その日はホークスに誘われて仕事終わりに食事がてら少しだけ飲みに出た。特別な理由があったわけじゃない。ただ『行けます?』といつもより控えめな調子で聞かれてそれを断るほどの理由も見つからなかっただけだ。
 店を出ると、夜風が思ったよりやさしい。アルコールの残り熱を冷ますみたいにゆっくりと頬を撫でていく。街灯の下、影がふたつ並んで伸びていた。さっきまで向かい合っていた距離が、今は横並びになっている。それだけで、心拍の位置が少し変わったような錯覚を覚える。

「寒くないです?」

 ホークスは、こちらを見ないまま聞いてきた。気遣いの言葉なのにどこか慎重で、踏み込みすぎない距離を測っている感じがして、少しだけ可笑しくなる。

「平気。ホークスは?」
「俺はまあ、羽根あるんで」

 軽い返しなのに、声の調子が、ほんの少しだけ浮いている。ご機嫌なのはたぶんお酒のせいだけじゃない。仲直り、という言葉が抽象のままじゃなく、現実になりつつあることを、彼自身がいちばん持て余しているように見えた。
 駅の改札が視界に入ったあたりで彼の足取りがわずかに鈍り歩調が揃っていたはずなのにそこにほんの小さな間が生まれた。立ち止まる気配に、私もつられて足を止める。それから、相手が意を決したように口を開いた。

「あの……ちょっとだけ、寄っていきません?」

 声は軽い。けれど視線だけが妙に真剣だった。即座に断ろうとした。頭の中ではちゃんと理由も並んでいた。

「……今から?」
「はい。ほんとに、少しだけです。コーヒーでもなんでも」

 明日も仕事だし、もう、時間も遅いし。それに今日はこのまま帰ったほうが、きっと、安全だ。感情的にも、生活的にも。けれど、彼はそれ以上踏み込んでこなかった。ただ、少し困ったように笑って言う。

「無理なら、全然大丈夫です。今日は......一緒にご飯行けただけで、もう充分なんで」

 その言い方がやっぱりずるかった。押さない。引きすぎもしない。選ぶ余地をちゃんとこちらに残している。だから私は、流されてしまう。

「……まあ、ちょっとだけなら」
「え、ほんと?」
「……ほんとに、少しだけだからね」

 そう言った瞬間ホークスの表情がぱっと明るくなった。感情が隠しきれずに、こうしてすぐ顔に出てしまうところ。ああ……この人は、やっぱりホークスなんだと、改めて思い知らされる瞬間。

「はい。じゃあ、今日だけね。今日だけ」

 その言葉を彼はまるで壊れやすいものを両手で包むみたいに静かに繰り返した。夜風がやさしく吹き抜ける。私たちは、まだ並んで歩いていて、歩幅も呼吸も、さっきより少しだけ揃っている。口にしなかった思考も選ばなかった未来も、今はただ、足音のリズムの中に溶けていった。
 セーフハウスのドアを開けると、室内は思っていたよりも、生活の匂いがした。消し忘れた間接照明が壁を柔らかく照らし、ソファには無造作にブランケットが掛けられている。キッチンの端には、伏せられたままのマグカップ。整いきってはいないけれど誰かが日々をちゃんと過ごしている気配が、そこかしこに残っていた。

「散らかっててすみません」
「いつものことでしょ」
「ひどいなあ。でも、今日はちょっとだけ片づけたんですよ?」

 なぜか誇らしげな声音に、思わず、小さく息が抜ける。彼は靴を脱ぎながら「女性を招くなら、綺麗にしとかんとね」なんて何気なく言う。その一言が、胸の奥に小さく波紋を立てた。

「前から、そう思ってた?」
「え? あー......たぶん、そうですね」

 たぶんという曖昧さがかえって重い。ソファに並んで、腰を下ろす。触れないけれど、離れてもいない距離。不意に差し出されたブランケットを受け取るとき、指先が一瞬だけ重なって、すぐに離れた。

「……コーヒー、淹れます?」
「あ、うん……。お願い」

 キッチンに向かう背中を見送りながら、私は、ソファの感触を確かめる。深く沈むクッション。何も起こらない夜。本当に何も起こらないはずの夜。それなのに心臓だけが落ち着く場所を探して小さく騒いでいる。

「名前さん」

 マグカップを二つ持って戻ってきた彼が、少しだけ声を落とした。

「今日、来てくれてほんとに嬉しかったです」
「……うん」
「なんか、ちゃんと戻ってきた感じがして」

 ��戻ってきた�=Bその言葉が思っていた以上に胸に沁みた。彼は、ソファの背にもたれながら、ほんのわずかに、距離を詰める。触れない。触れないけれど、体温の輪郭だけが、静かに伝わってくる。

「俺、今日は……変なことしません」
「変なことって、言い方。それ宣言するもの?」
「一応。信用してもらうために」

 そう言って笑う。軽いはずの調子なのに、その笑顔は、やけに、丁寧だった。触れられないことよりも、触れない選択をしていることのほうが、どうしてこんなにも胸に残るのだろう。
 ブランケットの下で彼の肩と私の肩がわずかに触れ合う。動こうと思えば動ける距離。それでもどちらも動かない。静けさの中で選ばれなかった動作だけが、確かにそこにあった。

「……じゃあ、今日は、これでいいね」
「はい。今日はこれで。明日はまた明日で、切り替えましょ」
「明日って言葉、きれいだよね。日が月になってまた日がのぼる」
「わー、詩人ですね。じゃあ……『今日』は?」

 問い返されて私はすぐには答えられなかった。今日、という言葉は近すぎる。明日みたいに先へ伸びるわけでもなく、昨日みたいに手放されてもいない。触れようとすると、指の間から、こぼれ落ちてしまう。

「今日、はね」

 そう言いかけて少しだけ間を置き、言葉を探した。考えているふりをしながら本当は感じているだけだった。明日みたいに、先へ伸びていく響きでもなく昨日みたいにもう触れられない場所でもない。あまりにも近くて、輪郭が曖昧だ。

