大人は週に、十四回も「大丈夫」と、口にするらしい。けれどその言葉が本当に意味を持つのはごくわずかだとも言われている。数にして五回に一回未満くらいだろうか。残りはたいてい都合のいい強がりか、その場をやり過ごすための合図にすぎない。
 問題を見ないふりで通り過ぎることは簡単だ。けれど、ときには「変だ」と認めるほうがよほど勇気のいる選択になる。順調だと信じ込むことで均衡を保っているだけなら、いずれその歪みは、どこかで露わになる。必ずしっぺ返しを食らう。
 そのとき、間に合うかどうかは、たぶん、運に近い。だから、祈ったほうがいい。「運が味方に付きますように」と。しかしそれをできない私は今日も、同じように言うのだ。——大丈夫、と。

 *

 彼のセーフハウスに訪れた日から、ちょうど、一週間ほど経ったころだった。カウンター越しに彼の姿を認めた瞬間、反射的に「また壊したのだろうか」と思ってしまったのはほとんど職業病に近い。手元の作業を止めることなく、意識だけをそちらへ向ける。けれど彼の手にあるのはスマホではなかった。小ぶりな紙の箱。白地に、水色のリボン。見覚えのある洋菓子店のロゴが、そこにあった。私が前に、「ここのケーキが好き」だと話したのは、いつだったろう。たぶん、いつかの夜の居酒屋だったか、それとも、二次会の延長で彼の部屋にいたときか。もしくは、私の部屋。
 いずれも、曖昧なまま沈んでいた会話の断片をこのヒーローは拾い上げて、こうして、形にしてしまうのだ。

「お疲れさまでーす」
「お疲れ様です。どうしましたか……端末、また壊しました?」

 できるだけ温度を削いで、事務的に問う。彼の前に立つときは、いつもより少しだけ、声を意識する必要があった。

「いえ、壊れてないです」
「……」
「はい、これ。差し入れです」

 変わらず丁寧な返答と合わせて、カウンターの上に置かれる紙箱。けれども、その呼吸の位置がほんのわずかに揺れている気がした。私はそれに気付かぬふりをして視線を上げず目の前の紙箱に焦点を合わせたまま、小さく頷いた。

「じゃあ……何か、用ですか?」
「名前さんが、連絡返してくれないんで」

 返せるわけがなかった。私の中には記憶と記録の境界に、ぽっかりと空いた空白があり、そこにいちばん大切な温度が沈んでいる。彼はそれを、覚えていない。そのことを責めるつもりはなかった。けれど、なかったこととして扱えるほど私は器用でも、強くもなかった。

「忙しかったので。ヒーローだって、連絡頻繁に返せないときもあるでしょう。それと同じです」
「はい。でも——」

 言いかけて、彼は一歩だけ距離を詰める。カウンター越しににじむように。それから、低い声でほんの短い問いを落とした。

「……なんで、徹底したように敬語なんです?」

 指先がわずかに震えた。それでも私は顔を上げなかった。彼の目を見るのが、怖かった。そこに��なかったこと�≠ェ宿っていないか、それを確かめてしまいそうだったから。それが、自分だけの記憶だと改めて知ってしまったら、私はきっと、もう前を向けなくなる。

「なんか……久しぶりですね。名前さんがこんな感じなの。俺が一方的に押してるみたいで」

 軽く笑う気配。けれどその笑いはどこか空回りしている。私は、キーボードに指を置いたまま、何も打たない。視線だけが、仕事のふりをする。

「いや、ほんとに壊れてないんですよ、スマホ。逆に、ここに持ってくる理由がなくなって、どうしようかなぁ〜と思って……」

 それで、この紙箱を持ってきたのか、と合点がいく。彼の見た目は、軽口の形をしているのに、それを話す口調はいつもより少しだけゆっくりで慎重だった。

「てか、あれですねー。あそこのケーキ屋さん。開店待ちしてる人、俺だけでした。早く行きすぎたんすかねぇ」
「……」
「ああいうのヒーローやってて一番、恥ずかしい瞬間かもしんないっすね。なんか通行人とかにも二度見されちゃってさ」

 私はまだ視線を上げない。一貫してパソコンに指を置いている。無意識に指先に軽く力が入り、キーボードが、かすかに鳴る。押していないのになぜか音だけが出るのだ。

「でも、ほらぁ、前に言ってたじゃないですか。あそこのショートケーキ甘すぎなくていいって」
「……」
「あのとき俺、聞いてるふり、してなかったかもしれないですけど、ちゃんと覚えてましたから」

 話しながら、彼はきっと笑っているのだろうと分かる声色だった。だけどその笑いが、どこか、遠く聞こえた。彼自身にも、届いていないような気がした。私はその声の中にあるものを拾わないようにする。拾ってしまえば、もう戻れない。

