夜明けとともに、通話は静かに途切れた。暗く戻った画面を見つめたまま、私はしばらく、指先ひとつ動かせずにいた。ベッドに入っても身体はうまくほどけない。寝返りを打つことさえどこかぎこちなくて布団の重みだけが増したように感じられて手の中に残ったスマートフォンの熱だけがこの夜が、確かに存在していたことを遅れて証明していた。

 *

 それからの日々、私はただ呼吸のように日常をこなした。食事をして、出勤して、誰かと話し、笑うふりをしてまた帰ってきて眠るふりをする。そのどれもが少しずつ現実から浮いているようでそれでも形だけは崩さないまま続いていく。
 職場ではいつも通りだった。誰も私の変化には気づかないし、私もそれを望んでいた。気づかれないことが、いまの私にとってはいちばん安全な状態だったから。
 あの日以降、ホークスから電話は来ていない。こちらからも、もちろんかけていない。それでもメッセージだけは、届き続けていた。開くことはできないまま、未読の通知だけが積もっていく。
 あの夜、電話越しに「全部、私が悪かった」と言った私に彼は、「責めていない」と返してくれた。その言葉はたしかに救いだったはずなのに。たぶん、私が本当に言いたかったことは、もっと違う何かだった気がしてならない。その��何か�≠フ正体は、まだ掴めない。掴みたくない、という気持ちのほうが少しだけ強い。だから私は、黙るしかなかった。彼もきっと、言葉の奥に、何かをしまい込んでいる。私と同じように壊れやすくて誰にも触れられたくない——触れ方を間違えたら崩れてしまう種類のものを。

 夜になると思い出す。飲み会のあと何の脈絡もなくジェンガを取り出して、木片を鳴らしながら笑っていた声。端末を壊しては悪びれもなく言い訳を並べる声。スマートフォン越しに届いたあの夜の声。優しかった。優しすぎた。だからこそ、痛かった。
 それでもきっと近いうちに彼はまた現れる気がしていた。無防備に、まっすぐに。まるで、何もなかったかのような、薄ら笑いを浮かべて。そのあとに少しだけ困ったみたいに笑うあのいつもの調子で。そのとき私はその��何もなかった顔�≠�受け止められるだろうか。わからないまま、日々だけが進んでいく。

「……お疲れさまでした、お先します」
「名字さん、お疲れ様でした〜!また明日!」
「うん、また明日ね」

 外に出ると、夜風が思っていたよりもやわらかかった。なんだかまっすぐ帰る気になれなくて、少しだけ遠回りをすることにした。
 信号待ちのあいだ、ポケットの中で、スマートフォンが震えた。取り出さなくても、相手が誰かわかってしまう。それでも私は画面を見るのだ。



ホークス

また空が綺麗です





 その下に添えられたらしい写真は開かなくても想像がついた。きっと、淡いオレンジにほどけていく、西の空だと。その空のように、変わらないことも変わっていくことも全部ごちゃ混ぜにして私はそのメッセージを受け取っていた。
 相変わらず既読はつけない。けれど、こうして文字を追ってしまう。それだけが今の私にできる精一杯だった。——見てくれるだけでいい。彼が残したたったひとつのお願いを、ぎりぎりの形で守りながら。
 それでも、心の奥では考えている。次に会ったとき、どうしようかと。目を見て、話せるのか。ちゃんと笑えるのか。それともまた泣いてしまうのか。その未来をまだ決めきれないまま、夜風に当たりながら私は歩く。足取りは、軽くも重くもなく、ただ、続いていくだけ。
 ふと、空を見上げる。どこかであのヒーローも同じ空を見ている気がした。

 数日後。仕事帰り、駅ビルのパン屋でバゲットを一本買った。明日の朝のために、という理由はあったけれど実際にはただそこにあったから手に取っただけだった。抱えたトートバッグの隙間にそれを差し込み視線を落としたまま改札方面へと向かう。何かに集中しているわけでも考えごとをしているわけでもない。ただ、疲れていただけ。気持ちよりも身体よりも呼吸そのものが少しだけ重くて胸の奥で何かがうまく巡っていないような感覚だけが、鈍く残っていた。
 そのとき、ふと足が止まる。まさかと思った。でも、その��まさか�≠ヘ、驚くほどあっさりと、現実に追いついた。改札の手前。人の流れの中に彼がいる。誰よりも早く私を見つけていたのは、あの、ヒーローだった。
 目が合う。あんなに、何度も連絡をもらって。既読ひとつまともにつけられなかった私がこんな形で偶然、真正面から出くわしてしまうなんて。喉の奥で声にならない何かが弾けて体がわずかに強張った。やっぱり神様は、私にだけ少し意地悪だなと思う。

 逃げるべきか。立ち止まるべきか——。判断がつかないまま無意識に足だけが止まってしまう。ホークスは人混みを縫うようにゆっくりとこちらへ歩いてきていた。焦る様子も戸惑いも見せずにただ、まっすぐに。その姿に、いくつもの記憶が重なる。いつも夜になると思い出していたこと。飲み会のあと唐突にジェンガを取り出して、木の音を鳴らしながら笑っていた夜。端末を壊しては悪びれもなく言い訳を並べていた昼。夜明け前、スマートフォン越しに届いた、あの静かな声。
 そのひとつひとつが、やけに鮮明で。どれも、今この瞬間の彼と、つながっている。
 ——それでも。私はまだ彼をまっすぐに見られない。だから、すれ違うように視線を逸らして、そのまま横を通り過ぎようとした、その瞬間。

「名前さん」

 小さく、しかし真っ直ぐに、私の名前が呼ばれた。人の流れのなかで、そこだけがわずかに静止したように感じる。人々の足音が靴底から伝わるその感覚だけがやけに鮮明だ。振り返るべきじゃないと、どこかで思う。振り返ったら、きっと。

「ホークス……」

 もう遅かった。名前を呼んでしまった時点で、引き返せる場所はなくなっていた。次の瞬間には視界が滲んでいる。あたたかいものが、目尻からこぼれ落ちていく。止め方が、わからない。堰を切る、という言葉が、妙に現実味を持って迫ってきた。

