には確かに仕事じゃない感情が沈んでいる。
彼が去っていく背中を見送りながら私は思う。モヤモヤしているのは、きっと私だけじゃない。そして、それに気づいてしまったことこそが一番厄介だということに。
*
翌日。それは昨日より少し早い時間帯だった。昼と夕方の境目で、フロアに差し込む光が白くて端末の画面を無駄に眩しくしてくる。仕事モードに切り替えきれない時間帯特有の、どこか半端な明るさだ。
そんな中、ホークスは今日も懲りずに現れた。まるで、定期点検に来る家電屋さんのように。
「……今度は、何ですか?」
「勝手に再起動します」
「あなたにそっくりですね」
「え? それどーゆー意味で?」
「雑ってことです」
「いや正確でしょ」
昨日とほとんど同じような意味のないやり取りなのに、空気は同じじゃない。私の中で、どこか一箇所だけネジが締まりきっていない感じがしてやはり、会話の歯車がほんの少しだけ、噛み合わない。それでも私は素知らぬ顔で端末を受け取りいつもの手順で確認を進める。衝撃、熱、ログ、バックグラウンド——案の定、軽い不具合だ。
「一時的なものです。今日はこれで大丈夫かと」
「助かります」
「次からはもう少し労わってあげてください?」
「善処しまーす(たぶんね)」
「心の声が、ダダ漏れですよ」
「えっ? あちゃ〜」
笑いの余韻がカウンターに残り、軽口が空気にほどけた、そのときだった。
「あっ、名字さん!」
ホークスの背後から声がして私は反射的に顔を傾けた。昨日対応したヒーローとは別の人物だ。私より少し年上で落ち着いた空気をまとっている救助系ヒーロー。以前も何度か、応対した記憶がある。
「この前はありがとうございました!あのあと、現場、助かりました!」
「いえ、よかったです」
軽く会釈を返す。それだけの、何でもないやり取り。ただの業務的な会話だ。けれど相手がカウンターの方へ歩み寄ってきたので私はさりげなく視線でホークスに合図を送った。少しだけ位置をずらしてほしい、という無言のサインだ。それに対してホークスはやや不満そうに下唇を突き出しつつ、スペースを空ける。
「あ、そういえば」
と、目の前にきたヒーローは、ほんのわずかな間を置いてから言葉を継いだ。思い出したふうの前置きのはずなのにその��間�≠ェ妙に丁寧で場の空気を一度、撫で直したみたいに感じられた。
「次、懇親会で集まることがあったら」
「え?はい……」
「自分も参加するんで、ゆっくり話しましょう」
にこやかな笑顔。仕事の延長線上の社交辞令。——の、はずなのに、その言い方だけが少しだけ個人的に聞こえたのは、私の錯覚だろうか……。
「あっ、ぜひぜひ。機会があれば」
私がそう返した瞬間、そのヒーローの影から、ほんのりとした圧を感じた。——あ。ホークスの存在、完全に忘れてた。
そっと視線を向けると、彼は自分の端末を手にしたまま、何でもない顔で画面をスクロールしている。口笛でも吹きそうなほど平常運転で。でも分かる。昨日と同じだ。この、妙に静かな感じ。言葉よりも沈黙のほうが饒舌なやつ。
「じゃあ、失礼します!」
「……あ、はい。お疲れさまです」
ヒーローが去っていく。足音が、入り口の向こうに溶けていくまでホークスは何も言わず沈黙を保っていた。その沈黙がさっきまでの軽口よりもずっとはっきりと、自身の存在感を主張している気がした。
「人気者っすねー」
「……なにが」
「声かけられて?」
「……」
「いろんな、ヒーローから?」
ちらりと端末から視線を上げる。声は軽いのに語尾が短く冗談めかした調子を保とうとしているのにその省略された語尾だけが感情の端を露わにしている。省エネ仕様の単純で分かりやすい嫉妬である。
「仕事なので」
「分かってます」
即答。けれどその返事は理解というより確認に近かった。納得したというより納得しようとしている声音。要は納得している即答ではないということだ。
「昨日とはまた違うヒーローでしたねー」
「はい」
「引き出しが、多いようで」
「……褒めてる?」
「事実でしょ」
彼の端末を持つ指が少しだけ、いやだいぶ強く握り込まれている。そのままだと、画面のガラスより先に、こちらの言葉が割れそうな気がした。ヒーローの握力というより感情の強さに近い圧。私はそれに気づいてしまって、言葉の縁をなぞるみたいに、慎重に次の言葉を選ぶ。
「……ホークス」
「はい」
「画面、割れちゃいますよ?」
「だったらまた直してください」
「機嫌、悪いの?」
「普通です」
早い、早すぎる。これは、彼の生まれながらの反射神経なのか。さすが……速すぎる男。なんて今は言ってる場合じゃないかもしれないけれど。
