その日の懇親会も、顔ぶれはいつもと変わらなかった。仕事の延長線にある関係のまま、笑って飲んでほどよく愚痴をこぼし誰もが互いの境界を踏み越えないように、暗黙の距離を保っている。親しさはあるのに私生活には触れない。その緩やかな線の上を全員が器用に歩いている集まりだ。
ホークスは相変わらず場の温度を一定に保つのがうまい。盛り上がりすぎそうな話題には、軽い冗談を挟み、重くなりかけた空気には、別の話をさらりと流し込む。誰かを際立たせるでもなく、誰かを置き去りにするでもなく全体を同じ高さに整えていく。その振る舞いを横で見ながら私は、彼がこうして人と人のあいだに立つことに、もう慣れてしまっている自分に気づいていた。
終電が近づき、自然に解散の流れになる。店を出た瞬間、空気の匂いが違うことに気づいた。
「降ってますねぇ」
「ね」
細かい雨が街の輪郭を柔らかくぼかしている。夜の雨は街の音を少しだけ丸くする。車の走行音も、人の話し声も、どこか遠くなる。その中で、ホークスが不意にヒーロースーツのジャケットの内ポケットを探った。
「あー......」
「なに?」
「傘、一個しかないです」
見せられたのは細身の折り畳み傘。いつもならここで私は「じゃあコンビニで買うよ」と、言うところだ。けれど雨脚はそれほど強くはなくて、そして今日は、なぜかその選択肢を選ぶ気になれなかった。
「一緒に、入れば?」
「え、いいんですか」
「買いに行くほどじゃないし」
彼は一瞬だけ迷うような間を置いてから静かに傘を開く。
「……じゃあ、失礼します」
その言い方が妙に丁寧で少し可笑しい。けれどその丁寧さは距離を越えないための癖でもある。
肩が触れるか触れないかの位置。歩調は自然と揃う。傘に当たる雨粒の規則的な音の下で互いの呼吸だけが、やけに近く感じられた。雨のせいか街のざわめきが遠のき私たちだけが浮き上がっているみたいだった。
「いやあ、これ完全に恒例行事ですよね」
「なにが」
「この流れ?飲み会のあとに二次会。最近じゃあもう、お互い確認もしない感じで」
「はは、たしかに」
あえてそこには触れないようにしていたのに、改めて言葉にされると、少しだけくすぐったい。
「今日も、俺んちでいいです?」
「うん」
理由は特に要らなかった。「いつものこと」という言葉が、いちばんしっくりくる。「うん」と答えた自分の声が、思ったより自然だったことに胸の奥で小さく息を吐く。
ホークスのセーフハウスに着くころには、雨は少し弱まっていた。エントランスの明かりの下で傘を畳むと濡れた布が水を弾いて微かに冷たい。
「先、どうぞ」
「ありがと」
エレベーターの中は静かだった。鏡に映る二人の距離がさっきよりも少しだけ近い。その事実に気づいてしまい、私は視線を足元に逸らす。
部屋に入ると彼はジャケットを脱ぎキッチンへ向かう。
「なんか飲みますー?」
「うん、軽いのがいい」
「了解でーす」
グラスに氷が落ちる音が、部屋に小さく響く。その音を聞きながら私はソファに腰を下ろした。
いつもの場所なのに今日は少しだけ夜の続きが深く入り込んでくる気がしていた。
「そういえば」
彼が背を向けたまま、ぽつりとこぼす。グラスに氷を足す音のあとに落ちたその一言がやけに場に残った。
「この前の、誕生日」
「うん」
「なんか、ちゃんと話してなかったなって」
胸の奥で、小さく何かが鳴る。痛みというほど強くはない。ただ見過ごしてきた場所を、そっと指で触れられたような感覚だった。
「引きずってる?」
「いや……どっちかっていうと」
彼は振り返り、こちらに歩いてくる。差し出されたグラスを受け取ると、指先がほんの一瞬だけ近づく。その距離に、意味を与えるほどでもないのに、なぜか意識してしまう。
「終わり方が、自然すぎて」
「たしかに。自然だったね」
「俺ああいうの、意外と覚えてるタイプなんで」
なんとなく含みのある言い方だな、と思った。彼はソファの隣ではなくテーブルを挟んだ向かいのフローリングに腰を下ろした。近づきすぎない選択。その距離がかえって今の空気を守っている気がする。グラス越しに見る彼の表情は普段よりすこしだけやわらかい。任務の顔ともヒーローの顔とも違う、輪郭のゆるんだ素の表情だった。