「名前さん、さ……なんかあったんなら、言ってほしいんですけど」

 短い沈黙。彼が、呼吸を整える音だけが届く。それから、言葉を選ぶような、わずかな間。

「それか、ほんとになんもないなら、なんもないって言ってくれたら、それでよくて」
「……」
「勝手な俺の空回りだったら……それはそれで、安心しますし」

 私は言葉を飲んだ。何も言えなかった。それは空回りじゃないよ、と言えば、問いを返すことになる。あなたは覚えていないでしょう——?と。その一言を、どうしても口にできなかった。

「……なんで、目、見てくれないんですか」

 とうとう、その言葉が落ちた。小さく、それでいて、逃げ場を残さない声音で。その瞬間、胸の内側に溜めていたものの重さを、はっきりと自覚する。

「……ちょっと当分、会いたくない」

 堰が切れるみたいに言葉がこぼれた。自分でも驚くほど唐突で、取り繕いのない声だった。
 空気が止まる。ホークスが、何かを言いかけた気配が、その場で途切れた。

「端末も、もしまた壊れたら……他の担当者に、頼んでほしい」
「え、ちょ、ちょっと待ってください。なんで」
「……」
「やっぱ俺、なんかしました? してますよね、確実にその感じは」
「……」
「いや、したなら言ってほしいし、直せるなら、直すし……ていうか、直します。え、言って?」

 言葉が早くなる。焦りを隠さないいつもの彼のままの調子。なのに、その��いつも�≠ェ、どうしようもなく遠く感じられる。私は俯いたまま何も返せない。視界が滲んで、カウンターの縁もパソコンの画面も形を保てなくなる。溜め込んでいたものがようやく限界を越えたのだと、遅れて理解する。

「名前さん……お願いです。黙ってないで、何か、言ってください」

 名前を呼ばれる。それだけでまた逃げ場がなくなる。私は、ゆっくりと顔を上げた。その瞬間、ようやく彼と目が合う。ホークスの動きが完全に止まる。見開かれた目。理解が追いつかないままの、まっすぐな困惑。その視線の先にいる私は、きっとひどい顔をしていた。瞼いっぱいに溜めた水を、どうにかこぼさないようにしているだけの顔で。彼は、何も言わなかった。さっきまであれほど言葉を重ねていた人が、ただ、黙っている。その沈黙が、いちばん堪えた。胸に刺さる。怒られるより、問い詰められるより、ずっと苦しい。

「……ごめんね。」

 ようやく、それだけが出た。謝りたいわけじゃなかった。ただ、何か言わなければ崩れてしまいそうだった。
 彼が一歩、こちらに踏み出しかけて、止まる。触れていいのか触れてはいけないのかその判断ができないまま、立ち尽くしているのがわかる。
 カウンターの板が私たちのあいだにはっきりとした線を引いていた。私はその様子から、視線を外す。これ以上は、見ていられなかったから。

「……今は、無理なの」

 声はずいぶん小さかったけれど、自分でも驚くほど不思議と、揺れはなかった。

「優しくされるのも普通に話すのも……ちょっと当分は」

 言い切った瞬間、胸の奥がきしむ。それでも、もう引き返せなかった。彼は、唇を開きかけて、閉じる。何かを言おうとして言えないまま、ただこちらを見ている。そこにあるのは怒りではなく困惑と心配とほんのわずかな恐れだけが浮かんでいる。
 それでいい、と、思う。今はそれがいい。私は息を整えて涙をこぼさないように、もう一度だけ視線を落とした。この距離を自分で選ばなければいけない。そうでなければきっと後悔する。彼はその場に立ったまま、私が背を向けるのをじっと見ている。それだけで胸がいっぱいになる。追いすがる気配はない。けれどほんの一拍ほど遅れて癖のある声だけが、背中を追ってきた。