「あ……っ、やだ。ごめん……!」

 それしか言えなかった。何に対して謝っているのか、自分でもわからないまま。言葉にならない感情だけが、内側からあふれてくる。この数日のすべてが、遅れて押し寄せてくるみたいに。
 慌てて涙を拭う。けれど、追いつかない。ホークスは何も言わなかった。ただ静かに目を細めて私を見ていた。その視線すら、まともに受け止められない。それなのに彼はほんの少し息を吸ってから言う。

「……会えて、嬉しいです」

 その一言が、あまりにも優しくて。また、涙が滲んだ。歩道の端、夕方の雑踏の中。周囲の音が遠のいて、自分の心音だけがやけに大きく響く。
 駅前の空気は、夕暮れに向かって少しずつ色を変えながら、それでも絶えず流れているのに……私だけがそこに取り残されているみたいだった。
 なんとか呼吸を整えようとする。けれど、心はまだ、追いつかない。言葉にしようとすると喉の奥で何かが引っかかる。思い出すたび押し上げてくるものがあるのに、それを外へ出す術だけが、どうしても、見つからない。
 目の前に立つヒーローは変わらず静かだった。さっきの涙を、正面から受け止めたはずなのに。何も問わないまま、ただそこにいる。その沈黙がやけに優しくて、そして、苦しい。言わない優しさに包まれることが、こんなにも、居心地が悪いなんて。絶えず顔に注がれる視線を感じる。ひと呼吸ぶんの間。それから、彼は言った。

「……明日の夜、ご飯行きましょう」

 ——え、と声に出すよりも先に、風が頬を撫でた。顔を上げる。彼の目は、曇っていなかった。情けや同情や、気遣い、そういう言葉にすり替えられない、どこまでも、まっすぐな目だった。

「別に重たい話はしません。ううん、したくないです」
「……」
「今はそういうの、必要ない気がして」

 彼の声はいつものようにほんのりとした軽さをまとっていたけれど、その端々に沈んだ緊張感が微かに伝わってくる。これ以上、私を揺らさないようにしているのか。それとも、自分の期待を、これ以上大きくしないためなのか。たぶん、そのどちらもだ。私は少しだけ俯く。また涙がこぼれそうになる。それでも。断る理由が、見つからなかった。ただご飯に行く。それだけのことだと。今まで通りに何もなかったみたいに日常の延長として、それを選べるなら——。今はそれだけで、いい気がした。

「……うん」

 ようやく出た声は頼りなく、少し掠れていた。それでも相手には届いたらしい。小さく息が緩む気配がする。ほんのわずか安堵したような笑み。その気配に触れた瞬間、胸の奥が静かに解けた。
 ああ、もう、逃げられない。このヒーローからじゃなくて……この人に向けてしまった、自分の気持ちから。


 *


 翌日。仕事の帰り道。私は寄り道もせず、その店へと向かっていた。「いつもの」と呼べるようになったあの居酒屋は駅から少し外れた裏通りに控えめな灯りをともして暖簾を下げている。季節ごとに入れ替わる短冊のメニューと適当に濁したままでも、許される会話の温度。私たちのあいだには、それがちょうどよかった。
 木戸を引くと油と出汁、それからわずかに残る焼酎の気配。その混ざり合った空気が、柔らかく鼻先に触れてきて私は一瞬だけ、足を止めそうになる。
 視線を上げる。奥の席に彼がいた。ホークスはもう来ていた。私よりも早く。テーブルの上には何も並んでおらずただ水の入ったグラスに付いた水滴だけが時間の経過を静かに示している。彼がこちらに気づく。目が合う。笑ってはいなかったけれど、その奥にあった張りつめたものが抜けたような、やわらかな表情だった。

「……早かったね」

 ようやく出た声は、店内のざわめきに紛れて、届いたのかどうか少し心もとない。けれど彼は、すぐに小さくうなずいた。

「早く会いたかったんで」

 からかいでも、照れ隠しでもない。ただ、そのままの事実みたいに差し出された言葉に私はわずかに戸惑う。
 席に着くといつものようにお通しが置かれる。箸を持つ手が、ほんの少しぎこちないのは、私のほうだった。ホークスは急かすでもなく、ただ、静かに、こちらの動きを見守っている。

「話したいこと、いっぱいあります。でも今日はただ一緒にいられたら、それでいいです」

 その言葉に私は小さくうなずいた。言葉にできない分、その動作に気持ちを預けるしかなかったけれど、きっと彼には伝わっている。
 外は、夜に変わりかけていた。店内の灯りが、彼の頬の輪郭をやわらかく縁取る。グラスを持つ手。少し乾いた唇。伸びかけた髪。そして、その奥にある琥珀色の瞳。見ているだけで、また泣きそうになる自分を、なんとか押しとどめる。
 しばらくのあいだ、ふたりのあいだを満たしていたのは、揚げ出し豆腐に箸を入れる音と、厨房から聞こえる、油の弾ける音だけだった。会話がなくても、それは、苦痛ではなかった。むしろ、言葉を急がないほうが、何かが崩れずに済む気がした。言葉を選びすぎるとたいていの場合何かが行き場を失ってしまうから。

「名前さん、その後どうです?なんか、変わったこととか、ありませんか」

 やがて、ホークスが口を開く。こちらを見ずにグラスに付いた水滴を、指でなぞりながら。

「お医者さんみたいだね」
「よかったらあなたの主治医、立候補しますよ」
「遠慮しておきます」
「はは、即答〜」
「まあ、うん。いつも通り……職場でもちゃんと働いてるよ」
「そっか、それなら良かった」