「今の、普通は……」
「普通です」
「二回言うときほど、怪しいんだよ」
一瞬沈黙が落ちる。空調の微かな音だけが耳につき、さっきまで軽口が行き交っていた空間が、不意に、真空みたいに薄くなる。
「……昨日、」
観念したのか彼がぽつりと言う。それまで軽く浮かべていた表情が消えて、言葉を探すみたいにほんのわずか視線が揺れた。
「俺、来るタイミング、悪かったです?」
「え?」
「昨日も、今日も」
視線が合う。珍しく探るみたいな目だ。冗談の裏に隠していた本音が、うっかり顔を出してしまったみたいな、不器用なまなざし。
「いえ?全然。悪くないですよ?」
「……なら、いいです」
そう言って、彼は一歩引く。距離を取るというより、空気を整えるみたいにして。その仕草に、胸の奥が少しだけざわついた。軽口の裏で、彼も同じところに小さな棘が刺さったままなのだと、私はようやく気づく。ああ、これ……以前、私が感じたモヤモヤと、たぶん同じものだ、と。
「……こないだの、仕返しです?」
冗談めかした声だった。軽口の形をしているのに、どこか、探るみたいな響きが混じっている。私は一瞬だけ目を瞬かせてから、視線を落とし、困ったように笑った。笑ってしまったのは、否定よりも先に、胸の奥が微かに揺れたからだ。
「……なに、それ?」
とぼけたふりをしながらも、声は、思ったより柔らかくなってしまう。彼の言葉を、真正面から突き返すほど、私は無関係ではいられなかった。
「そうだったら、分かりやすいんですけどね」
そう言ってホークスは肩を竦める。軽く流しているようでその実、私の反応を逃さない目をしている。ヒーローの観察眼をこういうところで発揮しなくてもいいのに、と思う。
「違って、欲しいの……?」
問いかける声にわずかな間が生まれる。ほんの短い沈黙なのに、そのあいだに彼が言葉を選んでいる気配があった。
「……違わないで、欲しいかもです」
小さな本音。冗談の皮を被せたまま核心だけをそっと置く言い方だった。その一言で張っていた空気が、目に見えないところで、少しだけ緩む。さっきまでの探り合いがほんの数センチ近づいた感覚。
「お互いさ」
「はい」
「仕事してるだけで余計な感情くっつきすぎなのかもね」
「……否定できないですね」
「スキルが足らんねぇ、わたしたち」
「考えすぎんよう、スキル磨きましょ」
彼は苦笑にも似た表情を浮かべながら、端末をポケットにしまう。その仕草がどこか決心めいて見えた。そして、軽口の続きのはずなのに言葉を一度切るように「じゃあ」と区切った。視線が、まっすぐにこちらに向く。
「次、誰かに声かけられてるとこ見ても」
「うん……?」
「俺、ちょっとだけ、機嫌悪くなります」
まるで業務連絡みたいな口調なのに内容だけが妙に個人的で、思わず息を詰める。つい数秒前に「考えすぎんよう、スキル磨きましょ」と言った人の言葉とは到底思えない。そして彼はいつものように、逃げ道を残すみたいに付け足す。
「昨日と、今日みたいに」
その一言で、胸の奥に張っていた糸が音もなく緩んだ。言葉にされて初めて、自分でも気づく。私はこの曖昧な関係の中でずっと確認されるのを待っていたのだと。
「あっ!あと、」
「……なに」
「懇親会でのあなたの隣は、俺の席って決まってますんで」
「……はい? 誰が、いつ、決めたんですか?」
「俺が今、決めました。ヒーロー権限で」
お得意の冗談の形をした即断。軽く言っているのに撤回の余地を用意しない言い方。誰かの冗談ではなくホークス本人の決定だと言われなくてもすぐに分かってしまう。その図々しさよりもその当然のような占有の宣言に、胸の奥が妙に静かに鳴った。
「俺は、いらんスキルは磨かんばい」
「……はいはい」
「名前さん」
「ん?」
「今日も、ありがとうございました」
そう言って去っていく背中を見送りながら私は思う。お互いに抱えているモヤモヤも今日のこの空気も、たぶんもう、偶然じゃない。からかいの形をしていても、そこには確かに仕事では片づけられない感情が混じっていた。それを認めてしまえば、もう『仕事』だけでは戻れない場所に踏み込むのだと、分かっていながら。
——その日の退勤間際。フロアの照明はすでに落とされて、昼間の白さを失った光が、床に長い影を残していた。忙しさが引いたあとの空間は、どこか現実感が薄くて、今日一日を遠くから振り返っているみたいな気分になる。