「たぶん……途中なんだと思う」

 夜と朝のあいだ。終わったことと始まりかけたことが、まだ整理もされないまま、重なっている場所。名前をつけるには温度が残りすぎている。

「きれいとか、汚いとかじゃなくて」
「……」
「ただ、今ここにある時間」

 言葉にした途端、少し照れくさくなる。今日というのはいつもそうだ。意味を持たせようとすると、逃げていくくせに、忘れることだけは許してくれない。

「忘れられないくせに、形には残らない」

 だからきっと、今日がいちばん厄介でいちばん愛しい。そう思いながら私は窓の外のまだ終わりきらない夜の空を、ほんの一瞬だけ見上げた。

「……なんか、言ってよ」
「え」
「私が病んでるみたいじゃん」
「大丈夫、病んでないですよ」

 夜は静かに更けていく。何も起こらなかった。少なくとも、目に見える出来事は。でも、確かに何かが元の場所に戻るのではなく少し形を変えて始まり直していた。
 裏切られた、とか。期待していた、とか。そういう言葉で片づけるのは簡単だ。でも——何かを裏切ったわけじゃない。ただ、これまで見えていなかった部分が、ふと輪郭を持って現れただけ。その人の一部が、ようやく、こちらを向いただけなのだ。見えなかったものが見えたとき、それも含めてその人なのだと受け止められるかどうか。揺れる相手をどうにかするより揺れを前にしても立っていられる自分で、いられるかどうか。そのほうが、きっとずっと大切なのだと思う。
 今はまだ確信なんて持てない。それでも、そう在れたらいいと願う気持ちだけは胸の奥に静かに残っている。


 *


 ホークスとの日々は、拍子抜けするほど、何も変わらないまま続いていた。連絡の間隔も仕事で顔を合わせる距離も、食事に行けば、並ぶ席も。以前と同じ配置のまま。変わったのは、たぶん、私だけだ。外側は追いついているふりをして内側だけが取り残されている。
 病んでいるというほど大袈裟ではなく、単純に疲れていたのだと思う。心が折れるよりも先に、身体のほうが限界を知らせてきていた。

 その夜も、眠れなかった。時計の針が何度同じ場所を通り過ぎても思考は浅瀬で波打つばかりで布団に横になっても、落ち着く気配がない。目を閉じるたび、別の場面が割り込んでくる。
 結婚式の白、ホテルの天井、知らない番号——ホークスの声。順序も因果も失ったまま、ただ、消耗だけが積み重なっていく。
 気づけば私は、上着を掴んで部屋を出ていた。コンビニの明るさは深夜になるとやけに残酷だ。棚に並ぶアルコールを前にして度数を選ぶ気力もなく手に取ったのは缶の絵柄で決めたようなものだった。
 店を出た瞬間に、頬に、冷たいものが当たる。雨だ——。傘を持っていないことに気づいたのはもう、濡れ始めてからだった。小走りになるでもなく、引き返すでもなく、そのまま歩く。濡れていく髪も適当に羽織ってきた薄手のコートが重くなる感覚も今はどうでもよかった。雨に打たれると、頭の中の音が少しだけ小さくなる気がした。
 そして、気づいたときには、ホークスのセーフハウスの前に立っていた。見慣れたエントランスに、灯りの落ちた外観。ここに来る理由を私は、ひとつも用意していない。ただ、足が覚えていただけ。困ったとき。深夜。判断力が鈍ったとき。ここが『安全』だと知っている癖が、勝手に私を連れてきた。
 何をしているんだろう……雨音だけが、やけにくっきりと耳に届く。私は、立ち尽くしたまま、時間の感覚を、失っていた。インターホンを押す理由はない。連絡もしていないし、時刻は、深夜一時を回っている。常識も配慮も、全部が欠けている。……帰ろう。そう思って踵を返した、その瞬間だった。

「……名前さん?」

 背後から静かに、でも、はっきりと名前を呼ばれる。心臓が遅れて跳ね上がる。振り向くとそこには傘を畳んだホークスが立っていた。部屋着の上に軽く上着を羽織っただけの格好で、手には、自宅の鍵らしきものが。どうやら、どこかに出ていて、ちょうど戻ってきたところだったらしい。
 街灯の下、琥珀色の瞳が、驚きと困惑を含んでこちらを射抜く。

「え……どうしたんですか」

 責める調子じゃない。多少驚いてはいるものの身構えてはいない声。けれど、ふと、私の手元に視線を落として空になったアルコールの空き缶を見つめた彼は、そっとそれを私の手から引き抜きぐしゃりと潰した。私は言葉を探して結局、何も見つけられずに、雨に濡れたまま、その場に立ち尽くしていた。

「……ごめん」

 ようやく出たのはそれだけだった。彼の視線が私の濡れた髪やコートへ落ちる。その次に眉が、きゅっと寄った。

「……濡れてますよ」
「うん」
「傘は」
「ない」

 会話としては、あまりにも幼稚で、断片的で、あまりに頼りない。それでも、今の私には、それ以上の文章を組み立てる余裕がなかった。彼は、一瞬だけ視線を逸らし、小さく息を吐いた。

「……とりあえず。中、入りましょ」

 それは理由でも、詰問でもなかった。どうして来たんですか、でも、連絡してほしかった、でもない。ただ状況を見て下されたごく静かな判断。彼はエレベーターのボタンを押し、部屋まで誘導するように前を歩き、鍵で部屋の扉を開け、私に先に入るように、当たり前の動作みたいに、手を差し出す。その仕草があまりにも自然で、まるで私がここに来ることを最初から予定の一部として受け入れていたみたいで胸の奥がきゅっと小さく痛んだ。
 言葉を挟む隙も見つからないまま、私は黙って一歩、敷居を越える。深夜一時過ぎ。雨に濡れたまま辿り着いた場所で私はまた、何も変わらない彼の日常の内側に静かに迎え入れられてしまったのだった。
 ドアが閉まる音が、外の雨を切り離す。世界が一枚、薄い膜で区切られたみたいに音が遠のく。室内はひどく静かで昼間とはまるで別の顔をしていた。照明は落とされ必要最低限の間接灯だけが壁を淡く、照らしている。ヒーローの拠点というより、ただの人が一人で暮らしている空間。その事実が今の私にはひどく心細くて、それでも同時に、救いでもあった。
 床に落ちる雫の音に気づいて、私はようやく、自分が、どれほど濡れているかを思い出す。髪の先から水が落ち、コートの裾は重くて、冷たい。現実が少しずつ輪郭を取り戻す中でホークスが、わずかに距離を保ったまま言った。