「……メッセージ、送っていいですか」

 振り向けなかった。代わりに思考だけが、一瞬止まる。

「返さなくていいです。……見てくれるだけで、既読だけで、いいんで」

 強制的な声ではなかった。ただ息が引っかかるような言い方で、それでも必死に言葉を切らずに続けようとする音だった。

「その日の、なんでもない出来事とかさ……今日見た空とか、街路樹とかコンビニの新商品とか。どうでもいいやつ、送ります」

 私はうつむいたまま、書類を持つ手を止めた。その場に置くこともしまうこともできずに、ただ背後から届く音だけを聞いていた。

「気が向いたら、ほんのちょっとだけ見てくれるだけでいいんで……それが、俺には充分で」

 その声がどれだけ本気なのか、測ることはできない。たぶん彼自身も、自分の必死さに気づいていない。ただ何かを失いたくなくて言葉でつなぎ止めている。

「ちゃんと、距離は守ります。催促もしません。だから、ブロックだけは、しないでほしいです」

 冗談めいた口調に、切り替えたつもりなのかもしれないけれど、その声の奥にある湿度だけは、隠せていなかった。

「名前さんに、見てほしいんですよ。俺が、生きてるってこと……今も、ちゃんと毎日、あなたと同じ世界を、見てるってこと」

 その一言で、足元が揺らぐ。胸の奥に溜まったものがまた、静かに波立つ。何も言えないまま、私は書類をそっと置いた。彼がその場を立ち去る音がする。その動作が、やけに、重たく感じた。振り返らない。
 けれど、彼が最後に一度だけこちらを見た気配だけが、はっきりとわかった。たとえ連絡が届いても、すぐには開けないかもしれない。それでもきっと、消すことはできないだろう。そんな予感だけを抱えたまま、私は静かに息を吐いた。


 *


 あの日以降、スマートフォンの通知が鳴るたび私は画面に手を伸ばした。確認して、小さく息をついてそれから何事もなかったようにポケットへ戻す。既読はつけない。つけないまま、でも削除することもできなかった。
 名前の下に並ぶ吹き出しのいくつかは、日付が変わっても開かれないまま、ただ、そこに存在し続けていた。最初に届いたのは、青い空の、写真だったと思う。白い雲が、ゆっくりと流れているだけの、どこにでもある昼の空。



ホークス

今日はやけに遠くまで
飛びたくなったんですよね





 短い文章。写真の下に、それだけが添えられていた。
 次の日は確か夕焼け。ビルの隙間に沈みかけた光がオレンジから紫へと移り変わる、その途中。



ホークス

名前さん
この色好きだったっけ





 そんな独り言みたいな言葉。好きだと口にした覚えはなかった。でも、もしかしたら、そういう顔をしていた瞬間が、どこかにあったのかもしれない。
 また別の日は、コンビニのレジ袋と一緒に写る限定ハンバーグと、たっぷりタルタルの、チキン南蛮弁当。



ホークス

選べなかったんで
両方買いました


ホークス

どっちも一人で食べます





 その文字の数より、写真の沈黙のほうが多くを語っている気がした。
 深夜には、月。寝付けなかったのか、夜の空に浮かぶ欠けた月と、彼の足元に映る、街灯の影。そのときは、何も書かれていなかった。ただ写真だけが送られてきた。とても、静かだった。週末には珍しく非番だったのか真っ白いコンバースと歩道に咲いた、小さな花の写真。



ホークス

たぶん雑草ですけど
意外とかわいくないですか





 語尾だけが、どうにか明るさを、保とうとしている。私はひとつも返信しなかった。でも開かなかったわけではなかった。通知が届くたび、胸の奥がざわついた。張っていた薄い膜のような感情が、そのたびにわずかに振動するのがわかった。
 そのあとも、既読をつけた日もあれば、未読のままで、眠ってしまった夜もある。それでもホークスはそれを責めなかった。催促もしなければ、理由も求めない。何も要求しないままで、自分で宣言した通りに、��どうでもいいこと�≠セけを、送り続けてくる。まるで宛先のない日記を、どこかへと投げているみたいに。
 それでもその行き先が、私であることだけは、はっきりと、わかっていた。


 *


 手の中のスマートフォンには数日ぶりに既読のついたメッセージが、整然と並んでいた。
 高い空、コンビニの袋、湿ったアスファルト。どれも取るに足らない断片なのにその一枚一枚にどうしようもなくあたたかなものが滲んでいる。
 指先でゆっくりとスクロールしていると画面の上部に不意に、通知が現れた。着信だ。反射的に触れた場所が、『応答』だったと気づいたのは、通話が繋がる音が、耳に届いてからだった。
 うっかり。まさに、それだった。切る間も言い訳を用意する余裕もなく、すぐに、向こうの声が流れ込んでくる。