「……後悔、とか?」
「いえ、後悔っていうより……」
言葉を探しているあいだの沈黙が、重くならない。逃げ場のない沈黙ではなく考えるために置かれた静けさだと、なぜか分かる。
「ちゃんと、嬉しかったです」
それ以上は続かない。けれどその短さが、かえって本音だと伝えてくる。
「二十一歳、どうだった? なってみて」
「……思ったより、大人になってました」
「なにそれ」
「いや、気持ちの話です」
彼は小さく笑う。その笑い方が、どこか照れを含んでいる。
「名前さんが、ちゃんと隣にいたからかもしれませんけど」
「それは、責任重大だね」
「はい。なので——」
一瞬、視線を落とし少しだけ言葉を探してからまた、こちらを見る。
「今日みたいな夜が、ちょうどいいです」
雨の匂いがまだ部屋に残っている。さっきまで外にあった湿り気が静かに室内へ染み込んでいるみたいだった。
二次会は始まったばかりのはずなのに、もう、充分だと思ってしまう。特別な出来事は何も起きていない。ただこうして向かい合って座り、同じ空気を吸っているだけだ。それでも私は誕生日の続きを今夜になってようやく受け取った気がしていた。グラスの中で氷がゆっくり形を変える音と換気扇の低い唸り、それから、ときどき彼が息を吸う気配。その三つだけで、時間は確かに前へと進んでいた。
「……雨、やみそうですね」
不意にホークスが立ち上がり、カーテンの向こうを覗き込みながら言う。さっきまで部屋を満たしていた雨音が、いつの間にか、細くなっていることに、そこで気づかされる。
「あ、ほんとだ……」
私はソファに座ったまま、身体だけをひねって窓のほうを見た。ガラスに残った水滴が、街灯の光を細かく砕いている。
「さっきまで、あげん降りよったとに」
「夜の雨って、急に気が変わるよね」
「女心と、なんとか〜ってやつです?」
「残念。それは、秋の空です」
「秋の空かぁ〜」
そんなどうでもいいやり取り。でも、どちらも次の言葉を探していない。その事実が部屋の空気を妙に安定させていた。
ホークスがこちらに戻ってきて今度は私の隣、ソファに腰を下ろす。背もたれに肘をかけ、身体ごとこちらへ向ける。その動きが、あまりに自然で、意図を含んでいないふりをしているからこそかえって意識してしまう。距離がほんの少しだけ縮まる。さっきまでは他人みたいだった空気が、静かに同じ温度へ溶け合う。肩が触れない程度の間隔なのに、彼の体温がこちらに滲んでくる気がした。
「名前さん」
呼ばれただけで胸の奥が静かに反応する。理由は分からない。ただ名前を呼ばれるだけで今夜の輪郭が少しだけ変わる。
「俺、たぶん……」
「うん」
「今日みたいな夜こそ、忘れないと思います」
その声には、酔いの甘さも勢いに任せた軽さもなかった。確かめるようでいて、同時にきちんと逃げ道も用意している言い方。彼が無意識に身につけた、防御と誠実の混ざり合った話し方だと、私はすぐに分かってしまう。だからこそ、ほんの少しだけ、意地悪をしてみたくなった。
「……もしかして、口説いてる?」
「はい?」
「もう純文学の域だねー。そのうち、月がきれいですね!なんて、言い出したりして」
「……」
「……ごめん、うそうそ。冗談」
彼の反応を待たずに、言葉を重ねてしまった。笑って誤魔化したけれど、心臓はさっきより少しだけ忙しい。冗談にしたのは、冗談で済ませたい気持ちと冗談じゃなかったら困る気持ちが同時にあったからだ。どちらか一方だけなら、きっと、こんな言い方はしなかった。
ホークスは一瞬だけ視線を逸らし、ほんのわずかな間を置いてから困ったように笑う。その沈黙が言葉よりも正直に感じられて私はまた何も言えなくなる。
「さあ、どうでしょうねぇ。その場合名前さんは俺に——」
「……」
「口説かせて、くれるんですか?」
軽い調子のままなのに空気の質だけが明らかに変わる。冗談の皮を被った確認。その正体に私のほうが先に気づいてしまうのが少しだけ悔しい。けれど彼はその一線を越えない。答えを待つようでいて待たないふりをしてまるで何事もなかったかのように、話題を戻す。その選択が彼らしいと思うと同時に、胸の奥に小さな痕を残す。