「……とりあえず、タオル持ってきますね」
「ごめん」

 反射みたいに口にすると彼は振り向かないまま足を止めて言葉を返す。

「謝るところ、そこじゃないですけどね」

 軽い言い方なのに否定はしない。そのまま奥へ消えていく背中を見送りながら、私は、その場に立ち尽くす。ソファに座るべきかそれとも、その場に、留まるべきか——。その判断すら今の私は持てない。濡れた靴下がじわじわと体温を奪っていく。戻ってきた彼は、両手にタオルを抱えていた。白くて少し硬めの、業務用みたいなもの。

「どうぞ」

 差し出されたそれを受け取る瞬間、指先がほんのわずかに触れる。たったそれだけで、胸の奥がざわついた。もしかしたら、そのまま掴んで欲しかったのかもしれない。

「……ありがとう」
「座っていいですよ」
「……うん」

 ソファに腰を下ろした途端に、張り詰めていたものがほどける。タオルで髪を拭きながら、私は自然と俯いていた。水気を取るたびに、頭の中を占めていた雑音が、少しずつ、現実の重さに引き戻されていく。

「で……? どうしたと」

 ホークスは、少し離れた位置に立ったまま聞いた。責めない。踏み込みすぎない。でも放ってもおかない。その絶妙な距離が今の私には、やけに胸に刺さる。

「……眠れ、なくて」
「……」
「それで、外に出た……」

 正直に言ったはずなのに声は思ったより掠れていた。彼は、短く息を吐く。

「雨、降ってましたよね」
「途中からね」
「連絡、してくれたら——」

 そこまで言ってホークスは言葉を引っ込める。少しして「いや……」と小さく言い直してから、視線をこちらに向けた。

「今、ここにいるってことは」
「……」
「それだけ追い詰められてたってことですよね」

 その言い方があまりにも的確で、私はタオルを握る手に、思わず力を込めた。否定できる余地がどこにもなかったから。

「……わからない」
「……」
「追い詰められてるのか、甘えてるのか」

 それは、取り繕いようのない本音だった。自分でも判別がつかない。苦しいのか誰かに委ねたいだけなのか——。その境目が曖昧で、だからこそ余計に、言葉にするのが怖かった。しかし彼は、間を置かずに言った。

「どっちでもいいです。少なくとも今夜はもう、外に放り出す選択肢はないので」

 私は顔を上げる。彼は真剣な表情をしていた。仕事のときによく見る状況を冷静に見極める顔。ただし、そこには、職務的な判断だけじゃない、個人的な感情が微かに混じっている。

「……迷惑、じゃない?」

 恐る恐る投げた言葉に彼は少しだけ視線を逸らした。短い沈黙。言葉を選んでいるその間さえ、このヒーローは、誠実だった。

「迷惑ならエントランスで見かけた時点で断ってますって」
「……」
「俺を頼ってくれて、嬉しいですよ」

 それは、揺るぎない事実だった。胸の奥がぎゅっと縮む。拒まれていないという安心と受け入れられてしまったことへの申し訳なさが同時に押し寄せる。気づけば「ごめん」と、また同じ言葉を繰り返している自分に気づく。彼はそれを受けて声の調子を、ほんの少しだけ緩めた。

「だから今日はもういいです。謝ったら罰金ですからね」
「……」
「濡れた服、替えましょっか。俺のですけど……これ、着てください」
「……」
「寝室、使っていいんで。俺はキッチンにいますから」

 そう言って彼はさりげなく視線を外す。ソファに置かれていたロンTを差し出した速さと、その視線の置き場が配慮の連続みたいな動きに見えて思わず、笑いそうになった。実際には、喉の奥が詰まって、笑える状態じゃなかったけれど。

「ありがとう」

 今度は、きちんと意味を込めて言う。私は立ち上がり、示された部屋へ向かう。その背中に彼の声がかかった。

「名前さん」

 真っ直ぐに呼ばれた自分の名前。深夜帯。この距離感で呼ばれてしまうと、縋りつきたくなる。私は思わず、足を止めた。

「……なに」
「今日は——何も、決めなくていいですよ」

 振り返ると、彼は私のほうを見ていなかった。キッチンで湯を沸かしているらしい。それでも、その言葉は迷わず、私の元へと届いた。

「雨、止むまででいいんで」

 それは、滞在時間の話じゃない。心の話だと、すぐにわかる。私は小さく頷いて寝室に入った。雨音はまだ外で続いている。でもここは、少なくとも今夜の避難所だった。ぐちゃぐちゃな気持ちを抱えたままでも、立ち寄ってしまえる場所が、まだ残っている。その事実が、ほんの少し、私の呼吸を楽にしてくれる。
 その夜は、床だとかソファだとかそういうやり取りは最初からなかった。ホークスは何も言わず寝室の灯りを落として、ベッドの片側を、静かに示した。選択を迫るでもなく距離を誇示するでもない。最初から「一緒に入る」という配置だけが当たり前のように用意されていた。その、迷いのなさが、彼なりの優しさなのだと、私はすぐに、わかってしまう。だからこそ、胸の奥がひどく、苦しくなる。
 シーツは清潔で空気は静かで、外の雨音だけが遠くに残っている。互いに言葉を交わさないまま並んで横になった。彼は律儀に背を向ける。触れない、踏み込まない、越えない。その線を今夜も正確に、引いている背中だった。しばらく私は、天井を見つめていた。眠れる気配はなく、心臓の音だけがやけにうるさい。喉の奥に溜まったままの言葉が行き場を失って、静かに揺れている。