『……えっ、名前さん?』

 一瞬、ほんのわずかに、声が弾んだ気がした。けれどすぐに取り繕うような調子で、ペラペラと言葉が重なり始める。

『あ、あの……えっと。出てくれて、ありがとうございます』
「……」
『あー......なんかすみません、急に。今、大丈夫でしたか?』

 言葉が止まらない。私は、何も答えなかった。ただ、スマホを耳にあてたまま沈黙の中にいた。

『……あの、既読、ついてたんで。見てくれたのかなって。それがちょっと嬉しくて……いやでも電話は、やりすぎですよね。すみません』

 かすかに笑う気配が耳を掠める。けれどそれはどこか、自嘲に近い響きだった。

『今日の空、やたらと高くてですね。青くてさ、あ、これ見せたいなぁ〜って思って、送ったんですけど。で、あとで見返してたら、名前さんの既読ついてて……』

 ぽつぽつと言葉がこぼれてくる。私はスマホを持つ手を少しだけ握り直した。音を立ててしまわないように、静かに。

『それでなんか……声、聞きたいなって思って。でも、無理にって、わけじゃなくて。ほんとに、出なかったらそのままでいいかなって思ってたんですけど』

 彼はどうしてこんなにも多くを語るのだろう。何も言わない相手に向かって、どうしてこれほど熱量を注げるのだろう。その不思議に触れながら私はまだ、言葉を出せずにいた。

『あの……声、聞けてよかったです。出てくれてありがとうございます。ほんとに』

 しばらく沈黙が続いた。今なら切ってしまっても、いいはずなのに。彼はきっと怒らない。それでも私は��終話�≠フ文字に指を動かせなかった。

『……返事、いらないんで。ただ、ひとつだけ』
「……」
『今、元気ですか……?』

 問いかけだけがまっすぐに届いた。私はそっと目を閉じる。答えられなかった。元気でも、元気じゃなくても。

『……会いたいです。嘘じゃなくて、ほんとに』
「……」
『会えなくてもいいから、ただそう思ってるってことだけ、伝えたくて』

 そこまで言うと、彼は、ふっと息を吐くような音を立てた。その音が無意識の内に安心を運んでくる。

『……切りますね。しつこいのはよくないんで。すみません、こんな時間に。おやすみなさい』

 そこで通話は途切れた。画面が暗くなりそこに自分の顔だけがぼんやりと映る。返事はひとつもしなかったはずなのに、耳の奥には、彼の声が、あたたかく残っていた。その中には、哀しさも、願いも優しさも、すべて混ざっていて。どうしてそれがこんなにも痛いのか、まだうまく説明できなかった。

 夜が深くなってから、私はもう一度、スマートフォンを手に取った。
 通知は来ていない。けれど内側ではずっと鳴り続けているものがあった。彼の声の残響が、耳の奥に残ったまま消えずにいる。数時間前に一方的に受け取った、あの柔らかな音。それがまだ体温みたいに、じんわりと残っていた。履歴を辿る。先の名前に指先でそっと触れる。ほんのわずかな逡巡のあと、電話のアイコンを押した。留守電に切り替わって欲しいと祈りながら呼び出し音は、一度きりで途切れた。

『……名前さん?』

 思っていたよりもずっと早く繋がる。その声があまりにも嬉しそうで優しくて喉の奥がきゅっと塞がる。口を開こうとしても、呼吸がうまく整わない。言いたいことは確かにあったはずなのに、胸の奥に押し込めてきた感情が先に溢れてきて、言葉の道をすべて、塞いでしまう。

「あの……ね……」

 やっと、それだけを押し出した。そこで、もう限界だった。涙が溢れそうになって、声が、震えそうになって、慌てて口を閉じる。息を飲む音を拾われたのだと思う。相手が、その気配にすぐに気づいた。

『あ、うん……大丈夫です。無理しなくて、いいですよ。俺が、話すんで』

 それは、慰めでも励ましでもなかった。ただ、「わかってる」と受け止めるような、静かな温度だった。

『今日、昼間はめちゃくちゃ晴れてたのに、夕方ちょっとだけ雨降ったんですよ。知ってました?通り雨ってやつすね』

 ゆっくりと、何でもない話が始まる。私は耳にスマートフォンを当てたままこくんとも動かずにそれを聞いていた。

『傘持ってなくてさぁ。普通に濡れて、ちょっとイラッとしたんですけど。でも歩きながら見たら雲の切れ間から光がさしてて。あー、見せたいなって思って。一応、写真は撮りました』

 軽く、笑う気配。また、涙が滲む。理由なんてわからないままただ静かに。本当に薄情者だなと自分で自分に呆れる。それでも、声帯が塞がれたみたいにして、声は出せなかった。

『あと、コンビニ!あのハンバーグ、また見かけたんですよー。名前さん、好きって言ってましたよね? あのときの話、覚えてます?』

 少しだけ、電話の向こう側の声が、弾んだ気がした。その問いかけにほんの少しだけ唇を噛む。覚えていたのは私だけじゃなかった。彼も、ちゃんと、覚えていたのだ。

『で、ついでにスイーツのコーナーも見たんですけど。あれさ、なんであんなにプリン多いんですかね?種類多すぎて、絶対選ばせる気ないでしょって思いました』

 くすりと笑うような音。けれどその声はどこか寂しさに縁どられていた。
 まるで、どこかで決まった時間に流れている、ラジオみたいだなと思った。こちらの反応は一切求めず、それでも確かに誰かに向けて、語られている声。