私は最後のチェックを終えて、端末をラックに戻しながら、ようやく小さく息を吐いた。無事に終わったというよりなんとか終えたという感想に近い感覚だった。同僚たちと短い挨拶を交わし、ガラス扉を抜けて、外に出る。夕方と夜の境目の空気がこの重圧な建物の中とはまるで別物みたいに肌に触れた。
「——名前さん」
背後から名前を呼ばれる。振り返ると、さっきまで対応していたはずのヒーローが、入口付近で立ち止まっていた。ヒーロースーツのジャケットを羽織り片手はポケットに入れたまま。背後では彼の存在に気づいたらしいファンたちの黄色い声が飛んでいる。その喧騒の中で彼だけがこちらを見ていた。
「どう、したの……」
「帰りですよね」
「……うん」
それを確かめるように、彼は、小さく頷いた。そして、背後の声援にいつもの愛想のいい笑顔で手を振りながら今度はこちらを見ないまま言う。
「今日、予定なかったら」
ほんの一瞬。言い切る前のわずかな間。ここで視線が私のほうにまた、戻ってくる。
「俺と、飲みましょう」
それは、疑問形ではなかった。誘いというより決定事項みたいな言い方だった。
「……決定?」
「はい」
「強引だね……」
「今日は、そういう日なんで」
理由は言わない。けれど、その視線には説明を省いても、通じる前提が含まれている。逃げ道を塞ぐ強さじゃない。ただ、引き下がらない静かな意志だけが、そこにあった。
「嫌だったら、ちゃんと言ってもらっていいですけど」
「……」
「でも、言われない前提で話してます」
逃げ道を用意しているようで実際にはほとんど塞いでいる言い方だった。ずるい。けれど、そのずるさは、駆け引きというより、不器用な直進に近い。遠回しにせずに来るぶん、今日はやけに、まっすぐで、だからこそ胸に強く引っかかる。
「……場所は?」
「いつものとこで」
「もう、決まってるじゃん……」
「はい」
満面の笑顔で返された迷いのない返事。軽やかな口調の裏でその意志だけは微塵も揺れていないのが分かる。
「だから言ったでしょう?」
「……」
「言われない前提で話してます、って」
私はバッグを肩に掛けながら小さく息を吐いて笑った。断る理由を探していたはずなのに、その気力が気づけばもう、どこかに消えている。
「……じゃあ、少しだけね」
「少し、ですか……」
「うん。え? まさか、朝までコース?」
「いやいや……了解です。少し、で」
満足そうでも不満そうでもない表情。ただ最初から、一緒に行く前提で距離を測っているような顔だった。夜の空気がゆっくり肺に入ってくる。昼間の熱を残したアスファルトの匂いとわずかに涼しい風。私たちは並んで歩き出す。肩は触れない。けれど、歩幅だけが自然と揃っていく。その事実が、なぜかいちばん落ち着いた。
「ねえ、ホークス」
「はい?」
「今日はさ」
「はい」
「『飲みに行きません?』じゃ、なかったね」
彼は、ほんの少し視線を逸らしてから答えた。その仕草に、言葉を選んでいるのが分かる。
「選択肢、与えちゃったら」
「うん」
「また、考えすぎると思ったんで」
それは、昨日の私にも今日の彼にも、ちょうど刺さるような言葉だった。あえて選んだわけではないだろう。だとすれば、無意識の中で出た言葉だろうか。
「……じゃあ今日は、考えない日にする」
「それ、助かります」
『飲みに行きません?』じゃなくて『飲みましょう』。そういう言葉の選び方が私たちの間にもいつのまにか、生まれていたらしい。断る余地を残す誘いではなく、並んで進む前提の一言。その小さな違いが今夜の空気を、ほんの一歩だけ前へ押し出していた。
店に入ると、いつもの匂いが出迎えてくれた。油とアルコールと人の声が混ざった、理由もなく落ち着く匂い。カウンターのいちばん端、二人分だけ空いていたその席に何も言わずに並んで腰を下ろす。すると、すぐさまホークスが店員に軽く手を上げる。
「生、二つで」
「はーい! 生ふたつ、いただきました〜!」
それだけのやり取りなのに、今日はやけに胸に残った。隣に座って、同じものを頼む。ただそれだけのことが今夜は妙に確かな意味を持っている気がする。それからしばらく、言葉が途切れた。気まずい沈黙ではない。ただ、音の少ない時間が二人のあいだに静かに横たわっているだけ。
「……静かだね」
「そうですか?」
「うん。ホークスが」
ちょうどそのとき、グラスがカウンターに置かれる音がした。澄んだ音がひとつ、空気を割る。黄金色の液体の上で泡が細かく立ちのぼりやがてゆっくりと落ち着いていく。そのわずかな時間が会話の代わりみたいに、今の距離を埋めていた。
「静かな日もありますよ」
「珍しい」
「昨日から、ちょっとね……」