「あの、さ……?」

 声に出した瞬間、遅れて後悔が追いかけてくる。今、言うべきじゃなかった。そう思うのに、もう言葉は、喉を離れてしまっている。

「……あの、」

 彼の背中が、わずかに強張るのがわかる。振り向かない。返事も、ない。ただ、聞いている気配だけが、静かにそこにあるだけ。

「……あのさ、ホークス、さ……」

 呼吸を整えようとして、かえって、浅くなる。胸の奥で、言葉がぶつかり合っている。

「私のこと、抱ける——?」

 言ってしまったあと、部屋の静けさが、ひどく重くなる。雨音が、さっきよりも遠い。彼は動かない。立派な赤い剛翼を持つ背中の輪郭だけが、妙にくっきりと浮かび上がっている。

「……ないよね。なし、だよね……」

 小さく息を吐く。私は、すぐに続けた。自分で自分を追い詰めるみたいに。言葉が、空気の中で乾いていく。

「だって、ね? うちら、いまさらさ……」

 ヒーローの背中に向けた独白。返事を期待していないふりをしながら期待してしまっている自分がどうしようもなく情けない。少しの間があって彼が「……今は」と、ようやく口を開いた。低い声。落ち着いているけれど、逃げてはいない。

「今は、しないです」

 否定は、はっきりしている。けれど、拒絶とは違う。しっかりと、線を引く言い方だった。

「でもそれは、名前さんを、大事にしてないからじゃない」
「……」
「逆です」

 そう言ってから、彼は、短く息を吸った。背中越しの言葉が胸に静かに刺さる。剛翼が息をするみたいに、少しだけ震えていた。

「今、もしこのまま抱いたら……俺が、楽になるだけだと思うので」

 私は目を閉じる。言い返せる言葉は、いくつも浮かぶ。欲しいとか、今だけでいいとか。でも、どれも、今の自分を救わない。喉の奥から掠れた声が零れた。

「……ずるい。そういうの」
「すみません」
「謝らなくていいけどさ……でも、たぶん」
「うん?」
「それがあなたの優しさなんだって、わかってるから」

 わかっているから、余計に苦しい。彼は、何も言わなかった。ただ背を向けたまま呼吸を整えている。触れない距離。越えない線。それでも同じベッドにいるという事実だけが、今夜の、すべてだった。

「おやすみ」

 小さく言って、私はゆっくりと体の向きを変える。彼の背中に、ほんの少しだけ近づく。でも、触れない。触れないまま距離を縮める。そのわずかな隙間に言葉よりも確かなものが静かに横たわっている気がした。

「おやすみなさい」

 返事は思っていたよりも近くから返ってきた。抱かれなかった。でも追い出されもしなかった。
 選ばれなかったわけじゃない。そのどちらでもない曖昧さの中で、ただ今夜は越えなかっただけ——そう、言い聞かせるみたいに私はそっと目を閉じた。外では、いつの間にか雨が止んでいた。世界は、何事もなかった顔で朝へ向かっていて、私だけがその途中に、取り残されたままだった。


 *


 何分経ったのか、それとも、もう何時間になるのか。時間の感覚は、とうに曖昧で、結局、私は眠れないままだった。
 呼吸は落ち着いているはずなのに、意識だけが浅瀬を漂っている。目を閉じるたび、さっき見ていた彼の背中が浮かんでくる。越えなかった線。越えなかった、という事実。その選択が静かに、けれど確実に、胸の奥を締めつけてくる。
 音を立てないよう、私はそっと身を起こした。ベッドの端に体重を移すとき、スプリングが軋まないことを祈りながら、裸足で床に足を下ろす。ひんやりとした感触が妙に現実的だ。振り返って彼の様子を確かめる勇気はなかった。もし、目を開けているのを見てしまったら。あるいは眠っている顔を見てしまったら。どちらにしてもきっと戻れなくなる気がした。
 リビングは、だめだ。ソファに座れば、気配で彼を起こしてしまう。ベランダも、だめ。夜気と街の灯りは今の私には刺激が強すぎる。
 外に視線をやると、空気がまた、重たくなっているのがわかる。雨が近づく直前特有の、湿った匂い。さっき止んだはずなのに、完全に終わったわけじゃない、そんな気配が残っている。私は、玄関に向かいかけて足を止めた。この時間に出ていくのは、さすがに無責任だ。なにより、理由を聞かれたとき、私はきっと答えられない。

(——だったら。)

 静かに進路を変えて、バスルームへと向かう。灯りはつけず、手探りでドアを閉める。換気扇のスイッチにも触れない。ただ、蛇口をひねって、水を少しだけ流してみた。水音が、夜の静けさを少しだけ壊してくれる。それがありがたかった。
 蛇口を止めてから、私は、浴槽の中に入った。冷たい底に背中が触れて、思わず、肩がすくむ。三角座りで膝を抱え、額を少しだけ下げる。狭い空間に身を縮めると世界から切り離されたような感覚があった。
 ここなら、誰にも見られない。音も、表情も、持て余した感情も、全部しまい込める。換気口の向こうで、空が動いている気配がして雨の前触れみたいな遠い雷鳴が、かすかに聞こえた。

 ——抱けるかなんて聞かなきゃよかった。そう思う一方で聞かずにいられなかった自分も、はっきりといる。拒まれたわけじゃない。その事実が余計に痛い。大事にされていると理解できてしまうから甘えも逃げも、同時に否定されてしまう。
 膝を抱える腕に、少しだけ力を込める。浴室の中は冷たく頭の中はやけに冴えている。眠れない理由は、もうはっきりしていた。寂しいわけじゃない。欲情しているわけでもない。ただ行き場のない気持ちが体の内側で渦を巻いているだけだ。
 水のない浴槽の底で小さく息を吐く。ここなら泣いてもいいかもしれない。声を出さなければ。
 雨は、きっとまた、もうすぐ降る。その前に、少しだけこの狭い場所で、ぐちゃぐちゃなままの自分を抱え込んでいよう。そう思った瞬間、もう遅かった。一粒頬を伝った感覚があって、それが浴槽の底に落ちる前に、次が来る。喉の奥が縮み呼吸が浅くなる。声を出さないよう歯を噛みしめたのに、涙だけは遠慮なく溢れてきた。

(——なんで。)