 軽いやり取り。その温度に少しだけ救われる。相変わらずやさしい声だなと思う。けれど、その穏やかさが、逆に胸の奥をかすかに刺す。

「ホークスは?体調とか……ちゃんと戻った?」
「ええ、もう全然。お医者さんにも、健康優良児って言われました」

 冗談めかした返しに思わず気が抜けて、笑ってしまう。自分の口から自然に笑いがこぼれた事に少し内心で驚いていた、そのとき。

「……やっと、笑うてくれた」

 独り言みたいにこぼされたその一言で、視線が交わる。けれど私はすぐに湯気の立つ皿へと目を落とした。

「ずっと、怖かったです」
「……」
「もう一生……会ってもらえないかと思いよったけん」

 そう続ける声にははっきりとした震えみたいなものがあった。私は何も言えないまま箸で大根を崩すふりをする。

「あと……あの、なんていうか」

 ホークスは卓上の七味の缶を手に取ってすぐに戻す。結局、使わないその仕草が言葉にできない迷いそのもののように見えて私はまた視線を違う方向へと逃した。

「何気ない連絡でも、受け取ってもらえるだけで本当、救われてました」
「……」
「もう、こげんことは……しません。勝手に待ち伏せしたり踏み込んだり、混乱させたり」
「……」
「今回は、本当に……すみませんでした」

 まっすぐな謝罪だった。今はそれがかえって、つらい。私は顔をあげられなかった。謝るべきは私のほうかもしれないのに言葉が追いつかない。

「だから今日、一緒にご飯食べてもらえただけでほんとに……」
「ホークス」

 私はそこで、ようやく口を開いた。視線をゆっくりとあげる。彼は少し目を見開いて、私を正面から見据えていた。

「……ありがとう。誘ってくれて」
「……」
「今日、来てくれて」

 それ以上は言えなかった。本当はもっと、伝えたいことも、聞きたいことも、あるはずなのに。けれど今はこの一言だけで、精一杯だった。それでも彼は十分だと言うみたいにやわらかく笑う。

「はい。また、壊れてない端末で、修理じゃない用事で、行きますね」

 からかうようでいて、きっと本気の声音。私は器の中の出汁をすするふりをしてそのまま視線を落とした。

 暖簾をくぐると夜の空気がすっと肌に触れた。昼間の名残をわずかに含んだ風が、首元を抜けていく。そんなにアルコールを口にしていないはずなのに足取りが少しだけ頼りない。理由はたぶん酔いではなく、別のところにあるのだろう。
 並んで歩き出す。歩幅は自然と揃うのに、肩と肩のあいだにはまだ一枚、薄い膜のような距離が残っている。触れないことを、前提にした距離。触れられることを、どこかで意識している距離。しばらくどちらからも、言葉はなかった。

「……送っていきますよ」

 やがて、ホークスが口を開く。いつもより少しだけ低い声で、前を向いたまま。こちらの反応を探るでもなく、断られることも織り込み済みで、それでも一度は差し出しておくというような響きだった。

「大丈夫だよ。家、近いし」

 私は、即座に答えた。考えるより先に、言葉が出ていた。彼は、歩みを止めない。ただ、ほんのわずかに歩調を落とす。その変化に気づいてしまう自分が、少し厄介だと思った。

「そうですけど」
「うん……」
「近いからこそ、ですよ。……夜ですし」
「……心配性だね」

 軽く笑ってみせる。けれど声は思っていたより乾いていて、私は一度、喉を整えるように空気を飲み込んだ。

「ヒーローの職業病です」

 そう言って、彼が、こちらを見る。街灯の下、横顔が一瞬だけ、浮かび上がる。居酒屋の中では見えなかった目の下のわずかな疲れや、唇を結ぶ力の入り方。歩きながら、彼はほんの少しずつ、距離を詰めてくる。触れない。触れないまま。
 けれど、空気の密度が変わるのがわかる。手が当たらないように気をつけている、その気配も。

「じゃあ、駅の角まで。それなら、よかろ」

 妥協するように、静かに差し出される、提案の言葉。私は一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。

「……まあ、そこまでなら」

 それ以上はどちらも何も言わなかった。並んで伸びる影がアスファルトの上で少しだけ近づいては、また離れる。一定にならないその距離が今の私たち、そのものみたいだった。
 やがて、駅の角が見えてくる。別れが、現実の形を帯びはじめる。

「今日は……ありがとうございました」

 彼の声は店の中よりもずっと静かだった。私は速度を緩めてから、立ち止まる。彼も半歩遅れて足を止める。

「こちらこそ」

 そのとき、ほんの一瞬だけ、彼の手が動いた。促すためでも引き止めるためでもない。ただ触れてもいいのかどうかを、確かめるような反射的な動きだった。けれどその手は途中で止まる。何も掴まないまま、静かにヒーロースーツのポケットへと戻っていった。

「……じゃあ」
「うん……」

 それだけで、足りてしまう。背を向けて、歩き出す。私は一度も振り返らなかった。振り返ればきっとまた距離を見誤ってしまう気がしたから。
 それでも——。数歩進んだあとも、背中に残る視線の温度だけは、最後まで消えなかった。

 帰宅して着替えて、化粧を落とす。冷蔵庫から出した麦茶をひと口飲んで、ようやく身体の力が抜けた気がした。そのまま何気なく、テーブルに置いたスマートフォンに視線を落とす。画面にはついさっきまで、会っていたはずの相手の名前。最後に届いているのは『お店まで気をつけて来てくださいね』という丁寧な一文。その下に新しい通知がひとつ。時刻は、22:38——。
 別れてからまだ一時間も経っていない。開くとそこには、一枚の写真。夜の空だ。街灯ににじむ光の中で星がふたつかろうじて写り込んでいる。指を滑らせると��なんでもない�%�常の記録が、静かに並んでいく。もうセーフハウスの中なのか封を開けていないチルドのパスタ。公園のベンチに残った、鳩の足跡。コンビニのスイーツ。それぞれに、短い言葉が添えられている。



ホークス

【写真を送信しました】


ホークス

小腹空いちゃいました


ホークス

このパスタ、初挑戦です


ホークス

【写真を送信しました】


ホークス

これ、鳩の足跡ですかね?


ホークス

帰り道で見つけました


ホークス

名前さん
最近甘いもの食べてます?