『名前さんの声が聞けて、嬉しかったです。たぶんちゃんと話せるようになるの、まだ、時間かかるかもしれないって思ってたんで』

 気づけば、私は泣いていた。けれど、声は出ていない。ただ静かに頬を伝う涙の感触と耳に残る彼の声だけが、今の世界のすべてになっていた。

『だから今は、それだけでいいです。かけてくれてほんとに、ありがとうございました』

 その一言が、どれほど私を救ったのか。きっとあのヒーローは知らないままだろう。私は言葉の代わりに、ただ小さく頷いた。涙が音を立てずに頬に落ちる。

『じゃあ、また……』

 その調子で相手が、通話を終えようとしているのがわかった。いつものように、静かに、無理のない距離を保ったままそっと引こうとしている。けれど、その一言で終わってしまうことが、どうしても、耐えられなかった。

「……待って」

 気づいたときには、声になっていた。自分でも意識しないまま唇が動いていた。掠れた声。それでも確かに、その一言だけが、受話器の向こうへ届く。短い沈黙が落ちる。そして——

『……はい』

 短くそれだけ。その一音に全身が温かいもので包まれるような気がした。
 言いたいことは、たくさんあったはずだった。怒りも、寂しさも、ずっと言えずにいた言葉も。でも、いざこの『待って』の先に何かを乗せようとすると、喉の奥で全部が絡まって、何ひとつとして出てこなかった。

『あの……震えて、ます?』
「……、」
『なんかあったんですか?誰かに、嫌なことでもされたんじゃ……』
「……」
『いや……それはさすがに詮索しすぎか。すみません。でも、そんなやついたら、普通に許さないですけどね。そうだ、殺しましょうか?そいつ』

 淡々と言う。その相手が自分かもしれないとも知らずに。
 この人はどこまで真っ直ぐなのだろう。きっとその対象が自分と知ったとき、このヒーローは、本気で自分のことを殺すのだろう。

『大丈夫ですよ。言葉にしなくても。ちゃんと、届いてますから』

 そう告げる彼の声は思いのほか穏やかで深くて優しい音だった。私が呼び止めたことで、何かを期待したり問い詰めたりはしない。ただ、そこにいることに応えようとする声音。言葉を探すより先に、また涙が頬を伝う。

『……あのさ、今日ちょっと、いいことあったんですよ』

 突如また始まる、取り留めのない話。私は何も言わず、ただその声だけを聞いていた。

『ばあちゃん、助けたんす。信号でさ、ちょっとふらついてて、危なそうだったんで走ってって』
「……」
『……まあ、ヒーローっぽい話なんですけど』

 少しだけ、息を弾ませるような笑い。涙が出ていても、声は出ていなかったから、たぶん彼には伝わらない。

『でも、なんか違うんですよねー。飛ばずに間に合ったのが、妙に嬉しくてさぁ』

 その言い方がどこか子どもみたいで。喉の奥で小さく笑いそうになる。けれども、やっぱりまだ声にはならない。

『そのあと近くのカフェ入って。ホット頼んだら砂糖、アリでしたよね?って、先に聞かれて……ああいうのも、なんか、いいなって思って』

 相変わらずの調子。ゆるくて、少しずれていてそれでも、誰かに向けて差し出されている言葉。

『昨日はね、空が、またちょっと違っててさぁ』

 『また』という言葉に、胸がかすかに揺れる。そこには、自分が含まれているような気がして。
 このまま黙っていたっていいのなら。彼がこうして話し続けてくれるのなら。それだけで今夜は少しだけ、眠れるかもしれない。ホークスの声は途切れずに続いていく。どこかに咲いていた小さな花のこと。夕暮れのコンビニ前にいた野良猫のこと。電車で向かいに座っていた少年がスマホでヒーロー動画を見ていたこと。
 取り留めのない日常がひとつずつ、丁寧に並べられていく。私は相槌も打たずただ耳を澄ませているだけだった。それでも彼はそれを咎めることなく、淡々と語り続ける。けれど、ふいに言葉が途切れた。少し長い間があってそのあとに落ちてきた声はさっきよりもわずかに低く、ほんの少しだけ、乾いていた。

『……あの、ちょっとだけ、真面目な話、してもいいですか』

 私は何も返さなかった。けれど彼はその沈黙を拒絶とは受け取らず、静かに言葉を続ける。

『塚内さんから聞いたんですよね?事故のこと』

 その瞬間、胸の奥に何かが沈む。やはりそこに触れるのかという思いと、それでも、彼の口から語られることへの相反する気持ちが、静かに交錯する。彼は言いにくそうに、けれど選んだ言葉を丁寧に運ぶように続けた。

『俺……あのときの影響で、その期間の記憶が、すっぽり、抜けてるんです』

 スマホを持つ手が汗ばんでくるのが分かった。私にとっては消えることのない夜が彼にとっては最初から存在しない時間になっている。わかっていたはずなのに。それを彼自身の声で告げられた途端、予期していたはずの痛みが、遅れて衝撃のように響いた。