 理由なんて、ひとつじゃない。彼の個性事故も結婚式の夜も、知らない番号の電話も彼の背中も『今はしない』と静かに告げられた声も。全部が重なって、今この瞬間に押し寄せてきている。
 浴槽の中で、私は膝をさらに抱き寄せる。腕に顔を埋めて、嗚咽を殺す。肩が小さく震え、息が詰まる。止めようとすればするほど、涙は勢いを増して、どうしようもない。
 別に抱かれたかったわけじゃない。その事実が余計に、苦しい。欲しかったのは、肯定だった。大丈夫だと、間違っていないと、言葉でも体でもいいから、どこかに預けていいという許可。でも彼は、抱かなかった。それが優しさだとわかってしまう自分が、いちばん嫌だった。

「……っ」

 声にならない音が、喉の奥からこぼれ落ちる。泣き声と呼ぶには頼りなく、ため息と呼ぶには、鋭すぎる。その中途半端な音を、浴室のタイルが黙って、吸い込んでくれる。反響しないことが、こんなにも救いになるなんて思わなかった。ここならどんな顔をしていても、どんなふうに壊れていても、誰にも見られない。その安心感に縋った瞬間、涙はかえって勢いを増した。

(……私、何をやっているんだろう。)

 頭のどこかで冷静な声が囁く。大人で、仕事もしていて、社会の中でそれなりに立ち回ってきたはずで理屈も建前も心得ている。そのはずなのに他人のうちの深夜の浴槽の底で膝を抱えて、声を殺して、泣いている。みっともない。情けない。そう言い切れるくらいには、自分を客観視できてしまうのが、余計につらい。それでも、止められない。わかっているのに、どうにもならない。
 しばらくしてふと音が変わった。雨だ。さっきまで遠くに漂っていた気配がはっきりとした音を持って窓の外に落ち始める。細かく、規則正しい雨音が建物全体を包み込むように広がっていく。私は濡れた目を閉じて耳を澄ませた。雨は、誰のせいでもなく降る。理由も説明もなく止めようとする意思も持たずただ重力に従って落ちてくる。その無関係さが今の私には少しだけ救いだった。
 涙は、まだ、止まらない。でも、それでいいと思えた。今は、止めなくていい。ここは安全で、誰も責めない。彼の優しさも自分の弱さも今すぐに結論を出さなくていい。浴槽の底で私は小さく呼吸を整えながらただ泣いた。止まらないものに抗わず、雨音に紛れて壊れそうな夜をやり過ごすために。

「……はぁ、」

 ——来てほしい。ふいに、そんな願いが、胸に浮かぶ。誰かに見つけてほしい。この浴槽の底で小さくなっている自分を、声を殺して泣いているこの瞬間を。何も言わなくていい。ただ気配だけでも感じさせてほしい。でも、同時に、寝ていてほしいとも思う。あのベッドで何も知らない顔で規則正しい呼吸を続けていてほしい。私が勝手に壊れているだけだと、そういうことに、しておきたい。
 気づいてほしい。さっきの問いかけもこの夜の沈黙も、全部が平気なわけじゃなかったことを、私が、どれだけ必死に踏みとどまっていたかを、できれば、察してほしい。でも——気づかないでほしい。このみっともなさを、この弱さを、この「抱ける?」なんて聞いてしまった自分の後始末を、見せたくない。失望されたくない。優しさで覆われるのも線を引かれるのも、どちらも怖い。
 浴槽の中で私は膝を抱えたまま、矛盾だらけの願いを胸に押し込む。来てほしいのに、来ないでほしい。知ってほしいのに、知られたくない。
助けてほしいのに甘えたくない。全部、本当だ。

 雨音が、少し強くなる。水のない浴槽の底で、私は息を詰めて肩を震わせる。もし、足音が聞こえたら。もし、ドアの向こうに気配を感じたら。私はその瞬間どうするだろう。名前を呼ぶだろうか。それとも、必死で息を殺して、いないふりをするだろうか。
 答えは出ない。ただ、胸の奥で正反対の方向に引き裂かれながら、私は今も、ここにいる。来てほしい、寝ていてほしい、気づいてほしい、気づかないでほしい。その全部を抱えたまま夜の真ん中で、泣いている。
 するとそれは、本当に突然だった。音もなく、ノックも足音も気配の前触れもないまま脱衣所の扉がほんのわずかに開く。蝶番が鳴らないよう、あらかじめ気を配っていたみたいな、静かすぎる動き。
 私は反射的に息を止めた。暗がりの向こうに、人影が立っている。照明を点けないままでも輪郭だけでわかる存在。雨音が、急に遠くなった気がした。

「名前さん——」

 低く抑えられた声が湿った空気を切る。名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がひっくり返ったみたいにざわめいた。
 気づいてほしくて、気づかれたくなくて、来てほしくて、寝ていてほしかった。その、相反する願いがひとつに束ねられて、今、目の前に落ちてきて、一度に叶ってしまった。
 私は顔を上げられない。浴槽の縁に額を預け、膝を抱えたまま体の芯だけが固まっていく。逃げ場を探す余裕もなくただ呼吸だけが浅く続いた。

「……ごめんなさい」

 なぜか、先に謝ったのは彼のほうだった。それでも彼は中へは入ってこない。扉口に立ったまま距離を守る。その選び方が、ひどく、彼らしいと思ってしまう自分がいる。

「起きたら、いなくて」
「……」
「探しました」

 声に焦りはない。けれど、落ち着ききっているわけでもない。理性と心配が、同じ重さで並んでいる、その境目の音。私はようやく、小さく首を振った。

「……見つからないように、してた」
「そうだと思いました。前も、ありましたよね」
「……」
「あのときも名前さん、そうやって浴槽の中に、身を隠してて」
「……」
「名前さん……全然変わらないですね、ほんと」
「……っ」
「だから今回も、音、立てないようにしました」

 その一言で胸の奥がほどけて、涙が一気に込み上げる。来てほしい、でも来ないでほしい。その矛盾を、最初から、理解していたみたいな言い方だった。しばらく、二人とも、言葉を持たない。雨音と遠くで回る換気扇の低い唸りだけが時間を刻んでいく。