ホークス

好きって言ってたプリン
また再販で売ってましたよ


ホークス

【写真を送信しました】


ホークス

コンビニ寄ったらありました!





 どれも、話題にするにはあまりに些細で……。それでも、どれもが確かに、私にだけ向けて差し出されている。
 さっきまで、一緒にいたのに。隣を歩いて同じ夜の空気を吸って。言葉にしないまま同じ距離を保っていたのに。それでも彼は、こうしてまた、距離を埋めるように、何かを送ってくる。近づきすぎないまま、離れすぎないように。そのぎこちない均衡が、あまりにも彼らしかった。
 画面の上で、指が止まる。何も打たない。ただ既読をつける。それだけでいい、と彼は言った。今もそれは継続中なのだろうか。きっと、たぶん今もそれは変わっていないのだろう。だから私は読む。読むことでしか、返せないから。
 そうして最後の一通が手の中のスマートフォンへと、気づかないほどの間を置いて届いた。



ホークス

あったかくして寝てくださいね





 画面を伏せて、ひとつ、息をつく。それでも、どこかでわずかに待っている自分がいる。また、届くかもしれない、と。
 言葉にしないままの想いは音のない夜の中で、気づかないうちに、小さな灯りみたいに、今日も静かに灯っていた。

 目が覚めたのは、いつもよりもほんの少しだけ早い時間帯だった。カーテン越しに差し込む光はまだ淡く、寝汗をうっすらと背中に残したまま、私は、枕元に置いていたスマートフォンへと手を伸ばした。通知を確認してから、アプリを開く。送り主はホークスだ。指先がそこに触れるまでにわずかな間があった。ややあって、開いたトーク画面には新しいメッセージが静かに並んでいた。



ホークス

おはようございます


ホークス

今日の空、
昨日とぜんぜん違いますね


ホークス

【写真を送信しました】


ホークス

このまえ話した唐揚げ屋さん
今夜限定メニュー出すそうです


ホークス

気になっただけです
行きませんけど


ホークス

お仕事、無理なさらずに


ホークス

じゃ、いってきます





 時間は、6:14——
 添付された画像には青と白の混じる朝空。ベランダ越しに見上げたような角度だった。きっと、家を出る直前か、ヒーローの任務に向かう前の、ほんのひと息ついた瞬間に、撮影したのだろう。『おはよう』は、私宛てなのか、単なる習慣的な挨拶なのか。『気になっただけ』と、添えられた一文には、彼なりの距離の取り方が滲んでいる。そして、『いってきます』——その言葉だけが、妙にまっすぐで、ひらがなの柔らかさが、やけに心に残った。
 私は、何も返さない。でも、読む。今朝もただそれだけが、今、私にできる、精一杯だった。
 スマートフォンを伏せると、空気がひとつ肌をなぞった。窓の外の青は、彼の送ってきた写真と同じ色をしている。目の前にある現実と画面越しの気配が重なってしまうと少しだけ苦しくなる。私の知らない場所で彼は今日も��いつも通り�≠�続けている。その事実が、支えのようで心強くもあり、同時に触れられない距離を突きつけてくるようで、切なくもあった。

 仕事の休憩時間。窓際にあるカウンター席で、ひとり、紙コップのコーヒーを手に、ぼんやりと街の喧騒を眺めていた。特に考えごとをしていたわけではない。ただ、ふとした拍子に、無意識のように指先が勝手に、スマートフォンを起動していた。整理したはずの通知の中で、ホーム画面の一角にあるメッセージアプリのアイコンだけが、呼吸をするように脈を打っていた。タップする。既読をつける。そう気づいたのは、すでに、彼のメッセージが開かれてからだった。誤作動でも、誤タップでもない。ただ避けきれなかった。そうとしか言いようがなかった。



ホークス

今日は日差しがすごいですね


ホークス

ベランダの植物、
水あげすぎたかもしれません


ホークス

【写真を送信しました】


ホークス

名前さんは
お昼ちゃんと食べました?





 添付画像には、濡れた植木鉢と少し力を失った葉。なんでもない。本当に、なんでもない風景。けれどそれは、彼が私に『なんでもない』を届けようとしてくれている、確かな証だった。
 何かを期待していたわけじゃない。それでも、既読がついたことを、彼がどう受け取るだろうと思うと急に胸の奥がざわついた。まるで、言葉にしないまま返事をしてしまったような、無防備な頷きを渡してしまったような感覚。
 指先を見つめたまま私は深く息を吐く。たったそれだけのことなのに、自分の心が何歩も進んでしまったように思えて、怖かった。
 返信はしない。まだ以前のようには返せない。それでも、画面を閉じる瞬間、私の胸の中には、彼が打ってくれた『お昼ちゃんと食べました?』という、あまりにも何気ない、優しい一文だけがやけに静かに残っていた。

 その日は仕事がいつもより少し遅くまで伸びてしまい、私は駅に向かう途中の歩道を疲れた足でゆっくりと歩いていた。
 暗くなるのが早くなったな、とか、今日は晩ご飯どうしようか、とか。そんな他愛のない思考に身を預けていたはずなのに、それらは次の瞬間、音もなくほどけていく。目の前に彼がいた。視線が合った、その一瞬で、私は息を呑んだ。
 彼は飛んできたのではなかった。たぶん走ってきたのだろう。肩で息をしていて額にはうっすらと汗がにじんでいる。ヒーローコスチュームではない。見慣れた私服の上に羽織ったジャケットの裾が、夜の風にかすかに揺れていた。

「……ホー、クス……?」

 言葉が音になるまで、心が追いつかなかった。彼は私の名を呼ばなかった。ただ、そのまま息を整えることすらもどかしそうに、言葉を落とす。

「ここ数日、ずっと……福岡、戻ってて」

 途切れがちな声。何かに追いつこうとしているようで、でも、それが何なのか私にはまだ見えていない。

「てか……あの、俺……」
「……」
「……記憶が、戻ったと」

 一呼吸おいて彼はまっすぐ私を見る。その瞳に迷いはなかった。
 時間がわずかに歪んだ気がした。自分の心臓の音だけが、やけに耳にうるさく響いている。彼の言った『記憶が戻った』という、その言葉の指し示すものは確かめるまでもなくひとつしかない。
 胸の奥に小さな波が立つ。それが安堵なのか、混乱なのか、それともまだ言葉にならない名前のつかない何かなのかは、自分でも判別が、つかなかった。