言い切らない。でも、視線はグラスではなく、テーブルの木目を追っている。今日は乾杯もなくそれぞれ一口飲む。喉を通る冷たさに、ようやく一日の輪郭がほどけていく。
「……今日さ、職場、ちょっと慌ただしかった」
「見てました」
即答だった。その速さに、思わず瞬きをする。
「え? 見てたって?」
「はい。声、いつもより低かったんで」
「……」
「忙しいとき、名前さん、いつもそうです」
そんなところを……と、言いかけて言葉を飲み込む。気恥ずかしさと同時に、胸の奥がわずかに熱を帯びた。隣に座っているだけなのに、いつの間にかそんな細部まで見られていたのだと思うと距離の測り方を誤ったみたいな気分になる。
「ホークスは?」
「俺ですか」
「うん」
彼はグラスの縁に指をかけたまま少しだけ視線を逸らし思考を咀嚼するみたいに沈黙を置いた。その沈黙が彼の中で言葉が形になるまでの時間であることを、私はもう知っている。
「スマホ、直ってよかったなって」
「それだけ?」
「それだけ……でも、ないですけど」
含みを残した言い方のまま、彼は短く息を整えた。グラスの中の泡が彼の指先の動きに合わせてわずかに揺れ動く。
「名前さんが、他のヒーローと話してるの見て」
「……うん」
「昨日より、今日のほうが……」
そこまで言って、言葉を探すみたいにグラスを持ち上げ、泡を一口含んでからゆっくり戻す。その動作は感情を飲み込むための一種の儀式みたいに見えた。
「嫌でした」
それは低くて静かな告白だった。強がりも照れ隠しもなく、ただ事実として落とされた一言が、テーブルの上に静かに置かれる。
「……正直だね」
「今日は、そういう日なんで」
さっき言った言葉と、同じような言い方。それでも今度はどこか心細さが混じっていて、そして彼の声は、いつもよりわずかに柔らかい。
「私もね」
「はい」
「このあいだ見たやつ、引きずってたかも」
その私の言葉にホークスがようやく真正面からこちらを見る。この話題においてその視線が逃げないのは珍しい。
「モデルの人と、歩いてたやつね」
「……」
「分かってるよ?仕事だし、何もなかったって」
「はい」
「でも……気分は、よくなかったかなぁ」
口にした途端、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。言葉にすることで、ようやく形になった感情だった。
「だから、思い出しちゃってさ」
「はい」
「昨日、なんか、いつも通りできなかった」
ホークスはゆっくりと息を吐いた。その吐息が彼の中で絡まっていた糸を少しだけほどくような音みたいに聞こえた。
「……なるほど」
「あれ? 揶揄わないんだ?」
「いま揶揄ったら、余計ややこしくなるんで」
そう言って目を伏せて、小さく苦笑する。その表情は冗談よりも真実を優先したときの彼のよく見せる顔だった。
「……俺も、昨日から」
「うん」
「名前さんのこと、考えすぎてました」
『考えすぎんようスキル磨きましょ』と言った本人が、同じ場所で今、立ち止まっている。その事実が、奇妙な安心感を伴って胸に落ちてくる。
「……お互いさ? ヒーローでも、一般人でも」
「はい」
「感情だけは……電源オフに、できないね」
「……お、うまい」
「座布団ください」
賑やかな居酒屋の店内で二人の声だけが私たちのあいだにゆっくり沈殿していった。そして彼はほんの少しだけ笑った。その笑みは軽いけれど、どこか覚悟を含んでいて、今夜がただの飲み直しじゃないことを静かに、示していた気がした。
「オフにできたら、楽なんすけどねー」
「ほんとにね」
その一言のあとに運ばれてきた料理の湯気が、二人のあいだにふわりと立ちのぼる。さっきまで張りつめていた空気が白く曇るみたいに和らいで少し張っていた神経が、ほんの少しだけ緩むのが分かった。グラスの水滴がテーブルに小さな輪を作っている。
「今日はさ、ちゃんと、飲もう」
「ちゃんと?」
彼が「にゃ?」とでも言いたげに首をかしげる仕草があまりに素直で思わず笑ってしまいそうになった。何か面白い言葉でも拾ったみたいに彼の瞳が子猫のように、少しだけ丸くなる。
「うん。逃げないで」
自分でも驚くほどまっすぐな声だった。冗談の形を借りずに言ったせいで胸の奥が微かに鳴る。ホークスは少しのあいだ私の横顔を見つめてからグラスに視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……それ、俺にとっては」
「……」
「かなり、ありがたい提案です」