「誕生日の続き、っていうか」
「……続き?」
「はい。あの夜で、終わりにしなくてよかったなって」
「……」
「普通にこうして、いつも通りに戻ってよかったです」
私はグラスをテーブルに置く。氷が小さく鳴る音が、やけに大きく響いた。何か言わなきゃ、と思ったのに言葉より先に、息が漏れる。踏み込まないまま、近づいている。その曖昧さが、今夜はいちばん危うくて、いちばん、心地よかった。
「ホークスはさぁ……」
「はい?」
「距離の測り方、やっぱり上手だよね」
私はまたグラスを手に取って、縁を指でなぞりながら視線を上げきらないまま言った。自分でもなぜ今それを口にしたのかは分からない。ただ、この距離が、このまま動かずにいられるうちに、触れておきたい気がした。
「え、そうすか?」
「近づきすぎないし、離れすぎない」
言葉にした瞬間胸の奥が少しだけざわついた。褒めているつもりだったのに、それは同時に彼を遠くに置く言葉でもあったからだ。
ホークスはまた、困ったように笑う。その笑い方は、照れと警戒が半分ずつ混ざったみたいで、いつもよりも少しだけ感情が読み取りづらい。
「それ、褒めてます?」
「褒めてる」
「よかった」
そこで会話はいったん途切れる。けれど沈黙というより、言葉を置かない時間だった。換気扇の低い音と、グラスの中で氷がゆっくり溶ける気配だけが私たちのあいだを満たしていく。その間に彼の視線がふと、私の手元へ落ちた。触れようとするわけでも、引き寄せるわけでもない。ただ、そこに私がいることを無意識に確かめるみたいな目だった。その距離の取り方がさっき私が言った言葉の通りすぎて、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
「……越えないって、言ったじゃないですか」
静かな声だった。自分に言い聞かせるようでもあり私に念を押すようでもある。私は「うん」と小さく頷く。
「だから……」
彼は一度だけ言葉を切り、呼吸を整えるように視線を落とした。
「今日は、ここまででいいんです」
その言い方には名残と理性が同時に滲んでいたように思う。引くための言葉なのに決して冷たくない。その誠実さが、かえって胸に残るのに……
「……うん」
しかし私はそれ以上、何も言わなかった。止められた事が不満なのではなく、止めてくれた事が分かってしまったからだ。
「——でも、」
しかしどうやらそれには続きがあったらしい。ホークスは顔を上げて今度はまっすぐ、こちらを見る。琥珀の瞳と目があう。
「また、続きがある前提で、ですよ?」
それは約束でも、告白でもない。ただ未来を、ほんの少しだけ含ませた言い方。その控えめさがやっぱり彼らしかった。
「……じゃあ」
「はい」
「その前提、預かっておくね」
そう言うと、彼は目に見えて息を緩めた。こういうところが本当にわかりやすくて、可愛らしいな、と思う。
「ありがとうございます」
「いいえ。だから、この話はもうおしまいね」
立ち上がる瞬間、ほんの一瞬だけ肩が触れた。狙ったわけでも、避けたわけでもない。けれど、どちらも気づいていた距離だった。
その夜、私たちは、何も越えない選択を選んでいた。けれど、感情だけは、昨日よりも少し深いところに、足を下ろしてしまっている。戻れなくなるほどではない。でも、もう以前の場所に戻る気もなかった。
雨上がりのベランダは、まだ夜の名残を抱えたままで濡れた床には月の光が淡くにじみ手すりに残った雫が時々、小さな音を立てて落ちていた。洗われたばかりの空気はひんやりとして吸い込むたびに胸の奥まで澄んでいく気がする。その冷たさがさっきまで部屋に満ちていた温度をゆっくり外へ押し出していくみたいだった。
私が何も言わずにベランダへ出ると背後に彼も同じように言葉を持たずについてきた気配があった。足音を忍ばせるような歩き方まで妙に慎重で私の背中に、その存在だけが静かに届く。