「……いつ?」

 ようやく、それだけを口にする。ホークスは、一度だけ目を伏せて、それから、ほんの少しだけ困ったように笑った。

「さっきです。東京戻って、着いてすぐ」

 夜の風が肩先をすり抜けていく。季節の匂いと混ざりながら、彼の汗の匂いも、香水の残り香もまだ整いきらない呼吸も全部が、現実に思えないほど静かで、手触りを持ってそこにあった。

「剛翼、使いすぎて飛べなかったんで……」
「……」
「……駅の改札、通ろうとしたときでした」

 ホークスの声が、私の背中の奥で少し掠れた。息がまだ少し荒い。走ってきたからか、それとも思い出すことになにか負荷がかかっているのか。
 それでも彼は、続きを話すことを、選んだようだった。

「Suicaの画面、いつもと同じだったんです。で、なんか急に、フラッシュバックみたいに来て」

 記憶の話のはずなのに、どこか夢の断片みたいだった。私はうなずきも、相づちもしなかった。

「それで、あの。俺、思い出せたのかもって……気づいたんですけど」

 微かに笑う気配。けれどそれはすぐに消えた。風が通り抜ける。髪が頬にかかる。それでも私は動かない。まだ、彼を見ない。見れない。

「同時に最初に思ったのが……名前さんの顔で」
「……」
「なにを、どう伝えればいいかわかんなくて……でも。これだけは、言わなきゃって思って——」

 そこで言葉が途切れる。私が何も返さないことに気づいたのだろう。ほんのわずかな間を置いて彼は少しだけ、声の温度を落とした。

「……あの、話せるとこ、行きませんか」

 まるで、ごく普通の提案みたいにそう言った。声は優しく慎重で、真っ直ぐだった。だからこそ私は、静かに背を向けた。

「……話すことなんて、なにもないよ」

 口にしたあと、わずかに、唇が震える。それを誤魔化すように、息を吸い込む。振り返らない。顔を見てしまったら、何かが決壊しそうだった。決壊すれば私はまた同じところに戻ってしまう。そうやって、自分をごまかしてきた時間に、今回だけは、戻りたくなかった。
 私は一歩だけ足を進める。背中越しに、気配が近づく。今度ははっきりとわかる足音。それは、追いすがるようでも、怒っているようでもなく、ただ、逃がさないと決めた人の、音だった。

「……でも、俺は、話したいことがあります」

 その声は、さっきまでとはまるで違っていた。やわらかいのに決して引かない芯があって耳ではなく、胸の奥に届いてくるような声だった。

「こればっかりは、引けんです」

 背を向けたままの私に、きっぱりと言い切る。ああ、と思った。このヒーローはこういうとき、本当に退かないのだ。軽く笑ってやり過ごす事もできるくせに。器用に引き下がる事だってできるくせに。いちばん大事なところだけはどうしようもなく真っ直ぐで、ぶつかってくる。だからこそずるいと思う。

「俺が……記憶、なくしてるあいだ、名前さんがどう過ごしてたか、どんな気持ちでいたか」

 その声が、ほんのわずかに揺れた。言葉を選ぶみたいに、呼吸を整える間が落ちる。

「ほんとは……知らんでいいことかもしれんですけど。それでも聞きたいって思ってしまうくらいには……」

 背中越しに降ってくるその声が、地面にひびを入れるみたいに、足元の感覚を曖昧にしていく。感情のこもった言葉は、ときに暴力に近い。
 たとえそれがどこまでも優しいものであっても逃げ場を奪う。

「名前さんのこと、ずっと俺の中で、大事だったって、思い出したんです」

 それが、最後だった。まっすぐな言葉だった。嘘も飾りもないぶん、それを、受け止めるには、私の中の何かがあまりにも脆すぎた。返事はできない。ただ足元のアスファルトを見つめた。どうしてこの人はこんなにも、揺さぶるのが上手なんだろう。逃げ出したいのに、逃げきれない。もうこれ以上は聞いてはいけない、そう思った。わかっているのに。境界線がもうほとんど、見えなくなっていた。触れたら崩れる。だから私は——。

「……やめて」

 声になって、空気に溶けたとき、自分でも驚くほどかすれていた。喉の奥にずっと詰まっていたものがたった三文字で零れ落ちる。振り返らないまま続きを探そうとした。でももう言葉は残っていなかった。
 その三文字の中にはいくつもの意味が混ざっていた。もう、思い出させないで、も。あのときのまなざしで見ないで、も。私を許さないで、も。そしてきっと、それ以上に私を大切にしないでという、祈りにも近い拒絶。
 ホークスは、何も言わなかった。その沈黙に、少しだけ救われた気がした。今、言い返されたら私はここから動けなくなる。私はゆっくりと足を前に出す。一歩、また一歩と距離をつくる。風が背中の余白をなぞった。その中に彼の気配がまだ微かに混じってる気がして、それに、気づかないふりをして歩き続けた。

「まだ、断片的にしか思い出せないんすよ!」

 思わず足が止まる。ホークスの声はどこか探るような響きを含んでいた。まるで歩き慣れたはずの道を暗闇の中で手探りするように。そしてその先に、私がいると、信じようとしている。

「だから、俺がなにを忘れてるのか。名前さんとどんなふうに……」
「話すことなんてないってば!」

 振り返って発した声は、思っていたよりも強く出た。自分でも驚くほどはっきりと遮っていた。吐き出した瞬間、胸の奥が痛んだ。でもそれでも口を閉じるわけにはいかなかった。彼が望む言葉を、今の私から、与えることはできない。
 数秒の沈黙。そのあと、ホークスが、ぽつりと絞り出すように言った。