「……入って、いいですか」

 それは「助ける」でも「大丈夫か」でもない。ただの確認だった。私は声を出す代わりに小さく頷く。見えてはいないはずなのに、伝わったのだろう。彼はゆっくりバスルームのドアを開けて、一歩だけ中に入りすぐ床に腰を下ろした。浴槽の外。私と、同じ高さ。触れない距離で、逃げ道を塞がない位置で。

「……そこ、寒くないですか」

 その問いが、どうしようもなく優しくて、私はとうとう顔を上げた。

「……寒いよ」

 やっと出た声は、思っていた以上に弱く、頼りなかった。彼は何も言わず、バスタオルを一枚、私の肩にそっと掛けてくれた。それから私の顔は見ないままで、もう一度だけ、穏やかに言った。

「無理に、話さなくていいです」
「……」
「泣いてても、ここにいていい」

 抱きしめない。手も伸ばさない。でも、離れない。その選択が今の私にはいちばん救いだった。膝を抱えたまま嗚咽を押し殺すのをやめる。声を出さずに泣く必要はもうなかった。来てほしくて寝ていてほしくて気づいてほしくて気づかないでほしかった夜。そのすべてを抱えたまま私は今、見つかってしまったのだと思う。それでも彼は、見つけたあとも、壊さない距離で、ただ静かに、そこにいてくれていた。

「……わたし、」

 声に出した瞬間、喉の奥が、きつく締まった。用意していたはずの言葉は形になる前に崩れて、代わりに、熱だけがこみ上げる。浴槽の縁に額を預けたまま、私は何度も呼吸をやり直した。胸が痛くて肺がうまく膨らまない。息を吸おうとするほど、浅くなる。

「わたし、わたし……」

 同じ音だけが情けないほど繰り返される。ホークスは、何も言わない。動かない。ただ、そこにいる。視線も距離も崩さない。その沈黙が背中をそっと押した。逃げ道を塞ぐのではなく進んでもいい場所を示すみたいに。掠れた声が、ようやく転がり出る。

「……結婚式、あったでしょ」
「はい」
「友だちの。幸せそうで、きれいで、みんな……笑ってて……」

 そこで一度、言葉が切れる。光の強い映像が、容赦なく脳裏に戻ってくる。
 ドレスの白、グラスの音、祝福の拍手。どれも正しくて、眩しすぎた。それでも小さく、でも、逃げずに言った。

「帰りたく、なかった」
「……」
「家に帰って一人になるのが……すごく怖くて」

 膝を抱える腕に、思わず力が入る。骨がきしむ感覚で、ようやく自分の輪郭を保つ。喉が鳴る。言葉が、遅れてついてくる。

「二次会で知らない人と話して……たぶん、新郎側の人で」
「……」
「優しくてちゃんとしてて、悪い人じゃなくて」

 でも。だから、余計に——。声が細く震えた。

「……朝、起きたら、同じベッドにいて……っ」
「……」
「服も、着てなくて」

 雨音が、急に近くなった気がする。現実を強調するみたいに。それだけで、涙がまた溢れた。

「ああ……やっちゃった、って……」
「……」
「別に無理やりじゃないの。嫌だった、わけでもない」

 けれど——そこを、きちんと区別しようとしてしまう自分が、いちばん、苦しい。声が折れる。嗚咽を噛み殺す。喉が痛む。

「でも……自分で、自分を軽く扱った気がして」
「……」
「誰でもよかったわけじゃないのに、誰でもよかったみたいなことをして」
「……」
「朝、逃げるみたいに帰って」
「……」
「そのあとも、仕事して、あなたに会って……」

 浴槽の縁に、涙が落ちる。小さな音が、やけに大きく聞こえた。

「平気な顔して、端末受け取って」

 笑って——。呼吸が乱れて、言葉が、まったく追いつかない。追いついてくれない。

「……なのに、夜になると、全部戻ってきて」
「……」
「誰にも、言えなくて」
「……」
「あなたにも、言えなくて……」

 ここでようやく顔を上げる勇気が出た。視線の先でホークスは少しだけ目を伏せている。表情は読み取れない。けれど、逸らしてはいない。壊れそうな話を壊れない距離で、受け止めようとしているのが、わかった。

「話があるって言われて怖かった……受け止める勇気が、なかった……」
「……」
「誕生日……ホークスの誕生日の約束、すっぽかして……」
「……」
「……嫌われたく、なかった」

 そうやって口からこぼれた言葉は、あまりにも正直であとから取り消せない重さを持っていた。声がまた細くなり、喉の奥で震える。

「あなたに、がっかりされたくなかった」
「……」
「だから、さっきも」

 暗いベッドの感触がはっきりと思い出される。並んで横になっていたはずなのに、妙に広くて、遠かった。

「私を抱けるか、なんて、聞いて……」
「……」
「抱いてもらえなかったのに、救われたみたいな顔してる自分がわからなくて。ぐちゃぐちゃで」
「……」
「今日も、眠れなくて……」

 言葉が絡まり、順序を失う。数時間前の、雨に濡れた帰り道が浮かぶ。街灯の光が滲んで、足元ばかり見て歩いた。そうしたら、ヒーローが声をかけてくれた。

「ここに来たのも……逃げたかっただけで」
「……」
「あなたにどうしてほしいかも、わからなくて」
「……」
「来てほしかったのに、気づかれたくなくて」
「……」
「でも——」

 私は首を振る。否定したいのに否定できない。声の震えが収まってくれない。必死に息を吸う。肺が痛むのも忘れて。

「気づかれて、今、ここにいてくれて」
「……」
「……それで、もう、隠せなくなった」

 涙越しに、彼を見る。告白というより、崩壊に近かった。筋も、順序も、整っていない。ただ、胸に溜め込んでいたものをそのまま床に落としただけ。言い終えた途端、急に怖くなる。次に来るのが沈黙なのか言葉なのかそれとも距離なのか。ホークスは、すぐには何も言わなかった。ただ、ゆっくり息を吐いてから低く静かな声で告げる。