並んで立つ。近すぎず遠すぎず。肩が触れればすぐに分かる距離なのに、互いに確かめようとはしない、触れないことを選んでいる距離だった。誕生日の夜に起きたことを私たちは何ひとつ言葉にしないまま、ここまで来た。なかったことにもせず説明もしない。ただ沈黙のまま丁寧に運んできた。その沈黙がいつの間にか約束の形をして、私たちのあいだに残っている。
「雨、完全に上がりましたね」
ホークスが言う。空を見上げる横顔は、いつもより輪郭がやわらかくて、街の灯りに照らされるせいか、どこか現実感が薄い。こんなふうに見ると、少しだけ、尊いとすら思ってしまうのが厄介だった。
「うん。匂いが変わった」
「え、わかるんですか?」
「わかるよ。濡れたアスファルトの匂い嫌いじゃない」
彼は小さく笑った。笑うときに視線を外す癖は相変わらずで、その横顔が、今はやけに近く感じられる。
風が吹く。私の髪の先が揺れ、その動きに引き寄せられるみたいに、彼の袖がかすかに触れた。ほんの一瞬。触れたかどうかも曖昧なほどの距離なのに、その感触だけが妙にはっきり残る。言わないと決めていたはずなのに——。どうしてか、その瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが緩んでしまった。
「ねえ?」
自分でもなぜ呼んだのか分からない声だった。彼は静かにこちらを見やる。近い。けれど、まだ触れてはいない。
「ホークスに愛される女の子はさ、世界一、幸せなんだろうねぇ」
言ってしまった、と遅れて気づく。言葉はもう夜気の中に放たれて、戻ってこない。
「……なんですか、それ」
少しだけ戸惑いと警戒が混じった声。けれど、怒ったり、拒むような響きではなかったと思う。
「だって……」
私は手すりに指先を置いたまま空を見る。星は見えない。それでも、雲の切れ間が、ゆっくりと広がっていくのが分かる。
「わたし、お姫様になったもん」
「……え?」
「手のひらに、キスされたとき」
彼の呼吸がわずかに乱れたのが伝わった。あの日の出来事を名前も説明も与えずに、ただ一行で差し出してしまったみたいだった。
「……あれ、覚えて……るん、すか」
低く、慎重な声。触れないように……触れてはいけないと、制しているような音だった。
「はっ? 私、起きてたじゃん」
「いや……そう、ですけど……」
「忘れないよ、あんな出来事」
「……」
彼はそれ以上何も言わなかった。夜の向こうを見つめたまま、否定もしないし、肯定もしない。ただ、その沈黙の中に、確かに揺れているものがある。触れないままでも、動いてしまった感情の気配だけが静かに私たちのあいだに残っている。
「誕生日の話は、おしまいって言ったのにね」
自分で言っておきながらその約束を破ったのは私のほうだった。言葉にした瞬間胸の奥で小さく波が立つ。
「……ですね。しかも名前さんの方から」
やっぱり声音は責める響きじゃない。むしろ、困ったみたいな柔らかさが混じっている。
「でもさ。たまに、言いたくなっちゃう……」
本当は、言いたいのは言葉じゃなくて気持ちのほうだと分かっている。抑えていたはずなのに、雨の匂いを含んだ夜気に触れた途端、少しだけ、緩んでしまった。彼は苦笑に近い表情で短く息を吐いた。
「それは、困る案件……スね」
「ごめん」
「いや……」
そこで彼は、わずかに言葉を探すように、間を置く。その沈黙が拒絶ではないことだけはなぜか分かってしまうのが余計に落ち着かない。
「悪い意味じゃなくてさ」
「え……?」
「……嫌じゃない、って意味です」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が静かに揺れる。彼は視線を外し手すりに両手を置いた。夜気に冷えた金属を掴む指先が白くなるほど力が入っている。その横顔は平静を装っているくせにどこか、逃げ場を探している人のものだった。
「……嫌じゃない、ねえ」
私は軽く言ったつもりだった。でも、その声は思ったより低く落ちる。
「……なんすか」
「いや?ただ、ホークスはああいうの、慣れっこなのかもしれないなって」