「……そんな顔、させるってことは」

 彼の声が私の視線よりも、さらに低いところへ落ちていく。

「俺、……なんかやっぱり、やらかしたってことですよね」

 責める響きはなかった。あくまで、確かめるような、自分に、言い聞かせるみたいな声だった。それなのに、その一言が、まっすぐ刺さる。
 ちがう。ちがうの。そう言えたら、どれだけ、楽だったろう。けれど私は口を開くことも、顔を上げることもできない。どちらかが悪いわけでもないのに、どうしてこんなにも、罪悪感だけが、膨らんでいくのだろう。これはただの��記憶�≠フ話じゃない。思い出してしまえば、もう戻れなくなる。そんな予感だけが、確かにあった。足元に落ちた自分の影が揺れている。そのすぐ目の前にヒーローの影が、重なっている。あのときと同じ距離に戻ってしまいそうで私は、そこから一歩も動けなかった。

「名前さんは……」

 低い声だった。今まででいちばん、抑えた声。沈黙が落ちる。風のせいか、それとも彼の気配が揺れたのか。俯いたままで、私はその空白の音を聞いていた。

「……ずっと一人で、抱え込んでたんですか」

 問いというより、呟きに近かった。それでも、その言葉は私の胸を、真っ直ぐ貫いて、足元から崩れそうになる。一人でという言葉に身体の奥がひりつく。あの日から今日までの時間が、すべてそのひと言に凝縮される。
 誰にも言えなかった事。言いたくなかった事。彼の記憶が戻るかもしれないと怯えながら、戻らないまま消えていくことに、もっと、怯えながら過ごした時間。それでも答えられなかった。肯定することも、否定することもできなかった。
 喉が詰まって呼吸が浅くなる。ただ立っているだけで、全身の神経が軋んでいた。そんな、私の気配を、このヒーローは、感じ取ったのかもしれない。それでも、それ以上、何も言わなかった。けれどその沈黙は優しくなんてなかった。むしろ今まででいちばん、きつかった。

「……俺は、何をしたんですか」

 しんとした空気に、彼の声だけが沈んで落ちていく。それは、答えを引き出そうとしている問いではない。ただ、そこに残ってしまった空白を、埋めようとする声だった。静まり返った空気の中で、それだけがはっきりと響く。目を伏せたまま私は、息を止めた。
 彼はまだ思い出している途中なのだ。断片だけが戻ってきて、そのあいだの時間が、ぽっかりと抜け落ちている。だから、埋めようとしている。自分の言葉で。自分の手で。そして、その空白の中に私がどんな顔をして何を隠して、どうやって彼のそばにいたのかを。

「俺は……名前さんに、何を言ったんです?」

 語尾がわずかに掠れる。喉の奥で言葉が引っかかる音。それが彼の戸惑いを、そのまま、表している。私は、まだ答えられなかった。あなたは、私に触れそうで触れなくて。あなたは私を忘れたまま、それでも、やさしさだけは置いていって。名前も過去も知らないのに、何度もこうして私の前に現れて……。
 あなたは、記憶のないまま、私を守ろうとしてくれていた。それを、今のあなたに言葉で渡してしまったら——。思い出すより、知らないままのほうがよかったと思わせてしまいそうで。だから私は、沈黙を選んだ。言葉ではなく、ただ、立ち尽くすことでしか、今は何も返せなかった。
 ホークスがもう一歩、こちらに近づいた。その足音がゆっくりと、胸の奥に迫ってくるようで、私は息を詰めたまま、動けなかった。

「……思い出さなくていい」

 声に出すつもりはなかった。なのに、喉の奥に澱のように溜まっていたものが、ついにこぼれてしまった。風に乗ったそのひとことは、自分の声とは思えないほど小さくて、冷たかった。
 思い出さなくていい。なかったことにして——わたしがあの時間を、どう乗り越えたかなんて。あなたが何を、忘れていたかなんて。知らなくていい。知られたくなかった。そっと背をむけて、目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、すべてを思い出したあとの彼の瞳だった。すべてを思い出したあとで私を見た時の、あのまっすぐすぎる視線。
 けれど、彼は止まらなかった。遠慮するようにそれでも確実にもう一歩だけ距離を詰めてくる。その足音が、私の中の防波堤を、少しずつ削っていく。

「でも。俺にとっては、大事だったってことしかわからないんです」

 低く、落ち着いた声。それでも、逃げ場を残さない響きだった。喉の奥に引っかかっていたものが、その声に共鳴して震える。優しさの形をしているのに、どこまでも誠実で。だからこそ、残酷だった。

「だから、お願いです……教えてほしい」

 その言葉だけは、本当に、聞きたくなかった。私が、どんな顔をしていたのか。彼に求められたような気がして、けれど、現実には、違う形だったことに、泣きたくなった日があったこと。
 手を伸ばせば届きそうな距離にいながら、彼が何もなかった顔で微笑んだこと。それらすべてを彼自身に、教えなければならないなんて。そんな残酷な話、あるだろうか。胸がいっぱいで、何も言えなかった。ただ、ただ、痛かった。

「……もう、いいでしょ」

 ようやく出た声は掠れていて、喉の奥が焼けるように痛い。言い切る前から目の奥が熱を帯びていた。堪えていたものが言葉と一緒にこぼれそうになって、それでもぎりぎりで、押しとどめる。泣きたくなんかない。今、この場でだけは。

「終わったことなのに……」

 震える唇でなんとか言葉を繋ぐ。終わったこと。本当にそう思いたかった。ホークスが記憶を失って、私がその間を全部ひとりで通り抜けて、ようやく今、何かを始める手前で私たちは並んで立っているはずだったのに。けれど何かを始めるには、あまりにも記憶は鋭すぎて、傷のように、疼いていて、思い出されるだけで胸が裂けそうになる。それなのに——。

「終わらせたくないから、ここにいるんです」

 彼は、ひどくまっすぐに言った。私の背に向かって投げるのではなく、まるで願い事を差し出すみたいに。その言葉に、私はまた、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
 なぜこのヒーローはこうしていつもぎりぎりのところで、引き戻してくるのだろう。