一拍置いてからゆっくりと言ったその軽口めいた言葉には不思議と逃げ道のない重さがあった。
グラスが今度は静かに触れ合う。高くも低くもない澄んだ音。言葉にしなくてもいい夜。でも、言葉にしたからこそ同じ場所に座れる夜。今日の飲み会はいつもより静かで、いつもより正直で、そしてたぶん、確実に、続きを孕んでいる時間になりそうだな、なんて思った。
料理の皿がひと段落ついてグラスの水滴を指でなぞっていたとき、私はふと、思い出したように「あ、そうだ」と言いながら鞄に手を伸ばした。探る仕草は、やけに慎重になる。自分でも理由はわからない。ただ、今このタイミングを逃したらきっと、渡せなくなる気がした。
「なんすか? なんか、忘れてきました?」
「忘れてはない……はい、これ」
そう言って小さな紙袋を差し出す。ホークスは一瞬だけ、目を瞬かせてから、恐る恐ると言った具合で、両手でそれを受け取った。
「……俺に、ですか」
「うん」
「えっと、誕生日……」
「うん」
「もうちょっと、先なんすけど……」
「うん、別枠」
それ以上は言わない。彼は紙袋を持ったまま、少しだけ逡巡してから、私をちらっと上目遣いで見やって、そっと問う。
「……いま、開けちゃってもいいです?」
「どうぞ」
中に入っていた包み紙の紐を解く音が、やけに静かに響いた。中から出てきたのは、タオル地のヘアバンド。柔らかくて少しだけ厚みがあって、赤い生地の上に手足がちょこんと付いた見覚えのある柄が描かれている。
「……あ、これ」
その小さな声は自然と落ちていた。さっきまで普通に隣で飲んでいたはずなのに、この瞬間だけ妙に喉が乾く。
「うん。あひるのペックル」
「あひるの……」
彼がそこで言葉を切ったのは、思い出したからだろう。前に何でもない顔で渡した手作り弁当と同じ柄だということに、気づいたのだと思う。
「このあいだ、友達と出かけたときに見つけて」
「……」
「ホークス、家でよくヘアバンドしてるでしょ」
「して、ますけど……」
彼の視線が私ではなくヘアバンドに落ちたまま動かない。触れていいのか迷うみたいに、指先が宙で一瞬ためらってから、そっと生地に触れる。その仕草がやけに慎重でこちらの胸の奥が静かにざわつく。
「……赤、なんですね」
そう言ってホークスは、自身の羽根の手入れをするみたいにしてそっと指先を滑らせその色味を確かめながら優しげに目を細めた。
「ホークスに……似合うかな、って」
「……」
返事はない。ただ、ヘアバンドを見つめる時間だけが、静かに伸びていく。まるで言葉より先に何かを受け取ろうとしているみたいに。
「……ははっ、そんなに見なくても」
「いや」
と、彼はようやく顔を上げて少し困ったように笑った。
「ちょっと、予想外で」
「なにが?」
「柄も、色も」
言葉を選び直すみたいに、ほんのわずかに間を置く。そしてなぜか、沈黙が流れた。
「あっ、ごめん……良く、なかった?」
「よすぎます」
迷いのない、言い切りだった。思っていたより強い肯定に、私は少し肩をすくめた。照れを隠すみたいに。でも胸の奥では静かに何かがほどけていく。彼がそんなふうに大事そうに見ているだけで、渡した理由の半分は、もう報われてしまった気がした。
「実は、さ……」
私は少しだけ、声を潜めて言った。言うほどのことでもないのに、なぜだか、秘密を打ち明けるみたいな気分になる。
「ん?」
「色違いで、私も買っちゃった」
ホークスの瞳が、はっきりと見て取れるほど、大きくなる。その反応が思っていた以上に素直で胸の奥がくすぐったくなる。
「……色違い」
「うん。私のは青」
「青……」
「完全に、衝動買いだけど」
彼は、ヘアバンドを胸の前で持ったまま、しばらく、何も言わない。笑いもしない。驚いたまま固まっているというより、ひとつひとつ、意味を確かめているみたいな沈黙だった。
赤と青。同じ柄で、別々の色。その事実が彼の中で、ゆっくり形を持ち始めているのが、黙ったままのその横顔から伝わってくる。
「……大事にします」
「そんな、大げさな」
「大げさじゃないです」
低く落ち着いた声で言った彼をふと見やると、そこには、冗談の余地を許さない真顔があった。逃げ道を塞ぐような視線に射抜かれて、私はそれ以上、軽く扱えなくなる。
「これ、家で使うたびに」
「うん」
「名前さんのこと、思い出すやつやん……」
愛でるような視線で、渡したヘアバンドを見つめてそんなことを言うヒーローに不意に胸の奥を掴まれた気がして、言葉が一瞬、喉に絡みついて行き場を失った。
「……そういうこと、言う?」