冗談の形を借りた疑念。でも冗談だけでは済まない響きが、自分でも分かる。
「軽くできちゃう人なのかもなーって、ね。」
視線を向けないまま言ったのは彼の表情を見るのが少し怖かったからだ。
夜は、まだ続いている。越えないと決めた線は確かにそこにある。けれど今の私たちはそのすぐ脇に立っている。踏み込んではいない。でも引き返せるほど遠くもない。雨上がりのベランダは、何も決定づけないまま、ただ静かに私たちの揺れだけを、受け止めていた。
ベランダの手すりに残った水滴が指先に触れてひやりとした。夜気に冷やされた金属の感触がやけに現実的で、さきほど口にしてしまった言葉、『お姫様になった』という、あまりにも無防備な告白だけがまだ空気の中に取り残されている気がする。回収されないままの感情が夜の底で静かに漂っていた。ホークスはしばらく黙ったまま空を見ていた。逃げる沈黙ではない。言葉を、選んでいる沈黙だとなぜか分かってしまう。その横顔を盗み見るだけで胸の奥がまた落ち着かなくなる。
「名前さん」
低く呼ばれた瞬間、心臓が小さく鳴った。
「そんな言い方されちゃったら……」
ようやく、こちらを見る。その瞳に冗談の色はない。からかうためでも、場を和ませるためでもなく真正面からちゃんと向けられる視線だった。
「俺が、何も考えてないみたいじゃないですか」
「……考えてたの?」
「そりゃ」
短く息を吐く。その仕草に、感情を整えようとする癖が滲む。
「考えますよ。毎回」
夜気に溶けるような低い声なのに、言葉だけがまっすぐ胸に届く。
「触らないって決めてるのも、線を越えないって決めてるのも全部、名前さんのせいですよ」
言葉とは裏腹に責める口調じゃない。けれど、責任を静かに差し出されるような言い方だった。
「軽くできちゃうって、本気で思ってます?」
「い……いや、」
「できるわけないでしょ」
ほとんど、迷いのない言い切りなのに、声色は穏やかで押しつけがましさがないぶん、かえって抗う余地が残されていない。逃げ道もない。
「俺、ヒーローですしね。守るのは仕事なんですけど」
ほんのわずかに空気の密度が変わった。距離はそのままなのに、近い。触れられていないのに、触れられたみたいで、私は動けなくなった。
「名前さんのことは守る以前に……大事にしたい側なんで」
胸の奥で小さな火が灯るみたいに熱が広がり、じわじわと上へと昇ってきて、頬の内側まで赤く染める。鼓動が勝手に彼の言葉に呼応している。
「だから、押さない。でも……」
彼は、一瞬だけ視線を落とした。その仕草が、かえって本音に近い気がした。言葉の余白が夜に溶けて、妙に深く沈んでいく。
「そういうこと言われると俺も一応、男なわけで……そのへん、自覚あります?」
「……なにが?」
「俺を、どれだけ困らせてるかって話です」
その言葉の後、ようやくホークスの口元が少しだけ緩むのが見えた。
「今の発言で今日一晩は余裕で不眠確定ですよ」
「……それ、攻めてない?」
「いやいや。これでも、かなり抑えてますから」
そう言って、彼はわざと一歩だけ下がる。その距離の取り方が、あまりにも彼らしい。
「……ほら。中、戻りましょ」
「……」
「これ以上ここにいたら俺、ほんとに口が止まらなくなるんで」
背を向けた彼の耳がほんのわずかに赤い。押してこない。触れない。けれど、確実に言葉だけで深く沈めてくる人だと改めて思った。その背中を見ながら、私は思ってしまう。ああこれは時間の問題だと。彼が線を引くほど、私はその内側に、静かに閉じ込められていくのだと。そして私は、その一歩を踏み込んで欲しかったのだ、と——。
結局、今夜もいつもの配置に落ち着いた。私はベッド、ホークスはソファ。そのはずだった。
別々にシャワーを済ませ、部屋の灯りを落とし間接照明だけが淡く残る時間になっても、なぜか私はベッドへ向かえずにいた。眠るにはまだ心が静まりきっていなかった。
ソファに横になったホークスの足元に腰を下ろし、クッションを抱えたまま、天井を見上げる。さっきまでの会話の余韻がまだ、胸の奥に残っていて、暗闇の中で微かに熱を持っている。