「終わったことじゃないって俺は思ってますよ。たとえ、記憶がなかったとしても」

 間を置いて言葉が重なる。まるで一つひとつが触れられない傷口を、やさしくなぞっていくようだった。

「名前さんにとっては、終わらせなきゃいけなかったのかもしれない。でも、俺は」

 言いかけて、ホークスの声が一瞬だけ詰まる。

「……あの時間の中に、自分の気持ちがあったんだって、知っちゃったんで」

 逃げ場がなくなる。押し込めていた感情たちが彼の言葉を皮切りに、小さく小さく、暴れ始めていた。
 終わったことにしていたのは、私の方だった。でもそれは、彼のためなんかじゃなくて、自分を守るためだったと、今さら突きつけられている。

「……個性事故の詳細、教えましょうか?」

 不意に切り出された声には、決して驚かせようとか、何かを断罪しようとする気配はなかった。ただ、あくまで淡々と、それでいてどこか自分の中でも、整理しきれていないような、不器用さを含んでいた。

「いちばん大切にしたい者にだけ——本性が出てしまうっていう、個性です」

 私は思わず息を呑んだ。ひくり、と、喉の奥が鳴る。でも、何かを問い返すことはしなかった。

「幼児にはありがちな、まだ未完成の個性らしいです」
「……」
「自分の��欲�≠ェ制御できなくて、そのぶん潜在的に、強く出る」

 そう言ったときの彼の声は、どこか遠い何かに語りかけているようでもあった。それが、どの、場面を指しているのか。何を、含んでいるのか。私には確かめる勇気がなかった。自分が知りたいと願っていたことのようでいて同時に、知りたくなかった部分にも、触れている気がしたからだ。

「元々は……感情を操れる、危険な個性でもあるみたいで」

 言葉を切って、彼は一度、小さく息を吸った。夜の空気の中に、わずかに、風が通る。枝の先で揺れた木の葉が、どこか遠慮がちに、すれ違った音を立てていた。

「事故のとき、その子……自分でも制御できないまま周囲の人間に作用してたらしくて。対象者は一人だけ、強く——」

 言いながら彼が、曖昧な表情を浮かべていると気配で感じ取った。それは誰の顔を思い浮かべていたのか。私なのか、それとも。確かめなくてもわかってしまう気がした。

「正確な範囲や、なぜその人たちだけが、個性にかかったのかは、公安でも特定できてないです」
「……」
「でも、一過性。事故後、解除されて今はもう」

 「ない」と、続いたその言葉は、まるで何かが通り過ぎたあとにだけ残る風のように軽かった。それなのに私の中では、何かが静かに落ちていく音がした。それが安堵なのか後悔なのかは、よくわからない。

「俺が、それに、まんまと当てられたんですよ」

 自嘲するような口調で言ったそれは、怒りでも悔しさでもなく、どこか、呆れているような——それでいて自分自身にだけ向けられた刃のような響きを持っていた。私は静かに振り返って言葉を失ったまま、彼を見つめていた。
 ホークスは、わずかに間を置いてから少しだけ声を落とすようにして、続けた。

「個性事故のあと、解除に至るまで俺が接触したのは……」
「……」
「名前さん……あなた、だけです」

 その事実は、私の身体を中から鈍く締めつけるようだった。皮肉のようでもあり運命のいたずらのようでもあり、けれど、彼は何一つ誤魔化さなかった。まるで、��証拠�≠フように差し出されたその一言。それが、これまでのあらゆる不可解と温度と、乱れた呼吸と、逸らした視線のすべてを説明してしまう気がして私は思わず目を伏せた。彼はそれ以上何も言わなかった。静かにその場に立っているだけ。何も求めず。ただ、自分の中にあるものを、そのまま受け止めるみたいに。

「そっか……」

 目の奥がきしむように痛んだが、私は努めて、軽い声を作った。その痛みには、もう慣れていたつもりだった。けれど、慣れたふりが通用しない瞬間というのは、いつも唐突にやってくる。

「なら、よかった。私とは、何もなかったよ?」

 私は言いながら目を合わせないように、視線を逸らす。まるで、なんでもない確認事項みたいに事務的な口調で、それだけを言って、この話を、終わらせようとした。過去形。肯定の皮を被った否定。自分自身に向けた最後通牒。そのどれでもあり、どれでもない言葉だった。
 ホークスはすぐには何も返さない。声が届いていなかったのかと思うほどに静かだったが、ふと彼の視線が私の頬を貫いているのを感じた。熱をもって冷静に。ひとつ呼吸が空気の重さに沈む。
 私たちは確かに、あの時間を共有した。けれど記憶がなければ、それは��無かったこと�≠ノなるのだとそう思いたかった。いや思い込まなければ私はこの関係に区切りをつけられなかった。胸の内側で叫んでいる何かを、押し潰すようにして、また背を向け足を踏み出す。もうここまで。もう終わり。心の中でそう呟いた音が、靴音に紛れて消えていく。もう、どこにも残らない。

「それ、真実ですか?」

 その言葉は、すぐに追ってきたわけではない。それでも逃げるように歩いていた私の背に、彼の声は寸分の狂いもなく追いついた。
 逃げ切れなかった。振り返らない。振り返れない。呼吸を潜めたまま、足だけが止まる。遅れて心臓がひとつ大きく脈を打った。ホークスの声は低かった。穏やかだったのに、その低さだけが、妙に鋭くて、肺の奥をなぞるように深く刺さる。責めているわけじゃない。懇願でもない。ただ、事実を確かめようとしているだけだ。私の言ったことがただの強がりだったこと。自己防衛だったこと。そして、そうせざるを得ないほどあの夜が私にとって大きかったこと。全部このヒーローはわかっているのだと思った。