『あれ以降、周りが話してくれることも、なんか……微妙に噛み合ってなくて』

 声は、穏やかだった。けれどその奥には、まだ輪郭を持たない困惑が、確かに沈んでいる。

『でも、自分の中に空白があるってことだけは、どうしても誤魔化せなくて』

 そこに感情はあまり乗っていなかった。淡々とした語り口。けれど、その奥には、彼自身もまだ言葉にできていない悔しさと戸惑いが、混ざっている気がした。

『……名前さんがいたの、ほんと、正直びっくりしましたし』

 わずかに笑ったような気配。けれどその笑いはどこか頼りなく、不安定に揺れていた。

『ごめんなさい。何をして何を言ったのか覚えてたらよかったんですけど。全部、抜けてて』

 私は、何も言えなかった。言葉は喉の奥で形にならずに、ただ呼吸だけが浅く細く続いていた。それでも彼は、急かさない。沈黙を埋めようともせず、きちんと間を置いてくれる。まるで、話すことだけが、今の距離をつなぎ止める唯一の方法だと知っているみたいに。そして、少しだけ声が低くなる。

『ほんとは……今でも怖いです。名前さんに、何かしてたらって。何か……傷つけるようなことを』

 私は、スマホをぎゅっと握り直した。その問いには、まだ答えられない。けれど、傷ついたのは自分だけではなかったのだと、ようやく気づく。
 言葉が途切れたあとに落ちた沈黙は、不思議と痛くなかった。波が寄せては返すみたいに、すぐそばにありながら、傷に触れない距離を、保っている。その中で、私はようやく、小さな声を搾り出した。

「……覚えてなくて、よかったのかも」

 本当に、そう思っていたわけではない。ただ、覚えていない彼を、責めたくない一心で出た言葉だった。それに、私自身も怖かった。もし彼が、あの夜のすべてを覚えていたとしたら——今この通話は、繋がっていなかったのではないか、と。
 だから私は傷ついた側の形を選んで距離を守ろうとしていたのかもしれない。受話器の向こうでわずかに呼吸が揺れる。それに重なるように彼の声が返ってくる。

『……でも、俺は、覚えてたかったです』

 言い淀みもせず迷いもなく、ただ静かに、そう言った。優しさでも慰めでも、嘘でもなかった。ただそこにある事実だけが、まっすぐに、言葉になって差し出される。涙がまたひとすじ落ちる。乾きかけていた頬に、あたたかさが戻る。
 覚えていてほしくなかった。けれど忘れられていたことが、こんなにも、痛い。
 私は黙っていた。言葉を返せるほど、気持ちが整っていなかったのだと思う。あの日のことは、私の中ではいまも温度を保ったまま息づいているのに、彼の中にはそこだけが抜け落ちたみたいに穴が空いている。

『俺、情けなか。自分が何を言って何をしたのか覚えてないってことが』
「……」
『でも、名前さんが涙こぼすようなことを、俺がしてたとしたら……それだけは、ちゃんと覚えておきたかったです』

 不器用なまま差し出される言葉。まるごとの、自分。整っていないぶん、そのままの形で、胸に落ちてくる。彼は、私が泣いた理由を知っているわけじゃない。それでも知ろうとするその姿勢がどうしようもなく響いた。私はスマホを、両手で包み込む。まるでその向こうにいる彼を、そっと抱き寄せるみたいに。何も言えなかった。けれどこの沈黙だけはきっと、届いている。
 通話の向こう側で、しばらく音が消える。言葉よりも、沈黙のほうが雄弁に感情を伝えてくる。もう、声を返す余白は残っていない。そう思っていたのに。彼の声がもう一度灯るみたいに戻ってくる。

『……もう少しだけ、話してもいいですか』

 問いかけの形をしているのに、どこか、自分に言い聞かせているような声音だった。私は、頷けなかったし、返事もできなかった。それでも彼は懲りることなく、続けるのだ。

『あの日、あなたがスマホ届けてくれて。でも、急いで帰っちゃったから』

 少しだけ、息を吸う音が聞こえる。言葉の先にある不確かさを、押しのけるような呼吸だった。

『覚えてない俺が言うのも、ほんと変ですけど。なんか無性に安心したんです。理屈じゃなくて』
「……」
『ただ……ああ、来てくれてたんだなー、って』

 声に熱はない。それでも一つひとつの言葉には確かな重さがあった。彼は知らない。私が、何を思い、何を飲み込みながらあの部屋を出たのか。それでも彼は、その覚えていない時間の中から、私の存在だけを、確かに探している。