「……まだ、起きてるんですか」
胸の前で腕を組み、目を閉じたままホークスが声の調子を少しだけ落として言う。
「うん」
「早く寝たほうがいいですよ」
「寝ない」
子どもみたいな返事をすると、彼は小さく息を吐き「はいはい」と適当に受け流す声音を漏らした。それは、いつもの、私を安心させる距離感。だからこそ、甘えてしまったのかもしれない。
「ねえ」
「はい?」
「ホークスってさ」
「はいはい」
目は閉じている。聞いてはいるのに身構えてはいないように見えた。その無防備さが本物なのかどうかは分からないまま。
「私のこと、どう思ってるの?」
一瞬、闇の中に、わずかな沈黙が落ちる。私はそれ以上踏み込まず、彼の言葉が形になるのを、ただ待った。
「……いまさらすね」
「どういう意味」
「大事にしてますよ。それは何度も言ってるじゃないですか」
確かに何度か言われた気がする。遠回しな言い回しも含めて。それが誠実な答えだと、分かっている。でも、今日はそれだけでは足りなかった。胸の奥で、もっと曖昧で、もっと個人的なものが行き場を失い疼いている。
「……前に、ないって言ってたけどさ」
クッションを抱き直し少しだけ身を乗り出す。暗闇の中で、彼の輪郭が近づく。
「ほんとに私で、抜いたりしないの?」
言った瞬間空気が変わった。ソファがわずかに軋む音。ホークスがはっきりと目を開けた気配が伝わってくる。さっきまでの緩さが突然、綺麗に消えた。
「……名前さん」
低い声。何かを抑えた響き。その変化だけで、胸の内がざわつく。
「なに。答えてくれないと、ベッド戻らないよ」
「……」
冗談めかしているふりをしながら、私は視線を逸らさない。今夜だけは、引く気になれなかったから。
「……そういう返し、どこで覚えてくるんすか」
「答えになってない」
「……」
彼は無言のまま上体を起こし、背もたれに肘をついて私を見る。触れない。けれど距離が一気に縮まる。暗闇の中でも分かるほど、視線が深い。冗談を言っていた人の目じゃない。私をひとりの異性として、きちんと見ている目だ。
息遣いが、さっきより近い。越えていないのにもう安全な距離ではなかった。その事実だけが、静かに、胸の奥で鳴っていた。
「俺が、どれだけ我慢してるか……分かってて、言ってます?」
低く落とされた声はさっきまでよりも明らかに熱を帯びていた。静かなのに逃げ場を塞ぐ響きがある。暗がりの中でも彼の視線がこちらに向いているのが分かる。その圧に胸の奥がざわついた。
「……それも、答えになってない」
「……」
「ホークスが答えないなら、ずっとここにいる」
短い沈黙のあと、彼は小さく息を吐いた。
「……ずるか人すね」
小さく呟いたその声は冗談めかしているようでどこか、本音が滲む響きがあった。彼は、視線を逸らさないまま、言葉を選ぶ。
「正直に言いますけど」
「うん」
「そういう想像を、まったくしない男なんてさ、いないと思いません?」
そこまで言って、それ以上は、あえて踏み込まない。得意の境界線を意識した言い切り方。私が少しだけ声を強めて「だから、それじゃあ——」と言いかけた瞬間その続きをホークスが遮った。
「何度聞かれたとしても」
「……」
「名前さんをそういう扱いにする気はないんで、答えは、変わらんですよ?」
まっすぐな目が暗闇の中でもはっきり伝わる。
「欲しいとか、そういう話じゃなくて」
「……」
「大事にしたいから、距離を守ってる」
その言葉が胸に落ちてじんわりと熱を広げる。私は無意識に、クッションを、抱え直していた。掴んだ指先に、ぎゅっと力が入る。
「私だって、男の人の性質くらい……分かってるつもりだもん」
軽く言ったつもりなのに声が少しだけ震えた。ホークスは、わずかに眉を寄せる。
「でもさ、気になるじゃん」
「……なにがですか」
問い返す声は落ち着いているのに、ほんの少しだけ警戒と歯痒さが混じっているのがわかる。
「私をどんなふうに……考えてるのかな、とか」
言葉を選び直したのに空気は十分に熱を帯びてしまった。
「だから、そういう対象には——」