 目を閉じて、言葉を飲み込む。いま息を吸ってしまえば、肺に入りきらない感情が声になる気がして。声になってしまえば、もう後戻りできない気がして。耳の奥で、血の音がする。ふと、風が吹いて髪が頬をかすめた。——あの夜、彼の指が触れた場所と同じところだった。その感触だけが私の背を押すように疼いていた。わかっていた。いま、この場で振り返ってしまえば、何もかもが崩れてしまうことを。だから、崩れる前に、全部終わらせる顔をした。それができるのは、私しかいないと思っていた。この人は優しすぎるから。このヒーローには、できないことだから。

「もういいってば。もう、終わったことなの」

 声が震えないように唇を噛んでから放つ。喉に滲んだものは、そのまま押し込んだ。背を向けたまま、また歩き出す。頬を伝う前に涙が風に紛れてくれることを、願いながら。それなのに——。

「……なんで、そんなこと言うんですか」

 背後から、すぐに届く声。すべての音が剥がれ落ちていく。遠くで吠える犬の声も踏切の警報もすべて遠ざかっていく。世界の中で彼の声だけがすぐ背後で濃く、鳴っていた。

「終わらせたくないから、ここにいるんですよ」

 足が止まる。けれど、顔は向けない。心臓が、張り裂けるみたいに音を立てている。

「なのに、さ。どうして、名前さんは……そんなふうに……」

 言葉が続かない。感情に、追いついていない。それでも彼は、私のすぐ後ろまで来ていた。

「何で、なかったことにしようとするんですか」

 声が近かった。すぐ後ろ。気配が、熱を帯びていて、触れていないのに温度が伝わる距離。少しでも動けば触れてしまいそうだった。それなのに私は、振り返れない。泣いてしまいそうだった。

「ねえ……話してくれません?俺、ちゃんと聞きたいんですよ。知りたいんです」

 お願い、やめて。そんなふうに、優しい声で、言わないで。正しい距離で、近づいてこないで。

「このままじゃ、ヒーローなんか続けられん」
「……」
「俺、こんな気持ちになるくらいなら、忘れてるままのほうが、よかったんですかね?」

 その一言に、縋るような湿り気が混じる。振り返れないままでいる私の背中に、何度も何度も、ぶつかってくる。それでも私はその全てを堪えて堪えて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
 それでも彼は引き下がらなかった。問いを変え声の温度を変え言い方を変えながら、必死に私の本心に触れようとしていた。どこまでも優しく、どこまでも真剣に。
 彼が本当に大切に思ってくれていることなんてもうとっくに、わかっている。わかっているからこそ、言えない。

「名前さんが苦しんでること、知らんふりなんてできないです」

 その言葉に、胸がぎゅっと、締めつけられた。苦しんでいたのは私じゃない。あなたの方こそ、ずっと——ああ、だめだ。言葉にならない。

「お願いです。教えてください。何があったのか俺に、何ができたのか、全部——」

 まるで刃のように突き刺さる。私は黙って唇を噛んだ。喉元まで上がっていた感情が波のように脈打つのを、どうにか飲み込む。彼が、私の前に回り込む。逃げ道が、完全に塞がれた。見上げたヒーローの目には、涙さえ浮かべていなかった。ただ、まっすぐで。ただ、真剣で。ただ必死で。それが一番、つらかった。
 私は静かに息を吸い込んだ。夜風がほんの少し強く、吹いた気がした。街灯の下、揺れた影が、ふたりのあいだに線を引く。踏み越えたら二度と戻れない境界線を——。

「全部言ったら、もう��親友�≠カゃなくなるよ」

 言いながら、胸の奥で、何かが軋むような音がした。それはかつて彼が私に言った言葉だった。あのとき彼はふざけてなんかいなかった。真顔で少し悔しそうに、それでも確かに、そう言った。私はそれを、笑ってごまかした。でも、本当は、嬉しくて、どうしようもなかったのに。
 その記憶を、いま自分の口でなぞる。彼の目が見開かれるのがわかった。それでも私はもう彼の顔を、見なかった。足を踏み出す。一歩、そしてもう一歩。背を向けたまま、振り返らなかった。その瞬間、たぶん私は、私たちの��親友�≠ニいう言葉の意味を、永遠に壊したのだと思う。
 夜気が肌を刺す。冷えた空気の中を歩いているのに、額にはうっすらと汗を感じていた。心臓の高鳴りが、なかなか引かない。耳の奥でずっと、先の彼の声がこだまのように繰り返されている。

 歩道脇の街路樹は、ほとんど、枝だけになっていて、秋が去ったあとにぽつりと残されたような黄葉が、コンクリートにへばりついていた。その一枚だけが風に持ち上げられる。行き先もなく、どこにも届かず、ただ転がされて灯りの届かないところへ消えていった。ビルの谷間を抜けた風が首元に吹き込み、肩をすくめる。ヒーローたちが駆け回るこの街の片隅に誰にも知られず、誰にも気づかれず私は今、立ち尽くしている。引き返すことも、歩み続けることも、どちらにも、意味を持たせたくなくて、ただ、宙に浮いたままの心を抱えて。

『全部言ったら、もう��親友�≠カゃなくなるよ』

 それは彼の声であり、同時に、私の声だった。どちらのものともつかない響きで、内側を叩いてくる。砕けてしまいそうな言葉を、私は、自分の唇で殺した。

 彼の誕生日まで、あと数週間。そんなことを、ふいに思い出してしまった自分が、いやだった。その日を何の感情もなくやり過ごす自信がない。祝う顔も言葉も、もうきっと、持っていけない。
 「触りたい」と言って私を見つめていた顔が、頭の奥でちらついている。そのときの私の声が、体温が彼の中からまるごと消えてしまった記憶。残っているのは私だけ。街の灯りが滲むほど目に溜めていた涙をようやく拭う。指先がかじかんで頬に触れた自分の手にさえどこか、他人のもののような感触を覚えた。

『終わらせたくないから、ここにいるんです』

 あの言葉もまた冷えた夜気の中で、凍りついたまま、心に残っていた。どうしてこんなに、まっすぐなんだろう。どうしてそんなに、間違えずに私の一番痛いところを見つけてしまうんだろう。
 それでも……。それでも私は、背を向けるしかなかった。その理由を自分自身にさえ、説明できないまま——。


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