『記憶がないのってさ、こんなに空っぽになるんですね。人間って覚えてることで誰かとの関係を繋いでたんだなって……』

 胸の奥で小さく何かが軋む。彼の言葉の中には私が言えなかったものがちゃんと含まれている。私は思わず唇を噛んだ。するとほんの少し電話の向こうの声が低くなった。

『名前さんがあの夜、嫌な思いをしたのかもしれないって想像するだけでなんか、自分の知らない自分を、許せなくなる』

 思わず「やめて」と言いかけた。けれど、その言葉は喉の奥でほどけて、音にはならなかった。かといって「もういい」と、突き放すこともできない。行き場を失ったまま感情だけが静かにあふれて、またひとすじ涙が頬を伝っていく。それを知ってか知らずか彼はほんのわずか空気の温度を変えるみたいに声の調子をやわらかく落とした。

『何か、別の話しましょっか』
「……」
『特別なことじゃなくていいんで。ただ今日を、誰かと分かち合えた気がするだけで、たぶん俺はまだ、生きていけるんで』

 私はその言葉に素直に頷いた。声にはしなかったけれど、胸の奥では確かに。頬に伝う涙をそのままに、私はスマホを耳に当てたまま、かすかに息を吸った。「じゃあ」と、ひと呼吸あける。

「あと、少しだけ」

 それは時間の長さではなくて今の自分が許せるほんのわずかな揺れ幅のようなものだった。
 スマホの向こう側が、もう一度、静かになる。けれどそれは終わりの合図ではない。むしろこれから始まるものの、前触れみたいな沈黙だった。そして、彼の声がまた、やわらかく届く。

『ねえ、結構いい時間ですけど。そっち、明るいです?俺の部屋さぁ、東向きで。あ、知ってますよね』
「……」
『今、カーテンのすき間から光が差し始めてて。あー、今日も晴れそうです』
「……」
『名前さんも、今、晴れてます?』

 私は何も答えなかった。それでも、心の中ではきちんと、うん、と頷いていた。
 彼らしい問いに、思わず小さく笑ってしまう。それが空の話なのかそれとも私の心の中の天気のことなのか、うまく判別がつかなくて。そのかすかな笑いが届いたのか、受話器の向こうで、彼も息をこぼすように笑った気がした。

『今、隣にいたらなぁ……いや、無言でもいいんですよ、隣で。俺、勝手に喋ってるんで』

 そう言って、このヒーローはまた、取りとめのない話を続ける。新作のおにぎりの話。通勤路で見かけた犬の話。スマホの画面が急にバグって、焦った話。そして、空が白んできたこと。
 私はいつの間にか、ソファに毛布を引き寄せて膝を抱えていた。少し、肌寒い。それでも、耳に触れる彼の声だけは、ずっとあたたかい。

『……俺、たぶん、あなたにしかこういう話できないんですよね』

 その一言が、やわらかく落ちてくる。優しくてそして、どうしようもなく痛い。
 どうして��親友�≠フままでは、足りないのか。どうしてそれ以上を望んでしまうのか。その最初の一歩を踏み出してしまったのは、もしかしたら私のほうだったのかもしれない。

『あの、眠くなったら切ってもらって大丈夫ですからね。無理しないで』

 その言葉に、また涙がこぼれる。画面に映る、バッテリー残量が、ぼんやりと滲む。夜が確実に朝へと、ゆっくり、移り変わろうとしている。
 私はまだ、「おやすみ」も「ありがとう」も、言えていない。ただこの声を少しでも長く聞いていたかった。しばらくのあいだ、言葉は途切れたまま、互いの呼吸だけが静かに行き来する。夜の底がひび割れていくような、鈍くて静かな時間。耳に届く彼の気配が、涙を止めたはずの目をまたゆっくりと湿らせていく。気づけば、唇が動いていた。

「……ホークス」
『はい』

 間を置かずに返る、やわらかな声。あたたかい応答。それだけで、胸の奥がほどけそうになる。

「……私が、全部悪いんだよ」

 言葉にした瞬間に、胸の奥が、ぐしゃっと音を立てて崩れた。あまりにもあっさりとあまりにも静かに心の輪郭がひしゃげていくのが分かった。その一言は懺悔のようで、同時に、自分にかける呪いの呪文みたいでもあった。

『……はい?』

 困惑を滲ませた声がわずかな間を置いて返ってくる。けれどそこに、否定はなかった。「違う」とも、「そんなことない」とも言わない。ただ、続きを待つような、やわらかな受け止め方。

「ごめんね……私が全部、悪かったの」

 声が崩れないように整えながら、それでも震えだけは抑えきれなかった。
 この数ヶ月——いや、もっと前から。どれだけ曖昧なものを押しつけてきたのか。優しさの形を借りてどれだけ自分を守って彼を傷つけたのか。ようやく、少しだけ見えるようになってきた。
 通話の向こうで、彼は黙っていた。その沈黙は拒絶でも、呆れでもなくて。ただ、差し出された言葉をひとつずつ、手のひらで確かめるみたいな長いまばたきのような間。