珍しく慌てて遮るみたいな否定。それでも私は引かなかった。
「ほんとに?」
「……」
「いちども?」
問いを重ねると、彼は視線を逸らし、短く息を吐いた。困ったような沈黙。言葉に詰まる気配がはっきり伝わってくる。
「……いや、もう……」
「なに」
「名前さぁん……」
そう言ってドサっとまたソファに身を沈めた。名前を呼ぶ声が低い。叱るでも、笑うでもない。ただ、抑えきれない感情が滲んでいる。その声音だけで分かってしまう。彼は理性で距離を守っているだけで感情まで無風なわけではないのだと。触れていないのに、もう十分に近い。この夜は、越えないまま、確実に境界線のすぐ手前まで来てしまっていた。
「だってさ」
私は肩をすくめた。その仕草が軽く見えるように装いながら胸の内側では、思った以上に重たいものを抱えている。
「まったくゼロだったら、魅力ないってことなのかな、って思っちゃう」
自分でも、少し幼い言い方だと思う。それでも口に出さずにはいられなかった。
「それは違います」
しかし返ってきた声は、驚くほど迷いがなかった。さっきまで、言葉を慎重に選んでいた人とは思えないほど、そこだけがきっぱりしている。
「じゃあ、どう違うの」
問いかけると彼はすぐには答えなかった。ソファに横になったままの体勢なのに空気だけがじわりと近づいた気がする。物理的な距離は変わっていないのに、呼吸の温度だけがさっきよりもはっきり分かる。
「想像するのと、欲望に使うのは、別でしょ」
低く落とされた声。言葉を選びながら、彼は、慎重に線を引くみたいに続ける。
「大切にしてる相手ほど、雑には扱えない」
「……」
「それが、俺の答えです」
その一文が、静かに胸に沈んだ。逃げも誤魔化しもない言い方だった。私を、納得させるためというより自分の中の基準をそのまま差し出した、そんな響き。私はその言葉を胸の中で何度か転がす。重さも温度もちゃんとある答えに、少しだけ息を吐いて、身動ぎする。
「……じゃあ」
「……」
「もう、いいや」
そう言ったのに身体はソファを離れなかった。彼の足元に腰を下ろしたまま、クッションを抱え直す。ベッドに戻るにはまだ早すぎる気がしたしここを離れた瞬間にようやく踏み込めたこの空気まであっさり終わってしまってまた流れてしまう気がした。
触れていないのに、もう十分に近い。境界線のこちら側にいながら私たちは今日も、同じ場所に座っていた。
「……まだ、寝ない感じで?」
天井を見つめたままホークスが言う。声はいつもと変わらない軽さを保っているのに語尾だけが微かに沈んでいて、冗談と本音の境目に置かれた音みたいに聞こえた。
「寝ない」
「さっきから、ずっとそれ言ってますけど……」
私は膝を抱え直しクッション越しに彼のほうを見る。間接照明に縁取られた横顔は、目を閉じているはずなのにどこか緊張しているのが分かる。
「ねえ」
呼びかけると、ようやく彼の視線が、こちらに向いた。暗がりの中でも、その目がはっきり私を捉えたのが分かる。
「さっきの話さ……ちゃんと、教えてほしい」
空気が、目に見えないところで止まった気がした。彼は一度、目を伏せて、短く息を吐く。その呼吸の仕方だけで、簡単な話じゃないことが伝わってくる。
「……名前さん」
「答えるまで、ベッド戻らないから」
「そういう脅し、ずるいと思うんですけど?」
冗談めかした口調なのに笑ってはいない。その不一致が、胸に静かに引っかかる。
「だって、気になるんだもん」
「気にせんでいいですってぇ」
しばらく何も言葉が続かなかった。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。ホークスは寝転がった体勢のままソファの背に腕を回して、ゆっくりと言った。
「だからほんと、そういう対象には——」
「やっぱいい。わかったよ、もう」
私は言葉を遮って顔を背ける。強がりのつもりだったのに胸の奥がひりつく。彼の視線がこちらに向いているのを、背中で感じる。いつもより、ずっと深く、逃がさない眼差し。
「……やっぱ私、魅力ないんだ」
「……」
「ホークスの中で私は、ゼロなんだよ。結局そう言うことじゃん」