「……話してくれて、ありがとうございます」
「……」
「名前さん」

 名前を呼ばれる。今夜、何度目だろう。その声には、判断も裁きもなかった。

「それは……軽い話じゃないですね」
「……」
「だから、ここで、泣いていい」

 私は唇を噛む。彼は言葉を選ぶように続けた。触れないまま、距離を守ったまま。

「一人で、抱える話じゃない」
「……っ」
「俺も一緒に、背負いますよ」

 その一言で張り詰めていた何かが、静かに音を立てて、ほどけた。私は顔を覆い、声を殺さずに泣いた。告白が終わったわけじゃない。ただ言葉にしてしまっただけ。それでも、浴槽の外にいる彼の気配が今夜の私を現実につなぎ止めている。
 しばらくのあいだ言葉はなかった。雨音だけが浴室の外と内をゆっくり結び、私の嗚咽も、その中に溶けていく。泣くのを止めようとは、もう、思わなかった。止められないと、知ったからでもあるし、止めなくていいと言われてしまったからでもあった。

「一つだけ、いいですか」
「……うん」
「俺が、個性事故に遭ったことと……何か、関係ありますか」
「……」
「ごめんなさい。今の質問、忘れてください」

 言い切る前に、彼自身が線を引いたのがわかった。踏み込んだことを悔いたというより私の内側にこれ以上触れないための彼なりの制動だったのだと思う。ホークスは動かない。床に座ったまま私と同じ高さで浴槽の縁に肘を預けることもなく距離を詰めることもない。ただ、そこにいる。
 寄りかからせもしないし、突き放しもしない。その在り方がひどく彼らしくて、胸の奥が、またじくりと鈍く痛んだ。

「……名前さん」

 少し時間が経ってから、低く名前を呼ばれる。私は顔を覆ったまま、かすかに肩を揺らす。彼は「今」と、短く区切って続けた。

「何を感じてるか、わからなくていいです」

 それは慰める口調でも、教え諭す声でもない。淡々としているのに、突き放してはいない。

「後悔してるのか寂しかったのか安心したかったのか」
「……」
「全部、混ざってても、おかしくない」

 まるで言葉がひとつひとつ床に静かに置かれていくみたいだった。私は膝を抱えたまま浅く息を吸う。

「……汚い、よね」

 必死に喉の奥から絞り出すと、ホークスは迷いなく「汚くないです」と返した。間を置かない声音で。それから少しだけ言葉を選ぶ間があって。

「選択として、正しかったかどうかは……今は、判断しなくていい」

 その言い方は、私を被害者にも加害者にも押し込めない。だからこそ、逃げ場がなくて、でも、責められてもいないから、逆に苦しい。すると、彼の声がまた、わずかに低くなる。

「名前さんが、自分を軽く扱った気がする、って言ったのは」
「……」
「自分を大事にしたかった、証拠だと思います」

 一度、呼吸を挟んで彼は言い切った。私は思わず顔を上げていた。彼は私を見ていない。視線は浴室の床に落ちたまま。それでも、その言葉は、はっきり私に向けられていた。

「軽く扱ってよかったなら、こんなふうに苦しくならない」
「……じゃあ、なんで」
「……」
「なんで、あんなこと、したんだろ……」

 声が震えた。胸の奥がきゅっと縮む。彼はすぐには答えない。考えるための沈黙というより私に言葉を受け止める時間をくれているような間。

「……俺のせいかも、しれんですね」
「え……?」
「話したいことがあるなんて、重くしたから」
「それは……」
「まあ、でも。孤独って判断力を鈍らせるので」

 分析のようでいて切り捨てる響きはない。その一言が私の中で責める声を少しだけ弱めてくれた気がした。

「実は俺も、似たような選択をしたことがありますよ」

 その言葉は不意に落ちてきた。慰めとして用意されたものではなく、事実を一つ置くみたいな、静かな調子で。彼がこういう話題に自分のことを自ら差し込んで混ぜてくるのは珍しかった。私は一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまい、思わず小さく息を呑む。

「後悔したことも、あります」
「……」
「でも、それで人間性が壊れたわけじゃない」
「……」
「支えてくれる人が、いたから」

 淡々とした語りなのにその一文だけが胸の奥に深く沈んだ。ホークスは、そこでようやく、私のほうを見る。暗がりの中でもわかる、真剣な目。責めないし見下ろさない。ただ、こちらを対等な位置から見ている視線。そしてゆっくりと言葉を選ぶ。

「名前さんは、間違えたかもしれないって思える人です」
「……」
「それは、取り返しのつかない人が持たない感覚です」

 その瞬間、何かが決壊した。私は、堰を切ったようにまた泣いた。声を殺すことも呼吸を整えることもできない。ただ、体の内側から溢れてくるものに身を任せるしかなかった。ホークスはそれでも、動かなかった。抱きしめもしないし、手も伸ばさない。けれど、絶対に立ち去らない。その距離のまま、静かに言う。

「今日は、ここに、いてください」
「……っ、」
「明日のことも、関係のことも、今、決めなくていいんで」

 私は何度も頷いた。言葉にする余裕はなかったけれど、それだけで十分だった。
 私が泣きながら「ありがとう」とようやく絞り出すと、このヒーローは「どういたしまして」と感情を盛らずに返す。それから少しだけ言いにくそうに付け加えた。

「それと……風邪、ひきますよ」

 あまりにも現実的な指摘に喉の奥で、かすかな笑いが漏れた。「出る」と小さく呟くと彼は先に立ち上がりタオルをもう一枚、そっと差し出す。

「はい。ゆっくりでいいですよ」

 と、そう言いながら、急かす気配はない。その言葉に背中を押されて、私は浴槽から出る。受け取った新しいタオルに顔を埋めると、涙と水分を吸い込んだ布の感触が、ようやく現実に私を引き戻してくれた。
 雨はまだ降っている。でも、もう独りきりではない。壊れたままでも、ぐちゃぐちゃなままでも夜を越えていい場所がここにはあった。その事実だけで、今は十分だった。