「言います。今日は」
そう言ってからようやく彼はヘアバンドを袋に戻す。その動作がやけに丁寧でまるで壊れものを扱うみたいで、少し可笑しくて、少しだけ苦しくなる。色違いのお揃い。それだけのことなのに、グラスと小皿が並ぶだけのカウンターの空気が、ほんのわずかに、変わったのが分かる。
「名前さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「……いいえ。どういたしまして」
それ以上は言わない。言わなくても十分すぎるほど伝わってしまっているから。ホークスの視線はさっきよりずっと近い場所にあった。たぶん、この夜のいちばん大事なものは交わし合っているグラスでも言葉でもなくて。こうして理由をうまく説明できないまま、選んでしまったものだったのだと思う。
いい頃合いでお店を出て夜風に当たった瞬間、ホークスはもう一度、さっき渡した紙袋の中身をまるで、何度も繰り返してきた所作みたいに取り出していた。
「……ちょっと、待ってくださいね」
「また見るの?」
「はい」
街灯の下で、彼は歩きながら中身を確認する。赤いタオル地。あひるのペックル柄。さっきと、何ひとつ変わっていないのにさっきよりも真剣な顔をしている。
「さっき、十分見たでしょ」
「いや、帰り道バージョンで見ると、また違うんですって」
「なにそれ」
私は呆れた声を出しながら彼の横を歩く。ホークスは歩幅を微妙に合わせながら、視線だけを、紙袋に落としたまま。
「……これ、洗ったらどうなります?」
「普通に乾くでしょ」
「縮んだら嫌だな……」
「タオル地だよ?」
「でも、赤やし」
「あっ。もしかして、色落ち心配してるの?」
「まあ……はい」
真剣すぎて思わず笑えてくる。彼がたかがこの赤い布切れ一枚に向ける集中力はプロヒーローのそれと大差がない気がしてきた。
「ネットに入れて、単独洗いしたらいいよ」
「メモっていいですか」
「なんで」
「失敗したくないんで」
言い切る前に、ポケットからスマホを出そうとしてホークスは、はっと止まる。夜気に晒された街灯の光が、彼の指先にかすかに反射した。
「あ」
「なに」
「代替機じゃなくてよかったぁ、って安心して」
「それ、関係ある?」
「あります、あります。大事なことは本機でメモりたい派なんで」
「派閥あったんだ。てか、本機って」
結局彼は歩きながら頭の中で何度も洗濯手順を反芻しているらしく、唇だけをわずかに動かしながら、ぶつぶつと独り言を言い始めた。その声は夜風に紛れて、ほとんど、自分だけに向けられている。
「単独……弱水流……陰干し……っと、」
「聞こえてるけど」
「聞かれて困る内容じゃないです」
そう言ったあと不意に、彼が立ち止まる。人の流れが一瞬だけ彼の周囲を避けるみたいに歩道の時間がずれた。
「……名前さん」
「なに?」
「ほんとに、ありがとうございます」
「さっきも言ってたよ」
「帰り道で言う『ありがとう』は、別枠です」
そう言い切って、また歩き出す。今度は紙袋を大切そうに、胸に抱えるようにして。その仕草がまるで壊れ物ではなく感情そのものを抱えているみたいに見えた。
「それさ、持ち方おかしくない?」
「落としたら困るんで」
「そんなに大事?」
「はい。今年いちばん大事です」
胸を張って言い切るものだから「大袈裟だ」という言葉すら言えなくなる。冗談にするには彼の声が少しだけ静かすぎた。交差点で信号を待ちながら、彼はまた紙袋を開けた。街の光が赤い布に反射して、袋の内側でやわらかく揺れる。
「……やっぱ、赤いいですね」
「もー、何回目」
「確認作業です」
「任務か」
信号が、青に切り替わる。そのタイミングで、今度は私のほうから、問いかける。人の波に紛れながら、彼の横顔だけを意識して歩く。
「ねえ」
「はい」
「そんなに気に入ったなら今、早速つければ?」
「それは……」
「なに?」
「一回ちゃんとしたタイミングで使いたいんで」
「なに、その儀式」
ぎょっとする私に彼は少し照れたように視線を逸らす。夜の向こうに視線を逃がしながらも紙袋を握る指だけは緩めなかった。
「最初は、ちゃんとした、電源オフの日に」
「重っ……」
「重くないですよ。丁寧なだけです」
そう言いながら、またちらっと紙袋を見やる。夜道に紙袋のなかの赤が揺れる。その小さな色の存在感だけで、さっきまでの距離感が少しだけ、しかし確実に、別の形に書き換えられていく気がした。
「……あ。」
「今度は、なぁに」
「色違い」
「うん?」
「並べたら、ぜったい可愛いですよねー」