『……名前さん』

 名前を呼ばれた瞬間、また涙がこぼれる。責めない声が、どうしようもなく苦しい。しばらく、言葉が落ちない時間が続く。電話越しの沈黙は、不思議と、互いの呼吸だけを浮かび上がらせる。喉の奥で、何かを押し出そうとする気配。浅く、整わない呼吸。やがて、ぽつりと耳に届く。

『責めてなんか……ないですよ、俺は』

 その一言は、想像していたよりもずっと優しかった。だからこそ、目を伏せるしかなかった。
 つらい。許されることが、いちばんつらい。

『むしろ……いや、俺のほうが、ずっと名前さんに甘えてたと思います』

 苦笑まじりの吐息が混じる。でもそれは自分を貶めるための自嘲ではなく、ただ事実を淡々と、噛みしめているような、静かな響きだった。

『あなたに会えると、やっぱり安心して……強がれなくなるんですかね』

 冗談めいた言い回しなのに、笑いは続かない。その真剣さに気づいてしまって、私は言葉を返せなかった。

『俺、ほんとは……もうだいぶ前から、名前さんのこと、気になってましたよ』
「……」
『最初の頃から、ずっと』

 一度、言葉が途切れて、そのあとに続いた告白のような台詞の継ぎ目で彼が、喉の奥で唾を飲み込む音がした。

『でも、なんていうか。言わないほうがいいって思ってたんです。言ったら、全部変わりそうで』
「……」
『��親友�≠チていう言葉、便利だったなーって。何かをごまかせる、魔法みたいでさ』

 笑うような口調だった。けれどその奥に本当の笑いはなかった。それでも、その言葉は不思議と抵抗なく、まっすぐ胸の内側へ落ちてくる。
 短い沈黙が流れる。私が何も返さないからか、それとも、もともとそうするつもりだったのか。彼はその間をなぞるように、途切れかけた言葉の続きを、静かに選び取っていった。

『でも……ごまかしてばっかじゃダメでしたね』

 私がずっと避けてきた場所に、彼は、ようやく触れてくれている。それでも私は、何も言えないまま、ただ、彼の声を聞いていた。

『だから、今さらですけど……少しでもちゃんと向き合いたくて』

 その声が、わずかに震えていたのを、私は聞き逃さなかった。受話口の向こうで彼の呼吸がゆっくりと整っていく。ひとつひとつの言葉が拙くてそれでも、嘘がなくて、胸の奥へと沈んでいく。まるで、やさしい石みたいに。ほんのりと温度を持って、静かに重くなる。それでも私は何も言えなかった。
 あの夜、あのソファで、あの距離で——。言えなかった言葉たちが、今も喉の奥に残ったまま、息をひそめている。目を伏せて、自分の心からもそっと目を逸らす。そのときふと、窓の向こうが淡くなっていることに気づく。
 カーテンの隙間から覗く空は墨色から、にじむような群青へと変わっていた。長く感じた夜が、いつの間にか終わろうとしている。スマホの画面も、わずかに明るさを帯びて見えた。

「……夜が、明けるね」

 ようやくこぼれた声は小さく、かすれていた。けれど、それでさえ、彼の沈黙をやさしく破ったようだった。

『はい。ですね……』

 それきり、二人とも何も言わなかった。けれど通話は続いている。切ることも、切られることもなく。まだ、繋がっている。彼の呼吸。少し鼻にかかった眠りに近い音。それを聞いているうちにまるで目の前に彼がいるような錯覚がゆっくりと広がっていく。朝方の、カーテンの匂い。部屋に沈む静けさ。まだ体温を持たない、布団の中。
 思い出すのは、どうしていつも��そうではなかった時間�≠ホかりなのだろう。言いたいことは、確かにあった。聞きたいことも、渡したい気持ちも。名前をつければ、それはきっと『好き』なのだと、わかっている。それでも口にした瞬間に、すべてが壊れてしまいそうで言葉にできないまま胸の奥で何度も、抱きしめるしかなかった。

『……じゃあ、そろそろ寝ないとですね』
「うん」

 そっけなく返すと、彼はそれ以上何も言わなかった。いつもなら何かひとつ軽口を添えるのに。今日はただ、静かなまま。それが少し寂しくて、でもどこか救いでもあった。まだ言わないままでいられる。本当のことを抱えたままで、この夜の延長に留まっていられる。
 スマートフォンを、耳元からそっと離す。彼の気配が少しずつ、遠ざかる。それでもすぐには、通話を切れなかった。指先がほんの一瞬だけためらったその先で、夜が、完全に明けた。


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