 バスルームを出たあと、私はそのままソファに腰を下ろした。背もたれに寄りかかる気力もなく膝を抱えて体を小さく丸める。髪はまだ半乾きでタオル越しに触れる首筋がひやりと冷たい。部屋の灯りは落ち着いたままで、窓の外では、雨音が続いている。さっきまで浴室にこもっていた時間が、少し遠い出来事みたいに感じられた。
 ホークスは何も言わず寝室のほうへ行く。引き出しが静かに開閉される音。そのひとつひとつが生活の音で私を今ここに戻していく。戻ってきた彼は、ソファの横に回り、視界に入らない角度でブランケットを広げる。そして、肩から落ちないように、でも触れすぎないように静かに私の体にかけた。重さはちょうどよかった。守るためでも囲い込むためでもない。ただ冷えないようにするための、現実的な重み。その感触を確かめながら私はようやく、深く息を吐いた。

「寒くないですか」

 少しだけ低く抑えた声だった。気遣いを音量で主張しないところが彼らしい。私はブランケットの端を指先でつまみ、その感触を確かめてから、小さく頷いた。

「……大丈夫」
「うん。なら、いいです」

 それだけ言って、ホークスはソファの反対側に腰を下ろした。隣ではない。けれど離れすぎてもいない距離。逃げようと思えば逃げられるし声を出せばちゃんと届く位置。その配置そのものが、「ここにいるけど、縛らない」という、意思表示みたいで、胸の奥がわずかに緩む。
 ブランケットの内側で、私はゆっくりと呼吸を整える。さっきまで勝手に溢れていた涙は、もう落ち着いていた。ただ、泣いたあと特有の熱だけが、胸の奥に残って、じんわりと脈打っている。
 ホークスは、何も聞かない。続きを促すこともしない。慰めの言葉を足すことも、状況を整理しようとすることもなく、ただ、そこにいる。その沈黙が妙にやさしかった。言葉を挟まれないからこそ、こちらも、何者かを演じなくていい。

 膝を抱えたまま私は目を閉じる。ブランケット越しに感じる自分の体温。部屋に満ちる静けさ。窓の外の雨音が現実を遠ざけるのではなく、逆に今ここに縫い止めてくれる。壊れていないふりをしなくていい夜。立ち直らなくても、説明しなくても許される時間。ソファの上で私はようやく、胸の底まで空気を送り込むように深く息を吐いたのだった。


 *


 目を覚ました瞬間カーテンの隙間から差し込む光が、昨日よりもわずかに白く感じられた。朝の光はいつもと同じはずなのに、夜の余韻がまだ、身体の奥に沈んだままでいるせいか、部屋だけが何事もなかったような顔をしている。その落差に感情だけが取り残されている気がして、胸の内がひっそりと軋んだ。
 スマートフォンに手を伸ばす前から、たぶん、届いているだろうと思っていた。期待というほど大げさなものじゃない。ただ、予感に近い感触。昨夜の距離感と、あの沈黙と触れなかったという選択のその延長線上にきっと置かれているもの。
 私は息を潜めるように画面を点けた。すると、やっぱり、あった。



ホークス

おはようございます
ちゃんと起きられました?


ホークス

昨日ほんとに寒くなかったかだけ
ちょっと気になってます


ホークス

鍵、出ていくとき
オートロックなんで





 三通。それ以上でも、それ以下でもない。問い詰めるでもなく、感想を添えるでもなく、余韻を掘り返す言葉もない。ただ体調と安全を気にかけるだけの拍子抜けするほど、なんでもない文章。それなのに昨日までのそれとは、はっきり違っていた。
 読み返す。句読点の、置き方。『ちょっと気になってます』という、距離を保った、言い回し。踏み込みすぎないまま、それでも確実にこちらを見ている視線の角度。この人は、昨夜をなかったことにはしていない。でも、続きとしても扱っていない。ただ丁寧に壊れないように持っている。その感覚が、静かに伝わってくる。すると、少し間を置いてから、また通知が鳴った。




ホークス

あと、コーヒー
美味しかったんで


ホークス

名前さんも飲んで





 その一文が、胸の奥で小さく反響する。ブランケットの中で、思わず息を吐いた。笑ってしまいそうになるのを、かろうじて堪える。彼はきっとこれを、特別な意味だとは思っていない。思っていないふりをしている。あるいは、意味があるとわかっていてあえて軽く扱っている。その距離感こそが、彼なりの誠実さなのだと思う。
 返信欄を押す。画面を閉じる。もう一度開く。何を書けばいいのか、すぐには決まらなかった。
 ありがとう、でもいい。寒くなかったよ、でもいい。それなのに、指が止まる。返してしまえば今日が動き出してしまう気がした。このなんでもない朝が、ただの平日に溶けてしまう気がして。けれど、既読だけをつけるのも、それはそれで、残酷に思えた。しばらくしてようやく短く打つ。




名前

大丈夫、寒くなかった


名前

ホークスも、無理しないでね





 二通続けて送信。すぐには返ってこなかった。それでいい、と素直に思えた。スマートフォンを伏せて、もう一度、天井を見る。昨日は何も起こらなかった。今朝もきっと何も起こらない。それなのに心だけが昨日よりほんの少しあたたかい。
 たぶん、こういうのが一番よくない。そう思いながら、わかっていながら、私はその感覚をまた流すようにようやくブランケットを避けてソファから抜け出した。

 みんな、生きるのが上手すぎる、なんて思ってしまうときがある。本当は私が不器用なだけなのかもしれないし、それでもきっと誰もがそれぞれに、表には出さない何かを抱えているのだろう。あの人もあの人なりに。そう頭ではわかっているのに、胸の奥に沈んだままのもやもやは、名前を与えられないまま、静かに居座り続ける。答えが出ないことも整理できない感情も今すぐどうにかしなくていい。だからとりあえず、コーヒーでも飲もう。カップを取り、コーヒーを淹れる。ただそれだけの動作が、少しだけ現実を取り戻させてくれる気がした。
 湯気の向こうで今日がまだ始まったばかりだということを確かめる。先のことはわからなくても今ここにいる自分を、無理に置き去りにしなくていい。だから今は、この一杯を飲む。未来のためじゃなく、ちゃんと今を生きている、その、証として——。


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