「想像しないでください」
私はそう言いながら内心では、もう並んでいる光景を、思い浮かべてしまっていた。理由なんてない。ただ夜の帰り道でヒーローがプレゼントを何度も見返しているだけだ。それだけのことが、やけに可笑しくて、少しだけ嬉しかった。
ホークスは今もヘアバンドを胸から離さない。まるでそれが、今日一日の答えみたいにして。
「ねえ」
私が横から覗き込むと、ホークスはまだ胸元に抱えた紙袋の中身を、ちらちら見ながらを歩いていた。
「ホークスさぁ」
「はい?」
「もしかして、他人からプレゼントもらったことないの?」
「あるには、ありますよ……たくさんとは、言いませんけど」
「いやいや、普通にたくさんあるでしょ?だって上位ランカーのヒーローだよ?」
「それとこれは別枠でしょ」
彼は胸に抱えた紙袋を、少しだけ持ち直した。まるで中身の存在をもう一度確かめるみたいに、両腕の力加減を微妙に変える。
「これは、別枠なんで」
強調するように、もう一度、同じ言葉を言う。子どもみたいに単純な主張なのに、どこか誇らしげな響きがあった。
「意味わかんないね」
「分からなくていいです」
「いや、分かりたいんだけど」
私がくすっと笑うと、ホークスはなぜか照れたみたいに、咳払いをした。夜風が喉を撫でる音と混じって、彼の声が少しだけ低くなる。
「……プレゼント自体は、もらいますよ」
「イベントとか、差し入れとか?」
「ありますね」
「ファンレターとか」
「あります」
「任務中、現場で、お菓子とか?」
「ありますねぇ」
「……じゃあ、何が違うの」
「用途が、はっきりしてるかどうか、です」
また、よく分からない理屈が返ってくる。彼は歩きながら、言葉の配置を丁寧に並べ替えているみたいだった。
「用途?」
「はい。食べる、使う、配る、保存する。分類が決まってるやつ」
「じゃあ、それは?」
「……迷うやつです」
真顔で言うものだから、吹き出しそうになる。冗談なのか本気なのか判別がつかないのが実は、彼のいちばん面倒で、いちばん可愛いところだ。
「迷うって、なに?」
「使うのも正解だし」
「うん?」
「使わずに取っとくのも正解だし」
「重いなぁ」
「重くないですってば。慎重なだけです」
また、その言い方。理性と感情の境目に立っているみたいな言葉の選び方。私が呆れて、小さくため息をこぼすと彼が不意に目を伏せてぽつりと言った。
「それに、だいたい��ホークス宛�≠ネんで」
「そりゃあ、ホークス宛でしょ。ホークスなんだから」
「ヒーロー宛、です」
そう言ったあと隣を歩きながら少しだけ言葉を選ぶような間があった。その沈黙は、夜の雑踏の中では、ほとんど誰にも気づかれないほど薄い。
「これは……」
「これは?」
「名前さんが、俺の生活を見て選んでくれたやつじゃないですか」
「ただのヘアバンドだけどね」
「ヘアバンド��だから�≠ナす」
やっぱり、なぜか誇らしげだ。彼の中で、この赤い布はもう単なる雑貨じゃなく私との関係性の証明書みたいなものになっているらしい。
「それに」
「それに?」
「色違いで、自分の分も買う人、初めてです」
私はまた、盛大に吹き出して笑う。静かな夜の空に二人の声だけが浮かんですぐに消えていく。
「そこ!?」
「そこです」
また別の信号待ちで立ち止まった拍子に、彼は胸に抱えていた紙袋の中を覗き込む。街灯の光が袋の内側でまた反射して、ただの赤い布がやわらかく波打つ。
「……ほんと、あいらしかね」
「アイラシカ?」
「可愛いな、って意味です」
「感想が彼氏」
「事実なんで」
「えっ!? 彼氏の方?」
「可愛いって感想の方ですっ!」
ぴしっと言い切られて冗談で言ったはずなのに一瞬、言葉に詰まってしまった。彼の真剣さが、冗談の輪郭を少しだけ壊す。
「……ねえ、もしかしてさ」
「はい」
「今までのプレゼント、ちゃんと使ってなかったタイプ?」
「……はい」
「出た」
「でもこれは、使います」
「さっきからそれ言ってる」
「毎日じゃないですけど」
「あ、条件ついた」
「大事に、です」
私はその言葉に、肩をすくめてまた笑う。彼の「大事に」は、たぶん普通の人の「毎日」よりもずっと重たい。
「じゃあさぁ?もし今後、他の人からもらったらどうするの」
「んー、比較しますね」
「最悪ー」
「冗談ですってー。でも、」
「……」
「これより嬉しいのこの先、来ないと思うんで」
「……重いねぇ」
「事実ですもん」