自分で言っておきながらその言葉が胸に落ちる音が重かった。告白もしていないのに、振られたような気分だ。しかしなぜだろう。見ていなくても私のその言葉に、彼の眉がわずかに歪んだのが分かった。
「……やけん、違うって言いよろぅ?」
呆れと困惑が混じった低い声だった。咎めるというより、どう伝えたらいいか分からなくなった人の声。
「ゼロなわけ、ないでしょ」
「……じゃあ」
「でも」
今度は彼が私の言葉を遮った。そのまま、また上体を起こし、私と同じ高さになる。距離は変わっていないのに、視線の重さだけが少し近づいた感じ。
「抜いたかどうかで測られるの正直、嫌なんですって」
「……」
「名前さんを、そういう棚に置きたくない」
その言い方は思っていたよりずっと強かった。否定ではなく、線を引く言葉だった。守るための線だと、今なら分かる。
「じゃあ、どう思ってるの」
「……そんなに、知りたいですか」
距離が近い。物理的な話じゃない。視線の圧が逃げ道を塞ぐ近さだった。
「知りたい」
「だったら、言ってあげますけど」
彼は一度だけ私の目を見た。その視線は逃げるためじゃなく、決めるためのものだった。
「想像して、止めた夜は、あります」
「……えっち」
「あ、もう言いとうなか」
「ごめんごめん。うそうそ、教えて?」
軽く流そうとした私と違って、彼は一度、短く息を吐き視線を私ではなく正面に流す。その横顔には、誤魔化す余地がない。
「触れたいと思って、手を引っ込めたことも」
「……」
「でも、それ以上は——」
言葉の切れ目に、静かな緊張が生まれる。
「あなたに許されてからじゃないと嫌なんです」
「……それ、ずるくない?」
「あなたが言います?それ」
彼は小さく笑う。でもその目は、冗談を許していない。胸の奥がきゅっと音を立てた気がした。痛みに近いのに、どこか、甘い。
「とりあえず——だから、」
「……」
「他の男に、あんなふうに考えられるのは」
言葉を探すみたいにほんの一瞬だけまた視線を宙に逸らす。
「普通に嫌でしたよ」
一瞬だけ何の話を向けられているのか分からず思考が遅れる。けれどすぐに、ああ、と胸の奥で引っかかるものが浮かび上がった。あのときの、私に似ているセクシー女優の話だ。
まさかこのタイミングで、その話題を拾い上げられるとは思っていなかったし、ましてや、はっきりとした感情をこんな形で差し出されるなんて想像もしていなかったので気づいたときには息の通り道が少しだけ狭くなっていて吸い込むはずの空気が胸の手前で止まってしまう。
「まだ、手は出しませんけど……でも、」
彼は私の膝にそっと手を置いた。反射的に私は背筋を伸ばしてしまった。少し触れるだけ。それ以上は動かない。その静止が、かえって強い。
「欲しいって思ってることだけは、否定しないでくださいね」
それ以上、何もしない。なのに心のほうが逃げられなくなる。
「それで、いいの?」
「それがいいんです」
はっきりと言い切られてしまって、私は小さく頷くしかなかった。それからようやくゆっくりとソファから立ち上がった。今のこの空気を揺らさないようにするみたいにして。
「……じゃあ、今日はここまでね」
「はい」
私はベッドへ向かいながら、一度、振り返る。
「ねえ、ホークス」
「……ん?」
「今の、ずるい男のやり口だからね?」
「……知ってますよ。すんませんでした」
そう謝罪してソファに残った彼はこちらを見ることはなく天井を仰いだまま、静かに息を吐く。その呼気の長さが、言葉よりも多くを語っている気がした。
「おやすみ、ホークス」
「……おやすみなさい」
膝には触れた。それ以上は触れなかった。でも確かにこの夜、彼は私の心の奥へ指先を伸ばしてきた。そんな風に思えるほど静かで優しい手つきだった。
寝室に入り布団に潜り込んで目を閉じてもすぐには眠りに落ちてくれなかった。ソファの方からほんの少し遅れて届いた吐息がやけに深く部屋の空気をまだ、手放さないでいる。攻めたつもりでいたのに結局、深く引き寄せられていたのは私の方だった。今夜はきっと満月なのかもしれない。