そう言ってまた紙袋を見つめる。秋の夜道で、何度も何度も同じプレゼントを確認している人気ヒーロー。その姿が可笑しくて、どこか安心で、そしてどうしようもなく、あいらしかった。赤い布切れひとつで、彼のなかの『ヒーロー宛』と、『ホークス宛』の境界線が、少しだけ書き換えられてしまった気がした。
「……ほんと、変なヒーロー」
「今さらスね」
彼はそう言ってようやく前を向いた。それでも紙袋は、しっかり胸の位置に抱えたままだった。人混みの中でも、まるで守るべきものみたいに、無意識に距離を確保している。
「ちなみに」
「はい」
「今までにも、誰かから、そういう��迷うやつ�≠烽轤チたことは?」
「……」
私の何気ない問いに、一瞬、考える間が入る。歩幅がわずかに遅れ、その沈黙だけが夜道に置き去りにされる。
「ない、ですね」
「あら」
「いや、でも」
「でも?」
「普通、こんなもん渡されないと思います」
私はそこで思わずぴたりと立ち止まった。彼の言い方があまりに淡々としていて冗談なのか本気なのか、判別がつかなかったからだ。
「……ちょっと、待って」
「はい?」
「こんなもん扱い?愛らしいヘアバンドだよ?」
「ええ」
「しかも、あひるのペックルだよ?」
「はい」
「それで、��普通じゃない�#サ定なの?」
「ああ……悪い意味じゃなくてさ?俺基準だと、です」
彼は、少し困ったように眉を下げる。夜の光に照らされて、その表情がやけに柔らかく見えた。
「……だって、さっきも言いましたけど」
「うん?」
「名前さんが、俺が家で何してるかちゃんと見てるってことなわけで」
「……」
「ヘアバンド使ってるの、覚えててくれて」
「……」
「しかも、柄まで思い出のものと揃えてきて」
そこでようやくそっと私を見る。確認するような試すような視線。でも多分そのどちらでもなくて、ただ事実だけを差し出すみたいな目だった。
「これ、だいぶピンポイントです」
「……なに、その分析」
「職業病っすね」
いつもの口癖を言ってホークスはまた、紙袋に視線を戻す。夜風で紙袋がわずかに揺れて、そのたびに、中の赤がちらつく。
「だから」
「だから?」
「他人からもらった、って括りには入らない気がします」
「じゃあ、なに」
「俺の生活圏内の人から、って感じですかね」
その言い方が、妙に可笑しくて、私は肩をすくめる。生活圏内という単語の選び方が、彼らしい慎重さをそのまま言語化していた気がした。
「はいはい。じゃあ、特別枠ってことで」
「はい、そうなりますね」
「やっぱ意味はわからないけどね」
「褒め言葉として受け取りまーす」
そんなやり取りを交わしながら歩いている内に街のざわめきは背中に流れ、二人の足音だけがやけに近く感じられた。距離が縮んだのは物理的なものだけじゃない気がして、私はふと思い出したみたいに呟いた。
「でもさ?」
「なんすか」
「今後、似たようなのもらったらどうするの」
「え」
「例えば、青いヘアバンドとか」
「……」
彼は一瞬、真剣に想像したらしい。そして斜め上を見やりながら「んー」と考え込む。まるで、頭の中で、仮想の生活シミュレーションでもしているみたいな顔で。
「使い分けましょうか」
「どうやって」
「名前さんのは、オフ用」
「ほう」
「他のは……予備ってことで」
「露骨!」
発想が完全に一般的な生活者のそれで、トップヒーローの台詞とは思えない。そのギャップが、可笑しくて、私は笑いながらも、どこか妙に安心してしまう。
「でもそれ、相手に失礼じゃない?」
「失礼にならないように、言わないです」
「策士だなぁ」
「ヒーローなんで」
胸を張る向きがたぶん少しだけ間違っている。けれどその不器用な誇らしさがひどく彼らしい。私たちはまた、夜道を歩き出す。さっきまでいた店の灯りが背後でにじみ、街の輪郭がゆっくりと溶けていく。その中でホークスは紙袋を手放さず無意識に、何度も中身へ視線を落としていた。
「ねえ」
「はい」
「もう今夜、何回それ見るつもり?」
「数えない方向で」
「いつもの端末対応時と、同じ言い訳じゃん」
「進化しない男ですねっ」
そう言いながら、またちらりと中を確かめる。その仕草がどうしようもなく真剣でどうしようもなく愛らしい。たぶん私は彼のこういうところに弱いのだと思う。任務中の鋭さでも、ヒーローとしての眩しさでもなく、こういう、生活の匂いのする瞬間に。本人にはきっと一生教えてあげないけれど。
「……ありがとね」
「なにがですか?」
「喜んでくれて」
「こちらこそです」
歩幅が、自然と揃う。赤いヘアバンドは、まだ紙袋の中にある。でももう、使われる場所は決まっている気がしていた。彼の生活の中のいちばん静かな時間のそばに——。